いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(412)「全身全霊で主を愛す」

2014年12月14日 | 聖書からのメッセージ
 「マルコによる福音書」12章28節から34節までを朗読。

 30節「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。
 
 イエス様の所に「一人の律法学者が来た」と記されています。これはイエス様が十字架におかかりになる直前のことでした。そのときに何とかイエス様を十字架に付けるにふさわしい口実を得たいという人たちがたくさんイエス様の所へやってきます。いろいろな質問を投げかけて言葉尻を捕えて、あるいはイエス様の言ったことを材料にして死刑にしよう、イエス様を抹殺、無き者にしようとたくらんでいました。そのときに、一人の人が質問をしました。

28節の終わりに「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」と問うています。「いましめ」と言ってもいろいろたくさんあります。これはある意味では、難しい質問だと思うのです。どれもこれも、一つを欠いて一つをよしとする、というわけにもいきません。非常に微妙な質問であります。それに対してイエス様はきっぱりと答えていらっしゃいます。「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である』」とあります。まず、神様がお一人でいらっしゃる、ということ。そして、この御方こそが主でいらっしゃる。全てのものの中心といいますか、全てのものをご支配しておられる御方である、ということをまず取り上げなさいました。これは、誠にそのとおりであります。聖書を通して一貫して幾つかのことが繰り返し語られていますが、その中の一つはこのことです。神様がおられる。そして、神様が主でいらっしゃる、と創世記からズーッと貫いて繰り返し語り続けられています。

ご存じのようにイスラエルの民がエジプトの奴隷の生涯からモーセによって導き出されました。荒野の旅路の途中で神様はシナイ山にモーセを呼びまして「十戒」という十の戒めを与えました。その戒めのいちばん最初は「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト 20:3)という、この一点です。全てのものの中に神様がいらっしゃると。そして、どんなものにもまして神様を大切にすること、これが全ての事の根本といいますか、土台であるということです。まずもって聖書のいちばん最初がそうでしょう。創世記の1章1節に「はじめに神は天と地とを創造された」とありますように、いろいろなものが造られる以前に、まず神様がおられました、と宣言しているのです。そして、その神様は、「わたしが主である」と、形を変え、言葉を変え、時を変え、場所を変え、繰り返し聖書の中にズーッと流れています。その神様に対して人がどういうものであるか?この関係を絶えず問い続けられているのであります。私たちも神様を信じている、神様を知っていると言いながら、では、具体的に自分が神様を神としているか? と問われると、どこかで心もとない。自信がありません。「あなたは神を神としているか? 」と、「いやー、そうは言うけれども……」と、どこかにそうとは言い切れない弱さや不十分さを自分なりに感じます。

 いま読みましたこの記事でもそうでありますが、この律法学者は「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」と問い掛けました。イエス様が答えられたのは「第一のいましめはこれである」と、イエス様はここではっきりと間髪入れずに「これです」とおっしゃったのがまさに「主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である」と、神様がおられてその御方は一人でいらっしゃって、全てのものを統べ治めておられるのだと。だから、イエス様もご自分がその主でいらっしゃる神様によって遣わされ、神様の御心に従っている者である、との告白でもあります。「俺が主だ」と言ったのではない。「神様が主である」と。だから30節に「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。「主なるあなたの神を愛せよ」と、「主なる」というのは、主(おも)だったという意味ではもちろんありません。「主でいらっしゃる」という意味です。物事の主人でいらっしゃる、中心でおられる御方なる神様を愛しなさい、ということです。だから、30節に「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」と、「つくし」という言葉が4回くりかえされていますが、何もかも一切をささげて、あなたの神様、主でいらっしゃる御方を愛しなさい、というのです。

そこで私たちは神様を知ってはいるし、神様に愛されることについては何の異存もありません。「神様は私たちを愛してくださった」と、よく聞きます。「愛しているよ」と言われる方はうれしい。人と人との間でもそうですが、夫婦であれ、男女であれ、親子であれ、「私はあなたを愛しているよ」と言われると、言葉だけでも何か心が豊かになるではありませんか。だから、いつもそれを聞いておきたい。だから、しばしば「あなたは私を愛している? 」と聞くのです。聞くのは「愛しているよ」という言葉を聞きたいわけです。神様に対して私たちは「神様は私を愛してくださいますか? 」「ああ、お前を愛しているよ」と、限りなき愛をもって、ひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった。「愛しているよ」「愛しているよ」と、神様は繰り返し言い続けていらっしゃる。では、その主の御愛は何であったか?どこにその愛はあるのか? これは皆さんもよくご存じの「十字架」ですね。「神様はひとり子を賜ったほどに」と、私たちを愛するにあたって、何をもって愛してくださったのか。その愛を証詞してくださったのか。それはご自分の愛するひとり子をこの世に送って私たちの罪のあがないの供え物として、私たちの罪を取りのぞく犠牲として御子をこの世に送り、十字架に断罪し、命を奪って、呪いをもってイエス様を滅ぼしてしまわれた。これはとてつもない出来事です。親が愛する我が子を罪人として、打ち殺してしまうというのですから、しかも、神様にとってそれは何の得にも益にもならないのです。ただ、それによって誰が利益をこうむるかというと、私たちです。しかも、私たちはそのように神様からの大きなご犠牲といいますか、御愛を受けるだけの値打があるか? それほどの価値がある人間か? どうでしょうか? 私どもは自分を振り返ってみて「いや、私はそのくらいの値打はある。それでも足らないくらいだ」と思うことは到底あり得ません。それどころか、もったいない。神様はそれほどの思いをもって私たちに愛を証詞してくださった。これが十字架であります。「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」「ヨハネの第一の手紙」にありますように、神様が私たち一人ひとりの罪のゆえに、私たちのためにひとり子を世に送ってくださった。世に送るというのは、私たちの罪のあがないの犠牲として、十字架に死ぬべき者として送られなさった。こんなにまで私たちを愛してくださった神様。しかも、その御方は私たちの主でいらっしゃる、造り主でいらっしゃる。創造者でいらっしゃる。その御方が私たちに「わたしはあなたを愛しているよ」と言われるばかりでなく、ここでは30節に「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と。私たちも神様を愛する者となる、ということです。これが私たちのいま成し得るただ一つの恩返しに他なりません。いろいろなことがあるかもしれませんが、しかし、神様が喜ばれるのは、私たちもまた主の御愛に応えて、神様を愛する者となることです。「神様を愛する」と言うと、何か難しいことのように思いますが、神様を愛するとは、神様のお言葉に従う、ということに尽きるのです。

「ヨハネによる福音書」14章15節を朗読。

ここに「あなたがたがわたしを愛するならば」と、私たちが愛するのでしたら、その愛する人の戒め、お言葉を守る、それを心に抱いて、それを大切にする。そのことがまた21節にも繰り返されています。21節に「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である」。ここにも「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者」とあります。「いましめ」とは、イエス様のお言葉、神様のお言葉です。聖書の言葉と言い換えてもいいと思います。それを何よりも大切なものとして心に置いて行くこと。そして、その御言葉の光、御言葉を通して語ってくださる神様の御声に従うこと。これが神様を愛すること、主を愛することであります。

またその先の23節以下に「イエスは彼に答えて言われた、『もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。24 わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である』」。23節に「わたしを愛するならば、わたしの言葉を守る」と言われます。また、24節では「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない」、主のお言葉を守らない者は愛さない者だと。私たちが神様を愛するとは、神様の戒め、神様の御言葉をしっかりと受け止めて、そのことを心に置いて、そのお言葉に従う、守ることです。ただお言葉を知っているだけではなくて、お言葉を聞いているだけではなくて、それを自分の生活のことごとくの中に、それに生きる者となることです。

それが、先ほどの……、もう一度初めの「マルコによる福音書」12章30節に、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」と、このお言葉であります。心も、精神も、思いも、力も、いうならば、ありとあらゆる全てのものをもって尽くす。「尽くす」とは、犠牲にすることです。それを徹底して用いて心も思いも精神も何もかも力をも尽くして、主のお言葉に従う。主の御言葉をしっかりと心に抱いてそれを歩む。これが神様を愛することです。神様は私たちを愛してくださった。その主の御愛を喜び感謝すると同時に、翻(ひるがえ)って、では、私たちはその主に対してどうあるべきなのか? 父なる神様は、御子をこの世に送って、命を捨てて、私たちの罪のあがないとまでしてくださった。今日もその赦しにあずかって生かされている私たちです。では、もう赦されたから自分勝手にしたい放題、好き放題、「やれやれ、もう何もかも心配がなくなった。自由の身になった」と。「罪も赦されたのだから何でもしていい」かと、そうはならない。神様が私たちを限りない愛をもって愛して、ひとり子を賜う程に愛してくださった、その御愛を心から感謝し、喜ぶのであるならば、それを大切にし、そのことに応答して行く、答えて行く。ふつつかな者であり、力のない、知恵もない、何もない者ではありますが、何としても「こういう者を愛してくださった主に、お答えして行きたい」。では、どうするかと? 私たちは何一つささげるものがありません。

32節以下に「そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。33 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。この最後の所に「すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」と。この律法学者は大変よく理解していたのです。

私たちもそうであります。神様がそんなにまで犠牲を払い、愛を尽くしてくださった。そのことを感謝して喜んで、今はこの恵みの中に置かれている。このことを大切な宝であると思うのであれば、では、そんなにまでしてくださった神様に対して何をもって応えるのか。ところが、そこにありますように、「燔祭や犠牲は何の役にも立たない」と。詩篇51篇に歌われていますように「私たち燔祭や犠牲よりも、神様が喜んでくださるのは「砕けた悔いた心をかろしめられません」と。私たちはささげる物が何もありません。ただ、できることは何か、私たちの全ての存在といいますか、私たちの力を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、一切を尽くして、この神様のお言葉にしっかりと根差して行く、お言葉に応えて行く、従って行く。これに尽きるのです。「何もできないから、もう仕方がない」ではありません。できるかぎりであります。だから、30節に「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして」です。心が何であり、精神が何であるのか、力が何である、と難しいことを言い始めたら泥沼ですから、そんなことを詮索しなくてもいいと思います。いうならば、私たちの全てをもって御言葉に従うこと。これに尽きるのです。

「ヨハネによる福音書」21章15節から17節までを朗読。

イエス様はよみがえられた後、いろいろな人にご自身のよみがえりの事実を証詞なさいました。このときはガリラヤ湖畔の出来事でありますが、弟子たちはエルサレムから戻ってガリラヤに来ていました。そしてガリラヤ湖で昔やっていた漁師の仕事をしていた。夜通し魚を取ったけれども取れなくて明け方であります。帰ろうとしていると、岸に立っている一人の人が声を掛ける。「獲物は何かあるか」と、「何もない」、すると、その人が「船の右に網を下ろしてみなさい」と言われた。それで彼らは「それじゃ」というわけで下ろしたところがたくさんの魚が取れた。153びきと細かく数字が書いてあります。誰が数えたか分かりませんが、それだけ取れたというわけです。それでふと声の主を見たら、それはイエス様であった。ペテロはびっくりして、そのとき裸であったので大慌てで上着を着て水の中に飛び込んだという。岸に戻ってきたときに、イエス様はそこで火をおこしてパンを備えて彼らを待っていてくださいました。そして何も言わないで、「さぁ、朝の食事をしなさい」と、まず食べさせるのです。イエス様は言いたいことはたくさんあったと思いますが、まず空腹をおさめる、これが大切です。イエス様は人の気持ちがよく分かる。おなかがすいたとき小言を言ったら大変なことになりますから、まず、朝食を食べさせられた。そして、取ってきた魚を焼いて食べさせなさった。

15節に「彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか』」。ペテロに対してイエス様は「この人たちが愛する以上に」と、その周囲にいた人たち、他の弟子たちの「誰よりもあなたはわたしを愛するか」と問われたのです。これはペテロにとっては心に刺さる言葉です。イエス様に「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と言った口の渇かないうちに、「イエス様……、そんなものは知らない」と言ってしまったのですから、それもご丁寧に繰り返しイエス様を否定したのですから、シモンとしては悔しくてならないわけです。あのとき大泣きに泣きました。そういう後ろめたさといいますか、それに対してイエス様はひと言もとがめることをなさいません。「お前、あんなことを言ったではないか」、「あのときのお前はなんだ」とひと言も言わないのです。ただ「あなたはどんな人にも勝ってわたしを愛するか」と。それに対してペテロが「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。「わたしがあなたを愛していることはあなたが知っているじゃありませんか。イエス様、あなたは既にご存じでしょう。本当に私がどんなに愛していることか」と。確かにイエス様は知っていたに違いない。しかし、ペテロがもう少しはっきりと具体的に主を愛する者となってほしい。確かに気持ちは分かったのです。ペテロがイエス様について行きたい、死でも獄屋(牢獄)でもどんな所でも、たとえ十字架であろうと一緒に行きたい、という思いや願いは重々あった。しかし、現実になったときにほろっと彼は外れる。イエス様がここでおっしゃっているのはまさにそのことです。ペテロは「イエス様、あなたは私があなたを愛していることは知っているではないですか」と。確かに、イエス様もそれは知っていらっしゃる。知っているけれども、もう一つ求められることは、ペテロの主を愛する愛が具体的にその生活の中に、彼自身の人生、生き方の中に現れてほしい。イエス様が求められたことであります。だから、イエス様は15節の終わりに「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。これはイエス様がペテロに新しい使命を与えられたのです。それから続いて16節にも「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と。そこでは次に「わたしの羊を飼いなさい」と言い、また続いて3度目に「わたしを愛するか」と繰り返されました。そして「わたしの羊を養いなさい」。「わたしの小羊を養いなさい」「わたしの羊を飼いなさい」、そして、また「わたしの羊を養いなさい」。いうならば、これからあなたは私が歩んだように歩んでください、ということに他なりません。というのは、イエス様は「ヨハネによる福音書」に「わたしはよい羊飼いである」と語っています。「わたしの羊はわたしの声を知っている」とも語っておられます。「わたしが今まで羊飼いとして多くの羊たちを養い、育て、飼い、ここまで導いてきた。今度は、ペテロよ、お前が子羊を飼え」と。ペテロには何のことであるか分からないのです。しかし、愛するとは、イエス様のお言葉に従うことです。イエス様のお言葉を信じて受け入れて行く、これが主を愛することです。ですから、このときイエス様はペテロの一つの課題と言いますか、してほしい、願っている御思いを、イエス様の思い、神様のペテロに対する御期待を語ったのです。今までの事を言っておられるのではない。イエス様は、ペテロのこれまでの生き方がどうだ、こうだと批判がましいことを言っておられるのではない。イエス様は決して過去のことがどうだ、こうだと一度もとがめられたことはありません。これからどうあるべきだ、これからこうしなさい、これからこうでなければいけませんよ、と常に多くの人々に語っています。私たちはあまりそういう言い方をすることができません。大抵、子供に話すときは「お前はこれまでこうだったじゃないか」「ああだったじゃないか」「あれはいけなかった」「これはいけなかった」と。それで「これからは?」「これからは知らん、お前、勝手にしろ」と、イエス様はそういうことはおっしゃいません。罪を犯した人が来てもそれは問わなかった。罪の現場で捕えられた女の人が来た時もイエス様は「誰もお前に石を投げる人がいなかった。それはよかった。ところでお前は何したんや」と、根掘り葉掘り聞いたわけではない。イエス様は黙って「わたしもあなたを罰しない」、その後「今後はもう罪を犯さないように」と、これから先の生き方についてイエス様は語るのです。どうぞ、イエス様のまねをして人に言うときには「これからあなたはこうしなさいよ」とアドバイスをするのです。ところが、つい過去を見て「お前、あんなことをしていたら、これからもっと悪くなるぞ」と、呪うような言い方になってしまいますが、イエス様はそうではありませんでした。だから、ここで「わたしの羊を飼いなさい」と言われるのは、これまでとは違った新しい使命を与える。そして「愛しなさい」と。「わたしを愛するか」と問われたのは、過去のことを「お前はこんなことをして愛さなかったじゃないか」と言っておられるのではないのです。「お前はわたしを愛するか。愛するのだったらわたしの言葉を守ってわたしが今から言いつけることをしっかり行いなさい」と、イエス様は言っておられるのです。「わたしを愛するか」という問いかけは、言い換えると、「わたしはお前を愛したんだから……」ということです。「わたしは命を捨ててお前を愛したよ。わたしを愛するのだったら、これからわたしの願っていることをしてほしい」。これがペテロに求めておられることです。そして最後の19節に「わたしに従ってきなさい」と言われたのです。ペテロがイエス様に従って行く者となるようにと。

 「ヨハネによる福音書」21章20節から22節までを朗読。

 イエス様は私たちにもそのことを求めておられるのです。「わたしを愛するならば、わたしの羊を飼い、わたしに従ってきなさい」。どうぞ、イエス様のように私たちも父なる神様の御声に、十字架の死にまで従順に従いなさったイエス様のように、私たちも主の御言葉を命懸けで守っていく者となりたい。これしか私たちは主の御愛に応える道がないのです。

 「マルコによる福音書」12章30節「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。「主なるあなたの神を愛せよ」。私の神、あなたの神です。他人様の誰かれの神ではありません。しかも主でいらっしゃる。私の主でいらっしゃる御方、私をご支配し、導き、私のために命まで捨てて愛してくださった主、その主を愛しなさい。教会に来ると「あなたは愛されています」、「愛されています」と愛されていることばかり聞いて、気持ち良くなりますが、それだけではなく、私たちもその御愛に応えて……。そうでなければ、本当に主の御愛を自分のものとすることができません。

 どうぞ、全てを尽くして、心も精神も思いも力も尽くして、徹底して命懸けで主を主とし、神を神として、その御方の御声に、また時々刻々、日々の生活の中で主が求め給うところに、主の御言葉に、主の戒めに、主のご命令にしっかり力を尽くして行きたい。応えて行く者となろうではありませんか。それが神を愛する者だからです。

 御一緒にお祈りをいたしましょう。


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