いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(453)「まことの命」

2015年01月27日 | 聖書からのメッセージ
 「ルカによる福音書」12章13節から21節までを朗読。

15節「それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲(どんよく)に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』」。

 イエス様の所に人が訪ねてまいりまして「遺産の分配を仲介(ちゅうかい)してくれ」と依頼してきました。イエス様の時代からそういう遺産相続の争いがあったことは、2千年以上もたった今でもありますから、古くて新しい問題だろうと思います。このとき、残された遺産をどのように分けるかということで、兄弟の間に争いが起きた。それでイエス様に「兄弟に言ってやってください」と頼みに来たのです。それに対してイエス様は「いったいわたしはいつから裁判人や分配人になったのか」とおっしゃいました。そこで15節「あらゆる貪欲(どんよく)に対してよくよく警戒しなさい」と言われたのです。
私たちは肉によって生きるといいますか、生活に必要な物は確かにあります。食べたり着たり飲んだりということがありますが、必要以上にそれを求める。またそれを自分のより所にして、「これがあれば大丈夫」と思い込む。これが貪欲(どんよく)です。ですから聖書には「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と語られています(コロサイ 3:5)。十分足りていながらまだ不足を感じる、まだ不安を覚える、これが現実の姿ではないかと思います。
私たちにはいろいろな心配や思い煩いがあります。考えてみると、今すぐに何か事が起こるわけではないのです。「いま困っているの? 」と問われたら、「いや、今はまぁ、困らないわけではない。欲を言えばもっと欲しいけれども、ただこの先がどうなるか心配」。今の経済状態、今の世界の状況を見ていると、これから先どうなるか分からない。「年金も減らされるらしい」とか、そういう話を聞くと、「もう少し」「もう少し」と求める気持ちが強くなる。「私のささやかなこのくらいの願いぐらいは許されるだろう」と思う。案外それがどん欲なのです。なぜかというと、物を求め、安心を求める相手が違うのです。物質的な境遇や状況が良くなって、少しでも多く積み蓄えて行けば安心になるか? それは違います。そうなることをまるで神のごとく、絶対的な力、それをより所、自分を守ってくれるものと思いこむところにどん欲が神に、偶像になってしまうのです。だから、そのことを厳しく戒めておられるわけです。ここでもイエス様が「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい」と。注意しておきなさいと勧められたのです。

その後半に「たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」とあります。ここでイエス様が取り上げられたのは「人のいのちとは何か? 」ということです。これは私たちに大切なことの一つではないかと思います。「人のいのちとは何か? 」。そこでイエス様が一つのたとえを語っています。金持ちがいました。その人の畑が今年は大豊作で、作物がたくさんとれたというのです。ところが、彼はそもそも金持ちでありますから、既に蔵にたくさんの物が入っている。「どうしようか」と思案した結果、古い蔵を全部取り壊してもっと大きい新しい物を建てたというのです。大豊作の食料を全部そこへしまい込んだ。そして19節に「そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ」とあります。蔵に物がたくさん入っている。これでもう大丈夫、私はもう死ぬまではもてる。「だから、安心しなさい」と自分を慰めている。
これを読むと「そんな馬鹿な」と思うでしょう。ところが、私たちも同じことをやっているのです。お医者さんに行って検査結果を見て「どこにも悪い所がなかった。よしよし、これで大丈夫。食え、飲め、楽しめ」です。「この健康があるから、これがありさえすれば私は大丈夫」と。少しでも検査結果が上がったり下がったり、矢印が上を向いたり下を向いたりすると「あれ、何でやろう」と、私たちは蔵を持っているわけではないけれども、そこに長年分の食料はないかもしれないが、それに代わるものとして自分の健康であるとか、あるいは自分のこれまでやってきた業績であるとか、それまでの自分の仕事仲間であるとか、いろいろな人脈、政治力であるとか、様々なこの世の仕組みといいますか、そういう中で自分が培(つちか)ってきたもの、これらの蓄えがある。親孝行の息子たちがいて「きっとちゃんとやってくれるに違いない、安心だ。食え、飲め、楽しめ」でしょう。このたとえ話は私たちと関係のない話ではないのです。実に身近なことです。そのときの“いのち”とはいったいそもそも何なのか? ということです。

そのときに20節に「すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう』」と。あなたの魂は今夜のうちに取り去られて、いうならば、肉なるものといいますか、様々な物質的なものは消えてしまう。「そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」。21節に「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。ここで「自分のために宝を積む」と言われる、これが蓄えることです。様々などん欲をもって自分の生活のあれを用意し、これを準備し、これをたくさんに増やしてと、そういう宝を自分のために蓄える。それに対して「神に対して富む」というのはどういうことなのか? そのこととイエス様がおっしゃる「いのち」とはどのように関係しているのか? このことをはっきりと知っておきたいと思うのです。まず、15節に「たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
この「いのち」という言葉が実に厄介なのです。というのは、「いのち」と言うと、すぐに私たちが思うのは、肉体的な命です。健康であると、病気することがない、死ぬことがない状況、これが命であって、これを何とか長生きさせるといいますか、これをうまく長く持ち続けることが幸せ、あるいはそれが幸いなのだ、というのがいまの社会の大きな目標値となっています。ですから、常に私たちも「死んだらおしまい」という思いがありますから、何とか健康でありたい。この地上にあって1日でも長く生きている。その補償として蔵を造り、財を蓄え、健康を管理し、いろいろなことをして、何とかこの命を、いうならば、肉体の命を求め続ける。これが今の世の中のあり方です。それに対してイエス様がおっしゃるのは、そういうたくさんの物を持っていても人のいのちは持ち物によらない。イエス様の言うところの「人のいのち」とは、そういう物質的な体を生かす命ではないのです。そのことが「神に対して富む」ことに深い関わりのある言葉であります。人のいのちは、神様に対して富む者となる。それは肉体の命とは全く違ったものであります。だから、「いのち」という言葉を使いますが、そこには二つのいのちがあるのです。私たちは肉体にかかわる命のことに一生懸命になっている。ところが、もう一ついのちは、どこにあるのか?

10日ほど前でありますが、家内の母が突然脳出血を起こして倒れました。それで救急病院に搬送されました。義母は養護老人施設で生活をしていました。そこのスタッフの人たちと10月に家族会議というのがありました。施設での生活、それに年齢が90歳でしたから、やがて看(み)取りという、死を迎える時が来るに違いない。そういうときはどうするか、という話し合いを本人も交えてするのです。
最近の医療は「何とか人を生かす」ことに一生懸命になります。1分でも1秒でも長く生かしておこうと。そのためにはどんな方法でも使う。いわゆる「延命」という考え方があります。そこで話題になったのは、担当のお医者さんも含めての話です。本人にも確認します。どういう処置をしてほしいか? もし意識不明とか、あるいは死に至る状況になったときは、一切治療をしないで、このまま終わらせてほしいと。鼻やのどからといろいろな管をつないで、ただ寝たきりで生殺しのように1時間でも2時間でも長く生きることは一切お断りしたい、ということを確認したのです。
そうしたときに、今回そうなってしまったのです。義母がその日も昼、食事を済ませて、施設で親しい友達と部屋にいて、おしゃべりをしているうちにだんだんと様子がおかしくなった。ろれつが回らなくなり、よだれが流れるようになってしまった。一緒にいた人たちがみんなびっくりして「どうしたの? 何かおかしいよ」ということで急いで呼んだのです。すると施設の方は「これはいかん」ということで救急救命病院に搬送した。それが果たして良かったのかどうか? 本人としてはそのまま置いておいてほしかった。それで死ぬなら死んでいいと思った。でもまだ意識があったのです。その時点では。救急車に乗せられて搬送されて病院に着いた。そこまでは意識がありましたが、病院に着いてからはほとんど意識がなくなった。早速、救急救命ですからすぐに脳の状態を検査する。そうすると大きく出血を起こしている。しかも脊髄液が貯留(ちょりゅう)する『急性水頭症』という現象を起こしている。治療をしないままだったら昏睡から呼吸困難を起こしてそれで終わる。肉体的にはそれで終わるのです。だから、何もしないでおけばそれでおしまいですが、「さて、そこでどうするか? 」ということです。
家内が呼ばれまして「早くサインをしてください。治療にはいりますから」と促される。頭に穴を開けて、たまった脊髄液を抜かなければならない。それが脳を圧迫して呼吸不全になり、心停止に至るから早くしなければいけないと。それが救命、いうならば、延命の処置なのか、あるいはそれは単なる治療的な目的なのか? この判断が非常に難しいのです。若い人であるならば早く治療して元へ戻す、元気にしてあげようと、これは医者の使命感です。そのための医者ですから、殺すためにいるわけではないから、何とか救おうとする。ところが、義母のように90歳近く、見た所は元気ですから「さぁ、どうするか? 」と。そうすると医者としては放っておくわけにはいかない。取りあえずとにかく処置はしたい。家内は「母は『もう一切そういう延命的なことはしてほしくない』と言い続けて来た。それは意思です」と言って拒んではいたのですが、医者は「これは延命というよりは、治療目的なんだから、取りあえずこれだけはしておかなければいけません。サインしてください」と、とうとう家内もサインして、頭に穴をあけてその脊髄液を抜く処置をしたのです。
幸いにそれで意識が戻りました。ところがその数日後に行きましたら、鼻から管を入れられているのです。それを大変義母は嫌がる。意識がありますからそれを嫌だと言う。確かにそうです。鼻から胃に管を入れるのです。皆さんもご経験かもしれませんが、胃の内視鏡検査をしますね。あのときにのどから管を突っ込まれるでしょう。あの突っ込んだ管をそのまま置きっ放しにされている状態ですから、気分のいい話ではない。もっとも管はもう少し細いものですが、それを鼻からズーッと入れる。なぜかと言うと「肺炎を起こしている」と言うのです。結果的には左側の半身が不随になっていました。私たちの見るかぎりではそれほどひどい麻ひがなくて、十分自分で飲み込むことができそうなのです。ところがやはり微妙に左右の機能がずれます。肺は無菌状態ですから、飲み込む際に誤って肺の方に水だとか何かがちょっと入ると肺炎を起こす。だから、医者としてはその肺炎を起こさないように鼻を通して栄養や薬剤を投与したほうが治りがいい。じゃ、それを一時的にやっておいて、いま起こっている肺炎がよくなったら管を抜くかというと、抜いたらまたすぐに起こるわけです。麻ひがあるわけですから。ということは、ズーッと鼻から管を入れ続けなければならない。肺炎を防ぐために管をズーッと置いておくという状況です。
これは延命なのか、治療なのか? 非常に難しい判断です。ところが、幸いに義母は意識がはっきりしていて「もう自分はいい」と、「肺炎を起こしているからこれを入れているのだよ」ということ、それも理解する。しかし「この肺炎をそのままにして、もしそれで死ぬのだったら、私はそれでいい、死んだほうがいい」と。だから「苦しいことだけはするな」と言うのです。そこで病院側との交渉で、それを抜いてほしいと。病院としてはそんなことをいう患者なんていませんから、びっくりしたのです。家内は「抜いてほしい」と言うのだけれども、お医者さんも看護士さんにも「それは駄目です!」と言われて大げんかをしましたが、とうとう抜いたのです。「そんなことを言うなら、勝手にしなさい!」という話です。でも抜いたのです。抜きましたら大変気分が楽になった。そして次の日行きましたら、家内は心配しまして、「抜け」と言ったけれどもそれが悪い結果になっていて、自分がそういうことをしなければ良かったと、一晩眠られなかったらしいのです。でも、翌日行ったらすっきりした顔をしているのです。そういう管が入っていて眠られなかったのです。ところが、抜いてしまって、お医者さんともそのとき話し合って、もう治療的なことも最低限にしてもらう。肺炎を抑えるについても抗生剤だけが血管からの投与で間に合うだけの処置はしましょう。あまりそれ以上のことはしない。最低限のところで本人の生活力といいますか、身体的な力でどこまで続くか、それだけに任せて行きましょうと、やっと担当の先生も理解してくれまして、協力的にそういう方向へ行くことになりました。
そうしましたら大変元気になったのです。言葉がはっきり残っていまして、左側は全く動きませんが、右手はよく動きますし、そしてしゃべられますし、目も見えていますし、頭もしっかりしていて曜日も日にちも分かるのです。ですから、それはそれで本当に幸いであったのですが、「これから、どうするか? 」ということになってきました。病院は非常に高度な救急救命施設ですから長いこといることはできない。急性期だけですから後1週間もすればそこを出なければいけません。出るには十分体力もついてきましたから、恐らくリハビリ専門の病院に移って、きちんと物を飲み込む訓練とかリハビリ、あるいは座ったりする練習を進めて行きましょうという話になりました。

この一連の事態を通りながら「いのち」とは何なのだろうか? ということを考えさせられました。私たちにとって肉体的な命は限りがあり、それは必ず終わる時が来ます。じゃ、それで命は消えてお終いなのか、実はそうではない。ここでイエス様がおっしゃるように「たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。健康だから命があるのではない。あるいは、もう肉体的に終末期であって延命する処置は一切やめてしまって、だんだんと体の機能が低下して行くから命が消えて行くかというと、そうとは言えない。じゃ、何がいのちなのかということです。イエス様は繰り返し「わたしはいのちである」と語っています。

「ヨハネによる福音書」11章20節から27節までを朗読。

 これはマルタ、マリヤ、ラザロという3人の兄弟姉妹の記事でありますが、このとき兄弟のラザロが死んでしまったのです。更に4日もたってイエス様がやって来られたのですが、マルタ、マリヤはがっかりした。あんなにまで慕(した)っていたイエス様はこんなに遅くなって、とちょっと憤慨もし、失望もしたのでしょう。イエス様が来られてやっとマルタが出迎えに来ました。そして「あなたがここにいてくださったら、こんなことにならなかったのに」と、恨み事を言います。それに対して23節に「イエスはマルタに言われた、『あなたの兄弟はよみがえるであろう』」。それに対してマルタが「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。
聖書にもありますように、私たち全ての者は終末、世の終わりの時にそこからよみがえらされて神様の前に立ち、裁きを受ける時が来ると語られている。だから、それは皆信じていた。終わりの時にはよみがえるでしょうけれども、もう死んでしまった、おしまいだと。ところがこのときイエス様は25節に「わたしはよみがえりであり、命である」と言われる。イエス様が「わたしこそがよみがえりであり、命である」と。
よみがえるとは、ただ単に死んだ人間がよみがえることではなく、イエス・キリストを信じること、イエス様を信じることがよみがえりである。この所で言う意味のよみがえりは、イエス様が、私たちがイエス・キリストを信じることによって、新しく生まれ変わることです。ニコデモ先生に言われたように「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」と。だからニコデモ先生は「じゃ、今から死んでお母さんのおなかの中に入り直すんですか」と、そんな馬鹿なことを言いました。
しかし、そうではなくて、イエス様こそがよみがえりであり、また命、永遠の命であると。イエス様を信じること、イエス様を信じて生きる者となる。私たちは生まれながらに自分中心に生きています。自分の考えや、自分の計画、自分の……と。ところがこうやってイエス様の救いにあずかって、イエス様を救い主と信じて生きる日々の生活の中で、キリストが私のいのちとなる。これが私たちにとっての信仰です。イエス様がいのちになるとは、どういうことかというと、毎日の生活、朝から晩まで起きてから寝るまで、そして寝ている間もそうでありますが、常にキリストと共にあることです。
「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とあります。「これがわたしの福音である」と(Ⅱテモテ 2:8)。「イエス・キリストを、いつも思う」こと、それは取りも直さず私たちの生活の全てのことの中心に主イエス・キリストを絶えず認めることです。「私がこうしよう」と言うのではなくて「主が私にこのことをさせておられる」「今この問題が起こっているけれども、これはイエス様が私に与えてくださった問題である」、あるいは「イエス様が今ここに私を遣わしてくださってこのことをさせてくださる」と、常にイエス様が日々の生きる命になっている。それは肉体の命ではありません。肉体が健康であろうと弱っていようと、病気の中に置かれようと、あるいは死を間近に控えた状況の中にあっても、そこでキリストと共に生き続けるのです。これが「いのち」です。
だから、25節に「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる』」と。この「死んで」とか「生きる」とか「命」と言う言葉は、ダブル・ミーニング(Double meanings)という二つの意味合いが常にくっついているので、キツネにつままれたように思えますが、ここで「たとい死んでも」というのは、肉体が滅びることがあっても私たちは常にキリストと共に生き続けるのです。イエス・キリストが永遠の命であって、私たちがキリストにしっかりと結び付いて行くとき、そのキリストの命と共に永遠に生きる者となるのです。
これは確かにそのとおりです。毎日の生活の中で常にイエス様が私のいのちとなり、よみがえってくださった主が今も目には見えないけれども、私と共にいてくださる。そして日々の生活の一つ一つの中でイエス様の御声を聞きつつ、主を求めつつ、ことごとく、どんなことにも主を前に置いて、イエス様に信頼して、従って行く自分になること。これが永遠の命の生涯です。イエス様に結び付いて行きますとき、たとえ自分の周囲の状況、事情や境遇、問題事柄、悩みの中に置かれ、悲しみや苦しい事態の中に置かれても絶えずイエス様による慰めと望みと力を与えられます。決して死ぬことはない。自分の肉体的死が間近に迫ったとしても、そこにイエス様が共におってくださると、主を信じて行く。これを徹底して行くときに、イエス様が私たちのいのちになってくださる。

 「ヨハネによる福音書」17章1節から5節までを朗読。

 これはイエス様が最後の晩餐の席で祈られた最後の祈りであります。その初めの言葉です。2節に「あなたは、子に賜わったすべての者に、永遠の命を授けさせるために」とあります。「子に賜わったすべての者」とは誰かと言うと、イエス・キリストを信じる者たち、私たちに永遠の命を与えてくださるために来てくださったのです。その「永遠の命」とは何か? 3節に「唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ること」です。
神とキリストを知ること、神もキリストもこれは一つのものであります。しかし、ここでは二つに分けて言われています。神様を知る、キリストを知ること。これはどうすることか。それこそが日々の生活、私たちの毎日の一つ一つの事の中で、そこで「主は何とおっしゃるだろうか」「神様は何を私に求めておられる? 」「私がすべきことは神様、何でしょうか」「私の思いではなくて、神様の御心はどこにあるんでしょうか」と、絶えず、絶えず神様を求めること、キリストを絶えず自分のものとして、そしてここに心を委ねます。このことを努(つと)めるのです。そのとき私たちは肉体の命によって生きるのではなくて、キリストの命によって永遠の命の生涯に生きる者と変えられてしまう。体が朽ち去って肉体は消えてしまっても、「コロサイ人への手紙」にありますように、その命はキリストの内に隠されて、「私たちの命はキリストの内に握られて、そして永遠の御国にまで私たちを導き入れてくださる」のであります。いま私たちは地上にあって毎日いろいろなことの中に、具体的な問題や事柄の中に置かれます。しかし、その中で人の業で生きるのではなく、いまキリストの命に生きている自分であることを絶えず信じて、その命に励まされ、力付けられ、また望みと喜びと平安を与えられていること。ですから、イエス様にしっかりと結び付いているならば、常に喜び望みに輝いてどんな問題の中でも「ここにキリストが、主が働いてくださっておられます」と信じることができます。これは私たちの本当に大きな力です。

 私はこのたびの義母の事柄を通して、いまもう一度永遠の命に生きるとはどういうことなのか? 肉体の命は間もなく消え去ってしまうでしょう。しかし、ともするとそれにしがみ付いて1分でも1秒でも、棺桶に片足突っ込みながら「まだ、嫌だ」と、この世にしがみ付こうとする、そこは滅びであり、そこにはいのちがない。私たちの本当のいのちは持ち物にはよらない。
それでは何によるのか? イエス・キリストです。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」とおっしゃるイエス・キリストを信じること、これ以外にない。イエス・キリストを常に日々の生活のどんなことの中にも「ここによみがえってくださった主が私を支えておってくださる」、「今このことは主が私に求めておられることです」と、キリストの前に、主の前に自らを絶えず低くしておく。これは普段から常に意識して努めて行かなければ、自らを訓練しなければこれは成りません。ぼんやりしていると次々と今までと同じ世間と同じ様々なことで心を奪われてしまいます。意識して常にイエス様を心に思う、イエス・キリストを常に心に思っていると、気が付かないうちに私たちの思うこと、考えることが「キリストはどうなんだろう」、「主は何とおっしゃるだろうか」、「これは主が導かれたことです」と、全ての道で主を認めることができるように変わってくる。そうすると、何か事が起こってもうろたえない、慌てない。それどころか失望落胆することがなくて、望みを得ることができる。どうぞ、この永遠の命の恵み、キリストを自分のものとして生きる者となりたいと思います。

 「ルカによる福音書」12章15節に「それから人々にむかって言われた、『あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである』」。持ち物、物質的な目に見える事情や境遇、事柄、あるいは自分の肉体的なことも全部これはまことの“いのち”につながらない。いま与えられている問題の中にも主が共におられることを信じて、主と共に生きることを努める。ところが、私たちは問題のほうに心を向けてしまうのです。何とかこれをどうしようか、ああしようかと、そちらのほうへ心が行ってしまってイエス様が吹っ飛んでしまう。いのちが消えて行く。そのために闇の中に落ち込む。そうではなくて、いろいろな問題の中にあっても、主を望み見て、キリストのほうに私たちの心を向け続けておくのです。「主がここで何を備えてくださるか」「今このことが起こっているのは、主が備えられたことであり、キリストが私と共にいてこのことをさせておられるのだ。私の力ではないのだ」と認めて、キリストを絶えず心に信じるときに失望することがありません。絶えず望みに輝いて生きることができる。この永遠の命の恵みを具体的に体験しようではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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