いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(304)「愛するということ」

2014年08月28日 | 聖書からのメッセージ
 「ルカによる福音書」10章25節から37節までを朗読。

 27節「彼は答えて言った、『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。

 これは律法学者、当時の宗教家と言われる人物たち、あるいは世の指導者であった人たちがイエス様の所へ「試みようとして」来ました。イエス様がどのような答えをするだろうか、探ろうと思ったのです。「何をしたら永遠の生命(せいめい)が受けられましょうか」と尋ねました。別の機会に、イエス様の所に青年がやって来て「永遠の生命を受けるために何をしたらいいか?」と尋ねられたことがあります。そのとき、イエス様は「律法を守りなさい」と勧めました。その青年は「子供のときから全部守っています」と言ったので、イエス様は大変感心されて、「それじゃ、あなたの持っている物を全部売り払って貧しい人に施(ほどこ)して天に宝を積む者となって、わたしに従いなさい」と答えています。

ここでもイエス様は同じことを言われました。26節に「律法にはなんと書いてあるか」。言うならば「律法を守りなさい」ということです。神様の御言葉を学ぶことです。その方にイエス様が「御言葉を守りなさい、戒めを守りなさい」と言われたのですが、26節「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」と。ただ単に「お前は律法のことを知っているか」と尋ねられたのではない。明らかに「律法を守っていればそれでいいのだ」と言われたのです。その中でもっとも大切な戒めとして、27節「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と答えました。いうならば、全身全霊です。「自分のすべてを費(つい)やして神を愛しなさい」との律法です。

神様を愛するといって、実は、神様を愛したことがないのです。今でこそ、神様の憐(あわ)れみにあずかって、救いに導かれ、イエス様の十字架のあがないによって、神様を信じる者とされました。だから、今は神様を知っています。そして、神様を愛する者になりたいと願います。日本にはあちらこちら、いろいろな所に神、仏と称(しょう)するものがありますから、そういうものに気がつくことはあります。だからといって、それを愛するとは思わない。利用したいとは思ったのです。“苦しいときの神頼み”で、病気平癒祈願であるとか、あるいは学業、入試のときに天満宮で拝むとか、そのような形で神様を利用する。本人は利用するとは思っていませんが、「すがろう」ということは無かったわけではない。ところが、神様を愛するという、そんな気持ちになったことは一度として無かった。しかし、律法学者やユダヤの人たちは、生まれながらに神様を知っていたのです。本来、神様の民であった。神の民とも言われた人たちですから、当然神様を愛することは分かっていたはずです。でも彼らは神様を愛するとはどうすることか? 具体的なことが分からない。神様を愛すという言葉は知っているし、口では言うけれども、男女の愛のように目の前に相手が見えるものではないから、なかなかはっきりしません。雲をつかむような頼りないことです。

恐らく、律法学者も知っていたが、それが具体的に何をどうするべきことなのか、分からなかった。律法学者は「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」と、「律法の中に大切なことがある。それはまず神様を全身全霊、力を尽くして神様を愛することだ」と。もう一つは「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」。自分を愛するとはよく分かる。人はいちばん自分を愛します。自分以上に自分を愛する人はほかにいません。いくら奥さんが「おれを愛してくれている」と言っても、自分で愛する以上のことはできません。人はそのように自分を愛することに熱心です。だから、「そのように、今度はあなたの隣人を愛しなさい」と言われるのです。そこで28節「彼に言われた、『あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる』」。誠に素晴らしい約束です。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛すること」。そして「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛すること」。これを行えば永遠のいのちを得られる、というのです。こんな簡単なことはないじゃありませんか。しかし、彼らは「そうか。良かった、良かった」と言ったのではない。

29節に「すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、『では、わたしの隣り人とはだれのことですか』」。ここで「わたしの隣り人とはだれのことなのか?」と尋ねています。「自分は愛したいのだが、分からない。そんなものを愛することはできない」。言うならば「これは守れない。こんなことはできないよ」と言いたかった。そのとき、イエス様は一つのたとえを語っておられます。

そこで、この27節「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」の御言葉ですが、私たちが全身全霊、すべてを尽くして神様を愛することは、私たちはできません。その次に「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」と言われます。どうですか、私たちはいちばん自分を愛します。だから、愛する家族よりも、奥さんよりも、ご主人よりも、やはり自分のほうが可愛いですよ。自分のほうが大切です。「無償の愛」であるとか、「親子の愛」とか言いますが、よく父が例話に語っていた石川五右衛門の話を覚えているでしょう。京都の四条川原で捕らえられて、釜ゆでの刑になった。親子共々に刑を受ける。五右衛門釜の水が熱くなってくる。五右衛門は幼い子供を抱いて初めのうちは我慢して、子供だけは何とか救おうと、子供を手に上げておった。そのうち熱くてたまらなくなったら、途端にパッと子供を足台にして自分が立ってしまったと。人はそのように自己本位と言いますか、自分の利益を求めるものであることを示す、極めて分かりやすいたとえです。「そんなひどいことを……、石川五右衛門もやはり人間だった」と言う。ひどいと言えない。私たちもそうなのですから。「我が愛する子供よ」「我が息子よ」「我が娘よ」「我が孫よ」と言いますが、「では、その子が大変苦しんでいるときに身代わりになれるか」というと、なれない。横でご主人がインフルエンザに罹って、高熱でフーハー言っている所で、奥さんは「大丈夫?」「大丈夫?」とは言うけれども、おなかがすいたら平気でお寿司を食べている。これはもうやむを得ない。私どもはそのように隣人を愛する愛がない。ところが、そのような私たちに愛を与えてくださる。

「ヨハネの第一の手紙」4章7節から11節までを朗読。

ここに繰り返して「神は愛である」と語っています。しかも、その神様はどうなさったか。9節に「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」。天地万物創造の神であり、すべてのものの上に君臨している神様は、ご自分のひとり子をこの世に遣わしてくださった。それによって、わたしたちを生きる者にするためです。「生きる者」とは、ただ肉体が健康であるとか、心臓が元気よく、血流が回っているとか、あるいは飲んだり食べたり笑ったり、悲しんだり、日常生活を営んでいる肉体が元気だということが、命ではない。それは肉体の命という意味では命ですが、それは本当の生きるいのちではありません。「生きるいのち」とは、神様との交わり、神様から与えられる力です。だから、いま私たちの周囲には、本当の意味での「いのち」がないのです。だから「死んだような状態と」と聖書には語られています。「罪過と罪とによって死んでいた者であって」(エペソ 2:1 )と。「いや、おれは死んではいない。元気だよ。どこを調べたって検査をしたって、何の悪い所も、異常もなかった」と。だから生きているかというと、そうではない。自分の生活、この地上の歩み、その中で喜び感謝し、それを与えてくださる神様を恐れ敬って、神様の御心に従って行くことが「いのち」なのです。神様と交わりを持つこと、神様とのかかわりの中で生きる者となること。

9節に「神はそのひとり子を世に遣わし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」と。このことをもう少しお話しておきますが、イエス様がわたしたちの主となって、よみがえってわたしたちの生活の中に住んでくださる。そのように聞いているし、そう信じている。いうならば、日々の生活の中で、常によみがえったイエス様との関係を大切にすることが生きることです。もう少し言い換えると、日々生活する日常の一つ一つの業(わざ)がイエス様と結びついているのです。「そんな!私は私の生活だ。私の人生だし、何もイエス様とは関係がない。イエス様は確かに私の罪のためにあがないとなって死んでくださった。それはよく分かり、有難いことだ。でも、今日の生活は私がやらなければいけない」と。ただそのとき、大切なのは、祈ること、イエス様と共に生きるところに初めていのちがある。だから、朝起きて「神様、どうぞ、今日もあなたの御心を行うことができますように、神様、あなたの御心にかなう者としてください。あなたの求め給うところに従います」と祈り、神様と結びついて生きるとき、人は生きるのです。それを忘れて、あの人がこう言ってくるからこうしようとか、あるいは私がこうしたいから、天気がいいから、ああしようとか、曇っているからどうしようとか、雨が降ったから今日は一日寝ておこうとか、そのような勝手なことをしている間、生きているのではない。常に主との交わり、神様との交わりによって、わたしたちは生きることができる。

ですから、9節に「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである」と。キリストと共に生きるとき、神様がどんなに私を愛してくださったか、私のために備えてくださったかを知ります。イエス様と共に生きていると、不平不満は生まれてこない。一日一日が、どれをとっても感謝です。「主が『ここへ行け』と言われるから、これをさせていただく。これは主が『するな』と言われるから、やめます」と。朝目覚めて、「今日はこれとこれだけをするのだ」と自分が考える。ところが、途中で人が来たり、何か事があったりしてうまくいかない。洗濯もいい加減になってしまった。夜、寝るとき、「今日は忙しいばかりで、あの人が来なければよかった、この人が来なければよかった。あの電話が一時間も掛かったからえらい目に遭った」と、そんなことを言って終わる。そこにはいのちがない。イエス様と共に生きるとは「あの人を送ってくださったのも主で、この迷惑電話が掛かったのも神様が何か私に教えてくださったに違いない」と感謝して受ける。イエス様とのかかわりで、すべてのものを「よし」とするところに、いのちがある。そうしていくと、「イエス様が私を生かしてくださる。イエス様が今日もすべきことも、食べることも、ことごとく備えてくださった」と、一日を感謝して終わる。何一つ不平をいう必要がなくなる。「もう少し記憶力が……、最近は記憶力が悪くなって、探すことばかりで時間を費やしてしまって、今日はもうえらい目やった」と言わなくなります。だから、一つ一つ主と共に生きていくのが、「いのち」に生きるのです。輝いて生きるのです。「今日も一日終わって、また明日も、主もし許し給わば……」と、讃美歌の535番に『今日をも送りぬ、主につかえて』と賛美して、一日を終わる。主もし許し給わば、明日も主に仕えて生かしていただく。これが「いのち」に生きる生活。そうしていくと、どんなことにも神様の愛を感じることができる。神様が私を愛してくださっていることを直接的に感じる。だから9節に「それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである」。
10 節に「わたしたちが神を愛したのではなく」とありますが、私たちは神様を愛したことがない。いや、愛することすらもできない。私たちに愛がない。このことをまず認める。そして、愛のない、あるものはただ自己愛だけ、自我自欲というか、そのような欲得ばかりの情欲に満ちた自分であります。そのような私たちをすべてご存じのうえで、その罪のゆえに十字架に命を捨ててくださった。そして、私たちを愛してくださる。イエス・キリストを私の救い主と信じていくとき、初めて私たちの内に愛が注がれるのです。空っぽの、愛のなかった私たちに、愛する心が生まれてきます。愛する心とは、主イエス・キリストの、十字架のご愛に応答するという形で生まれてくる。「こんな者を神様が愛してくださった。ひとり子を賜うほどに、本当に申し訳ない、こんな私ですけれども、神様がこんなに愛をもって顧(かえり)みてくださる。ひとり子を送ってくださって、よみがえった主が今日も私の主となってくださって……、何と感謝でしょうか」と感謝する心を土台にして、「神様、あなたにどのように応えていきましょうか。神様、あなたのこの恵みに何と報いたら良いでしょうか」という思い、そこが愛なのです。「神様、あなたのご愛にどう応えたらいいでしょうか。すべてを主にささげる以外にありません。こんな私です、欠けだらけで汚れた者、はしにも棒にも掛からない。いやそれどころか年も取って目もしょぼくれ、何もかもボロ雑巾のように捨てられていい自分ですが、主よ、憐れんで、あなたのものとしてお受けください。ささげるべきものはこれしかありません」と、ご愛に応答していく。これが自分に死ぬことです。そうすると、どんなことも、もう問題ではない。主の愛に応答するという形で、神様のご愛が私たちに注がれてくる。だから、10節に「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」とあります。「ここに愛がある」、まさにそれ以外に神様の愛はありません。神様はどんなご愛を私にくださったのか、何をくださったのか、どんな良いことをしてくださったのか、私たちは愛を何かに取り替えようとする。そうではない。神様が愛してくださったご愛は十字架以外にない。ですから、どんなときにも十字架の主を絶えず見上げて、「そうだ。あの十字架に、ひとり子が命を捨てて私を愛してくださった。だったら、何の文句を言うことがあるでしょうか」と。つぶやく思いがあるとき、十字架の主を忘れているのです。そのときはもう一度静まって、一人静かに神様の前に出て、神様は何をしてくださったか? ゆっくりと十字架のあがないの恵みをリフレッシュしていく。そうすると、今まで不平不満、怒り苛立ちの心が変わります。こんな者を愛してやまない神様が、今日も「父よ、彼らを赦し給え」と、執成してくださる。

11節に「愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから」と、ここにその前提がちゃんとある。「そうです。私は神様、あなたによって愛されました」と確信を持つと、その後の言葉はおのずから完成する。何とありますか?「わたしたちも互に愛し合うべきである」。互いに愛し合うことができる者と変わる。「神がわたしたちを愛して下さった」と確信がないままに、人を愛そうとすると、偽善に陥(おちい)るのです。神様のご愛を抜きに、人を愛している自分になりたいと思うとき、人は偽善者になります。あるいは、その行為の裏側に報いを求める。打算がある、欲得があります。潔い愛とは、神様のご愛に応えていくこと。神様からの愛に満たされて、その愛に押し出されて隣り人を愛する。

もう一度初めのルカによる福音書10章27節に「彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』」。「全身全霊を尽くして、自分の一切をもって神様を愛しなさい」と言われていますが、その真意は、既に神様がひとり子を賜うほどに愛したのだから、その愛に応答してという意味です。だから、つい律法ですから、何か命令されているような、決められているように思いますが、そうではない。先ほどの御言葉にありましたように、「神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから」、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。神様がまず初めに愛を示してくださった。それに対して私たちが応えていくのです。そのときに「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」は、おのずから当然、言わずともそうなっていかざるを得ない。先ほどの御言葉にもありましたように、「神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである」。「隣り人を愛すること」、これはもう何の苦もないと言いますか、へっちゃらですよ。神様の愛を深く感謝して受けるとき、私たちが隣り人を愛することなんて当然ではないですか。当然どころか、喜んで、そのくらいで良いのだったら喜んでそれをさせていただきましょう。神様が私を愛してくださったのですから、そのご愛に比べるならば、私たちのすることは実に小さい。ですから、この二つの御言葉は表裏一体です。神様を愛すること、そして隣り人を愛することは、二つに分けて語られていますが、これは一つです。イエス様は28節に「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい」と。そのとおりに行うとき、私たちはいのちを頂きます。私たちは「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして」、全身全霊、どんなことを尽くしてでも、父なる神を愛する者となりたい。というのは、神様によって愛されているからです。だから、それを抜きにして「神様を愛せよ」と言われると、私たちは苦しい。「私は神様なんか愛せない。自分は愛するけれども」と。ところが、十字架を見上げてご覧なさい。主のご愛に私たちが満ちあふれると、神様を愛することは当たり前であります。

29節に「すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、『では、わたしの隣り人とはだれのことですか』」。この律法学者はなかなか神様の愛が分かりませんから、何とかして自分を義としたい。「私がそれをできないのはちゃんと教えてくれないからだ」と言うのです。イエス様は「その隣り人は誰か」と問われたときに、30節以下に一つのたとえを語っています。ある一人の人が旅をしているときに強盗におそわれて半殺しになり、道端に捨てられている。たまたまそこへ祭司とレビ人が通りかかる。祭司もレビ人も神様に仕え、当然神を愛する者であるはずです。ところが、彼らはその人を離れ、反対側を行ってしまった。ところが、その後33節以下に「ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」。サマリヤ人がやって来て、「あ、気の毒だ」と思ったのです。祭司もレビ人も同じく見たと思います。サマリヤ人は近寄って介抱した。そればかりでなく運んで行って、宿屋でご主人に「次の日に出かけるけれども、もし足らなかったら帰りに支払うからこの人をちゃんと介抱してやってほしい」と頼んで行く。「よきサマリヤ人」と言われて、慈善・善行の見本のように言われる。これを読んで、「私もそういうことをしなければ、どこか倒れている人はいないか。いや、それは世界にたくさんいるから、ひとつアフリカであろうと、アジアであろうと、困っている人はたくさんいる。フィリピンの路上生活者もいる、あるいは、アフリカには死にかかった人がいる。一つそういう人を助けなければいけない」という話にすぐなります。しかし、イエス様はここでそんなことを言っているのではない。祭司、あるいはレビ人がその場所を通りかかった。彼らは避けて通って行った。イエス様はあえてこの祭司やレビ人を非難がましくおっしゃっているのではありません。哀れんでおられると思います。というのは、彼らは神様の愛を知らない者だったからです。祭司であり、レビ人であり、神様に仕える民でありながら、神様の愛を知らなかったのです。だから、愛せないのです。これは当然です。私たちも、ともするとそういう生き方になってしまう。愛がなければこれはできません。サマリヤ人は、33節に「ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり」、この人も見たまま通り過ぎたっていいのです。ところが、どういう訳か彼は通り過ぎることができなかった。そこに「気の毒に思い」という言葉がありますから、この言葉だけで考えるならば、非常に同情心があつい、気持ちの優しい人だったな、という言い方になりますが、この前後の流れから言うならば、それだけではない。そんな気持ちの優しい人、親切な人は世の中にいくらでもいます。イエス様が言われるのは、神様を愛する行為として、困難にある人の「隣人」になることです。イエス様がこのサマリヤ人を「よし」としている原因がある。優しいことをし、人のためになることをし、困っている人を助けることが神様の喜ばれることか、というと、必ずしもそうではありません。博愛主義とよく言いますが、そういうものは偽物です。そんなことを言うとおしかりを受けそうですが、神様のご愛に応答するものとして「隣り人」になること。これがイエス様が求めていること。だから、世の中にもいろいろな慈善団体があり、慈善家がいろいろなことをします。確かにそれによしあしを言うことは何もありません。ともすると、私たちが同じようにしなければならないかのように思いますが、ここでイエス様が言われるのはそうではない。たまたまそこへ通りかかった。そのときに見ないでやり過ごしてしまえば、かかわらないでいい。そういうことは、私たちの日常生活にたくさんあるじゃありませんか。近所の人、自分の家族、子供だとか孫が困って、「おじいちゃん、こうなんだけれども、どうしようかしら?」「また金をせびられて……」と、避けて通る。「親がいるのだから、親に聞きなよ」。それはそれでいいでしょう。ただ、ここでイエス様が言われるのは倒れている人を気の毒に思って近寄る。「あの孫が倒れているわけではない」と言い訳をしますが、神様からその事柄にかかわることを求められている。このサマリヤ人はそこをたまたま通りかかった。それは神様が彼にそこを通させなさった。さて、それをどう受け止めるか。これは私たちの日常の中に常に問われている。もしそのことにかかわったら、自分の財を、もちろん無けなしのお金も蓄えも減るに違いない。時間も費(つい)やすに違いない。時には健康も損なうかもしれない。そのことによって煩(わずら)わしい日々が続いてくるかもしれない。でも、いま神様が私を愛してくださったご愛に応えて、この者を愛することを求めておられると受け止めていく。これがイエス様が語っている事です。

36節に「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」と。「隣り人」というのは自分がかかわる人です。関係ある人です。いわゆる家が隣であるとか、生活している場所が一緒だから隣り人だというのではなく、ここに「隣り人になったか」と。「隣り人になる」と言っています。単に家が隣り合って隣り人になるのとは違います。同じ家族であっても、親子であっても隣り人になるとは、このサマリヤ人のようにみずからが相手の困難や苦しみや、あるいは必要を分かち合っていく。共に担おうとすること。言い換えると、自分がそこにかかわっていくことです。これはなかなか大変なことです。考えてみてください。「こんなことが起こってしまって、あの子はどうするやろうね」と。「できるだけ口をはさまないでおこう。何を言われるか分からんから、何か要求されたら困るし、私もしてあげたいけれど何もないし、これは黙って様子を見ておこう」という事だってありますよ。そのとき、その人とは隣り人ではない。いくら親しい親子であっても、私たちに神様が求めておられるのは、「隣り人になる」ことです。その「なる」ためには、私たちが何か失わなければなれません。自分が犠牲を払わないで、自分が損をしないで、自分が嫌な、煩(わずら)わしいことにかかわらないでおりたければ、隣り人にはなることはできません。しかも、それを引き受けていくためのいちばんの土台は何か?主が私を限りない愛をもって愛してくださった。ひとり子が私のために死んでくださったと、神様のご愛に応えることです。このサマリヤ人は、もちろんユダヤ人ではありませんが、神様を恐れる人でありました。だから、サマリヤ人も旧約に記されている律法を守る民でもあります。彼は神様のゆえに気の毒だと思ったのです。そして「何とかしてやろう」と思った。彼はそのために自分のデナリ二つを差し出して、一泊して介抱し、自分のスケジュールは遅れるでしょう。でも、彼は主が愛してくださった、神様が愛してくださったその愛に、神を愛するためにそうせざるを得なかった。

「ルカによる福音書」10章27節に、「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。神様を愛するとはどうすることか?「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛していくこと」。そして、私たちが主のご愛に応えてかかわっていくとき、その人の隣り人になることができる。愛を全うすることができる。隣り人は遠くアフリカの先にいるのではありません。あるいはアジアのどこかの国にいるのではありません。あなたが隣り人になってあげなければならない、主が求めておられる、主が負わせてくださる事があるのです。それを私たちが引き受けなければ、やがて神様の前に立つことができません。

イエス様が5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅に出た主人のたとえを語っています。私たちがこの地上に、いまイエス様の救いにあずかって生かされている使命は何か。神様が私たちに「負え」と言われる重荷を負うことです。言うならば、隣り人となることです。隣り人になるエネルギー、その努力、力は神様の愛による以外にない。そのご愛によらないで、隣り人になることはできないし、それらしいことはできても、愛のない隣り人となることは、神様のいのちに、恵みにあずかることとは違います。

私たちには日々出会う事柄がありますね。「また、あんなことを言われて、私はもう嫌よ。早く何とかしてよ」と。そうではない。主がいま「負え」と言ってくださる。私がその人の「隣り人」となるには苦労を伴います。時には自分にとって不都合なことや不利なことがたくさん生じてくるに違いない。しかし、あえて主のご愛に応えて、それを負う者となっていく。主の重荷を担うとき、「隣り人」として神様のいのちに生きることができ、やがて主のみ前に立つときに、「善かつ忠なる僕」と(マタイ25:21文語訳)、神様の報いを頂く時が来ます。そのために「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。また「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」と。この二つのことを一つに、主の愛に生きる者となりたい。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


最新の画像もっと見る