いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(149)「み手にあって」

2014年03月26日 | 聖書からのメッセージ
 イザヤ書43章8節から13節までを朗読。

 13節に「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。
 
この地上での日々の生活は目に見える事柄、自分の体、五感、あるいは自分の知識や感覚、そのようなものでいろいろな情報を得ながら生活を営みます。情報を取捨選択、時に応じて行動を選び、決定しなければなりません。そのようなときに、何を頼りにするかと言うと、何よりも自分の経験であり、社会の伝統的な仕来りや習慣であったり、自分の願いであったり夢であったり、そのようなものを土台として、右にしようか、左にしようか、これはどうしようか、と判断します。ところが、現実はなかなかそうすんなりと事はいきません。思いもかけないこと、考えもしなかった事態や事柄に出会って途方にくれます。そうすると、いろいろな人に聞くし、専門といわれる人たち、経験者たちの意見を求めます。しかし、それでもなかなか確信が得られないでいるのが実際の姿でしょう。これでよかったのだろうか、あれでいいのだろうか、こうしたけれどもこれでいいのだろうか、この先はどうなるのだろうかと、さまざまな思い煩い、不安、心配が私たちの心を支配してきます。一日のうちどれだけ安心を持って生きているかを考えてみると、そのような安心感がない。次から次にどうしようか、ああしようか、よかっただろうか、悪かっただろうか、これからどうなるだろうか、うまくいくだろうかいかないだろうかという思いが、私どもに絶えず襲ってきます。

その根本の原因は、取りも直さず、私たちが自分というものを握っている、自分で立とうとするからです。私の人生、私の生活、私の将来、私の仕事、私の家族と、私というものに立って生きようとする。私が……と思います。私にとってどうなのだろうか、私がこのように願っているのだけれども……、私が求めているのだけれども、といつもそこに私が、という思いがあります。ところが、考えて見ると、「私」というものがそもそもそれほど確固たる、揺るがない土台に成り得るか? 成り得ないのです。私たちは自分に自信がありません。いくら長年この地上の生活を営んできたからといっても、そろそろベテランで少々のことでは動じないのではないか、経験もこれまで積んできて海千山千、この生き馬の目を抜くといわれる厳しい現実の中で、70年80年90年と生きてきた者にとって、そろそろ自信もできただろう、そんなに悩むこともないだろう、と思いますが、必ずしもそのようにはならない。いや、むしろ年を取ればとるほど、いろいろな不安が募ってきます。それは自分というものが、いかに弱い、はかない、頼りないものであるかという証しです。私どもが揺るがない土台の上に立ちさえすれば揺れません。

 福岡は地震のない所として長年有名でしたが、数年前に思いもかけない大地震がありました。私も経験をいたしましたし、皆さんもご経験のとおりであります。その後余震がしばらく続きました。ガタガタと揺れる。揺れるたびにハラハラドキドキとしてうろたえる。私はなぜ地震が怖いのかな、ということをしみじみと考えました。火事も怖いですね。しかし火災は何とか逃げられるに違いない。とにかく逃げれば済む。あるいは台風であるとか、いろいろな自然の災害にしても前もって予防する、あるいはそれに備えて逃げ出す準備ができる。ところが、地震はそれができない。どんなに科学が進んでもなかなか予知という、前もって、1時間後に地震が起こりますよ、ということが言えない。それまではガラガラッと揺れたら急いで飛び出して逃げればいいではないか、と思っていた。ところが、実際に揺れを体験すると、土台、よって立つべき、力を踏ん張るべき場所が揺れるのだから、身動きならないのです。普段は動かない土台の上に、大地の上にしっかりと足を踏ん張って立っていますから、「逃げればいいではないか」と思いますが、そのよって立っている土台である大地が揺れるのですから、もうお手上げです。逃げ出そうにも土台が揺れているから、足が踏み出せない。私はそのような恐怖を味わってみて、地震の怖さは物が落ちてきてつぶれるとか、あるいは家がつぶれるのではないかとか、火災に巻き込まれて逃げられないのではないか、という恐れよりも、もっと根本的な恐れ、人が無能無力で何にもできないものだという恐れです。立っている土台がガラガラ揺れることの恐怖、恐ろしさを味わうからだ、と教えられたのです。

 日々の生活で自分というものに立って、私の考え、私の計画、私の願い、私の望み、そのような「私」というものに立って生活している。ところが、「私」自体があやふやなのです。まるで地震に揺られている土台のようなもので、そこにいくら立とうと思っても立てない。私たちはそのような存在であることを認めていかなければなりません。自分というものが、どんなに弱いものであり、小さなものであり、頼りにならないものであるかを知っておかなければならないと思います。

そうなると、では一体頼りになるものはどこにあるのだ。多くの世の人々はいろいろな事情、境遇、事柄を頼ろうとします。自分に自信がありませんからお金を蓄えます。貯金をしたり、あるいは保険にでもかかってこれで大丈夫、と言いたい。あるいはいろんな社会制度の仕組みを作って、人が安心できるようにしようと、政治家やいろいろな人々が頑張って、社会組織・制度を作ります。しかし、それも実はまったく当てにならない。お金にしろ何にしろ、社会制度でもそうですよ。介護保険が出来て将来はばら色かと思いました。ところが介護保険は財布がパンクしてどんどん給付は削られていく。変わっていくのです。どこにも、これで大丈夫、と言えるものがありません。では、どこにもないのかと言うと、そうではなくて、実は私たちは造られ生かされ、この地上に命を与えられているわけですが、それは自分の力ではないのです。私たちは弱くて頼りないものであって、いつも揺れ動いています。それはまた動かないもの(神様)によって造り出されたものだからです。絶対的な不動の力を人は持ち得ないのです。これが造られたものの性質です。

ですから、造られたものである私たち人間は自分では立てない、動けないばかりか、弱くて揺れ動く、そのような存在です。造られたものだからです。では、動かないもの、絶対的なものは何かというと、それは私たちを造った神様です。神様は過去、現在、未来、永遠にわたって変わることのない方です。不動の御方でいらっしゃる。またオールマイティー、絶対的な力をもって支配される方です。そのような力によって、私たちはこの地上にそれぞれ生を与えられ、命を与えられ、生きる者とされているのです。ですから、誰一人自分の力でこの世に産まれ出た人はないのです。この日、この時、この親の元に産まれようと、自分で決めてきた人は誰もいません。ましてや、自分がこの地上の生涯を終わるとき、このときに自分は終わろう、と決めることもできません。

ある知人は、自分のお母さんが68歳で召された。だから、自分の人生も恐らくその辺で終わるだろう、と言っていました。70歳を迎えたのですが、まだ元気にしている。そうしましたら、77歳になったときに、私は「おめでとう。喜寿になりましたね」と言いましたら、「何か気が抜けました」と、生きる気力がなくなった。「どうして? 生かされているから幸いじゃないの」「こうなるといつまで生きるのだろうか、と心配になります」と。面白いものですね、人間といいますのは。人は自分の力で自分の終わりを決めることはできない。私たちの始まりも、終わりも、神様のご計画と御思いの中にあるのです。始まりと終わりをしっかりと握っている方が、実はその中間の、日々の生活すらもちゃんと備えてくださっているのですが、それを知らない、知ろうとしない。神様を求めようとしないために実はいつも揺れ動いているのです。 

福岡に地下鉄がありますけれども、地下鉄は長い階段を下りていかなくては乗れない。ですから高齢になりますと、バスに乗りたがるのです。バスはどうして便利かといいますと、階段を下りなくていい。1、2歩ステップを上がれば乗れるのです。しかしバスは危ないのです。バスは非常に振動をします。立っているわけにはいかない。だから皆さんもご経験のようにバスに乗りますと「お客さん、座ってください」と、時々言われます。お年寄りの方は次に降りようと思って入り口の所で手すりにすがり付いていますが、「そこのお客さん、早く座ってください」と言われますね。いくら手すりにしがみついていても、手すり自体が動くのですから、吹き飛ばされます。そのようにバスは、非常に揺れが激しい、前後左右に、上下にも揺れます。だから、地下鉄の方が比較的乗りやすいのですが、上がり下りが大変です。それで最近はエレベーターとかエスカレーターを取り付けて乗りやすくしましたが、それでもやはりバスを選びますが、しかし、どだい乗っているその乗り物自体がガタガタしているわけですから、これは落ち着かない。

それと同じように、私たちもこの人生を自分というバスに乗っていて、そして大丈夫だ、これで頑張る、これでよかろうと、それを頼りにしたって、「私」というもの自体があやふやなものですから、いつも振り回される。これが現実です。だから、揺れ動く私たちが、動かない神様に帰っていかなければならない。これがなければ、平安、あるいは安心はありません。

今読みました13節に「わたしは神である、今より後もわたしは主である」と宣言しています。「わたしは神である」と、「わたしは」と言っているのは、聖書を通して証詞している、目には見えないが、すべてのものの根源であり、すべてのものの創造者である神ご自身が、「わたしが」と言われます。神様がいらっしゃるのだと、宣言しているのです。というのは、それほどまでに、そのように言わなければならないほどに、人間は神様を認めたくない。これが人の罪です。聖書で人は罪人だといわれているのは、そのことなのです。私たちは心を探ってみれば、まことによからぬ思いばかりで、本当に罪人だと思われるでしょうが、そんなものは大した罪ではない。もっと大きな罪は、私たちを造ってこの地上に置いてくださった神様を忘れていることです。それを信じようとしない。それでいて、神様以外のものによって、安心を得たい、これなら大丈夫と言われるものを求めようとしている。

神という言葉はご存じのように、これは人を表すものではなくて、人を超えた大きな力です。私たちの目には見えないけれども、私たちをこの地上に命を与え、そして地上の旅路を絶えず導いていてくださる方。その御方が13節に「わたしは神である、今より後もわたしは主である」とおっしゃいます。最近の若い人々は、この「主」という言葉の意味合いが理解できにくい。主と言うのは従うべき主人です。昔は、僕(しもべ)は徹底して従うべきものという考え方が一般的に認められていましたが、最近の若い人々は「従うなんて馬鹿な話」と言います。主人なんかいらいらない、私が主人だ、と言う人が多いから、「主」と言われても何のことかよく分からない。この「主」とは、私たちが従うべき方、その方が私たちの主人になってくださる。自分の生活、自分の人生、自分の日々の営みの中心が神様にあると、言っているのです。私たちはそれに気がつかなかった。かつてはそのことも知らないで、浅はかな自分の知恵や力で、何とかしようと頑張って、努力すれば何とかなると思ってきた。ところが、現実どうにもならない。いや、それどころか、自分の思わない、考えない事態や事柄の中に置かれる。だから、神様は「わたしが神である」と、私があなた方の主なのだ、私がすべての事を支配して、導いているのだ、と言われる。

詩篇139篇13節から16節までを朗読。

13節に「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました」。神様が私たちをお母さんのおなかの中に宿してくださった。そして、おなかの中で「私たちの内臓を作り、私たちを組み立ててくださった」と語っています。しかも、16節に「あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた」と。神様は私たちの姿かたちがまだなく、お母さんのおなかの中であるかないかわからなかったときに、もう既に神様は私たちの体のすべてを、出来上がった姿をちゃんと知っておられた、というのです。しかも「わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた」。まだ私たちがこの地上に生まれないで、一日として人生を送っていなかったとき、既に私たちの全生涯が神様の書物に記され、計画が出来上がっていたというのです。これは驚くべきことです。私たちは自分が計画し、自分が選び、自分が決断してこの人生を生きてきた、と思いますが、実はそうではない。実は神様が私たち一人一人に備えられた結果だというのです。

最近よく生命科学などで、人間の染色体のことを言います。全部にそのような記録がされているという。神様はもっと大きな力をもって、すべての人々の将来のこと、その地上の営みの一つ一つを全部知っていてくださる。その神様を私たちが信じること、その神様によって今日も私は生かされていることを認める。そして、神様が私たち一人一人に必要なこと、なすべきこと、どれもこれもきちっと整え、備えておいてくださることを信じる。ここに初めて揺るがない土台に立つ道筋があるのです。

17節に「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう」。確かに、神様が私たちのために備えてくださる道筋、その道がどうであるか、全部知り尽くすことができません。だから、私たちは明日のこと、来年こと、これから将来どうなるか分かりません。分からないけれども、分からないから不安ではなくて、分からないけれども、このように私たちのためにすべての事を作り、また持ち運んでいてくださる神様を信頼して、神様に自分を結び付けて、神様を土台として、支えられていることを信じていく生涯。これが安心を得るただ一つの道筋です。

だから、イザヤ書43章13節に「わたしは神である、今より後もわたしは主である」。わたしはあなたの主人だ、主なのだよ。だから、この神様に信頼すること、そして、主でいらっしゃる神様が私たちに命じること、私たちに求めていることに従う。それが造られた者の幸いな生涯です。私たちは神様から造られたもの、造られたものは造り主の目的にかなわなければなりません。どんなものでも、造られたものは、その用途、目的がある。これは何のために造ったものであるかは、造ったものが知っている。

芸術作品で、見ても、聞いても訳の分からないものがあります。鉄くずのようなものが丸めてある。これのどこがいいのだろうか、と思います。しかし、造った人にその意図を聞けば分かります。これはどのような考えで造ったのか。ほかの人が見ても分かりません。ましてや造られたそのもの自体が、自分は何のために造られたのかなんて分かる訳がない。

私たちも自分は何のために生きているのか。自分は何のためにこの地上にあるのか。自分では分からない。造り主でいらっしゃる神様に聞かなければ分からない。神様は私たちに生きる道筋を教えてくださる。主となってくださる。私たちを導かれる方ですから。私たちの人生を振り返ってみると、初めていろいろなことを考えることができます。なるほど、神様はこのような人生を私に置いてくださったのか。皆さんでもそうだと思います。若いときに、このような人生を生きたい、このような家庭を持ちたい、このような仕事に就きたい、このようなことを将来したい、と夢があったと思います。今振り返ってみて、自分の夢とは似ても似つかない、想像もしない、考えもしない所に置かれている。一体誰がそれをしたのか? まさに先ほどの詩篇の言葉にありましたように「神様は私たちが地上に一日として過ごさなかったとき、既に私たちの人生を全部備えてくださっている」。神様が私たちの主となってくださる。神様が「今日生きよ」とおっしゃってくださる。「今日これをせよ」と命じてくださっていると信じて生きる。私たちが神様を主とすることは、取りも直さず、自分が神様の僕だと認めることです。これが二つ目の事柄です。私たちは神様から造られ、神様に従うべき存在であるということ。

では、どこで主に従うのでしょうか。それは私たちの置かれた日々の一つ一つの事においてです。それらは自分がやっているのではなく、神様が私のために備えてくださっていると信じていく。ときには、それは自分の願わなかったことであるかもしれません。自分が求めなかったことであるかもしれません。あるいはそれは願ったとおりで、しめしめ、よかった、と言える道であるかもしれません。しかし、どんな道であっても、絶えずそこで主である神様に、私は従って生きているのですという確信をもつ。自分の人生をそのままに感謝して受けることができるのは、神様を信じて、神様が主となって今に至るまでこの地上の旅路を導いてくださったと感謝して受けるときです。私たちは生涯のどれ一つとして無駄でなかったと言い得るのです。そうでないかぎり、いつまでも不平不満、不満足の人生を生きるに違いない。「なんでこんな人生だったのだろう。もう少しあそこで何とかならなかったのだろうか」「あの時私があんな判断をしなければよかった」と言って、自分を責めますか。それではまことに惨めというほかはありません。そうではなくて、「神様、あなたが私を造って、わたしをこの地上に置いてくださった。そして今日も生きる者とし、このことをさせてくださった」と感謝する。主婦の方にとっては、毎日毎日決まったことを繰り返して、私の人生はこんなものか、と失望しているならば、それは大間違いです。神様がこの家族のために、この私にこの使命を与えて、この務めを与えてくださっていると、それを認めて感謝するとき、人生は何一つ捨てるべきものがない、よきものとして受け止めることができる。

ですから、13節に「わたしは神である、今より後もわたしは主である」と言われるのです。私たちは神様をこの眼で見ることができません。手で触ることもできません。しかし、天地万物、森羅万象の創造者である神様がいらっしゃって、私を今日も生きるものとしてくださっている。その方が私の主、中心となってくださる。生まれてから今に至るまで、私は知らなかったけれども、不思議な神様のご計画とお導きによってここにあるのだと、認めていく。これからも、その神様が私ども一人一人を導かれる。それがどのようなものか、知ることができませんが、すべてを知っている神様が、私のために一番よいことをしてくださる。最初に讃美しました霊感賦の26番に「すべてのことをば よきになしたまう」という歌詞があります。すべての事を一番よいことに神様がしてくださるのだと、神様を信頼していくとき、揺るがない不動の土台にしっかりと立つことができる。それがないかぎり、いつまでも「これでよかったのだろうか」「一体私はこれからどうなるのだろう」と、不安と恐れで絶えず揺れ動いて落ち着くときがありません。

昨年4月27日召されたT兄の生涯を振り返ってみますと、兄弟は神様の不思議なお導きと、ご計画と御業の中に生きた生涯であったことを教えられます。殊にT兄の最後の時、晩年に至って、ご自分の長年しておられた仕事を終わることにした。もうこれでおしまいにしよう。長年しておられただけにいろいろな手続きや、始末が大変であったと思います。しかし、不思議なかたちで神様がすべてを整えて、全部終わった。その時、ちょうど2年ほど前だったと思いますけれども、3月か4月ぐらいだったでしょうか。「先生、感謝したいから」と言ってお宅にお邪魔したことがあります。そして、家も土地の処分もまたいろいろな仕事上のことも全部不思議なように神様は整理してくださって、これで終わりました、と言って感謝なさっていました。

ところがそれから何ヶ月もしない、夏過ぎた頃でしょうか、8月か9月くらいだったと思いますが、礼拝に来られた帰りにT兄が「先生、今度は神様から思いがけないプレゼントをもらいました」と言われた。「どうしたのですか」、「また改めてお話します」と言って帰られました。私は一体何事かなと思っておりました。そうしましたら、後日兄弟から連絡がありまして「実はガンが再発した」ということでした。「自分は神様がこれを与えてくださったものだと思うから、治療はしません。抗がん剤も何も使おうとは思いません。ただ神様に委ねていますから、祈ってください」と言われた。T兄は人が自分の力で生きているのではない。神様の力によって命を与えられ、ここまで導かれた。彼は若いときにこのイエス様の救いにあずかって、神様を信じる者とされましたが、長い信仰生活、もちろん初めからそのような確信を持って生きていたわけではない。その間、波乱万丈、神様はいろいろな中を通してくださいました。しかし、それでも彼は神様を信頼して、神様の手の中に生かされてきました。ですから、その集大成といいますか、最後のときを神様は備えてくださったな、と思います。それから9月10月11月、少しずつ体調が崩れてきましたが、12月の第一日曜日の礼拝に出て来られて、そのときは随分やせておられて、1時間半の礼拝に座っているのも大変な状態でありましたが、午後の「一年の感謝会」にも残られました。その時に「先生、私も感謝をしたい。どうも体調が優れないから途中で中座するに違いないので、あしからずよろしくお願いいたします。そのために、まず最初に自分の感謝の証詞をさせてほしい」と言われた。「分かりました。ではその順序でいきましょう」と、食事をしてすぐ後に感謝会に入りましたときに、T兄が証詞をしてくださいました。実にはっきりとした信仰の告白をしています。素晴らしい神様の恵みの中に生かされてきたことを感謝いたしました。それがこの教会でお目にかかった最後であったと思います。その後、年が明けまして、1月くらいから自宅でも体が動かなくなって、2月に入院をなさいました。それから急速に体力を落とされました。2月3月と毎週T兄の病室を訪ねて、いろいろなお話を伺いました。感謝して、感謝して喜んでおられたのを思い出します。もちろん、その間不安もありました。眠れない日もありました。しかし、その度に神様に心を向け信仰に立って、そしてやがて帰っていくべき所、神様の約束を信じて祈っていました。

「わたしは神である、今より後もわたしは主である」。この神であり、主となってくださった神様に、T兄は信頼して、そこに揺るがない土台を置いて生きた生涯でありました。誰一人この地上の命を終わらない人はいない。いつまで生きているの、私は死なないのではないでしょうか、と心配した方がいますが、その方も104歳でお召されになられました。100歳になってお祝いをした時、「先生、私はもうこのまま死なないのではないでしょうか」と心配されたのです。だから私は「いや大丈夫。必ず死にますから安心してください」と言った。「ああ、よかった。私もやはり死ぬでしょうね」と言う。「それは死にますよ」。そうですよ、必ず死ぬのですから。ただ大切なのは、どこへ行くのか。ただ単に雲の上、パッと消えておしまい。線香花火で終わって無になるのではない。私たちが地上に置かれていること自体、神様が私たちに霊を与え生きる者としてくださった。肉体は消えます。しかし、私たちのうちにある魂は「それを授けた神に帰る」。神様の所へ帰っていくのです。だから、暖かくなると冬服を脱ぎ捨てるがごとくに、私たちもしわくちゃになってしみだらけの肉体を脱ぎ捨てる。今度は霊の体を神様からいただくと聖書に約束をされています。

どうぞ、揺るがない土台に立って生きる生涯でありたいと思います。このイザヤ書の43章13節の御言葉にあるように、「わたしは神である、今より後もわたしは主である」とおっしゃいます。この神様に信頼して、聖書の御言葉を本当に心にしっかりと握って、地上に生かされている間、大胆に主に、神様に従っていく生涯でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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