サムエル記上15章17節から26節までを朗読。
22節「サムエルは言った、『主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる』」。
この記事はイスラエル王国の初代の王に任命されたサウル王様のことについて語られた一節です。サウル王様はイスラエルの王としての家柄、身分、あるいはそういう王族貴族に生まれたわけではありません。そもそもイスラエル自体が王様のいない国だったのです。祭司を中心にして、祭司から任命される「士師」といわれる人たちが、神様の霊に導かれてイスラエルの12部族の人々を導いていた時代があります。ところが、周囲の国々を見ると、王様がいて、軍隊があって、いろいろな政治(まつりごと)を行っている。そういうものを見ると格好がいい。だから、イスラエルの人々も「自分たちの国も王様が欲しい」と言ったのです。そのことを祭司サムエルに求めました。サムエルがお祈りしますと、神様は「その必要はなかろう」と言われます。しかし、民は「どうしても王様が欲しい」と切に願います。とうとう神様が折れまして、「よし、それではお前たちが願うように王様を立てなさい」となった。ただ王様をいただき、王国になると、どういう義務が生じ、国民として果たすべき責任があるのかを教えました。それは必ずしもいいことばかりではない。兵役の義務もあるし、納税の義務もあります。われわれもそうです。いろいろなことが要求されるが、それを覚悟しておけと、神様は言われた。それで、サムエルは民を集めまして、「あなたたちは王様が欲しいと言うので、神様は『よし』とおっしゃった。しかし、かくかくしかじかこういうことがあるよ」と細かく語りました。民は「結構でございます」と、「それでいいから王様を欲しい」と言ったのです。神様は「それじゃ、一人の王様を立てなさい」とサムエルにお命じになって、サムエルが探し当てたのがサウルだったのです。彼はなかなか見栄えの良いハンサムな人です。誰よりも背丈も高くて抜きん出て目立つ人物だったようです。彼を選び、神様のご命令に従って任職の油を注いで、神様がお前を王としたという証の儀式を行ないました。サウロは大変恐縮して、自分のような者が王様になるなんて、とても難しい。自分は気が弱くて、力もないし、家柄も立派ではない。出身の部族はベニヤミン族であって、小さな部族。そんな者が王様になって治めきれませんと言う。実に謙そんな人物であった。しかし、神様が「それでよかろう」ということで、このサウルを王様に立てた。サウルは神様が自分を王様にしてくれたとは思うのですが、どこかで人気を気にする。人々の顔色を伺う。気が弱いものですから、これはまた困ったものです。強い言葉を言う人、大きな声を出す人がいると「はぁ」と、ちょっと揺れる。神様は彼のその性質も知っていたと思いますが、祭司サムエルがそばにいて、いろいろと指導をして、何とか持ち上げてやっていた。
ところが、ある時、神様はサウル王様に大変な使命を与えました。アマレク人という異民族がイスラエルを悩ませ、攻めてくる。神様は「このアマレク人を皆殺しにしなさい」とお命じになりました。一つには、イスラエルの民がエジプトからカナンに旅をした荒野の旅の時、アマレク人の領地を横切ったほうが近道だったのですが、彼らが「こんな民に通られたら困る」というので、断った経緯もありました。それで、サウル王様に「何とかこのアマレク人をやっつけろ」と。だから「皆殺しにせよ」と命じました。どんな物も何一つ残してはいけない。動物であれ、人間であれ、男女にかかわらず、老人も子供もみな殺してしまえ。こんな厳しいことを言われたケースはほかにないと思います。サウル王様は、「はい、分かりました」と言って、戦いに出かけました。アマレク人を打ち破ったのです。神様は「行け」と言った以上、勝利を与えてくださるのは当然のことでありますから、彼らは大いに喜んで戦いから帰って来ました。そして、ギルガルという町に戦勝記念碑、凱旋門を造り、お祝いをしようとしたのです。その時、神様が祭司サムエルに臨んで、「さあ、行きなさい。わたしはサウルを王としたことを悔いる」と言われた。神様は「情けない、どうして、わたしのことが分からないのだ」ということです。それを聞いて祭司サムエルはびっくりしました。「神様がこのように嘆いているのは大変なことだ。神様の前に申し訳ない」と、彼自身も祭司としての務めが不十分であったと思い、急いでギルガルに出かけて行った。サウル王様は祭司を迎えて「有難うございます。このたびは大勝利でありました」と迎えた。そのとき、祭司サムエルは「あなたはいったい何をしたのだ」「えー、何もしていません。神様が言われるように戦いに行ってアマレク人を打ち破って帰って来ました。大勝利ですよ」と言った。神様は「『あなたにすべてのものを皆殺しにせよ、一つも残すな』と言ったけれども、あなたはそれをしていないじゃないか」「いいえ、全部打ち滅ぼしてきました」。するとその周辺から「メー、メー」「モー、モー」という羊や牛の声が聞こえる。それで祭司は「サウル王様、あの声はいったいどうしたのか」「え!あれはアマレク人から取ってきたものです」「どうして殺さなかったの」「いや、あれは神様にささげるものとして取ってきたのです。」と、そんなことを言った。その上、アガクというアマレク人の王様も生け捕りにしてきたのです。神様は祭司サムエルを通して「なぜあなたはわたしの言う事に従わなかったのだ」と、サウル王様をしかったのです。
17節以下に「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。18 そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。19 それであるのに、どうしてあなたは主の声に聞き従わないで、ぶんどり物にとびかかり、主の目の前に悪をおこなったのですか」。この通りです。祭司サムエルがサウル王様に言ったことは「神様があなたに油を注いだではないか」と。「油を注ぐ」とは、サウルを神様のものとして、神様の使命に遣わされるものとして立てた。本来、あなたが王になった目的は、神様の御心を行なうためではなかったのかと。神様の言われる通りに従うために神様がお前を選んだのではなかったか。ところが、彼は「自分は小さな者で、そんな力がありません」とか、「自分の出身部族は小さな部族で私の言う事などイスラエルの民は聞いてくれないに違いない」と、神様の思いを受け止めようとしなかった。まず、これが第一の問題点です。彼は油を注がれてイスラエルの王とされた。18節「そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた」。あなたに大きな使命を託しておられる。その目的を与えている。それは「アマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え」と。「それであるのに、どうしてあなたは主の声に聞き従わない」のか。第二の問題点は、彼が主の言葉に、神様の声に従わないことです。誰の声に従ったか。民の声、人々の声です。このことは大変大きな罪です。
このような話を聞くと、「昔の話、サウル王様の話をいくら聞いても、私とはあまり関係がないのではないか」と。「私はサウル王様ではないし、私はアマレク人などと『けんかせよ』と言われているわけではないし、どうして先生はこんな話をなさるのか」と思われるでしょうが、それは大変な間違いです。
これは私たち一人一人のことなのです。サウル王様は確かに王様であって、私たちは王様ではないと思っています。確かにそのとおりで、身分としてはそうではないかもしれません。しかし、私たちが救われたのは、イエス様の十字架のいさおしによって、神様によってあがなわれた、買い取られた者となったのです。「油を注いでイスラエルの王とした」と言われていますが、「油を注ぐ」とは取りも直さずイエス様の十字架の血によってあがない取られることです。その昔、旧約の時代はまだイエス様の十字架の立てられる以前のことでしたから、神様はそのほかのいろいろな事柄を通して、やがて備えられるべきイエス様の十字架のあがないを、前もっていろいろな形で証ししておられます。それが旧約聖書です。だから、サウルという名もない小さな存在であった彼が、目を留めていただいて油を注がれ、神の国の王とされた。それは、私たちがその身分にあずかっている事を表わすのです。皆さんは気がつかなかったかもしれない。「えー!そんな話やったの。私はそんなこととは知らずに洗礼を受けたのに」と言われるかもしれないが、聖書にはちゃんとそう書いてある。「私たちを神の国の世継ぎとした」と。神の王の位に私たちを置いてくださった。神の国の世継ぎ、神の国の住民、あるいは神の子供としてくださったと言われていますが、神様の王国の代理人として私たちは選ばれ召されているのです。だから、本来、王様のいなかった所に神様が王様を置いてくださったこと、これはイスラエルの民を神の民として、神様の国の代理者として、神様のみ思いを執行する、行なう者として、サウルを選んで油を注いだ。そのサウルは皆さんのことです。私たちはいまイエス様の救いにあずかって、神様の御心を行なう者としてこの世に遣わされ生かされている。まさに、私たちはサウル王様なのです。だから、この地上の生涯の目的は、私たちを造り生かしてくださる神様の御心を行う、神様が求めている所に従う以外にありません。これが、救いにあずかる私たちの目的、救われた者の使命であります。「では、アマレクってうちのおやじかな」とか、「うちの女房はアマレク人みたいなものかな」とか思われるかもしれませんが、そうではない。アマレク人とは、私たちの心にあって神様を拒む力、神様から私たちの思いを引き離そうとしてくる力です。サタンとも言いますが、ここではアマレク人です。イスラエルの民、神の民を神様の力から引き離して、世につける者、神様のいない者にして、私たちを支配しようとするもの。よくサタンと言います。マタイによる福音書16章を読みますと、イエス様が弟子たちに、やがてエルサレムに行き、ユダヤ人の指導者たちに捕らえられて、十字架にかけられ、死んで三日目によみがえることをお話になった時、ペテロがイエス様をわきへ引き寄せて「イエス様、ちょっと来なさい。なんていうことをいうのですか。滅相もない。そんなことを言わないでください。そんなことはあるはずがありません」と言った。そのときにイエス様は「サタンよ、引きさがれ」とペテロに向かって言われた。なぜペテロはサタンなのか?それは、イエス様が父なる神様の目的のために従おうとしているのを妨げるからです。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」としかられました。「人のことを思う」ところに、サタンが働いている姿があります。聖書にはそれを「肉の力」、「肉性」と言っています。私たちの内にあって神様に従わせまいとする力です。それは明々白々な「これは悪魔だよ」というような形をして来ない。聖書には「光の子のごとく偽装してくる」とあります。まるで神様の使いであるかのごとくやって来るという。祈りに答えられ、感謝して喜び、「さあ、この感謝を表すため、礼拝に行ったとき感謝献金をしよう」とか、「思い掛けないプレゼントを頂いたから、蓄えておった積み立てが満期になったから、感謝して什一をささげよう」と思って感謝する。3日たち4日たつとだんだんと低くなって、「十分の一はやめとこう、百分の一くらいにしとこうか」と思わせるのはサタンです。「神様に従おう」と言った最初の善き思いから、私たちをズルズルズルーッと引きずって神様に対する思いから離す力がある。その挙句の果ては「ほかのほうに……、教会に献金するより、貧しい人の年末の募金にしとこう、これもいいんじゃないかな。神様のためには」となって、私たちの心が消えてしまう。そのような力はいつも働きます。こうやって礼拝に出てくる時、どうでしたか?朝起きて「だいぶ天気がよくなった。ちょっと洗濯もあるけれども、どうするかな、行こうかな、行くまいかな、礼拝があるな」と悩んだのが20分ぐらいあったでしょう。悪魔が、サタンがそういう思いを入れるのです。あるいは、「今日は礼拝だ、うれしいな」と思って出掛けようとしたら、電話が鳴って「お母さん、うちの子の面倒をちょっと見てよ。友達に誘われて買い物に行かなければならない」と言われて、「教会に行こうと思ったのに、孫のお守りを頼まれてどうしようか。まあ、いいか。礼拝は」と。その瞬間、サタンは喜びます。「してやったり」、神様から引き離される。神様が「アマレクを滅ぼしつくせ」と言われたのは、アマレク人がイスラエルを神様の思いから遠ざけようとする力、サタンの力であることを知っていたからです。私たちに対して神様が求めているのはそこです。私たちはいつも神様のみ思いを知りながら、それができない、従えない力が働いてきます。それを滅ぼし尽くすのが、選ばれ召され救いにあずかった者の果たすべき事です。だから、サウル王様のこの記事は誰のことでもない、私や皆さんの出来事であり、事柄なのです。そして、その中で私たちはいつも従えなかった言い訳をする。そうでしょう。
20節「サウルはサムエルに言った、『わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました』」。彼は神様のみ思いを知らなかったのではない、聞かなかったのではない。はっきり「主の声に聞き従いました」と。しかも「主のつかわされた使命を私はちゃんと知っていました」と言っている。その上「アマレクびとを滅ぼし尽しました」と言いながら、その親分であるアガクは生かしている。こんなことも分からないサウル王様は、神様を見ることができなくなっているのです。21節「しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」と、ここで言っているのです。「民は」ですよ。「サウルは」ではない。私は従ったのです。でも民がこうしたのです。これは、私たちが神様の前に従えないときの言い訳に似ている。似ているどころか全くそのものです。「家内がこう言ったものだから」「息子たちがこう言うものですから」、このような言い訳の中で生きているのではないでしょうか。私たちは自分の心の思いをよく探っていきたい。そこにアマレクがいませんか。神様に従わせまいとして、神様の所へ近づかせまいとする力、これがサタンです。サタンは家族や孫や子供や外側からばかりではないでしょう。むしろ外側の力は案外と少ない。内側にあるのです。自分の中にあるのです。
だから、ある方が教会に長年来ていて、「今日はちょっと困りました」と言われる。「どうしたの」「いや、礼拝に出てくる時、近所の人に会いましてね」と。「どこへ行くの」と言われたから「私は教会にと言うのは恥ずかしくて言えないから、ちょっとそこまで」と言って来ました。「あなた、何十年と教会に来て、そんなこと誰にも言ってないの」「ええ、近所の人に知られたら困るからもう黙っているのです」「あなたは隠れクリスチャンやね」と言ったのです。そのような方はいらっしゃいませんか。案外とそういう人が多いのです。「今までよく近所の人に見つからなかったね」と私は言ったのです。「大体人のいないときを見計らってス-ッと逃げて……」。教会に来ることですら、周囲を気にして誰にも知った人に会わないようにスーッと出るという。「そんなことをするぐらいならはっきり堂々と『私は教会員で、私はクリスチャンです』となぜ言わないの」と。
何年も教会に来られていなかったけれども、亡くなられて、家族の方が「葬式をしてもらえませんか」と言ってきました。「いいですよ。うちの教会員が亡くなったのですから、葬式はしますよ」と。それで葬式をしました。すると、そこへ来た人たち、ご近所の人たちやかつての職場の関係の人たちが来て、「おお、こいつ、クリスチャンだったのか」と言ったのです。私の所へ来て「私たちは知らなかった。あの死んだ○○さんはいつごろからクリスチャンになったのですか」「いや、若いころからここの教会員ですよ。洗礼を受けられていますよ」「ちっとも知らなかった。これはびっくりやな」と言う。こっちのほうがびっくりですよ。皆さんもそうならないように、はっきりと「私はクリスチャンです。私は主の民です」と明言して置いてください。私たちの心を神様に従わせまいとして、そういう力がいつも働きます。それがアマレクなのです。それを「皆殺しにせよ」と。
このときサムエルは22節「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」。「あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」とサウル王様は言いました。「ささげる」というのは、燔祭や罪祭や愆祭(けんさい)、様々なまつりごととして、神様に犠牲のいけにえとしてささげる意味です。だから、「神様のためにするのだからいいじゃないか」と、私どもはそのように思うのです。「神様のために」と言いながら、自分ができる範囲で、自分が理解できる範囲で、そういう思いで事を進めるときがあります。それに対して神様は「滅ぼし尽せ」、言い換えると、寸分たがわず一分一厘違うことなく、きちっと神様の言われる通りにしなさい。これはなかなか難しい。「神様の御心のままに」と、神様が求めている、願っているところに従って、一つも欠けることのないようにするのは、なかなか難しい。どこかで自分の都合のよいように、ちょっとゆがめる。「こう言われたけれども、こっちの方が手早いし、結果は同じだし」と。これが神様の前に私たちが失敗するいちばんの原因なのです。全く従うことです。「燔祭や犠牲」とは、神様にささげるものです。いろいろなことを「これは神様のため」「これも神様のため」とすることはするけれども、肝心な神様の御心を求めてその御思いに従うことをしなければ、神様のためにどんなわざを、たとえ犠牲、献身をしてみても役立たない。いや、それはむしろサタンの働きに乗ぜられる切っ掛けでしかありません。私たちはいつも神様の御言葉を求めて、御旨を知る、これがまずすべきことです。どんなことでも「聞く」ことです。「聞く」ことは、相手に意向を尋ねる。「これはどうしましょうか」「このことのあなたの御心はどこにあるでしょうか」。だから、絶えず祈らなければ「聞くこと」ができません。自分がしゃべり放しだったら聞けません。だから、お祈りをする時、どちらかというと「どうか……」「どうか……」と、いろいろなことをお願いします。ところが、「これは、神様どうしたらいいでしょうか」「神様、あなたの御思いはどこにあるでしょうか」と聞きません。聞かないものですから、神様は言いたくても言えない。無理やり従わせるような過酷な御方ではありません。愛に満ちた御方ですから、自発の心をもって主に従うことを求めている。だから、聞こうとすれば神様は語ってくださる。「神様、いま私はこのことをどうしたらいいでしょうか」「今、行くべきでしょうか」「これは私がすべきでしょうか」「これはどうしたらいいでしょうか」と、祈ってください。まず聞くこと、しかも、神様のみ思いはどこにあるのかを聞く。聞くと、答えてくださる。
ただ、その答えは、耳に雷のような大きな声で「こうせい」「ああせい」と言わない。聖書に「御霊のみ声」とあります。神様の霊が私たちの心に宿ってくださって、その御霊が私たちに語ってくださる。「語る」という言葉はちょっと誤解を招きやすい。「では、どんな声が聞こえるのか」ということになりますが、声というよりは「思い」です。心に自分が今まで考えたことも、思ったこともないことを神様が作り出してくださる。何かのことで祈っておったら、祈り終わった瞬間に「そうだ。今まで考えもしなかったけれども、この道があった。ここをこうしていただこう」と、今まで自分では考えられない新しい思い、人に対して善き思いが与えられます。「よし、今度あいつに文句を言ってやろう」なんて、それは御霊のみ声ではありません。お祈りしていると、心に「私が態度を変えなければいけない」と、神様が語ってくださる。そういう思いが与えられる。神様が起こしてくださった心、押し出してくださる心に従うのか、従わないのか。これが絶えず私たちが出会う事です。御霊が語ってくださる瞬間、それをきちっと私たちが捕らえていけるかどうか。恥ずかしいとか、「もう時間が遅い」とか「いや、いま時間が早すぎる」とか、なんだかんだと理屈を付けて神様からの思いを消してしまう。よくそのようなことがあります。「あの人に最近会っていないからどんな具合かちょっと問い合わせをしてみよう。元気だったらいいのだけれども、いつもお祈りしているから聞いてみよう」と思って、「電話をしよう」と善い思いが与えられる。ところが、時計を見ると、「もうこんな時間か。夜9時だな、遅かろう。いま電話をしたら何か誤解をされるといけないから……」となる。翌日朝、「夕べ電話をしなかった。電話をしようか」と時計を見たら7時、「こんなに早くては」と、ズルズルと一日たったら、次の日は「もういいか」と消えてしまう。神様が私どもに何か善きことをさせようとしている。その瞬間の思いをサッとくみ取って、「主よ、従います」と踏み出す。そこに力を尽くす、あるいは思いを尽くす。力いっぱい与えられたところに有無を言わず、つべこべ言わないで従っていく。すると、神様の恵みと祝福と力が与えられるのです。
22節「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」。どんな犠牲をするよりも神様に従うことを主は求めておられる。いつも聖書を読み、各集会に励んで出てくると、必ず御言葉を聞きます。そうすると、御言葉の光が私たちの心を照らします。皆さんが置かれたその状態、事柄、日常生活の山積みした問題の中で、御言葉を通して「私はこのことについてはこうすべきだな」あるいは「あのことについてはこうしてあげるべきだった。自分が間違っていた」と、いろいろなことを教えられる。御言葉を通して光に照らされるのです。私たちが聖書のお言葉を読んでいると、必ず心に刺されること、励まされること、慰められること、いろいろなことを受け止めるではないですか。その中から、神様が語ってくださることがあるに違いない。そのみ声を、細いみ声を聞き分けることができるように、絶えず神様に思いを向けて行かなければ、それはできません。最近地デジとかいろいろ言われていますが、アンテナを取り替えなければいけない。古いアンテナでは新しいテレビ放送は見られないという話ですが、家族の声や友達の声や世間の声やあるいは町内会の声に耳を傾けて、神様に向けたアンテナがなくなってしまったら、これは駄目です。だから、神様に向かって常に「み声を聞きます」と心を向けましょう。
祭司サムエルが幼いとき、神の宮にいました。そのとき神様が「サムエル、サムエル」と呼ぶ声を聞いて「はい、主よ、ここにいます。しもべは聞きます」(Ⅰサムエル 3:10)と、耳を傾けた。細い神様の呼び掛けを聞いたとき、神様はサムエルに驚くべきこと、神様の秘密を明かしてくださった。私たちは聞く者となりたい。そして聞いて悟ったことについて、神様が語ってくださることを100パーセント 掛け値なし、差し引きなし、足すも減らすもなく従って行こうではありませんか。そのとき神様は喜んでくださるのです。それが私たちの使命だからです。私たちは神様の御思いを行う者として選ばれ召されたのです。だからこそ、主に聞くことに努めていく。世間に疎(うと)くなってもいいのです。人の声を無視していても構いません。
神様の思いを求めて、神様の御心を行なう者として私たちが立てられている。そして、私たちでしかなし得ない、有り得ない事へ神様は導いてくださるからです。このサウル王様の失敗に倣(なら)わないで、そうならないために、私たちは絶えず心を神様に向けて、祈りつつ一つ一つどんなことも「主の御旨ですから」と、「主の御心ですから」と、はっきりと言い得る歩みをしていきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。