ピリピ人への手紙3章17節から21節までを朗読。
20節「わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」。
この言葉は身近な御言葉の一つではないかと思います。「わたしたちの国籍は天にある」と、墓碑銘にも使われる言葉です。教会の納骨堂にも「わたしたちの国籍は天にある」と、石版に刻印されています。また、福岡に平尾霊園という所にありますが、その霊園の一角は、キリスト教関係の墓地になっています。見て回ると、墓碑銘のトップが、「わたしたちの国籍は天にある」と、その次に多いのが「わたしはよみがえりであり、命である」のようです。そうやって見ると、「わたしたちの国籍は天にある」、召されたら国籍は天にある、そこへ行くのかと思います。そして、先に召された方たちはそこへ行っているのだなと思っているかもしれません。
たしかに、私たちの信仰の最終目的は、死をどのように受け止めていくかでしょう。死に直面した時、どのようにそれを受け止めて、それを乗り越えていくかに掛かっているのではないかと思います。私たちの生涯の総決算は、やはり、死です。それを越えて生きる望みがあるかどうか。生きると言いますのは、死んでも死なない肉体のことではなくて、私たちの魂が、いのちと力に満ちていくことができるかということです。これが、問われるのだろうと思います。
ところが、案外と自分の死を、間近にひしひしと感じる状況にありません。他人の死はよく理解できます。年ごとに喪中、欠礼のハガキをもらいます。そうしますと、あの人も死んだ、この人も死んだ。そういって私どもは、人の死は受け入れます。ところが、自分が死ぬということは、あまり自覚しません。うかつだった、私も死ぬのかと思う時が来ます。その時、本当に信仰に立っているかどうか、死に耐えられる信仰であるかどうか、振るわれるのです。死を越えて望みを持つ信仰を得るには、生きていて元気があって、私はまだ死なないだろうと思っている時こそ、真剣に自分の死を見据える、そのことを身近に感じて生きることが大切だと、自分の病気を通して、最近そう思います。信仰には、生きるための信仰と、死ぬための信仰があるように思います。そのように信仰を分けることはできませんが、生きるため、ということに集中している時期が人生にあります。何を食べ、何を着、何を飲もうかと、いわゆる生活のために一生懸命神様を求めていた時期があります。子どもの就職、結婚、あるいは、自分自身の仕事上の問題、人との付き合いでの問題、家族の問題、いろいろな事柄で悩みます。生きることの苦しみもありました。だから、問題に当たる度に主を求め、神様を求める。そのように生きることだけを考えて、人生を歩んでいた。だから、自分が死ぬということはあまり考えない。自分の死を見据えて、そこに神様を信じる自分の信仰が、どのように働くのか、自分は何を望みとして生きているのか考えません。生きることを目指している時、生活の事情や境遇がうまくいくように、願いがかなうようにということが中心だったのです。もちろん、私たちは生きていますから、それは私たちの願いでもあります。風邪を引いたら、早く風邪が治って、早くこの熱が引いて元気になって、毎日楽しく生活できるように、食欲が旺盛になってご馳走も食べられるようになりたいと祈ります。生きることを絶えず願って、神様を求める。その思いには、死というのがズーッと小さくなっています。あるかもしれないが、それはまだ先のことだと思いやすい。しかし、実は、絶えず死と向き合って生きることがなければ、いよいよ最後の時に、どうにもならなくなります。
突然、あなたの余命は数ヶ月なんて言われると、うろたえるに違いない。身の置き所がなくなるに違いない。そうならないために、絶えず自分の死を覚えていなければならないのです。
ルカによる福音書12章13節から21節までを朗読。
この時、イエス様の所に人が尋ねて来まして、遺産相続のトラブルがあったので、イエス様、どうぞ仲裁をしてくださいと申し出ました。その時にイエス様は、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。人のいのちは、持ち物にはよらないのである」と言われて、一つのたとえ話を語られました。金持ちがいました。彼はその年豊作で収穫がたくさんだった。それをしまっておく所がない。これが生きる悩みです。たくさんあり過ぎてどうしようか、それをどうやったらいいか、それをいろいろ悩んだ結果、今まで持っていた小屋を壊して、もっと大きいのを建てた。そこへ全部しまい込んで、これで安心、安心と思ったのです。
その時に20節に「すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。「愚かな者よ」と。あなたは生きることを考え、食え、飲め、楽しめ、人生を楽しみ、謳歌するための信仰、生活が順調になり、心配事がなく、日々健康であって守られてということばかりを、追い求めている。この金持ちはまさにそのような生き方をしていたのです。その時に神様が、「愚かな者よ」、今夜あなたの命が取られたら、蓄えたものは誰のものになるのか。そして、結論にイエス様は、「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」と言われました。神様に富む者というのは、神様のお言葉に信頼して、それによって豊かになっていくことです。自分の持っているものに望みをおくことではありません。この金持ちはたくさんの収穫があって、大きな倉を建てて、そこへ思いっきり持てる物を全部蓄えました。これで安心だと。彼の安心は持ち物が多いことにあったのです。私たちも、そのような生き方をしていた時期があります。自分自身を振り返ってみてもそうでしょう。若いころ、人生のそれぞれの段階に応じて、その直面する時に応じての信仰の姿でもあると思います。
金生先生くらいの若い方は、今は子育てに一生懸命ですから、願うことは、なんとかこの子どもたちが成長して、道を曲がらずに育ってくれることです。そのために、オムツを替えたり、食事の準備をしたりしている。恐らく、その時は、自分の死なんて考えません。皆さんでも、35,6歳のころを振り返ってご覧なさい。死ぬのは年寄りだと思っていた。その時期は、生きることに一生懸命ですから、そのために神様に求めることはあるに違いないし、そこで神様に信頼する、生きるために信頼しているでしょう。
ところが、老人手帳をもらう年頃になると、やはりそういうことばかりではいけない。それでも尚気付かないで、生きることだけに一生懸命になっているとするならば、この金持ちと同じことです。もう、そろそろ目を覚まして、自分の死を見据えて、それにふさわしい信仰を身につけるべきです。
最近の私たちの生活の中では、死を自覚することがなかなか難しい。死というものが隔離されている。大抵、死ぬのは病院ですから、間近に生活の中でということが非常に少ない。昔、何十年前は、家族が、おじいちゃん、おばあちゃんも一緒ですから、人は年を取っていき、そして寝たきりになるのを日々の生活の中で、子どもや孫は見て成長しました。死ぬことが身近だった。それは年を取るばかりでなくて、かつては、5人子どもがいても、大抵、1人か2人は死にました。幼児期に死んでいる。昔の人の家系図を見ますと、大体4,5歳で亡くなったとか、10歳前後で亡くなったという人が必ずいます。ところが今は、子どもも少ないですが、それ以上に子どもの死をほとんど聞かなくなりました。だから、死が生活の中からズーッと遠ざかってしまいました。だからといってなくなったわけではありません。
14世紀にヨーローッパでペスト病が流行った時代があります。ペストが流行って、村の半分の人が死んでしまうとか、町の3分の2の人が死んでしまうという時代だったからです。連日、表通りを霊きゅう馬車が通っていく事態で、町のあちらこちらで死者を悼む泣き声が聞こえていたというのです。それ以後、長年にわたって死の恐怖が社会を支配していました。1600年前後ですが、ジョン・ダンと言う一人の詩人で、英国国教会の本山となっているセントポール寺院の総監督にまでなった人物がいます。彼は、後のミルトンなど巨大な宗教詩人の先駆けになる人物ですが、彼は死にまつわるテーマの詩を書いています。だから、その死を絶えず見据えて生きる。そのころ流行った言葉に、「メメントモーリー」というのがあります。“死を覚えよ”というラテン語の言葉です。絶えず自分の死を見据えて生きることです。この詩人ダンは、ついに病高じて自分を棺に入れて、死に装束をして、その姿を画家に書かせているのです。自分が棺に入った姿の絵を書斎に掲げていました。その絵は残っていますが、そこまで徹底している。自分の死を見つめている。その当時の、ある文学者は人の頭蓋骨を絶えず自分の机の上に置いていた。悪趣味といえば悪趣味かもしれません。しかし、それだけ真剣に自分の死を考えるのです。
皆さんの家の居間のテーブルに、誰か死んだ人の頭蓋骨を置いて生活をしてご覧なさい。これは生きることに真剣になりますよ。私もまもなくこうなるのかと。私たちにとってそのような中で生きることが今は乏しくなっています。しかし、だからといって死がなくなったのではない。生きることを考えるより、死ぬことを考えたいと思います。上手に死ぬといいますか、死を乗り越えて永遠の命に輝いていく生き方とは、自分にとってはどういうことなのか、しっかりと心においていきたいと思います。そうやって、自分の死を見つめて生き始めると、人が少々なにを言おうと全然気にならなくなります。今まで夢中になって、あれはいかん!とか、絶対こうでなければ!なんて言っていた自分がばかばかしくて、愚かしくなります。どっちみち自分は死ぬのだと思うと、何もかも「ああ、いいよ、いいよ」となります。生にしがみつくと言いますか、生きようと一生懸命になるから、欲がでます。「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」とヤコブ書にあります。
コリント人への第一の手紙15章55節から58節までを朗読。
この56,57節に「死のとげは罪である。罪の力は律法である。57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」。55節には「死は勝利にのまれてしまった」と記されています。死を乗り越えて、消えることのない命を与えるために、イエス様はこの世に来てくださいました。私たちが死を恐れるのはなぜでしょうか。この地上の生涯がすべてだと思っているからにほかなりません。罪のゆえに神様に信頼できない、神様から切り離されてしまっていた。だから、形のあるものにしか、信頼できなくなっている。心を委ねることができない、頼ることができなくなっている。これが罪です。だから、先ほどのたとえで、イエス様が語られたように、金持ちが倉を大きくして、たくさんの収穫を入れました。それは、彼がこの世にしがみついて、神様に信頼できない。ここに大きな問題があります。神に富む者となることが大切です。それは神様を宝とする者と変わることです。人が物に富むことばかりを求めるのは、それにより頼もうとするからです。神様に富むものとなるのは、神様に、見えない御方に心を委ね、信頼することができ、それを頼りとすることです。私たちが神様にはばかることなく親しく近づくことができるようにしてくださったのが、イエス様です。イエス様は、ここにあるように、死のとげである罪をご自分で十字架に負ってくださって、罪を取り除いてくださいました。私たちは、今、このイエス様の救いの中に在るのです。罪を許され、神様を信頼する者と変えられたのです。それがここ57節にあるように、「神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」と言うことです。その勝利の証詞として、それを言い換えた言葉が、先ほどのピリピ人への手紙「わたしたちの国籍は天にある」ということです。
「ピリピ人への手紙」3章19節に「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」。キリストの十字架に敵対して歩いている。言い換えると、先ほどの「コリント人への第一の手紙」に語られているイエス様が、罪のとげをなきものとして、罪を滅ぼしてくださいました。その十字架を受け入れようとしない、信じようとしない、敵対して歩いている。そのような人たちは、どのような生き方かと言いますと、19節に「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」。キリストの十字架に敵対して歩む人々は、自分たちの欲望を神としている。それが絶対的なものと思っている。「彼らの神はその腹」と言うのは、その意味なのです。腹とは腹黒いとか、欲があることを表します。だから、自分の考え、欲望を絶対的なものとしてしまう。これがすべてだ、と思う人。それはキリストの十字架に敵対しています。
また、「彼らの栄光はその恥」という、本当に恥ずかしいようなことを、自分の栄誉か名誉のように思っている。私たちの世の中はそのような人が多いですね。テレビなど見ていてもそうですが、仕方のないようなことを自慢している。恥ずかしいことを得々として自慢する人がいます。まさに、キリストの十字架に敵対した姿です。そればかりでなく「彼らの思いは地上のこと」、この世のことばかりに思いを支配されている、心が占められている。どうぞ、振り返って、私が神としているものは一体何なのか。私の心を今、占めている、心にあるものは一体何なのか。地上のことばかり、この世のことばかりではないか。本当に、神様のことを思って生きているか。日々、よみがえったイエス様と共にある生活、主を見上げて、主に絶えず心を向けているかどうか。「テモテへの第二の手紙」に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と言われています。イエス様を心に絶えず置いて生きているかどうか。このことを絶えず振り返っておきたいと思います。
20節に、「しかし、わたしたちの国籍は天にある」と。イエス様は、私たちの罪を取り除いて、勝利を与えてくださいました。それは、もはや、死を恐れることがいらない。神様は、私たちの国籍、ふるさとを、ちゃんとここだよと備えてくださっている。だから、「ヨハネによる福音書」14章1節に「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」、また2節に「わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」。イエス様が、私たちのために天に場所を用意してくださっているのです。そこへ私たちは帰って行きます。そこが私たちのふるさとなのです。それを現実のこととして、固く信じていけるかどうか。このことが、やがて、私たち一人一人に問われてくるのです。やがてではない、もう問われている時ではないでしょうか。今という時に、この地上にある時に、この世のことばかりに心を奪われることなく、思いを天国に向けて、国籍を天に移された者として生きるのです。ですから、20節に「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」。この地上は長くおるべき場所ではない。ここはひと時の旅先と「ヘブル人への手紙」にありますが、そのことを絶えずはっきりと自覚していきたいと思います。国籍を天に移されたことは、取りも直さず、私たちにとってこの地上は異国なのです。外国のようなものです。だから、地上の生涯が終わったら、すぐに主の御許(みもと)に帰るのです。そのことを確信して生きる日々、これが、今、求められていることではないのでしょうか。
私たちはこの地上に神様から遣わされた者。本来御国にあるべき私たちが地上にあるのは神様によっておかれているのです。日々の生活を神様が備えてくださり、また、派遣してくださった主が、私たちにああしなさい、こうしなさいと、指示を与えてくださる。その主の御声を日々に聞きつつ、生きていなければ、私たちの国籍は天にあると大胆に言えません。「私の国籍はこの世にある」と、天はどうなっているかわからないでは、まことに心もとない。絶えず「わたしの国籍は天にある」と信じるには、申し上げましたように、この地上にある日々をいつまでも続くと思わないこと、これが第一です。その次に、今ここに神様によって遣わされているのだと、絶えず自覚して、神様に遣わされた者として、遣わしてくださった方を絶えず覚えていく。また、その方のみ声を求めつつ、交わりの中に過ごすこと、これが大切です。三つ目は、主が使命は終わった、帰りなさい、と言われる時、「はい」と喜んで帰る決断を絶えずつけておくことです。急に言われて、大慌てで「ちょっと待ってください」と言えません。神様は、ちょっと待てないのです。その時に「はい」と行けるように備えておきたいと思います。
母の叔母にあたる末永雪さんという方がいました。その方が、70代の初めだったと思いますが、胃がんになり、しばらく療養をして治療を受けました。その時、父がお見舞いに伺った時に、雪姉が、「榎本さん、お祈りをしてください、手を置いて癒されるように祈ってください」と言われる。その時、父は神癒の祈りをしました。日ならずして、元気に回復されました。それから数年お元気だったと思いますが、また、やがて再発しました。その時にも、父がお見舞いに伺ったのです。「お祈りしましょう」と言った時に、雪姉は「榎本さん、今度は癒されるようにとは祈らないでください。私はもうこれで、この地上を去る時がきていると思いますから、平安に御国に帰ることができるように祈ってください」と言われた。父はその頃まだ若かった、40代だったと思いますが、どのように祈ったらいいのか。「神様、安心して天国に送ってください」とお祈りするのか、戸惑ったそうです。しかし、本人がそのように願うから、その時は「この姉妹が願っているように、安心してあなたの御許に帰れるようにその魂を守ってください」とお祈りをしたと、父の証詞に書いてありました。その時、父は雪姉の信仰の確かさを深く感じたと言います。雪姉は、若い時から、非常に祈り深い方で、父が献身者となって修養しておりました時、毎朝5時半からの早天祈祷会に父が扉を開ける前から外で待っている。しかも、じっと待っているのではなく、近くの路傍に座って、既にお祈りをしていたそうです。それほどの祈りの人でもありました。やはり、普段から常に神様に明け渡していくことです。このことを修練することが必要です。一朝一夕にはなりません。しかし、この世にありながら、思いは神様の思いの中に自分を明け渡していく。どんなことでも、つい自分の思いを神様に言います。ああしてほしい、こうしてほしい、こうなってほしい。しかし、それ以上に、神様の手に委ねることを、日々の小さなことの中で体験していきたいと思います。
ローマ人への手紙14章7,8節を朗読。
8節に「だから、生きるにしても死ぬにしても」とあります。神様に信頼しきって、明け渡してしまうと、生きていようと死んでいようとどちらでもいいようになってくる。そこにありますように、「だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のもの」です。神様のものとなりきってしまう。生きている時からですよ。死んだらそうなるに違いないと言うのではない。死ぬこと自体が、大変なことなのですから、「生きるにしても死ぬにしても」、すべてのことが主のものとなりきってしまうこと、ここを目指していきたいと思います。そのために、今生きているこの地上の生涯で、一つ一つ主に委ねること、明け渡すこと、従うことに徹底したい。自分の思いや、人の思い、人の言葉によって生きるのではなくて、人のために生きるのではなく、自分のために生きるのでもなくて、主のものとなりきること。これが国籍を天に移された者の生き方です。これが、死を乗り越えて永遠の命を受けるただ一つの道です。
ピリピ人への手紙3章20節に「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」。イエス様が、再び私たちの所に来てくださる終わりの時が早いのか、地上の命が終わるのが早いのか、それはわかりません。しかし、いずれにしても私たちは、イエス様の御前に立つのです。主と相見る時がくる。神様と顔と顔を合わせてみる時がくると約束されています。私のような卑しいものが、と思いますが、21節に「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」と約束されています。イエス様に出会うことができるように、私たちの汚れをすべて清めて、「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださる」。そして、主と共に同じ栄光の中に、その輝きの中に私たちを取り込んでくださいます。このことを信じて、日々、いろいろなことの中で、自分に死にきって、主に明け渡し、主のものとなりきっていこうではありませんか。地上の少々の問題や事柄があっても、そんなことはどうでもいいのです。この地上のことは、死ねばおしまいですから。その代わり、今という時に、真剣に主に信頼して安心を得ること、これを積み重ねていきたいと思います。小さなことであろうと、大きなことであろうと、そこで主に信頼し、主に委ねきって自分を捨て、主のものとなりきって、国籍が天にある者となって、主の御心は何でしょうか。主が私にさせようとしてくださることは何でしょうか、真剣に主に従う道を選んでいくこと、これが神に富むものとなる道です。どうぞ、主の勝利の生涯を私たちも生きるものとなりましょう。
ご一緒にお祈りをいたしましよう。
20節「わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」。
この言葉は身近な御言葉の一つではないかと思います。「わたしたちの国籍は天にある」と、墓碑銘にも使われる言葉です。教会の納骨堂にも「わたしたちの国籍は天にある」と、石版に刻印されています。また、福岡に平尾霊園という所にありますが、その霊園の一角は、キリスト教関係の墓地になっています。見て回ると、墓碑銘のトップが、「わたしたちの国籍は天にある」と、その次に多いのが「わたしはよみがえりであり、命である」のようです。そうやって見ると、「わたしたちの国籍は天にある」、召されたら国籍は天にある、そこへ行くのかと思います。そして、先に召された方たちはそこへ行っているのだなと思っているかもしれません。
たしかに、私たちの信仰の最終目的は、死をどのように受け止めていくかでしょう。死に直面した時、どのようにそれを受け止めて、それを乗り越えていくかに掛かっているのではないかと思います。私たちの生涯の総決算は、やはり、死です。それを越えて生きる望みがあるかどうか。生きると言いますのは、死んでも死なない肉体のことではなくて、私たちの魂が、いのちと力に満ちていくことができるかということです。これが、問われるのだろうと思います。
ところが、案外と自分の死を、間近にひしひしと感じる状況にありません。他人の死はよく理解できます。年ごとに喪中、欠礼のハガキをもらいます。そうしますと、あの人も死んだ、この人も死んだ。そういって私どもは、人の死は受け入れます。ところが、自分が死ぬということは、あまり自覚しません。うかつだった、私も死ぬのかと思う時が来ます。その時、本当に信仰に立っているかどうか、死に耐えられる信仰であるかどうか、振るわれるのです。死を越えて望みを持つ信仰を得るには、生きていて元気があって、私はまだ死なないだろうと思っている時こそ、真剣に自分の死を見据える、そのことを身近に感じて生きることが大切だと、自分の病気を通して、最近そう思います。信仰には、生きるための信仰と、死ぬための信仰があるように思います。そのように信仰を分けることはできませんが、生きるため、ということに集中している時期が人生にあります。何を食べ、何を着、何を飲もうかと、いわゆる生活のために一生懸命神様を求めていた時期があります。子どもの就職、結婚、あるいは、自分自身の仕事上の問題、人との付き合いでの問題、家族の問題、いろいろな事柄で悩みます。生きることの苦しみもありました。だから、問題に当たる度に主を求め、神様を求める。そのように生きることだけを考えて、人生を歩んでいた。だから、自分が死ぬということはあまり考えない。自分の死を見据えて、そこに神様を信じる自分の信仰が、どのように働くのか、自分は何を望みとして生きているのか考えません。生きることを目指している時、生活の事情や境遇がうまくいくように、願いがかなうようにということが中心だったのです。もちろん、私たちは生きていますから、それは私たちの願いでもあります。風邪を引いたら、早く風邪が治って、早くこの熱が引いて元気になって、毎日楽しく生活できるように、食欲が旺盛になってご馳走も食べられるようになりたいと祈ります。生きることを絶えず願って、神様を求める。その思いには、死というのがズーッと小さくなっています。あるかもしれないが、それはまだ先のことだと思いやすい。しかし、実は、絶えず死と向き合って生きることがなければ、いよいよ最後の時に、どうにもならなくなります。
突然、あなたの余命は数ヶ月なんて言われると、うろたえるに違いない。身の置き所がなくなるに違いない。そうならないために、絶えず自分の死を覚えていなければならないのです。
ルカによる福音書12章13節から21節までを朗読。
この時、イエス様の所に人が尋ねて来まして、遺産相続のトラブルがあったので、イエス様、どうぞ仲裁をしてくださいと申し出ました。その時にイエス様は、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。人のいのちは、持ち物にはよらないのである」と言われて、一つのたとえ話を語られました。金持ちがいました。彼はその年豊作で収穫がたくさんだった。それをしまっておく所がない。これが生きる悩みです。たくさんあり過ぎてどうしようか、それをどうやったらいいか、それをいろいろ悩んだ結果、今まで持っていた小屋を壊して、もっと大きいのを建てた。そこへ全部しまい込んで、これで安心、安心と思ったのです。
その時に20節に「すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。「愚かな者よ」と。あなたは生きることを考え、食え、飲め、楽しめ、人生を楽しみ、謳歌するための信仰、生活が順調になり、心配事がなく、日々健康であって守られてということばかりを、追い求めている。この金持ちはまさにそのような生き方をしていたのです。その時に神様が、「愚かな者よ」、今夜あなたの命が取られたら、蓄えたものは誰のものになるのか。そして、結論にイエス様は、「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」と言われました。神様に富む者というのは、神様のお言葉に信頼して、それによって豊かになっていくことです。自分の持っているものに望みをおくことではありません。この金持ちはたくさんの収穫があって、大きな倉を建てて、そこへ思いっきり持てる物を全部蓄えました。これで安心だと。彼の安心は持ち物が多いことにあったのです。私たちも、そのような生き方をしていた時期があります。自分自身を振り返ってみてもそうでしょう。若いころ、人生のそれぞれの段階に応じて、その直面する時に応じての信仰の姿でもあると思います。
金生先生くらいの若い方は、今は子育てに一生懸命ですから、願うことは、なんとかこの子どもたちが成長して、道を曲がらずに育ってくれることです。そのために、オムツを替えたり、食事の準備をしたりしている。恐らく、その時は、自分の死なんて考えません。皆さんでも、35,6歳のころを振り返ってご覧なさい。死ぬのは年寄りだと思っていた。その時期は、生きることに一生懸命ですから、そのために神様に求めることはあるに違いないし、そこで神様に信頼する、生きるために信頼しているでしょう。
ところが、老人手帳をもらう年頃になると、やはりそういうことばかりではいけない。それでも尚気付かないで、生きることだけに一生懸命になっているとするならば、この金持ちと同じことです。もう、そろそろ目を覚まして、自分の死を見据えて、それにふさわしい信仰を身につけるべきです。
最近の私たちの生活の中では、死を自覚することがなかなか難しい。死というものが隔離されている。大抵、死ぬのは病院ですから、間近に生活の中でということが非常に少ない。昔、何十年前は、家族が、おじいちゃん、おばあちゃんも一緒ですから、人は年を取っていき、そして寝たきりになるのを日々の生活の中で、子どもや孫は見て成長しました。死ぬことが身近だった。それは年を取るばかりでなくて、かつては、5人子どもがいても、大抵、1人か2人は死にました。幼児期に死んでいる。昔の人の家系図を見ますと、大体4,5歳で亡くなったとか、10歳前後で亡くなったという人が必ずいます。ところが今は、子どもも少ないですが、それ以上に子どもの死をほとんど聞かなくなりました。だから、死が生活の中からズーッと遠ざかってしまいました。だからといってなくなったわけではありません。
14世紀にヨーローッパでペスト病が流行った時代があります。ペストが流行って、村の半分の人が死んでしまうとか、町の3分の2の人が死んでしまうという時代だったからです。連日、表通りを霊きゅう馬車が通っていく事態で、町のあちらこちらで死者を悼む泣き声が聞こえていたというのです。それ以後、長年にわたって死の恐怖が社会を支配していました。1600年前後ですが、ジョン・ダンと言う一人の詩人で、英国国教会の本山となっているセントポール寺院の総監督にまでなった人物がいます。彼は、後のミルトンなど巨大な宗教詩人の先駆けになる人物ですが、彼は死にまつわるテーマの詩を書いています。だから、その死を絶えず見据えて生きる。そのころ流行った言葉に、「メメントモーリー」というのがあります。“死を覚えよ”というラテン語の言葉です。絶えず自分の死を見据えて生きることです。この詩人ダンは、ついに病高じて自分を棺に入れて、死に装束をして、その姿を画家に書かせているのです。自分が棺に入った姿の絵を書斎に掲げていました。その絵は残っていますが、そこまで徹底している。自分の死を見つめている。その当時の、ある文学者は人の頭蓋骨を絶えず自分の机の上に置いていた。悪趣味といえば悪趣味かもしれません。しかし、それだけ真剣に自分の死を考えるのです。
皆さんの家の居間のテーブルに、誰か死んだ人の頭蓋骨を置いて生活をしてご覧なさい。これは生きることに真剣になりますよ。私もまもなくこうなるのかと。私たちにとってそのような中で生きることが今は乏しくなっています。しかし、だからといって死がなくなったのではない。生きることを考えるより、死ぬことを考えたいと思います。上手に死ぬといいますか、死を乗り越えて永遠の命に輝いていく生き方とは、自分にとってはどういうことなのか、しっかりと心においていきたいと思います。そうやって、自分の死を見つめて生き始めると、人が少々なにを言おうと全然気にならなくなります。今まで夢中になって、あれはいかん!とか、絶対こうでなければ!なんて言っていた自分がばかばかしくて、愚かしくなります。どっちみち自分は死ぬのだと思うと、何もかも「ああ、いいよ、いいよ」となります。生にしがみつくと言いますか、生きようと一生懸命になるから、欲がでます。「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」とヤコブ書にあります。
コリント人への第一の手紙15章55節から58節までを朗読。
この56,57節に「死のとげは罪である。罪の力は律法である。57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」。55節には「死は勝利にのまれてしまった」と記されています。死を乗り越えて、消えることのない命を与えるために、イエス様はこの世に来てくださいました。私たちが死を恐れるのはなぜでしょうか。この地上の生涯がすべてだと思っているからにほかなりません。罪のゆえに神様に信頼できない、神様から切り離されてしまっていた。だから、形のあるものにしか、信頼できなくなっている。心を委ねることができない、頼ることができなくなっている。これが罪です。だから、先ほどのたとえで、イエス様が語られたように、金持ちが倉を大きくして、たくさんの収穫を入れました。それは、彼がこの世にしがみついて、神様に信頼できない。ここに大きな問題があります。神に富む者となることが大切です。それは神様を宝とする者と変わることです。人が物に富むことばかりを求めるのは、それにより頼もうとするからです。神様に富むものとなるのは、神様に、見えない御方に心を委ね、信頼することができ、それを頼りとすることです。私たちが神様にはばかることなく親しく近づくことができるようにしてくださったのが、イエス様です。イエス様は、ここにあるように、死のとげである罪をご自分で十字架に負ってくださって、罪を取り除いてくださいました。私たちは、今、このイエス様の救いの中に在るのです。罪を許され、神様を信頼する者と変えられたのです。それがここ57節にあるように、「神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」と言うことです。その勝利の証詞として、それを言い換えた言葉が、先ほどのピリピ人への手紙「わたしたちの国籍は天にある」ということです。
「ピリピ人への手紙」3章19節に「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」。キリストの十字架に敵対して歩いている。言い換えると、先ほどの「コリント人への第一の手紙」に語られているイエス様が、罪のとげをなきものとして、罪を滅ぼしてくださいました。その十字架を受け入れようとしない、信じようとしない、敵対して歩いている。そのような人たちは、どのような生き方かと言いますと、19節に「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」。キリストの十字架に敵対して歩む人々は、自分たちの欲望を神としている。それが絶対的なものと思っている。「彼らの神はその腹」と言うのは、その意味なのです。腹とは腹黒いとか、欲があることを表します。だから、自分の考え、欲望を絶対的なものとしてしまう。これがすべてだ、と思う人。それはキリストの十字架に敵対しています。
また、「彼らの栄光はその恥」という、本当に恥ずかしいようなことを、自分の栄誉か名誉のように思っている。私たちの世の中はそのような人が多いですね。テレビなど見ていてもそうですが、仕方のないようなことを自慢している。恥ずかしいことを得々として自慢する人がいます。まさに、キリストの十字架に敵対した姿です。そればかりでなく「彼らの思いは地上のこと」、この世のことばかりに思いを支配されている、心が占められている。どうぞ、振り返って、私が神としているものは一体何なのか。私の心を今、占めている、心にあるものは一体何なのか。地上のことばかり、この世のことばかりではないか。本当に、神様のことを思って生きているか。日々、よみがえったイエス様と共にある生活、主を見上げて、主に絶えず心を向けているかどうか。「テモテへの第二の手紙」に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と言われています。イエス様を心に絶えず置いて生きているかどうか。このことを絶えず振り返っておきたいと思います。
20節に、「しかし、わたしたちの国籍は天にある」と。イエス様は、私たちの罪を取り除いて、勝利を与えてくださいました。それは、もはや、死を恐れることがいらない。神様は、私たちの国籍、ふるさとを、ちゃんとここだよと備えてくださっている。だから、「ヨハネによる福音書」14章1節に「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」、また2節に「わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから」。イエス様が、私たちのために天に場所を用意してくださっているのです。そこへ私たちは帰って行きます。そこが私たちのふるさとなのです。それを現実のこととして、固く信じていけるかどうか。このことが、やがて、私たち一人一人に問われてくるのです。やがてではない、もう問われている時ではないでしょうか。今という時に、この地上にある時に、この世のことばかりに心を奪われることなく、思いを天国に向けて、国籍を天に移された者として生きるのです。ですから、20節に「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」。この地上は長くおるべき場所ではない。ここはひと時の旅先と「ヘブル人への手紙」にありますが、そのことを絶えずはっきりと自覚していきたいと思います。国籍を天に移されたことは、取りも直さず、私たちにとってこの地上は異国なのです。外国のようなものです。だから、地上の生涯が終わったら、すぐに主の御許(みもと)に帰るのです。そのことを確信して生きる日々、これが、今、求められていることではないのでしょうか。
私たちはこの地上に神様から遣わされた者。本来御国にあるべき私たちが地上にあるのは神様によっておかれているのです。日々の生活を神様が備えてくださり、また、派遣してくださった主が、私たちにああしなさい、こうしなさいと、指示を与えてくださる。その主の御声を日々に聞きつつ、生きていなければ、私たちの国籍は天にあると大胆に言えません。「私の国籍はこの世にある」と、天はどうなっているかわからないでは、まことに心もとない。絶えず「わたしの国籍は天にある」と信じるには、申し上げましたように、この地上にある日々をいつまでも続くと思わないこと、これが第一です。その次に、今ここに神様によって遣わされているのだと、絶えず自覚して、神様に遣わされた者として、遣わしてくださった方を絶えず覚えていく。また、その方のみ声を求めつつ、交わりの中に過ごすこと、これが大切です。三つ目は、主が使命は終わった、帰りなさい、と言われる時、「はい」と喜んで帰る決断を絶えずつけておくことです。急に言われて、大慌てで「ちょっと待ってください」と言えません。神様は、ちょっと待てないのです。その時に「はい」と行けるように備えておきたいと思います。
母の叔母にあたる末永雪さんという方がいました。その方が、70代の初めだったと思いますが、胃がんになり、しばらく療養をして治療を受けました。その時、父がお見舞いに伺った時に、雪姉が、「榎本さん、お祈りをしてください、手を置いて癒されるように祈ってください」と言われる。その時、父は神癒の祈りをしました。日ならずして、元気に回復されました。それから数年お元気だったと思いますが、また、やがて再発しました。その時にも、父がお見舞いに伺ったのです。「お祈りしましょう」と言った時に、雪姉は「榎本さん、今度は癒されるようにとは祈らないでください。私はもうこれで、この地上を去る時がきていると思いますから、平安に御国に帰ることができるように祈ってください」と言われた。父はその頃まだ若かった、40代だったと思いますが、どのように祈ったらいいのか。「神様、安心して天国に送ってください」とお祈りするのか、戸惑ったそうです。しかし、本人がそのように願うから、その時は「この姉妹が願っているように、安心してあなたの御許に帰れるようにその魂を守ってください」とお祈りをしたと、父の証詞に書いてありました。その時、父は雪姉の信仰の確かさを深く感じたと言います。雪姉は、若い時から、非常に祈り深い方で、父が献身者となって修養しておりました時、毎朝5時半からの早天祈祷会に父が扉を開ける前から外で待っている。しかも、じっと待っているのではなく、近くの路傍に座って、既にお祈りをしていたそうです。それほどの祈りの人でもありました。やはり、普段から常に神様に明け渡していくことです。このことを修練することが必要です。一朝一夕にはなりません。しかし、この世にありながら、思いは神様の思いの中に自分を明け渡していく。どんなことでも、つい自分の思いを神様に言います。ああしてほしい、こうしてほしい、こうなってほしい。しかし、それ以上に、神様の手に委ねることを、日々の小さなことの中で体験していきたいと思います。
ローマ人への手紙14章7,8節を朗読。
8節に「だから、生きるにしても死ぬにしても」とあります。神様に信頼しきって、明け渡してしまうと、生きていようと死んでいようとどちらでもいいようになってくる。そこにありますように、「だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のもの」です。神様のものとなりきってしまう。生きている時からですよ。死んだらそうなるに違いないと言うのではない。死ぬこと自体が、大変なことなのですから、「生きるにしても死ぬにしても」、すべてのことが主のものとなりきってしまうこと、ここを目指していきたいと思います。そのために、今生きているこの地上の生涯で、一つ一つ主に委ねること、明け渡すこと、従うことに徹底したい。自分の思いや、人の思い、人の言葉によって生きるのではなくて、人のために生きるのではなく、自分のために生きるのでもなくて、主のものとなりきること。これが国籍を天に移された者の生き方です。これが、死を乗り越えて永遠の命を受けるただ一つの道です。
ピリピ人への手紙3章20節に「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」。イエス様が、再び私たちの所に来てくださる終わりの時が早いのか、地上の命が終わるのが早いのか、それはわかりません。しかし、いずれにしても私たちは、イエス様の御前に立つのです。主と相見る時がくる。神様と顔と顔を合わせてみる時がくると約束されています。私のような卑しいものが、と思いますが、21節に「彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう」と約束されています。イエス様に出会うことができるように、私たちの汚れをすべて清めて、「栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださる」。そして、主と共に同じ栄光の中に、その輝きの中に私たちを取り込んでくださいます。このことを信じて、日々、いろいろなことの中で、自分に死にきって、主に明け渡し、主のものとなりきっていこうではありませんか。地上の少々の問題や事柄があっても、そんなことはどうでもいいのです。この地上のことは、死ねばおしまいですから。その代わり、今という時に、真剣に主に信頼して安心を得ること、これを積み重ねていきたいと思います。小さなことであろうと、大きなことであろうと、そこで主に信頼し、主に委ねきって自分を捨て、主のものとなりきって、国籍が天にある者となって、主の御心は何でしょうか。主が私にさせようとしてくださることは何でしょうか、真剣に主に従う道を選んでいくこと、これが神に富むものとなる道です。どうぞ、主の勝利の生涯を私たちも生きるものとなりましょう。
ご一緒にお祈りをいたしましよう。