いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(361)「信仰ある生き方」

2014年10月24日 | 聖書からのメッセージ
 「ヘブル人への手紙」10章32節から39節までを朗読。

 38節「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。

 よく「信仰」、「信仰」と言われますが、いったい信仰とは何か? と改(あらた)めて問われると、すぐに答えることができません。分かったようで分かっていない、世間ではよく「あるようでないのが信仰で、ないようであるのが罪だ」と言われますが、まさに私どもは信仰があるような、ないような、中途半端な生き方をしています。それでは、神様が与えてくださる本当の喜び、恵みを受け止めることができません。

医者に行って薬をもらいます。毎食一錠ずつとか、朝、昼、晩、あるいは朝と晩とか、ある決まった量をこれだけ飲みなさいと指示があります。ところが、自分の状態を見て、症状が良くなったりすると、「もういいや。薬を飲まなくても」とやめてしまいます。しかし、薬というのは、飲み始めると体の中に薬の有効成分がたまってきます。あるレベルを超えてくると初めて効(き)き始めるのです。その超えた状態、有効な状態がある一定期間継続することで、初めて結果が出てくるのです。ある有効量まで持ち上げてキープする、それを維持していくと、初めて薬が薬として役に立つ。

信仰もそうなのだと思うのです。90パーセント信じているから、これでO.K.してもらいたい、合格点をもらいたいと言っても、学校の成績とは違います。90パーセントの信仰で間に合うかと、これはやはり有効ではない。効かないのです。薬と同じで、きちっと100パーセント有効量まで自分の信仰を持ちあげていかなければいけません。「それはいったい何か」という話になります。自分の信仰をどうやったら持つことができるのか? もちろん自分で持ちたいと思って持てるわけではありませんが、まず信仰とは、具体的に何なのかをはっきりと自覚しなければ事が始まりません。

38節に「わが義人は、信仰によって生きる」とあります。義なる人というのは、難(むつか)しく言えばいろいろな説がありますが、分かりやすく言うと、神様が喜んでくださる人ということです。あるいは、神様に受け入れられる人、神様が「よし」と言われる人は信仰によって生きるというのです。信仰を持つのではありません。持っていても使わない人がいます。信仰によって生きるのであります。生きるとは、信仰を具体的な生活の日々の歩みの中に取り込んでいくことにほかなりません。それが「信仰によって生きる」ことです。だから、神様が受け入れてくださる人、神様が「よし」言われる人は、親に孝行する人、人に優しい人、慈善家であるとか、世のため、人のために役立つ人というのではありません。神様から喜ばれる人は信仰によって生きている人です。信仰によって生きることによって神様は私たちを義人、義なる人、神様に喜んで受け入れていただける人になる。だから、私たちが目指すべきことはこのことです。義人となること。「では、私はもっと人間を磨いて、修養鍛錬(たんれん)を積んで皆から喜ばれる人になるか」、「皆によく思われる人間になろう」とするのかというと、それは全く違います。そんなことで神様は「お前はよくやった」と言われる御方ではありません。信仰を日々の生活の隅々、小さなこと大きなこと、大小にかかわらず、その中で信仰に立って生きることに尽きるのです。たったこれだけです。だから、聖書にはたくさんいろいろなことが書かれていますが、言っていることは、実に単純簡単なことです。それは「信仰によって生きる」ということです。このことを、聖書を通して神様は私たちに求めておられるのです。「信仰によって生きる」という、その「信仰」とは、いったい何か?

11章1節に、「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」とあります。これは有名な「信仰の定義」と言われます。これもまた、いろいろな研究者、学者や神学者は解説をしますが、そんなことをいくら知ってみても何の役にも立ちません。結局は目に見える状態や事柄、過去の出来事やそういう問題と、それをまだ見ていない、まだ体験していないけれども、それを信じていくことです。見ないものを信じる。あるいは、まだ私が手にしていないものを信じていく、とここで語られています。その後2節に「昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛(しょうさん)された」と。「この信仰のゆえに」と、「この信仰」とは、「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」。それによって、褒(ほ)められ、賞賛された。その一つとして3節に「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」。これが信仰の一つの具体的な形です。まず信仰によってこの世界が神の言葉で造られたのであるとあります。聖書には創世記の最初に「元始(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」(文語訳)と、すべてのものに先立って神様がおられたのだ、と宣言されています。そのとき何もなかった、混とんとして闇が淵(ふち)の面(おもて)を覆っていた。そこにいらっしゃったのは神様だけ。神様が「光りあれ」と仰せになった。その言葉に従って、それから後すべての森羅万象(しんらばんしょう)が造り出されたのです。そのことを私たちは見たわけではない。「創世の初めに私は神様と一緒にそこで見ていました」と言う人はいません。イエス様は見ていたと「箴言」に語られていますが、誰も見た者はないのです。だから「まだ見ていない事実」と1節にあるのは、そのことです。見てはいないけれども、聖書の言葉に従って神様がおられた。そして、神様のお言葉によって世界が造り出されてきた。言い換えると「したがって」と「見えるものは現れているものから出てきたのでない」。「見えるもの」、私たちが目にするもの、手で触るもの、いわゆる五感を通して存在を確かなものとして感じ取ることができる一つ一つのことは、いうならば、「現れているものから出てきた」。別の言い方をするならば、「見えるものによって見えるものが出てきたのではない」と。私たちは見えるものによって見えるものを造ります。料理を作るときに材料を買ってきます。これは見えるものです。あるいは、何を作るにしても人が作ろうとすると、見えないもので作る人なんていません。だから「壁に向かって無念無想していると家が出来た」と言う人はいないでしょう。「今日はあれが食べたい」と思って念じておったら、中華料理が目の前に出てきたという話は聞いたことはない。食べたければスーパーに行って材料を買い集めて、見えるものによって作るのです。だから、ついそういう発想で、世界も見えるもので造られたと思うから、どんどん遡って、とうとうサルに行き着いたりする。そもそも根本的な考え方が全く違うのです。

3節に「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでない」。いま私たちが目で見えること、手で触ることの一つ一つは、これは見えないものから出てきた。見えないものって何か? それは神様です。そうなると、私たちが神様に造られたと信じるとき、それが信仰です。そんなことを教会学校の子供たちに話したりすると「いや、そんなことはない。私はお母さんから出来た。お父さんとお母さんによって造ってもらった」ということを言いますが、そんなことはあり得ないのです。形の上ではそのように見えますが、それは見えるものであって、実はその背後に見えない御方がおられて、私たち一人一人が今ここに存在させられているのです。だから、「見えるものは現れているものから出てきたのでない」、このことを信じるのが3節に「信仰によって」とあります。更にその終わりに「悟るのである」と。だから、信仰は「まだ見ていない事実を確認すること」です。だから、私たち一人一人、今日ここに生かされていること自体が、神様、見えない御方によって造り出されている。そして、それはただ総体として、といいますか、全体として造られたという総論ではなくて、もっと細かな日々の生活、今日一日の健康を与えてくださった、生きる力を与えておられるのも神様です。そうでしょう。また、日常生活に起こってくる様々な事柄、病気をしたり、あるいは何か事故に遭ったり、いろいろなことのどれ一つとっても神様の力、見えないものによらないものはない、と信じることが信仰です。だから、3節に「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られた」と言われるのです。「世界が」というと、自分とかけ離れたことのように思いますが、世界とは、私たちの、自分の、皆さんの家庭のことです。あるいは皆さんの人生、これが世界です。世界というと、国際連合とか大きな組織のようなものを感じますが、私たちのいちばん身近な世界は、私の生活、皆さんが生活している部屋のことであり、家のことであり、そこで起こる様々な日常茶飯な出来事の一つ一つのすべてが、いうならば見えないものによって出てきたものであります。

4節に「信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」。更に5節に「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである」と。アベルのこともエノクのこともそうでありますが、彼らは「信仰によって生きた」と、信仰によって義とせられたのだと。神様に受け入れられる者となった、と語られています。それは彼らが一つ一つ見えないものに目を留めていたからです。3節にありますように「見えるものは現れているものから出てきたのでない」、このことを信じたから、神様はよしとせられた。だから、6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」とあります。ここに「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら」と、「なぜなら」とは、信仰がどういうものかを言い換えているのです。信仰はすなわち「神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さる」。まず神様がおられることを信じるのが信仰だと。どうですか、皆さん、いつも信仰に立って生きるとは、神様がおられることを認めること。神様がおられることを認めるとは、繰り返し申し上げるように、神様があそこにおられるけれども、私とは関係がない、という意味で「おられる」というのではなく、「おられることを信じる」とは、神様によって、今申し上げたように、私たち一人一人すべての者が造り出されたのだ。いうならば、造り主、創造者としての神様を信じること、認めることです。その神様は今も私たちの日々の生活を支配してくださっている。神様は私たちに事を起こし、事をなし、それを導き、完成に至らせてくださる御方であります。その神様がおられることを信じる。これが信仰の根幹といいますか、土台であります。これを抜きにして信仰はあり得ません。

だから、神様がいらっしゃることを信じることと、日々の生活がどのように結びついているか? これが実は信仰によって生きることになるのです。神様がいらっしゃることを信じることと、いま私が、目の前に抱えている問題や悩み、いろいろな出来事、うれしいこと、楽しいことも含めて、日々の生活とどのように結びついているか、これが信仰です。だから、私たちは常に「神のいますことを信じる」。神様がすべてのものを支配し給う主であると信じていく。私の人生は私が主人公ではなくて、神様が主なのだ、と信じるとき、初めて「神のいますことを信じている」と言えるのです。

私はいつもそのことを感じるのですが、私たちは自分を除外して物事を考えやすい。いわゆる、一般論であるとか、あるいは世間でこう言っているとか、知識としてこういう話だとか、こういうことになっているとか、こういうものだと言いながら、「では、あなたの生活はそれとどのように関係しているのですか」と言ったら、「いや、それはそれ、これはこれ」と。いつも自分をそこで切り分けてしまう。それが大きな失敗です。聖書のお言葉をよく知っています。聖書の話は説明できるぐらい通じています。「で、あなたはそれでどうしているの? 」と問うと、「それはそれで、私は私です」と。そうであるから、いつまでたっても私たちは信仰の精髄(せいずい)といいますか、喜びの大きな恵みに触れられない、いつまでも私は私、神様は向こう側。「いや、神様のいらっしゃることは知っている、信じている。けれども、私の生活、私の家庭、私の仕事、私のあれは、これは、それは神様と関係がない」。そこまではっきりとは言わないけれども、心ひそかにそう思っている。あるいは、何か事があると神様のことを考えようとしない。そこに神様の存在を認めようとしない。これが私たちの日々の生活です。何か思いがけないこと、自分の願わないような事態や事柄にポーンと出会うと、そのことに心がくっ付いて、神様の「か」の字を忘れる。今そのことをしているのは神様であると信じられない。そして「あれはどうなるだろうか」「これはどうなるだろうか」「こうなったらどうしようか」「そのときはあの人に頼んで、こうして、ああして」と、そのように、物事をうまくやり遂げようとすることにばかり自分の力や、自分の知恵を働かせることに忙しくて、神様が御留守(おるす)になってしまう。これが大きな失敗です。何か事があったときに即(そく)、「主よ、これは今あなたがわざを始めておられるとき、神様、あなたが事を起こしていらっしゃるのだ」。その神様を信じるという、これが信仰なのです。

だから、6節「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」。ここに「神に来る者は」とありますけれども、これは神様を信じようとする者、神様を信じる者、信仰に生きようとする者は、という意味です。「まず、神のいますこと」、これは決定的です。私たちの信仰のいちばんの土台は、神様がおられることです。その神様は私の主であって、私の造り主であり、日々の生活、命を守ってくださるかたであると信じる。私たち一人一人は被造物、造られた者であって、神様の許しがなければ何一つ起こらない。神様の手を超えて人は何にもできないのだ、と認めること。それが「神のいますことを信じる」ことです。そこを信じなければ、「神様を信じた」とは言えません。「神様は信じている」と言いながら、実際の生活の中で神様がどこにいるのか分からないのでは、「神様がいらっしゃる」と言えないのです。

私たち一人一人が信じなければ、神様はその人にとって無いのと同じです。ここにマイクロフォンが有ります。皆さんはこれを見ても見ずで、このテーブルの上にマイクロフォンが有るのか無いのか、目をつぶってほかのことを考えていたら、そんなことは私たちの意識から消えてしまいます。では、そのときマイクロフォンは無いかというと、やはり自分はそれを意識しなくてもここに存在し続けるわけです。神様の存在は、あなたが信じなければ神様はいない、無いのと同じなのです。これはマイクロフォンの場合と決定的な違いです。神様がいらっしゃると信じることによって、すべてのものが変わってきます。神様がいらっしゃると信じると、自分が今、今日ここにあることすらも、自分ではなくて神様の手によって生かされていることを認めます。ところが、神様を信じなければ、自分の力で、自分の知恵で、自分の努力で今がある、としか言いようがないわけです。「では、私が信じなくても神様がちゃんといらっしゃるではないか」と。「信じなくてもいらっしゃる」と言えるのは、信じている証拠であります。私たちが信じなければ、それも言えないのです。これはちょっとややこしくなりますから、あまり深入りしませんが、私たちがまず、神様がおられることを認めることは、信仰の根幹です。

6節「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さる」と。もう一つは「報いて下さる」。これは、神様は今も生きて働いてくださる御方ということです。「でくの坊」という言葉がありますが、うんともすんとも何も言わない。「イザヤ書」にそういう言葉があります。多くの人々は暖炉で温まるための薪(まき)を取ってきて、それで神の像を造って拝んでいるけれども、その像は物も言わなければ何もできない(43:13~)と語られています。まさに、神様はそのような御方ではないということです。何にもできない、ただ飾り物の神様ではないのだ。神様がいらっしゃって、神様は「求める者に報いて下さる」、言い換えると、ちゃんと応答してくださる御方、応えておられる。これを信じるのが信仰です。だから、神様がいらっしゃってすべてのものを造り、神様が主となってすべてのものをご支配くださって、御心のままに私たちを持ち運んでくださるばかりでなくて、私たちが祈ること、願うこと、求めることについても神様は一つ一つ答えてくださる。あるいは、私たちが求めなくても、考えなくても私たちの必要なことはすべてご存じで、神様はそれを絶えず満たしてくださっている御方です。だから、信仰とは神様を信じる信仰です。ところが、ともするとそこを間違えて、信仰とは、私が信じたようになることが信仰だと思う。「このことはこうなってほしい、ああなってほしいと願う、そのとおりに神様がやってくださると信じます」と言う。そうやってくださるかどうかは神様の問題であって、私どもが神様に向かっていちいちああせい、こうせい、と指示をするわけにはいきません。神様を信じることは、徹底して神様のご支配の中に自分を委(ゆだ)ねること以外にない。だから、毎日いろいろな出来事に出会います。朝から晩まで思いもかけないことや願わないこと、あるいは、びっくりしゃっくりするような事が次々と起こってきます。しかし、その中に神様が働いてくださっていることを信じる。神様が一つ一つのわざを導いてくださっておられる。たとえ見える状態がどうであれ、私たちはそこで神を信じるのです。イエス様は繰り返し「神を信じなさい」とおっしゃいます。神を信じることは、神様がすべてのことを握って事を進めなさると信じるのです。見える状態に応じて、こんな状態だから、どうとか、あんな状態だから……と、見えるところで一喜一憂して喜んでみたり、失望してみたり、上がったり下がったりしますが、そうではなくて、このことをいま大いなる御手をもって握っておられる神様は、さて、これからどのように私たちを導いてくださるか。そこで常に神様に目を留めていくのです。どうなろうと、こうなろうと、「ああなりたい」「こうなりたい」をやめてしまって、「神様、あなたの私に備えてくださる道を歩ませてください」と、徹底して神様に自分をくっ付けてしまう。これが「信仰によって生きる」ことです。だから、10章38節に「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」と。いろいろなことで失望落胆することがあるかもしれません。あるいは「これなら、こうなるに違いない」、「ああなるに違いない」と希望を持つことがあるかもしれません。しかし、見える事柄は常に変わって行きます。決して同じ状態がいつまでも続くはずがないのですから、それよりももう一つ、その背後にあって、すべてのものを造り、生かし、導いておられる神様に絶えず目を留めて、神様がここからどういうことをしてくださるか。

「詩篇」92篇1節から7節までを朗読。

4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います」。「みわざをもってわたしを楽しませられました」と、神様は私たちを楽しませよう、喜ばせようとしているのです。ところが、現実のいろいろなことを見ると、喜びを失い、悲しんで嘆(なげ)いて失望して、しょぼくれてしまいます。神様はそのような私たちを嘆いておられるに違いない。神様のわざを喜び歌う。この「みわざ」とは、何か大きな出来事、奇跡か何かがみわざだと思いますが、そうではありません。皆さんがこうやって今も生きていることは、不思議としか言いようがない。死んでいて当然の者が皆生きているではないですか。「いつまでか分からん。おれは早く死にたい」なんて、勝手なことを言う人がいますが、しかし、いま神様の手のわざの中に私たち一人一人が導かれている。だから、信仰によって生きるとき、すべての事柄の背後に神様、「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)」(エレミヤ33:2文語訳)とおっしゃる神様のわざがあること、今そのわざの中に私たちが立っていることを信じていく。そうすると、楽しいのです。これはどのように展開するか、これはどのように変わって行くだろうか、神様はこれから何をなさるだろうかと、そこに大いなる期待がありますから。私たちは神様に期待する。「求める者に報いて下さる」、応えてくださる。今も生き働いてくださる神様が一つ一つのわざを進めているのです。4節に「主よ、あなたはみわざをもってわたしを楽しませられました。わたしはあなたのみ手のわざを喜び歌います」。これからどのように神様が事を進めてくださるか大いに期待することができます。神様はもっと新しいわざを行ってくださる。「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る」(イザヤ 43:19)と。必ず神様が働いてくださることがあるのです。

私どもはその事柄に望みを置くのではない。そうすると、失望しますから、「ああなったらどうしよう」、「これはもう駄目や、もうこれで行き止まりや。もう道がない」と思いやすい。しかし、そうではなくて、「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」(イザヤ 40:26)とあります。常に目を高く上げて神様に目をとめていく。そのわざの中に私たちは生きている。5節以下に「主よ、あなたのみわざはいかに大いなることでしょう。あなたのもろもろの思いは、いとも深く、6 鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができません」。神様はどういうわざをもって事を進めなさるか、私たちには分からないのであります。私たちは愚かでありますから、それを悟ることができません。浅はかな知恵で「ああなったらどうしよう」と、思い煩うことばかりになってしまいます。私たちはどこに目を留めるか。「わが義人は、信仰によって生きる」です。もう一度、神を信じる信仰に立ち返って、神様のわざの中に私たちは造り生かされて日々を歩んでいることを確認しましょう。

「ヘブル人への手紙」10章38節、「わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。私たちは最後まで信仰を持ち続けていく、信じ続けていく。決してそれを投げ捨ててはならない。だから39節に「しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である」。神様を信じる信仰に立って、大胆に主に信頼して、何があっても決して信仰を失わない。「大丈夫、神様が付いていらっしゃる。神様がここからどのようになさるか」、神様がご存じだから、神様のわざがそこから始まるのですから、そのことを堅く信じて、絶えず信仰に立って、神に喜ばれる者、神様が「よし」としてくださる者となりましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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