マタイによる福音書6章1節から8節までを朗読。
6節「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」。
今お読みいたしました1節から8節までの所に、私たちの信ずべき神様は目に見えない御方だと語られています。世間にも神や仏と称するものはたくさんありますが、大抵ご神体とか、あるいは仏像とか、これが神だと称する具体的な物があります。時にはこんなものがと思うことがありますが、信仰を持つ人にとっては貴重な物であるかもしれません。鏡であったり、突然変異の白蛇であったり、キツネであったり、いろいろなものがご神体になります。
ところが、聖書を通して語ってくださる真(まこと)の神様、天地創造、万物の主である御方は、私たちの目には見ることができません。そのために多くの人々は、神様なんかいないのではないか、見えないものは存在しないと考え、それが常識のようになっています。ですから、おのずから見えるものに心を向けやすい。殊に周囲にいる人々、人からどう思われるとか、人にどう接するか、人に対して何をするかという、いわゆる人と人との関係、横の関係です。そこには目に見えない神様と私という縦の、垂直の関係が消えてしまう。そのために自分がどこへ向かっているのか分からないでおります。平面だけを見ていると決して正しい生き方はできません。
私たちは地図の上でどこか新しい場所を探したり、あるいは旅行をしたりするときに地図を見たりして動きますが、たとえ地図があっても自分が北に向かっているのか東に向かっているのか、これは分かりません。太陽の動きを見れば分かりますが、それが見えない曇った日などは困ります。外国に行き、街角に立って、自分はいったいどっちに向かっているのだろうか。東だろうか西だろうか、地図は持っていても分からない。家内がいつでしたかパリに行ったのです。一緒に行っていた麻衣さんと別れて、独りでそれぞれ好きな所へ行こうと、家内は独りで歩いて道に迷ってしまった。すると、そこに案内地図の看板があった。家内はそれをジッと見ているけれど、さて、どっちに行けばいいのか、北なのか南なのか分からない。そのとき、たまたまそこに別の外国の旅行者、ドイツ人かどこかの人が通りかかって尋ねたところ、あなたが居るのはここだから、この道でこう行って次を曲がれというようなことを教えてくれた。地図を見ながら「ここだ」と。それでやっと分かったというのです。私どもは平面の生活だけをしていると分からない。
船が大海原を目的地に向かって進んで行きますが、海の上は前後左右を見回しても何も見えない所があります。日本の近海を船で行く場合には島影が常にあちらに見え、こちらに見えしていますから、自分の進む位置が分ります。太平洋の真ん中に行くと右に行くのか左に行くのか分からない。水平方向と言いますか、平面方向での自分の位置は分からないのです。そうなると、垂直です。星を見、太陽を見、動かない星の位置と自分とを測って、自分の場所を確認する。また飛行機でもそうだと思いますが、最近はGPSという素晴らしい便利なものが出来ました。私たちも車のナビゲーションで使います。空高くに打ち上げられた人工衛星からの電波を受け、自分の位置が北緯とか東経何度というきちっとした位置情報をGPSから受けて、自分の場所が分かるのです。正しい道を歩んでいく、間違いのない道筋を行くために必要なのは横の関係ではありません。
人生も同様です。人間が生きていく上で、自分は今正しい生き方をしているだろうか、あるいはひょっとしたら間違っているのではないだろうか、といって周囲を見ると、人が同じ事をしている。「あの人があんなにしているから付いて行こう」「この人はこのような生き方をしているからそれに倣(なら)っておこう」。いわゆる物まねと言いますか、人まね、人の様子を見て、自分の事を決めようとしますが、果たしてそれが本当に正しいかどうか、これは分かりません。日本人は特にそうですが、みんながするからするということで判断します。自分では分からないからです。お葬式があると、「先生、今度お花料は幾らぐらいしたらいいでしょうか」と訊(き)く。「あなたがいいと思う金額にしなさったら」と言ったのです。「いや、でも高くてもよくないし、低くても悪い」と言う。「多いのは別に構わないのではないですか」と言ったのです。本人が構う、困るわけです。そうするとすぐ何と言うか。「じゃ、誰々さんに訊(き)いてみます」と言う。「人に訊かなくても、ご自分がこうと思ったことをなさったら」と言うのですが、ほかの人に「あなた幾らするの?」と訊いて、それでもまだ自分の思惑と納得しないと、また別の人に訊く。何かをしようとするとき、「人はどうしているだろうか」「あの人はどうしている? 」と前後左右を見る。生きているのは他人(ひと)のためでも、誰のためにでもない。私たちは正しい生き方をするように、神様によって造られてこの地上に置かれているのです。だから、人を見て自分が正しい道を歩んでいるとは言えない。民主主義はある面ではいいのでしょうが、別の面で間違いを犯します。多数決と言いますが、たくさんの人が行くから正しいとは限らない。
私たちの正しさは神様によるのです。垂直の関係です。神様と私という、その関係の中から初めて自分の進むべき道、正しいあり方、それが決まってくる。だから、何かしようとするときに、私どもはいつも「神様、これはどうしたらいいでしょうか」と、神様に訊(き)くことがもっとも大切なこと。だから、神様を信じなければ、私たちは正しい、人としての本来の生き方はできません。ところが、世間の人々は神様を知りませんから、勝手に自分で神というものを作っていますが、それは真(まこと)の神様ではない。人と人との関係の中で出てきたことです。
天満宮という神社がありますが、そこのご神体は天神様です。天神様とは菅原道真公のことです。昔、千年ぐらい前に生きた人物です。ただ彼は和歌だとか歌を詠むのが得意で、筆がよく立つ、達筆であったとも言われています。私は会ったことも見たこともありませんから、聞いた話です。その方は京都のお役人だったのでしょうけれども、左遷されて太宰府政庁へと送られてしまった。そこで不遇の死を遂げたのです。その後、彼を祀(まつ)って学問の神様にしてしまったのです。私は神様の作られていく様を考えると、人間が自分の都合のよいもの、自分が求めているものを神様にしていくことが良く分ります。受験競争が激しかったり、学校でも勉強があまり芳(かんば)しくないと、何かそれを助けてくれるものはないかと思って考えてみたら、菅原道真さん、そうだ、あの人を神様にしておこうという話になる。そういう形で神仏と言われるものの大部分は人間の不安だとか、自分の恐れだとかが投射される、反映された一つの形、あるいは考え方が神、あるいは仏というものに変わっていく。そこには人を超えた、真っすぐな上下の関係、垂直関係はありません。不安を感じ、恐れを感じるから、それを補ってくれる、助けてくれるものとしての神様を作り出す。これは人と人との関係の中から生まれてくる神ですから、人を超えた大きなものにはならない。商売繁盛のえびすさんでもそうです。商売がうまくいくように、自分が一生懸命に努力しても、景気不景気しょっちゅう不安定な生活を強いられるから何とか気持ちを安定させてくれる神様はないかと考えたら、そういう神様が出来上がった。そのように人の不安とか、願望とか、欲望とか、そういうものが投射されて出来る。人の正しい道は出てきません。そのためには、私と神様という関係でなければ、それは成り立ちません。だから私たちにとって、真(まこと)の神様がいらっしゃることが大切だし、それを抜きにしては有り得ないことが分かります。その神様は残念なことに私たちの目には見えないのです。なぜなら、神様は私たちにすべてを現すほど小さなものではない。神様が見えないことは、取りも直さず、神様は私たちよりもはるかに大きな御方だという証詞です。だから、見える神様だったら、私たちが見て、頭から足まで「これが神様か」と、全部知り尽くすことができます。それは本当の神様ではありません。しかし神様は結果によって私たちにご自身を現してくださいます。神様がいらっしゃるから、この森羅万象が造り出され、私たちもここに存在する。実は、今日こうして生きていること自体が神様の力と神様のわざによるのです。それを信じることが、神様と私という縦の関係を築く第一歩です。だから、私たちの毎日の生活の中でいちばん大切なのは、神様との関係、垂直の関係を正しく整えておくことです。だから、まず、私たちの目には見えないけれども、神様がいて、私たちを造り生かして、今日も命を与えてくださっておられることを信じましょう。
だから、6章2節以下に「だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。3 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。4 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」。ここに「施しをする時」と言われています。いわゆる慈善をする。善行功徳(くどく)をするわけです。善い事をするのですから、隠す必要はありません。悪いことをするとき、人に隠れて、見られないようにしますが、善い事をするときはできるだけ多くの人々に知ってほしい。こういう思いが人にあります。それは横の関係です。だから、何か善い事をするときみんな名前を言います。
私の知っている方がある町に引越しをしたのです。田舎の町ですから、町内会が非常に強固。4月に転勤でそこへ行ったのです。まず年度の初めに町内会の総会がある。その総会に新参者、移り住んだ人は必ずお酒2升を持って行かなければいけない。いわゆるこれからよろしくというわけです。世話役の人がやって来て、「実は、この度こちらにお住みになられるそうで、ついてはこの町内会に入ってもらわなければなりません。それで今度紹介をするから、酒2本と金一封を持って来るように」と。それが仕来りならというわけで持って行って、そっと裏側から係りの人に渡した。すると大喜びで「こんなにしてもらって」と。要求されたのにそのように言うのです。総会が始まったら、「ちょっと皆さんにご報告申し上げます。この度何々さんがこの町内に入って来られました。つきましては何々さんからこういう物を頂きました」と、持って行ったものをみんなの前で見せるそうです。そうすると、みんながやんや喝采(かっさい)をして、「よう来た」となって、何とか入門式が終わった。そのように何かもらうと、善い事をしてもらうと人に見せるではないですか。
教会でも時にそういう事をする方がいます。「これをみんなで食べてください」と持参すると、「皆さん!このお菓子、この方からもらいましたよ!」と公表する。これは駄目です。そこに「施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな」とある。「ラッパを吹きならすな」と。だから、そのような善い事をするときにはできるだけ隠しなさい。なぜ隠すかと言うと、4節「それは、あなたのする施しが隠れているためである」。ところが、あるとき「先生、私はこういうことをしたいのですけれどもいいでしょうか」、「どうぞ、してください」。その方が「この事は皆さんに言うべきでしょうかね」と言ったから、私は「いや、せっかくなさるのなら、神様の前になさるのだから、それは黙っておいて誰も分からないようにしてください」と言ったら、「え!言わないのですか」と言うから、「ええ、言いませんよ」と言ったら、「じゃ、やめときます」と言われました。どちらかというと、善い事はみんなに見てもらい、褒められたいのです。
それは駄目だと聖書は言う。なぜなら4節「それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」。私たちがする事の一つ一つを見ておられる御方、神様がいらっしゃることを信じれば、神様からの報いを期待します。それが大切です。神様を知らない人にとっては、「え!誰にも分からないようにするのですか、じゃ、やめときます」という話になる。善い事をするのだったらみんなに知ってほしい。私がこんな善い事をしたんだよと、みんなに見てもらいたい、そして褒められたい。ところが、聖書には褒められたらおしまいだと書いてある。なぜなら、もう神様の報いを得られない。神様からの報いがなかったら、人から褒められただけだったら、すぐに消えてしまう。ところが、神様からの報いは天に宝を積むのです。これは大きな違いです。まだ間に合いますから、できるだけ天にたくさん宝をためてください。それは「隠れた事を見ておられる」神様を信じることです。これは大切なことです。
世間で夏祭りだ何だとお祭りがあったりすると、神社などでは誰々さんが金何々と金額を書いて札を出します。金額の高い人からズーッと来て、下のほうになると一金千円とか、五百円とかがズラーッと並んでくる。そのくらいになると札も狭くなるし、文字も小さくなる。これは世間からの報いです。私はあれを見るたびに、この人は偉そうに一千万円とかして、自分はたくさんしたつもりだろうが、何のことはない、自分の財産を費やしたわけでもなし、明日から食うに困るでもなし、小遣い銭の一部をちょいとやっただけでしょう。だから、あんなものは名誉でも、なんでもない。かえって「恥さらしだな」と思います。名前まで書かれて、「え!この人は、たったこれだけしかしないのか」と思われるだけの話です。
だから、4節「それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださる」。「あなたの父は」と、私たちのお父さんでいらっしゃる神様が報いてくださる。ちゃんとそれに答えてくださる。神様を信じるとき、神様がちゃんと報いてくださる、答えてくださることを信じるのが大切です。私たちの生活の一つ一つ小さなことからどんな大きなことまで、神様が報いる御方、今も生きて働いてくださる御方であると信じて、その報いを期待する。
旧約聖書を読みますと、エリヤがアハブ王様の時代に、真(まこと)の神様を捨てたイスラエルの民にもう一度目を覚まさせようと、三年間にわたって旱魃によって飢きんを起こされました。雨が降らなく、収穫が途絶えてしまった時があります。そのとき、神様は預言者エリヤをいろいろな方法をもって養い、やがて最後にカルメル山でバアルの神に仕える預言者と対決する勝負をしました。エリヤは「わたしの仕える万軍の主は生きておられる」と告白しました。言うならば、呼べば答えてくださる、応答してくださる御方だと信じたのです。だから、バアルの預言者との一騎打ちをするとき、カルメル山に登ってきて、祭壇を築いて、そこにたきぎを置き、ほふったいけにえの牛を置いた。そしてバアルの預言者に「火をもって答える神を神としましょう」と。それぞれ自分の神様にお祈りをして、答えてくださる神様を真の神様にしようではないかという提案です。それでバアルに仕える預言者450人が、朝から晩まで熱心にお祈りをした。自分の体に傷を付けてまで祈ったと書いてあります。ところが、ウンともスンとも言わない。朝から夕暮れになって何にも変化がなかった。そのあと、祭壇を築き直してエリヤが神様に祈ります。「神様、どうぞあなたが神であることを証ししてください。この人たちにあなたの力を見せてください」と。そうしましたら、瞬時に天から火が下って、目の前に置いてあった犠牲の動物もたきぎも、念を入れて水を掛けておいたのですが、その周囲の溝の水までも干し枯らしてしまう神様の素晴らしい答えを頂いたのです。とうとうそこでバアルの預言者を殺しまして、エリヤは勝利を得ます。
今もその神様は変わらない御方です。人を信じる、あるいは目に見えるものを信じるのではなくて、私たちを造り生かして今も答えてくださる、生きていらっしゃる御方、この方を信じていく。だから、5節「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」。今の時代はこのようなことはないと思いますが、イエス様の時代にはそうやって自分の宗教的な熱心さをみんなに見てもらいたい、賞賛を受けたいために、町のつじ、つじでお祈りをする。時にそういう方に会うこともあります。「ちょっとお祈りをさせてください」と。何事かと思ったら「光の何とかです」と、ややこしい宗教の人がいますが、そのように人のために、人のことのためにやるのではない。祈るとき、誰を、何を信じて祈るか。神様を信じて祈る。だから、神様を信じないと祈れません。人前で格好をつけてお祈りすることはできますが、本当に独りになって祈るには、信じなければ祈れません。また、そこで祈ることが実は本当の祈りでもあります。だから6節に「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」。お祈りをするとき「戸を閉じて」と、自分の部屋に入って声がもれないように戸を閉じて、「そんなにしたら困るな、聞いてもらわないかん」と。時々そういう方がいらっしゃる。教会の方で私の知っている方ですが「先生、この間、たまたま息子が家にいたから『一緒にお祈りをしよう』と言ったら、付き合ってくれましたので、私はこのときとばかり息子に言いたいことをお祈りしました」と言う。「息子に言いたいことをお祈りするって、どういうことですか」と言ったら、「いや、もっと親を大切にするように、愛に満ちた心になるように、そして夜は早く帰って来るようにと祈りました」と言う。「祈ったと言っても、それは息子に聞かせたのではないですか」と。「そういえばそうですけれども」との返事。それはお祈りとは大違いです。皆さんもちょっと正面切って文句を言いにくい相手がいると、「ちょっと、一緒にお祈りしましょう」と、相手のことを祈るつもりで、がんがんしかっていたりする。よく気をつけていただきたいと思いますが、ここにちゃんと書いてあります。「自分のへやにはいり」、「いや、私は自分の部屋がありません」と。だったら、トイレがいいですよ、自分の部屋ですから。「戸を閉じて」ですよ。そして「隠れた所においでになる」、見えない御方が見ていてくださる、聞いていてくださることを信じる。これは私たちの大きな恵みであり特権です。
祈りますと、そこに「すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださる」。私たちの父なる神様はそれにちゃんと答えてくださる。私たちがこの神様を知る、神様に触れるには祈りを通してしかできません。だから「神様がいらっしゃるかどうかよく分からない」という人は取りあえず信じて、取りあえずというのはおかしいけれども、信じて戸を閉じて祈ってください。どのように祈るのかと、よく訊(き)かれますが、日本語がしゃべられたらそれでいいのです。祈りの方法など別にありません。確かに、私たちはお祈りしていて、いくら自分で言葉を尽くして祈ってみても、何かまだ十分でない不足を感じます。心の思いを全部言葉に言い表し得ないものがあります。しかし、神様は私たちの発する一言で、その10倍も20倍もその奥をくみ取ってくださるのです。だから、どうぞ「ああ、今日はこれだけしか祈れなかったから、また明日続けるか」と、そんな心配はいりません。一言「天のお父様。私はつらいです」とか「悲しいです」とか、あるいは「これはどうしましょうか」と祈る。その言葉の背後にある私たちの見えない心の奥までも神様はくみ取ってくださる。御霊なる神様は私たちの思いを知って、父なる神様に執り成してくださる御方。だから、私たちはまず密室、隠れた所にあって、朝ごとに、ぜひ神様と交わりを持っていただきたい。いつでもいいのです。今という時、主が備えられたその時にどうか、まず独りになって、神様と一対一、相対して、信じて祈っていただきたい。これは私たちの命です、力です。イザヤ書に「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」(40:31)と書かれていますが、「主を待ち望む者」とは、まさに、祈ることです。だから、私たちが「ああ……」とため息をつくような日々がある、あるいは何か元気が出ない、何か心がうつろな思いがする、そういうときこそ、隠れた所にいらっしゃる神様を信じて「自分の部屋にはいり、戸を閉じて」、神様に思い切り自分の思いを打ち明けるのです。黙ってお祈りしていたら気がつかないうちに眠ってしまいますから、声を出して祈る。独りで祈るときでも「戸を閉じて」ですから誰にも分かりません。声を出して祈る。私もいつもそうしますが、そうしますと、声で祈るとその自分で祈った祈りを耳で聞きますから、祈りに集中できるのです。黙ってお祈りしていたら「あと何をしようか」とか、ほかのことを考えてお祈りが迷い子になりますから、必ず声を出してきちっとお祈りをする。そうすると、私たちの心に神様の霊が注がれて力が与えられます。今まで望みがなくてしょ気ていた心が少し明るい心に変わって、神様は私たちの思いをつかんでくださる。命を与えてくださる。これが私たちの恵みです。そのとき、具体的な問題や悩みに変化がない、動きがないことももちろん、そのとおりであります。しかし、神様は私たちの心に平安を与えてくださる。だから、ピリピ人への手紙に「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(4:6~7)とあります。平安を与えてくださる。神様の安きを与えてくださる。そのあと具体的な私たちが持っている問題のことごとくをきちんと解決をつけてくださる。これは確かです。人に頼まなくても、自分が右往左往走り回らなくても、神様に祈る。そして、神様は祈ったことに必ず答えてくださると信じますと、そのように神様は答えてくださる。
だから、お祈りしたことをメモして、祈りのノートを作って、何月何日何と何を祈ったと記録する。そうしないと祈ったらすぐ忘れて、何を祈ったか訳がわからなくなる。そうすると、本当に神様が答えてくださったことかどうかが分からない。
時々そういう方がいます。「先生、このことについてお祈りしてください」と言われて、お祈りをしている。しばらくして、その方に「あの問題はどうなりましたか?」「え!何ですか」と言う。「いや、お祈りしてくれと、こう言われたじゃないですか」「ああ、あれはもう終わりました」。お祈りをしてもらったら、「神様、このようにあなたがしてくださいました」と感謝の祈りをしないからそうなるのです。というのは、自分が祈ったことを忘れているからです。ある方にそのことをお勧めしたら、その方は忠実にそれから毎朝祈るときに、何月何日、今日はこのことについて、あのことについてと、書いている。そうしたら先だってお会いしたら、「先生、あれはいいですね」と、「1年前2年前のノートを振り返ってみると、一つ一つ思いがけない形で終わっているのです。それを知るたびごとに神様、感謝でしたと、感謝があふれます」と言う。そうですよ。皆さん、この7ヶ月の旅路を振り返っただけでも、お祈りをしたことを覚えていますか? だいぶ忘れているでしょう。「あれはちょうどそうなるべき時が来てたんや。私がお祈りせんでも成っていたかもしれない」とか、そんないい加減になってしまうと、せっかくの恵みである感謝の卵を失います。だから、祈るとき、きちっとそのことを感謝して祈り、また祈ったことをメモして、あとになって振り返ったとき「主よ、これもあなたが祈りに答えてこうしてくださいました」と感謝したいと思います。それが天に宝を積むのです。
6節「すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださる」。神様がちゃんと報いてくださるのですから、この神様を信じて、ひそかに祈り続ける者でありたいと思います。この御言葉の約束を信じて、いつも神様と私の時間を必ず取ろうではありませんか。家族とのだんらんもいいですが、それよりも神様とのだんらんの時です。密室の交わりの時を持ち続けていくとき、そこに思いがけない、考えもしない大きな神様の恵みが心に注がれる。私たちの魂を生き返らせ、命にあふれさせてくださるからです。
どうぞ、この御言葉を心に置いて、いつも隠れたことを見ていてくださる見えない御方がいらっしゃることを信じて、その神様に私たちの思いを、心を注ぎ出していきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。