いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(222)「神に喜ばれる信仰」

2014年06月07日 | 聖書からのメッセージ

 ヘブル人への手紙11章1節から6節までを朗読。

 

 6節「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」。

 この11章には、「信仰とは」あるいは「信仰によって」という言葉が繰り返して語られています。言うならば、信仰によって生きた人々の証詞です。今読みました所にも、アベルのこと、エノクのことなどが記されていますが、7節以下にはノアのことやイサク、ヤコブまたアブラハムのことが取り上げられています。そして、それぞれに「信仰によって」という言葉で語られています。「信仰によって生きる」こと、信仰によって生きた人々の列伝です。

 

では、彼らが生きた信仰とは何であったか? ということですが、6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」とあります。神様が喜んでくださるのは、私たちが信仰によって生きる者となることです。11章の前半で信仰によって生きた人々が語られていますが、それは神様が喜んでくださる人々でもあります。また神様を喜ばせる人々でもあった。神様に喜んでいただくとは、どうすることか?と、私どもは考えます。人を喜ばせるとき、何か相手の気に入ったことをしてあげる、あるいは喜ぶことをしてあげたいと思います。そして、何がいいだろうかと、プレゼントをしてみたり、その人の役に立つこと、喜ぶことと、いろいろと気を使います。でも、相手が何を望んでいるのか、何を喜ぶのか、なかなか難しい、分からない。そうなると結局、自分が好きなものをやっておこうとなる。神様が喜んでくださるのは、私たちが何かすることを神様は喜ばれるわけではない。

 

詩篇50篇7節から15節までを朗読。

 

7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす」。わたしはあなたに向かって、わたしがどういうものであるかを明らかにしましょうと、神様はおっしゃる。「わたしは神、あなたの神である」。わたしは神であると言われる。そして8節に「わたしがあなたを責めるのは」と、神様が私たちを責めるというか、私たちに不満があるのです。言うならば、私たちに神様が気にいらないところがある。それは「あなたのいけにえのゆえではない」とあります。神様が私たちに願っていること、私たちに求め給うのは、私たちが神様に対して犠牲、献身や何かをもって神様に喜んでもらおうとすることではないと。このときイスラエルの民は決して神様を忘れたわけではなかったのです。神様のことを知らないわけでもありません。それどころか、神様の喜ばれるようにと、律法に従って、燔祭や罪祭の犠牲を持って、神様の前に出たのです。神様にささげ物もしました。そのことでは一つも欠けるところがなかった。「あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」とあるように、あなたがたは忘れることなく、欠かすことなく燔祭をわたしのためにささげてくれた。だから、わたしの前にあなたがたのささげ物たる燔祭、すべてを主のものとしてささげるささげ物はいつもそこにある。ところが、あなたがたにはわたしを神とする思いがない、言うならば信仰がない。神様を神様として信じることをしない。そのあとに9節以下に、世界とその中に満ちるものはすべてわたしのものであって、わたしは何一つ不自由しない、不足するものではない。人から助けられなければならないものではないと神様は言われる。たとえわたしはおなかがすいて飢えたとしても、あなたがたから養ってもらうような小さなものではない。神様を神様とするとはどうすることか?言うならば、あなたがたに信仰を持ってほしいということです。

 

ですから、14節に「感謝のいけにえを神にささげよ」と歌われています。「感謝のいけにえ」と言われると、献金でもするのかなと思いますが、そのような意味ではありません。「感謝のいけにえ」とは、神様に対する感謝の心をささげること、思いをささげる。言うならば、神様が主であり、神様として力ある御方がすべてのものを備えて私たちを生きる者としてくださっていること、私たちの存在の一切をもって感謝するのです。これが「感謝のいけにえ」です。私たちは神様から恵まれて、神様の憐(あわ)れみを受け、神様がすべての必要を備えてくださっています。今置かれている日々の生活で、どれほど私たちは感謝にあふれているでしょうか。案外と感謝が消えているのです。朝、目が覚めて当たり前、食事ができる、食欲があって当たり前、元気に歩き回ることができることは当たり前であって「何が感謝だ」と思っている。今日も神様の憐れみにあずかって、御愛によって生きる者とされているという、そういう感謝はどこにあるかと言われると、ありません。そして、あの人がよくしてくれる、この人がこんなにしてくれた。自分の努力が実った、自分の力でここまでやってきたと、自分を誇り、人を褒め、人を誇りとし、その業をもって自慢はするが、その思いの中に神様の前にへりくだって、神を神として心から神様を賛美し、神様を褒めたたえるところがどれほどあるかと言われているのです。神様はここで犠牲、献身、何か物をもって、あるいは何か業をもって、神様のために尽くすとか、あるいは犠牲として自分をささげたとしても、本来それはわたしのものなのだと言われる。私たちが何かをささげるにしても、それは神様が私たちに託してくださった、用いさせていただいているものにすぎない。私たちの健康でもそうです。私たちが健康第一に、これまで病気をしないようにと一生懸命に頑張ったから今日健康であるわけではなくて、考えてみたらいろいろな怖い話が周囲にたくさんあるでしょう。いろいろな病気があります。医学がますます進歩したために、訳の分からない病気が発見されるような時代。また私たちの住んでいる世の中は、細菌やウイルスやありとあらゆるものがはびこっている。その中で病気をしないのは、私が健康だからではない。神様が許して健康を与えてくださっているからです。そのことを考えてみても、神様がここに私たちを置いてくださっているのを感謝しているでしょうか。案外とそうではない。日々の生活で、あれが足らない、これが足らない、ああだから嫌だ、こうだから嫌だ。あの人がこうだから、この人がこうだから……とつぶやく。自分の思いどおりにいかない、願いどおりにいかない。自分の計画がつぶれてしまった、「どうしてくれる!」と不平不満、つぶやき苛立ちばかりが私たちの心にある。それでいて時折、思い出したように「神様、有難うございました」と感謝する。そんなことではなくて、14節に「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ」。神様に対して、「私は神のものです」と告白するならば、その信仰に立って、そのように神を神として敬い尊ばないのかと。これが今お読みしました神様の切なる思い。神様を喜ばせるとは、犠牲、献身、何かをしてではなくて、神様を喜び感謝し褒めたたえることなのです。

 

親でもそうだと思います。間もなく母の日ですが、子供がお母さんのために何かしてあげようかと考える。普段は音沙汰無し、梨のつぶての子が、その日にだけ、花束でも送りつけて、それで事終わりとされたら、親としては寂しいでしょう。普段から、電話でもして様子を聴いてくれて、時折尋ねて来てくれることのほうがうれしい。たまに、盆暮れだけ何か知らないけれども高価そうな物を送りつけられただけでは親は喜ばないですよ。やはり、普段から「お母さん、こうだよ」と、いろいろなこと、悩み事、うれしい事、悲しい事を分かち合う親子関係のほうがはるかにいいのではないでしょうか。神様はそうなのです。だから、15節に「悩みの日にわたしを呼べ」と言われる。調子のいいときだけ「神様」「神様」と言って、悩みがあると「どうして神様が!」と不満に思う。そうではなくて、うれしい事も悲しい事も共に分かち合う、いや、神様がすべてのものを備えておられるのだと認めることです。だから「悩みの日にわたしを呼べ」とおっしゃるのです。どうぞ、神様が私たちに何を求めておられるか、神様が喜び給うことは何なのかを、絶えず心に留めておきたいと思います。

 

初めのヘブル人への手紙11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」。信仰を持って、神様を信じて生きる者となることが神様を喜ばせる道でもあるのです。では、その信仰とはどういうことかと言うと、ここで「なぜなら」と言い換えられています。この「なぜなら」というのは、信仰の内実、それはどういうものかを言い換える言葉です。信仰とは、まず「神に来る者」であると。「神に来る者」とは、神様を信じる人でしょう。神様を信頼する人は、「神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」。これは非常に大切なことですが、「神に来るものは神のいますこと」をまず信じることが一つです。「そんなもの、当たり前じゃん、神様がいるから信じるのであって、どうして『神に来る者は、神のいますことを信じる』なんて、ちょっと余分じゃない、言い過ぎじゃない」と思いますが、神様を信じていると言っても、「神様がいらっしゃる」と信じるわけではない。「神のいますことを信じる」とは、今この所にも主が共にいてくださる、神様は私たちと共にいてくださる御方、御霊なる神は私たちと共にいてくださる、そして神様がいらっしゃるからすべてのものがここにあることを信じる。神様を信じるとは、そこまで徹底して、私たちの頭の先から足の先まで余す所なくすべて神様の手にあることを認めることです。「神様はいらっしゃいます」と言いながら、ここは自分のもの、ここは私のもの、ここは神様の入らない所、自分の世界と分けていくのなら、「神のいますことを信じている」とはなりません。もし、神様がいなければ、私たちはこの地上に存在しないのです。神様がいなかったら、天も宇宙も、何も無かった。神様がまずいらっしゃって、その後にすべてのものが神様によって造られた。だから、私たちがここに生きていることは、取りも直さず見えない神様がいらっしゃる事の証しです、証拠です。だから、「神に来る者は、神のいますこと」を信じること。目には見えないけれども、すべてのものの創造者、造り主でいらっしゃる神様が、今日も私を生かしてくださっている、私に命を与えてくださっていると信じて生きる。これが神のいますことを信じることです。神様のいらっしゃることは知っているが、それはそれ、これはこれと、区別することのほうが多い。神様がいらっしゃる。そうであるのに、「私が」「私がこうでなければ」「ああでなければ」「これは許せん」とか、「これはこうでなければ」という、「絶対これはこうだ」と言い張る、主張するものが心にある。そのとき、「神のいますこと」を忘れている、信じていないのです。だから、神様は繰り返し、「神に来る者は、神のいますこと」を信じるはずだと語っています。また、日々の生活の中でお祈りをして神様に求めていたら、このような結果を与えられて感謝しますと喜びます。これはうれしい事ですね。ところが、お祈りをしていないのに、こんなものをもらってしまった、こんな酷い目に遭ってしまった、どうしてこんなことになったのだろうと、不平不満を言いますが、そのとき、実は神様がいらっしゃることを忘れている。あるいは神様がいらっしゃるとは知っているけれども、どうして神様は私にこんな事をするのでしょうかと、神様をまるで召使か、僕であるかのように思い違いをしているときがあります。だから、私たちは常に自分自身の心の中で神様をどのような御方としているだろうか?これを問いかけていなければならない。悲しんでみたり嘆いてみたり、つぶやいてみたり、あるいは憤ったりするのは、「神のいますことを」忘れている。私どもは神様がいらっしゃると知ったならば、なにも言うことはない。「神様がいらっしゃるから、こういう事になったのだ」「神様がいらっしゃるから、この事が起こっているのだ」「神様がしていることだったら、きっと神様はそれをどのようにでもなし得給う」と信じる。私どもはそこの所がどうしても甘くなると言いますか、いい加減になってくるから、だんだんと神様がかたちだけのものになってしまう。

 

イザヤ書45章5節から7節までを朗読。

 

5節に「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする」。イザヤ書45章前後には繰り返して「わたしは神であるよ」「わたしは主であるよ」と語っています。では、誰に語っているのでしょうか。これは神の民と言われているイスラエル人たちに対して、イザヤを通して神様は語っているのです。イスラエルの民といったら、神様にいちばん身近な存在であるはずです。アブラハムの信仰に基づいて、長い歴史を通して神の民として、神様が彼らと共にいてくださった。神様が共にいたはずのイスラエルの民に向かって、ここに「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない」と言われるのですから、大変悪い事態です。言うならば、神様に導かれ、神様の恵みにあずかってイスラエルという国を設け、サウル王様、ダビデ王様、あるいはソロモン王様と、神様は王様をたててくださった。そういうすべての業の背後に神様がいて、神様の憐れみがあればこそ、彼らは消えることなく存在し続けたのです。神様なくしてイスラエルはあり得なかった。そうでありながら、彼らは神様を忘れていた。先ほどの詩篇にあるように、「あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」と言われるぐらい忠実に欠かすことなく、行事や祭りを守る。あるいは手続きと言いますか、なすべき事はきちっと果たしているけれども、その心は全く神様から離れていた。私たちも救いにあずかって、神様を知っているはずですけれども、気がつかないうちに神様を離れていることがあります。そのあと6節に「これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである。わたしは主である、わたしのほかに神はない」。ここでも神様は「わたしは主である。わたしは神である」と同じことをおっしゃっています。この民が信じる神様こそが真(まこと)の神であることを多くの人々に知らせようというのです。そして7節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する。わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」。一切合財すべてのことは神様がしておられる。神様がおられて、その神様は何にもできないひ弱な貧弱な力の無い御方ではなくて、天を造り、地を造り、その中に満ちる一切のものを創造し、全能の神でいらっしゃる方が「光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり」どんなことでもできないことのない方です。その「神がいます」と信じていく。どうぞ、そこをしっかりと心に定めておくこと、今も、あのときも、神様がこのことを許してさせてくださっている。神様がいらっしゃるからできる。主がおられるからあり得ることです。私たちはそのことを自覚しておく。自分の生活の中の具体的な事柄の中で、人ではない、事情、境遇、事柄によるのではなくて、神様がこのことを今させておられるのだと、徹底して信じる者でありたい。これが信仰です。

 

ヘブル人への手紙11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、」とありますが、神様を信じようとする者は神様がいらっしゃることを必ず信じる。「いらっしゃる」ということは、ただ「いる」というだけではなくて、その御方が私たちの造り主であり、私たちを持ち運び、私たちを許して、私たちのうちに事を行っている、そのように信じていくことです。だから、毎日の生活に、自分の思わないこと、考えないこと、願わないこともいろいろと起こってきます。そのとき「どうしてやろう?」と思うのではなくて、「主がしておられる。神様がいらっしゃるから、今この事態が起こっている」、そのことを認めていく。これは私たちの大きな力です。神様が今、このことを行っているのだったら、誰も反対できないし、逆らうことも出来ません。「わが手より救ひいだし得るものなし」(イザヤ43:13)とおっしゃる。「われ行はば誰かとどむることを得んや」(同)と。神様がしているのに誰がそれをとどめることができるのか、できない。「主よ、あなたがしてくださることならばどうぞ」と、私たちはそこで神様の大能の力の下に自分を置くことがすべてです。それを神様は喜んでくださる。この後どうなるか?この先どうなるか?「それは神様がご存じです。主がご存じです」と、これを言えると私たちの心は定まります。だから、イエス様が「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)とおっしゃいます。神様を信じるのです。人を信じるのでも、事情や事柄を信じるのでもない。「神様がいらっしゃるから大丈夫です」と、これが神を喜ばせる信仰、神様が喜んでくださるのはこのことです。

 

そして、そのあともう一つは「ご自身を求める者に報いて下さること」を信じる。神様に期待し、神様を求めていくならば、神様がそれに応えてくださる、報いてくださるのです。応答してくださるのです。必ずそのことをしてくださる。ダビデがサウル王様に命を狙(ねら)われました。考えてみたらダビデは気の毒だと思う。エッサイの息子として羊飼いであったら、波乱万丈を味わう必要がない、実に平々凡々とした平和な穏やかな一生を送られたに違いない。ところが、どういう訳か神様がダビデに目を留めて、そこから無理やりに引き出されたのです。ダビデが、自分から好き好んで「おれは将来王様になろう」と野心を抱いて着々と計画を立てて実行してきたのではない。ある日突然、祭司サムエルがやって来て「お前を次なる王にする」と言って、油を注いでサッサと逃げて行った。サウル王様にそれが聞こえたら大変な事になりますから、祭司サムエルも命が惜しいからサッと帰った。ダビデ自身も、自分がどのようになるのか訳が分からない。神様がそうしてくださったと、それを信じたのはいいけれども、とうとう王様から命まで狙われるようになった。ひと時も休まる暇なく、荒野を転々として、身を隠して過ごします。そのときでも、彼は神様を信じたのです。自分の思いもかけない運命と言いますか、そういう事態に引き込まれてきた。実は神様がダビデをそこに置いてくださった。それを信じていました。あるとき、命を取ろうとしてやってきたサウル王様と同じ洞窟(どうくつ)の中で偶然一緒になりました。奥の方にダビデたちが潜んでいる。サウル王様が洞窟の入り口の方で休息をとっている。ダビデと共にいる者たちが、「これは、神様がこの人の命を狙えと、千載一遇のチャンス。今一突きでやってしまったらもう逃げ回る必要がなくなる」と言いました。ところが、ダビデはそれをしない。ただそっと近づいてサウル王様の上着のすそを切り取っていく。なぜサウル王様を殺さなかったか。それは神様がサウル王様を立てておられるからです。人は神様のなさる業を拒むことはできない。もし、ダビデが王となる必要があるなら、そのときサウル王様を神様が取り除かれるに違いない。神様がなさるのであって、人がするべきことではない。そう言って部下を説得して逃げました。ところが、そのあと彼は王様の上着のすそを切ったことで責めを感じたと言っています。たったそのくらいいいじゃないかと思いますが、彼はやはりたとえ上着のすそであっても、神様の立てられた方に対して、ある意味で殺意を抱いたと言いますか、悪い思いを持った。神様のなさることに手を突っ込んだことに対して自分を責めたのです。ダビデは「わたしは常に主をわたしの前に置く」(詩篇16:8)と詠ったように、いつもどんなときにも神がいますことを、神様が報いてくださることを信じた。今この事態を変えてくださるのは神様に違いない。だから、彼は決して王様を自分の手で何とかしようと思ったことはない。やがてペリシテ人との戦いでサウル王様は戦死します。その戦死したとき、サウル王様の首を切ってアマレク人の一人の人が次なる王様ダビデの所へやって来ました。ダビデの敵であったサウル王様の死んだ首を持ってきて、自分の手柄にしたかったのです。褒美の一つでももらいたかった。ダビデはそれを見たときに大変悲しんだのです。そして、「なぜお前は神様の立てた者にそういうことをするのか」と、その首を持ってきた人を打ち殺してしまった。そしてサウル王様とその息子の遺体を丁重に葬るのです。それは神様が報いてくださることを信じているからです。神様が必ずしてくださると。

 

 私どももこの事を絶えず信じていきたいと思います。自分で何かしよう、自分で事を動かそうとするとき、私たちは神様を押しのけている。消極的で受身のように思います。「お祈りをしていたら大丈夫」なんて言うと、「お祈りでいいのですか」と。「お祈り以外に何をするのですか」と問うと「あの人に頼み、ここに行ってあっちを動かし、有力者を動かして……」と思う。その必要はないのです。ここにあるように「ご自身を求める者に報いて下さる」。神様は必ず事を行う方です、じっとしておくことができない。その代わり神様が事を始めなさったら、これは一瞬の間です。一気に事は変わっていきます。私はそのような経験を時々させられるのです。一つのことを祈っておった。でも一向にうんともすんとも事が動かない。ところが、神様の時がある。神様が定められた時が来たならば、一気に事がドドッと動いてしまう。あれよ、あれよと思う間に、ガラッと様子は一変してしまいます。私はそういうとき誠に厳粛(げんしゅく)な思いがするのです。「ここに神様が今業を行っていらっしゃる」。もちろん日々の、毎日の生活の中にも、神様は私たちを握っていて、持ち運んでくださっているのですが、神様の業を目の当たりにするような事態や事柄を神様は時々起こしなさいますね。だから、神様に信頼して祈って、ただジーッと待っているなんて、何か消極的な、「いつまでこんな事をしているの、少しは知恵を働かしたら、あなただってできることはあるでしょう」と言われますが、そこはジーッと主の時を待つことが大切です。また、神様が働かれる時が来ます。その時、私たちは何をしたらいいか、どこへ行くべきか。一気に事を進めなさるとき、すべての障害がなくなる。ところが、自分でやろうと思ってやると、あちらでぶつかり、こちらで行き詰まり、そしてまたああして、こうしてと、労多くして利益少なしです。何の役にも立たない、徒労に終わります。ところが、神様が許しなさったとき、神様が業を始めなさったら、先、先、先まで全部神様が準備万端なしてくださいますから、あそこへ行ったらうまくいく、こちらに行ったらまたよくなり、その次に行ったら……、トントンと道が開けていくのです。

 

だから、使徒行伝を読みますとペテロがろう屋に捕らえられて、ろう屋の奥で兵隊に番をされておったのです。そうしましたら、神の使いがそばに立ち、寝ていたペテロを揺り動かすのです。「ペテロ、起きなさい。私についてきなさい」。そのとき、ペテロはそこでくつを履いて、御霊の言われるままに神の使いに導かれるままに第一番目の衛所(えいしょ)の門を通り抜け、第二番目を通り抜け、ツルツルツルッと気がついてみたら牢獄の外に出ていた。「私はいまどこにおるのだろう」と自分でも気がつかない。その記事の前後には「教会では、彼のために熱心な祈りが神にささげられた」と記されている。ペテロが捕らえられたことを聞いて、信徒の人たちが集まって熱心に祈っておった。そうしましたら神様の使いがペテロを引き出して、幾つも検問があり、屈強な兵士が番をしている中を、何のことはない、まるで広々とした所を大手を振って通るがごとく、ペテロはスーッと抜けていくのです。神様が許してくださるとき、どんな敵をも防ぐことができる、排除してくださる。そして、道を備えてくださる。ペテロはそのとき門の外に出て「あら、私はいったいどこにいた?」と唖然としました。取りあえずみんなのいる所へ行こうと、出かけて行った。その日も一つの家にみんなが集まって祈っておった。そして、ドアをノックして、「私だよ」と声を掛けたら、女中さんが出てきた。するとペテロだったので、びっくりして大慌てで扉も開けないままに中へ入っていったと記されています。そういうことを神様はなさるのです。

 

だから、私たちは幸いです。失望することは何にもない。神様が働き給うならばどんなことでもできないことはない。あの人だろうと、この人だろうと、神様がなさると言われたら、どんなことでもなさる。時が来るならば報いてくださる方です。だから私たちは祈るのです。信仰を持って、神様のいますことを信じて、日々、一つ一つ神様の御手に委ねて歩んでいきたい。

 

6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」。「必ず」とありますよ。どうぞ、「大丈夫」と必ず信じてください。周囲の人や家族が「そんなことをしていていいの?何かせんでいいの?」と焦る思いになってくるとき、「そうではない。ここは主が働かれるとき、神様は必ず報い給う方。大丈夫」「いや、そんなのは手遅れになる」。手遅れになったら、その手遅れになったところから、神様は新しい業をしてくださるに違いない。「死人を生かし無から有を呼び出される神を信じた」(ローマ 4:17)のです。どうぞ、この神様に信頼して、「神のいますこと」また「ご自身を求める者に報いて下さる」御方であることを堅く信じて、神に喜ばれる者でありたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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