いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(234)「主はあなたに問われる」

2014年06月19日 | 聖書からのメッセージ

 ヨハネによる福音書21章20節から23節までを朗読。

 

 22節「イエスは彼に言われた、『たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい』」。

これはイエス様がペテロに語られた記事です。その前の20章は主のよみがえりの記事です。十字架におかかりになって、死んで葬られ、三日目の朝イエス様が墓からよみがえられたことが語られています。ほかの福音書を読みますと、マリヤさんにイエス様が「弟子たちにガリラヤに行け」と言いなさいと、「そこであなたがたに会うだろう」と約束しています。恐らく弟子たちはその約束に従ってガリラヤに戻っていたと思います。「エルサレムを離れないで父の約束のものを受けなさい」と言われたことが使徒行伝にあります。その記事と時間的関係がどうなっているかはっきりしませんが、恐らくガリラヤで復活の主に会った後、弟子たちはまたエルサレムに戻っただろうと思います。このとき、どういう状況の中でイエス様が弟子たちに現れてくださったかと言いますと、彼らがガリラヤ湖で漁をしていました。これは彼らの原点と言いますか、信仰の始まりでもあります。ガリラヤは辺境の地と言われるように、恐らく東京とか、そういう中心的な所よりもズーッと外れた、九州のような所だと思います。そういう所で、その湖の代々漁師の家庭に弟子たちは育ったのです。ペテロもヨハネもその兄弟もそうでした。漁をしているとき、イエス様が来られて、「わたしについてきなさい」と声を掛けられたのです。それで弟子たちは船も船具も網も捨てて、イエス様に従ったのが始まりです。ですから、イエス様がよみがえられたとき、「もう一度、ガリラヤに行け」と言われたのは、言うならば、新しい主との出会いをそこに設けてくださるためであったと思います。彼らは取りあえず、言われたとおりにガリラヤに戻りましたが、じっとしているわけにはいかないから、昔やっていた漁を始めたのです。夜通しやったのですが、朝になっても何も獲(と)れなかった。夜明けごろ、岸に立っている人に「何か獲物はあるか」と声を掛けられ、「ありません」と言うと、「じゃ、船の右側に網を下ろしてみなさい」と言われて、網を下ろしてみた。引き上げたところが思いもかけないたくさんの魚が獲(と)れたのです。恐らく、そのとき彼らはかつての経験を思い出したでしょう。イエス様がペテロの船に乗ってお話になり、話が終わって沖へこぎ出して、「網を下ろしてみなさい」と言われた。その言葉に従ってやったところ、とてもたくさんの収穫を得たことが語られています。それを切っ掛けにペテロはイエス様に従うことになった。彼はそのときのことを思い出した。「あ、これは主だ」、もう一度改めて声の主を見ると、そこにイエス様が立っておられた。ペテロが大急ぎで上着を着て海に飛び込んだとあります。岸まで泳いで行ったと。そこでイエス様は火をおこして彼らを待っておられた。パンも用意されていた。獲(と)ってきた魚を焼いて彼らに朝食を食べさせてくださった。おなかがいっぱいになったところで、イエス様がペテロにお尋ねになった。その記事が21章15節以下にあります。

 

彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか』。ペテロは言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』」と。ここでイエス様は殊にペテロを名指しして、「この周囲にいる人たちに勝ってわたしを愛するか」と尋ねられた。それに対してペテロは、「主よ、そうです。間違いはありません。私はあなたを愛することはあなたがご存じではありませんか」と。イエス様は「わたしの小羊を養いなさい」と言われます。これは普通の会話だと思います。ところが、イエス様は更に二度三度と同じ質問をペテロにしています。とうとうペテロは憤慨した。「心を痛めて」と記されていますが、「悲しくなって」と訳されている聖書もあります。「なんで私の気持ちを分かってくれないのだろうか」。繰り返し、繰り返しイエス様は同じことを言われますから、ペテロとしてはちょっと憤慨した。ある面ではがっかりもした。19節に「これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、『わたしに従ってきなさい』と言われた」。ここでペテロに対してイエス様は最後に「わたしに従ってきなさい」と言われた。普通はこれで話が終わるに違いない。「はい、分かりました」で収まるのでしょうが、ペテロはなかなか一筋縄ではいかない。20節に「ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た」とあります。「イエスの愛しておられた弟子」とはヨハネのことで、自分だと書くわけにいかない。ペテロはヨハネを見て「主よ、この人はどうなのですか」と言ったのです。

 

これは私たちにもよくあることです。「あなた、これをしてください」と言ったら「私がするのですか。あの人はどうなのですか。この人は……」と、すぐ周囲の人に目を向ける、思いがいく。これがなかなか厄介です。私たちはいつも自分のことが問われているのですが、どちらかというと自分を棚上げしたい。それはそれとして、あの人がどうだ、こうだ。子供でもそうです。「お前、何でこんなことをしたのだ」とお父さんから叱られると、大抵「だって、あの子がどうの」とか、「この子がどうの」とか、兄弟のことを言う。「あっちもこうしとった」「これもこうしとった。何で僕だけが叱られないかん!」と考えますね。子供ばかりでなくて、私たちも気持ちは同じです。「どうして私だけが……」と。そうでしょう。思いも掛けない病気になると、「どうして私だけがこんな病気に、あの人がこんな病気になるのは当然だけど」とか、すぐ人のことを言います。私たちもペテロと同じですね。

 

20節に「ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た」。そのあと21節「ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、『主よ、この人はどうなのですか』」。それに対して、22節「イエスは彼に言われた、『たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか』」。言い換えると「お前には関係がない」ということです。「この人がどうなろうと、どんなことが起ころうと、あなたとは関係がない」。そのあとに「あなたは、わたしに従ってきなさい」。これは「あなたがたは」ではないんですね。「あなたは」なのです。イエス様が求めているのは、他人(ひと)ではない、誰でもない、「あなた」です。複数の誰彼ではなくて、「あなた」という一人の個人です。「あなたは、わたしに従ってきなさい」。これが大切な信仰の根本だと思います。私たちの信仰は、ある集団によって成り立っているのではありません。○○教会という教会があります。取りあえず教会員としてそこに所属します。そのグループに参加しているから、そこに入っているから、私も信仰があるのだとは成り得ない。そうではなくて、そのグループが何であれ、そこに所属している一人一人である「あなたが」イエス様に従うのか従わないのか、これが決定的な事なのです。

 

確かに、教会があって救いに導かれ、そこに連なることで魂の養いを受け、信仰が育ちます。だからと言って、教会に所属することが救いだとはなりません。教会がキリストの体であり、教会につながることがキリストにつながることだと、よく言われます。だから、教会から破門されたら、これは決定的に滅びです。赦されることがない。逆に教会に受け入れられて、罪を赦されたとき、初めてキリストのものとなるという。しかし、聖書をよく読んでいただくと分かると思いますが、聖書にはどこにもそんなことは書いていません。そんなことはない。エペソ人への手紙には、教会のかしらはキリストであって、あなたがたはその体である、肢体である。教会という組織の手足になるのがイエス様に従うことであると解釈をなさる方がおられますが、それは一つの解釈であって、そうではないと私は思います。むしろ、教会という意味は私たち自身です。私たち一人一人が「教会」です。「キリストの体」です。私たちの生活の中心はどこにあるか?そのかしらであるキリストにある。まず私たち一人一人が小さな、ミニチャーチと言いますか、自分がキリストを宿す、キリストの御霊が宿ってくださる神の宮であること、言うならば教会です。その小さな細胞である私たちが集まって、初めて教会というエクレシア、集まりが形作られる。ですから、一人一人がはっきりとイエス・キリストをかしらとして自らが教会、キリストの宮であることを告白して、それを信じて、共に集まるとき、公同の教会として機能するのです。私たち一人一人が、私はキリストの体、キリストのものと自覚すること、それを信じることがすべてです。だから、教会とは、そういう信仰を持った人が集まる所、その信仰によって成り立っているのです。それが無かったら、ただこの世の中の組織と全く変わらない。何かの趣味の会であるとか、老人大学の一つであったり、そんなことだって有り得るわけです。

 

22節「あなたは、わたしに従ってきなさい」。これは他人(ひと)ではない、誰でもない「私が」、皆さんが神様に、主のみ声を聞いてイエス様に従う、ここに掛かっているのです。だから、パウロは「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい」(Ⅱコリント 13:5)、あるいは「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」(ピリピ 2:12)と書簡の中で励ましています。言うならば、他人(ひと)事ではないのです。だからあの人、この人とはあまり関係がない。だから、考えてみると、キリスト教の信仰は非常に自己中心的です。自分だけの信仰。家族であろうと、愛する人であろうと、どんな身近な人でも、私たちの手にはないと言いますか、私たちはどうにもできないのです。ただ、求められているのは、「あなたはわたしに従ってきなさい」と。「では、主人はどうなのでしょうか」「孫はどうなのでしょうか」「息子や娘はどうなのでしょうか」。「それは神様がご存じであって、お前のかかわることではない」と、ここで言われているのです。ある方は、「先生、息子が地獄に行くくらいだったら、私はもう天国に行くことはいりません」と言われたのです。私はびっくりしましたね。そんなに息子が大切なのかなと。ほかの人にも聞いてみると案外とそうらしいですね。私は子供がいないから分からないけれども、母親にとって息子は命にも替えがたいほど大切な存在。「その愛する者が地獄に行くぐらいだったら、私独りが天国に行っても申し訳ない、私も一緒に地獄に行かせていただきます」と言われます。ところが、その方も最近は変わってこられて、まず、自分が救われなければ家族も救われないことに気がついたのです。そのとおりです。私が救われるということがすべての出発点です。そうでないと、人様のことはうんぬんできないのです。だから、あの人はどうですか、この人はどうですか、それは関係がないとイエス様はここで言っておられます。

 

誰が信ずべきなのか、このことをしっかりと心に置いておきたいと思います。なぜなら、聖書、殊に新約聖書の中でイエス様が救いについて語っていることは、個別のこと、一人一人のことなのです。集団でまとめて救いにあずかることはないのです。だから、自分の家は代々キリスト教ですと言われる方、「うちは2代目、3代目のクリスチャンです」と言われます。取りあえず分かりやすく言えば、そういうことも有り得るかもしれませんが、だからといって、そのすべての家族が救いにあずかっているとは限らない。だから、よくアメリカがキリスト教国だと言います。「どうしてキリスト教国なのにイラクと戦争をするのですか」と。その設問は間違いです。一つの国がキリスト教で、そこに住んでいる国民がみな、信仰があるのではない。だから、それはあまり関係がない事柄です。アメリカがどんな宗教であろうと、そこに住んでいる一人一人がどういう信仰を持って生きているかが問われているのです。イエス様はいつも私たちに一人一人であることを語っています。

 

マタイによる福音書24章32節から42節までを朗読。

 

40節「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう」。これは世の終わりの時、終末の時ですが、イエス様が再びさばき主としてこの地上に来てくださると約束されています。その時、さばきを受ける。「ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される」。これは実に厳粛なことです。二人一緒に同じことをしている。でもそのうちの一人は取られる、一人は取り残される。「いいじゃないですか。神様、そう堅いことを言わないで、一人くらいならばこの仲間一緒に救ってやってください」と言いたいところですが、こればかりはそうはいかない。その中の一人が取り去られる。そのあとにもう一つ「ふたりの女がうすをひいている」というのがあります。臼(うす)は大きな石を重ね合わせたもので、上石がグルグル回る。小さな石うすだと一人で引けますけれども、大きな石うすになるとお互いに向かい合って引き棒を押しては引いて、押しては引いて、お互いが押したり引いたりしながら回す。二人の者がペアでやるのです。そんな密接な関係である二人ですが、神様の前には一人一人が問われる。「ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される」。厳粛です。だから、夫婦であっても家族であっても親子であっても、「ちょっと神様、目をつぶって通してください」というわけにはいかない。そこにはきちっと厳しい目に見えない一線が引かれる。そのために私たちはまず何をするか。「いや、それはえらいこっちゃ、うちの家族に早く言わなければ」「うちの息子にもっと発破を掛けて信仰を持たせないかん」と、私どもはすぐそこへ飛んでしまう。そうではなく「あなたは」というのです。「そうか。それだったら私がまず救われなければいけない」、これが大切です。「いや、もう私は取り残されてもいいから息子だけ入れてもらおうか」と、そういう話にはならない。まず自分が救われること、そして自分の信仰をしっかり持つということが大切なのです。

と言いますのは、実は昨日ある一人の方が訪ねてきたのです。その方と以前、別のことでちょっと接触があったと言いますか、知っていた人ですが、久しぶりに珍しく突然来られまして、「お話を聞いてください」というのです。お話をよく聞いてみると、若い、二十歳ぐらいのときに信仰を持って、ズーッと信仰をしてきたといいます。今はもう70半ば前くらいの姉妹です。ところが、ご主人も退職し、自分も子育ても終わって、今はちょっと孫の世話をさせてもらっているぐらいで、ほかに何もすることはないのだけれども、このところしばらく教会に行っていないというのです。自分たちは年金生活であって、教会に行くと献金をしなければいけない。殊にその方が所属している教会では月定献金という月々決まった献金を納めなければいけない。しばらく滞っておったら、会計さんのほうから催促のハガキがきた。それも見せてくださった。「こういうハガキがきました」。といって、教会には行きたい、礼拝には出たいのだけれども、この溜(た)まっている献金を払わないと行かれないような感じがするという。「大変なことだ」と私は思いました。でもその教会、世の中にはいろいろな教会がありますから、それぞれの教会のやり方もあるでしょうし、私はそのことについては善し悪しを言うことはできません。問題は結局、その制度や教会の問題ではなくて、その姉妹が、本当に信仰があるのかないのか、ここが問題なのです。私はそう言いました。そうしたらちょっとびっくりされて、「ああ、そうですか。私は信仰がないのかもしれません」。だから私は「そうですね」と言ったのです。献金をするしない、その教会がどんな教会であるとか、いろいろなことを言うかもしれない。しかし、何があったにしろ、まずあなた自身が救われなければ意味がない。「いや、でも私は若いときからズーッと教会に行っております」「教会に行っているのと信仰とは違います」と、そこでいろいろなお話をさせていただいて、「もう一度、自分自身の信仰をここではっきりさせなければ、もう老い先ないのですから、今の時期にご自分でしっかりと信仰を、どういう信仰を持とうとしているのか、あなたに今問われているのです。これは今、幸いな恵みの時ではないでしょうか」。そういうお話をし、お祈りをして別れたのですが、その姉妹の様子を見ながら、多くのクリスチャンが何かそのような間違いを犯しているではないかと思う。教会に所属することが自分の信仰であるかのように、あるいは何年も私は教会員で、現役のころはきちんと滞ることなく月定献金もさせてもらったし、感謝もしたし、神様に対して初穂をささげることができたけれども、今は乏しい年金生活の中でそんなことをしたらもう明日は食えませんと言うから、「そんなことはない。聖書には『まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう』(マタイ 6:33)。神様が全部備えてくださるのだから、そう信じているでしょう」「ええ、これまで神様が恵んでくださって、食べるに困ることはなくここまで来ました」「じゃ、その神様に心から感謝して、思いっきりレブタ二つ、貧しいやもめさんが自分の生活費の全部をささげたとある。やってみたらいいでしょうが、その信仰がないのでしたら『私には信仰がありません』と素直になったほうが幸いですよ」と言ったのです。そして、もう一度、その信仰を与えてくださいと、初心に返って神様に結びついて、ご愛と力と恵みに生きるものとなってほしいと、そういう話をしました。その姉妹は思い掛けないことを聞いたと言わんばかりでしたが、「大変励まされました。もう一度、自分の聖書を読み、祈ることから始めます」と。初心に返らなければいけない。そこで教えられたのですが、ともすると形、こういうことをしているから私は信仰があるかのように思うけれども、気がつかないうちにそういうところに落ち込んでいる。

 

だから、ヨハネによる福音書21章22節に「あなたは、わたしに従ってきなさい」。私ども自身がイエス様に従うことがすべてです。

 

私はここで教えられるのですが、先ほど申し上げたように、弟子たちの信仰生活の再出発なのです。今まで三年半近く目の前にイエス様がいてくださっての生活でした。しかし、イエス様はそこで彼らの目から消えてしまったのです。十字架に死んで葬られ、よみがえりなさったのですが、40日の後、天にお帰りになって、彼らの目の前にイエス様がいなくなってしまった。それでなおかつ「イエスは生きておられる」と信じていく霊的な信仰のレベルへ、彼らはもう一度リセットされるのです。それまでの地上にあって、ペテロやヨハネ、12弟子たち、またそのほかの弟子たちもイエス様と一緒に生活をし、イエス様の声を聞き、言葉を聞き、そのわざを目の当たりにして見ていました。しかし、それが救いではない。私どももともすると肉にあって神様の恵みにあずかろうとする。私はその姉妹の話を聞きながら、教会とか、あるいはクリスチャンであるとか、あるいはキリスト教的な雰囲気であるとか、そのような目に見える境遇や事柄、また具体的な神様のわざ、思いがけない奇跡的なわざを見ることももちろんあります。しかし、そういう肉にあってと言いますか、この地上で私たちの信仰が成り立つのではなくて、それをいったん御破算にして、今度は見えないイエス様、よみがえった主を信じる霊的な信仰へ作り変えられていく。だから、この弟子たちの信仰生活は言うならば、私たちの一つのモデル、参考です。確かにイエス様に出会って、生活にも安心が与えられる。お祈りしたら、こういうことも聞かれた、ああいう結果になった。この息子もこうなって本当に祈りに答えられた。あれもこれも答えられたと言っている間は、まだ、まだ何と言いますか、初歩の段階、入門期です。その次に、もう一度ガリラヤへ行けとイエス様は言われた。そして、そこで今度はよみがえった主を愛する者となって、主に仕えていく。ペテロがガリラヤ湖で思いがけない大漁に出会って、恐れおののいて「わたしは罪なるものです。主よ、離れてください」と、それに対してイエス様が「今日からあなたは人を漁(すなど)る者としよう」と約束してくださって従ってきた。それから三年数ヶ月の地上の旅路を歩んだのですが、もう一度それをリセットして、今度は目に見えない霊に生きる者へと変えられていく。ペンテコステのわざとはそのことです。

 

あなたは、わたしに従ってきなさい」と、イエス様からお言葉を頂いたペテロたちは、もう一度エルサレムに戻って父の約束されたものを受けるまで離れないで待ちなさいと言われたように、そこでとどまりました。彼らは一つの家に集まって、徹底して祈っていました。そのとき霊が注がれて、彼らは「イエスは生きておられる」と告白する信仰に立つことができたのです。そこが救いだと思います。今も「あなたは、わたしに従ってきなさい」言われています。そういうイエス様にどのように従えばいいか。それはまさにペテロたちが、あるいはパウロがそうであったように、神の御霊に導かれること、キリストの霊に満たされ、その霊に仕えていく生涯。これが神様が私たちに求めていることにほかなりません。もちろん家族のことも心配だし、愛する人の救われることも願いでありますが、まず私どもが目に見えないキリストの霊に導かれ、救いにあずかる者となりたいと思うのです。そうしますならば、神様はまた私たちにかかわりある者たちの救いにも大きなわざを現してくださる。まず自らが救われ、そして祈り、主を待ち望んでいくとき、主の御力が注がれ、主のみわざがそこに現れるのです。だから、パウロが「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」と言っている。まず「あなたも救われる」と言う。私どもが主イエスを信じて、自分が救われるとき、やがてその家族の一人一人も神様は放っておかない。神様のご愛と恵みをしっかりと受け止めていける者でありたいと思います。

 

22節にありますように「イエスは彼に言われた、『たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい』」。「あなたは、わたしに従ってきなさい」。どうぞ、私たちは日々の一つ一つ小さいことも、大きなことも、常に見えない主を見上げて、主に従って「今日もイエス様、あなたの御心に従いました」と、心から言い得る歩みをしていきたいと思います。信仰をしっかりと堅く持つ者となりましょう。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 



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