いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(297)「朝顔と十字架」

2014年08月21日 | 聖書からのメッセージ
 「ガラテヤ人への手紙」4章28節から5章1節までを朗読。

 1節「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。

 私たちは大変弱い者で、何かにすがらなければ生きておられない。父がよく「人は朝顔のようなものだ」と言いました。朝顔はつるを伸ばして近くにあるものに何にでも巻きついて立ち上がっていきます。昔、加賀千代が “朝顔に つるべ取られて もらい水”と歌った俳句がありますが、巻きつかなければきちんと成長しません。巻きつくものがないと、グチャグチャの塊になってしまいます。きれいな花を眺めるためにはちゃんと適当に枠を作ってあげることが必要です。朝顔は人間そのもので、人もまた何かにすがらなければ立てないのが現実です。ところで、私たちは何を頼りにするのでしょうか。私たちの頼るものは本当に頼りがいがあるのか、ないのか。それは考えないでとにかく手近なところでと考えます。だから、いつまでも安心が得られない、自分で生きるこができない。

私は最近思うことですが、高齢化社会になるにつれて、お年寄りがもっと自立しなければいけない。私は高校生に「お話をしてくれ」と頼まれて時々行きますが、そのとき若い人たちに「自立」ということを話します。自分で立つこと、自分で何でもすること、経済的な自立、精神的な自立、様々な事情境遇からの自立について話しました。最近考えてみると、「いや、待てよ」と、「これは若い人ばかりの話ではないな」と思ったのです。年を取ってくると気が弱くなって、何かに頼らなければおられない気持ちが若いとき以上に強くなります。そのためにとんでもない失敗、痛い思いをするケースがお年寄りの事件として起こります。すぐに優しい人の言葉に飛びついてだまされるケースがよくあります。そういう場合でも、自分がきちっと自立した人になれば引っかかりません。

今お読みました5章1節に「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」とあります。これはイエス様の救いとは何が救いなのかを語っています。それは、私たちの頼るべきものが変わることです。「では、私は何に頼っていたか?」と思いますが、「二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」「解放して下さったのである」とあるように、私たちのすがっていたものは暴君のように恐れによって私たちを罪の縄目でがんじがらめに縛りつけていたものです。しかし、その中にあるとき、そうだとは気がつかないものです。「いや、私はそんな奴隷になったつもりはない」と。同じようなことをイエス様に言っている記事があります。

「ヨハネによる福音書」8章31節から36節までを朗読。

イエス様はそこに集まってきた人々、31節「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに」と言われているように、イエス様を信じたユダヤ人たち、言い換えると、少なくともイエス様に賛成している人たちに、わたしの内にとどまっていれば、真理を知ることができて、なおかつ32節「あなたがたに自由を得させるであろう」と言われた。わたしの言葉にとどまるならば、あなたがたはわたしの弟子となるし、そればかりでなく真理を知ることができ、その真理によって自由を得ることができると。それを聞いていたユダヤ人たちはちょっと納得いかなかった。33節「そこで、彼らはイエスに言った、『わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない』」。確かにユダヤ人は父祖アブラハムに始まり、長い歴史を、神の選びの民、特別な民として誇り高く生きてきました。奴隷になったことはありません。もちろん、かつてエジプトで奴隷になった生涯がありましたが、そこから救い出されたのです。自由を得させていただいた。だから、自分たちほど自由な民族はないという、誇り高い自負心がありました。そうでありながら、イエス様から「あなた方は自由になるんだよ」と言われて「何を言っているんだ」と、気色ばむといいますか、ムカッとした。それに対してイエス様は、34節に「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である」と。「あなたがたは、自分は自由だと言っているけれども、実は罪の奴隷ではないか」。なぜなら、これはしてはいけないと思いながらやってしまうではないか。あるいはこうしなければならない、これはすべきだと知っていながらそれができないでいるじゃないか。あなたがたが自由だというのなら、どんなことでも思いのままにやってみたらどうだと言われた。自由というのはいったい何なのか?ここをイエス様が問うておられるのです。

日本も今は憲法によって言論の自由も職業選択の自由も、移動の自由も、いろいろな自由が保障されています。世界にもたくさんの国がありますが、これほどの自由を享受している国は恐らく数多くはない。外国に行くと何かが制限されますから、決して自由とは言えない国がたくさんあります。その中で多くの人々が苦しんでいます。しかし、私たちの置かれているこの社会は、そのような意味では実に自由気ままなだと思われます。そうであるから、私たちは本当に自由なのかというと、そうではない。言うならば、憲法で保障された社会制度として自由が保障されているから自由だといえるかということです。私たち一人一人が本当に自由であるとはどういうことなのか? 私たちは何かに頼らなければおられない。そうすると、ついその頼るものの奴隷になってしまう。

「ローマ人への手紙」6章15,16節を朗読。

16節に言われていることは何でしょうか。何かに服従するかぎり、その人は服従しているものの僕(しもべ)なのだ。言うならば、奴隷だということです。だから、私たちは自由だ、自由だと言いますが、しかし、何かを恐れる心、「お金がなくなったらどうしようか」と恐れて、お金、お金と思っている人はお金の奴隷です。あるいは「この息子が、この子供たちがいなくなったらどうしようか、この人たちに何かがあったら私はどうなるだろうか。心配でたまらない」と恐れている。何かを恐れ、それにすがっているとすればそのものの奴隷です。そうやって、ご自分のことを振り返っていただきたい。何を恐れているのか? 病気を恐れますか、健康でありたいと思って、朝ごとに自分の体調はどうだろうかと、血圧を測り、体温を測り、脈をとり、そして「ああ、今日は大丈夫だ」というのだったら、それは健康のとりこ、病気を恐れるのです。それは病気の奴隷でもあります。そうやって考えると、何をいちばん恐れているか? 「こればかりは何とか避けておきたい」と思うものがあるならば、そのものの奴隷になっている。私たちがそれに支配されている。言うならば、それを頼りとしているのです。だから、この16節に「だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕だ」と。だから何かを恐れて「こうなるといけないからこれはやめとこう」「こうなるといけないからこうしておこう」「心配だから……」「あれが心配だから……」と言う時、私たちは心配するものの奴隷です。そこからイエス様は私たちを解放してくださる。

「ガラテヤ人への手紙」5章1節「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」。ところが、自由という言葉はわがままという言葉に取り違えやすいのです。自分の思いどおりに何でもできるのが、自由であるかのように思います。しかし、果たして望みどおりにできたら自由なのでしょうか。思いどおりとは取りも直さず自分の欲情に支配されているだけのことでしょう。「私はああしたい」「これは嫌だ」「これは好きだ」「こうしたい」「これはしたくない」という、「したい」「したくない」という感情の奴隷であります。これは誠に不自由な生き方です。自分のわがままな思いを遂げることだけに、すべてがかかって、それを頼りにして生きているならば、誠に不自由としか言いようがない。本当の自由はいったいどこにあるのか?それはイエス・キリストに結びつくこと以外にないのです。最初に申し上げましたように、何かにすがらなければ立てない者であること、これは神様がそのように造っていらっしゃる。だから、「おれは誰にも頼らん、おれの頼っているものは何もない」と言いながら、どこかで何かを頼っているのが人であります。だから、神様は、本当に頼るべきものに私たちが頼ること、言い換えると、イエス・キリストがこの世に来てくださったのは、私たちがイエス様にすがるようになるためです。その時始めて人は自由を得ることができる。そのことが5章1節に語られていることにほかなりません。イエス様が解放して自由を与えてくれた。イエス様は十字架に命を捨てて私たちの罪のあがないとなってくださいました。しかし、それで終わりではなく、死から三日目によみがえったのです。それは私たちの主となるために、キリストは私たちの主となってくださるためによみがえられたと聖書にあります(ローマ 14:9)。だから、私たちがイエス様を主とし、イエス様の奴隷になること、キリストの僕になること、これが本当の自由です。「奴隷になることがどうして自由かしら」と思いますが、イエス様の奴隷になることが、人が人として自由に生きることができる道なのです。イエス様を離れて、人の自由はありません。「イエス様なんかに頼らなくても、私にはあれがある、これがある。私は好きなことができる。何でも自分の思い通りのことがやっていける」と言う人がいるかもしれませんが、その人は自分の思いどおりにやっているかというと、必ずしもそうはいかない。イエス様に私たちが結びつくこと、ここに本当の自由があるのです。だからパウロはそのように言っています。「わたしは神の僕である」(ローマ 13:4)と、いやむしろ「キリストの奴隷である」(1コリント 7:22)とすら彼は言っています。

「コリント人への第一の手紙」6章12節から15節の前半までを朗読。

12節に「すべてのことは、わたしに許されている」と彼は語っています。自分は何をしても構わない、自由だというのです。ところが、だからといって「すべてのことが益になるわけではない」。どんなことをしてもいいけれども、しかし、そのすべてが益になる、神様の喜び給う結果にはならないというのです。その後、更に「すべてのことは、わたしに許されている。しかし、わたしは何ものにも支配されることはない」と言います。彼は「何ものにも支配されない」と言いながら「益にならないことはしない」と言っている。では、彼は益になるかならないかという、そのことに支配されているではないかと言えます。そういう状態です。しかし、その益であるかどうかということ、それは取りも直さずキリストに結びついて生きているかどうかにつながっている。15節に「あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか」。私たちはキリストのからだではないか、キリストの一部分とされているではないかというのです。だから、私たちの本体であるキリストに連なって、イエス様のみ思いに従うことが私たちの自由なのだ。これが聖書でいう「自由」なのです。

「コリント人への第一の手紙」10章23,24節を朗読。

ここにも彼は繰り返して「すべてのことは許されている」と言っています。しかし、「許されていながらも得にならないこと、益にならないことをわたしはしない」と言っているのです。そればかりか24節には「ほかの人の益を求めるべきである」。「何だ、パウロは結局人の奴隷ではないか」、人のために、人の益になることをしようというのが、パウロの言うところの自由だとすれば、いったいどこに本当の自由があるのかと思いやすいのですが、実は、途中に抜けていることがある。パウロが「人の徳を高めるため」と言っているのは、キリストの御旨、御心に従うことです。イエス様の求め給うところに従うことが自由だと言っていることにほかなりません。だから、イエス様が言われることに従っていく時、人は初めて自由な生き方ができる。何ものにも支配されないで生きる秘けつは、イエス様だけに私たちの思いをつないでいくことです。イエス様の求め給うところ、イエス様の喜び給うこと、言い換えますと、御霊の導きに全く従うところに私たちの本当の自由があるのです。だから、私たちは自由というと、何でも障害なく、妨げなく何でもできることが自由だと言いますが、本当に自由とは何かというと、自分が「これはしない」と決めたことをしないでおれることが自由なのです。「私はこんなことはしません」と、自分を自分で制限していく。だから、パウロは、自分は自由であるけれども、キリストが喜ばないのだったらそれはしない、と決めていく。そこに自由があるだと。

エリック・フロムという哲学者がいますが、彼が書いた本にも実はイエス様のこのことを取り上げて語っている箇所があります。それは何か束縛されるものから、支配するものから自由を得る。「Freedom from……」という「何々からの自由」というものがあります。怖いご主人から逃げ出すという、DV(ドメスティック バイオレンス= 近親者間に起こる暴力)と言うものもあります。何々から自由になるというのは自由の一つの側面であります。もう一つは「何々への自由」というのがあります。あえて自らが不自由な中に自分を置くことの自由です。これができる時、人は初めて本当に自由を得ることができる。簡単に言えばこれが彼の主張なのですが、それは取りも直さずこのパウロの語っていることです。これもできる、あれもできる。もちろんこれもしていい。しかし、キリストが喜ばないのだったら、私はそれをしないという、その選択ができるところに人の本当の自由がある。私たちは自分のしたいことができるようになることばかりを考えますが、私たちがキリストにより頼んでキリストのものとなりきっていく時、初めて自由を得ることができます。お金があってよし、なくてよし、それにかかわらず主が何とおっしゃるか?イエス様が私のために備えてくださる道はどこにあるか?ただ、そのイエス様のみ思いに心をひたすら向けていく生き方。そこに物にとらわれない、お金にもとらわれない、人にも支配されない自由な生き方が初めて生まれてくるのです。病気についてもそうです。病気になるのもよし、元気でいるのもよし、どちらでも構わないのです。主がそれを喜び給うのかどうか。イエス様が今、私に求めていることが何なのか?それを絶えず求めていくことが私たちの自由に生きる道筋です。

私は自分の短い旅路を振り返ってみまして、福岡に遣わされ、かれこれ24,5年になりましょうか、その間にバセドー病で病院と付き合ったのが7,8年続きました。それから後、前立腺がんになって5年、それから狭心症になってまだ数ヶ月。このまま行くと次は何だろうかな?と思う。考えてみると、二十数年の月日のうちほぼ半分ぐらいは病気とかかわってきたかなと思う。でも、考えてみると、それもまた一つの生き方と言いますか、神様が備えられた恵みの生涯であるなと思います。だから、病気をするのを怖がることは何もない。健康であることももちろん幸いですが、それはそれでいいのです。どちらだっていいのです。肝心なのはそれに囚われないで、キリストの備えられた、イエス様が求め給う生き方を今日私が生きているか?ということが、自由に生きるただ一つの道です。私どもはそのような事情境遇、問題事柄、あるいは状況、自分の周囲の問題に支配され、左右される。これは誠に人として、造られた者として情けないことです。キリストのものとなりきって、今日もイエス様が喜んでくださる、イエス様の御心に従ったところに、人の自由があるのだということを、確認しておきたいと思います。

先ほどの「ガラテヤ人への手紙」5章1節に「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」とあります。自由でありますから、キリストがすべてでありますから、私たちは生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。生きるにしても死ぬにしても私たちは主のものである(ローマ 14:8)。徹底してキリストに全くすがりつこうではありませんか。キリストのものとなりきっていく。私たちはどっち道何かに頼らなければおられないわけですから、人に頼るのではない、事情、境遇、事柄に頼るのではなくて、キリストに頼って行こうではありませんか。イエス様が喜び給う、イエス様がよしとおっしゃること、そのことは何なのか?それを徹底して求めていく生涯、ここに人が自由に生きるただ一つの道があります。

「ピリピ人への手紙」4章10節から13節までを朗読。

これは、何と壮大な生き方ではないかと思います。パウロは自分の生涯はこういう生涯なのだと告白しているのですが、11節に「どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」とあります。「どんな境遇にあっても」、病気の時も、健康な時も、経済的に恵まれていようと、貧しい時でも、どんなことがあっても足ること、満足することです。「これでよし」と、安心しておられる、ここに本当の自由があります。その後にもありますように「貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも」、12節の終わりに「ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」。どんな境遇、問題、事柄の中に置かれても、そこで対処していく秘けつがある。これは私たちも持っているはずです。「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」。私を支えてくださる、私のいのちとなってくださったイエス様が、私と共におられるからです。主が私を支え、どんな境遇の中にも、そこで足ることを教えてくださる主がいらっしゃる。どうでしょうか? 私どもはこのイエス様にすがりついていくとき、人は何ものにも支配されません。ここにありますように、どんな境遇にも足ることができる。その秘けつは「わたしを強くして下さるかた」、キリストに、主に私たちが結びついていくことにほかなりません。そのためにイエス様はこの世に来てくださった。それは私たちがイエス様にすがりついて生きるものになるためです。

初めに戻りますが、「ガラテヤ人への手紙」5章1節に「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである」。気がつかないうちに、イエス様から離れて、見えるものや、人や人の言葉だとか、世の中の何かにパッとすがる。両手でつかんで、手と足でつかんで、「これも外せん」「これも外せん」としがみつく。だから不自由なのです。身動きならなくなる。それを全部手放して、イエス様だけにしがみついてご覧なさい。どんな境遇でも処する秘けつを、イエス様は私たちに備えてくださる。

どうぞ、この自由を得させていただいて、その自由を生きる者となりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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