いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(180)「主の愛に向って前進!」

2014年04月26日 | 聖書からのメッセージ

 

 ヨハネによる福音書15章9節から11節までを朗読。

 

 9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。

 これはイエス様がご自分の使命、そしてそれに遣わされた父なる神様との関係、これが「愛による関係」であることを告白している記事であります。9節に「父がわたしを愛されたように」と語っています。父なる神様が御子イエス様を愛してくださった。イエス様が自らそのように告白しています。わたしの父はわたしを愛してくださった。といって、ではイエス様が父なる神様からどのように愛されたか?考えてみますと、どこにその愛があるかな、と思うような主の生涯です。イエス様のご生涯は決して楽な、楽しいことばかりではありません。むしろ御子でいらっしゃった御方、神の位に居給うた御方が人となるとは、これはとんでもない話だと思うのです。私たちから考えるならば、愛されていたら、もっと大切にされるはずではないだろうか、もっと可愛がってもらうというか、そのようなことを期待しますね。ところが、イエス様は父なる神様からどれほど可愛がられ、優しくされただろうかと思うと、到底そうとは思えない現実です。厳しい人の世に、御子がご自分の位を捨て、身分を捨てて人となる。言うならば親が子供を捨てるようなものです。父なる神様がイエス様に「お前は救い主として、わたしの使命のために世に下って人となれ」と言われるのですから。“可愛い子には旅をさせよ”なんて世間では言いますが、苦労をさせるのがその子のためになる、という意味では、愛する子供を千じんの谷にでも突き落とすのも愛情といえば愛情でしょう。では、イエス様は果たしてそうだったのかどうか、私たちが知るかぎりでは父なる神様から可愛がられて大変恵まれた生涯であったとは、どこにも見ることはできません。むしろ、この地上にいらっしゃる間、イエス様は苦しみと悩みと悲しみの人で、病を知っていたと、イザヤ書53章に語られています。誠に悲惨な、お気の毒なご生涯でした。

 

生まれた所もベツレヘムの馬小屋であり、生涯が終わったのはあの十字架です。これまたとんでもないご生涯でした。私達は普段大変恵まれた生活を営んでいる。ところが、そのような私たちですらも、ちょっと悩みに遭い、問題に遭い、苦しいことに遭ったら、すぐに悲鳴を上げます。神様は愛してくださらない、どこに愛があるか、神が愛であるならそれを見せてくれとか、勝手なことを言いますが、そんなことを言うならば、イエス様がいちばん言える境遇だと思います。

 

だから、「父がわたしを愛されたように」と、イエス様はおっしゃっていますが、私たちから言うならば、「父がわたしを憎まれたように」と言うでしょう。わが子を憎むような仕打ちと言ったらいいと思う。それでもなお、イエス様は「父がわたしを愛された」と言い切っているのです。なぜそのようなことが言えるだろうか。これは私たちが神様のご愛を知る秘けつです。イエス様は「わたしは父から大変愛された」と告白しています。この「愛された」というその愛は、イエス様の現実の生活の中で、具体的には形として見えません。あの事もこの事も考えてみると、愛とは程遠い、むしろ憎しみであり、また神様からのろいを受けた人のごとくに……。

 

イザヤ書53章3、4節を朗読。

 

3節には「彼は侮られて人に捨てられ」と、そのように神様の位まで捨てて人となってくださった。しもべとなり、人のかたちをとってくださったイエス様。しかもそのご目的はわたしたちの罪のあがないのためであり、ご自分を犠牲にするためでしょう。そうでありながら、人間はどうしたかというと、「人に捨てられ」と、誰もイエス様を大切に尊んだ人はいなかった。人から「侮られ」たのです。そして彼は「悲しみの人で、病を知っていた」とあります。イエス様は悲しみに満ち、また多くの人々の病を身に負うてくださいました。そして「また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」。どこに神様から愛された証詞、証拠があるかと言うと、私たちが考える意味での愛はありません。「愛」と言うと、何か優しく暖かな、あるいは明るいイメージが付きまといます、ばら色のような。ところがイエス様は、父なる神様の愛にあふれた生涯であったと告白していますが、イエス様の歩まれた生涯は、まさに今読みましたように、「人に捨てられ」「侮られ」「病を知っていて」「悲しみの人」でいらっしゃった。そのように言うと、「おお、私のことではないか」と思われるでしょう。私ほど人に侮られ、また顧(かえり)みられない、また私は体が弱くて次から次へと病気、病院、診察券は余るほどあるような生活。私は病の人、病を知っている。家族の悲しみや自分の身の上のいろいろな悲しい事が次々とある。イエス様は私のようだな、と思います。しかし、私は愛にあふれ、愛されたと思えない。それどころか、神様は私だけをいじめて、苦労をさせている。周囲を見ると幸せそうな顔をしている。まぁ、それは外側だけですが、そのように見える。それでひがむ。これは私たちの現実ですね。

 

その後4節に「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと」。そして、イエス様のご生涯を振り返りますと、神様ののろいを受けた結果、神様からたたかれ、のろわれて、「打たれた」「苦しめられた」。そのように見える。ところが実はそうでなかったのです。

 

5節に「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。実は、そのイエス様のお苦しみ、この世にあって人に捨てられ、悲しみの人で、病を知り、そして神に打たれ苦しめられ、のろわれたご生涯。まさに、そこにイエス様は神から愛された自分だと言い得るのです。ここに私たちが神様のご愛につながっていくところがある。ともすると愛とは、優しく、何でも聞いてもらえて、自分の好きなようにさせてくれる、わがままが言えるのが「愛」だと考えます。人の愛は、そのような人間的な愛で、肉につけるものです。だから、男女の愛や親子の愛、何の愛にしろ、これは神様のご愛とは全く異質のもの、性質の違うもの。言葉は同じで、「愛」という言葉を使いますが、その内容は全く違います。有島武郎(たけお)という明治・大正の文学者がいましたが、彼の作品に『惜しみなく愛は奪う』というタイトルの小説があります。「惜しみなく愛は奪う」、人の愛は、相手からもらう愛なのです。奪うのです。そうでしょう。若い男女が愛し愛されると、相手から、いろいろなものを奪うのです。お互い奪い合うというのが人の愛です。いや、そんなことはない、私は主人のために尽くしてきたと言われますが、でも、どこかで打算がありますから、完全に純粋な愛などありません。どこかで報いを求め、これに対する応答、いわゆる答えてもらいたい。痴話げんかになるのは、私はこんなにあなたのために尽くしたのに、あなたは何もしてくれないではないかと、じゃ、離婚しましょうという話になるので、してくれないことが問題なのです。人の愛はそういうところですよ。どんなに親子の愛は美しい愛だとか、世間では言いますが、これはただ単なる動物的な感情、情です。だから、その愛は相手に対して必ずしもよい結果を生むとは限りません。いや、それどころか、自分の欲望を満足させる、自分の情を満たす、感情を満たす行動にしか出られませんから、結局愛する対象、相手を駄目にしてしまう。だから、人の愛は子供を甘やかすようになるでしょう。英語では「甘やかすこと」を「spoil(スポイル)」するというのです。「スポイル」というのは、グジャグジャに駄目にする、という意味が本来ある。あまりにも扱いまわして、元も子も無くしてしまう。

 

ところが、神様が愛してくださったのは、どのような愛なのか?言葉での説明はなかなか難しい。でも神様は私たちに一つの具体的な証詞をしてくださいました。それがイエス様ご自身だったのです。イエス様は私たちにその愛を、神様のご愛を示すために、ご自分が十字架の道を歩んでくださった。と同時にイエス様ご自身がどれほど父なる神に愛されたかということを、そのご生涯を通して証詞なさったのです。その証詞たるや、先ほど申し上げましたように、実に私たちの期待、予期している事柄とは到底似ても似つかない現実です。「侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた」。そして「彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだ」、言い換えますと、神様からのろわれた生涯を生きたのだと思いました。

 

もう一度初めのヨハネによる福音書15章9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」。ここで「父がわたしを愛されたように」、どのように父なる神様はイエス様を愛してくださったか?それは目に見える形での愛ではもちろんありません。結局、イエス様が父なる神様から愛された生涯とは、イエス様がこの地上に遣わされて、十字架にそのご生涯を終わられる、このわずかな期間のことを通して、イエス様に対する神様のみ思いを測ろうとしますが、実はそうではなかった。その後、死んだイエス様を父なる神様がよみがえらせてくださいました。ピリピ人への手紙にありますように「神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」(2:9)。言うならば、御子イエス様は神様からの使命を完全に尽くして、天にお帰りになられた。しかも、天にあって、神様はイエス様を愛するがゆえに「すべての名にまさる名を彼に賜わり」、一切の権威を御子イエス様にお与えくださった。父なる神様はイエス様を捨てたのではない。

 

イエス様がこの地上に遣わされたとき、確かに、神様はイエス様を神の位から人の世に下しました。だからといって、神様はイエス様を捨てたのではありません。イエス様がこの地上に在りし三十三年半近くのご生涯を、絶えずイエス様は父なる神様との交わりの中にいました。そうでしょう。イエス様は絶えず弟子たちから離れて、朝早くあるいは独り静かに父なる神様との交わりを持っていました。あの十字架の上で初めて「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが、わが、なんぞ我を見棄て給ひしなり」。父なる神様、あなたはどうしてわたしをお見捨てになったのですか。そのとき、初めて父なる神様と御子イエス様との関係が断たれるのです。そのとき、初めて罪人として神様にのろわれた者としての断罪をイエス様がお受けになったのです。その時まではズーッと、ひと時も絶やすことなく父なる神様との交わりの中に絶えずおかれていました。その交わりを通して、父なる神様がイエス様を愛してくださっていることを絶えず知り続けた。

 

 私は教えられることですが、9節に「父がわたしを愛されたように」というお言葉の中に、イエス様が父なる神様と隔てない交わり、父なる神様と密接に結びついた関係、これが愛の関係であって、愛されるとはそういうことなのです。愛とは、二つのものが一つになっていくことです。御子イエス様が父なる神様から愛された、その愛された証詞は具体的な行為や状況、あるいは置かれた環境、あるいはそのような条件によって測ることはできません。しかし、ただ一つ言えることは、父なる神様とイエス様とが一つになっていた。密接な隔てのない交わりの中にあること、これが愛の証拠です。

 

 これは私たちの生活の中でもその一端を味わうことができると思います。愛する者と共におりたい、交わりを持つことが幸いです。人と人の愛は限りがある、あるいはそれは本当の意味の愛ではないと、先ほど申しましたが、これはちょっと乱暴な言い方かもしれません。ないわけではない。ちょっと似たようなところがあります。というのは、愛する者と共におりたい、交わりを持ちたいと思うことです。これは愛の特徴です。それが証拠に、愛していない人とは口も利きたくない。愛する者同士だとしゃべらなければおれない。間近に触れ合っておきたいのが愛し合った者の姿でしょう。

 

 イエス様が「わたしは父なる神様から愛されている」とおっしゃっているその愛は、父なる神様と絶えず途切れのない交わりの中にあったことなのです。だから、9節に「父がわたしを愛されたように」、イエス様が、自分は父なる神様から愛されているのだと感じ取ることができた、あるいは確信することができた。それは絶えず「父よ」、「父よ」と、父なる神様に結びついて、深い交わりを絶えず持ち続けていく。だからその後に「わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。そして「わたしもあなたがたを愛したのである」。イエス様が私たちを愛してくださった。確かにイエス様は具体的に、十字架に命を捨てて私たちに愛を証詞してくださいました。それは過去の、昔そのようなことを一度してくださったから、というばかりでなくて、それはそれから後の、あの十字架から後の、イエス様と私たちとの愛の交わりの始まりです。だから十字架は神様のご愛を私たちに証詞したものでありますが、それと同時に、それから後の私たちと神様との関係は愛の契約、愛の交わりの中に生きる者と変えられたのです。私たちの罪のためにイエス様が死んでくださった。そのとおりであります。「まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」とローマ人への手紙5章にあります。またヨハネの第一の手紙4章には「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」とも記されています。だから私たちのためにイエス様が十字架に死んでくださった。そこに愛が証詞されたことは確かで、その証詞された愛はそれで消えた、それっきりでおしまいではなくて、その後、私たちを救い出して、今私たちは父なる神様と、御子イエス・キリストとの深い交わり、愛の関係の中に置いてくださっている。  

 

といって、現実の生活を振り返ると、神様が愛なのだろうかと思えるような事態や事柄があります。しかし、イエス様もそうであったように、私たちも今同じように、そのような生きる悩み、老いる苦しみ、様々な悩み、苦しみ、悲しみ、憤りの中に置かれますが、だからといって神様の愛がないのではない。それどころか、そのような問題や事柄の中を通して、私たちは神様の愛に生きることができます。それは今申し上げましたように、絶えず交わりの中にあることです。だから、私たちがいつもイエス様を信じて、信頼し、朝に夕に絶えず、絶えず「父よ」「父よ」と、イエス様がこの地上に在りしとき、父なる神様と絶え間のない交わりの中にあったように、私たちもまた御子イエス様、よみがえってくださった主と、また「アバ父よ」と呼ぶ御子の霊となって、父なる神様との深い交わり、愛の中に引き込んでくださっているのです。だから9節に「わたしの愛のうちにいなさい」と。

 

そして、更に続いて10節に「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。イエス様は「父が私を愛されたように」と、父なる神様が私を愛してくださったと言っていますが、それは「わたしがわたしの父のいましめを守ったので」、父なる神様がわたしを愛してくださったことを知ることができ、その中にとどまっておることができた、と語っています。これは私たちの恵みであります。私たちが神様の愛の内にとどまろうとするならば、何をするか?それは交わりを持つこと。父なる神様、御子イエス・キリストとの交わり、その交わりは具体的に何かと言いますと、それは御言葉、キリストのお言葉を絶えず心に置いていくことです。主が私たちに与えてくださる御言葉の一つ一つを信頼して、主との交わりを絶えず持ち続けていくとき、まさにそこが愛の場所であり、神様のご愛にとどまっていく場所でもあります。だから、ここでイエス様が「わたしの愛のうちにいなさい」と言われました。イエス様の愛の内におることはどうすることでしょうか?それは、イエス様が私たちにこの場所に来なさいとか、目に見える形としてではなくて、私たちに御言葉をもって近づいてくださる。御言葉を通して、よみがえったイエス様と私たちが絶えず交わることができるようにしてくださった。ここに愛があるのです。そこにイエス様の愛にとどまる場所があるのです。だから、毎日朝から晩までこの世の様々なことに携わりますけれども、たとえ体はそうであっても、絶えず心がイエス様のほうに向いている。そして主の御言葉を絶えず心に信じ、抱き、それを絶えず味わって、「主よ」「主よ」と、どんなことの中にも主を求めて、主と交わる。これこそが主の愛の中にとどまっていくことです。これがなければ私たちは愛を知ることができません。

 

だんだんと祈ることも乏しくなり、また御言葉を聞くことも乏しくなり、心がイエス様から離れていってしまうとき、もはやそこには愛を感じることができないし、愛の中にとどまることができません。私たちがいつも主のご愛の中にとどまっていく道はただ交わりを求めることです。主との交わり、その交わりは御言葉をつなぎとしてと言いますか、媒介として、そこをイエス様と私たちとの場としていくことなのです。だから、絶えず御言葉に立ち返って、現実にいろいろな問題や事柄がありますが、その中で不安になるとき、恐れを抱くとき、何か訳が分からなくて、戸惑い、おじ惑うとき、そこで御言葉に立ち返っては、生き働き給うイエス様に触れる。そうしますと、主がどんなに愛してくださっているか、主のご愛のぬくもりと言いますか、イエス様に触れた時の力が私たちの心に与えられます。イエス様と交わっていく時、そこに愛があり、イエス様に触れることができるのです。

 

12年間長血(ながち)を患った女性の記事があります。イエス様が彼女の住んでいる町に偶然やって来た。イエス様を求めて多くの人、群集が集まった。彼女は何とかして癒されたいと思ってイエス様に近づくのです。長年苦しんでいたこの病を、イエス様なら癒していただけると思って、群集に紛れて近づき、イエス様のみ衣のすそに触れたのです。すると一瞬にして病気が癒されました。彼女は「ああ、よかった」と喜んだのです。ところが、イエス様が立ち止まって「誰かわたしに触ったものがいる」とおっしゃる。弟子たちは「こんなに大勢いるのだから、誰かが触ったでしょう」と。その時、イエス様は「力がわたしから出て行ったのを感じたのだ」(ルカ8:46)と言われました。

 

私はそのところを読んで「これだな」と思うのです。イエス様に触れなければ駄目ですよ。といっても、その時、たくさんの人々がイエス様に触れたのです。押し合いへし合いしていますから。ところが彼女だけにイエス様の力が出ていったのはなぜか?それはこの女性が何としても癒されたい、イエス様には私の病を癒す力があると信じたのです。だから後で、イエス様は「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われた。信仰を持って、イエス様が私に力を与えてくださることを信じてイエス様に触れたのです。するとイエス様の中にあった力が、その方の中に一瞬にして注がれた。自分には力がない、私たちには力はない、知恵はない、何もない。私たちはただイエス様に結びついて、主に触れていく。「わたしの愛のうちにいなさい」と、イエス様と交わりを持つこと、言い換えますと、愛によってイエス様に密着する。そうすると、長血を患った女性のようにちょっと触れただけではない。いつもイエス様に触れていくことができる。そして、いつもイエス様からの力をいただくことができる。ただ習慣的にイエス様に触れるのではなくて、また、行き掛り上触れたというのではなくて、絶えず「今日も主よ。あなたの力によって、あなたのご愛に満たしてください」、「主よ、あなたとの交わりの中に今日も生きることができるように」と、主を求めて、主のご愛にとどまっていこうと、信仰をもってイエス様に近づいていく。そのときイエス様は私たちに力を与えて、病をいやすどころではない。私たちの性情性格を変え、すべてのものを造り変えて、どんな困難な中、苦しみの中、悲しみの中に置かれようともへこたれない、行き止まらない、倒されない。パウロのようにしぶとい生き方へ、造り変えてくださる。これがキリストの愛に生きることです。愛は力です。

 

だから、もう一度ヨハネによる福音書15節10節に「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」。私たちはイエス様と交わろうとしたって、どこにイエス様がいらっしゃるか分からない、姿かたちはない。木の彫刻なり、これがイエス様だと言われるものがあれば分かりやすいと思いますが、そうではありません。そのようなものは何もありません。しかし、ここでイエス様は、「わたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」と言われる。「愛のうちにおる」、言い換えると、私との交わりにおることになるのだと。イエス様に触れることができるのですよと。「いましめ」とは、イエス様のお言葉、聖書の御言葉です。私どもがそれをしっかりと味わって、心に置いて、その御言葉に自分を沿わせていく。御言葉に自分を賭けていく時、そこが主に触れる場所、そこが主のご愛にとどまって、主と交わる場所でもあります。私たちはどんなことの中でも、いつもイエス・キリストと交わる。そのために、絶えず御言葉を心に置いていくこと。記憶、暗記しなさい、ということではありません。御霊が私たちに思い起こさせてくださる御言葉を素直に信じ、受け入れることです。これが神様の、主のご愛にとどまる秘けつ。またイエス様からの力を受ける道です。

 

その後の11節に「わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである」。「わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため」、イエス様の喜びが私たちのものとなる。愛し合っていると相手が喜べば、喜びが伝わってくるでしょう。本当に愛し合っているとね。そうでないと相手が喜んでいると、ねたましくなるだけですから。イエス様が喜んでいるその喜びが、私たちに満たされる。そして私たちの内に喜びが満ちあふれてくる。喜んで生きることができる。私たちの心に絶えず喜びがあふれてくる。そのとき、実は私たちがイエス様のご愛の中にいることの証詞です。状況、事柄、問題がどうこうではなくて、私たちの心に変わらない喜びがあふれてくるなら、そこに主のご愛にとどまっている証詞がある。逆に、喜べない、不満たらたら、つぶやきつぶやきと、そのようなときはイエス様のご愛から、私たちが離れてしまっている。喜びがないのは、その証拠です。だから喜びがあるかないか、私たちの心のリトマス試験紙ですから、神様の前に祈って、私の心には喜びがあるだろうか探ってください。静かに振り返ってご覧なさい。喜べないことばかり、「あれが……」「こいつが……」と、独りになるとよくそのようなことを考える。「あれが心配」「これが困った」「これはどうなるだろうか」「あそこがこうだから、私はこうなって、その次はこうなって、……」そのように考えただけでシュンとなって不安が来、恐れが来て、なんかどんよりとした心になり「ああ……」とため息がでる。そのようなときは、だいぶ重症ですから、もう一度「どこから落ちたかを思い起し、悔い改めて」(黙示録2:5)と、初めの愛に立ち返って、主との交わりによって、喜びある者へと変えられる。神様が私たちをこの地上に置いてくださったのは何のためか。私たちを喜び、楽しみ、感謝、賛美する者にしたいと思っているのです。そうなるための秘けつはただ一つ、「わたしの愛のうちにいなさい」。イエス様の愛に絶えずとどまっていくこと、イエス様との交わりを欠かしてはいのちを失います、愛を失います。私たちの状況、生活の環境、問題や事柄、そんなことはどうでもいいのです。まず、私たちが主との交わりの中で愛にとどまって、主の喜びを喜びとし、私たちに喜びが満ちあふれことです。「満ちあふれる」とあるでしょう。風呂の残り湯のようなものではない。「あふれる」のです。黙っていてもニコニコと喜びが湧き溢れる。お互い顔を見合わせてニコニコッとするが、独りになったらブスッとする。そうではないのです。あふれるのですから、人が見ようと見まいと、喜びに輝く者となりたい。

 

そのために「わたしの愛のうちにいなさい」。「わたしの愛のうちにいなさい」と、主が今日も招いてくださる。その主のご愛に絶えずとどまる道を歩んでいきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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