いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(347)「神様の喜び」

2014年10月10日 | 聖書からのメッセージ
 「ヘブル人への手紙」11章1節から6節までを朗読。

 6節「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」。

 教会に来ますと、よく「信仰」という言葉を聞きます。「いったい何だろう、信仰とは」と、初めのころは思われたに違いないと思います。信仰とは単純に、簡単に申し上げるならば、「神様を信じる」ことに尽きます。「神様を信じる、といっても、神様はいったいどこにいるのだ」と、時にそういうことを尋(たず)ねられます。「神様は見えない、手で触ることもできない、声も聞こえない。いるのかいないのか分からない」と。「そんなものをどうやって信じるのだ」という話になりますが、そこが信仰のだいご味であり、また、つまずきの石かな、と思います。でも、考えてみると、信仰がなくなったら救われたと信じる者の値打ちがなくなると思います。私たちはいまイエス様の救いにあずかって、神の子供とされた。よみがえってくださったイエス様が私といつも共にいてくださると信じて祈り、聖書のお言葉は神様の御言葉だと信じて、そのお言葉を信頼しようとしています。そのような生活で神様を信じることができなくなる、信仰を失ったら、その人にとっては全く救いがないのと同じであります。ただ形だけで祈ることはできるでしょう。あるいは、こういう集会に、教会に来ることも、また教会でのいろいろな行事や交(まじ)わりに参加することもできるでしょう。しかし、信仰がなかったら、ただの人、といいますか、世間の神様を知らない人たちと全く同じです。だから、この世の中の多くの人々と私たちの違いは、神様を信じる者であること、いうならば、信仰を持って生きているところにあるのです。それがなかったら、世間一般の人と何ら変わるところはありません。もっとも、だからといって、私たちが雲やかすみを食べて生きるわけではない。世間の人と同じ生活をしていると思いますが、確かに見えるところ、生活の場所、着る物、食べる物は同じですが、信仰によって生きることは私たちに与えられている最大の特権であり、恵みであります。だから、何としてもこの信仰に立たなければ、信仰に生きる者でなければ、私たちのいのちがなくなります。

 「ヘブル人への手紙」10章37節から39節までを朗読。

 38節に「わが義人は、信仰によって生きる」とあります。「わが義人」、神様が「よし」とされる人、神様が立派な人だ、と言ってくださるのは、私たちの生き方、生活が品行方正、聖人君子だからよろしい、と言われるのではない。自分の心を見るならば汚れだらけであり、失敗だらけであり、欠けだらけであります。できない、力のない者であります。しかし、ただそういう私たちが信仰によってのみ「義」とされる。これはアブラハムを通して神様が語られたことです。ルターが宗教改革で掲(かか)げたのは「信仰のみによって人は義とせられる」ということでした。その当時カトリックでは定められた様々な規則や戒律(かいりつ)を守ることが求められました。あるいは、免罪符(めんざいふ)のようなものを買わないと罪が赦されない、という時代でした。そこでルターはもう一度聖書に立ち返って、「ローマ人への手紙」から、人が義とせられる、神様の救いにあずかる、罪を赦される道はただ一つだけ、それは信仰によるのだ、と言ったのです。信仰によって生きることを、生活の隅から隅にまで徹底させていくことがいのちなのです。39節に「わたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく」とあります。信仰を捨てたら滅びるしかないのであります。なぜならば、義とされないのですから。神様から呪われた者、永遠の滅びに定められた者となるしかない。ところが、私たちは「信仰に立っていのちを得る」のです。神様を信じる信仰に立って、永遠のいのちの生涯に導き入れてくださる。となると、そこで「さて、信仰とは?」という話になります。11章1節に、「さて、信仰とは」と信仰の定義が語られています。「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」と。こう言われて、「あら、何のことかな」と思われます。結局、最初に申し上げましたように「神様を信じる」ことに尽きるのです。「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認する」と。いうならば、それは神様のなさるわざのなかに自分を全く委(ゆだ)ねきる、ということにほかなりません。私たちが望んでいること、まだ見ていない事実、いま目の前にないこと、私たちが見ているものと全く正反対の状態であろうとも、常に神様を信じていくことです。

だから、3節に「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」と。ここに「この世界が神の言葉で造られたのであり」とありますが、これは非常に大切なことだと思います。旧約聖書の一番最初の「創世記」に、まず初めに神いますと、すべてに先立って神様がおられたと宣言されています。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(創世 1:2)とあります。そのように何にもなかった闇のような所に「光あれ」と神様が仰せになられたら光が出来た。神様の言葉によって一つ一つが創(つく)り出されてきた。創り出されたものは、私たちの肉体の目をもって見ることができる。いわゆる現象といいますか、現れ出てきたものであります。目に見える状態や事柄です。それらがすべて神様の言葉によって創られてきた。さらに、3節の後半に「見えるものは現れているものから出てきたのでないこと」とありますが、これは「見えるもの」とは、私たちの生活全般や人事百般です。いま私たちが生活をしている場、あるいは自分の性状性格もそうでしょうか。人のことも、家族のこともそうでしょうし、ありとあらゆる、すべて目で見えている事柄は「現れているものから出てきたのでない」。いうならば、「このことがあったから、これがこういう結果になった」。原因、結果、因果(いんが)関係から生まれてきたのではないということです。「こうなったのは、あの人がこんなことをしたから」と、私どもはそのように考えます。「こういう材料があるから、これが出来た」「私にこれだけのお金があったから、これをしてあげよう」、あるいは、「これがこうだから……」と、見えるものから見えるものが出てくる。これがこの世の中の物の考え方です。だから、お母さんから赤ちゃんが生まれる。いうならば、見えるものから見えるものが生まれてくる。すべてそういう因果関係で成り立っているのがこの世の中の考え方です。ともすると私達もそのように考えるのです。いろいろな思いがけないことが起こってくると「どうしてだろう」と、犯人探(さが)し、原因探しをするのです。「あれがいけないに違いない」「こいつがいけない」。ところが、ここには「見えるものは現れているものから出てきたのでない」、いうならば、そのように見えるものが原因ではない。実は見えない御方がおられて、それを造り出していらっしゃる。それが「この世界が神の言葉で造られた」ということです。だから、私どもは、まずそこを信じなければ信仰は始まらないのです。今この地上に命を与えられて、何十年かの生涯を生きてきました。その間にいろいろなことがあったに違いない。うれしいこと、楽しいことも、悲しいことも嫌なことも、また自分の理想が実現したこともあるし、全く希望や願いとは違った正反対の方向に行ったこともあった。そのたびごとに「どうしてだろうか」「どうなっているのだろうか」と、いつも「どうして……」「どうして……」と不平不満。「どうしてこんなになったのだろうか、あいつがいけない」「あの人がいけない」「あの結婚がよかった。悪かった」とか、あるいは「こんな子がいるから、こうなった」「あそこであんなことがあったからこうなってしまった」と、「見えるものは、現れているものから出てきた」と思い込んで、生きてきました。しかし、実はそうじゃないと、ここで語られているのです。「見えるものは、見えないものから作り出されている」。神様がそれぞれにその事柄を置いているのです。ここを認めることが神様を信じることです。いま自分に与えられている境遇や事柄、自分の願わないことかもしれない。あるいは自分の求めていなかったことであるかもしれない。しかし、神様がおられて、今このことを行ってくださる。それを信じていく、これが神様を信じることです。神様を信じるとは、何か姿かたちがあって、仏像であるとか、観音像であるとか、造られたものを見て、「これが神様か」と信じて、「この神様にお願いしよう」というほうが楽な感じがします。分かりやすい。というのは、私たちの生きている世界が、「見えるものが、現れているものから出てきた」と思っている。すべて、見えるもののなかで連鎖(れんさ)していく、つながっている、と思うからです。聖書が語っているのは「そうじゃないんだよ」と、「この世界も宇宙もすべてが神の言葉によって造られたてきた。見えない神様がいらっしゃって、一つ一つが造られ、今あなたにそれが与えられている」。

私自身の短い人生を振り返ってみましても、「この日、この時、こういうことがあった」「どうしてあのときあんな嫌なことがあったのだろうか」と思うことがありますが、しかし、よくよく考えると、「お前がそこを通りなさい」「お前がそれを受けなさい」「それはお前が担(にな)いなさい」と、神様が語ってくださったことばかりだったのです。そのときはそうは思えなかった、悟りが鈍(にぶ)いですから。ある程度の時間がたって考えてみると、「本当にすべてがよかった」と。あのときこれがあって……、そのときはもう七転八倒(しちてんばっとう)の苦しみで「何でこんなことになったんだ!こんなことにならなきゃ、よかったのに」「あんなことをしなきゃよかったのに」と悔やむことがあったかもしれない。しかし、実はそれがあって次なることがあり、更にそれにつながって今がある。その一つ一つの事柄、見えるものが、現れたものから出てきたのではなくて、一つ一つが神の言葉によって造られてきた。神様がその事を定めてくださった。

先週の礼拝でも教えられましたが、「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」(イザヤ 43:13)。まさに神様が一人一人私たちを造り、この地上に命を与えて、生きる者としてくださった。そして、私たちに必要な一つ一つのことを備えて、「必要な」というのは、私の必要ではなくて神様にとって必要なことです。ここを私たちはいつも間違える。「必要なことを備えてくださる。私のして欲しいと思っていること、これが必要だと思うことを神様は備えてくださる」と思いやすいのですが、実は、神様が必要だと思っておることを私たちに与えてくださる。だから、私たちは「こんなものは必要がない。それどころか大迷惑、こんなものはないほうがいい」と思うことがありますが、神様にとってそれが必要だから、そのことを起こしているのだと、これを信じるのが神様を信じることです。

 「イザヤ書」45章5節から7節までを朗読。

 5節に「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない」と。わたしは主である、とおっしゃるのです。わたしが主人だ。だから主人が思いのままにするのは当然であります。主人が必要なものを私たちに要求するのは、当然であります。私には迷惑かもしれない。それは嫌なことかもしれない。しかし、主が必要だ。神様が主でありますから、「わたしが神だ」と言われます。神様が主であり、同時に私たちにすべてのものを与えてくださり、また神様はご自分のご計画を全うなさる御方であります。私たちに命じておいて、「後は勝手にやれ、力も何もかも必要なものは自分で探して来い」と言われる方ではありません。主ですから「お前が、これを負え。このことをお前がせよ」とお命じになったら、それに必要な知恵も力も何もかも一切のものを供給してくださる。だから、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ 4:13)のです。神様が私たちの後ろ盾となって、必要な力を与え、知恵を与えてくださるのですから、徹底して主に結びついていくこと。6節に「これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである」と。私たちを神様が用いてくださって、私たちに神様が主であることを信じさせてくださる。だから、信仰に立って歩むとは、神様の願いなのです。私たちを信仰に引き入れて神を信じる者として、私たちをこの地上に置いてくださる。それは、6節「人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるため」だと。人々、世間の多くの人々が私たちを見て、「なるほど、神様は誠にこの神様以外にない」と知るようになる。私たちを通して、そのことを明らかにしたい。これが神様の願いであります。だから、「わたしたちは神様の作品である」といわれています。神様がどんな御方でいらっしゃるか、私たちを通して明らかにしようとなさる。ですから、7節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄(はんえい)をつくり、またわざわいを創造する」と。神様は光も暗きも、繁栄もわざわいも、どれもこれも全部神様が造っておられる。だから「私は何とこんな不幸な人間でしょう。私の親が悪かった」とか、「生まれた星が悪かった」とか、姓名判断をしてみたり、血液型で占いをしたりします。そんなことと関係はありません。神様がお造りになったのです。神様がいまその事を起こしている。これを信じるとき、私たちは力に満たされます。誰も非難する必要がないのです。神様が今この事を起こして、「わざわいを創造する」。私どもは「いや、そんなことをされたら私のほうがたまらん」と逃げ腰になってしまう。逃げなくていいのです。受けて立てば神様がそれに応(こた)えてくださるからです。

 先日、ひとりの方がこのお言葉を聞いて、びっくりして私の所へ来られ、「先生、びっくりしました。神様は暗きもわざわいも造られるのですね」と。「私はいつも神様がなさるのは善いことしかしないと思っていました」と。「私がこんなつらいことにあったり、不幸な目に遭うのは神様じゃなくて、神様以外の悪いたたりがあって、霊障(れいしょう)があって起こっているのであって、神様に帰って来ればこのわざわいがなくなると思っていました」と。「聖書にこんなことが書かれていたのですね」と驚いていました。「これは私があんなことをしたためにこうなってしまった。申し訳ない、申し訳ない」と悔やみますが、そうではない。そういう目に遭わせて、神が神たることを、主が主でいらっしゃることを明らかにしようとしている。

 7節の後半に「わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」と。すべてこれらの事をするのは、神様がしている。だから、すべてのことは神様の御手のなかにあって導かれ、事が起こっている。たとえ病気になっても、神様はその病気が私に必要だし、神様にとっても必要なことだから、そのなかを通していらっしゃる。悩みがあるときには、その悩みこそが、そこで神様の恵みに会うために必要だからです。どうしてもそこを通らざるを得ない、担(にな)わなければならない事態や事柄があるのです。これを信じるのが「神を信じる」ことです。神様を信じる信仰の生活とは、世から離れてどこか深い山中に入って、庵(いおり)でも組んで壁に向ってただ祈りざんまいの生活をしているから、神様を信じられるかと、そうではない。まさに今この切れば血が出る現実の生活の中で起こってくる一つ一つのなかに神様を認めていく、信じていくのです。

 「ヘブル人への手紙」11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」。神様が喜んでくださるのは私たちがそのような信仰に立って生きているときなのです。「いま私はこんな不幸な目にあって、ああ悲しい、つらい、何とかここから逃げ出したい」と悲鳴を上げるばかりではなくて、もう一度そこで「ここにも神様がおられるのだ。この事を起こしているのは神様である」と信じる。それには自分を捨ててかからなければ駄目です。すぐに逃げ腰になりやすい。だから、イエス様は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ 16:24)と言われる。神様を信じていくのは、神様に対してお手上げにならざるを得ない。自分を捨ててかかる。「こんなことをしたら、あれを失うに違いない。これを失うに違いない」「こうなったら、これはどうなるだろうか。この先どうなる……」と、私たちはすぐ「見えるものは現れているものから出てくる」と思ってしまう。つい、先、先を読んで、「ああなったら、こうなる」「こうなったら……」「現実こうだから、これがこうしかならない」と決めてしまう。これはあくまでも見えるものが現れたものから出てきた、と信じているからです。3節にありましたように、「この世界が神の言葉で造られたのであり」と。いうならば、見えないものから作り出されているのです。だから、どんなことでも変わっていきます。

 「ローマ人への手紙」4章16節から21節までを朗読。

 これは信仰の父・アブラハムの信仰について語られた一節です。彼はカルデヤのウルを出てハランという所まで来て、父親が亡くなった後、神様は彼をカナンの地へと導かれたのです。そのときに「国を出、親族に別れ、父の家を離れてわたしの示す地へ行け」(創世記12:1)と言われました。彼は、先ほどの「ヘブル人への手紙」11章8節にありますが、「行く先を知らないで出て行った」と。どこへ神様は導かれるか分からないけれども、神様が「行け」とおっしゃる所へ信じて踏み出して行った。その時の約束はただ「あなたは多くの国民の父となるであろう」(創世 17:4)、という、祝福を与えるという約束だけです。その報いを望み見て、神様の約束の成就(じょうじゅ)を信じて、御言葉に従って踏み出して行った。やがて彼はカナンの地に定着をしたわけです。しかし、だんだん月日がたちますが、一向に「多くの国民の父」になれない。というのは、彼には子供がいませんでした。相続人としての親族はいたのですが、直接の自分の子供はいません。それでいて神様は「あなたを多くの国民の父とする」と、空の星のように、浜辺の砂のように多くする、と言われても、信じられない。現実、どんどん自分の体は弱っていく、年は取っていく。奥さんも不妊である。そこでいろいろな方法、手立てを考えてみましたが、17節に「『わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした』と書いてあるとおりである。彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」と。自分の状態を見て「これだったら大丈夫」「今こういう状態だから、そうなるに違いない」「次はこういう風であるから、こうに違いない」というのだったら、それは信仰ではない。「これだけの力があるから、自分の持っているものはこれだけあるから、これを使ってこうしようか」、あるいは「ここがこうだからこうなるに違いない、これだけの才能があるからこうしよう」「この人はこういう立派な人だから、きっとこうなるに違いない」と。そうであれば、神様は必要ない。「死人を生かし、無から有を呼び出される神」、神様を信じていくことは、何にもない所からでも創(つく)り出すことができる御方。この素晴らしい信仰は私たちの特権であります。

また18節に「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」。望みつつ信じていく。何を望むのか? 神様に期待する。人じゃない、状態や事柄ではない、状況ではない、神様に期待する。「神様、あなたがこのことを始められたのです。どうぞ、あなたの思うとおり力いっぱいやってください」と。ところが、私どもは「神様、あまり力いっぱいやられたら困りますから、私が耐えられる程度、ひとつ、この範囲(はんい)内でどうでしょうか」と、ついつい神様の力を限っていくと言うか、そうやって逃げ出そうとする。そのためにどんな大きなものを取り逃がしているか分からない。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」。アブラハムのように神を信じる者となっていきたいと思います。

19節に「すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも」と、実に絶望的な状況です。自分のからだは死んだ状態、というのですから、もう死も同然です。私たちは家族の救いについても「あんな状態はもう無理だ」と、死んだ状態……、元気でピンピンして遊びまわって教会なんかに近づきもしないし、だから「あいつは、もうこれは駄目だぜ」と、まさにその死んだ状態から、「また、サラの胎が不妊である」、一度として子供を産んだ経験もない。一度ぐらい流産でもしていれば「またチャンスがあったら出来るかもしれない」と、かすかな望みがあるでしょうが、残念ながらないのです。「これは駄目だ」と、絶望していながらも、「でも、神様がそこから何をなさるだろうか」と、神様に期待する。これが私たちの信仰です。私たちは、今どういう信仰に立っているのかを省(かえり)みて、絶えずこの信仰に立ち返っていきたいと思う。見えるものが現れたものから出てきた世界、因果関係のなかに気がつかないうちにスポッと入り込んで、神様を信じることをしない。死んだ状態である、絶望的な状況であってもなお信じていく。これは私たちの大切な信仰だと思います。

先だって、創立70周年の記念の礼拝と感謝会をさせていただきましたが、20年前に「創立50年周年」をしました。そのときに記念誌『燃ゆる柴』を出版しました。先だってそれを読み直してみたのです。そこに、父が76歳ぐらいだったと思いますが、肺炎のために礼拝の真っ最中に高熱を出して倒れて入院をしましたが、それから一ヶ月ぐらい過ぎて11月です。私が退院した父を見舞いに来ました。帰るときに「自分たちは九州に二度と戻って来ることはないと思うから、二人仲良く老後を過ごしてください」と言って帰ったと、そこに書いてあるのです。そう言って一ヵ月半もたたない、明けて一月の初めに、私から「献身をしたい、すべてをささげて神様に従いたい」と言われたから、父も母もびっくり仰天した。「何を血迷ったか」と、何とか引きとめようと、両親が名古屋に来ました。母は乗り物に乗るとすぐ眠ってしまうのですが、そのときは一睡もできないでやって来た。今年が献身に導かれて25年になりますが、振り返ってみて、まさかこのような人生を神様が創り出してくださるとは……、人のわざではない。両親もそうなってくれれば、という祈りはあったと言います。でも、どこかで「無理じゃない。もうああなったらね」。人間的に見て絶望するしかないときにでも、そこで何を信じるのか。神様はどんなことでもできる。人の心をひっくり返すのです。私は自分自身のことを通していつもそのことを教えられ、誰に対しても大いに希望が持てる。神様が働いてくださるならば、神様の時が来れば、どんなことでもなし得る。

父がだんだん年を取ってきたとき「先生、後継者はどうするんですか?」と心配され、父が「私の知ったことではない」と答えた。そのとおりです。まさに人の計画じゃないですから、神様が「わたしはこれを行う」と、それは教会のことばかりではありません。「教会のことだから、それは神様がしてくださるだろう。我が家のことはチョット違うだろう。私一人がクリスチャンで家族みんなはそっぽを向いているから、神様も半分向こうを向いているに違いない」と。そうではありません。すべてのご家庭の一つ一つのわざの中に、神様の働きがあり、力があります。どうぞ、「死んだ状態であるのを認めながらも、不妊であるのを認めながらも、無から有を呼び出される神を信じる」。

「ヘブル人への手紙」11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」。「神に来る者は」、いうならば、神様を信じる者はという意味です。神様を信じる人は「神のいますこと」を信じるはず。それはそうです。神様を信じると言いながら、私の家には神様はいらっしゃらない。私の人生には神様はいらっしゃらない。「私の人生は私が作った。私の家庭は私の努力の結果、私のこれまでの命は私が頑張ってきたから」と言い張るなら、そこには神様はいらっしゃらない。また、神に喜ばれることはできません。そうではなくて、神様が「います」ことを信じるのです。今この家庭にも、私の人生も、いまこのことが起こっている、嫌なこと、こんな世間の人から言ったら恥ずかしい出来事であったとしても、それもいま神様が起こしている事なのです。そのなかで神のいますこと、「神様がいらっしゃる」と信じること。そして「ご自分を求める者に報いて下さる」。神様は私たちが祈り求めるときに、その祈りに応(こた)えてくださる。神様は今も生きて働いてくださる御方であります。だから、私たちは何にも言うことはない。心配することもない。もしあったら祈ればいいのですから、求めればいいのです。「ご自分を求める者に」、神様を求めていくときに、応答してくださる。お祈りする時、いろいろな願い事をします。「ああしてほしい」「こうあってほしい」「これは取り除いて、こういう心配があります」と、神様に打ち明けます。打ち明けてその祈りの結果を求めようとしますが、実はそれが祈りの目的ではないのです。祈ることによって、その求めている事柄はどうであれ、祈ることによって自分自身の心が作り変えられていく。だから、祈ることをお勧めするのです。祈った事柄がいつ実現するか、それに神様はどう答えてくださるか、そのことばかり一生懸命に目を凝(こ)らしてジーッと見つめて「神様、いつやってくれますか」「いつやってくれますか」と、結果ばかりを追い求めた祈りをしているかぎり駄目です。そうではなくて、祈って、祈って神様に求めていくときに、私たちの内なる魂が作り変えられていく。「ピリピ人への手紙」にあるように「何事も思ひ煩ふな、ただ、事ごとに祈りをなし、願をなし、感謝して汝らの求めをに告げよ。7さらば凡(すべ)て人の思いにすぐるの平安は、汝らの心と思いをキリスト・イエスによりて守らん」(4:6,7文語訳)。神の平安に私たちを満たしてくださる。そうすると、願っていたことがなろうとなるまいと「まぁ、どちらでもいい。きっと神様は最善のことをしてくださいます」と信仰に立てるのです。そうなると私たちの日々が楽しくなる。ところが、結果だけを追い求めようとすると、失望しますよ。「神様はこんなに何度も長くお祈りしたのに、一ヶ月も毎日お祈りしてきたのに、結果はこれか!」と、失望します。神様が求めているのは私たちの魂に平安を与え、神を喜ぶ者と造り変えるためです。

 ですから、6節にありますように「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」。信仰を持って神様に喜ばれる者となっていきたい。そのためには「神のいますこと」、神様はどこかにいるに違いない、というのではなく、私たちの生活の日々の事柄のなかにそこに神はいます、と信じること。そして、私たちが祈り求めることに神様は答えて、私たちの魂に喜びと平安と望みと力を与えてくださる。だから、このお言葉を堅く心に置いてください。いろいろなことで失望するでしょう。がっかりもすることが多々あります。しかし、どうあろうとも、何度裏切られようと、神様を信じることが私たちに求められていることです。「信仰なくしてはに悦(よろこ)ばるること能(あた)はず」(文語訳)、神様にしっかりと私たちは結びついて、神様の御業を体験していきたい。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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