いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(348)「本当の愛を知る」

2014年10月11日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネの第一の手紙」3章13節から20節までを朗読。

 16節に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。

 教会に来ますと「信仰」という言葉と「愛」という言葉をしばしば聞きます。世間でもキリスト教のことを「愛の宗教」と言う方がいます。確かに、「ヨハネの第一の手紙」4章には「神は愛である」(8節)と記されています。世間の人もこの言葉は比較的よく知っています。以前この教会の表に袖(そで)看板(かんばん)がありまして、今は『八幡前田教会』という教会名に変わりましたけれども、以前は『神は愛なり』と書かれていました。

あるとき伝道集会が始まる前に、一人の人が訪ねて来ました。そして玄関で、「責任者はおるか」と言うから「私です」と言ったのです。すると「表の看板に何と書いてあるか」と。「神は愛なり、と書いてあります」と答えると、「神が愛であるなら、どうしてこうなったんだ」と、それから延々と世の様々な矛盾(むじゅん)とか、犯罪があるとか戦争があるとか、飢餓(きが)があるとか、「どうして神が愛だ!早くあの看板を降ろせ」と言われましたが、相手は酔っ払っていますので、「酔いがさめてからまた来てください。話をしましょう」と言って、お帰りを願ったのです。世の中の人はそのように思います。愛があるのだったら、もっと善い世の中、もっと素晴らしい世界に変わるのではないかと求めています。また事実、私たちの生活でも、「愛」という言葉は極めて魅力(みりょく)的であります。この言葉を聞くと心が和(なご)むといいますか、トゲトゲした心が丸くなるような響(ひび)きのある言葉であることは事実です。

ところが、その愛とはいったい何なのか? ということになります。今日は『母の日』ということですが、愛のいちばん身近な実例として「母親の愛」が取り上げられます。近ごろはどうもそうではないようで、幼児虐待(ぎゃくたい)など、悲惨な話をたくさん聞きますから、最近のお母さんは愛がなくなったのかな、と思いますが、いずれにしても人は「愛」を求めます。だから、あるお子さんは、子供のときに親からいろいろと冷たい扱いを受けたために、大人になってもどうしても自立できない、問題を抱え込んでしまう。そのようなケースを何度か体験しました。その子供の話をじっくりと聞いてみると、やはり「どうも、自分は愛されていないんじゃないか」、兄弟が多いから自分だけが何か親から憎まれているような気がして……、という思いが非常に強い人がいます。そういう話を聞いていると、確かに人にとって愛というものがどうしても不可欠(ふかけつ)なものです。人間にとって「愛」がなければ人の成長そのものも順調にいかない、大きな課題を抱え込むことになると感じます。だから、口を酸(す)っぱくして、耳にたこができるぐらい「愛だ」「愛だ」と言われるのは当然のことであろうと思うのです。ただ、その愛とは何なのか? 親子の愛とか、友情であるとか、男女の愛であるとか、あるいは兄弟愛であるとか、人と人との関係の愛については様々な形のものがあります。確かにそれはそれで人にとっても大切なこと、必要なことであるに違いありません。しかし、もっと大切な愛とは何か?

「コリント人への第一の手紙」13章4節から7節までを朗読。

愛とは何か? について語られています。この箇所はよく結婚式などで引かれる箇所であることはご存じのとおりです。先だっても知人の息子さんが結婚式をするということで、ホテルの結婚式場に行きました。キリスト教式だったのです。出席しておりましたら、そのなかでもこの箇所が読まれました。確かにこれは素晴らしい言葉ではありますが、では、実際にこの愛はどこにあるのだろうか? 結婚式でいま二人が愛し合って結婚しようとしている彼らにこういう愛があるのか、あるいは、親子の愛のなかにこういう愛があるのか? と疑問になります。これを現実のことに当てはめて読んでみたら、これは明らかに私たちの言うところの愛とは雲泥の差、月とすっぽんであります。私たちが求めている愛、私たちが普段感じる愛とは、人と人とのかかわり、しかもそれは決して無条件の愛ではないのです。常にその背後にはある取引といいますか、欲得、そろばんずくのものが隠れ潜(ひそ)んでいるのが、人と人の愛であります。だから、何か問題があるとすぐに破たんします。

4節「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない」。まずはこの部分、この「愛」という言葉に代えて、皆さんがご自分の名前をいれて読んでみてください。「榎本和義は寛容であり、榎本和義は情深い」、……言えません、恥ずかしくて。到底似ても似つかない。これを読んで「私はこのとおりだ」と言える方は「私は愛がある」と思っていただいたらいい。だから、ここの「愛」という言葉に代えてご自分の名前を入れて読んでご覧なさい。一言読んだだけで恥ずかしくて続けられません。それでいて「この言葉はいいお言葉だ」と言いますが、それはおかしな話です。では、この「愛」は理想を語っているだけで実際にはないのかというと、あるのです。その「愛」がどこにあるか? それが「神は愛である」。神様は私たちを愛してくださるから、願いごことを聞いてくれる、思いどおりに事を図(はか)ってくれる。私のために頭をなでてさすって、抱っこにおんぶに何もかもやってくれる。だから、愛かというと、そうではなくて、神様は私たちに愛をあらわすためにひとり子、尊いご自分のひとり子をこの世に遣(つか)わしてくださった。だから、「ヨハネによる福音書」3章16節に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。神様はご自分のひとり子をあえてこの世に遣わしてまで、私たちを愛してくださった。神様がどんなに愛してくださったか、その愛が何であったかを言い表す言葉がほかにないのです。「ひとり子を賜わる」、これ以外にどう表現していいのか分かりません。だから、神様はご自分のひとり子をこの世に遣わしてくださった。しかも、それは何のために遣わしてくださったのか?「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」と「ヨハネの第一の手紙」4章には語られています。私たちは愛のない人間、自己中心の自我の塊(かたまり)であります。自分には少々の愛がある、といっても、自分の都合の良い人を愛します。自分の気に入った人を愛します。しかし、イエス様は「あなたの敵のために祈れ」と言われました。「下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」(マタイ 5:40)、「人もし汝らに一里ゆくことを強いなば、共に二里ゆけ」(マタイ5:41文語訳)とおっしゃいます。私が愛すれば相手がこれをしてくれるという交換条件はあっても、無償(むしょう)の愛はありません。神様はそのように愛のない私たち、自分中心の自我の塊である私たち、自分のことしか考えきれない私たちの罪のゆえに、ひとり子イエス様をこの世に送って、ゴルゴダの十字架の上に釘付け、私たちが本来死ぬべきところを、神様から受けるべき呪いと刑罰を、御子イエス様が一身に受けてくださった。そこに神様の愛がある。イエス様は神様ご自身でもあります。ですから、神様はご自分の命を捨てて私たちを愛してくださった。

 「ローマ人への手紙」5章6節から11節までを朗読。

 6節「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである」と語られています。命懸けの愛を受けるほど、私たちはどれほどの者であるか、自分を振り返ってみると、神様から愛を受けるだけの値打ちや価値があるでしょうか。何もありません。それどころか、敵対していた、神様を知らずに自分を神として、私がいちばん義なる者、正しい人間、私がいちばん善い人間、私の願いがいちばん正しいと主張する、言い張って、我を張っていた私たち。そのときすでに神様はご自分のひとり子を私たちのために十字架に釘付けて、私たちに対する愛を示してくださった。これがすべての根源にある愛です。神様のご愛に私たちが満たされること、この神様のご愛を頂かなければ、私たちの内には愛はありません。私たちが人を愛するにしても、自分の都合の良い人を愛し、自分の利益になる人を愛し、自分に敵対する者を憎み、自分の嫌なものを遠ざけていくのであれば、それは愛でも何でもありません。最も大切なのは、私たちが神様からどんなに大きなご愛を頂いているか、絶えず自覚していくこと、日々に神様のご愛に応答して生きる者と変えていただくこと、これが最も大切なことであります。
 先ほどちょっと触れましたけれども、子供のときにそうやって親の愛を感じられないで成長してきて、思春期を迎えていろいろな問題に当たり、自分の道を求めて苦しみます。そういう子供が神様の愛を知ってくると、欠けていた親の愛を補ってもっと大きな力に変わっていくのです。人にとって確かに親の愛も大切でしょう。兄弟の愛も必要でしょう。男女の愛も必要でしょう。しかし、いちばん必要なのは神様の愛、罪人である私たちを愛してその罪のあがないとしてひとり子イエス様が命を捨ててくださったことをしっかりと受け止める愛です。

 「ヨハネの第一の手紙」3章16節に、「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」。ここに「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって」とありますが、何によって私たちは愛を知るか。それは「私のためにイエス様が十字架に命を捨ててくださったのだ」ということを抜きにして、これ以外に愛を知る道はありません。ですから、いつも十字架を見上げて行く以外にないのです。十字架というと、これは犯罪人を処刑する道具であります。いわゆる刑罰の道具です。そんなものを眺(なが)めて何がうれしいのかと、世間の人は言うかもしれない。しかし、まさにあの十字架こそが神様の愛の証詞です。それは首に十字架のペンダントをぶら下げよ、という意味ではありません。絶えず心のなかに主の十字架を覚えて、それは誰のためでもない、こんな私のためにひとり子であるイエス様、神の御子が命を捨ててくださったのだ。このことを絶えず覚えていく、それを自分の身に当てはめていく生活、これがイエス・キリストを信じる生活です。

 私もかつてはそのことがあまりよく分からなかったことがあります。神様のことはよく分かる。神様はお祈りしたら応(こた)えてくださる打ち出の小槌(こづち)のように、右から左にああしてください、こうしてください、と願い事をいろいろと申し上げて答えていただく。ところが「どうしてイエス様が必要なのだろうか? 私と神様で、イエス様がその辺をチョロチョロするからよく分からん」と思っていたことがあります。しかし、神様を信じるだけであったら、私たちはまだ救われないのです。というのは、神様を信じている人は、おのれを義とするのです。自分が義です、正しい。だから、「神様を信じています」というと、人を裁くのです。「あいつがこんなことを言うから嫌だ」とか、「この人がこのようなことをするのは間違っている」とか、「あんな人がいるから世の中はこうなった」とか、常に怒りの虫が心の中心に鎮座している。自分が正義だと思う。「正義感」という言葉がありますが、それは自分を義とする、自分を神とする意識です。それに対して「正義」という言葉がありますが、これは神様の義をあらわす言葉です。だから「正義」という言葉と「正義感」という言葉とは似て非なるものです。私たちはつい正義感にかられて、自分を神として人を呪い、世を裁き、自分は正しく、自分は立派な人間であり、非の打ち所がない。いや、それどころか、人からちょっとでも批判的なことを言われると、怒って、一言に対して二言も三言も十口もパッと悪口をもって言い返します。それは自分が「義」だからです。それは神様を信じていることと相反することではない。神様を信じているからこそ、そのようになっていく。だから、よく言われますね。「どうしてキリスト教でありながら、あんな宗教戦争をやるのですか」と。昔ヨーロッパでは次から次へと戦争がありました。あちらの国とこちらの国とが、いわゆる宗教戦争です。最近でも北アイルランドでプロテスタントとカトリックがけんかし合っていました。人殺しをする。「どうしてそうなるのですか」と問われますが、それはイエス様がいないからです。お互いが神様を押し立てる。神様を信じているもの同士だから、余計にややこしい。イエス様がいない。いや、知らないわけではないでしょう。イエス様のことを口にするに違いない、言葉としては。しかし、実際にイエス様の十字架が一人一人のなかにないから、いつまでも己(おのれ)を義としていくのです。

 私もそういうなかにおりまして、自分が「義」で、「私は正しい」「私はこんなに神様に信頼して、神様に従って、神様を大切にしている」「私は神様を敬っているのに、あの人はどうだ、この人はどうだ」「ああなっている、この社会は駄目だ!」。本当に見るもの聞くこと、何もかもがしゃくの種という時がありました。腹の虫がおさまらない。だから、くたびれるのであります。テレビを見ていても腹が立つし、人の話を聞いても腹が立ちます。かんしゃく球のようなところがありました。あるとき、当時まだ学生でありましたが、大学紛争が盛んな時代でした。私が通(かよ)っておりました大学も半年間閉鎖になりました。そういうなかでゲバ棒であるとかヘルメットであるとか、そういういでたちで走り回っていた。私はチョット怖くて最前列には行けませんから、後ろの方にくっついて人を非難する。「学長が悪い!」とか、「学部長が悪い!」とか、「国が悪い!」とか何とか。痛快であります。それはそうです。人を罵倒(ばとう)する、人を非難することは、留飲(りゅういん)を下げるといいますか「してやったり」と。ところが後の揺り返しが大変です。皆さん経験済みでしょう。相手を攻撃して、グーの音も出なくなって、物も言えなくなって涙でも流そうものなら、「ざまを見ろ」と思うでしょう。ところが、その後しばらくしたら、「どうして私はあんなことを言ったんだろうか」と、今度は逆に揺り返してくるのです。私もその経験がありますから、よく分かります。あるとき、くたびれ切って、その当時は四畳半の部屋で、今のような学生アパートはありませんから、下宿の部屋に帰って来た。そして聖書を読んでいたとき、「ルカによる福音書」の言葉、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(23:34)という言葉が私の心に刺さったのです。それまで、私は被害者だ、あの人がいけない、この人がいけない。あいつがいけない。だから「許さなければいけないのだ」「私が許さなければいけない」と。それまでは、そういう読み方をしておった。聖書というのは実に勝手がいい。自分の都合のよいように読めます、自分が義ですから。ところが、そのときはさすがに参りました。「そうだったのだ。いまイエス様が『彼らを許し給え』と語っているのは、誰でもない、私のことだ」と。これは十字架に釘付けられての第一声です。「父よ、彼らを許し給え」と言われる、「彼ら」とは誰でもない、「私」なのです。そのとき体中の力が抜ける、風船がスーッとしぼむような経験をいたしました。「これは、もう駄目だな」と。「本当に自分こそが罪の塊。自分は今まで何ということをしてきたのだろうか」と。そこで悔い改めました。それと同時に「神様は、私のような者を許して生かしてくださっている。これからは主のために生きるのだ」と、初めて私は自覚したのです。そのとき既に信仰をもって洗礼を受けて、自分はクリスチャンだと思っていたのです。それから何年か過ぎておりましたが、初めてそこで新しく生まれ変わった経験をしたことを、今でも新鮮に思い起こします。それからは、人を見ても、何も言えません。「あんなことをして」なんて言えるどころではない。こちらが許されているのですから。

 「ルカによる福音書」7章36節から50節までを朗読。

 これはイエス様がシモンというパリサイ人の家に招かれた記事であります。そのとき一人の女の人が寄って来て、石膏のつぼに入れた高価な香油をイエス様の足に塗り、涙を流して、その涙で足を洗って、自分の髪の毛をもってぬぐった、という事がありました。ところが、その家の主人であるシモンは、この女の人が実は「罪の女」とありますが、不品行なことをしていた女性だったのでしょう。町でも評判な悪女であったかもしれませんが、シモンはイエス様に対して失望したのです。「何だ、イエス様ともあろう人が、こんな女の人からチョット優しく親切にされただけで、それを拒(こば)もうともしないし、とがめようともしない。されるままになっているじゃないか」と「心の中で言った」とあります。別に口に出して言ったわけではない。ところが、イエス様はちゃんとシモンの心を見抜いて一つのたとえを語りました。「五百デナリ、五十デナリ、それぞれ借りた二人の人がいた。ところが、二人ともそれを許してもらった。どちらが多く愛するだろうか?」そのときシモンが「多く許された者こそが、多く愛するに違いない」。それに対してイエス様は47節に「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである」。このお言葉は前言の反転です。私たちだったら「多く罪を赦されたから、多くを愛する」という論理になります。その前まではイエス様もそのような言い方をしました。「多くゆるされたから多く愛するのです」と。それを受けて、今度はイエス様は「多く愛したから、その多くの罪はゆるされている」と、反転させてしまうのです。これは私たちに求められていることであります。神様の愛はどうやって知ることができるか? それは、イエス様が47節に言われるように「多く愛する者になりなさい」と。自分の罪がどれほどのものであるか、私たちはまずそれを知ってから愛そう。自分がどれほど許されたか。皆さんでもそう思うでしょう。こうやってお話を聞きながら、「罪だ、罪だと言われるけれども、私もそれは悪い所があるし、善い人間とも思わない。優しさもなければちょっと冷ややかな所もある。でも、これまでの自分を考えても、善いこともした。こういうこともした。チョットは取り柄もあるな」くらいに思っている。「そんなにまでひどい人間かな、私は」と思う。神様の愛を知ろうと思って、自分に「どんな罪があっただろうか」と、一生懸命に自分の罪を探してみる。「自分の罪はこのくらいだ」と、それをはっきりさせたら、神様の愛の大きさが自分に分かるに違いないと。だから、一生懸命に黙想をして「私は本当に罪人だ」「私はどんなにひどい人間だろうか」と、思えば思うほど「それほどかな」という思いが入ってくる。それでは愛を知ることができません。自分が罪人であることを自分で自覚するために、まず罪をはっきりさせようとすると、人にはそれができないのです。では、どうすれば人の罪は分かるか? 愛するのです。だからイエス様が「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである」と言われる。まず、神様が私を愛してくださった。それがどんな大きな愛であるか分からないけれども、愛された私がそれに応答して「じゃ、私も愛します」と言ったとき、「何がいったい自分にできただろうか」。「愛します」と言いながら、愛せない自分にぶつかったとき、初めて自分の罪の深さが分かるのです。だから、罪がどんなに大きいか、自分の罪だけを一生懸命に追い求めてもそれは分かりません。しかし、イエス様が「愛したよ」とおっしゃってくださるから、取りあえず、私のような者を愛してくださったのならば、ひとつその主のご愛に応答して「じゃ、私も今日まで嫌いだったあの人に、あのことをしてあげて、このこともしようか」「イエス様がそんなに愛してくださったのなら、私もこうしよう」とやってご覧なさい。そこで初めてできない自分に出会う。そのとき自分が愛される値打ちのない者だとよく分かる。しかし、同時にその限界を超えて神様のご愛が圧倒(あっとう)して、さらに一歩踏み込んで人を愛する者へと私たちが造りかえられるのです。

 「ヨハネの第一の手紙」3章16節に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」。まずこの言葉の前半分は「本当に感謝です」と言えるのです。「私のためにイエス様が命を捨てて、それによって愛ということを、本当にそうだ。神様が無償(むしょう)の愛を私たちの生まれない先から、この世の許(もと)に置かない先から、愛のうちに選んで、ひとり子イエス様によってこの愛を注いでくださった」。そこまでは半分です。その次です。「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。すごいですね。「兄弟のためにいのちを捨てよ」とおっしゃる。私たちは「兄弟のためにあなたの持っている何か大切なものをあげなさい」とか「あなたの持っているあの余分なものがあるでしょう、洋服が。あれを一着やりなさい」とか、「余っている物があるじゃないですか。あれをやりなさい」と言っているのではないのです。ここに「兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。だから、神様のご愛を知るには、主が私のために命を捨ててくださったことを信じて、「それじゃ、その愛に応えて私も命懸けで愛していこう。いま神様が私に求めている、イエス様が私に願っているあのことを、このことを……」と、あるでしょう? 神様から「あれをしてはどうだ」「ここはこうしたほうがいいのではないか」「これはこう改めたほうがいいのではないか」と言われながらも、ああだ、こうだ、と言い訳をしながら先延ばししながら、でもやっぱり気になる。夜中に目が覚めて、「ああ、あれは……」と思いながら、「いや、あんなものしてやるものか。あいつが悪いのだ」と押さえ込んでしまう。「命を捨てる」。そのときに、自分に愛がないことを知るのです。ここに「兄弟のためにいのちを捨てるべきである」と言われているのは、私たちがいかに愛のない者であり、罪の塊であるかを知るためです。そればかりでなくて、同時にキリストのご愛に満たされる者と変えられる。これはイエス様が私たちに与えてくださる大きな恵みです。

その後17節以下に、「世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか」。これを文字通り解釈して、「貧しい人のために今度は愛の募金をしようかしら。チリの地震のために、あるいはハイチの人のために何とかしようか」と思うのも、もちろんそれはそれで悪くはありません。確かに世の富を持っていながらと言われて、文字どおりそのとおりですが、ここで大切なのは、「その慈善(じぜん)をしなさい」とか「世のため、人のため、福祉のために何か貢献(こうけん)しなさい」と言っているのではありません。私たちは「自分がどんなに神の愛から遠ざかった者であるかをよく悟りなさい」と語られている。それはもちろん「困った人のため、あるいは世のいろいろな問題や悩みのなかにある人のために、何とかしてあげよう」という気持ちがあるならば、それは幸いですが、そこに「キリストの愛に応答しているか?」「キリストの愛がそこにあるのか? 」と問われるのです。

その後節に「行いと真実とをもって愛し合う」と言われますが、こんな者を愛してやまない主のご愛に励まされ、促(うなが)され、押し出されて踏み出していく。そこに神様の求めておられる「行いと真実とをもって愛し合う者」となる道があります。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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