「イザヤ書」28章14節から22節までを朗読。
16節「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基(もとい)とした。これは試みを経(へ)た石、堅くすえた尊い隅の石である。“信ずる者はあわてることはない”』」。
東北関東大震災というこれまでに経験したことのない大きな災害に私たちは直面いたしました。実にアッという間の出来事であります。先週、こうやって木曜会に来たときはそんな話はひと言もなかったのです。そのような前ぶれすらもありませんでした。金曜日の午後でありましたか、東北地方に地震があったという知らせをニュースで見ました。「いつものような地震か」と思いきや、とんでもなく大変大きな地震であったという。初めはマグニチュード8.7か8.8ぐらいだろうと言われていたものが、日に日にいろいろなデータを計算してみると9.0という数字までも言われる大きなものでありました。これは私たちにとっては経験のない事態であります。それに加えて、その後に起こったのが津波であります。地震は数年前福岡でもありましたが、ガタッと揺れるだけでも大変な被害をこうむりますし、また恐れを抱(いだ)きます。今回は更にそれに加えて津波という大変大きな災害が発生いたしました。地震に続いて、それに追い打ちを掛けるがごとく海から大きな波が押し寄せて来た。これは信じ難いことです。普段穏やかな海を眺めていると、のどかな風景に見えますし、白砂青松といいますか、白い砂浜の所へ打ち寄せてくる波はいいものであります。夏場になると多くの人々が浜辺に集まって海水浴をして楽しむ場所であります。あるいは、生活に欠かすことのできない食料、お魚や海産物を与えてくれる恵みの海という捉(とら)え方のほうがなじみのある海の姿であります。それが突如のごとく大変な猛威を奮(ふる)って全てのものを打ち壊してしまう。
以前、スマトラ沖の大地震でタイであるとかあの周辺のリゾート地が津波に襲われて大被害をこうむりました。たくさんの人が亡くなりました。そのときは遠い南の島の出来事。「だから、早く警告されたとおりに逃げればよかったのに……」なんて、他人(ひと)のことを言っていました。ところがいざ自分の身に降りかかってみると、思ったように事は行きません。津波の場合は前もっての準備時間がいくらかはあります。地震が起って、津波が押し寄せてくるまでどんなに近くても一瞬の間に来ることはありません。少なくとも10分20分、あるいは30分時間がある。津波の場合は水が一斉に引いて行きますから、引く間に早く逃げればいいのです。少なくとも逃げる時間がある。引き終わって、その勢いで波が戻ってくる。その戻り方が激しいわけです。まるで洗面器の中の水を傾けて左右に揺すりますと、引いて戻って、戻って引いてという事態が太平洋という大きな海で起こる。洗面器の水のごとく揺れたわけですから、これはもうたまったものではありません。それが町になだれ込んできて多くの人々が被災をいたしました。恐らく単なる地震だけであったらこれほど大きな人的な被害はなかったと思いますが、その後に続く津波によって一つの村や町が全滅する。千人単位の人たちが一気に行方不明になってしまう。またそれに追い打ちをかけるように原子力発電所のトラブルがありました。このことも以前から言われていました。「危険があるよ」と聞いていました。殊に日本のように地震国、地震の多い国ということが分かっています。どこに造っても必ず揺れます。だから、耐震構造といいますか、地震に耐えられる仕組みを考えて造られた物でした。ただ残念なことに福島原発は日本でも草分け的な原発であります。東京電力が日本の国内で原子力発電所を造ろう、という話になったとき最初に出来たのであります。東海村の実験的な原子炉はありましたが、商業用として本格的に稼働したのは、恐らく福島原発が初めてか、あるいは日本原子力発電会社が関西、中部、北陸の電力会社を通じて電気を送っている敦賀発電所でしょうか、いずれにしても福島が大変古いのです。すでに40年ぐらいたっています。国際的な原子力機関も、そのことを警告していたそうです。2008年ぐらいに「福島原発は耐震性能が劣っている」と。というのは、40年ぐらい前に造ったとき、そのときの最新の建築技術で、どんなことがあっても大丈夫、ということで造ったのですが、前提になった地震の規模が、今はそれを超えてきているとのことです。しかも、この30年近くにあちらこちらで起こった地震がそのエネルギーの大きさがどんどんと増してきている。だから従来の基準の原発は非常に危険である、と警告していたと述べられていました。どんなにしても、人のすることですから、不十分であったことは否(いな)めません。原発問題は地震や津波とは違った側面がそこにあります。
いろいろなことを見ると、「どうしてこんなになったのだろう」「何でだろう」と多くの人は思います。これはまさに神様がそのことを起こしておられる。先だって、東京都の石原知事が「これは天罰だ」と言ったというのです。彼は世論から反発を食らいましたが、彼が言わんとしている意図はよく分かります。それは日本人があまりにも傲慢(ごうまん)になりすぎた、ということではないでしょうか。別段被害を受けた人たちに何か罪があったからではない。そのことはイエス様も語っています。「ルカによる福音書」にあるように、弟子たちがイエス様の所へ来て「大変なことが起こりましたよ、不幸なことが」と伝えて来た。ピラトがガリラヤ人を殺して、神様にささげる犠牲(ぎせい)の血に混ぜたという不幸な事態が起こった。その時にイエス様が「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか」と言われた。その当時も「天罰」という考え方、何か悪いことをしたから神様からとがめられた、という思いが、その当時の人にあったのです。ところが、イエス様はそのようには言われなかった。「彼らが罪深かったのではない。実は、こういう不幸なことが起こったのは、いま生かされている私たちに悔い改めるべき時を神様が与えてくださった。警告をしてくださったのだから、私たちも悔い改めなければ同じように滅びる」と。だから、問題点は、亡くなった人がどうこうというより、むしろそのことは本当に気の毒なことであり、何とも言いようのない悲しい出来事ではありますが、私たちは「良かった。そういう目に遭わなかったからハッピー」ということではない。まず自分自身が、あなたがどうなのか、ということを問えと、イエス様は求めておられるのです。こういう不幸な事態が起こりますと、大上段に構えて「これはいったい、誰の責任だ!どんなことをしていたんだ」と叫びます。政府がどうだとか、誰がどうだとか、あいつがいけない、こいつが悪い、といろいろと詮索(せんさく)し、批判をします。また、非難をしますけれども、問題はそうではないのであります。実は、私たち一人一人がこのことを通して、何を教えられ、どういう生き方をこれからしようとするのか、これが問われるのです。だから、私はいつもいろいろな不幸と思われる事態に遭います。悲しいことや苦しいことや辛いことに遭います。確かにそれは苦しいことであり辛いことで、早く逃れたい、それを避けて通りたい、と人は思います。しかし、これは生きているかぎり必ず通るのです。これは避けるわけにはいきません。じゃ、人は生きていて不幸か、というと、そうではなくて、ここで大切なことは、悩みに遭い、悲しいこと、苦しい出来事に出会いますが、それを通して、その後の生活、それからの私たちの生き方にどう変化をもたらすか。これが大切なのです。それによって不幸と思われる事柄が単に不幸で終わってしまうかもしれない。あるいは、不幸と思われたことが実はこれが幸いだったと、言えるかもしれません。
ですから身近な分かりやすいたとえを申しますならば、今は受験期でありますが、自分の願った学校に入れなかった。あちらも駄目、こちらも駄目、とうとう最後の滑り止めのやっと首の皮一枚でつながった所へ行かざるを得ない。「もうぐらぐらした」と、博多弁で言うとそうなりますが、「ぐらぐらした。もうやっとられん。遊んでやるわ」と言って、希望の学校へ入られなかったことを悔んで、それからの日々を遊びほうけて、好き勝手をして落ちて行く。そうなれば「あの受験に失敗したことで、彼が、あるいは彼女がそうなってしまった。あのとき合格していたらそうならなかったに違いない」というような言い方で、不合格になったということが人生を誤った原因であり、その人にとって不幸な出来事だ、と思われがちですが、それは違います。問題はそのことを通して、当事者である本人が、次なる人生をどう生きるかに掛るのです。それによって、不幸と思われたことが、実は「最高の恵み、幸せな出来事であった」と言えるものに変わるのです。そうやって受験に失敗して「これは自分が今まで遊んできた結果だから、ここは取りあえず合格させていただいたこの学校で私は力を尽くすぞ!」と、失敗を今度は自分のエネルギーといいますか、こやしといいますか、そういうものに替えて自分の生き方、生活を造り変えて行くならば、その人にとって受験に失敗したこと、希望どおりに行かなかったことは、最高の恵みです。また、逆に自分の思いどおり、願いどおり、人がうらやむような立派な学校へたとえ合格して、その合格した瞬間は「ハッピー、人生最高だ」と思うかもしれない。しかし、その後、遊びほうけて、あるいはアルバイトに精を出して、大学の授業もほうったらかして、4年たっても卒業できない。5年、6年……、という生活を送るならば、その人にとってその学校へ合格したことは不幸な出来事です。だから、幸か、不幸かは、その出来事自体が決定するのではなくて、その事態を受け止めて生きようとする、その人が決める事柄です。これが、「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と、イエス様がおっしゃったのは、まさにこのことなのです。だから、私たちは生きているかぎりいろいろな失敗もします。あるいは、辛いことや苦しいことにも遭います。ただ問題は、そこからそれをどういうものとして自分が受けとめようとするのか。それに対して自分はどのように応答して行くのか、応えて行こうとするのか。これが神様を前に置くことの意味であります。
この度の災害のことを通しても私はそのことを痛切に教えられるのであります。この問題は誰が起こしたのでもない。これはまさに神様がなさったことです。「地震や津波は天然災害、自然災害だから諦めるしかない」と人は言いますが、そうではありません。原発問題でもそうであります。これもまた、神様がそのことをしておられる。それは何を私たちに語っているか? 自分の生活の中でこのことを通して何を神様が語ろうとして、また教えようとしてくださるかを聞かなければならない。これが「悔い改め」ということであります。これは原発を造った、計画をした連中の知恵が足りなかった。だから、彼らが悔い改めるべきだと思われがちです。しかし、そうではありません。実は、私たち全ての者が、自分たちの生き方、人生、生きることについて、もう一度根本から問い直してみる。これが悔い改めることであります。これが私たちに必要なことであります。というのは、私たちは常に人の知恵と力と業で何かできる力がある者のように誇ろうとするからであります。
この15節に「あなたがたは言った、『われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない。われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくしたからである』」。まさにこの事態が私たちにいま起こっているのです。この度の災害を通して「想定外」ということが繰り返し言われています。「そこまでは考えられなかった」「そこまではなかった」「そんなになるとは思わなかった」と言い訳をします。そのそも「これだけしておけば大丈夫」「これだけの堤防を造っているから大丈夫」「2mの堤防より5mの堤防があるから大丈夫」、あるは「こういうシステムを作って、あるいはそういう仕組みをしているから、こういうことがあっても大丈夫」、「地震が少々来たって、これがあるから大丈夫」。これがまさに「死と契約をする、陰府と協定を結ぶ」ことです。私たちの世の中は大抵そうです。そうやって死と協定を結ぶ。「こうしたら不幸にならない」「こうなれば大丈夫」「いや、そういう心配はもうない」と言うでしょう。原発を造ったときもそうだったと思うのです。いろいろな想定をしたに違いない。地震が起こったらどうするか、津波が起こったらどうするか、あるいは大洪水が起こったらどうするか。強い台風に遭ったらどうするか。その時、こういう機能がストップしたらどうするか。停電になったらどうするか。そのために、その時はこうしよう。その時はああしようと、いわゆるフェイルセーフという、何か問題が起こったときそれを補完するシステムを考える。これが「死と契約をする、陰府と協定を結ぶ」というのです。今回の原発もそうです。いろいろなシステムを用意していたのです。地震のときすぐに制御棒を入れて、リアクターといいますか、原子炉の活動をストップさせる。それは確かにそれで作動しました。今度は、ストップしていったん火を消したその炉がまだ余熱が残っていますから、それを冷やさなければならない。その冷やす手段には水を送る。そのためにちゃんと循環ポンプが置いている。ところが、停電になってしまった。大慌てでその自家発電に切り替えようとしたところが、自家発電のエンジンが動かない。津波に呑(の)まれて水に漬(つ)かってしまったからです。だから取れる手立ては一応し尽くした後で「さぁ、どうするか」と。「とにかく、消防車で水を入れてやろうではないか」と、始めたけれどもそれでは間に合わない。と言って、その炉に近づくことはできない。こういうことは、とっくの昔に分かっていたのです。
私がアメリカにおりましたときに、三十数年前ですが、その当時『チャイナ・シンドローム』という、ジェーン・フォンダという社会派女優が主演した映画がありました。これは原発の事故を取り扱った映画だった。そのときに「メルトダウン」という言葉を私は覚えたのですが、それは「炉心溶融」という、炉の中にある燃料棒が保護されている金属の筒から溶け出してしまって、それを消すことができなくなる。そして、その大きな原子炉の建物を吹き飛ばして、それが原爆のような爆発をすることになる。そのような結果になる事故が起こる。電力会社はそれをひた隠しにするところに社会派のジャーナリストである女優のジェーン・フォンダが鋭く切り込んで行って、電力会社の弱点を指摘する、という映画でした。私は非常にショックを受けまして、原子力発電所というものがどれ程の危険性があるかを、初めて知ったのです。その後、原子力発電所が日本各地でどんどん作られて行く様子を見て、「本当に大丈夫かな? 」と思いました。
まさに「死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない」と。「大丈夫。マグニチュード6や7ぐらいの地震が起こったって、今まで起こったことのない地震が起こって、関東大震災クラスの地震が来たって大丈夫」。これがまさに「みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない」というのでしょう。「大丈夫だ!」その後に「われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくした」。それはまさに偽りであり、うそです。そんなもので神様の力を防げるわけがない。神様の力が発動されたとき、どんなものをもってしてもそれを止めることができない、ということを隠している。「こうなったら、もうお手上げよ」と、当事者がいちばんよく知っていながら「いや、大丈夫。これがある」「こういう手立てがある」「こういう方策がある。だから、少々災いが来たって、それは大丈夫だよ」。本当に大丈夫か、「それ以上のものが来たら、もうお手上げだな」と、本人は内心知っているのです。
まさに今その事態です。これは私たちが引き受けざるを得ない、まさに誰の責任でもない、私たちの問題でもあるのです。私たちの生き方にもここで言われているように「死と契約をなし、陰府と協定を結んで、これでもう大丈夫」としている。「こういう検査を受けているから大丈夫」「こういうことをしているから、私は大丈夫」と、偽りをもって自分を取り囲む。そういう状況や事柄、目に見える事情や境遇をもって安心を得ようとすることです。それに対して神様は何とおっしゃるか。16節に「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基(もとい)とした。これは試みを経(へ)た石、堅くすえた尊い隅の石である。“信ずる者はあわてることはない”』」。神様は、そうではない、とおっしゃる。そんな偽りで囲ってみても、そんなものは一瞬にして吹き飛んでしまう。そうではなくて、私たちが頼るべきものがある、と神様はおっしゃる。「シオンに一つの石をすえて基(もとい)とした」と。これはまさにイエス・キリストです。イエス様を私たちの救いの岩、救いの石、砦として、避け所として生活の中に置いてくださった。「これは試みを経(へ)た石、堅くすえた尊い隅の石である」。「隅の石」、家を支えるいちばん大切な力の掛っている基礎です。この石に頼ると、「信ずる者はあわてることはない」。この石であるイエス様に私たちがより頼んで行く。これ以外に私たちの安心を得る場所はない、と神様はおっしゃる。
17節に「わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。人が偽りをもって「これで大丈夫。心配するな、もう何があっても壊れることはない、死ぬことはない。そういう災害は過ぎ去っていく」「これがあるから大丈夫」と。それに対して神様が「正義と公平をもってそれを測る」。本当にそうであるかを試しなさる。「正義を、下げ振りとし」とありますが、「下げ振り」とは、建築するときに大工さんが重りの付いた糸を上からたらします。垂直かどうかを調べるのです。柱が真っすぐに立っているかどうかを、そのひもを垂らしたもので上から下まで同じ間隔になっていれば真っすぐです。だから、傾いているか真っすぐであるかを、いうならば、それが正しかったか間違っていたか、それが本物であるか偽りの物であるかをはっきりと試してくださるのは神様の義です。神様の正しさです。それをもって測られるとき、人が造った偽りの隠し所、あるいは防御壁といいますか、あるいは避け所はひとたまりもなく打ち壊されてしまう。その後に「ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。「ひょう」というのは、動物の「豹」ということではなくて、これは天から降ってくる氷のような塊(かたまり)です。普段の生活ではあまりひょうが降るということはありません。たまに経験しますが、小さな砂粒のようなものがパラパラと落ちてきます。南のほうでは異常な現象が起こるときはこぶし大ぐらいのひょうが降ります。屋根瓦でも何でも壊すぐらいです。そういう物が作物に当たったら一瞬にして全てが枯れてしまいます。
まさに「ひょうは偽りの避け所を滅ぼす」のです。少々の物を打ち壊してしまう力がある。またその後に「水は隠れ場を押し倒す」と、これは何の説明もいりません。テレビで見たとおりです。あの10メートルを超す、建物の3階を飲み込むぐらいの大きな波が一斉に来てご覧なさい。「ここなら大丈夫」「ここはもう……」と言っている、そんなものは一気に打倒してしまう。「水は隠れ場を押し倒す」とあります。その後に「その時あなたがたが死とたてた契約は取り消され、陰府と結んだ協定は行われない。みなぎりあふれる災の過ぎるとき、あなたがたはこれによって打ち倒される」。誠にこの言葉のとおりであります。私たちは偽りの協定、陰府との協定、あるいは、契約、そういうものを「これなら大丈夫」「これがあるから……」という、そういうものはなんの頼りにもならない。そうではなくて、私たちは「尊い隅の石」「試みを経(へ)た石」、キリスト・イエス様に頼ること。16節に「信ずる者はあわてることはない」。この御方こそが、私たちのより所、ここに立たなければ本当の安心を得ることができないのです。
19節に「それが過ぎるごとに、あなたがたを捕える。それは朝な朝な過ぎ、昼も夜も過ぎるからだ。このおとずれを聞きわきまえることは、全くの恐れである」。みなぎりあふれる災がやって来るのではないか、そうしたら、こんなことをしていても役に立たないに違いない、という不安と恐れから、絶えず落ち着かない。あるいはそういう不安が繰り返し恐れをかき立てて来る。それはまるで20節に「床が短くて身を伸べることができず、かける夜具が狭くて身をおおうことができないからだ」と。実に巧みなたとえだと思います。皆さんもご経験のように、ちょっと暖かいからといって薄着をして夜やすみますか。夜中ぐらいになって冷える。「ああ、寒いな」。もう一枚取って来て着たいのだけれども、出て行くのも面倒だし、布団の中で身を縮めて、あるものを巻き込んで寝るではありませんか。といって、ぐっすりは眠られないし、それで早く出て行って取ってくればいいのですが……、これはまさにそうですよ。「床が短くて身を伸べることができず、かける夜具が狭くて身をおおうことができない」。首の所まで持って来ると足が出るし、足を覆うと胸が寒くなるしと、そういうたぐいの不安、恐れを常に覚えているではないかと。そうです。私どもはどんなに「大丈夫、心配しなくていい、これがあるから大丈夫」「あれがあるから大丈夫」と言われても、それはやはり偽りです。あくまでもうそを避け所とすることです。15節に「われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくす」。どうぞ、そういうものをいま捨てて、帰るべき所、私たちの立つべき場所は「隅の石」、キリスト、シオンに据えられた試みを経(へ)た石、ここに立つ。これを信じて行く。
「マタイによる福音書」7章24節から27節までを朗読。
ここに二つのことが語られています。「砂の上に家を立てた者」あるいは「岩の上に家を立てた者」。そしてここでイエス様がおっしゃるのは「わたしのこれらの言葉を聞いて行う人は、岩の上に自分の家を建てた人だよ」。イエス様を信じるとは、イエス様のお言葉を握って、そのお言葉に信頼して日々を歩んでいる人のことであります。主のお言葉を信じて、何をすべきか、絶えず御心を求めつつ御言葉に忠実に従って行く。これが「わたしを信じる者」「岩の上に家を建てた者である」とイエス様はおっしゃる。また26節に「これらの言葉を聞いても行わない者」、イエス様のお言葉を聞いてもそれを聞き流して、そして偽りを避け所とし、またうそを自分の隠れ場所とする。そうであるかぎり砂の上に自分の家を建てた者である。砂の上に家を建てる、これほど危うい話はありません。だれでも自分の家を建てようと思うとき、地盤を考えます。その地盤がとんでもない所であったら、埋め立て地であったら、今度のような地震が来たら液状化現象でしょう。ディズニーランドのある辺りはほとんどが埋立地ですから、この度の地震で全部ドロドロになってしまいました。アスファルトで舗装して頑丈そうに見えますが、それは薄っぺらい煎餅(せんべい)のような物でポロッとはげてしまいます。下から一気に砂が噴き出して来て水があふれて来る。それは沼地のようになってそこに載(の)っている全ての物を呑(の)み込んでしまいます。だから、私たちは砂の上に家を建てる、そういう埋め立て地に家を建てては駄目です。ちゃんとしっかりとした土台の所に建てなければ、それはひとたまりもなく壊れてしまうでしょう。私たちの日々の生活もそうです。一日を一つの家とたとえて行くならば、どこに私たちが立って行くか? それによってその一日がしっかりと立ち続けて行くことができますし、それ以外の砂の上に立っているならば、事があるとき、いろいろな問題が起こって来るとき、すぐに流されて落ちつかなくなるどころか、それは壊れてしまいます。こうした事態に出会うとき、神様が私たちに語ってくださる恵みの時です。
ですから初めに戻りまして、イザヤ書の28章16節に「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経(へ)た石、堅くすえた尊い隅の石である』」。この石にしっかりと信頼して行く。「信ずる者はあわてることはない」。
先だってもホームドクターに定期健診で行きましたら、「榎本さん、今度の震災をどう思われますか? 不幸なことでしょうかね」と言ったから、私は「いや、これは恵みの時ですよ」と答えました。「え!恵みですか? 」と言われた。「それはそうでしょう。ここでもう一度人が生き方を考え直す時ですからね。こんな良い時はないですよ」と。「なるほど、キリスト教はそういう風に教えるのですね」と言われましたが、別にそう教えるわけではありません。聖書にそう語っているからです
私どもはこういう事態の中でまさに問われている。「あなたはどこに立っているのか? 」。「あなたはどこにいるのか? 」。私たちの立っている場所、私どもがより所としている物が何であるかを明らかにして行きたいと思うのです。そこに私たちがしっかりと立つときに「信ずる者はあわてることはない」。どんなことがあっても主がおられる。神様が事をご支配してくださる、業を導いてくださることを信じて行きたい。まだまだ事態はどのように展開していくか分からないような不安を覚えますが、その中でこそ、私たちはイエス様にしっかりと信頼して祈って、何があっても人ではない、これは神様が一つ一つ導いておられることですと、確信を持って生きる信仰に歩ませていただきたい。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
16節「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基(もとい)とした。これは試みを経(へ)た石、堅くすえた尊い隅の石である。“信ずる者はあわてることはない”』」。
東北関東大震災というこれまでに経験したことのない大きな災害に私たちは直面いたしました。実にアッという間の出来事であります。先週、こうやって木曜会に来たときはそんな話はひと言もなかったのです。そのような前ぶれすらもありませんでした。金曜日の午後でありましたか、東北地方に地震があったという知らせをニュースで見ました。「いつものような地震か」と思いきや、とんでもなく大変大きな地震であったという。初めはマグニチュード8.7か8.8ぐらいだろうと言われていたものが、日に日にいろいろなデータを計算してみると9.0という数字までも言われる大きなものでありました。これは私たちにとっては経験のない事態であります。それに加えて、その後に起こったのが津波であります。地震は数年前福岡でもありましたが、ガタッと揺れるだけでも大変な被害をこうむりますし、また恐れを抱(いだ)きます。今回は更にそれに加えて津波という大変大きな災害が発生いたしました。地震に続いて、それに追い打ちを掛けるがごとく海から大きな波が押し寄せて来た。これは信じ難いことです。普段穏やかな海を眺めていると、のどかな風景に見えますし、白砂青松といいますか、白い砂浜の所へ打ち寄せてくる波はいいものであります。夏場になると多くの人々が浜辺に集まって海水浴をして楽しむ場所であります。あるいは、生活に欠かすことのできない食料、お魚や海産物を与えてくれる恵みの海という捉(とら)え方のほうがなじみのある海の姿であります。それが突如のごとく大変な猛威を奮(ふる)って全てのものを打ち壊してしまう。
以前、スマトラ沖の大地震でタイであるとかあの周辺のリゾート地が津波に襲われて大被害をこうむりました。たくさんの人が亡くなりました。そのときは遠い南の島の出来事。「だから、早く警告されたとおりに逃げればよかったのに……」なんて、他人(ひと)のことを言っていました。ところがいざ自分の身に降りかかってみると、思ったように事は行きません。津波の場合は前もっての準備時間がいくらかはあります。地震が起って、津波が押し寄せてくるまでどんなに近くても一瞬の間に来ることはありません。少なくとも10分20分、あるいは30分時間がある。津波の場合は水が一斉に引いて行きますから、引く間に早く逃げればいいのです。少なくとも逃げる時間がある。引き終わって、その勢いで波が戻ってくる。その戻り方が激しいわけです。まるで洗面器の中の水を傾けて左右に揺すりますと、引いて戻って、戻って引いてという事態が太平洋という大きな海で起こる。洗面器の水のごとく揺れたわけですから、これはもうたまったものではありません。それが町になだれ込んできて多くの人々が被災をいたしました。恐らく単なる地震だけであったらこれほど大きな人的な被害はなかったと思いますが、その後に続く津波によって一つの村や町が全滅する。千人単位の人たちが一気に行方不明になってしまう。またそれに追い打ちをかけるように原子力発電所のトラブルがありました。このことも以前から言われていました。「危険があるよ」と聞いていました。殊に日本のように地震国、地震の多い国ということが分かっています。どこに造っても必ず揺れます。だから、耐震構造といいますか、地震に耐えられる仕組みを考えて造られた物でした。ただ残念なことに福島原発は日本でも草分け的な原発であります。東京電力が日本の国内で原子力発電所を造ろう、という話になったとき最初に出来たのであります。東海村の実験的な原子炉はありましたが、商業用として本格的に稼働したのは、恐らく福島原発が初めてか、あるいは日本原子力発電会社が関西、中部、北陸の電力会社を通じて電気を送っている敦賀発電所でしょうか、いずれにしても福島が大変古いのです。すでに40年ぐらいたっています。国際的な原子力機関も、そのことを警告していたそうです。2008年ぐらいに「福島原発は耐震性能が劣っている」と。というのは、40年ぐらい前に造ったとき、そのときの最新の建築技術で、どんなことがあっても大丈夫、ということで造ったのですが、前提になった地震の規模が、今はそれを超えてきているとのことです。しかも、この30年近くにあちらこちらで起こった地震がそのエネルギーの大きさがどんどんと増してきている。だから従来の基準の原発は非常に危険である、と警告していたと述べられていました。どんなにしても、人のすることですから、不十分であったことは否(いな)めません。原発問題は地震や津波とは違った側面がそこにあります。
いろいろなことを見ると、「どうしてこんなになったのだろう」「何でだろう」と多くの人は思います。これはまさに神様がそのことを起こしておられる。先だって、東京都の石原知事が「これは天罰だ」と言ったというのです。彼は世論から反発を食らいましたが、彼が言わんとしている意図はよく分かります。それは日本人があまりにも傲慢(ごうまん)になりすぎた、ということではないでしょうか。別段被害を受けた人たちに何か罪があったからではない。そのことはイエス様も語っています。「ルカによる福音書」にあるように、弟子たちがイエス様の所へ来て「大変なことが起こりましたよ、不幸なことが」と伝えて来た。ピラトがガリラヤ人を殺して、神様にささげる犠牲(ぎせい)の血に混ぜたという不幸な事態が起こった。その時にイエス様が「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか」と言われた。その当時も「天罰」という考え方、何か悪いことをしたから神様からとがめられた、という思いが、その当時の人にあったのです。ところが、イエス様はそのようには言われなかった。「彼らが罪深かったのではない。実は、こういう不幸なことが起こったのは、いま生かされている私たちに悔い改めるべき時を神様が与えてくださった。警告をしてくださったのだから、私たちも悔い改めなければ同じように滅びる」と。だから、問題点は、亡くなった人がどうこうというより、むしろそのことは本当に気の毒なことであり、何とも言いようのない悲しい出来事ではありますが、私たちは「良かった。そういう目に遭わなかったからハッピー」ということではない。まず自分自身が、あなたがどうなのか、ということを問えと、イエス様は求めておられるのです。こういう不幸な事態が起こりますと、大上段に構えて「これはいったい、誰の責任だ!どんなことをしていたんだ」と叫びます。政府がどうだとか、誰がどうだとか、あいつがいけない、こいつが悪い、といろいろと詮索(せんさく)し、批判をします。また、非難をしますけれども、問題はそうではないのであります。実は、私たち一人一人がこのことを通して、何を教えられ、どういう生き方をこれからしようとするのか、これが問われるのです。だから、私はいつもいろいろな不幸と思われる事態に遭います。悲しいことや苦しいことや辛いことに遭います。確かにそれは苦しいことであり辛いことで、早く逃れたい、それを避けて通りたい、と人は思います。しかし、これは生きているかぎり必ず通るのです。これは避けるわけにはいきません。じゃ、人は生きていて不幸か、というと、そうではなくて、ここで大切なことは、悩みに遭い、悲しいこと、苦しい出来事に出会いますが、それを通して、その後の生活、それからの私たちの生き方にどう変化をもたらすか。これが大切なのです。それによって不幸と思われる事柄が単に不幸で終わってしまうかもしれない。あるいは、不幸と思われたことが実はこれが幸いだったと、言えるかもしれません。
ですから身近な分かりやすいたとえを申しますならば、今は受験期でありますが、自分の願った学校に入れなかった。あちらも駄目、こちらも駄目、とうとう最後の滑り止めのやっと首の皮一枚でつながった所へ行かざるを得ない。「もうぐらぐらした」と、博多弁で言うとそうなりますが、「ぐらぐらした。もうやっとられん。遊んでやるわ」と言って、希望の学校へ入られなかったことを悔んで、それからの日々を遊びほうけて、好き勝手をして落ちて行く。そうなれば「あの受験に失敗したことで、彼が、あるいは彼女がそうなってしまった。あのとき合格していたらそうならなかったに違いない」というような言い方で、不合格になったということが人生を誤った原因であり、その人にとって不幸な出来事だ、と思われがちですが、それは違います。問題はそのことを通して、当事者である本人が、次なる人生をどう生きるかに掛るのです。それによって、不幸と思われたことが、実は「最高の恵み、幸せな出来事であった」と言えるものに変わるのです。そうやって受験に失敗して「これは自分が今まで遊んできた結果だから、ここは取りあえず合格させていただいたこの学校で私は力を尽くすぞ!」と、失敗を今度は自分のエネルギーといいますか、こやしといいますか、そういうものに替えて自分の生き方、生活を造り変えて行くならば、その人にとって受験に失敗したこと、希望どおりに行かなかったことは、最高の恵みです。また、逆に自分の思いどおり、願いどおり、人がうらやむような立派な学校へたとえ合格して、その合格した瞬間は「ハッピー、人生最高だ」と思うかもしれない。しかし、その後、遊びほうけて、あるいはアルバイトに精を出して、大学の授業もほうったらかして、4年たっても卒業できない。5年、6年……、という生活を送るならば、その人にとってその学校へ合格したことは不幸な出来事です。だから、幸か、不幸かは、その出来事自体が決定するのではなくて、その事態を受け止めて生きようとする、その人が決める事柄です。これが、「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」と、イエス様がおっしゃったのは、まさにこのことなのです。だから、私たちは生きているかぎりいろいろな失敗もします。あるいは、辛いことや苦しいことにも遭います。ただ問題は、そこからそれをどういうものとして自分が受けとめようとするのか。それに対して自分はどのように応答して行くのか、応えて行こうとするのか。これが神様を前に置くことの意味であります。
この度の災害のことを通しても私はそのことを痛切に教えられるのであります。この問題は誰が起こしたのでもない。これはまさに神様がなさったことです。「地震や津波は天然災害、自然災害だから諦めるしかない」と人は言いますが、そうではありません。原発問題でもそうであります。これもまた、神様がそのことをしておられる。それは何を私たちに語っているか? 自分の生活の中でこのことを通して何を神様が語ろうとして、また教えようとしてくださるかを聞かなければならない。これが「悔い改め」ということであります。これは原発を造った、計画をした連中の知恵が足りなかった。だから、彼らが悔い改めるべきだと思われがちです。しかし、そうではありません。実は、私たち全ての者が、自分たちの生き方、人生、生きることについて、もう一度根本から問い直してみる。これが悔い改めることであります。これが私たちに必要なことであります。というのは、私たちは常に人の知恵と力と業で何かできる力がある者のように誇ろうとするからであります。
この15節に「あなたがたは言った、『われわれは死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない。われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくしたからである』」。まさにこの事態が私たちにいま起こっているのです。この度の災害を通して「想定外」ということが繰り返し言われています。「そこまでは考えられなかった」「そこまではなかった」「そんなになるとは思わなかった」と言い訳をします。そのそも「これだけしておけば大丈夫」「これだけの堤防を造っているから大丈夫」「2mの堤防より5mの堤防があるから大丈夫」、あるは「こういうシステムを作って、あるいはそういう仕組みをしているから、こういうことがあっても大丈夫」、「地震が少々来たって、これがあるから大丈夫」。これがまさに「死と契約をする、陰府と協定を結ぶ」ことです。私たちの世の中は大抵そうです。そうやって死と協定を結ぶ。「こうしたら不幸にならない」「こうなれば大丈夫」「いや、そういう心配はもうない」と言うでしょう。原発を造ったときもそうだったと思うのです。いろいろな想定をしたに違いない。地震が起こったらどうするか、津波が起こったらどうするか、あるいは大洪水が起こったらどうするか。強い台風に遭ったらどうするか。その時、こういう機能がストップしたらどうするか。停電になったらどうするか。そのために、その時はこうしよう。その時はああしようと、いわゆるフェイルセーフという、何か問題が起こったときそれを補完するシステムを考える。これが「死と契約をする、陰府と協定を結ぶ」というのです。今回の原発もそうです。いろいろなシステムを用意していたのです。地震のときすぐに制御棒を入れて、リアクターといいますか、原子炉の活動をストップさせる。それは確かにそれで作動しました。今度は、ストップしていったん火を消したその炉がまだ余熱が残っていますから、それを冷やさなければならない。その冷やす手段には水を送る。そのためにちゃんと循環ポンプが置いている。ところが、停電になってしまった。大慌てでその自家発電に切り替えようとしたところが、自家発電のエンジンが動かない。津波に呑(の)まれて水に漬(つ)かってしまったからです。だから取れる手立ては一応し尽くした後で「さぁ、どうするか」と。「とにかく、消防車で水を入れてやろうではないか」と、始めたけれどもそれでは間に合わない。と言って、その炉に近づくことはできない。こういうことは、とっくの昔に分かっていたのです。
私がアメリカにおりましたときに、三十数年前ですが、その当時『チャイナ・シンドローム』という、ジェーン・フォンダという社会派女優が主演した映画がありました。これは原発の事故を取り扱った映画だった。そのときに「メルトダウン」という言葉を私は覚えたのですが、それは「炉心溶融」という、炉の中にある燃料棒が保護されている金属の筒から溶け出してしまって、それを消すことができなくなる。そして、その大きな原子炉の建物を吹き飛ばして、それが原爆のような爆発をすることになる。そのような結果になる事故が起こる。電力会社はそれをひた隠しにするところに社会派のジャーナリストである女優のジェーン・フォンダが鋭く切り込んで行って、電力会社の弱点を指摘する、という映画でした。私は非常にショックを受けまして、原子力発電所というものがどれ程の危険性があるかを、初めて知ったのです。その後、原子力発電所が日本各地でどんどん作られて行く様子を見て、「本当に大丈夫かな? 」と思いました。
まさに「死と契約をなし、陰府と協定を結んだ。みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない」と。「大丈夫。マグニチュード6や7ぐらいの地震が起こったって、今まで起こったことのない地震が起こって、関東大震災クラスの地震が来たって大丈夫」。これがまさに「みなぎりあふれる災の過ぎる時にも、それはわれわれに来ない」というのでしょう。「大丈夫だ!」その後に「われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくした」。それはまさに偽りであり、うそです。そんなもので神様の力を防げるわけがない。神様の力が発動されたとき、どんなものをもってしてもそれを止めることができない、ということを隠している。「こうなったら、もうお手上げよ」と、当事者がいちばんよく知っていながら「いや、大丈夫。これがある」「こういう手立てがある」「こういう方策がある。だから、少々災いが来たって、それは大丈夫だよ」。本当に大丈夫か、「それ以上のものが来たら、もうお手上げだな」と、本人は内心知っているのです。
まさに今その事態です。これは私たちが引き受けざるを得ない、まさに誰の責任でもない、私たちの問題でもあるのです。私たちの生き方にもここで言われているように「死と契約をなし、陰府と協定を結んで、これでもう大丈夫」としている。「こういう検査を受けているから大丈夫」「こういうことをしているから、私は大丈夫」と、偽りをもって自分を取り囲む。そういう状況や事柄、目に見える事情や境遇をもって安心を得ようとすることです。それに対して神様は何とおっしゃるか。16節に「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基(もとい)とした。これは試みを経(へ)た石、堅くすえた尊い隅の石である。“信ずる者はあわてることはない”』」。神様は、そうではない、とおっしゃる。そんな偽りで囲ってみても、そんなものは一瞬にして吹き飛んでしまう。そうではなくて、私たちが頼るべきものがある、と神様はおっしゃる。「シオンに一つの石をすえて基(もとい)とした」と。これはまさにイエス・キリストです。イエス様を私たちの救いの岩、救いの石、砦として、避け所として生活の中に置いてくださった。「これは試みを経(へ)た石、堅くすえた尊い隅の石である」。「隅の石」、家を支えるいちばん大切な力の掛っている基礎です。この石に頼ると、「信ずる者はあわてることはない」。この石であるイエス様に私たちがより頼んで行く。これ以外に私たちの安心を得る場所はない、と神様はおっしゃる。
17節に「わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。人が偽りをもって「これで大丈夫。心配するな、もう何があっても壊れることはない、死ぬことはない。そういう災害は過ぎ去っていく」「これがあるから大丈夫」と。それに対して神様が「正義と公平をもってそれを測る」。本当にそうであるかを試しなさる。「正義を、下げ振りとし」とありますが、「下げ振り」とは、建築するときに大工さんが重りの付いた糸を上からたらします。垂直かどうかを調べるのです。柱が真っすぐに立っているかどうかを、そのひもを垂らしたもので上から下まで同じ間隔になっていれば真っすぐです。だから、傾いているか真っすぐであるかを、いうならば、それが正しかったか間違っていたか、それが本物であるか偽りの物であるかをはっきりと試してくださるのは神様の義です。神様の正しさです。それをもって測られるとき、人が造った偽りの隠し所、あるいは防御壁といいますか、あるいは避け所はひとたまりもなく打ち壊されてしまう。その後に「ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す」。「ひょう」というのは、動物の「豹」ということではなくて、これは天から降ってくる氷のような塊(かたまり)です。普段の生活ではあまりひょうが降るということはありません。たまに経験しますが、小さな砂粒のようなものがパラパラと落ちてきます。南のほうでは異常な現象が起こるときはこぶし大ぐらいのひょうが降ります。屋根瓦でも何でも壊すぐらいです。そういう物が作物に当たったら一瞬にして全てが枯れてしまいます。
まさに「ひょうは偽りの避け所を滅ぼす」のです。少々の物を打ち壊してしまう力がある。またその後に「水は隠れ場を押し倒す」と、これは何の説明もいりません。テレビで見たとおりです。あの10メートルを超す、建物の3階を飲み込むぐらいの大きな波が一斉に来てご覧なさい。「ここなら大丈夫」「ここはもう……」と言っている、そんなものは一気に打倒してしまう。「水は隠れ場を押し倒す」とあります。その後に「その時あなたがたが死とたてた契約は取り消され、陰府と結んだ協定は行われない。みなぎりあふれる災の過ぎるとき、あなたがたはこれによって打ち倒される」。誠にこの言葉のとおりであります。私たちは偽りの協定、陰府との協定、あるいは、契約、そういうものを「これなら大丈夫」「これがあるから……」という、そういうものはなんの頼りにもならない。そうではなくて、私たちは「尊い隅の石」「試みを経(へ)た石」、キリスト・イエス様に頼ること。16節に「信ずる者はあわてることはない」。この御方こそが、私たちのより所、ここに立たなければ本当の安心を得ることができないのです。
19節に「それが過ぎるごとに、あなたがたを捕える。それは朝な朝な過ぎ、昼も夜も過ぎるからだ。このおとずれを聞きわきまえることは、全くの恐れである」。みなぎりあふれる災がやって来るのではないか、そうしたら、こんなことをしていても役に立たないに違いない、という不安と恐れから、絶えず落ち着かない。あるいはそういう不安が繰り返し恐れをかき立てて来る。それはまるで20節に「床が短くて身を伸べることができず、かける夜具が狭くて身をおおうことができないからだ」と。実に巧みなたとえだと思います。皆さんもご経験のように、ちょっと暖かいからといって薄着をして夜やすみますか。夜中ぐらいになって冷える。「ああ、寒いな」。もう一枚取って来て着たいのだけれども、出て行くのも面倒だし、布団の中で身を縮めて、あるものを巻き込んで寝るではありませんか。といって、ぐっすりは眠られないし、それで早く出て行って取ってくればいいのですが……、これはまさにそうですよ。「床が短くて身を伸べることができず、かける夜具が狭くて身をおおうことができない」。首の所まで持って来ると足が出るし、足を覆うと胸が寒くなるしと、そういうたぐいの不安、恐れを常に覚えているではないかと。そうです。私どもはどんなに「大丈夫、心配しなくていい、これがあるから大丈夫」「あれがあるから大丈夫」と言われても、それはやはり偽りです。あくまでもうそを避け所とすることです。15節に「われわれはうそを避け所となし、偽りをもって身をかくす」。どうぞ、そういうものをいま捨てて、帰るべき所、私たちの立つべき場所は「隅の石」、キリスト、シオンに据えられた試みを経(へ)た石、ここに立つ。これを信じて行く。
「マタイによる福音書」7章24節から27節までを朗読。
ここに二つのことが語られています。「砂の上に家を立てた者」あるいは「岩の上に家を立てた者」。そしてここでイエス様がおっしゃるのは「わたしのこれらの言葉を聞いて行う人は、岩の上に自分の家を建てた人だよ」。イエス様を信じるとは、イエス様のお言葉を握って、そのお言葉に信頼して日々を歩んでいる人のことであります。主のお言葉を信じて、何をすべきか、絶えず御心を求めつつ御言葉に忠実に従って行く。これが「わたしを信じる者」「岩の上に家を建てた者である」とイエス様はおっしゃる。また26節に「これらの言葉を聞いても行わない者」、イエス様のお言葉を聞いてもそれを聞き流して、そして偽りを避け所とし、またうそを自分の隠れ場所とする。そうであるかぎり砂の上に自分の家を建てた者である。砂の上に家を建てる、これほど危うい話はありません。だれでも自分の家を建てようと思うとき、地盤を考えます。その地盤がとんでもない所であったら、埋め立て地であったら、今度のような地震が来たら液状化現象でしょう。ディズニーランドのある辺りはほとんどが埋立地ですから、この度の地震で全部ドロドロになってしまいました。アスファルトで舗装して頑丈そうに見えますが、それは薄っぺらい煎餅(せんべい)のような物でポロッとはげてしまいます。下から一気に砂が噴き出して来て水があふれて来る。それは沼地のようになってそこに載(の)っている全ての物を呑(の)み込んでしまいます。だから、私たちは砂の上に家を建てる、そういう埋め立て地に家を建てては駄目です。ちゃんとしっかりとした土台の所に建てなければ、それはひとたまりもなく壊れてしまうでしょう。私たちの日々の生活もそうです。一日を一つの家とたとえて行くならば、どこに私たちが立って行くか? それによってその一日がしっかりと立ち続けて行くことができますし、それ以外の砂の上に立っているならば、事があるとき、いろいろな問題が起こって来るとき、すぐに流されて落ちつかなくなるどころか、それは壊れてしまいます。こうした事態に出会うとき、神様が私たちに語ってくださる恵みの時です。
ですから初めに戻りまして、イザヤ書の28章16節に「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経(へ)た石、堅くすえた尊い隅の石である』」。この石にしっかりと信頼して行く。「信ずる者はあわてることはない」。
先だってもホームドクターに定期健診で行きましたら、「榎本さん、今度の震災をどう思われますか? 不幸なことでしょうかね」と言ったから、私は「いや、これは恵みの時ですよ」と答えました。「え!恵みですか? 」と言われた。「それはそうでしょう。ここでもう一度人が生き方を考え直す時ですからね。こんな良い時はないですよ」と。「なるほど、キリスト教はそういう風に教えるのですね」と言われましたが、別にそう教えるわけではありません。聖書にそう語っているからです
私どもはこういう事態の中でまさに問われている。「あなたはどこに立っているのか? 」。「あなたはどこにいるのか? 」。私たちの立っている場所、私どもがより所としている物が何であるかを明らかにして行きたいと思うのです。そこに私たちがしっかりと立つときに「信ずる者はあわてることはない」。どんなことがあっても主がおられる。神様が事をご支配してくださる、業を導いてくださることを信じて行きたい。まだまだ事態はどのように展開していくか分からないような不安を覚えますが、その中でこそ、私たちはイエス様にしっかりと信頼して祈って、何があっても人ではない、これは神様が一つ一つ導いておられることですと、確信を持って生きる信仰に歩ませていただきたい。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。