いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(378)「祈り抜く信仰」

2014年11月10日 | 聖書からのメッセージ
 「マタイによる福音書」15章21節から28節までを朗読。

 28節「そこでイエスは答えて言われた、『女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように』。その時に、娘はいやされた」。

 イエス様がツロとシドンという地方に弟子たちと共に行かれたときのことであります。その地方出身の女の人、「カナンの女」とあります。当時ユダヤ人は自分たちが神様に特別に選ばれた民である、特選の民という、自負心といいますか、思いがありましたから、自分たちとは違う民族、他の人々のことを異邦人などといって区別する、あるいは差別する時代でありました。ですから、「カナンの女が」と語られているのも、これは生粋(きっすい)のユダヤ人ではなくて、ツロとシドン、カナンの地方に住んでいる女の人、いうならば、神様の祝福と恵みには程遠い存在と見られていた女の人なのです。ところが、この女の人には一つの大きな悩みがありました。それは自分の娘が「悪霊にとりつかれて苦しんで」とあります。どういう病気であったのか分かりません。精神的な病であったのか、あるいは悪霊に取りつかれてけいれんや発作に悩まされていたことであったかもしれません。あるいは何かの具体的な病気であったかもしれませんが、いずれにしても親として大変心配な状態でした。確かに、子供をもつ親にとって子供の病気、子供が苦しんでいる様子を見たら、矢も盾もたまらない、できるならば自分が代わってやりたいと思う程だと……、お子さんをお持ちの方はそのようによく言われますから、さも有りなん、と思います。だから、この女の人も自分の娘のことで大変悩んでいたのです。ですから、イエス様が来られると聞いて、何とかイエス様に助けてもらいたいと彼女は願ったのです。

 ですから、イエス様の所へやって来まして、22節「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と求めました。娘がそういう悩みにあるから、どうぞ、私を憐れんで助けてください、と叫び続けたのです。ところが、それに対してイエス様は実につれないのであります。冷たい。23節「しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった」と。一生懸命に求めている人の言葉を聞き流して、それに心を留めない、あるいは返事もしない。弟子たちのほうがハラハラしたでしょう。そればかりかうるさいのです。しきりにそう言って呼びかけますから、それで「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」と弟子たちはイエス様に求めました。先生、何とかしてやってください。うるさくて仕方がありません、という話です。ところが、24節に「するとイエスは答えて言われた、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない』」。イエス様の救い主の使命としては、まず神様に選ばれた民であるイスラエルの救いのために遣わされたことが、旧約の預言の書に記されている。その流れから言うならば、一応建前上、イエス様がなすべき救いの御業はイスラエルから始まるべきであって、イスラエルの民が救われた後に異邦人といいますか、イスラエルではない民に救いが及ぶのだと考えられたのです。まずはイスラエルの人々のためにわたしは遣わされた。神様の民であるイスラエルの失われた者たち、イスラエルの民であっても神様の滅び、裁きに会う人々の救いのためにわたしは遣わされたのだ、と言われた。ですから、24節の「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」との言葉は選民意識に満ちたイエス様のけしからん態度だ、と言われる方もいますが、イエス様の本心は決してそのようなことではありません。建前として、旧約聖書の預言に約束された救い主の使命はこのことだよ、とイエス様は教えなさったのです。

 ところが、それに対して女の人は25節に「しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、『主よ、わたしをお助けください』」。ここはまさにイエス様とこの女の人との一騎打ちのような緊迫した情勢です。イエス様は知らんふりをするでしょう。そして、弟子たちが執り成して、何とか……、と言っても、いや、わしはそんなのは知らん、とおっしゃる。それに対してこの女の人は食い下がっていくという、真剣勝負です。この記事はそういう切迫(せっぱく)した状況なのです。というのは、女の人は25節に「しかし、女は近寄り」とありますが、「しかし」という言葉は実に重たい言葉です。イエス様は、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」、お前には関係がない、お前はカナン人、異邦人じゃないか。そんな者にわたしは何も責任はないと、はねつけているのです。私だったらこの辺ですごすごと尻尾(しっぽ)を巻いて逃げ出すでしょう。それに耐えられるのは恐らく余程厚かましい人ぐらいですよ。この女の人は「しかし、女は近寄り」と、逃げ出すどころか、ますますイエス様に迫って行くのです。

 これは私たちの神様に近づく姿勢、私たちが主を求める姿勢がどうあるべきかを語っていることです。私たちもお祈りして神様を求めますが、2、3度祈って、「駄目か、じゃ仕方がない、こちらへ行こう」と、いとも簡単に方向転換する。神様が「イスラエルの失われた羊以外にわたしは遣わされていない」と、一言言われる。「そうか。じゃ、やめておこう」と、すぐ気が変わる。それでは神様の祝福、恵み、神様から何かを頂けるなど、そんなことは有り得ない。この女の人がいかにイエス様に食い下がっていくか、これは私たちの側の問題です。だから、私たちが主を求めるにおいて、力を尽くす、熱心に励むことは、私たちに求められている事柄であります。「信じていれば、何もせんでいい」という話を聞くと、「何もせんでいいのか。果報は寝て待て」と、信仰にかこつけて怠惰になってしまいやすいのです。実はそうではなくて、私たちが主を求めることを神様は願っておられる。それを喜んでくださるのです。私たちがどれ程真剣に求めているか、神様は試して見ておられます。私どもはよくそこで失敗するのだと思います。もうあと一歩、ひと押しすれば神様は動きなさるのだけれども、その一歩手前の所で「やっぱり駄目か」と、ツルッと横へ逃げて行く。あるいは神様の前から去って行ってしまう。これは誠に残念。

 富める青年の記事がありますが、イエス様の所へ「先生、永遠の生命(せいめい)を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と言って来ました。彼は熱心な求道者であります。しかもそればかりでなくて、彼自身が幼い時から律法の全(すべ)てを落ち度なく守ってきた、というぐらいに励んできた、力を尽くしてきた人であります。そんな人がイエス様のひと言で「ああ、もう駄目だ」と思ったのです。「自分の持っている物を全部売り払って、貧しい人に施して天に宝を蓄え、そしてわたしに従ってきなさい」と言われたとき、彼は顔を曇らせて主の御前から去って行った。そこがこのカナンの女の人との大きな違いです。この富める青年はもう一歩だったと思うのです。彼は子供の時から一生懸命で熱心だったのですが、その熱心さの向きが違っていた。方向が違う。自分の力と努力で、品行方正、立派な人間になろうと、努力は一生懸命するが、神様を求める、あるいは神様の御心に従うことにおいて、力を尽くすことを放棄したのです。

 これは私たちがいつも問われることでもあります。この世のことだとか、あるいは、肉にあってこうあるべきだとか、こうしたほうが良いに違いないということには熱心になります。教会でもそうですが、いろいろなことをこうしてあげたいとか、ああしてほしいとか、お掃除であるとか何とかいろいろな行事、間もなくクリスマスですが、クリスマスの準備だとか、いろいろな細々した作業などがあります。そのような事をするには熱心だけれども、主を求めることがおろそかになったら、これは本末転倒、元も子も無い、それでは意味がないのです。まず神様が私たちに願っておられるのは、肉にあってあれをし、これをし、熱心に事をすることよりも、真剣になって主を求めることに力を尽くすことです。だから、富める青年は律法を守ることや、そういうことにおいては落ち度なく力を尽くしてやってきた。ところが、イエス様のひと言に力を尽くし得なかった、従え得なかった。これは彼が本当に主を求めようとしていなかったからです。自分を求めたといいますか、自分の功績、自分が立派になることを求めていたのであって、神様を求めていない。私たちも同じような失敗をします。自分の夢を実現し、自分の理想を追い求め、自分の願いを完成させるのではなくて、私たちを通して神様が働いてくださることを切に求めていく。主を求めるとは、そういうことです。神様のわざ、神様の恵みを真剣に求めていくこと。そのために力を尽くす、このことは私たちが神様に喜ばれる大きな祝福の道であります。

 今読みましたカナンの女の人もやはりそうです。25節「しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、『主よ、わたしをお助けください』」。それに対してイエス様は26節「イエスは答えて言われた、『子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない』」。イエス様もなかなかしつこい方というか、頑固な方ですね。女の人が「わたしをお助けください」と言っていたとき、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。この「子供たちのパン」とは、イスラエルの民に与えられる祝福、恵み、これを小犬、いうならば、お前のような異邦人にやるのはよくない。子供たちが食べ終わって残った物ならやると、そういう意味です。そう言われてしまったのです。このとき、女の人にイエス様は直接「お前は犬だ」とは言わなかったが、「小犬に投げてやるのは、よろしくない」というのですから、これは明らかに「小犬」とは、「お前のことだよ」という、つながりがはっきりしています。イエス様から「そんな犬のようなお前にやる物はない」と言われたのです。ここまで言われたら恐らく引き下がるかな、と思いきや、ここが女の人の真骨頂(しんこっちょう)といいますか、真髄(しんずい)です。何と言ったか、27節「すると女は言った、『主よ、お言葉どおりです』。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。「そうです。イエス様、私はその小犬です。犬です」と言っているわけです。「しかし、その小犬ですらも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」。主人の食卓の下に犬を置いている。

日本では最近でこそ愛玩(あいがん)用のペットとして室内で犬を飼うということが多くなりましたが、昔はよく犬を屋内で一緒に飼っていたのです。欧米などはそうですが、狩猟民族ですからいつも外から帰って来て、そのまま家に入るでしょう。そうすると、犬は主人と寝食を共にするわけです。ご主人が食事をしていると、必ず食卓の下に犬が待ち構えている。これは残飯整理係でもあります。ご主人や家族が食べていると、時々かすなんかをポッと土間に捨てる。そうすると、犬がパクッと食べてくれる。そのためにも飼っているのです。そういう役割もあります。だから西洋絵画を見ますと、羽を付けた帽子をかぶって、何かチョッキのような物を着た人が、動物の肉をむしゃぶっているような絵で……、大抵そのテーブルの下に犬が描(か)かれているのです。そういう絵画があります。だから、この女の人が答えたのは、恐らく具体的な生活の場面だったと思います。彼女が頭の中で思い描いて「小犬が食卓の下にいて、食べるに違いない」と想像した言葉ではなく、もっと身近な日常的な出来事であったと理解できます。

27節「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。「私はまさにその主人の食卓にいつもいて、落ちてくるくずを食べている犬です」との答えです。これにはイエス様もびっくりしたと思います。まさかこういう答えが彼女から出てくるとは思わなかった。だから、その後28節に「そこでイエスは答えて言われた、『女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように』」。あなたの信仰は立派だ、とイエス様が褒めてくださった。「信仰」という言葉は、ご存じのように、「信じ仰ぐ」、神様を信じることです。しかし、ここで言われているのは、確かに神様を信じ仰ぐこと、神様を信じることに尽きるのですが、ただここで「あなたの信仰」と言われている、これはいったい何のことなのか?確かに神様を信じ仰ぐことではありますが、具体的にはどういうことを指しているのか? イエス様が「見上げたものだ、立派だ」と言われたのは、そう言われるかぎり立派でない信仰もあるかもしれない。見あげられない信仰があるかもしれません。私たちはどういう信仰をもつべきなのか。いうならば、イエス様から「あなたの信仰は見あげたものである」と、お褒めの言葉を頂く、褒めて頂く、喜んでいただける信仰とはどういう内容か?もう一度翻(ひるがえ)ってこの女の人の態度、イエス様に対する歩み方をしっかりと知っておきたいと思うのです。

イエス様の所にこの女の人が出て来た。一つはそのことがあります。カナンの女の人ですから、イエス様がユダヤ人であることは知っていました。だから、自分のような者が行っても聞かれるとは思われない。

スカルの町にイエス様が来られた時にそう言われました。それはサマリヤの町でしたから、サマリヤはユダヤとは違い、そこに住んでいるのはサマリヤ人であってユダヤ人ではありません。このカナン人と同じように選びの民ではなかった。だから、スカルの井戸にやって来た女の人はイエス様から声を掛けられたとき「あなたはユダヤ人であるのに、どうして私のような女に水を飲ませてくれ、と言うのですか。そもそもユダヤ人と私たちとは交際してはいけない。交わりは持てない(それは律法によって罪を犯すことになる、という厳しい時代でありました)」。そう言って初めは断りました。でもイエス様はそんな事には頓着(とんちゃく)しない。どんどんとその女の人に近づいて行きましたが、このときカナンの女の人も、恐らくそのような民族的な違いを知っていたはずであります。だから、自分からイエス様の所へ出てくるのは、余程のことです。しかもユダヤ人であるイエス様に願い事、頼み事をすることはその当時としては到底考えられないような事態であったことをまず理解しておきたいと思います。

私たちもそういう意味で神様に対して縁のない者、いうならば、異邦人でありました。私たちは生まれながらにイエス様を知っていたわけでもなければ、この天地万物の造り主なる神様に罪を赦された者でもありません。「生まれながらに怒りの子」(エペソ 2:3)、「自分の罪過と罪に死んでいた者」(エペソ 2:1)、いうならば、このカナンの女の人と同じであります。イエス様の所へ近づくこともできないような私たちであります。しかし、神様は私たちを愛してくださって、その愛のゆえにひとり子を遣わしてくださった。イエス様を送ってくださった。神の御子でいらっしゃる御方が私たちの罪のあがないとなってくださった。だから、今こうしていつでもどんな時でも“アバ、父よ”、天のお父様と呼びかけることができ、祈ることができるのは、とてつもない大きな恵みであります。そのことを考えると、何と感謝したらいいか分からない。私たちがこうして祈らせていただける、祈れること、神様に求めることができる。これは本当に掛け替えのない大きな恵みであります。

カナンの女の人は恐らくそういうためらいを感じながら、断られることを覚悟の上でイエス様の所へ出て来たのです。それでもまだこの女の人は、22節に「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言っています。娘が苦しんでいて私はその娘の親として耐えられない、可哀想だ。そういう私を憐(あわ)れんでください。私がこんな子供を抱えた親であることを憐れんでほしい。イエス様、私に同情してほしいといいますか、私のほうに心を向けて、少しでもこの私の重荷を軽くしてもらえないだろうか、というくらいの思いです。それに対してイエス様は何も返事をなさらない。しかもその後に、先ほど読みましたように「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」と言われるのです。ところが、いよいよの時、25節に「しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、『主よ、わたしをお助けください』」。最初の言葉と二度目の求める言葉とには、大きな違いがあります。これはカナンの女の人の心の変化であります。イエス様に求めたところが、イエス様はそれを無視して、それどころか「そんな者にやる物は何もない」とはねつけられたときに、彼女はもう一つイエス様に求める姿勢が変わったのです。それがこの25節「主よ、わたしをお助けください」。最初のときは、娘が苦しんでいるから、そんな娘を持つ親として私は可哀想ではありませんか。私が可哀想なのだから、イエス様、どうぞ、私を憐れんでください、と。まだ自分の問題というよりは、もちろん、自分の問題だけれども自分は被害者であって、実は娘がこんな状態だから、その娘の病気を癒してもらえれば、私も楽になる、という思いだったのです。それに対して25節では「主よ、わたしをお助けください」。ここには娘の「む」の字もありません。これは明らかに問題の中心が「娘が」というより自分自身のこと、私が救われなければならない、私こそがこの悩みから救われなければならない者である、と彼女は認めたのです。

私どもが神様に近づく時でもそうですが、あの問題がこうだから、この問題がこうだからと言いますが、私は取りあえず何とかやっているけれども、あれが何とかならないだろうか、これが何とかならないだろうか。そう言っている間はまだまだ余裕があるといいますか、ゆとりがある。ところが、この女の人は切迫しているのです。どん詰まりです。これ以上行き所がない所まで追い込まれてしまった。イエス様から拒(こば)まれる、無視される、返事もしてもらえない。そうしたときに、彼女は自分の問題点、自分のいちばんイエス様に求めなければならない事柄が何であるかが、はっきりとしてきました。

神様はそのことを私たちにも求められているのです。お祈りしていると、初めは何が問題か分からない。ただ苦しい、苦しい、ああ、神様苦しいから、つらいから神様、何とかこれを助けて……、そのうちだんだんと祈っていると、自分の中にある何が問題、何をどうしてほしいのかが煮詰まってくる。ここまで神様は待たれます。私たちがいよいよ心一つになって神様に向き合うところまで、神様は私たちをお取り扱いなさるし、待っていてくださるのです。

だから、イザヤ書30章にありますように「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」と約束されている。でもあなた方はそれを好まなかった、といわれています。そして、馬に乗ろう、速い馬に乗ろう。ついには丘の上にある旗のように、孤立無援になってしまう。その後「主は待っていて、あなたがたに恵を施される」とあります。そうやって人が自分の力や知恵やいろいろなことで行き詰って、あれも駄目、これも駄目、もうとうとう「こうなったら、神様、あなた以外にありません」。そこまで私たちがへりくだる、謙遜になることです。これを神様は待っておられるのです。待っていて、神様は私たちを恵んでくださる。

ここでもそうであります。25節に「しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、『主よ、わたしをお助けください』」。娘がどうのこうのではない。「わたしをお助けください」、私こそ救われなければ滅びですと、彼女はイエス様に求めました。ところが、それに対してもイエス様は「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と言われるのです。それに対して、女の人はもう一つへりくだる。「主よ、お言葉どおりです」、というのは、彼女にはイエス様を離れて行き場がないのであります。ここまで私たちが徹底して自分を神様の前に置く。神様を求めていく。神様はこのことを願っておられます。まさに神様の前にへりくだっていく姿勢を「あなたの信仰」とイエス様が言われたのです。神様を信じると言いながら、神様をお手伝いさんか、あるいは、力のある便利屋さんぐらいに思っているところがある。そうではなくて、本当にへりくだって、とことんどん底まで下って、「どうぞ、主よ、私をお助けください」と、彼女はイエス様に求めたのです。またイエス様から離れられないのだ、と告白しているのです。そのとき28節「女よ、あなたの信仰は見あげたものである」と称賛されました。

神様の前に自分がどういう姿勢で立っているか?ひれ伏して、神様の前に、神様だけを求めて真剣に祈ってご覧なさい。求めるならば……、28節の後半に「あなたの願いどおりになるように」と、神様がそれにちゃんと答えてくださる。

だから、「ルカによる福音書」にも語られていますが、イエス様が「神を恐れず、人と人とも思わない裁判官のたとえ」を語っています。しつこく求めてくるから、仕方なしに「じゃ、言われるように判決を有利にしてやろう」と言うではないかと。いい加減な裁判官だと思いますが、イエス様がおっしゃるのは、切に真剣に求めなさい、と言われているのです。私たちの求めがどれほどのものであるか、そして、それを求めるにあたって、どれほど主の前にへりくだっているのか。どこか心の中で「祈って答えられなければ、まだあっちの道がある」とか「あの人に今度は頼んでみようかな」と思いながら、「それでも一まず神様にお願いしてみようか」と、祈りつつもまだ「神様だけ」と言えない隙間(すきま)が心にあるかぎり、主は待っておられます。私どもが全くお手上げになって、本当にへりくだり、「主よ、でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」「お言葉どおりです。あなた以外に私は他(ほか)に行く所はありません」と、主を真剣に祈り求めていきたい。そうすると「あなたの願いどおりになるように」、神様は「待っていて、あなたがたに恵を施される」。必ず恵んでくださる御方です。

どうぞ、信仰の有り様(よう)といいますか、私たちの立つべき場所をしっかりと定めて、真剣に主を求めて行こうではありませんか。イエス様は「あなたの信仰は見あげたものである」と喜んで、その女の人の願いに答えてくださいました。そればかりでなくて、この女の人もまた救われ、恵みを受けることができました。自分の娘の病気が癒されたというだけに終わらない。私たちの魂も、霊肉共に全身全霊を神様が救いに引き上げてくださるのです。

神様の御前に自(みずか)らをいよいよ低くして、謙遜にへりくだった者となって主を求めていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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