いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(369)「くつを脱ぎ杖を取る」

2014年11月01日 | 聖書からのメッセージ
 「出エジプト記」3章1節から6節までを朗読。

 5節「神は言われた、『ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである』」。

 これは、モーセが神様から、エジプトにいるイスラエルの民を奴隷の生涯から救い出すという大きな使命を与えられた最初の出来事であります。彼は本来イスラエル民族に属(ぞく)する者でありました。その当時、エジプトのパロ王様の下(もと)でイスラエルの民は四百数十年という長い間寄留(きりゅう)者として、エジプトの地に住む者となっていました。そのいきさつは詳しく聖書の初めのほうに記されています。イスラエルの民がエジプトに住むようになって王様が代替わりをしていきます。だんだんイスラエルの勢力がはびこって、強くなるにつれて、「どうして自分たちの国に異なった民族であるイスラエルが住んでいるのか」と、エジプトの人々は恐れをなしたのです。「これは乗っ取られるぞ」と心配しまして、何とかこの勢力を弱めようという意図(いと)から、彼らを奴隷として使うようになりました。過酷(かこく)な肉体労働にかり出して、彼らをこき使う。それでもイスラエルの民はどんどんと増えていくのです。とうとう最後の手段として「生まれる男の子はすべて殺してしまえ」という命令をパロ王様は出します。ところが、イスラエルの助産婦さん、出産に立ち会う人たちは、やはり忍び難(がた)い、できないことです。しかし、王様の命令もありますが、殺さないのです。でもやはりそれは大きな問題になるので痛しかゆしです。時には「行ってみたら、もう生まれておった。自分で生んでしまっていた」と言い訳をしたのです。

モーセもそのような中で生まれました。殺されるべき運命であったのです。しかし、あまりにも可愛いものですから、両親はモーセをそっと隠していた。そのうち、大きくなってきますから、発覚すると大変なことになるので、忍び難くを忍んで、両親はパピルスで編(あ)んだかごの中に入れてナイル川に流すのです。そのとき、たまたまパロ王様の娘が水浴びをしているところへ流れ着いた。そして、モーセはその人の養子といいますか、子供として王宮で成長することになるのです。彼は王様の一族として何不自由なく生活をして成長しましたが、あるとき自分がイスラエルの民族であることに気づきました。ふと見ると、窓の外に同じ民族、同胞(どうほう)が苦役(くえき)を強いられている姿を見て、何とかしなければいけない、イスラエルの人々を救ってやりたい、と切に願いましたが、彼の力ではいかんともし難い。でも何とか……、というわけで、あるとき懲(こ)らしめられていたイスラエル人を助けようと、エジプト人の監督者を殺してしまったのです。そして、それを黙っておった。次に今度はイスラエル人同士がお互いに激しいけんかをしているところに行き会った。モーセがその仲裁(ちゅうさい)に入ったのです。すると、「お前は、おれたちを仲裁する資格があるのか。そもそも人を殺したではないか」と、監督者を殺したことがばれてしまった。そのために恐れをなして彼は逃亡(とうぼう)してしまうのです。エジプトから逃れてミデヤンという地に行きます。そこで祭司エテロの娘と結婚し、その羊を飼う者となったとあります。それから40年近く生活をそこで送った。

1節以下に「モーセは妻の父、ミデヤンの祭司エテロの羊の群れを飼っていた」とあります。彼はかつてパロ王様の王宮で生活した身分でありましたが、40歳前後にして「これはもう、たまらん」と、逃げ出すようにしてエジプトを去った。そして、世から身を引いたといいますか、隠遁(いんとん)の生活に入ったのです。自分の家族だけの平和な生活を楽しんでいた。羊を飼ってあちらこちらと放牧をし、羊の群れを追いながら「神の山ホレブに来た」とあります。そのとき2節にありますように「しばが燃えている」というのです。恐らくこのあたりの気候から言うならば、乾燥しきって昼間は熱く、夜は寒い場所だと思いますが、いわゆる、野火(のび)という、自然発火で山火事などが起こることはよくあることだと思うのです。最近のモスクワの郊外でもそういう事態が起こっています。あるいはカリフォルニアのロサンゼルス近郊でもそういうことがあります。大抵の場合はパーッと燃えて、スーッと消える。瞬間的な短い時間の事柄だと思います。しかし、このとき2節に「彼が見ると、しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった」と。普通だとそれがパーッと燃えてシューッと消えてしまう。しばも燃え尽きてしまうのですが、いつまでも消えない。おかしいな、何かな? と、彼は3節「行ってこの大きな見ものを見、なぜしばが燃えてしまわないかを知ろう」。どうしたのだろう、なぜ消えないのだろうか。ちょっと見てこよう、と彼は近づいて行った。そのとき4節「神はしばの中から彼を呼んで、『モーセよ、モーセよ』と言われた」。彼はびっくりしたと思います。何事だ!しかし、彼は「ここにいます」と言って、神様に答えました。そのとき神様がまずモーセに求めた事柄が5節であります。「神は言われた、『ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである』」。ここでモーセに対して神様は、あなたの足からくつを脱げ、と言われたのです。「あなたが立っているその場所は聖なる地」、いうならば、神様のものとして取り分けられている場所、という意味です。「聖なる地」とは主のもの、神様のものだ、ということです。そして、6節にはご自分のことを神様はモーセに証(あかし)をして「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。わたしはあなたの先祖代々、それぞれの時代に生きた、信仰に生きた一人一人の神であった者と証なさいました。ここで神様が「足からくつを脱ぎなさい」と言われました。神様が彼に期待している事柄があって、それを遂行(すいこう)していくためにまずしなければならない大前提がある。それは足からくつを脱ぐことです。彼の時代は「くつ」と言っても恐らく私たちが履(は)くような靴ではなかった。サンダルのようなものだったと思いますが、そういうものを履くことができる身分は、自由人といいますか、ある程度社会的な地位のある人々であります。奴隷の場合はくつを履くことが許されなかったのです。だから「足からくつを脱げ」とは、いうならば、奴隷になれ、仕える者になれ、というご命令でもあるわけです。だから「くつを脱げ」と言われて、「私は嫌です」と言ったら、それでおしまいです。ところが、神様は「足からくつを脱ぎなさい」、なぜなら「あなたが立っているその場所は聖なる地」、神様の場所である。これは神様のために取り分けられている場所、そこは神様が主でいらっしゃる所、そういう意味です。「聖なる地」、そのもの自体が聖であるとか、潔(きよ)い、汚(きたな)い、そのもの自体が何か汚(けが)れているとか、きれいである、という意味ではなくて、それを神様のものとしてささげること、取り分けることによって、それが神様のものとされるのです。

だから、私たちはよくお金を使いますが、お金自体には何の色も付いていません。きれいも汚いもありません。お金はお金です。ところが、それを何のために使うか、どういう意図(いと)で使うか、その使い方といいますか、それによってきれいなお金になったり、汚れたものになったりします。それと同じで、私たちがどんなものでも神様のものとして取り分けて、神様にささげるところ、そこが聖なるところです。ささげるとは、自分自身を神様のものとしてしまうのです。だから、ここで「あなたが立っているその場所」というのは、しばが燃えているホレブの山であります。そこが特別な囲(かこ)われた御社(おやしろ)のようにしめ縄でも張られて、ここは聖なる地です、と標識があるわけではない。どこの場所とも変わりがないけれども、今立っているその場所自体が、神様が支配していらっしゃる、神様のものであると認めていくこと、これが「聖なる地」ということにほかなりません。

私たちも今こうしてイエス様のあがないにあずかって、神様のものとされています。だから「聖なる民」と語られています。私たちのことを「聖徒」と言います。聖なる僕、やから、人々という意味ですが、私たちは「聖なる」なんて言われると、「どこに聖なるところがあるだろうか。私の心を見るならば、聖なるものなんて、どこにもない」と思いますが、実は私たちそのものが清い、清くないという意味ではなくて、私たちが主イエス・キリストを信じて、「私は神につける者、神様の所有、神様によってあがなわれて、神様のものとなっている」と信じて、告白するところ、それによって初めて私たちは聖なる者であると告白することです。私たちの日々の生活も「これはすべて主のものです」、「これは私の朝から夜寝るまでの24時間、365日、日々の生活すべてがこれは神様、あなたのものであり、あなたのご支配のなかに置かれています」と、自分自身を主にささげきっていくとき、それは聖なる生涯、清いものとして神様が受け入れてくださるのです。だから、自分の努力や働きによって、自分を清い者としよう、人からどのように見られるか、人の目を気にしてみたり、何かそれらしい、聖人君子のごとく生きようとしたって、それで聖なる者となるのではありません。神様の前に自らを低くすること、「足からくつを脱ぐ」というのは、そこです。自分を神様の前に足からくつを脱ぐ、全く神様のものとなりきってしまうこと、これが今私たちに求められていることであり、また、イエス様が十字架にあがないを成し遂げてくださったご目的もそこにあるのです。パウロが言うように「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり」(ガラテヤ2:20文語訳)、わたしはキリストと共に死んだ、と言う。まさにそれが「足からくつを脱ぐ」ことです。自分の考えで自由に歩きまわっていた私たち、私の思い、私の願い、私の利益、私の何かを求めて自分中心に生きていた生き方、そこを離れる。「くつを脱ぐ」というのはそのことです。そして、神様のご支配の中に自分を置く。どうぞ、これが私たちの土台であり、原点です。だから、何をするにしても、まずここに立ち返らなければ、神様の御業にあずかることができません。

日々の生活の中で神様はいろいろなことをさせなさいます。家族のためであったり、自分自身のことであったり、あるいは周囲の人のことであったり、あるいは病気であったり、思いがけない事態や事柄を神様は起こされます。そこで、私どもがまず、足からくつを脱ぐ。自分の考えや、自分の計画、自分の思い、自分の知識、自分の経験、そういう一切のものを捨てる。そして、聖なる所として神様のご支配の中に自分を委(ゆだ)ねる。

かつてモーセはパロ王様の下(もと)で豊かな恵まれた生活をしていましたが、しかし、その同胞のために自分の努力で力で何とかしようと思って挫折(ざせつ)しました。失意の中で逃げ出して、ひそかに隠れ住むがごとく隠遁(いんとん)しておった。その彼に対して神様はもう一度、神様の御用のために、神様のご目的のために生きる者として召されたのです。それは私たちも同じであります。「エペソ人への手紙」にありますように「先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者」(2:1)「生まれながらの怒りの子」、神様の呪いを受けるべき者であった、永遠の滅びに定められていた私たちを、主イエス・キリスト、十字架を立てて、私たちを救い出して、今すべての罪を赦して、神様のものとしてくださった。それは、私たちが神様の使命に生きるためです。自分のためではないのです。だからパウロがそう言うように「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ」(ローマ 14:8)と。だから、どんなことの中におかれようとも、私たちは主のものである、神様のものとされている。これが私たちに与えられた恵みであり、モーセに神様が与えられたことでもあります。ですから、5節に「神は言われた、『ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい』」と。ともすると私どもは自分のために生きようとします。イエス様をすら自分のために利用するといいますか、用いようとする。自分の利益のために、自分の幸いのために、自分の安心のために、自分の何かのために信仰を求めようとしますが、神様は私たちを神様のものとして選び召して、徹底して神様のご目的のために用いたいと、願っているのです。

8節から10節までを朗読。

 ここにはっきりとモーセに対して神様が抱いておられるご目的が語られています。イスラエルの民がエジプトの地で苦しみうめいている。だから、そこから救い出して乳と蜜の流れるカナンの地へ導き入れようと思っている。それについて、あなたがそれをしなさい、あなたが行ってこの民を導き出しなさい。大変な大事業です。もし私たちがこんなことを言われたら、即座に「いえ、結構です。私はできません」と言うに違いない。このとき、やはりモーセもそうだったのです。すんなり「そうですか、分かりました。喜んで」とは言えないのであります。まずいちばんに彼は何と言ったかと、11節に「モーセは神に言った、『わたしは、いったい何者でしょう。わたしがパロのところへ行って、イスラエルの人々をエジプトから導き出すのでしょうか』」。まず一つ目は、私はいったい何者かと、自分を見るのです。「私は何もできやしないじゃないか。どだいやってみたけれども、失敗した人間だよ。私にはそんなことはできません。力がありません、能力もありません」。まさに、これが脱がなければならない大きなくつです。これは私たちの日々の生活の中にも常にあります。神様は私たちをいろいろな新しい出来事や事柄の中へと導かれます。思いもかけないこと、想像もしなかったこと、それはうれしいこともあり、悲しいこともあり、楽しいこともあり、心配なこともと、いろいろな中を神様は通しなさいます。しかし、どんな所に置かれてもそこは聖なる地、神様が主であって、神様がご支配なさる所ですから、神様がそういう問題や事柄を通して、私たちに求めていらっしゃる、させようとしてくださる目的があります。はっきりとは分かりませんが、そこで神様が主であって、このことを導かれる御方です、と信じて従う。これが私たちのなすべきことです。従うにあたって障害、妨(さまた)げになるものがある。自分を振り返ってみると、私にはあれもできない、これもできない。これもない、あれもない。お手上げだ、と思いますから、「私にはできません」と言って、すぐに断ろうとします。

このときのモーセもそうです。それに対して神様は、12節に「神は言われた、『わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである』」。もうちょっとはっきりしたしるし、目に見える形で神様ご自身を見せてくれたら、「なるほど、分かりました」と言えるかもしれませんが、無いのです。ただはっきりしているのは「わたしは必ずあなたと共にいる」という約束。これを信じるのか信じないのか。それを信じるには足からくつを脱いで、僕になりきってしまわなければ、どうにも受け入れられない事です。神様は、わたしがあなた方と共に行くではないかと、イスラエルの民をエジプトから救い出して、わたしに仕える者としてあげようとおっしゃいましたが、モーセはどうしてもそれはできないと突っ張る。

13節「モーセは神に言った、わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。出かけて行って「あなた方の先祖の神がわたしを遣わされました。その神がわたしと共にいます」と言ったって、見えないわけですから「『勝手に自分で言っているだけや、その神様の名前は何だ』と言われたら、名前も知らない。それでは話にもならん。あなたの名前はいったい何ですか」と、モーセは問題を抱えている。神様がどういう御方か、モーセ自身が知らないのであります。それは当然です。私どもも知ることができないのです。神様を初めから終わりまで、頭のてっぺんから足の先までまとめて「これは神様だ」と知り尽くして、「では、その神様のためにしましょう」と言えないのです。私たちの知ることができる神様の姿は、ほんのわずかどころか、有るか無いかわからないくらいです。神様ははるかに大きな、私たちの想像を超え、理解を超える御方であります。その名前を知ることは、神様の実態、本体といいますか、神様がどのような御方でいらっしゃるかを知ることです。

私たちも聖書を読んで神様のことを幾分かは知ります。しかし、知らないことのほうがはるかに多い、分からない。だから、自分でお祈りしていても、本当にこのお祈りを神様は聞いていらっしゃるのか、神様って本当にいらっしゃるのだろうかと、一瞬そういう疑いが、まるで過ぎ行く雲のごとくフッと心に影のように差し込んでくることだってあります。それほどに、実態が危うい、非常にもろい存在です。ハッキリと「これが神様です」「こういう御方です」と、目に見える形でパチッと目の前に描き出されたら、どんなに楽かと思うかもしれませんが、私たちが理解できて、全部わかるような神様だったら、私たちのほうが神になったほうがいい。分からないのが当然です。神様がどのような御方か分からないけれども、いま私に教えてくださった、明らかにされているこの部分だけを信じて、神様に信頼していく以外にないのです。

このときもモーセに対して神様は14節に「神はモーセに言われた、『わたしは、有って有る者』。また言われた、『イスラエルの人々にこう言いなさい、わたしは有る、というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』」と答えています。これを聞いて「そうか。分かった」と言える人は誰もいないと思う。「我は有りて在(あ)る者なり」(文語訳)、そんな名前を聞いて、「神様のことが分かりました」と言う人はまずいないと思う。モーセもよく分からないわけです。でもその後に神様は細かくどのような神であったか、また、これからどのようなことをしようとしているかを語っている。神様が「有りて在る者」とは、話し始めると長くなりますから、省略しますけれども、簡単に申しますならば、すべてのものを有らしめている根源なる御方、という意味です。だから、その後にもいろいろなことを神様は行いますが、まさに、わたしがすべてのものを動かし、それを始めるのだと言われます。

ところが、4章1節に「モーセは言った、『しかし、彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないで言うでしょう』、『主はあなたに現れなかった』と」、モーセもしつこい。ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うと。このときもモーセは神様に「あなたの名前は何ですか」との問いに、ちゃんと神様は答えてくださった。すると、今度私が行ってイスラエルの民に言ったら「そんなはずはない。お前なんかに神様があらわれるはずがないじゃないか」と言って、わたしのことを非難するに違いない。それに対して神様は2節以下に「主は彼に言われた、『あなたの手にあるそれは何か』。彼は言った、『つえです』。3 また言われた、『それを地に投げなさい』。彼がそれを地に投げると、へびになったので、モーセはその前から身を避けた」。神様は「モーセを神様が遣わした証として不思議なる業をあなたにさせてあげよう」と約束してくださいました。これで納得(なっとく)か思いきや、そうではない。その先10節に「モーセは主に言った、『ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです』」。彼は考えましたね。これでお手上げかと思いきや「わたしは大体しゃべりが下手だ」と。10節に「わたしは口も重く、舌も重く、言葉の人ではありません」。わたしには、そんな資格はありません。人前に立ってしゃべることなんかできません。皆さんもよく言われます。「お証詞してください」と、「いや、人前で私はしゃべれません」と言って断られます。しかし、電話ではよくしゃべりなさる。でも顔を見ると「どうもどうも」と逃げられる方がいますが、モーセも「わたしは口下手で、こんな任に堪(た)えられません。わたしはできません」と言ったのです。まさに、足からくつを脱がなければそれはできません。

それに対して神様は11節に「主は彼に言われた、『だれが人に口を授けたのか。話せず、聞えず、また、見え、見えなくする者はだれか。主なるわたしではないか』」。誠にそのとおりです。口が重いとか、しゃべりが下手だとか、あるいは語る人ではない、言葉の人間ではない。それにたいして神様が「しゃべらせるのも、またしゃべられなくするのも、いったい誰がそれをしているか。わたしではないか」と、神様が必要ならばどんなことでも……。とうとう14節に「そこで、主はモーセにむかって怒りを発して言われた」。神様に、わたしがするではないか、と言われながら、それでもなお彼は聞かないのです。「ああ、主よ、どうか、ほかの適当な人をおつかわしください」と。とうとう神様もここで「怒りを発して言われた」と。「あなたの兄弟レビびとアロンがいるではないか」と、お兄さんのアロンを引き合いに出して「これをお前の助手として遣わすから、一緒に行かせるから、アロンはよくしゃべる人だから、いいではないか。彼にしゃべらせるから、お前はしゃべらなくてもいい」と。そこまで神様はおっしゃるのです。私たちのいちばんの脱がなければならない、外さなければならないものはなにか? 神様の前にあって取り除かなければならないものは、まさに、自分に固執(こしゅう)する、しがみつくことです。まさに、足からくつを脱ぐ、自分を捨てて掛る。これがないと私たちは本当に神様の恵みを受けることはできません。とうとうそこまで言われて、難癖(なんくせ)を付けたくても、断わりたくても断る理由がなくなった。そのとき初めて彼は神様の求めるところに従うのです。

20節を最後に読んでおきたいと思いますが、20節に「そこでモーセは妻と子供たちをとり、ろばに乗せて、エジプトの地に帰った。モーセは手に神のつえを執(と)った」。「モーセは手に神のつえを執った」、私はここでいつも励まされます。モーセもついに頼るべき何ものも無くなったのです。私にはあれがある、これがある。こんな能力がある、才能がある、過去にこれだけのことをしてきた実績がある。人はいろいろなものをそうやって握っています。しかし、神様の前にそれを全部捨てなければならない事態や事柄に出会う。自分の過去のことも、あるいは今までしてきたことも、あるいは、自分の持っている能力も健康も体力も、経済力も役に立たないような事態や事柄の中に導かれます。まさに、そこで常に神様が私たちに求められるのは「足からくつを脱げ、あなたの立っている所は聖なる地」、そこは神様が主でいらっしゃるところ、あなたは僕になって仕えよ、と求められるとき、最後のよりどころは、「つえ」、信仰のつえです。神様の御言葉を握って立つ以外にない。このときモーセはすべて自分の理由をあげつらったのですが、もう無くなった。言いようがない、神様が全部閉ざされたとき、「わたしは必ずあなたと共にいる」との言葉を信じて、初めて信仰に立って、彼はそこからエジプトへ帰って行くのです。

今、神様は私たちにどのようなことを求めておられるでしょうか。時には到底私の手には負えないこと、私にはこれはできない、こんな年になったらもう無理だと思うようなこと。私たちは足に幾つもくつを履いて頑(がん)として動かない、譲れない。そのように突っ張っているとき、喜びも平安もありません。神様の前に足からくつを脱いで「聖なる地、神様のご支配してくださる事態や事柄の中に今立たせられているのだ。神様が求められるところに従って行きます」と、奴隷になって、僕になりきって、主の求め給うところへ信仰に立って踏み出して行きたい。モーセはつえを執って出て行きました。私たちも日々出エジプトでありますから、モーセのように足からくつを脱いで、あれだから駄目、これだから無理、これはもう仕方がないなど、いろいろなあきらめる事があるならば、そこでもう一度へりくだって「神様が『有りて在る』とおっしゃる御方、すべてのものの根源でいらっしゃる御方が、今このことを導かれる。私はただそれに従うだけです」と謙そんになって、主の導かれるところに踏み出して行こうではありませんか。

3章5節に「神は言われた、『ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである』」。神様がそこに立っていらっしゃる。そのところに、謙そんになってへりくだって、主を信じ、信仰のつえを握って、一歩を踏み出そうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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