いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(429)「魂を震わす言葉」

2015年01月01日 | 聖書からのメッセージ
 「マタイによる福音書」8章5節から13節までを朗読。

8節に「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります』」。

 教会には小さなお子さんがいらっしゃいまして、生まれた頃は泣く以外にコミュニケーションといいますか、自分の気持ちを伝えるすべはありません。ところが成長して1歳とか2歳になると、「パパ」「ママ」「マンマ」とか、幼児言葉が出始めます。そして単語が言えるようになる。それから二つの言葉をつないで簡単な文章に変わってくる。そうやって言葉を自分のものにしていきます。それから後、ことばがコミュニケーション、人との交わりの道具、手段になっていきます。それと同時にもうひとつの言葉の働きがあります。私たちの内側にあるもの、内なるものとは心です。思うこと、感情とか、情愛とか、情緒というもの、そういうものを表現する、言い表す手段としての言葉という役割があります。私たちは言葉を通して自分を表すし、自分を知るわけです。子供が成長するにつれてボキャブラリー(単語数)が増えていく。話すセンテンスも増えていく。言葉の表現が豊かになってくることは、同時にその子供の内なるもの、自分というものが成長していくことと深くかかわっています。ですから、年齢が幾つになっても言葉が足らない、あるいは、表現力がない、言葉でうまく言い表せないことは、内面性、自分というものの成長が少ないと言うことができる。自分自身を考えてみても、心にいろいろな思いが湧(わ)いてきます。朝起きてから夜寝るまで、うれしいことや悲しいこと、心配なこと、それをいつもきちんと自分の言葉で、いわゆる、内面的な言葉、内にある言葉で語っているのです。気がつかないうちに自問自答している。そのときには頭の中で常に言葉が自分を知る手掛かりとしてある。だから、黙ってジーッとしていて、あの人は何も考えてなさそうに思える。ぼやっとしているな、と思うけれども、ただぼやっとしているのではなく、内側では「これからどうしようかしら」「あれはああなるし、あの人に頼んだらこうなるだろうし……」と言葉が飛び交っている。考えるというのは、言葉なのです。言葉を使わないと考えられないのです。だから、黙っていて、何も言わないからあの人は何も心にないに違いないと思うけれども、言わなくても心の中で常に言葉が右に左にスーッと流れているのです。感情というと、モヤーッとしたつかみどころのない霧のようなものがスーッと流れていくようですが、その中からはっきりと言葉に表す、言葉でつかみ取っているものが、全てなのです。言葉にならないけれども、いろいろなものが心の中にあるとしても、それを言葉にきちんとからめ捕ることが必要です。人に言うのではないけれども、書いたりはしないけれども、頭の中で独り言のようにつぶやく言葉によって自分の感情を捉(とら)えているのです。これが私たちにとって大切なことであります。

 いま皆さんは話を聞いていますが、聞きながらも自分の心の中には別の言葉がズーッと流れています。「あのとき、あれを買ったけれどもどうしようかしら」とか「電車の中であの人を見たけれど、あの人はどこかで見かけた人のようだ、あれ、どこで見たかな」と考えている。耳に聞こえてくる外からの言葉と違った、自分の中の「内語(ないご)」という、内側の言葉があるのです。それが実はその人自身であるのです。だから、言葉でつかみ取れない部分は、すぐに消えてしまいます。だから、言葉の教育は、非常に大切なのです。日常生活、普段一緒に生活しながら子供は成長して行く。その成長過程でいろいろな言葉を吸収します。テレビを見たり、友達とおしゃべりをしたりして、だんだんと自分の中に言葉が組み立てられてひとつの世界が出来上がってくるのです。それがその人の個性といいますか、その人らしい、その人自身です。

だから、交通事故などで言語障害を起こす。あるいは年を取って脳出血とかで言語を失いますと、表情が変わる。以前と同じ人とは思えないようにガラッと表情が変わります。そうすると、その人の人格、その人自身が溶けてくるのです。夏場など涼しく見せるために氷で彫刻をします。出来立ての頃はきちっとして隅々の細かい所まで表現されているけれども、しばらく暑いところに置かれると溶け始める。全体がぼんやりした形になって、あちらこちらは溶けて形が分かりにくくなってしまう。言語障害とか、不幸にもそういうことになったとき、その人のかたちがそのようにして溶けていく。

だから、言葉は、私たちにとって大切な道具であり、また私たち自身でもあるのです。紙に書いた言葉、こういう印刷されたものが言葉だと思われがちですが、音声で耳に聞く言葉もそうです。これは形がないのです。目に見えません。私たちが手でつかむわけにもいかない。しかし、その言葉が発せられて、それを受け止めた人がそれを自分の中で再構成して伝わって行く。いわゆるコミュニケーションというものが成り立つのです。だから、言葉自体は姿形もありません。ただ単なる音声で、目で見えるひとつの模様のようなものです。外国語を見ると、韓国なんか隣の国ですが、あの文字を見てご覧なさい。何を書いているのか分かりません。右から読むのか左から読むのか、それすらも分かりません。ある意味で模様のような物です。洋服に、あるいは壁紙の模様なものがズラーッと並んでいるにすぎない。意味がない。ところが、日本語を見ると模様のようにはならないで、それがスーッと私たちの内に入ってきます。入ってくると、私たちの心を動かします。いろいろなことを引き起こしてきます。テレビを見ながら、ニュースを聞いて憤慨をする。テレビの場合は映像も伴いますから、言葉だけではありませんが、ラジオを聞いていると良く分かります。飛行機に乗りますと、機内のイヤホーンでいろいろ聞けるものがあるでしょう。私は音楽やニュースなどにしないで「落語」を聞きます。大体大阪から福岡まで来るのに25分くらいの落語が二つぐらいは聞ける。落語家は言葉を上手に使い、まるで目の前に見ているがごとくに、実際に経験しているように語り掛けてくる。それを聞いていると、時々自分でもハッとしておかしくなるのですが、気がつかないうちに声を立てて笑っている。隣の人がフッと見るのです。「あ、しまった」と思います。誰かからくすぐられたわけではないのです。不思議だとは思いませんか。耳の鼓膜をある音波がツッツ、ツッツと震わせているだけです。だからといって耳のこのあたりがかゆいからおかしくなったというのではない。聞いた言葉が自分の中に取り込まれて、その言葉が反応を起こすのです。これは不思議じゃないですか。「あたり前ではないか、そんなことは」と思っていらっしゃるが、考えたら非常に不思議なのです。科学反応といいますか、酸っぱいものにソーダのような物を入れるとシュアーッと泡がわく。化学反応は目に見えるので、よく分かる。見えない一つの言葉を聞いたら、それが自分の中に入ってきて、今度はこちらの筋肉を緩ませたり緊張させたり、行動を造りだしていくのです。これが言葉の力といわれるものです。

私たちの普段の生活の中にも、そういう言葉が働いていることを実感できます。これは日常茶飯のこと、常に経験していることです。古来から言葉には魂がある。言霊(ことだま)という考え方があります。言葉には魂があって、それが人の中に入り込んでいくのだ、という考え方をします。それは、私たちに言葉が働き掛けをしてくることです。だから、聖書にもあるように「聞くことがらに注意をしなさい」と(マルコ 4:24)。とんでもないことを聞いたためにそれによって縛られるといいますか、心が捕らわれてしまう。だから、普段、自由自在に言葉を使っていますが、考え様によっては非常に重大なことです。ましてや、「信仰は聞くにより、聞くはキリストの言(ことば)による」(10:1文語訳)と、「ローマ人への手紙」にありますが、まずは信仰とは聞くこと。誰の言葉を? 聖書の言葉、神様の言葉を聞くことから始まるのです。言葉を聞いて、どうしてそのようになるのか? まさにこれが言葉の力です。キリストの言葉を聞いてそれを信じるのです。これが信仰です。信じれば、私たちは救いにあずかる、といわれています。キリスト教の場合は、お百度を踏むとか、物断ち忌み断ちをするとか、あるいは寒中に滝に打たれるとか、あるいは人の家に行ってトイレの掃除をするとか、それで何かを得るという考えは、聖書には決してありません。これが他の宗教との大きな違いです。世の中の多くの宗教は、お勤め、修行ということを求めます。他力本願といわれている仏教でもそうでありますが、救われるのは念仏を唱(とな)えることですが、これをして、あれをしてという、仕来たりといいますか、そういうことをすることによって本願成就という考え方が根底には常にあります。ところが、キリスト教の場合は、聖書のお言葉を信じることだけです。

 ある方が末期がんでホスピスにおられて、私がお訪ねしたことがあります。その方の息子さんが熱心なクリスチャンで「お父さんの魂の救いに」と、一生懸命になっておられました。私も依頼されて、お父さんの所を訪ねて、いろいろと普段の生活ぶりから、その方の思いを聞きました。その方は常日頃から健康に気をつけておりました。ところが、調子がおかしいと思って病院に行ってみたら、もう手のつけられない大腸がんでした。それが広がってしまった。九大病院に入院したのですが「治療の方法がない」ということで「転院してください」と言われて、ホスピスへ転院したのです。彼は「どうして私はこうなったのだろうか。私は今まで何か悪いことをしたのだろうか」と。その方の出身は筑後のほうで半農半漁という、有明海で漁をしながらも畑をするという生活をしてきた。自分は財産もなければ地位も名誉も何もない。学歴もない。しかし、人様に迷惑を掛けないようにこれまでつつましく生きてきたつもりだが、どうしてこうなったのだろうか、と悔やまれる。私は神様のことをお話して、イエス様が救ってくださるのだから、み言葉を信じて行けばいい。そのうちその方が「先生、キリスト教は、どうしてそんな言葉ばかりなのですか」と。「いいことを聞くが、それだけじゃないですか」と。そう言われてみるとそうです。何かせよとか、そう言われたほうが、効き目がありそうに思える。「この病気のために、あなたは10回ぐらい祈願しなさい。断食祈祷をしなさい」と、「その次にこれをしなさい」とか、「この次は水ご離(り)をとりなさい」とか、ああしなさい、こうしなさいとか「何か具体的にすることを言ってほしい」と言われる。「ただ、聖書のお言葉を信じなさい。言葉を信じれ、言葉を信じれ、と言われたって、信じてどうなるのですか? 」と。実は彼の出身の地方では土着の信仰がある。いわゆる既成宗教といいますか、仏教であるとか、きちんとした伝統的な宗教ではなくて、それぞれ地方、田舎に行くと、そこだけの集落にご祈祷師がいたり、教える者がいる。私どもはそういうものから離れていますから、知らなかったのです。するとその方がいろいろと教えてくれまして、その地方では病気になったときには、ご祈祷師に頼む。祈祷師が来てくれて、何を飲むか、何をどうするか、細かく処方箋(せん)を出してくれる。それに従ってやっていると必ず病気が治る。そう言われるのです。「だから、自分もそれをしてみたいと思うのだが、息子が、そんなものは何の意味もない、と言って止める。先生、どう思われますか? 」と言われるのです。「どう思われますか?」と言われて、「それは駄目です」とのっけから言っても、本人は信じられなくて苦しんでいますから「それであなたの気が済むのであれば、一度それを試してみたらどうですか?」と答えた。それで鬼の首を取ったように大喜びをして、その方は「やはり先生からそう言われた」と息子に対して「先生も許してくれた」と言って、ある時ホスピスにご祈祷師を呼んだのです。来てもらって厳かに祓(はら)い清めか何か知りませんけれども、やってもらいまして「これを飲みなさい」という、何か飲み薬のようなものをもらった。次に私が訪ねた時「先生、これをもらった。これで大丈夫だと思います」「良かったですね」と。私も「それが効いてくれれば何よりですね」と言いはしたものの「大丈夫かいな」と思っていました。その方はそれを飲んで「もうそろそろ効くはずだ」と思っていたら、症状が悪くなってしまった。途端に彼は手のひらを返したように「やっぱり先生、あれは駄目ですわ」と言われる。これは神様がそのように教えてくださったのです。「言葉なんて、そんなもんは当てにならない。頼りない」というのが、世間一般の通り相場です。

確かに私たちの日常で「言葉」と言われると、これ程あやふやなものはないと思っています。夫婦でも親子でもそうですが、「こうするね」とか「ああするね」とか、いろいろな約束をします。その言葉は、必ずしも実行されません。いや、実行されないどころか、とうに消えてしまう。言いっ放し、聞きっ放しです。そういう経験が身にしみていますから「聖書の言葉なんてそんなものぐらい」「こんなものを信じて何になる、これを信じるくらいだったら、あの人の話のほうが良い」と。「もっと良い話がある」と。なるほど、世間では『何々が治る方法』とか『金のもうかる方法』とか「神様に祈るぐらいなら、この本を読んだほうがいい」。『株でもうける方法』とか、『……入門』とか、そのようなもののほうがはるかに役に立つ、という人もいるでしょうが、それは言葉に対する受け止め方が間違っているのです。聖書のお言葉は、神様のお言葉です。そして、それには命がある。

「ヨハネによる福音書」1章1節から5節までを朗読。

ここに「初めに言(ことば)があった」と語られています。これは具体的にはイエス・キリストのことですが、イエス様のことを「言(ことば)」という表現で語っているのは、単なる言いかえではなくて、そこに深い意味があります。イエス・キリストは、即ち言(ことば)でもある。そして「言(ことば)は神と共にあった。言は神であった」と。神様の言葉がキリストであり、キリストは神である、ということです。イエス様は旧約の時代から神様が救い主を与えると約束してくださった預言の成就です。このことは「マタイによる福音書」を通して繰り返し語られています。イエス様だけでなくて、ことごとくが過去の神様の約束の成就が今ここに起こっていると、殊に「マタイによる福音書」ではそのことが繰り返し語られています。イエス様が二千年前にベツレヘムにお生まれになったことは、実は神様の言葉が具体化した結果です。

だから14節に「そして言(ことば)は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」とあります。神様の約束の言葉、「あなたがたのために救い主を与える」と約束したその約束がイエス・キリストとなって母マリヤの胎内に宿ってくださる。言葉は目には見えません。ただ単なる鼓膜を響かせる音の周波数であるかもしれない。あるいは文字に書けば、紙の上のひとつの模様の様なものにすぎません。しかし、それがひとつの具体的な結果を生みだしていくというのです。これは言葉の力です。しかもそれは神様であるというのです。神様が言葉を通してご自分を表してくださるのです。このことが1節以下にも語られています。そして4節に「この言(ことば)に命があった」と。この神様の言葉の中には命がある。命とはエネルギーです、力です。

生まれたばかりの赤ちゃんは、本当に力に満ちています。あふれるばかりです。見ていると四六時中手足を動かします。ところが、70,80,90歳ぐらいになると、命がグーッと消えてくる。そうすると手も動かない、足も頭も動かない、何も動かない、死んでしまったら何も動きません。命が消えるのです。いわゆる、エネルギーがなくなる、力がなくなる。しかし、4節「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった」とあるように、キリスト(言)のことばには消えない力があるのです。だから、言葉は力なのです。言葉を握ることは力を握っていることです。ペンテコステの日に、霊が一人一人に下ったとき、いろいろな国の言葉で彼らは語りだしたとあります。これは力が与えられたことを語っているのです。新しい力が注がれてきたことの証詞であります。そして、その力が私たちにも与えられる。それが聖書のお言葉です。「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」(Ⅱテモテ 3:16)と語られています。神様の霊に促されて、時代を超え、多くの人々に神様が語られたお言葉であります。そして「この言(ことば)に命があった」、そして「すべてのものは、これによってできた」とあります。創世記を読みますと、神様が森羅万象、ありとあらゆるものをお創りになられましたが、そのとき「『光あれ』と言われた。すると光があった」とあります。「光あれ」と言いながら、神様はどこかのホームセンターに行って電球を買って来たとか、電池を買って来たとか、発電機を持って来たという話ではない。「光あれ」のひと言、言葉を発したならば、その言葉が具体的な光となって現れて出てくる。これが言葉の力です。

子供たちを見ていると、初めは仲良く遊んでいる。おもちゃをやったり取ったり、そのうちだんだんと「これは私のだ」「いや、私のだ」と言いながら、言葉がだんだんと激しくなる。言葉の言い合いになるのです。「バカ」とか「何とか」と言い始める。そうすると、やがてポカッと手が出る。言葉が力というのはこの事です。たたかれたら早く泣いたほうが勝ちです。親はすぐ「誰がたたいたの!」と、よく調べてみると、たたかれるほどのことを言っているわけです。言葉だけだから「私は何も手も出していない。つば一つ掛けていない」と言い訳します。言葉は聞く人に働きかけ、勢いよくボカッと殴る行動を起こさせるのです。だから、言葉の暴力という表現をする人もいますが、言葉が暴力になるのは言葉に力があるからです。

「マタイによる福音書」8章8節に「そこで百卒長は答えて言った、『主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります』」。ここに「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」とあります。これは百卒長、100人の部下を持つ隊長だと思いますが、その一人の部下が中風で苦しんでいる。それでイエス様の所へ来ました。そのとき、イエス様は7節に「わたしが行ってなおしてあげよう」と実に優しいのです。他のときは「わたしは知らない。そんなもの、わたしと関係がない」と、つれないことを言われることがありました。ところが、百卒長は8節に「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません」と。百卒長は恐らく異邦人であったと思います。というのは、ローマからの派遣の部隊でありますから、ユダヤに駐留している軍隊です。イタリア人だったでしょう。ユダヤ人が異邦人の家に入ることすらも許されない。口をきくことすらご法度であった時代です。だから、その人の家に行きましょう、ということ自体、これはびっくり仰天です。それを聞いて百卒長は、その事情を知っていましたから「滅相もない。私の家に来ていただく資格は何もないのです」。というのは、ユダヤ人であるイエス様から見るならば、彼は自分が罪なる者であること、異邦人であると自覚していました。「ただ、お言葉を下さい」と言うのです。その後にありますように「わたしも権威の下にある者」、いうならば、100人もの部下を号令一下、右にも左にも動かすことができる、彼は言葉の力を知っていたのです。だから、権威の下にあるからお言葉さえ頂ければ、どんなものでも従います。殊に彼はここで「権威の下にある」という意味で、イエス様が神の御子でいらっしゃることを認めたのです。神の力ある御方の下に全てのことが支配されている。神様の手に握られている。だから、あなたが言葉を出してくだされば、百卒長が部下たちに命じるよりも、もっと大きな力のある御方だから、全てのものがそれに従うのは当然である。これが彼の信仰だった。だから、言葉が力に、しかも権威ある者の言葉、神様の言葉だから、これに従わないものはない。たとえ病気であろうとサタンであろうと、何であろうと、神様の言葉に対抗できるものは何もないのだと。これが百卒長の握っていた確信、信仰であります。ですから9節に「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。

確かに軍隊は上下関係がはっきりしています。上官の命令には徹底して服従です。というのは、それは命にかかわることだからです。激戦の地に行きます。そのときに自分一人が好き勝手にされたら他の仲間たちの命を危険にさらすのです。塹壕(ざんごう)にジーッと潜んでいる。「くたびれた。俺はちょっと出てくるわ」と、飛び出してごらんなさい。その人一人が死ぬならいいけれども、一人が出てきたということはその仲間のいることが明らかに分かるわけですから、一斉に攻撃されるでしょう。だから、勝手な振る舞いは許されないのが軍隊です。だから、上官が「行け」と言ったら止まらずに行かなければいけない。「もうくたびれたから、私だけ置いて皆行ってください」とはならない。だから、百卒長はいかに言葉というものが命にかかわることであるかをよく知っていましたから、イエス様に対しても「私はあなたの権威に従う者」だと。いやそれどころか、森羅万象、この世にあるものは全て神様の言葉に従うものであることを知っていました。

私たちも今この聖書のお言葉を読みますが、だんだん慣れてきて「またか」と思うでしょう。そこが危険です。言葉は権威ある力あるものでから、真剣にそれを握って行くときに、実は私たちに具体的な事を進めてくださる。だから、信じるとはこのことです。神様の語られた言葉を「はい」と信じて、それに従って行くとき思いも掛けない結果、想像もしない結果を得ることができます。それは言葉の最終的な結果であります。まさにそこにつながるのです。いま目の前に紙に書かれた言葉がありますが、それを信じて従う。そうすると、権威ある者、上官の命令に従うがごとく、それに従いますと、そのように結果が出てくる。

聖書のお言葉をそういう力あるものとして信じて、その結果を体験したいと思う。このときも、10節に「イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、『よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない』」と。本当にイエス様は神様の救いに関係がないと思われる異邦人ですらも、こんな素晴らしい信仰の人がいることを感嘆しています。13節に「行け、あなたの信じたとおりになるように」、まさにここです。彼はイエス様の言葉を信じて「そうだ。これはイエス様が癒してくださる」と確信する。まさにそのとおりに「僕はいやされた」と、具体的な結果が出てくる。

このことは聖書の至る所に語られています。ペテロがイエス様を船に乗せて、説教が終わった後、「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」(ルカ5:4)とのひと言です。これは断ることもできる、聞き流すこともできる。だからと言って、何か罰を受けるわけでもない。何のこともないでしょう。「いや、イエス様、やめておきます。もういいです」と言えば、それだけのことです。ところが、彼はそうはしなかった。「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。イエス様がそうおっしゃるお言葉ですから「はい」と信じてそれに従って網を下ろすのです。私どもは聞いても「そうか。そういうこともあるかも。でも結構です。また次のときに」と受け流す。そうやって普段から言葉をいい加減にしやすいものですから、イエス様のお言葉までもそうだと思って、せっかくの宝をゴミ箱に捨ててしまう。

与えられたお言葉を真剣に受けて、「そうだ。イエス様がこんなに愛してくださっておられるなら……」と、一つ一つのお言葉を握っていく。これが私たちの命となり、力となるのです。カナの村での婚宴でもそうでしょう。マリヤさんが「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」(ヨハネ2:5)と言い置いて行った。そのあとイエス様が僕(しもべ)に一つ一つなすことを命じました。僕は忠実にそれに従った。その結果、水がぶどう酒に変わったでしょう。誰がそれを変えたか。イエス様の言葉を聞いてそれに従ったから、その結果がある。カナの婚礼の奇跡は水に何か仕掛けがあったか? あるいは汲んだおけに手品師のような何か仕掛けをしていて、ぶどう酒が出るようになっていたという、そんな話ではない。もしそこでイエス様のお言葉に従わない僕がいたら、この奇跡は起こらなかった。それは消えてしまったに違いない。従った人がいたから、「僕たちは知っていた」と。イエス様のお言葉を、神様のお言葉を握ったのです。そしてそれに従った。

 お言葉に「いつも喜んでいなさい」(Ⅰテサロニケ5:16)とあります。「どうしてこれが喜んでおられるか!」とつぶやくからいつまでも喜べない。「すべての事について感謝しなさい」と読み、「何がこれが感謝か!」と、その言葉を捨てるから、感謝できない。「神の造られたものは、みな良いものであって」(Ⅰテモテ 4:4)と言われます。「どうしてこれが良いものか、私を見てご覧なさい。こんな私にしやがって」と、腹の中で神様を呪(のろ)っているから、なかなか言葉が命につながらない。次から次へと主は私たちを喜ばせようとしてくださるのですから、この言葉を握って行こうではありませんか。

8節「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」。主のお言葉を握って「今このお言葉によって、私はこんな恵みの中に生かされています」と証詞していく者となりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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