いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(15) 「信仰とは」

2013年10月06日 | 聖書からのメッセージ

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マタイによる福音書6章1節から8節までを朗読。

4節に「それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」とあります。今お読みしました、2節に「施しをする時」、5節以下には「祈る時には」とあります。またさらに続いて16節には「断食をする時」と、いろいろな場合に応じてのことが記されています。施しをしたり、お祈りをしたり、断食をする。言い換えると、これは、私たちが神様の前に生きる生き方、生活のあり方です。

この施しをする場合、4節にあります様に、「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」。神様が、私たち一人一人に報いて下さる、応えて下さる、応答して下さると信じる。あるいはまた、祈る時のことも記されています。6節に「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」。神様を信じて祈るとき、神様は必ず応えて下さる。また、神様からの恵みに感謝して、施しをする時も、神様を信じて、神様にそれを献げる時、神様は報いて下さる。また16節に「断食をする時」と記されています。18節には「すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう」と。神様を信頼し、信じ、委ねるとは、いろんな言い方がありますが、その一つは、必ず神様は報いて下さる方だと信じることです。

ヘブル人への手紙11章6節を朗読。

この11章は、「信仰とは」、という言葉で始まって、信仰によって生きた人々の証しが列挙され、信仰によって生きることがどういうことかが語られています。その中で、信仰とは何かを、はっきりと言い表したのが、6節の「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いてくださることとを、必ず信じるはずだからである」。先ず、神様を信じ、信頼することがなければ、神様は私たちを喜んで下さらない。私どもが、神様の為に何かをしようとか、犠牲、献身、あるいは、神様の為に、あれをして、これをしてと、自己犠牲を神様の為にするかもしれないけれども、それは、神様が喜ばれることではありません。詩篇50篇を読みますと、神様は、「わたしはあなたがたの犠牲や燔祭をよく知っている。しかし、そんな捧げものや犠牲をわたしが求めているのではない」とおっしゃっています。

「なぜなら」と続いていますが、これは理由を語るより、神様に喜ばれる信仰が何であるかを語っているのです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら」、言い換えると、「神に来る者」、これは神様を信じる者です。神様を信じる者は、先ず「神のいますこと」、神様がいらっしゃることを信じる。

神様がいらっしゃることを信じないで、神様を信じることはできません。案外、私たちはそういうところがあるのです。「神様を信じています」と言いながら、実際の事柄や問題については、あの人がああしたのに違いない、この人がこうしたに違いない、これはあの人がいけなかった、これが悪かった、私が悪かったという風に、実際の事柄の中に、神様がいらっしゃると言うことができない。そのことが見えない。この年頭に与えられました「わたしはアルパであり、オメガである」とある様に、神様は初めであり、終わりである。神様がいらっしゃるから、いろんな事が始まるのです。私たちが、今日こうして生きていること、この地上に命を与えられた事の始まりは、神様によるのです。だから、自分が生きていること、自分が今日ここにあるということ自体、神様がいらっしゃるからだと認めているでしょうか。自分が頑張って生きている。自分が一生懸命に努力して、働いて、老後の為にと貯えて、そして今がある。神様は関係ないとは言わないけれど、何処かで、そういう思いがある。しかし、神様が喜んで下さるのは何かと言うと、私が今日生きているのは、私の力でなくて、神様がいらっしゃるから、神様がいらっしゃるからこそ私があるのだと信じることです。

日常生活にいろんな事が起こってきます。子供の問題、地域社会での人間関係の問題、あるいは職場でのいろいろな問題。その始まりはあの人がこう言ったからこうなった。政治家がこんなことをするから、世の中がおかしくなってしまったと言います。いろんな事柄の始まり・原因が、人間や事情・境遇であったり、あるいは、何か他の事柄によってこういうことになったと思ってしまう。その時、初めであり、終わりである、全てのものを握っている神様がいらっしゃると信じていないのです。だから、神様は何時も歯がゆい思いと言いますか、どうしてわたしがいることに気がつかないのだ、わたしがいるではないかと、絶えず私たちに声をかけて、いろいろなことを起こされるのです。

この6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は」とあります。神様を信じる者は、神様がいらっしゃると信じる。その次に大切なことは「ご自分を求める者に報いて下さること」です。神様がいらっしゃるのは飾り物としてではありません。床の間の置物の様に、ここにいらっしゃいますと飾っている。あるいは、よく日本の家庭にあります様に、神棚みたいにお社に型造った木の箱を置いて、神様がいらっしゃると言いますが、その神様は「でくの坊」、手も出ない、足も出ない、火事や地震になったら、人が担いで逃げなきゃ困るという様な神様。これでは、神様がいらっしゃると信じても役に立たない。神様が喜んで下さるのは、その後にある様に、「ご自分を求める者に報いて下さる」。報いると言うのは、分かり易く言えば、応えて下さるということ、応答して下さるということです。耳の聞こえない方ではない、目の見えない方ではない、手が短くて救えない方でもなければ、足が無くて歩けない方でもない。私たちの信頼する神様は、必ず応えて下さる、応答して下さるのです。

神様を信頼して、頼ってくる者を放置しておかない、必ず、具体的な事を起こして下さる、初めとなって下さる。そして、力ある手でその事を握って、私たちを導いて、神様の思いと願いに適う者としてくださる。これが「報いて下さる」ということです。ですから、私たちにとって、神様を信頼するほど幸いなことはありません。神様は、私たちが信頼して、呼び求めて、寄り掛かることを願っていらっしゃる。人の場合は違います。子供でも、何時までも親掛かりになっていて御覧なさい。親も段々年を取って、できなくなってくる、頼るのはいい加減にしてくれよと言いたくなる。ところが、神様はそうはおっしゃらない。神様は、いくらでも自分により頼んで欲しい。神様は御自分を信頼し、期待を持って欲しいと願っていらっしゃる。神様にこんなことをお願いしたら申し訳ない、聞いて貰えないに違いない、あるいは、こんなことまでお願いしちゃいけないなどと遠慮するのは、神様が一番お嫌いになることです。ともすると、そういう風に思ってしまう。確かに、人と人との関係の中では、そんなことを考えます。ご主人に対しても、奥さんに対しても、これ以上、期待しても無理だ、この事は彼にはできないんだからと思ってしまう。こういうこともして欲しいけれども、身体も弱いし、お互い年も取っているから、求めるのも止めておこうと、控えてしまいます。これは、人と人との間の関係です。ところが、事、神様に関しては、私たちが信頼し、呼び求め、何でも寄りたのむ、神様頼みになることを喜ばれるのです。だから、遠慮して、神様はお忙しそうだから、私は控えておきます、という態度に対して、神様はむしろ、嘆かわしいと言いますか、悲しまれ、残念に思われるのです。

「はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」(ヘブル4:16)と、神様は、呼び求めてくる者を愛して、それを願っていらっしゃる。ところが、心のどこかに「神様にまで頼らんでも良かろう」と思います。そこがいけないのです。と言うのは、神様に頼らんでも何とかできると思う、傲慢な思いが芽生えているからです。自分ができない者であり、足らない者であり、神様によらなければ、一日も半日も生きていることができない、動けない。私たちはそういう者なのですが、それを認めようとしない。自分でも何かできると思っているところに、私たちの大きな罪があるのです。私たちは、何もできなければ頼らざるを得ないのです。年を取ってきて、身体が不自由になって、人からの介護を受けなければならない、世話を受けなければならなくなります。私達は皆そうなるのですが、ところが、自分は身体が動かないのに、世話をされるのを嫌がる人がいます。そういうお年よりは厄介です。私たちも神様に対してそうなのです。神様からご覧になったら、私達は正に、神様の御目的に適う歩みができない。考える力もない、記憶力もない。歩めばヨタヨタしてとんでもない方向に行く。もう何をしているか本人も分かっていないのが私たちであり、神様からご覧になると危なっかしいばかりです。

年を取って、手足も不自由になって、思う様に動かない。だから周囲からサポートしてあげようとすると、「いや」と言って、受けようとしない。90歳を越えて、一生懸命に教会に来られる方がおられます。せっかく来ていらっしゃるからと思って、いくらかでも助けてあげようと手を差し出そうとすると、イヤな顔をされる。素直に、本当に助けて下さいと言ってくれたら、喜んで、どんなにでもしてあげたいと思うのですが、「私はあんたの世話にならん」という態度を露骨に出すと、これは嫌でしょう。神様に対して、私達はそういう態度を取っている。神様、あなたの世話にならんでもできます。できないことだけ、ちょっとやって頂戴と。特に身体が不自由になると、「私の言うことだけして頂戴」と言うのです。それでいて、できるかと思うとできないのです。そして、頑固になってきます。

神様に頼ることを、神様は喜ばれる。そして、私たちの思うよりも願うよりも、もっと素晴しいことをもって、応えて下さる。確かにそうだと思います。私どもは力のない人間ですが、それでも頼られたら、何とかしてやろうと思います。ところが、「いい、そんなことせんでも良い、私ができる」と言われたら、もう手の出しようがない。

神様に信頼する時もそうです。「神様、私はこれができません」「神様、これを助けて下さい」「神様、ここをこうして下さい」と、幼子の様に神様を信頼する時、「ご自分を求める者に報いて下さる」。必ず神様は私たちに応えて下さる。ちゃんとサポートして下さる。私たちを持ち運んで下さるのです。それをまた神様は喜ばれるのです。私たちの為に、神様は何とかして手を出してあげたい、運んでやりたい、支えてやりたい、ああしてもやりたい、こうしてもやりたいと、父なる神様は思っている。ところが、私たちは、「嫌、いい!」「まぁ、これはお祈りせんでもできる、これもしなくていい。これも…」と、時々「これだけは頼もうか」と。それでは、神様はがっかりなさいます。だから、神様は「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリピ4:6)とおっしゃいます。

マタイによる福音書6章4節に、「それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」とあります。神様は、私たちの目には見えない方です。何処にいらっしゃるのか、何をしていらっしゃるのか、私たちはわかりません。けれども、6節に、「隠れた所においでになる」と記されています。神様は、見えないんだけれど、必ず居て下さる。隠れて私たちを見ていらっしゃる。そして、その方が報いて下さる。神様が、私たちに直接応えて下さる、道を備えて下さる。祈って、神様を信頼している時に、神様の方が私たちにきちっと応答して下さる。だから、6節にある様に、お祈りをする時も、人に聞かせるのでなく、あるいは、人に見せ、人の賞賛を受ける様なことではなく、隠れたところにいるあなたの父に祈りなさい。「自分のへやにはいり、戸を閉じて」、誰も居ないところで、神様だけに祈っている。人に言わなくてもいい、人に求めなくてもいい。人を当てにしないで良い。人から何かして貰おうと期待する必要はない。神様だけに求めている時、神様は私たちに直接応えて下さる。これはなんと感謝なことではないかと思います。また、私たちの大切な信仰の中心です。

つい、人が何かをしてくれることを期待する。だから、6章1節に、「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう」とあります。人の前で何かをして誉められる、人から賞賛を受ける、人からお礼を言われるとか、あるいは、人から「あなたは立派だ」と褒められたり、賞賛される。それで神様の報いは終わっているのです。だから、人に期待して、人から何かをして貰う。その時、神様の報いを信じることができない。神様の報いではない、人の報いを受けるだけで終わってしまう。これは、私たちが絶えず警戒しなければならない。「それじゃ、私は、これから子供には頼らんようにしよう。自分が寝たきりになっても、世話をされない様にしとこう」と。時々そういうことを言われる方がいます。「先生からそう言われたから、もう子供にも頼まん様に、これから私がやる」と。そうじゃないのです。神様に助けて下さいと祈って、神様がその助け人を送って下さるに違いない。傍に居る方が、「大変でしょうから、荷物を持ちましょう」と言われたら、その時に、その人が私に親切にしてくれたのではなく、私が頼んでいた神様が、今この人を送って、私を助けて下さっている。そこをちゃんと、しっかりと、押さえておかなければならない。

私どもは、人から親切にして貰うと、「あなたが居て助かった。あなたが居なかったら、私は死んどるよ。あなたは私の命の恩人よ」と言います。その時、神様の「か」の字もなくなっている。まるで、その人が命の支配者で、「え、神様がいたの」となるでしょう。私たちの感謝は、「神様、あなたが報いて、こんな者の為に素晴しい助け人を送って下さったんですね」と、神様の報いを感謝する。ところが、私どもはそこがいい加減になってくる。神様が報いて下さっていると言えない。いや、内心ちらっとは思います。ところが、どちらかと言うと、人に感謝することばかりに、心が向いてしまう。それは、神様を蔑(ないがし)ろにすることです。だったら、人に感謝すまい、有り難うと言うまいと。それはまた、間違いであります。有り難うとはいいますが、心は神様に向いている。神様、有り難うございますと、有り難うの中心は神様の方にあります。私どもは直ぐに、人の方に向いてしまい易い。

だから、先ほど申し上げました様に、年を取って、身動きがならなくなったりして、人の介護を受けたりするでしょう。その時に素直に受けられないのは、神様の報い、恵みだと信じないからです。誰かが、「あなたの為にこうしてあげましょうね」と言われた時に、「神様、私を助けて下さい」と祈っていた人にとっては、この助け人を神様が送って下さったと信じることができる。その助けを感謝して受けることができる。素直に受けることができるのです。神様に感謝することができますから、その人に対しても感謝ができる。私たちの生活の中に、神様と私たちの関係がきちっと整いますと、周囲の人との関係も一つ一つが良くなってくるのです。私どもが、人の思いが先に立って、神様の報いを信じていないと、突っ張ってみたり、頑固にいこじになったり、あるいは、ねじくれたりするのです。私どもが神様を信頼して、神様のいますことと、神様が報いて下さることを信じて、そして、主に頼らなければ居られない自分であることを思い、絶えず、主に呼び求め、主に信頼するならば、一日一日全てのことが神様からの報いであると感謝することができます。

子供から誕生日や、敬老の日に、プレゼントを貰っても、「神様はこんなに私を顧みて下さっていらっしゃる」と感謝することができる。子供に対しても、もちろん、「有り難う」とは言うけれども、「あなたが命よ、あなたが居てくれたから助かったよ」とは思わない。神様に向かってもっと感謝する。私たちは、何時もそこのところに目を止める。そうしませんと、間違います。

病気になって、お祈りしていたら、ある人が有名な専門の先生を紹介してくれて、その先生に手術して貰ったから、私はこんなに元気になりましたと言って、お医者さんの技量を誉めます。その人にとって、医者を賞賛はするけれど、神様から癒していただいたという確信がない。これでは全てが虚しい。だから、4節「あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」。神様が報いて下さって、今、ここで、このことが起こっている。この人が遣わされて来ている。この助けが与えられているのだと信じる。これは、全てのことの根本です。だから、今日一日食べることができ、また生活の糧が与えられたこと、それは神様が備えて下さったことであって、私が働いて、稼いで、そして貯えたからこうなった、というわけではない。

時々そういうことをおっしゃる方がいます。「俺が稼いできたお金ではないか、俺が自由にして何が悪い」と言われるのです。すると、奥さんは小さくなって、私は稼いでおりませんからと言う。それは大間違いです。神様が与えて下さって、その必要を満たして下さったのです。自分じゃない。私が努力したのではない。神様が備えて下さって、生活が支えられるのです。だから、私たちは感謝をもって、主に捧げものをするのです。礼拝で献金をするというのは、会費を納めているのではありません。私たちの日々の生活の全てが、主の報いに与っている、神様が報いて下さったということを感謝して、捧げているのです。全てのことがそうなのです。生活もそうですし、あるいは、家族が自分を助けてくれることがあっても、「神様がこのことをして下さった」と感謝するのです。これが大切です。

一つの手紙をもらいました。その手紙は、海外に宣教師として遣わされている人の書いたものですが、今どういう生活をしているかというレポートの様なものです。それには、外国に遣わされ、その国でこういう働きをしています。教会で若い人を集めて、こんな会をしました。こういう集会をしました、こういう事をしてこういう風になりました。いろいろな活動のレポートです。そして最後に、私どもがこうやって宣教をできる陰には、皆様方の尊い献金があるからです。背後にあって、愛をもって支えて下さるサポートがあって、今日があることを心から感謝いたします、と書いてありました。私はそれを読みながら、神様は何処にいるのかなと思ったのです。その挨拶文は立派な文章です。素晴しいことですが、宣教師として遣わされている方々が何を信じているのか、何によって支えられているのかということが分からない。ただ支援者からの、人からのサポートを喜んでいるだけのことなのです。

日本のクリスチャンの信仰というのは、こういう信仰なの?皆仲良くして、皆でお金を出し合って、サポートし合って、共同体になって、そして、餅つき大会をしたり、あるいはバーベキュー会をしたり、あれをしたり、これをしたり、楽しい行事をして人が集まった、良かった、ついでに聖書の一言でも読もうか、というレベルの、そういう集まりで終始しているのだったら、命が無い。何々宣教師を支える会というのができて、皆が一生懸命にサポートしているから、生活は豊かになった、安定してきた。それはそうでしょう。しかし、金銀はあるが、神様が居なくなっている。信仰が無くなっている。直接神様が報いて下さっているという確信がない。これでは命が無い。これでは、前途真っ暗だと思いました。

私どもは小さな群れではありますが、私たちに与えられた信仰はここなのです。直接神様が私に報いて下さっている。皆さん一人一人を、生かすもの…、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」(ヨハネ6:63)。霊である神様の言葉を信頼して、「神のいますことと、ご自分を求める者に報いて下さる」。その信仰に立って、信頼して生きることが大切です。

人に自分の窮状を訴えて、苦しい様を訴えて、私どもはこんな大変な中におります、外国でこんなにして苦労していますから、どうぞ皆さん、サポートして下さい.その結果、献金が集まって、皆さんのお陰で感謝です。それが無かったら、私たちは終わりでしたと言っている。だったら、早く終ればいいと思うのです。私たちの目に見えないけれど、私たちの全てを知っていて下さる主がいらっしゃる、神様がいらっしゃる。その方が報いて下さる。子供が、孫が、自分たちに何かしてくれた、いろんな人が親切にしてくれた。それは感謝ですよ。しかし、もっと感謝すべきことは、神様が全てを与え、備えてくださったことです。アルパであり、オメガでいらっしゃる神様が、私に報いて下さっているのだと、心から感謝するようになる。そのことを認めなければ、私たちの信仰は崩れてしまいます。人を頼り、人の顔色を窺い、人の言葉に従い、人に流されていく様になってしまいます。

私たちは、加齢と共に、愈々肉体的にも力を失ってきます。外なる人は滅ぶるとありますように、確かに、私たちは、多くの人々の助けを借りながら、生きざるを得ない中に、神様は置いておられます。しかし、それは、ただ人間的な暖かさとか、優しさを味わう為ではなくて、そこに働いて下さる見えない神様の手があり、御愛があり、そして私たちを支えて、報いて下さる方がいらっしゃることを、絶えず体験する為なのです。神様に触れる為の事柄です。だから、私たちは、隠れたところにいらっしゃる神様を信じて、その方にだけ祈り求める。その方に信頼する時、神様は、その様に報いて下さる、応えて下さる。

今お読みいたしました言葉にあります様に、4節に「それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」。「隠れた事を見ておられるあなたの父」、神様は、私たちを全部知っていらっしゃる。私たちが何をし、何が大切か、何が必要かも知っている。だから、神様に遠慮なく申し上げてかまわない。もし、私たちの全てを知らない神様に、申し上げて御覧なさい。びっくりなさるでしょう。「あなたがそんなこととは知らなかった」とですね。「神様、私はこんな苦しいことがあります」。「え、お前にそんなところがあったのか。お前は今まで言わなかったから、分からなかった」と言う方ではない。神様は、全部知っていらっしゃるから、私どもが「神様、私はこんなです」と言ったら「そうだろう、もう、知っていたよ」と、びっくりしない。求めて来るのを待っていらっしゃる。私どもが助けて欲しいと、へりくだって、神様を呼び求めることを喜んで下さる。

私どもに与えられた信仰は、本当にかけがえのないものであることを感謝したい。そして、事実、私たちの信じる神様は、今も生きていらっしゃる。私たちが祈れば応えて下さる方です。人には頼らない、神様だけに頼るからと言っても、「私は、人の世話になりません」ということではありません。確かに人に頼りはしませんけれど、神様が備えて下さった人、報いて下さる事柄には、心を低くして、喜んで感謝して、信仰を持って受ける。そして、神様に感謝する者でありたいと思います。これで人との関係も良くなります。

親子関係にあっても、大切なのはそこです。「子供やから、親の面倒を見て当たり前やないか」と。そんな親には、子供は腹を立てますよ。一方、「私がするから、子供の世話にならん!」と言う親にも、子供たちは反発しますよ。ややこしいなと思うでしょう。「どうすりゃいいの」と。神様に信頼して、呼び求めて、祈っている時に、息子や娘の心を動かして、「お母さん、助けてあげよう」「あれをしてあげよう」と言った時に、「神様は、祈りに応えて、この子にその思いと願いを起こして下さった。主よ、感謝します」と受けることができます。すると「あ、そうね。有り難う」と素直になることができるのです。してくれなかったら「神様、まだその時ではないのですね。あなたがその時を備えて、助け人を与えて下さることを信じますから、感謝します」と祈ればいいのです。神様と私どもの間が、太いパイプで結ばれているならば、親子関係は年を取っても良くなります。

皆さんが、寝たきりになった時、あの子が世話をしてくれるだろうか、この子が世話をしてくれるだろうか、今の内にちょっと人参をぶら下げて、「財産の少しでもあなたにあげるからね」と言っとこうかしらとか、そういうことをするからギクシャクしてくる、上手くいかない。といって、偉そうに強がりを言って、「お前たちの世話にならんから、お前たちは勝手にしなさい」なんて、偉そうなことを言わない。頼るかもしれない、頼らないかもしれない。私は神様に信頼している。神様が「よし」とおっしゃることをして下さる。何時も潔く、神様の前に自分を置いて、神様の報いを信じていくことです。神様は体が動かなくなったら、それを動ける様にして下さる。助けて下さる。その方法はどうであるか、具体的なことは一切わからないけれど、神様は私たちの全てを知っていらっしゃる。

どうぞ、神様を信じる信仰を、しっかりと私たちの心に定めて、日々に、一つ一つの事柄の中に、主のいますことと、神を求める者に必ず報いて下さることを信じて、主を呼び求め、主に信頼して歩もうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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