いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(161)「神様の祝福」

2014年04月07日 | 聖書からのメッセージ
 マタイによる福音書14章13節から21節までを朗読。

 18節「イエスは言われた、『それをここに持ってきなさい』」。
 これはイエス様がガリラヤ湖畔で、集まって来た多くの人々に神の国について、福音について、救いについてお話をなさいましたところです。またそこには、大勢の病人、あるいは悩みの中にいる人たち、具体的な苦しみや困難を持った人たちも集まっていました。そしてイエス様に祈ってもらい、癒しを受ける、そういうことを願っていたのです。大変な数であったと思いますが「おおよそ五千人であった」とありますように、成人男性だけで五千人ですから、女性や子供を入れますと、優に二倍や三倍はいたと思います。

そのうち夕方になり、日が沈み始める。町の中の公会堂とか、あるいは便利な場所ではありません。ガリラヤ湖畔ですから、人里離れた草原でしょうから、食べるものも、屋台もあるわけではないですね。だから、だんだんおなかがすいてきた。その様子を見ていた弟子たちがイエス様の所に来ました。15節に「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました」。ここは暗くなったら寂しい、まともな道路があり外灯があるわけでもないでしょうから、とにかく早く解散させて食事をさせてください、それぞれ各村々に帰らせて、何か食事をするようにしてください。言うならば、そろそろ終わりにしてくださいということです。イエス様に任せていたらいつ終わるやら分からない。もうそろそろやめてもらわないと、弟子たちはイエス様の所に来たのです。

そのとき16節に「するとイエスは言われた、『彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい』」。とんでもない難題を言われたのです。やぶ蛇ですね。イエス様の所に来て、早く解散して自分たちも楽になりたい。今日はどこかの宿屋にでも泊まってゆっくりしたいと思ったのでしょうが、何とイエス様は「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言われる。これは困ったことですね。どうやったらできるか。そこで探してみて、持っているものが、「パン五つと魚二ひきしか」ありませんでした。「パン五つと魚二ひき」は、一人の一日の食事分ぐらいのもの、お昼どきの一食分にしかあたらない、と言う人もいます。実に極わずかです。たったこれだけのものでどうすると思いました。「あなたがたの手で食物をやりなさい」と言って、これを細かく分けますと砂粒のようなものを食べなければなりませんね。魚とても頭の方や尻尾も食べられませんから、そうなると魚一匹といっても三分の二くらいのものです。どうするか、ほとほと弟子たちは困ってしまったのです。そのとき弟子たちは「パン五つと魚二ひきしかありません」と打ち明けた。私たちにはお手上げです、という意味です。そのとき、18節に「イエスは言われた、『それをここに持ってきなさい』」。「それ」とは、まさに今申し上げました「パン五つと魚二ひき」です。たったこれだけしか持っていない。これで何の役に立つか。これだけでどうして食べさせることができるだろうか、と思ったとき、イエス様は「それをここに持ってきなさい」と言われる。「ここに」とは、イエス様の手に持ってくる。イエス様が「私の所に」という意味ですね。「それをここに持ってきなさい」。弟子たちは、それを持って行ってどうなるか分からなかったと思います。とにかくイエス様がそのように言われますから、それを持って行って、イエス様の手に渡しました。

19節「そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り」と、イエス様がそれを手に持ってくださって、そして何をしたか? 「天を仰いでそれを祝福し」、特にここの所を注目しておいていただきたいのです。「天を仰いでそれを祝福し」と、イエス様がそれを取って神様に祈ってくださった。そして祝福してくださった。神様の祝福にあずかった。その後、パンを割いて弟子たちに渡される。今度はその祝福したものを弟子たちに渡したのです。弟子たちはそれを持って行きますと、思いも掛けないほど、それが、どのような形であったのか、具体的なことは分かりませんが、次から次へと「みんなの者は食べて満腹した」。しかも「パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった」とあります。食べきれないで残した、そのようなくずが出るくらいに有り余るほどだった。

これは不思議な神様の業です。どうしてこうなったのでしょうか。イエス様の所へ持って行って、祝福していただく。これが、不思議な業が起こった最大の原因、理由です。私たちが自分の手でそれをしようとしてもそれはできないことです。私たちが自分の持っているものを見るならば、「パン五つ魚二ひきしかありません」と、実に小さな、取るに足らないもの、無きに等しいものです。そのような私たちですが、「それをここに持ってきなさい」との言葉に従って、イエス様の手に握っていただく、ささげてしまう。そして神様の祝福を求めることです。イエス様はそれを手にとって、直接一人一人に渡したのではなくて、手に取って何をしたかといいますと、「天を仰いでそれを祝福し」たのです。「天を仰いで」父なる神様にその祝福を願ってくださった。

これは私たちの生活でも同じだと思います。イエス様は私たちと父なる神様との間を取り持ってくださる、なかだちとなってくださる方です。だからイエス様の所に持ってくることは、私たちと父なる神様との間を結び付けてくださる祭司となり給うたイエス様が、父なる神様に祈ってくださる。ここが私たちの信ずべき事であります。私たちはいろいろな事を、これでは無理だとか、これでは小さいとか、これでは足らないとか、こんなんじゃ、何にも役に立たない、もうあきらめるしかないと思います。見える状態・事柄を考えると、人の知恵、人の考えでは不可能ということがたくさんあります。年を重ねれば重ねるほど、そのようなものが増えてきます。昨日までできたことが今日はできない。この先は尻すぼみで、減るばかり。となりますと、減らさないように何とかしようと思って、年寄りの冷や水といいますか、頑張りますが、人がいくらどうしてみてもできないものはできません。ところが、ここに神様の恵みにあずかる素晴らしい秘けつがある。イエス様が「それをここに持ってきなさい」と言っておられるのだが、私どもは案外とそれを忘れる。この聖書の箇所は皆さんもよく知っている。「五つのパンと二匹の魚で五千人を養った」と。これは聖書の中で、トップテンに入るくらいの有名な箇所です。だからよく知っているはずです。しかしなんだか昔物語、イエス様ならできただろうが、今の私には無理、と思っていますか? あるいは、それを忘れている。現実の生活の中で「こんなにできないな」、「これも足らない」、「私にはあれが無いから、これが無いから」、「健康も無い、力も無い、知恵も無い。だんだん記憶力もなくなる。足腰さえしっかりしておればと思いますが、それも無い」。無い無い尽くしになるでしょう。そうすると、あれも駄目、これも駄目、悲観、失望、落胆、そのような言葉だけがしょっちゅう目の前にある。ところが、神様は素晴らしい御方です。18節に「それをここに持ってきなさい」と。イエス様はよみがえってくださって、いつでも私たちのそばにいてくださる。父なる神様に執り成してくださるのです。だから、イエス様の所へそれを持っていく。

祭司という制度があった時代、旧約の時代には、人々は祭司の所へ願い事や悔い改めや罪の赦しや、あるいは感謝のささげ物を持っていくのです。祭司はそれを受けて、神殿の聖所に入って祭壇にささげる。小牛であるとか、家ばとであるとか、そのようなものをささげて神様に取り成してくださいます。仲介してくださる。イエス様がよみがえってくださって、祭司となって、私たちのそばにいてくださる。私たちはイエス様の所にどんなことでも持ち出していく。これが私たちの大切な第一歩なのです。すると、イエス様はそれを手に受けてくださって、19節「天を仰いでそれを祝福」する。神様の祝福にあずかる道はこれしかない。神様の祝福がなければ、どんなことをしても、うまくいかない。

箴言10章22節を朗読。

ここに「主の祝福は人を富ませる」とあります。健康においても、経済的な問題においても、あるいは人間関係においても、家庭においても、いろいろなことに恵まれたい、豊かになりたい、と願います。そのために一生懸命に努力して、それを得ようとします。ところが、そうやって得たものは何であったかと言うと、はかないわずかばかりの楽しみでしかなくて、後は悲しみと嘆きと失望しかありません。ところが、皆さんが豊かになりたいのだったら、神様の祝福を受けることが何より大切なことです。私たちが富んだ者になりたければ、神様からの祝福を受けること、これが最善の道にして最高の生涯です。しかも、その後に「主はこれになんの悲しみをも加えない」とあります。神様の祝福にあずかりますならば、手放しで喜ぶことができる。何一つ後ろめたさ、引け目を感じることがない。

最近、新聞紙上をにぎわしている牛肉偽装問題で、北海道の社長さんの悲劇が報道されますが、彼は自分が金持ちになりたいと思ったのです。だから一生懸命に努力しました。努力した挙句、自分に知恵がない、力がありませんから、豚肉を牛肉とし、鶏肉を混ぜたり、そのほかに何を使ったか分かりませんが、いろいろな物を混ぜて頑張った。そして立派な豪邸を建てて、立派な車に乗るようになりました。奥さんは退職金で8千万円もらったというのですから立派なものです。しかし、それでもろ手を挙げて万々歳ではない。刑務所行きです。神様の祝福でないから、人が自分の力で富もうとしたとき、そこには悲しみ以外にないのです。私は誠に聖書の御言葉は厳粛だな、と思うのです。そのような人々の生き方を見ますと、主の祝福を求めようとしません。これは私たちの生活の中でもそうです。自分の知恵と自分の努力と自分の力で何とかして勝ち取っていこうとするとき、神様の祝福を離れてしまう。その結果は、悲しみと苦しみと失望しかないのです。この後半に「主はこれになんの悲しみをも加えない」とあります。文語訳では「人の労工(ほねをり)はこれに加ふるところなし」とあります。いくら人が頑張って努力しても神様の祝福にはかなわない。神様の祝福を超えることはできないのです。

私たちは、今日は素晴らしい神様の約束を得たのです。「それをここに持ってきなさい」と。イエス様の所へ持っていくとき、イエス様はそれを父なる神様に取り成してくださるのです。天を仰いでそれを祝福してくださる。そのときに人は初めて豊かになることができ、またそれによって喜びと平安と望みを得ることができる。

詩篇127篇1節から5節までを朗読。

1節に「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」。これはまさに「主の祝福は人を富ませる」ことです。家を建てるとき、誰が建てる?現実には、工務店、あるいは大工さんにお願いして、頑張って建ててもらう。それが私たちの実際することです。だからといって、実は家を建てるのは別に大工さんでも、工務店の人、建築家でもなくて、神様に建てていただかなければ、「勤労はむなしい」。どんなに立派な豪邸を造ろうと、どんな素晴らしい家を造ろうと、神様の祝福がなければ、言い換えますと、主がそれを建ててくださったという、神様からの祝福としてそれを受けること、またそれを神様の栄光と帰するものとしなければ、どんなに人が立派なものを建てても、そこには喜び、安心、感謝はない。私たちの日々の生活のどれをとっても、神様からの祝福なくして、人が努力し、人の業と知恵で勝ち得たものは、やがて消えていくもの。いや、やがてどころかすぐにでも消えて、人を悲しみに陥れ、大きな失望と落胆を引き起こしてくるに違いない。その後にも「主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」とありますが、誠にそうです。最近、物騒な世の中になって、防犯なんとかといろいろ言われます。だからかぎを二つも三つも付けます。いくらそんなことをしてみても、泥棒が入るときは入られますよ。神様が守ってくださると信頼していなければ、鍵も役立ちません。

だから以前一人の姉妹が独り暮らしだったので、大変怖がって「独り暮らしで一軒屋だから、先生、お祈りしておいてください」と言われるので、「お祈りをしていますよ」と答えて祈っていました。「でも、かぎを二つ三つ付けているのですが、大丈夫でしょうか」と不安になる。不安が募ってくると、かぎを十個付けようと百個付けようと、安心しない。不安が押し寄せてくる。そのとき私はその方にこの言葉、「主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい」を贈ったのです。「神様から守っていただかなければ、あなたがいくらかぎを百個付けようと入るものは入りますよ」。だから神様に守っていただくこと、言うならば神様の祝福にあずかることです。これが私たちにとって何よりも大切です。だからと言ってかぎをしないで良いというわけではありません。もちろん、それはかぎもします。私の両親は時々牧師館のかぎを差したまま、忘れて一晩寝ておりました。翌朝教会員の方が来られて「先生、かぎが付いていますけれども……」。一晩鍵をかけず、それでも主が守ってくださった。だから、だんだん忘れっぽくなって、寝る前に戸締りをして布団をかぶった拍子に、また心配になって見に行くでしょう。二度三度、そして夜中にまたひょっとしたらと、気がついて行って見たら、閉まっていたことがあるでしょう。それほど念入りにしているけれども、ある朝起きてみたら「あら、誰が入ったのかしら」と思うくらい、かぎをかけないまま一晩過ぎている。

私もよく家内から言われます。教会ですから、幾つか入り口があります。あるとき、何かの拍子で、宅配屋さんか何かが来て、応対してそのまま鍵を忘れている。翌朝、家内が早く起きて開けたら扉にかぎが掛かっていない。「誰か来たのかしら? 」と。泥棒が入ったのではないかと、「いや、そんなことはない。閉めたはずだけど」、「あなたがしたでしょう」と、前の日のことを考えますと「あ、そう言えば、あの時宅配便が来たけれども、閉めなかったかもしれない」。忘れていても神様が守ってくださる。神様の祝福は、そのようなことです。だから、いくら自分が頑張ってみても、「守る者のさめているのはむなしい」とあります。「今晩一晩徹夜して頑張っていよう」と、皆さん起きていても、神様の祝福がなければ、泥棒も入るでしょう、火事も起こるでしょう。
ですから2節に「あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである」。素晴らしい約束です。「早く起き、おそく休み」、朝早くから起きて、夜遅くまで、日本の社会はまさにそのような社会です。まさに「早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べる」。「辛苦のかて」ですよ。つらい事、苦しいことを耐え忍んで自分の日々の糧を得てくる。それはむなしいことだと。だからでしょうか、世の中にはフリーターというのがはやりますけれども、どうも関係はないようです。神様の祝福にあずかることが大切です。それは、「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられる」からです。私どもはいつも自分の力でやっているのではない。神様が祝福してくださればできると、神様の手に、自分をささげることです。祝福を受ける道は、イエス様の手に一切をささげることです。ですから、何かしようとするとき、私がするのではなくて、神様、この小さな力しかない、知恵しかない私を、主よ、ささげます、あなたが用いてくださいと、イエス様の手に自分のすべてをささげて、委ねて、主が「せよ」とおっしゃること、主が導かれるところに従っていくとき、気がついてみたら「五つのパンと二匹の魚」で、なんと五千人という多くの人々が満腹して、しかも有り余るほどの結果を得るのです。

それは今も変わることはありません。「私はこんなだから駄目」、「あれだからできない」、「これはもう無理、こんなことは無理」と、自分を見ると確かにそのとおり。たった二匹の魚と五つのパン、こんなので何の役に立つか。ところが神様は私たちをいろいろな問題や事柄の中に置かれます。こんなに年を取っているけれども、しなければならないことがある。と言って、自分ではできない。そのとき何をするか? ここでこそ、主の祝福を求めること。そのためには、神様が今私を用いようとしてくださる。だったらイエス様、どうぞ、わたしを使ってくださいと、主の手に自分を握っていただくのです。そして「神様、どうぞ、あなたの祝福によって、この業を導いてください」と、祈りたいと思います。そうしますと、自分で気がつかないうちに、今日はこれをして、次はこれをして、言われるところに従って、神様の導かれるところをやっていきますと、事が終わってみると、自分はこんな事ができるはずではなかった。それが今ここにこうしているのは、主の不思議としか言いようがない。これが主の祝福にあずかった生涯です。

1節にありますように、「主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい」。私たちが一生懸命に「辛苦のかてを食べて」、朝から晩まで頑張って、頑張ってやったところで高が知れているのです。しかし、そのような小さな取るに足らない私たちでありますが、それをイエス様の手にささげていく。「主よ、こんな者ですけれども、あなたが用いなさるならば、どうぞよろしく導いてください」。主の祝福の中に自分を置くときに、イエス様がそれを握ってくださる。ご自分の手に握って「天を仰いで」、そして父なる神様に取り成してくださるでしょう。そのとき、私たちは気がつかないうちに神様の祝福にあずかる。その結果は主を褒めたたえる以外にない。感謝賛美する以外にない恵みの中に置いてくださる。

もう一度初めのマタイによる福音書14章18節に「イエスは言われた、『それをここに持ってきなさい』」。「それ」とは、「パン五つと魚二匹」であると同時に、私たち自身のことです。私たちも取るに足らない「パン五つと魚二匹」でしかないようなものであります。そのような私たちを「主よ、どうぞ」と、主の手に事がある度ごとに……、主の祝福を求める。「神様、どうぞ、これを祝福してください。あなたの祝福がなければ私には何もできません」。そこで主の手にささげるとき、神様はそれを豊かに満たしてくださる。そればかりか、あふれるばかりに神様は御業をあらわしてくださいます。その後19節に「そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し」、本当に「天を仰いで」主が祝福をしてくださる。「パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた」。ここで弟子たちが握っていたパンをいったんイエス様の手に渡す。そして、今度はイエス様の手から弟子たちの手に戻ってきます。この順番が大切です。皆さんが、私ができる、これは私の得意な分野、これは私がやれる、と思うのではなくて、あるいは、これは私には無理だ、これが私には足らない、そのような自分だからもう駄目だ、というのではなくて、どちらにしても、すべてを、イエス様の祝福がなければ、神様の祝福にあずからなければどうにもならない自分であることを認めて、「主よ、こんな者ですけれども、どうぞ、今この問題の中でどのように、主よ、あなたが導いてくださいますか。私はあなたの手に委ねます」と、まず、神様に自分をささげる。弟子たちの手からイエス様の手に渡す。そのように私たちも祈りをもって、自分を主の手にささげていく。イエス様が祝福をしてくだされば、見えるところはどのような状態であっても、どういうふうになろうとも、必ず、神様はそれに答えて祝福し、恵んでくださるからです。主の手に渡した上で、今度はイエス様から与えられたものとして、イエス様が託された自分として、自分は自分であって、自分のものではない。イエス様の手から受けた自分として、主が「行け」と派遣してくださる命令に従う。これが私たちの祈りつつ歩むべき道筋です。自分の考えや思いや願いばかり打ち明けるのではなく、まず神様の前に自分の足らないことを正直に認め、「たったこれだけのものですけれども、あなたの祝福をいただきたい。神様、どうぞ、これをささげます。主の手に握ってください」と、握っていただく。そして、主がそれを弟子たちに渡された19節の後半に「パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた」。弟子たちはイエス様の手から受け取る。足らない自分をイエス様から受けたものとして、感謝して、与えられた所で「せよ」とおっしゃるところ、「従え」とおっしゃる事柄を尽くしていくときに、自分では計り知れない、想像もつかない力を、神様はそこに満たしてくださいます。

恐らく弟子たちもそんなこととは露知らなかったのです。いったいどうなるかしらと、イエス様から渡されたものを配ってみたところが、結果として振り返ってみたら五千人もの人たちが満腹して、十二のかごになお余るほどに豊かな不思議に出会ったのです。

私たちの生涯でもそうです。いろいろな問題の中に、病気や事柄を私たちは受けます。そのときに「こんなんだから、もう仕方がない」と言わないで、「主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない」。大丈夫、主の祝福があればどんなものも最高のものに変わっていく。私どもは主の祝福を求める生涯でありたい。主の祝福の中に生きる毎日でありたいと思います。そのために、「それをここに持ってきなさい」とおっしゃる主の手に委ねる。「それをここに持ってきなさい」。どうぞ、皆さん、ご自分が今抱えて、もてあましていることがありますか。あるいは自分の力が無いから、お金が無いから、これが無いから駄目だ、と思っていることがありましたら、もう一度「それをここに持ってきなさい」とおっしゃる主の前に、「どうぞ、これを、すべて主のものです」と、心から主にささげきって、イエス様の手に渡し、主の祝福を求めて、今度は主から与えられたものとして、その主の御心に従っていこうではありませんか。そのとき神様は驚くべき業を、私たちをして現してくださるからです。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。






















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