「イザヤ書」40章21節から26節までを朗読。
26節「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」。
日々の生活を営んでいる場、置かれている所は、人の知恵と力と計画、人の業(わざ)に囲まれているところです。一日を振り返ってみますと、自分が考え、自分が計画し、あるいは人が考え、人がやってくれた事柄の中で、いわゆる人事百般といいますか、そういう生活の中で生きております。そのような中にいると、人間も捨てたものではない、結構やるではないかと、思うようになります。殊に文明が進んで、極めて人工的な環境に生きていると、住んでいる所も便利でありますし、非常に快適な空間、寒さも感じないくらいに年中一定の温度が保たれ、湿度が保たれ、いつでもどんな時でも好きなものが右から左に不自由なく手に入るような生活が備えられている。また町の中を歩いても、乗るものや車にしろ、すべてが快適に自分たちの思いどおりに、人の便利を満足させる、人の求めるものを満たしてくれる世の中になっています。町を歩いてみても、新しい建物や、斬新な街造り、高速道路が出来、高層マンションがあちらこちらに出来てきて、急速に街が様変わりしてきました。高速道路を車で走っていますと、緑がうっそうとして木々に覆われ、水が張られて苗が育つ田んぼを見ながら進み、やがて都市高速に入り、一気に街中(まちなか)に突っ込んで行きます。突然蜃気楼(しんきろう)のように全くの別世界になります。マンションが次々に建っている。すると自然と切り離された人工の世界といいますか、人だけの世界に入って行きます。そのような生活に慣(な)れてしまうと、どんなことでも人が中心で事を考えるようになってしまう。そして、神様に対しても自分の考えられる範囲(はんい)、自分が理解できる範囲のことに限ってしまう。自分のレベルに引き下ろしてくるといいますか、人間の世界の中での神様になってしまう。そういう危険性があります。いうならば、人間が高慢になり、神様を軽んずるようになる。
新約聖書を読んでいますと、イエス様とその救いについて語られています。福音書をズーッと読んでいますと、イエス様が私たちの生活の細かいところに届いてくださる御方であることが証(あかし)されています。病める人の病を癒(いや)してくださる、罪ある人の罪を赦してくださる。この社会の底辺といいますか、いろいろな苦しみ悩みのなかにある人々のそばに近づいて、一人一人の魂を新しく造り替え、慰(なぐさ)め、力づけ、励ましてくださる。死んだラザロをも生き返らせるという不思議なわざをしてくださる。水をぶどう酒に変えるようなことをしてくださる。こういう話はすべて私たちの生活の中の事柄です。そうすると、イエス様が自分の身近な生活の場にあって非常に密接になってきます。悲しいとき、苦しいとき、つらいとき、「イエス様が私のそばにいてくださるのだ」と、イエス様を通して父なる神様との交わりに私たちは導かれていきます。ところが、イエス様のことに心が向いていくことは幸いですが、そうすると、神様がどういう御方であるか、その意識がだんだん薄くなってしまう。イエス様を救い主、罪のあがないのいけにえとして、犠牲として十字架に命を捨ててくださったイエス様、イエス様はよみがえって、いま私と共にいてくださる。イエス様の名によって祈る祈りに父なる神様は答えてくださることは分かります。イエス様は身近であるけれども、神様が遠い存在、あるいは神様が低い存在になってしまうことがあるのです。その結果、信仰が神様から離れていくといいますか、信じているけれども力をなくしてしまう。これは常に警戒しなければならない事であります。
21節以下に「あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基(もとい)をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか。22 主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、23 また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる」とあります。神様がどのような御方でいらっしゃるか、「あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか」と言われています。気がつかないうちに、神様を自分と同じレベル、あるいは、自分よりはちょっと力があるけれども……、という形になる。神様を信じているつもりで、気がつかないうちに自分を信じている。自分の足らない所を補(おぎな)ってくれる御方ぐらいに思ってしまう。神様がここで求めておられるのは、わたしは万物の創造者、造り主であることを知ってほしいと。
40章12節に「だれが、たなごころをもって海をはかり、指を伸ばして天をはかり、地のちりを枡(ます)に盛り、てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはかったか」。「たなごころ」とは、手のひらです。「海をはかる」、あの太平洋、大西洋など地球上の大海をどうやって測りますか。手のひらで測れる人なんて誰もいません。ところが、神様はそんなものすらも手のひらでホッとすくい出してしまうことがおできになる。また「地のちりを枡(ます)に盛り、てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはかった」。そんなことのできる御方、広大無辺(こうだいむへん)といいますか、想像を超えた大きな力を持った御方でいらっしゃる。そして、ご自身の御心のままに導き給う御方。だから13節以下に「だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。14 主はだれと相談して悟りを得たか。だれが主に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか」。いったい、神様の知恵はどこから来たのか。神様はどうやって物事を判断し、決定するのかと。誰かに相談し、専門家の委員会を作って、協議をして、神様への答申を出して「こうしたらいい」ということをアドバイスする顧問団(こもんだん)でもいたのか。誰もいません。神様ご自身ですべてをなし得給う御方でいらっしゃる。その神様は万物の創造者、造り主でいらっしゃる。これは私たちの信仰の一番の根底です。神様がすべてのものを造り、ご自分の思いのままに支配し、すべてを導いていらっしゃる。私たちは気がつかないうちにこのことを忘れてしまう。造り主であることは知っているが、それは頭の片隅に追いやられて、「あれがどうなっただろうか」「これがどうなっただろうか」「これは何とかしなければ……」「あれを何とかしなければ……」、「私が頑張って」「私がして」「あの人に頼んで」「この人にやって」という、人、人、人のつながりの中、そういうかかわりの中だけで物事が進んで行くように思ってしまう。私たちの住んでいる社会は、まさにそういう文明、文化といいますか、人の業(わざ)が隅々にまで行き渡っている。幸いなことではあるけれども、また同時に私たちを神様から引き離してしまうのです。だから、気がつかないうちに神様を離れて、思いはただ人、人、あるいは事柄、あのこと、このことばかりになってしまう。そうすると、どうなるかというと、生活のあれが不足した、この問題が起こった、こういう悩みにあったとなると、すぐに「あの人がいけないに違いない」「この人がいけない」「私のこれが悪かったに違いない」「あれが悪かった……」、事の始まりすべてが、あの人、この人、事情境遇事柄に思いが向かう。そのようなものが原因で思うようにいかないと嘆きます。恨(うら)んでみたり嘆(なげ)いたり、非難したり裁いたりする。ところが、そうではないのです。小さなこと、大きなこと、事の大小にかかわらず、「事を行うエホバ」(エレミヤ33:2文語訳)、「わたしは初めであり終りである」(黙示録 21:6)とおっしゃる。すべてのことの始まりは神様、創造者、造り主でいらっしゃる神様によって、事が起こっているのだ。そこに私たちの思いを向けることが大切です。病気をする、あるいは何か問題のなかに置かれる。すると「どうしてなったのだろうか」「何でだろうか」とつぶやき、あれが、これが原因だと不平不満が募りますが、そのようなとき、造り主、創造者でいらっしゃる神様にまず目を向ける。これは信仰の一番根底にあるべき事柄です。それを忘れますから、「あれがいけないに違いない」「これがいけないに違いない」、あちらに走り、こちらに走りして「何とかしよう」「何とかしよう」と焦る。そうではなくて、今この事が起こっているのは人によるのでもなければ、誰によるのでもない。実は万物の創造者、造り主でいらっしゃる神様がすべてのものの第一原因、すべてのものの始まりだと認める。神様の前に自分を低くしていくことです。これがなければ、その先に進めません。
15節以下に「見よ、もろもろの国民(くにたみ)は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる。見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。16 レバノンは、たきぎに足りない、またその獣は、燔祭に足りない。17 主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。18 それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか」。18節に「それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか」と言われています。私たちは神様の目から見れば誠に小さな、小さなもので、あってもなくてもいいような存在にすぎません。本当に小さなものであります。15節に「もろもろの国民(くにたみ)は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる」と。「もろもろの国民(くにたみ)」、一つの国、例えば日本という国、日本の人口は一億何千万人くらいでしょうか、それすらも神様からの目から見れば「おけの一しずく」、桶の水を流して、最後にポンポンと振ったら何滴かしずくが落ちる、その一つにすぎないというのですから、実に小さな存在です。またその後に「はかりの上のちりのように思われる」とあります。買い物に行って、お肉だとかお魚とか量(はか)ってもらう。そうすると、最初はゼロになります。最近はデジタルですから数字が出ます。ゼロにしてそこへポンと物を載(の)せて100グラムとか200グラムとはかりますが、ゼロだから何も載っていないかのようですが、しかし、よく見ればほこりの一つや二つは必ず載っています。でも、それは軽すぎて数字に表れてこない、無いに等しいのです。実は、皆さんも、私もそうですが、はかりの上のほこりなのです。神様の目から見たら、何にもないのと同じです。そういう私たちに神様が目を留めてくださっている。私たちはそこに絶えず自分を低くしていくのです。神様の前に自分の置き方が問われているのです。17節に「主のみ前には、もろもろの国民(くにたみ)は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる」と。そのように無きに等しいものが、偉そうに神様を自分と等しいものに、あるいは、自分に近いもののように神様を引き下ろしてしまう。小さなものに変えてしまう。ここに不信仰といいますか、神様に対する信仰が欠けていく大きな原因があるのです。
イザヤ書40章26節に「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」と。「目を高くあげて」と言われますが、つい私どもは下向きになります。また周囲や横を見ます。そこにあるのはすべて人の業、人の力、だんだんと目線が低くなって、見えるところが全部人間の業であり、人間がしたことのように思います。しかし、そこからもう一度目を高く上げる。上を見る。遠くはるかかなたまで思いを馳(は)せていく。私たちを造り生かしてくださる神様はどのような御方であるかに思いを向ける。「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」、今ここにあるのはいったい誰により、何をしてここにあらしめているかを、もう一度心に留めなさい、ということです。確かに普段の生活の中でなかなか空を見ることも、遠くを見ることもしません。
先だって、すい星「イトカワ」へ日本の衛星が遠隔操作で行って帰ってきました。7年間かけて。それだって、宇宙のほんのわずかな距離です。私はその記事を見ながら、人はなんと小さな、小さなものであるか、誠にとるに足らない無きに等しい、とはそういうことなのだ、と思うのです。大宇宙を見て、そのはるかかなたに光っている星の一つを見ても、私どもは自分が本当に小さなものである。こんな者がどうしてここに存在しているのか? その不思議さを思うだけでも、私たちは厳粛(げんしゅく)な恐れおののく思いがするに違いない。ところが、それを忘れているのです。そして「あれがこうだった」「これがこうなった」と、人の思いに捉(とら)われて、思いがだんだん下向きになってしまう。目線が下を向いてしまう。だから、26節に「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」。
「創世記」15章1節から6節まで朗読。
これはアブラムと神様とのやり取りでありますが、アブラムに対して神様が「恐れてはならない、あなたの受ける報いは、はなはだ大きい」と言われた。その前からアブラムにたいして、「あなたの末(すえ)を雲のごとく、浜の砂のごとく多くしよう」と、神様は言うけれども一向にその具体的なものがない。いつまでたっても神様は「祝福するぞ」「祝福するぞ」と、言葉ばかりで、ちょっとアブラムもがっかりしたのです。それに引き換え自分はどんどん年ごとに年老いる。年をとっていく、子供ができる見込みはいよいよ薄くなっていく。だから、このとき神様が「あなたの受ける報いは大きい」と言われても信じられないのです。ちょっと文句を言いました。「神様、あなたはそんなことを言うけれども、私の祝福を受け継ぐ者、いわゆる、跡取りとなるべき者は遠縁にあたるエリエゼルである。そんな者にやるために祝福を受けたって仕方がない」というのがアブラムの言い分であります。私ももっともだ、と思います。そんなものだったらもらわなくてもいい、この自分の代でおしまいになってしまったら、それでいい、とアブラムは思ったかもしれない。ところが、神様は4節に「この時、主の言葉が彼に臨(のぞ)んだ、『この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです』」。「いや、エリエゼルではない」と神様はおっしゃる。そうではなくて、あなたの身から出る、直接あなたの分身である者が跡取りになるとのことです。と言っても、現実に自分を見ると、あるいは奥さんを見ると、「死んだ状態であり」(4:19 )と「ローマ人への手紙」にあります。全く見込みがない、望みがないのです。その時に神様はどうしたかというと、5節に「そして主は彼を外に連れ出して言われた、『天を仰(あお)いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』」。このときアブラムたちは天幕生活をしていました。今のように街灯があるわけではない。夜は真っ暗闇です。そこは恐らく満天の星空、私たちは最近そんなものは見たことがない。夜空を仰いでも町中明るいからポツポツとしか星が見えません。しかし、キャンプなどで山に入ったり、田舎(いなか)のほうに行きますと、そういう星空を見ることができます。このとき、アブラムは天幕を出て、空を仰いだのです。それはまさに降るがごとき星です。それを神様は「見てご覧」と、5節に「天を仰(あお)いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」と。「目を高くあげて」というのはここです。「あなたは、この大宇宙を見てご覧なさい。この星空の星を数えることができるか」と。そのとき「アブラムは主を信じた」。ここです、大切なのは。私たちが信じるというとき、具体的にどういう手立てで、どういう手順で事が成るかを信じたい。それを求めるのです。そういう「どうするか」など、それはもうどんなにでもできる。ここで神様が求められるのは、神様がどういう御方でいらっしゃるのかを信じなさいと言っているのです。アブラムに対して、自分はもう体が年を取ってきた。妻はそもそもが不妊の胎(たい)であって、生まれる見込みがない。だったら、その代わりに具体的に神様が知恵を与えて、ああいう方法、こういう方法、最近は不妊治療も進んでいますから、そういう手法や手立てを神様が言ってくれたら、それを信じる。ところが、神様が求められるのは、そういう手立てはわたしがちゃんと知っているんだから、神を信じなさい。いうならば、すべてのこと、どんなことでもなし得給う神が今この事を行っていらっしゃる。天を造り、地を造り、「世界とその中に満ちるものとはわたしのもの」(詩篇 50:12)とおっしゃる神様。天地万物の創造者でいらっしゃる御方、初めであり終りでいらっしゃる御方が、私たちすべてのものをここにあらしめて、存在させて、そして、私たちに事を起こしている。私がしているのではない。誰がしているのでもない。まさに神様がここにおられることを信じる。このことを神様はアブラムに求めたのです。だから、6節に「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」。神様は信じたアブラムを義なる者としてくださった。
いま私たちも、この神を信じようではありませんか。神様は全能の神である。すべてのものを今も造り生きる者としておってくださる御方だ、ということ信じていく。
「詩篇」121篇1,2節を朗読。
「わたしは山にむかって目をあげる」、いうならば「目を高く上げる」ということです。「わが助けは、どこから来るであろうか」。私を助けてくれるものは何だろうかと。「いや、きっとあの人に違いない」「この人に違いない」「この息子がしてくれるから……」「このお金があるから大丈夫」、そうではない。2節に「わが助けは、天と地を造られた主」、万物の創造者でいらっしゃる主から、私は助けを受けるのだ。ここに私たちはいつも立ち返っていきたい。私たちの信ずべき御方は、ちゃちな御方ではない、ちっぽけな御方ではない。私たちよりちょっと知恵がある程度ではない。もっともっと大きなもの、私たちをして「おけの一滴のように」「はかりの上のちりのように」思われる神様。神様はできないことのない御方でいらっしゃる。その御方が今この事を起こし、事を導き、御心のままに、神様は誰に相談することもなく、誰に尋(たず)ねることもなく、ご自分の御心のままに万物を導いておられる。そのことを認めるのです。これが謙そんということです。神様が今いらっしゃるのだからと、認めてへりくだっていく。これが私たちの幸いな恵みです。
「使徒行伝」4章23節から26節までを朗読。
これは「美(うつく)しの門」のそばに生まれながらに足のきかない人が置かれていました。ペテロとヨハネがその前を通りかかってジッと見つめて、そして「わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と命じて、手を取ったとき、その人は立ち上がって全く人生が変わってしまいました。新しい者に造り替えられました。そのために彼はいろいろなトラブルに巻き込まれます。彼が癒されたことを通して、パリサイ人やその当時の律法学者、時の支配者たちが「とんでもないことをした」と、いろいろと非難を受ける。それに対してペテロもヨハネも大胆にイエス・キリストを証しするのです。これは神様の備えられた恵みの時であったと思います。やがて、その当時の議会といいますか、そういう律法学者や指導者たちが集まる会議の場に二人は呼び出されるわけです。様々な取り調べを受けます。その最期に「ちょっと脅(おど)かしてもう二度とイエス・キリストなんていう名前を使わせまい」という話になり、衆議一決して彼らを脅かして「もう二度とこんなことを言ったら、お前たちは命がないぞ」と言い渡した。「だから二度とこのイエスの名によって語ってはならん」と命じられたとき、彼らは「あなた方に聞き従うよりも、神に聞き従うほうが正しい」と言って、大胆に喜んで出てきました。ところが、仲間の者たちはペテロとヨハネが連れて行かれたことで、大変心配して待っておった。その結果が23節、「ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した」。彼らは自分たちがどういう取扱いを受けたかを皆に報告をしました。そうしたとき、皆喜んで祈ったのです。そのお祈りがこの24節、「一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、『天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ』」。私たちはお祈りをするとき、「天のお父様」「愛する天のお父様」と言います。しかし、ペテロやヨハネは「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主」と呼びかけています。創造者としての神、すべてを取り仕切っておられる御方はあなたです、と祈っているのであります。私どもは「イエス様」と呼びかけて祈る方もおられますし、あるいは「天のお父様」と祈り始める方もおられますが、それはそれで幸いな恵みです。「アバ父よ、という御子の霊を与えられた」(ガラテヤ 4:6)とあるように「天のお父様」と言う。ここで使徒たちとその仲間の者たちは、自分たちが信じ、信頼し、より頼むべき御方は「天と地と海と、その中のすべてのもの」、天地万物すべてのものの造り主、創造者でいらっしゃる主よ、神様、あなたにいま祈ります、という決断、信仰を告白している。私どももこのことを繰り返して自身の祈りにしていきたい。またこれが「目を高く上げる」ことです。お祈りするとき、いろいろな問題に頭を突っ込んで悩みますから、「どうしようか」「ああしようか」と思い煩(わずら)いに捉(とら)われて、「何とか早くそれ……」という、そちらにばかり思いが行きます。ところが「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」と。「そうだ、いま私が祈る御方は万物の創造者でいらっしゃる御方、造り主でいらっしゃる御方。この御方に祈るのだ」と思い起こしていただきたい。そして、心を主に向けるとき、今まで「これは大変だ」と思えていた、大きな山のように思えた、大岩のごとくドシッとして「これは動かない」と思えたものが、一気に小さく、小さく「何だ、こんなことか」と思えてくるのです。私たちの目を神様に向ける。永遠なるものに向ける。広大無辺な大きなものに心を向けますと、目の前の少々大きなものと思えることも、これが小さくなってしまうのです。ところが、その比較するべきものが、目の前のこと、あのこと、このことと比較していますから、どんどん問題が山積みされたように、またそびえたった大きな事のように私たちを圧倒(あっとう)してきます。そして苦しくなって息が詰まる。夜一人で寝ていると問題がどんどん大きく見え、暗い夜の自分の布団の上にドーッとのしかかってくる。
ある方がそういうことを言われる。娘さんが祈りに答えられて大学に合格した。それまでは一生懸命に、この子が大学に入ってくれれば、と思って祈っていた。すると本人の願ったように志望校に合格した。うれしくてお母さんは喜んで「先生、お祈りに答えられてこうやって神様が娘を通してくださいました」と。喜んだのは一週間だけです。合格通知と共に入学金の案内が来た途端に彼女はドーンと落ち込んで、数日してから「先生、昨日夢を見ました」「何の夢?」「何か、私は知らんけれども、大きな布団袋みたいなものを背中に抱えて、うんうん苦しんでホッと夜中に目が覚めたのです」と。「それは入学金と授業料のことでしょう」、それが膨大(ぼうだい)に見える。ところが、そこから「だれが、これらのものを創造したか」「目を高く上げて」、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ」と呼び掛けてご覧なさい。目の前の大きな入学金であろうと何であろうと、何百万円であろうと、一瞬にして小さく、小さくなってしまう。私たちの信仰はそこにあるのです。「目を高く上げて、だれが、これらのものを創造したか」。何があっても神様がすべてでいらっしゃる。私たちは神様の手のなかに、どんなにもがいてみても神様の手からこぼれおちることはないのですから、「下には永遠の腕あり」(申命記 33:27)と言われるように、落ちれば落ちた所に主の手が据(す)えられているのです。万物の創造者でいらっしゃる神様に絶えず目を向けていきたい。思いをそこに向けてまいりますならば、何も恐れることがありません。
イザヤ書40章26節に「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる」。どんな小さな者にも神様は目を留めてくださる、一つ一つ数えきれない者であっても、ちゃんとそれぞれの名を呼んでくださる御方です。私ども一人一人に目を留めてくださっているのです。そして「その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」。言い換えると、完全無欠な御方、完ぺきな御方、神様に取りこぼしはない。決して神様がやりそこなうことは一切あり得ない。私どもはつい自分の思いが中心ですから「神様もへまをしてしまったな」なんて思いますが、そうではない。私たちのほうが神様の御思いの深さまで到達できない、知り得ない。だから、目の前のことで一喜一憂して「ああなったらどうしよう」と悩む。神様はもっと先の先まで全部知っていて完ぺきな御方です。「その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに」、完ぺきな御方、一つとして欠けることのない御方でいらっしゃいます。
どうぞ、この神様の前に自分を低くして、神様を信じる者となっていきたいと思う。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
26節「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」。
日々の生活を営んでいる場、置かれている所は、人の知恵と力と計画、人の業(わざ)に囲まれているところです。一日を振り返ってみますと、自分が考え、自分が計画し、あるいは人が考え、人がやってくれた事柄の中で、いわゆる人事百般といいますか、そういう生活の中で生きております。そのような中にいると、人間も捨てたものではない、結構やるではないかと、思うようになります。殊に文明が進んで、極めて人工的な環境に生きていると、住んでいる所も便利でありますし、非常に快適な空間、寒さも感じないくらいに年中一定の温度が保たれ、湿度が保たれ、いつでもどんな時でも好きなものが右から左に不自由なく手に入るような生活が備えられている。また町の中を歩いても、乗るものや車にしろ、すべてが快適に自分たちの思いどおりに、人の便利を満足させる、人の求めるものを満たしてくれる世の中になっています。町を歩いてみても、新しい建物や、斬新な街造り、高速道路が出来、高層マンションがあちらこちらに出来てきて、急速に街が様変わりしてきました。高速道路を車で走っていますと、緑がうっそうとして木々に覆われ、水が張られて苗が育つ田んぼを見ながら進み、やがて都市高速に入り、一気に街中(まちなか)に突っ込んで行きます。突然蜃気楼(しんきろう)のように全くの別世界になります。マンションが次々に建っている。すると自然と切り離された人工の世界といいますか、人だけの世界に入って行きます。そのような生活に慣(な)れてしまうと、どんなことでも人が中心で事を考えるようになってしまう。そして、神様に対しても自分の考えられる範囲(はんい)、自分が理解できる範囲のことに限ってしまう。自分のレベルに引き下ろしてくるといいますか、人間の世界の中での神様になってしまう。そういう危険性があります。いうならば、人間が高慢になり、神様を軽んずるようになる。
新約聖書を読んでいますと、イエス様とその救いについて語られています。福音書をズーッと読んでいますと、イエス様が私たちの生活の細かいところに届いてくださる御方であることが証(あかし)されています。病める人の病を癒(いや)してくださる、罪ある人の罪を赦してくださる。この社会の底辺といいますか、いろいろな苦しみ悩みのなかにある人々のそばに近づいて、一人一人の魂を新しく造り替え、慰(なぐさ)め、力づけ、励ましてくださる。死んだラザロをも生き返らせるという不思議なわざをしてくださる。水をぶどう酒に変えるようなことをしてくださる。こういう話はすべて私たちの生活の中の事柄です。そうすると、イエス様が自分の身近な生活の場にあって非常に密接になってきます。悲しいとき、苦しいとき、つらいとき、「イエス様が私のそばにいてくださるのだ」と、イエス様を通して父なる神様との交わりに私たちは導かれていきます。ところが、イエス様のことに心が向いていくことは幸いですが、そうすると、神様がどういう御方であるか、その意識がだんだん薄くなってしまう。イエス様を救い主、罪のあがないのいけにえとして、犠牲として十字架に命を捨ててくださったイエス様、イエス様はよみがえって、いま私と共にいてくださる。イエス様の名によって祈る祈りに父なる神様は答えてくださることは分かります。イエス様は身近であるけれども、神様が遠い存在、あるいは神様が低い存在になってしまうことがあるのです。その結果、信仰が神様から離れていくといいますか、信じているけれども力をなくしてしまう。これは常に警戒しなければならない事であります。
21節以下に「あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基(もとい)をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか。22 主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、23 また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる」とあります。神様がどのような御方でいらっしゃるか、「あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか」と言われています。気がつかないうちに、神様を自分と同じレベル、あるいは、自分よりはちょっと力があるけれども……、という形になる。神様を信じているつもりで、気がつかないうちに自分を信じている。自分の足らない所を補(おぎな)ってくれる御方ぐらいに思ってしまう。神様がここで求めておられるのは、わたしは万物の創造者、造り主であることを知ってほしいと。
40章12節に「だれが、たなごころをもって海をはかり、指を伸ばして天をはかり、地のちりを枡(ます)に盛り、てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはかったか」。「たなごころ」とは、手のひらです。「海をはかる」、あの太平洋、大西洋など地球上の大海をどうやって測りますか。手のひらで測れる人なんて誰もいません。ところが、神様はそんなものすらも手のひらでホッとすくい出してしまうことがおできになる。また「地のちりを枡(ます)に盛り、てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはかった」。そんなことのできる御方、広大無辺(こうだいむへん)といいますか、想像を超えた大きな力を持った御方でいらっしゃる。そして、ご自身の御心のままに導き給う御方。だから13節以下に「だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。14 主はだれと相談して悟りを得たか。だれが主に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか」。いったい、神様の知恵はどこから来たのか。神様はどうやって物事を判断し、決定するのかと。誰かに相談し、専門家の委員会を作って、協議をして、神様への答申を出して「こうしたらいい」ということをアドバイスする顧問団(こもんだん)でもいたのか。誰もいません。神様ご自身ですべてをなし得給う御方でいらっしゃる。その神様は万物の創造者、造り主でいらっしゃる。これは私たちの信仰の一番の根底です。神様がすべてのものを造り、ご自分の思いのままに支配し、すべてを導いていらっしゃる。私たちは気がつかないうちにこのことを忘れてしまう。造り主であることは知っているが、それは頭の片隅に追いやられて、「あれがどうなっただろうか」「これがどうなっただろうか」「これは何とかしなければ……」「あれを何とかしなければ……」、「私が頑張って」「私がして」「あの人に頼んで」「この人にやって」という、人、人、人のつながりの中、そういうかかわりの中だけで物事が進んで行くように思ってしまう。私たちの住んでいる社会は、まさにそういう文明、文化といいますか、人の業(わざ)が隅々にまで行き渡っている。幸いなことではあるけれども、また同時に私たちを神様から引き離してしまうのです。だから、気がつかないうちに神様を離れて、思いはただ人、人、あるいは事柄、あのこと、このことばかりになってしまう。そうすると、どうなるかというと、生活のあれが不足した、この問題が起こった、こういう悩みにあったとなると、すぐに「あの人がいけないに違いない」「この人がいけない」「私のこれが悪かったに違いない」「あれが悪かった……」、事の始まりすべてが、あの人、この人、事情境遇事柄に思いが向かう。そのようなものが原因で思うようにいかないと嘆きます。恨(うら)んでみたり嘆(なげ)いたり、非難したり裁いたりする。ところが、そうではないのです。小さなこと、大きなこと、事の大小にかかわらず、「事を行うエホバ」(エレミヤ33:2文語訳)、「わたしは初めであり終りである」(黙示録 21:6)とおっしゃる。すべてのことの始まりは神様、創造者、造り主でいらっしゃる神様によって、事が起こっているのだ。そこに私たちの思いを向けることが大切です。病気をする、あるいは何か問題のなかに置かれる。すると「どうしてなったのだろうか」「何でだろうか」とつぶやき、あれが、これが原因だと不平不満が募りますが、そのようなとき、造り主、創造者でいらっしゃる神様にまず目を向ける。これは信仰の一番根底にあるべき事柄です。それを忘れますから、「あれがいけないに違いない」「これがいけないに違いない」、あちらに走り、こちらに走りして「何とかしよう」「何とかしよう」と焦る。そうではなくて、今この事が起こっているのは人によるのでもなければ、誰によるのでもない。実は万物の創造者、造り主でいらっしゃる神様がすべてのものの第一原因、すべてのものの始まりだと認める。神様の前に自分を低くしていくことです。これがなければ、その先に進めません。
15節以下に「見よ、もろもろの国民(くにたみ)は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる。見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。16 レバノンは、たきぎに足りない、またその獣は、燔祭に足りない。17 主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。18 それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか」。18節に「それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか」と言われています。私たちは神様の目から見れば誠に小さな、小さなもので、あってもなくてもいいような存在にすぎません。本当に小さなものであります。15節に「もろもろの国民(くにたみ)は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる」と。「もろもろの国民(くにたみ)」、一つの国、例えば日本という国、日本の人口は一億何千万人くらいでしょうか、それすらも神様からの目から見れば「おけの一しずく」、桶の水を流して、最後にポンポンと振ったら何滴かしずくが落ちる、その一つにすぎないというのですから、実に小さな存在です。またその後に「はかりの上のちりのように思われる」とあります。買い物に行って、お肉だとかお魚とか量(はか)ってもらう。そうすると、最初はゼロになります。最近はデジタルですから数字が出ます。ゼロにしてそこへポンと物を載(の)せて100グラムとか200グラムとはかりますが、ゼロだから何も載っていないかのようですが、しかし、よく見ればほこりの一つや二つは必ず載っています。でも、それは軽すぎて数字に表れてこない、無いに等しいのです。実は、皆さんも、私もそうですが、はかりの上のほこりなのです。神様の目から見たら、何にもないのと同じです。そういう私たちに神様が目を留めてくださっている。私たちはそこに絶えず自分を低くしていくのです。神様の前に自分の置き方が問われているのです。17節に「主のみ前には、もろもろの国民(くにたみ)は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる」と。そのように無きに等しいものが、偉そうに神様を自分と等しいものに、あるいは、自分に近いもののように神様を引き下ろしてしまう。小さなものに変えてしまう。ここに不信仰といいますか、神様に対する信仰が欠けていく大きな原因があるのです。
イザヤ書40章26節に「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」と。「目を高くあげて」と言われますが、つい私どもは下向きになります。また周囲や横を見ます。そこにあるのはすべて人の業、人の力、だんだんと目線が低くなって、見えるところが全部人間の業であり、人間がしたことのように思います。しかし、そこからもう一度目を高く上げる。上を見る。遠くはるかかなたまで思いを馳(は)せていく。私たちを造り生かしてくださる神様はどのような御方であるかに思いを向ける。「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」、今ここにあるのはいったい誰により、何をしてここにあらしめているかを、もう一度心に留めなさい、ということです。確かに普段の生活の中でなかなか空を見ることも、遠くを見ることもしません。
先だって、すい星「イトカワ」へ日本の衛星が遠隔操作で行って帰ってきました。7年間かけて。それだって、宇宙のほんのわずかな距離です。私はその記事を見ながら、人はなんと小さな、小さなものであるか、誠にとるに足らない無きに等しい、とはそういうことなのだ、と思うのです。大宇宙を見て、そのはるかかなたに光っている星の一つを見ても、私どもは自分が本当に小さなものである。こんな者がどうしてここに存在しているのか? その不思議さを思うだけでも、私たちは厳粛(げんしゅく)な恐れおののく思いがするに違いない。ところが、それを忘れているのです。そして「あれがこうだった」「これがこうなった」と、人の思いに捉(とら)われて、思いがだんだん下向きになってしまう。目線が下を向いてしまう。だから、26節に「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」。
「創世記」15章1節から6節まで朗読。
これはアブラムと神様とのやり取りでありますが、アブラムに対して神様が「恐れてはならない、あなたの受ける報いは、はなはだ大きい」と言われた。その前からアブラムにたいして、「あなたの末(すえ)を雲のごとく、浜の砂のごとく多くしよう」と、神様は言うけれども一向にその具体的なものがない。いつまでたっても神様は「祝福するぞ」「祝福するぞ」と、言葉ばかりで、ちょっとアブラムもがっかりしたのです。それに引き換え自分はどんどん年ごとに年老いる。年をとっていく、子供ができる見込みはいよいよ薄くなっていく。だから、このとき神様が「あなたの受ける報いは大きい」と言われても信じられないのです。ちょっと文句を言いました。「神様、あなたはそんなことを言うけれども、私の祝福を受け継ぐ者、いわゆる、跡取りとなるべき者は遠縁にあたるエリエゼルである。そんな者にやるために祝福を受けたって仕方がない」というのがアブラムの言い分であります。私ももっともだ、と思います。そんなものだったらもらわなくてもいい、この自分の代でおしまいになってしまったら、それでいい、とアブラムは思ったかもしれない。ところが、神様は4節に「この時、主の言葉が彼に臨(のぞ)んだ、『この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです』」。「いや、エリエゼルではない」と神様はおっしゃる。そうではなくて、あなたの身から出る、直接あなたの分身である者が跡取りになるとのことです。と言っても、現実に自分を見ると、あるいは奥さんを見ると、「死んだ状態であり」(4:19 )と「ローマ人への手紙」にあります。全く見込みがない、望みがないのです。その時に神様はどうしたかというと、5節に「そして主は彼を外に連れ出して言われた、『天を仰(あお)いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい』」。このときアブラムたちは天幕生活をしていました。今のように街灯があるわけではない。夜は真っ暗闇です。そこは恐らく満天の星空、私たちは最近そんなものは見たことがない。夜空を仰いでも町中明るいからポツポツとしか星が見えません。しかし、キャンプなどで山に入ったり、田舎(いなか)のほうに行きますと、そういう星空を見ることができます。このとき、アブラムは天幕を出て、空を仰いだのです。それはまさに降るがごとき星です。それを神様は「見てご覧」と、5節に「天を仰(あお)いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」と。「目を高くあげて」というのはここです。「あなたは、この大宇宙を見てご覧なさい。この星空の星を数えることができるか」と。そのとき「アブラムは主を信じた」。ここです、大切なのは。私たちが信じるというとき、具体的にどういう手立てで、どういう手順で事が成るかを信じたい。それを求めるのです。そういう「どうするか」など、それはもうどんなにでもできる。ここで神様が求められるのは、神様がどういう御方でいらっしゃるのかを信じなさいと言っているのです。アブラムに対して、自分はもう体が年を取ってきた。妻はそもそもが不妊の胎(たい)であって、生まれる見込みがない。だったら、その代わりに具体的に神様が知恵を与えて、ああいう方法、こういう方法、最近は不妊治療も進んでいますから、そういう手法や手立てを神様が言ってくれたら、それを信じる。ところが、神様が求められるのは、そういう手立てはわたしがちゃんと知っているんだから、神を信じなさい。いうならば、すべてのこと、どんなことでもなし得給う神が今この事を行っていらっしゃる。天を造り、地を造り、「世界とその中に満ちるものとはわたしのもの」(詩篇 50:12)とおっしゃる神様。天地万物の創造者でいらっしゃる御方、初めであり終りでいらっしゃる御方が、私たちすべてのものをここにあらしめて、存在させて、そして、私たちに事を起こしている。私がしているのではない。誰がしているのでもない。まさに神様がここにおられることを信じる。このことを神様はアブラムに求めたのです。だから、6節に「アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」。神様は信じたアブラムを義なる者としてくださった。
いま私たちも、この神を信じようではありませんか。神様は全能の神である。すべてのものを今も造り生きる者としておってくださる御方だ、ということ信じていく。
「詩篇」121篇1,2節を朗読。
「わたしは山にむかって目をあげる」、いうならば「目を高く上げる」ということです。「わが助けは、どこから来るであろうか」。私を助けてくれるものは何だろうかと。「いや、きっとあの人に違いない」「この人に違いない」「この息子がしてくれるから……」「このお金があるから大丈夫」、そうではない。2節に「わが助けは、天と地を造られた主」、万物の創造者でいらっしゃる主から、私は助けを受けるのだ。ここに私たちはいつも立ち返っていきたい。私たちの信ずべき御方は、ちゃちな御方ではない、ちっぽけな御方ではない。私たちよりちょっと知恵がある程度ではない。もっともっと大きなもの、私たちをして「おけの一滴のように」「はかりの上のちりのように」思われる神様。神様はできないことのない御方でいらっしゃる。その御方が今この事を起こし、事を導き、御心のままに、神様は誰に相談することもなく、誰に尋(たず)ねることもなく、ご自分の御心のままに万物を導いておられる。そのことを認めるのです。これが謙そんということです。神様が今いらっしゃるのだからと、認めてへりくだっていく。これが私たちの幸いな恵みです。
「使徒行伝」4章23節から26節までを朗読。
これは「美(うつく)しの門」のそばに生まれながらに足のきかない人が置かれていました。ペテロとヨハネがその前を通りかかってジッと見つめて、そして「わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と命じて、手を取ったとき、その人は立ち上がって全く人生が変わってしまいました。新しい者に造り替えられました。そのために彼はいろいろなトラブルに巻き込まれます。彼が癒されたことを通して、パリサイ人やその当時の律法学者、時の支配者たちが「とんでもないことをした」と、いろいろと非難を受ける。それに対してペテロもヨハネも大胆にイエス・キリストを証しするのです。これは神様の備えられた恵みの時であったと思います。やがて、その当時の議会といいますか、そういう律法学者や指導者たちが集まる会議の場に二人は呼び出されるわけです。様々な取り調べを受けます。その最期に「ちょっと脅(おど)かしてもう二度とイエス・キリストなんていう名前を使わせまい」という話になり、衆議一決して彼らを脅かして「もう二度とこんなことを言ったら、お前たちは命がないぞ」と言い渡した。「だから二度とこのイエスの名によって語ってはならん」と命じられたとき、彼らは「あなた方に聞き従うよりも、神に聞き従うほうが正しい」と言って、大胆に喜んで出てきました。ところが、仲間の者たちはペテロとヨハネが連れて行かれたことで、大変心配して待っておった。その結果が23節、「ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した」。彼らは自分たちがどういう取扱いを受けたかを皆に報告をしました。そうしたとき、皆喜んで祈ったのです。そのお祈りがこの24節、「一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、『天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ』」。私たちはお祈りをするとき、「天のお父様」「愛する天のお父様」と言います。しかし、ペテロやヨハネは「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主」と呼びかけています。創造者としての神、すべてを取り仕切っておられる御方はあなたです、と祈っているのであります。私どもは「イエス様」と呼びかけて祈る方もおられますし、あるいは「天のお父様」と祈り始める方もおられますが、それはそれで幸いな恵みです。「アバ父よ、という御子の霊を与えられた」(ガラテヤ 4:6)とあるように「天のお父様」と言う。ここで使徒たちとその仲間の者たちは、自分たちが信じ、信頼し、より頼むべき御方は「天と地と海と、その中のすべてのもの」、天地万物すべてのものの造り主、創造者でいらっしゃる主よ、神様、あなたにいま祈ります、という決断、信仰を告白している。私どももこのことを繰り返して自身の祈りにしていきたい。またこれが「目を高く上げる」ことです。お祈りするとき、いろいろな問題に頭を突っ込んで悩みますから、「どうしようか」「ああしようか」と思い煩(わずら)いに捉(とら)われて、「何とか早くそれ……」という、そちらにばかり思いが行きます。ところが「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」と。「そうだ、いま私が祈る御方は万物の創造者でいらっしゃる御方、造り主でいらっしゃる御方。この御方に祈るのだ」と思い起こしていただきたい。そして、心を主に向けるとき、今まで「これは大変だ」と思えていた、大きな山のように思えた、大岩のごとくドシッとして「これは動かない」と思えたものが、一気に小さく、小さく「何だ、こんなことか」と思えてくるのです。私たちの目を神様に向ける。永遠なるものに向ける。広大無辺な大きなものに心を向けますと、目の前の少々大きなものと思えることも、これが小さくなってしまうのです。ところが、その比較するべきものが、目の前のこと、あのこと、このことと比較していますから、どんどん問題が山積みされたように、またそびえたった大きな事のように私たちを圧倒(あっとう)してきます。そして苦しくなって息が詰まる。夜一人で寝ていると問題がどんどん大きく見え、暗い夜の自分の布団の上にドーッとのしかかってくる。
ある方がそういうことを言われる。娘さんが祈りに答えられて大学に合格した。それまでは一生懸命に、この子が大学に入ってくれれば、と思って祈っていた。すると本人の願ったように志望校に合格した。うれしくてお母さんは喜んで「先生、お祈りに答えられてこうやって神様が娘を通してくださいました」と。喜んだのは一週間だけです。合格通知と共に入学金の案内が来た途端に彼女はドーンと落ち込んで、数日してから「先生、昨日夢を見ました」「何の夢?」「何か、私は知らんけれども、大きな布団袋みたいなものを背中に抱えて、うんうん苦しんでホッと夜中に目が覚めたのです」と。「それは入学金と授業料のことでしょう」、それが膨大(ぼうだい)に見える。ところが、そこから「だれが、これらのものを創造したか」「目を高く上げて」、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ」と呼び掛けてご覧なさい。目の前の大きな入学金であろうと何であろうと、何百万円であろうと、一瞬にして小さく、小さくなってしまう。私たちの信仰はそこにあるのです。「目を高く上げて、だれが、これらのものを創造したか」。何があっても神様がすべてでいらっしゃる。私たちは神様の手のなかに、どんなにもがいてみても神様の手からこぼれおちることはないのですから、「下には永遠の腕あり」(申命記 33:27)と言われるように、落ちれば落ちた所に主の手が据(す)えられているのです。万物の創造者でいらっしゃる神様に絶えず目を向けていきたい。思いをそこに向けてまいりますならば、何も恐れることがありません。
イザヤ書40章26節に「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる」。どんな小さな者にも神様は目を留めてくださる、一つ一つ数えきれない者であっても、ちゃんとそれぞれの名を呼んでくださる御方です。私ども一人一人に目を留めてくださっているのです。そして「その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」。言い換えると、完全無欠な御方、完ぺきな御方、神様に取りこぼしはない。決して神様がやりそこなうことは一切あり得ない。私どもはつい自分の思いが中心ですから「神様もへまをしてしまったな」なんて思いますが、そうではない。私たちのほうが神様の御思いの深さまで到達できない、知り得ない。だから、目の前のことで一喜一憂して「ああなったらどうしよう」と悩む。神様はもっと先の先まで全部知っていて完ぺきな御方です。「その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに」、完ぺきな御方、一つとして欠けることのない御方でいらっしゃいます。
どうぞ、この神様の前に自分を低くして、神様を信じる者となっていきたいと思う。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。