ヨハネによる福音書15章12節から17節までを朗読。
16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。
私どもはこうしてイエス様の救いにあずかり、神様を信じるものとされました。これは当たり前のように思いますが、考えて見ると不思議なことです。殊に、日本はそのような風土、習慣がありません。もちろん、たくさんの宗教がありますが、イエス様を信じる人は誠に少ない。人口の1%未満とよく言われています。言われ続けて何十年となりますが、減りもせず増えもせず、希少な絶滅危惧(きぐ)種のような存在です。どうしてそんなものに選ばれたのだろうかと思います。自分がいろいろな宗教を回り巡って、調べた結果、これがいいに違いないと選んだのではない。物を買うときはあちこち値段を比べたり品物を調べたりして選びますが、信仰についてはそんな労力を費やして探し回ったわけではない。偶然といいますか、何かちょっとした切っ掛けから、気が付いてみたらイエス様に捕らえられていた。
昔、教会の表には路面電車が走っていました。電車の中から、一瞬パッと見えた前田教会に入って来たという方もいますが、それは実に千載一遇です。というのも、今は玄関の隣も駐車場になり、教会が目立つようになりましたが、表通りの間口は、ほんの3メートルかそこらでしょうかね、狭かったのです。電車がスーッと通り過ぎる瞬間にパッと見て「お!教会だ」と思って入って来たというのは宝くじ以上の確率だと思います。ちょっと居眠った瞬間に通り過ぎますから、不思議としか言うほかはない。あるいは人から誘われて義理で来たかもしれない。何か悩みがあって何とか救いはないかと思って尋ねてこられた方もおられるかもしれません。
昔教会にいたある方は、以前大阪に住んでいた。事情があって北九州に住むようになった。何とか教会に行きたいと願って、どこの教会にしようかと探した。経済的にも困っていたから、電車やバスに乗るお金がない。それで歩いて探し回って、お祈りをして、神様は私をどこの教会に導いてくださるかと、この周辺を歩き回った。何日も掛けて探しました。やっと、この前田教会にたどり着いて、話を聞いてみたら、何と自分が若いとき信仰に導かれた柘植先生の流れをくむ教会だった。水を得た魚のごとく大喜びして、教会の少し上の祇園町に家を借りて移って来ました。私も遊びに行ったことを覚えていますが、そうやって求めて、求めて来た人もおられます。しかし、それは実に限られた人たちです。
私たちはどうしてここへ来たかというと、神様のほうが導いてくださった。確かに切っ掛けやその糸口、人から誘われたとか、何かがあったことはありますが、実は、16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」とある。エペソ人への手紙にも、私たちがこの世に生まれないさきから、神様は私たちに目を留めてくださって、その時を定めてご自身のものとしようと「愛のうちにあらかじめ定めて下さった」(1:5)と記されています。私たちがまだ生まれもしない、この世にあってもイエス様のことを知らない私たちに神様はちゃんと目を留めてくださった。「この者を」と釣り上げてくださった。神様に捕らえられたのです。そして私たちは今、イエス様を信じる者としていただいた。これは本当に幸いなことだと思うのです。もし、神様を知らなかったら、イエス様を知らないで生きているとしたら、どれほど悩み多き、失望落胆の中を悲しみながら歩むだろうかと思います。そうではないでしょうか。私たちはお祈りをすることも当たり前、教会に来ることも当たり前、聖書を読むことも当たり前、当然のごとくしていますから、そのありがたみがだいぶ薄らいでいるのではないでしょうか。これは大変なことです。世の中にイエス様のことを知らない、神様を知らずに生きている方がたくさんいます。よくまぁ、生きておられるな、と思います。だから、何とかイエス様を信じたら、どんなに幸いかしらと思いますが、勧めてもみんな見向きもしない。そして苦しみを我慢して、耐え忍んでいる。その意味で私たちは本当に幸いな身分にあずかったと思います。どんなことでも祈ることができ、また求めることができる。
先だってもある方とお話をしていました。それは、お子さんに対して何をしてあげるか。私たちができることは何かと。家族を救うことはなかなかできない。いくら口を酸っぱく言ってみても、首に縄をかけて引っ張って連れて来ても、救いにあずかることは人の業ではない。皆さん、自分を考えたらお分かりだと思いますが、自分が人に説得されて「はい」「はい」と従う者ではないことはよく分かっています。それでいて「子供はそうあるべきだ」と思っているのは大間違い。私たちはみなそうなのです。自分がそうであるように人もそうなのです。だから、説得して、議論して相手を言い負かして、信じさせることができるならば、これは楽なものですが、なかなかそうはいかない。では、どうするか? 何とかして子供たちにこの信仰を持ってほしい。「どうすればいいでしょうか」と問われますが、「もちろんお祈りをして神様を待ち望むことが必要」と答えます。「その次はどうしますか、ほかにないですか」と続けて聞かれますが、「『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます』(使徒16:31)。だから、あなたが何に今頼っているのか、あなたにとっていちばんの大きな力の元はどこにあるかを語ってください。『信じなさい』とか『教会に来なさい』『聖書を読みなさい』『お祈りをしなさい』なんて言わなくていいから、私は今この神様を信じてどんなに喜んで感謝しているかを表しておきなさい」。それしかないですよ。あなたが救われて、喜びにあずかっている姿を子供たちは見ているのです。人生はそうたやすいものでないことは皆さんもご存じのとおりです。子供たちが今はおれの力で、若いから何とか、そんな神様なんかいらん、信仰なんかいらんと言っている人たちでも、やがて必ず50,60,70歳になるのですから、そのときに、もう一度人生の悩みに遭って、自分が無力で本当に小さな弱い者であることを知ります。いちばん身近な手本は親です。私たちが死んだあとでもいいですよ。子供は思い出します。「親父はこういうときどうしただろうか」と、皆さんもそうでしょう。若いときはあまり感じないが、60歳を越えてくると昔のことがよく思い出される傾向にあります。やはりこの年になったら、親はどんな気持ちだったかなと見えてくるのです。こういうときは母だったらこうするに違いない、こう言うに違いない。父親だったらこうするに違いない、あるいはこういうことを言うだろうな、と折に触れて感じる。親と別れて10年20年たっていてもそうですよ。だから、皆さんが言い残したこと、していたこと、歩んだことは家族の心の底の中に蓄えられて、やがて年月を経て地上に現れてくる。ああ、そういえば親があのとき、父親が、母親があの悩みの中で、お祈りをしていたとか、何を大切にしていたかが初めて力をもってくるのです。そのときはもう私たちはこの世にいないかもしれない。私の元気な間に、と思いますが、神様を信頼してその手に委ねることが大切です。だから、そのことを考えるなら、こうして信仰を与えられたことは、幸いな恵み、これに勝る宝はない。だからダビデは「測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た」(詩篇 16:6)と詠いました。神様を「わたしの嗣業、またわたしの杯にうくべきものです」(詩篇 16:5)と告白しました。私たちにとってもそうです。どうぞ、健康第一と思われるかもしれませんが、何と言っても神様第一ですよ。健康ももちろん幸いです。また、お金も必要かもしれません。しかし、この信仰を頂いたことは、どんなものにも勝る恵みであり、また大切な宝です。
16節にありますように「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」。私たちが気のつかないうちに神様のほうがご計画をもって私たちをここへ導き、今この喜びと感謝の中に生きる者としてくださったのです。いろいろな事には必ず目的があります。私たちが何かしようとするとき、何のためにしようとしているか、目的がある。もっとも、年を取ってくるとだんだん忘れっぽくなって、「あら、私は何をしにこの部屋に来たのかな」と、目的を忘れます。もう一度戻って何かやりながら「あ、そうだ、思い出した」となる。目的を忘れると、不安になります。神様が私たちを選び召してくださったのには、目的があります。私たちの側から言うならば「イエス様の救いにあずかって、神様を信頼して、御言葉を与えられて、日々神様の恵みの中に喜び感謝して生きる、本当に安心を与えられた」と喜びますが、もう一つ神様の側からの「わたしがあなたがたを選んだ」と言う以上、選んだ神様の目的がある。そのあとに「そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり」とあるように、私たちを選んだのは実を結ぶものとなるためです。実を結ぶとはどういうことか。それは神様が選んだ目的を果たすことです。その目的を成就する者となることです。「実」とは、「りんご」の木には「りんご」がなります。「みかん」の木には「みかん」がなる。「いちじく」の木には「いちじく」がなります。木にはそれぞれの実を結ぶ決まりがある。「りんご」の木を植えたところが「みかん」がなったと、「みかん」の木を植えたはずなのに「いちじく」や「なし」が実ったというのでは、これは違いますね。神様が「このために」と選んだ目的がある。その目的にかなう実を結ばなければいけません。「いや、それは神様の願いかもしれませんが、私としてはこの実を結んであげたい」と勝手なことをされたら、神様にとって大迷惑です。「わたしがあなたがたを選んだのである」と、何のためにか?その選んでくださった目的を知らなければならない。その目的を果たすこと、成就することが実を結ぶことです。結果が出ることです。では、私たちは何のために選ばれたのか?
コリント人への第一の手紙1章26節から28節までを朗読。
ここに神様の選びの基準があります。私たちが召されたときのことを考えてみなさいと。私たちは神様から選んでいただいて、これは有難い、誠に感謝なことですが、あの人ではなくてなぜ私なのか、この人ではなくてなぜ私が選ばれたのか。兄弟や親せき、叔父さん叔母さん、いろいろな人、家族がたくさんいます。その中でどうして私だけが神様を信じる者になったのだろうか。ひょっとしたら神様は私を高く評価してくれたのか、世間の選びから言うならば優れた者、少しでも役に立つ者、あるいは能力の優秀な者が選ばれる。だから、選ばれると、何かうれしいですね。何のために選ばれようと、選ばれさえすればうれしい。私が認められたのだと思いやすいのですが、そうではないのです。なぜかと言うと、26節「人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない」とあります。知恵のある者が多くはなく、権力のある者はいない。聖書はよく書いていますよ。「多くはいない」と。中にはいるかもしれないと、保留条件が付いていて、決して「いない」とは書いてない。身分の高い人も多くはない。つまり多いのは身分の低い者だということです。だから、私たちはみな、権力はない、力もない、身分もない。どうして、そんな世間の人々の選びと正反対なのか。それは27節に「それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び」、この世の愚かな者を選んだのは、神様が賢い人を貶(おとし)めると言いますか、賢い人間だと言っている人々を恥ずかしく思わせるために、あえて知恵のない者を選んだ。知恵のない者、弱い者を選んで、この世の知者であるとか、強いと言われる人々をして、「おれは強いと思ったけれどもそうではなかった。強い御方がほかにいるのだ」と砕くためです。おれは知者だ、賢い人間だと自慢していた人を、自分よりもっと知恵の豊かな神様がいることを悟らせるために、むしろ私たちを選んだ。ですから「この世の愚かな者」「この世の弱い者」「無力な者」「身分の低い者」「軽んじられている者」「無きに等しい者」をあえて選ばれた。そういう取るに足らない、役に立たない、この世の人から見るならば無きに等しい、有っても無くてもいいような存在、そのような私たちをあえて選んでくださった。私たちを通して神様の力を表してくださる。神様の「栄光を輝かす」という言い方をしますが、ちょっと分かりにくい。言うならば、神様がいらっしゃること、神様が大いなる力と業をなし給う御方である事を、人間を越えた力のある御方である事を明らかにするために、私たちをその材料として、その道具として選んでくださった。私たちは神様の力を表すために選ばれたのです。これが目的です。
コリント人への第二の手紙4章7節から11節までを朗読。
7節に「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている」と記されています。「土の器」とは、私たちのことです。無きに等しい者、無力なる者、身分の低い者、この世で軽んじられている、そういう存在。まさに「土の器」です。土の器は、土器ですから非常にもろい。何かにコトンとぶつかるとポロッと割れます。あるいは見栄えがありませんから大切な用事には使えません。割れてもいいようなもので、飾って見栄えのする陶磁器ではありませんから、台所の隅で使われるような物にすぎない。そのような私たちです。その土の器の中に「この宝を」とあります。宝とはよみがえってくださったイエス様です。よみがえってくださったイエス様が私たちのうちに宿ってくださった。イエス様が私たちの命となってくださった。私たちの力の源となった。救いにあずかった生涯は、よみがえってくださったイエス様が死をも打ち破る絶大な力をもって私たちのうちに宿ってくださっていることです。7節に「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」。神様は欠けだらけの器によみがえったイエス様を置いてくださって、神様の力が明らかにされて、神様はここにいらっしゃるのだと明らかにするために選んだ。そういう道具として、器として私たちは選ばれた。8節に「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」。誠にしぶといと言いますか、タフな生き方。「四方から患難を受けても」、私たちは前後左右から一気に問題に当たったら、すぐに倒れて立ち上がる力もなくなる、打ちのめされてしまうに違いない。しかし「四方から患難を受けても窮しない」。そんなことでへこたれる者ではない。よみがえったくださった主が私たちのうちにあって、私たちを強くして、私たちを支え生きる命を与えてくださる。そのことを表すものとして選ばれたのです。だから、この世にあって患難に遭わないことにはそれが表されない。世の人のように身分が高く、お金があって、才能があって、学歴があって、多くの立派な家族に恵まれて、誰が見ても、この人ほどのことはあるまいという様な生活だったら、神様の「か」の字も現れてこないでしょう。ところが、私たちのように無能無力で、無きに等しい者、何の力もない、風が吹けばすぐ倒れてしまいそうなひ弱な者に、次から次へと患難が来ても、喜び、感謝し、輝いていると、どうしてだろうかと不思議に思う。そういう存在として選んだ。だから、私たちは患難に遭うのです。悩みに遭うのです。そこでこそ、神様の力を表すときだからです。
モーセが燃えるしばを見て近づいたでしょう。「どうしてあのしばは燃え尽きないのだろうか」と。彼は常日頃見慣れていたと思います。野火と言いますか、乾燥地帯に突然静電気か何かで、木がパーッと燃えて、見ているうちにすぐ消える経験をしてきたと思います。ところが、それが消えない。「何でだろうか。どうしてだろう?」と近づいたとき、モーセに神様が「足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」(出エジプト3:5)と言われた。神様はそこでモーセを捕らえた。私たちはその燃えるしばです。だから、世の中の人と私たちは同じ悩みに遭います。クリスチャンだから特別悩みに遭わないかというと、そうではなくて、むしろ、もっと悩みに遭う。悩みもなく人がうらやむような生活なら、誰だって喜びます。ところが、喜べない、感謝できない、望みのない中にあって、なお「私たちには望むところがある」「私たちには頼むべき御方がある」「私たちを強くしてくださる御方がいらっしゃる」と、体現する、表す者として、実を結ぶ者として、私たちを立ててくださった。だから、病気になってへしゃげて、みんなと同じように意気消沈してしまっているのでは、これは困る。何とか格好をつけて、から元気でもいいから、「私はイエス様に救われたのだから、ここは泣いているわけにはいかん」と、泣き笑いしながらでも、輝くこと。とにかく、神様はそのような者として選んでくださったのです。だから、7節に「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって」と、悩みに遭ったとき、神様の力を表すものとして悩みの中に置かれているのですから、大いに感謝して、神様の力を求めるのです。「神様、死を打ち破った力をもって、私たちのうちに宿ってくださる主の力が現れてくださるように。神様、どうぞ、この弱虫である私を強くしてください。神様、あなたの力を現してください。あなたが私を選んだのはそのためではないですか」と、神様のはらわたを握って、体当たりをしていくことが大切です。私たちのすべきことは、問題と戦うのではなくて、選ばれた目的を果たすことができるように、結果を現すことができるように、神様に向かって、力を与えてください、この悩みの中から、困難の中から、絶望と思われる道なき所に、神様、あなたの業を現してください、私たちが切に主を求めていくことがただ一つの道です。私たちのできることはそれだけ。そうするとき、あのイスラエルの民がエジプトの奴隷の生涯から救い出されて、荒野の旅を始めましたが、紅海に直面して前には道がない。後ろからエジプトの軍勢がやって来ます。そのときに民は絶望しました。死ぬほかはないと思った。ところが神様はモーセに「あなたのつえを海に伸べよ」と言われる。何が起こるか分からない。モーセは言われるままに手を伸べた。何と、海の中に乾いた地が現れた。渡り終わったときのイスラエルの民は何と言って感謝したか。「誠に神様はすごい方だ」と言ったのです。神様の力が現された、まさにそうです。神様は私たちをそういう者として用いて、神の力を現そうとしています。
コリント人への第二の手紙12章7節から10節までを朗読。
パウロが自分の肉体にとげがある。彼は一つの肉体的な弱さを持っていた。これがなければ、神様、あなたのためにもっと役立つと思ったのです。そうやって祈った。「神様、どうぞこのとげを取り除いて、私を強くしてください」。そのとき神様は何とおっしゃったか、9節に「わたしの恵みはあなたに対して十分である」。お前はそれでいいのだよと、欠けていていいのだ、足らなくて大丈夫。私たちもそうです。いろいろなことで不足を覚えます。もう少し私に元気が出たら、もうちょっと十年若かったら、あれもできる、これもできる。神様もう少し私を若返らせてほしいと思います。しかし、神様は「それでよし」とおっしゃる。そのあとに「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。神様が働いているのですから、神様が私たちを用いてくださる。神様は私たちを動かしているエネルギー、力の源ですから、その主の霊に私たちが満たされていれば、どんなこともできる。私たちが弱ければ弱いほど、神様の力が、まさに神の力であることが明らかになる。私たちが有能で、力があり、世にあっても賞賛され、みんなから注目されるような私たちであったら、どこに神様の力が見られるでしょうか。人からは褒められるに違いない。しかし、それでは神の栄光を現すことができません。詩篇115篇には「主よ、栄光をわれらにではなく、われらにではなく、あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、ただ、み名にのみ帰してください」と歌っている。私が褒められるのではない、私がたたえられるのではない、私が認められるのではなくて、神様、あなたの栄光を現してください。これが私たちの使命であり、私たちの目的であり、私たちが結ぶべき実です。そのために立てられている。だから、私たちが弱ければ弱いほど感謝したらいいし、またその中から神様は力を現そうと言われるのです。そのことを悟ったパウロは9節後半に「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と。「弱さを誇る」とは世間と正反対です。世の人々は弱さはできるだけ隠す。自分は強い人間、どこにもすきがないように、絶えずよろいかぶとをかぶって、張子の虎のごとくしておかないと、押しつぶされますから、「おれは強い。強い」と格好をつける。そうして弱さを隠そうとする。それは誇るものではない。ところが、パウロはそうではない。「私たちは弱さを誇ろう」と。私は弱いなと思ったら感謝したらいい。「そこから、神様が私を通して神様の業を行ってくださる。神様が力を現してくださるから大丈夫です」と、神様に結びついていくことに努めていきたい。何とか元気になろう、筋力トレーニングをして、少しでも頑張ろうかと、そんな必要はない。一生懸命になるべきは、私たちの弱さを認めて、神様の力を求めることです。「汝の能力(ちから)は汝が日々に需(もと)むるところに循(したが)はん」(33:25文語訳)と申命記にあります。神様の力は求めるところに答えてくださる。パウロはピリピ人への手紙に「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(4:13)と告白しています。主が「よし」と言われるならできないことはありません。「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」(マルコ10:27)。なんでもお出来になる御方が、私たちと共におると言われる。私があなたの中で、あなたに力を与えて、わたしが神であることを証詞する。だからお前を選んだよと。どうぞ、今日そのことを感謝したい。
ギデオンがミデアンびとの目を避けるために酒ぶねの中に隠れて麦を打っておった。士師記にそう記されています。そのとき、神の使いがやってきて「大勇士よ」とギデオンを呼ぶ。ギデオンは「神様、あなたはかつてイスラエルの民を守るとおっしゃったのにどうしてですか。今はミデアンびとからやられっぱなしで、自分たちはこんなつらい思いをしています」と、神様に文句を言った。すると「わたしはお前を遣わす。お前の持っているその力を持って出て行きなさい」と。持っている力って、ギデオンにはないのです。そのときに神様は「わたしがあなたと共に行くのだから」と、お前の力がないならないでそれでいい、そのわずかな力でいいからそれで行きなさい。あとはわたしが足(た)してあげるから、わたしがあなたと一緒に行くのだからと。彼は戦いに行く人を集めましたら、3万人か4万人かの人が集まりました。神様は「多すぎる」とおっしゃいました。「多すぎる、減らせ」と、「命の惜しい者、家族の恋しい者は帰りなさい」と言ったら、減ってしまった。1万人ぐらいになったのでしょうか。「これでいいでしょうか」、そのとき神様は「まだ多い」と、それでとうとう300人になった。神様は「それでよろしい」と。なぜなら、もし人が多かったら、やはり人数が多かったからこの戦いに勝ったと言うでしょう。神様の力とは言えない。ところが、たった300人で敵に立ち向うため、神様はいろいろな作戦を与え、知恵を与えられた。そしてついにミデアンの軍勢に勝利を得ました。神様は弱い者を求めていらっしゃる。強い者はいらないのです。だから、私どもは感謝したらいいですね。弱く知恵のない、力もない、今この事はどうしたらいいでしょうか。この問題はどうしたらいいでしょうか。この病の中で私はどうしたらいいでしょうか。もう何にもできない、だからこそ、すがる以外にない。神様を求める以外にない。それが私たちのなすべきただ一つのことです。神様を求めて「どうぞ、神様、あなたの神様らしい力を現してください。私には力が足りません」と。主に信頼していきたいと思います。そうするとき、神様のほうが業を行って、神様が勝利をとってくださるからです。
ヨハネによる福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた」。「私たちを立てた」と言いますのは、それぞれのところに遣わしておられるという意味です。家庭に、職場に、地域に、いろんな所に私たちを遣わしてくださる。「それは、あなたがたが行って実をむすび」、私たちは遣わされた所でいろいろな問題や事柄に遭い、悩みに遭います。世の人と同じです。「あなたがたは、この世ではなやみがある」(ヨハネ16:33 )とおっしゃる。本当に悩みに遭います。しかし、だからといって、世の人と同じようにへしゃげてしまったらおかしい。世の人が「もう無理だ」「もう駄目だ」「もうおしまいだ」と言うところで、「いや、大丈夫。私たちには神様がいらっしゃるではないですか」と立っていく。パウロがローマに船で連れて行かれるとき、難船しました。三日三晩大嵐に遭いました。そして「もうみんな生きる希望を失った」と記されています。食欲もなくなった。そのとき、一人元気な者がいた。それはパウロです。「あなたがたは元気を出しなさい。食事をしなさい。私の仕えている神様がこうおっしゃっている。『決して命を失うことはない』と。だから、元気を出しなさい」。みんなしょげ返っていたとき、パウロはそう言った。パウロが強かったのではない。パウロはご存じのように肉体にとげのある弱い者です。しかし、彼の中に神様の力が宿っている。神様が共にいてくださるのです。だから周囲の者を、沈み込んでいた彼らを励まし、元気づけて、食事をさせて、やがて船がマルタ島に漂着した。神様はパウロの信頼に応えて、パウロをしてイエス様の福音を宣(の)べ伝える大きな業にあずからせてくださる。
私たちも、今この弱い小さな取るに足らない無きに等しいものであります。次から次へと、もう結構というぐらいに悩みや苦しみがやってきます。患難といわれるものに追われます。しかし、そこで一緒になって倒れるのでしたら、希望を失うのでしたら、イエス様はいらないのです。私たちはどんなことでもなし得る力ある御方、その御方の力によって立っていくのです。
16節の後半に「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである」。だから、私たちは主を求める、神様の力を求め、神様の業を求め、神様の御心に従い得るように、神様の命を、霊を豊かに頂くことを求めていく以外にない。もちろん、私たちの受けている悩みや悲しみ、どんなものも木っ端みじんに取り除いて、私たちに勝利を得させてくださる。私たちは弱いけれども、弱いときにこそ強いのです。この神様の力を私たちが味わい、また証詞し、現していく日々でありたいと思う。
みんなが泣くところで泣いてしまっては駄目ですよ。みんなが泣くところでは頑張って、神様にすがってその力を体験していきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。