いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(325)「朝ごとに夕ごとに」

2014年09月18日 | 聖書からのメッセージ
 「哀歌」3章21節から33節までを朗読。

 22,23節「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。

 この年もいよいよ残すところわずかとなりました。今日は今年最後の礼拝であります。今に至るまで、神様は私たちを守り導いてくださったことを覚えて心から感謝せざるを得ません。また、自分自身を振り返ってみますと、皆さんの祈りと励ましによってここまで支えられて御用をさせていただいたことを感謝するものです。振り返ってみますと、年頭から三つの御言葉を与えられて、信仰生活がスタートしました。「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない」(詩篇 96:10)誠に神様が私たちの王となってくださるのだと期待しました。この1年、いかがでしたでしょうか。いろいろなことのなかで主が王であると認めざるを得ません。気がつかないうちに、私たちは自分が王様になってしまう。自分の思いどおりに、願いどおりに事を進めようと思って、人とぶつかり、物事は行き詰まり、力のなさ、自分の弱さを痛切に思い知らされます。その中にあって絶えず御言葉に立ち返って、「主は王となられた」。そうだ、神様は王でいらっしゃる御方、ご支配くださる御方ですと、繰り返しそこに立ち帰らせていただいたことは大きな恵みであります。また「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)と勧められました。神様は私どもに神の霊を受けよ、とおっしゃる。「霊」というと、日本人はあまり良いイメージを持たない。先だってもある方がそのようなことを言っていました。「どうも、日本語の霊というのは、いかんですな、先生」と。「じゃ、何がいいのですか」「英語の聖書を読んでみると、Holy Spirit と書いてある。何かそちらの方がいい感じがしませんか」と。言葉が違うと受けるイメージが違うというのは、確かにそうだと思いますが、聖書でいうところの「霊」とは、神様の御性質、神様の力という言葉であります。だから「聖霊を受けなさい」というのは、神様のご性質に染まることです。神様の御思いに私たちが一つとなることに尽きます。

1年を振り返ってみまして、私どもは神様の御心に従い得ただろうか。あるいは神様の御思いを感謝し、喜んできただろうか、これまた心もとない現実があります。しかし中途半端で、取るに足らない者でありますが、神様は「ひとたび我に就(きた)る者は我かならず之を棄(すて)ず」(ヨハネ6:37元訳)と、あなたを捨てないとの約束です。こうしてこの1年をここまでそれぞれを導いてくださいました。

もう一つ与えられた御言葉が、「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」です。この1年の締めくくりに当たって、もう一度原点に立ち返りたいと思います。この御言葉は、私どもがそらんじるぐらいに繰り返し味わい、また励まされている御言葉であります。この年も恐らくそうであったと思いますが、私自身もこのお言葉によってどんなに励ましを受けたか分かりません。神様の力に満たされてスタートしたわけでありますが、4月頃になりまして、私自身体の不調を感じ、とうとう冠動脈不全、狭心症という、正真正銘の病気の診断を受けました。始めは軽く考えておりました。私も「大したことはなかろう」なんて高をくくっていました。「2泊3日で検査をしましょう」と言われて、気軽に検査を受けました。2泊3日で、ちょっと旅行気分で入っておりまして、退院したら次なる予定がびっしりありましたから、病院のベッドに寝ているわけにもいかない。検査が終わりまして、家内が「じゃ、もう明日退院ですね」と言ったら、お医者さんが「とんでもない!」と、画像を見せてくれました。心臓の周囲の血管がきちんと写っています。一箇所だけ、「ここですよ」と言われて、見るとまるでソーセージがくびれているように、キユッと細くなっている。「95パーセントふさがっております」と。あと5パーセントふさがったら、心筋梗塞で「ご臨終」という事態。それでもまだ切実感がありません。ほかの所が痛くもかゆくもありませんから……。「このままでは退院できません。急いで手術をいたします」と。そのまま入院して手術を受けました。よくまぁ、こんなことを考えつくものだと思いますが、手首から細い管を動脈の中を通しまして、心臓を取り巻く動脈まで管を入れていくのです。その先に小さな金属の筒を折りたたんで持っていって、詰まっている所、狭くなっている所に持っていってポッと広げる。大体心臓の周りの血管は直径が2、3ミリだそうです。以前別の病気で手術を受けたときは全身麻酔ですから、完全に意識が消えました。今でもそのときのことを思い出しますが、死ぬとは、このように意識が消えていくのかなという体験をしました。気がついてみたら、6,7時間たっていて、「もう終わりましたよ」と、「え!何したんですか」と言うぐらいに何も分からなかった。ところが、今回のステントを入れるカテーテル手術は、手首だけが麻酔されていますから、意識はありますので、全部見えている。見ていると、2、3人のお医者さんが一緒になってやりながら、時々首を「え?」「 お!」とかしげる。「え!大丈夫かな」とそちらのほうが心配です。会話が聞こえる。「ここ、ここ」「あ、ちょっと行きすぎ」とか言われると「あら、 ちゃんとやってくれよ」と思います。そのような経験をしまして、とうとうそれから更に都合10日間ぐらい入院する羽目になってしまいました。「いったいどうしてこんなことになったのだろうか」「どうしてだろうか」。皆さんもご経験だと思いますが、病気になると「何がいけなかったのだろうか? 食べ物だろうか、何だろうか、自分が不摂生(ふせっせい)だったのだろうか、あるいは何か原因があるのだろうか、親だろうか?」。イエス様に「この目の見えない人は、いったい誰の罪ですか? 本人ですか、それとも親の・・・・・・」と、そういう発想になります。ところが、イエス様はそのとき「いや、親の罪でも本人の罪でもない。ただ、神のみわざが、彼の上に現れるためである」。(ヨハネ9:1~3)神様のわざなのだよ、ということです。私もそのときもう一度、自分が生きているのは、自分の力や努力や何かで生きているわけではない。いろいろな自分の思いもかけない、願わないことが起こってくるが、これは自分で防ぎようがないのです。どんなに注意してみても私たちはそれから逃れることはできません。だから「私はこの1年どこも悪いところはなかった。健康そのもの、たたいても引っ張っても私は死なんぞ」と思っているかもしれませんが、来年は分かりませんよ。ひょっとしたら、ここで告別式をしているかもしれない。それは私たちの手にないのであります。常に自分であって自分ではない。そのことをもう一度、よくよく教えられた事態でありました。その後8ヶ月ぐらいたちまして、今月の初めですが、もう一度検査を受けてきました。4月に入れたものがちゃんと機能しているかどうかを見たいということです。それでもう一度カテーテルを血管の中に通して、「手術した所は完ぺきにきれいに流れていますね。ただちょっと気がかりな心配な所があります」と。「手術したちょっと手前の所にもう少し狭くなっている箇所がある」「え!また手術ですか?」と、「いや、これはまだ治療をするほどのものではないけれども、これから経過観察、もうしばらく様子を見ましょう。ただその間に食事療法や運動療法をすることで良くなる可能性が十分ありますからそのへんをよく注意してください」と言われましたが、何を注意したらよいのか?「少しは食べる物に気をつけなければいけない」と言って、これまで気をつけましたから、だいぶやせまして、皆さんから心配されて、「先生、病気でもあるんでしょうか。おやせになりました」と言われて、「いや、いや、これは食事療法の結果です。標準体重に戻っただけです」。本来、私は太り気味の体質ではない。子供のときからズーッと、どちらかと言えば痩せていました。ですから、もう少し減らすほうが体のためにはいいに違いないと思うのですが、まだ食べたい欲がありますから、そう思い通りにはいきません。しかしこれは神様に頼って、主の命じられる所に従う、神様の導きによるしかないことを改めて思い出させてもらった次第であります。

 21節に「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく」と言っています。「この事」って何のことか。それは22節の「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」、この事を思い起こして望みを抱くと。なぜならば望みのない中に置かれたからです。そのことが3章1節から20節までの所に語られています。この「哀歌」を詠(よ)んだ詩人、恐らくエレミヤといわれていますが、預言者エレミヤが何か自分の身に降りかかった不幸といいますか、苦しみ、困難に遭いました。そのなかで望みを失ったのです。生きる望みが絶えるほどの苦しみに遭った。置かれた周囲の事からは、どこにも望みを見出すことができない。しかし「ひとつの事を心に思い起こすときに望みがわいてくる」と言う。その思い起こす事は何か、それが22節「主のいつくしみ」です。神様のご慈愛は絶えず注がれている。神様は私たちを愛してくださっている。しかも、神様のあわれみ、私たちをあわれんでくださる御思いは絶えることがない。これは決して失われない。ところが、どうしても生身の体をもって生きていますから、現実生活のなかでは「これが神様の愛だろうか。どこが神様の恵みだろうか?」と思うことが多々あります。私もこのような病気を通してみてそう思いますが、「どうして、こんなことになったんだろうか?」「神様は愛だと言い、神様は恵んでくださる御方、神様は善にして善をなし給う御方だ」と言いながら「どうも自分に対しては懲(こら)しめているような、いじめているような神様じゃないか」と。どうですか、皆さんもそう思うことがあるでしょう。ひがみ根性です。お祈りしても神様は答えてくださらない。私はそのとき一つ教えられたことですが、私どもは自分の側からばかり神様のわざを見ている。いうならば、神様がどのように私を取り扱っておられるか。神様の反応といいますか、神様の応答がどうあるだろうかを一生懸命に考えます。

 先だってもある一人の方がこういうことを言っていた。「先生、この年、一つのことを教えられたのですが、聖書を読んでいたら、『心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない』とありました。今までこの聖書の言葉を繰り返し読んだけれども、神様が私たちを愛してくださることばかりを思っていた。神様はどのように私を愛してくださったのだろうか。そのことばかりを求めていた。そうしたら、この聖書のお言葉は『神を愛しなさい』と、神様を愛しなさい、と言われているんだということに気がついた」と。「自分は今まで神様の愛の手応え、そればかりを求めて、神様が自分をどのように愛してくださる? 自分の生活の隅々を、人生を振り返って一つ一つの事柄を細かく見て、どこに神様の愛があるだろうか、愛を求めることは熱心だったけれども、私は本当に神様を愛したのか?」と。そこで「神様を愛するということはどうすることなんだろうか?」その方は一つのことにぶつかった。「先生、自分は間違っておったのでしょうか?」「いや、確かに私どもは神様が愛してくださる、そのご愛を求めていくことに、愛をはっきり知ることは大切なことであると同時に、だからこそ私たちが神様を愛すること、これは私たちの側の応答、答えです」。だから、交わりとは、一方的な関係ではありません。与え与えられ、受けて与えるという双方の交流、交わりが大切であります。私たちはどちらかというと、一方的に愛してくれ、愛してくれ、愛されたいということばかりで、私は神様にどのように応えただろうか、どのように愛していけばいいのだろうか。「そういうことを自分で考えたことがなかった」と彼は告白していました。

では、愛するとはどうすることなのか? と思ったときに、「ヨハネによる福音書」のお言葉が思い浮かんできました。「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう」(ヨハネ14:21)とあります。さらに15,16章に繰り返し語られていますが「いましめを心にいだいて」、あるいは神様のお言葉を守るものは神様を愛している人だと。だから「そうか、神様がそうおっしゃるんだから、はい分かりました」と、神様のお言葉に自分を結びつける。言い換えると、そこに自分を置いていくことに尽きるのです。

今読みました「哀歌」を詠った人も、その現実は真っ暗闇で望みを失った状態でありました。ところが21節以下に「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。22 主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」と。いうならば、神様のお言葉を、神様が私たちを愛しているよ、とおっしゃってくださる言葉に自分をつなげること。これが神を愛することです。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)とおっしゃる。ところが、私どもはいろいろな現実の問題のなかで心が騒ぐ、思い煩いに満ちてくる、不安や恐れに取り囲まれるときに、「神様は私を愛してくださらない。こんなひどい仕打ちをされて、こんなつらい思いをしているのに神様は放っておかれるのだろうか」とつぶやく。いうならば、神様の愛の結果を一生懸命に探そうとしますが、そうではなくて、私たちの側が今度は神様を愛する者となる。御言葉によって自分の思いをそこにつなぐ。主が「心を騒がせるな」、「思いわずらうな」とおっしゃるから、「はい、そうします」と自分をそれに懸けていく。神様のわざのなかに自分を置く。神様が今このことをしてくださっていると信じる。聖書にあるように「わたしは神である、今より後もわたしは主である」(イザヤ 43:13)。神様でいらっしゃる御方、「主は王となられた」、王でいらっしゃる御方がわざを進めてくださっている。自分の力や自分の計画、自分の努力でやっているのではないことを認めていくこと。そこに神を愛する道がある。私たちが神様を信頼していくこと。これが神様を愛することにほかなりません。

だから、21節以下に「しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。22 主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。神様のご愛、あわれみは絶えることなく、尽きることなく、常に注がれているのだと。神様のご愛のなかに、いうならば、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3:16)とおっしゃるように、限りないご愛をもって愛してくださるとの主のお言葉を信じて、一切を神様の手のなかに明け渡していくこと。これがこの22節に語られている事柄であります。「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」。そのあわれみ、豊かないつくしみ、愛に満ちた神様のわざのなかに私たちは置かれている。そのことを信じていく。つい自分の側に神様がどんなことをしてくださるか、何をしてくださっただろうか、この現実を見、あの事柄、目の前のいろいろな事柄の、そこにだけに目を留めますが、そこには私たちの願っている結果はありません。そうではなくて、今度はそれらの一切を、自分の好き嫌い、自分の良し悪しにかかわらず、私たちの生活の業の一切を神様の御業です、神様のわざによるものである、と認めていくことです。

 今年いろいろなことがありました。自分自身の健康の問題もありますが、それ以外にも教会の皆さんのことなど、また周囲のいろいろなことなどがありました。一つ大きなことがありました。その中で「どうしてこのようになったのだろうか」と、その事柄の始まりでなぜか?と問い続ける問題もありました。そのことのためにいろいろな心労が多かった。「いったい、これはどうしてこのようになってしまったのか。なんで早くもう少し打つ手はなかったのだろうか」と自分を責めます。皆さんでもそうだと思いますが、何か事があったとき「ああ、しまった。もうちょっと早く……」。自分のことならまだしもあきらめもつきます。「仕方がない、私がしたのだから」と。ところが、そうでない場合もあります。「どうしてなんだろうか」。でもいくら考えても答えが出ません。時間は元へ戻りません。ビデオテープのように巻き戻してあそこだけ消しておこうとか、都合の悪いところを切ってつないで全部ストーリーを変えてしまおう、というわけにはいかないのです。そのときに、私たちは「どうして?」「何でだろうか?」と言うけれども、それもこれもひっくるめて良いことかもしれない、悪いことかもしれない。それはわかりません。そうでなかったら良いに違いないと、私たちは思うけれども、しかし、このすべてが実は神様のわざなのです。人があんなことをしたからああなったとか、こんなことをしたからこうなった。その原因結果を何とか探ろうとしますが、結局の所、神様がそうなさったとしか言えないし、またそこに立ち返らなければ、そこに信仰が働かなければ、何のために信仰なのか?神様のわざとして信じていく信仰。それは自分自身のすべてを丸ごと神様のわざであると受け入れていかなければ立てません。

自分の人生の、自分のこの1年間の一つ一つの事柄も、神様の御業であった。私が今日ここに生かされ、この年まで生きてきたのも誰の業でもない、実は神様のわざによるのだ、と信じていく。そして、いろいろなことを起こしてくださる神様は、どんな御方?「いつくしみ豊かであわれみに富み給う御方でいらっしゃる」。しかも23節に「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。これは朝ごとに、毎朝神様のいつくしみ、あわれみは日ごとに、日ごとに決して古びることなく、絶えず新しく新鮮なものとして私たちに注がれ、私たちを受けいれてくださる。しかも「真実」、神様は私たちを愛するに当たって、私たちの言葉の良しあしや、行動の良しあしによってさじ加減をなさる御方ではなく、わたしはあなたを愛する、ひとり子を賜うほどに限りない愛をもってお前を愛しているよとおっしゃった御方は、そのお言葉のとおりに私たちを愛してくださる。

もう一度、自分の心の置き場をはっきりとしておきたい。神様の御業によって、私たちの今があるのだ。そして、そのわざを起こしてくださる神様は、いつくしみあわれみの絶えることなく豊かな御方いらっしゃる。そこに自分を据えていかなければ望みはわいてきません。また力を得ることができません。非難することは簡単です。「あんた、あのときあんなに言ったやないの。こんなに言っても分からない。仕方ない、自業自得よ。苦しみなさい!」と言ったからとて、問題は解決しません。それはうっぷん晴らしにはなるかもしれないけれども、そうではなくて、神様のあわれみ、いつくしみのなかに私たちは今日あるのです。今あなたが悔やんでおられるかもしれないけれども、しかしあなたを有りのままで神様は愛してくださっているのだから、こうして命を与えられた生涯は神様の御業です。自分で作るのではない。自分の願わないような、思わないような、これからいつまで地上に残されるか分からないけれども、いろいろなことを考えなければならない。そういう何といいますか、人間的なことで考えていきますと、だんだんと望みがなくなる。しかしそこで神様のわざによって、神様の力によってここまで来ているのだし、これからもその神様のわざのなかに自分を置いていく。自分の考えていること、自分の計画していること、自分が願っていること、自分の損得利害から離れて、神様の側に自分を置き換えていく。そのことが今求められていることです。

22節以下に「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。神様のご愛に満ちたあわれみに富んだ御業のなかに私たちは今日も生きていること。この年もここまで神様があわれんでくださった。神様のわざによって今日があることを認めて生きる。パウロが「我が今の如くなるは、の恩恵(めぐみ)に由るなり」(Ⅰコリント15:10文語訳)と、彼は語りましたが、私たちももう一度思いを整えて、神様の一つ一つの備えられたわざのなかに生きていること、そこに常に自分の思いを離れて委ねきって行きたい。自分を神様の側に立つ者と、神様に結びついた者となって行きたいと思います。その思いがこの22節以下のお言葉であります。「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。

この主のご真実にみずからを委ねて神様の御業を信じて歩もうではありませんか。また来るべき新しい年もそれぞれ神様がどのようなご計画をもって導いてくださるか分かりません。どうぞ、徹底してことごとく主のものとなりきって、主の御手にささげて、誰彼が悪いのではない、私が悪いのでも誰のせいでもない。世の中のせいでも誰のせいでもない。実は神様が私たち一人一人を神様の御業をもって、神様のわざのなかに置いてくださっているのだと、この信仰に立って歩ませていただきたい。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


最新の画像もっと見る