いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(203)「切り出された岩として」

2014年05月19日 | 聖書からのメッセージ
 ヤコブの手紙4章6節から10節までを朗読。

 10節「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。

 旧約聖書を読みますと、イスラエルの歴史が記されています。父祖アブラハムから始まって、イサク、ヤコブ、ヨセフ、さらに時代が下ってモーセ、というようにイスラエルの民の歴史が記されています。旧約聖書のイスラエルの歩みをとおして、神様とのかかわり方を見ると、まるで私たちと同じです。どのような点かと言いますと、繰り返し神様の恵みにあずかりながら、それを忘れてしまうことです。そのような悪い点で似ている。私どもも神様の恵みの中に置かれていながら、それを恵みであると感じられなくなる。そこがいちばんの問題点、弱点です。

エジプトの奴隷の生涯から救い出された民が、カナンの地を目指して歩んでいく旅路は、どうしてこんなにかたくななのだろうと思いますね。あれほど願って、四百何十年という長い奴隷の生涯から、神様が指導者モーセを立てて救い出してくださった。たった一つ、このことを考えても、これほどの恵みをいともたやすく忘れる。パロ王様がついにお手上げになって、イスラエルの民に「出て行け」と言われ、モーセに導かれて九十万以上の人々(その数は男性だけだろうと思う)、それ以上の人々が大移動をします。最初に出会ったのが紅海です。先に進めなくなる。ところが、後ろからエジプトの軍勢が彼らを追っかけて来る。その時既に自分たちが救い出されたことを忘れている。モーセに向かって「どうしておれたちをこんなところに連れて来た。エジプトに自分たちの墓がないからここで殺そうというのか」と毒づきます。「急いでエジプトに帰ろうではないか」。あれほど願い、奴隷の生涯からパロ王様の心を砕いて神様が救い出してくださった、まだ舌の根も乾かないうちに、目の前のちょっとした問題で、もちろん、ちょっとしたどころじゃない大変な事態であったかもしれませんが、神様を疑う。不信仰に陥る。神様に対する信頼がありません。そして自分たちが受けた恵みをすぐに忘れる。“忘恩の輩(やから)”とは、まさにこのイスラエルの民です。とうとう行き止まりになってしまったときに、神様はモーセに対して「あなたの持っているつえを海に伸べよ」とおっしゃいました。モーセが杖を差し伸べると、あの紅海が開けて、乾いた道がそこに現れた。驚くべき事態です。そのとき、イスラエルの民は神様を賛美し、喜んで、紅海の中を渡っていくのです。渡り終えて、後ろからエジプトの軍勢が紅海の中を通って途中まできたときに、海はふさがってエジプトの軍隊は海の藻くずとなって滅ぼされてしまう。彼らは振り返ってエジプトの軍勢が滅んでいく姿を見たとき、神様のなさる業に厳粛な思いがした。そして、神様は素晴らしい御方、力ある御方、あの軍勢を、戦車を海の藻くずとして滅ぼしてしまわれた。賛美し、言葉を尽くして主を褒めたたえている。そのまま続いて行けばいいのですが、荒野の旅ですから生活は楽ではありません。しかも旅先でそれだけたくさんの人々を養うのは、並大抵ではない。

イラク戦争のためにアメリカ軍がイラクに最大で40万人ぐらいの兵士を送ったのです。その兵士が三度三度の食事をしたり、洗濯をしたり、生活をする一切のものはどうするのだろうと思います。実は、兵站部(へいたんぶ)の輸送部隊がそれをするのです。戦闘隊の後ろから、大変な数の物資を運ぶのです。飲料水も運ぶ。今はトラックも飛行機も船もありますから、次から次へと送り出しますが、イスラエルの民が荒野の旅をしているとき、そのような食料隊が後ろから送ったなど、どこにもない。まずもって食事が乏しくなるし、持っているもの、蓄えなんてたかが知れています。移動して行くのも徒歩ですから、せいぜい背中に背負えるぐらい、何日分かの食料しかなかったでしょう。すぐにそれは食べ尽きてしまう。「もう食べるものがなくなった」と言って、彼らはモーセに文句を言いますね。「エジプトでは肉のなべのそばに座ってたくさんパンを食べていたのに……」と。とうとう神様はマナをもって彼らを養った。朝ごとに天からパンの代わりにマナを与えてくださった。それだけでも感謝すればいいのに「肉が食べたい」と、だんだんぜいたくになる。そのときもつぶやいたので、神様はまたうずらをやって彼らに食べさせる。口から肉のにおいが鼻について嫌になるほど、食べ飽きるほど食べさせたと。神様もなかなかやるなぁ、と思いますが、またしばらく行くと、今度は「水がない」と。神様は岩を割って水を出してくださった。読んでいますと、何でこのようにイスラエルの民は馬鹿なのか、愚かなのかなと思います。

でも翻(ひるがえ)って、私たちを考えると、まさにイスラエルの民そのものです。いろいろな悩みに遭い、苦しみに遭って、どうにも仕様がなくて「神様、助けてください」と、何度祈ったことか。しかし、のどもと過ぎれば熱さ忘れると、すぐに忘れる。そしてあれが足りない、これがない。こんなのじゃ満足できない。だんだんと心が神様から離れていく。あるいは物事が順調になり事柄が良くなってくると、神様に頼らなくても自分でできるのではないか、次第に神様から心が遠ざかっていく。

今お読みました10節に「主のみまえにへりくだれ」。へりくだる、謙そんになることです。神様を求めて、神様の前に裸になることです。神様から受けた恵み、神様がどんなに大きな事を私たちにしてくださったか、神様がしてくださったことを忘れてはならない。詩篇に「神がなされた事と、彼らに示されたくすしきみわざとを忘れた」(詩篇 78:11)と記されています。主が私たちにしてくださった恵みを忘れてはならないと語られています。それは私たちがすぐに忘れやすい。これはよくよく警戒しなければならないことです。「主のみまえにへりくだれ」、へりくだらないことには感謝ができない、喜べないのです。何か思いもかけない、自分にはふさわしくない、そのような大きな喜びとか楽しみ、贈り物などいただくと、「あら、どうして私のような者にこんな事をしてもらって」と、恐縮至極と言いますか、感謝感激します。それは自分が何者であるかを認めているからです。自分はそれに値しない者である、そのような取り扱いを受けるにはふさわしくない自分なのに、あえてこのような恵みをいただくなんて、これは破格の取り扱い、私には身分不相応、何とお礼を言ったらいいか、感謝したらいいか分かりません、言葉がありません、というのが「へりくだった」心です。されて当然、受けて当然、それでもなお足らない。この程度されたぐらいでは、まだ文句があるという思いの時、思いが高ぶっている時、高慢になっている時、自分がどのような者であるかを忘れているのです。

ここに「主のみまえにへりくだれ」とあります。殊に、神様に対してへりくだる、謙そんになることです。これは絶えず心していかなければならない。なぜならば「そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さる」。「高くして下さる」とは、6節にあるように「恵みを賜う」ということです。6節「神は高ぶる者をしりぞけ」と、10節の御言葉と大体内容は同じですが、表現が随分違います。逆に神様は「高ぶる者をしりぞけ」と、積極的にそのような者を拒む。だから「主のみまえにへりくだれ」という。神様は心高ぶる者をしりぞけられるから、神様の恵みにあずかる秘けつは「主のみまえにへりくだること」、謙そんになることです。イスラエルの民が失敗する原因は、自分たちがどのような中から救われ、今ここにあるかを忘れてしまうからです。原点を忘れてしまう。

イザヤ書51章1節から3節までを朗読。

1節「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」と言われます。「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴」とは、言い換えると、あなたがたはどんなところから今に至ったか、いわゆる、原点、出発点、始まり、それをよくよく覚えなさい。思い起こしてご覧なさいというのです。最近、新しいマンションが目に付きますが、教会の隣に立派なマンションがバブルの最盛期に出来ました。隣ですから、工事が始まって建築が進んでいくたびに、私は見ていたのです。現場監督の人とも親しくなりまして、いろいろな話を聞きます。外壁にダークグレーの石の板を張っていました。「これは珍しい石ですね」と監督に尋ねたら「これはジンバブエという所から持ってきたものです。これは大変珍しい高価な石です」と。一枚が幾らとか言っていましたが、それだけでも結構な値段がする。それを何百枚と張るのですから、億ションはそのような所が違うのです。私はその時この御言葉を思い起こした。「切り出された岩」、なるほど、はるばるアフリカの山奥から切り出された岩が持って来られて、この豪華なマンションの外壁としていちばん目に付く正面に張られる。ところが、この石は恐らく現地で買えば幾らもしないと思います。その辺にごろごろ転がっている品物だと思います。たまたま、その石だけが切り出されたときに、日本のバイヤーが「これを買おう」と、高いお金を出して買ってきた。船賃も掛かったでしょう、重い石ですから。そして立派な建物に使われる。石自体は本来何の価値も値打ちもない、ただそれを認めて、それを持ってきて、使った日本人がいたから、その石はたまたま素晴らしい栄誉にあずかる訳です。誉を得る。といって、その石はほかの同じ山の中にある石とどこが違うか? 違わない。ただ、その石だけが切り出されて用いられただけのこと。「それが欲しい」と言ってくれた金余りの日本人がいたからでしょう。そうでなければ、いつまでも山のどこかにうずもれたままで過ごしていたと思います。私は今でもこの建物を見るたびに「これは遠い所から来た石やな」と思います。

ミケランジェロであるとかダ・ヴィンチであるとか、ルーブル博物館の展示場の特別室にでも飾られている彫刻などは、その石材、材料である石自体はどこかの山奥からでしょう、たまたま切り出されてそれを刻んだ芸術家に業があるのであって、材料そのものは極ありふれたもの。その材料、石の塊をポコンと置いただけでは、ルーブル美術館の特別室になんか置いてもらえません。それに磨きをかけて、形作って、立派な作品にしたのは誰か? ミケランジェロであり、ダ・ヴィンチであり、それなりの人が手を掛けたからです。だから、石自体は何一つ誇る所がない、造った人こそ褒められるのです。ダビデ像を見に行って「どれどれ、この石か、この石は素晴らしいそうだね」と言う人はいない。全体を見て「ミケランジェロが造ったのか」と、造った作者こそ褒められてしかるべきであって、その石自体は何の値打ちも価値もない。別の石でもよかった。たまたまその石が使われただけのことです。
だから、51章1節に「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」と。先ず自分がどのようなものであるか、今ここにこうしておられるのは何故か、そのような原点をすぐに忘れてしまう。神様が憐(あわ)れんでくださって、ひとり子の代価をもって私たちを買い取ってくださった。そして、神様は私たちをご自分の子供にふさわしく、外側も内側も一切を清めて整え、そして、神様の恵みを注いでくださった。パウロは「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」(1コリント15:10)と語っている。彼は自分がよかったから、自分が努力したから、自分の何かが今の自分を作っていると誇ったのではありません。彼は自分がこれまで歩いてきて、何かできたとするなら、それはただ神様の恵みであり、憐れみによるのであって、自分は何一つできない「わたしは、その罪人のかしらなのである」(1テモテ 1:15)と告白しています。これが「主のみまえにへりくだる」こと、神様の前に謙そんになる秘けつです。私どもはこの出発点、原点を忘れてはならない。これを忘れますと、心が神様から離れて、いろいろな目の前の事柄が納得いかない、不満である、あるいは当たり前になって感謝がない、喜べない。それどころかつぶやき、失望して恨み、つらみなどがたまってきます。そのようにならないため、1節に言われているように「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」と。使徒行伝を読みますと、パウロが人々に説教しているメッセージが三回ほどありますが、そのメッセージで彼は必ず自分がどのようなところから救われたか、ダマスコにいるクリスチャンを迫害しようとしたとき、神様が憐れんで自分にご自身を現してくださったことを繰り返し語っています。彼は自分がどこから救われ、どのような自分であったかを決して忘れない。いや、むしろ、それを口が酸っぱくなるほど繰り返し、繰り返し語ることによって、いつも神様の前にへりくだった者になろうとしているのです。また、この詩篇を読んでも分かりますが、イスラエルの歴史を語るときも、神様は、アブラハムに取り柄があったわけでもない、ただ、一方的な神様のご愛によってアブラハムを選んで、その子孫であるあなたがたを神の民としたのではないかと繰り返し語り続ける。
2節に「あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラとを思いみよ。わたしは彼をただひとりであったときに召し、彼を祝福して、その子孫を増し加えた」。アブラハムは子供がいなかったではないか、あんなに年を取っていたではないか、放っておけばそれでおしまいだったアブラハムに、わたしが目を留め、彼を祝福してその子孫を増し加えたではないか。あなたがたは自分たちの民が大きい、自分たちは神の民だと自慢しているかもしれない、それを誇りとしているかもしれないが、それはあなたがたがよかったから、値打ちがあったからではない。ただ神様が憐れんで、アブラハムをその岩から切り出し、穴から掘り出してきたからではないか。これを忘れてはならない。私たちもそうです。それぞれ今に至るまでこの人生を振り返ってみると、あのこと、このこと、ああいうことがあった中から、今ここに立っている、生かされている、置かれている。それはいったい誰がしたのか。誰によるのか。それは神様が私たちを憐れんでくださったご愛と恵みによるとしか言いようがない。だから、私たちがいちばん忘れてはならないことは、まさにこのことです。そうすると、おのずから神様の前にへりくだらざるを得ません。
ヤコブの手紙4章10節に「主のみまえにへりくだれ」と勧められています。なぜなら「そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。主のみ前にへりくだるならば、主は私たちを恵んでくださる。私たちを高くしてくださる。自分の力で自分をどうにかすることはできません。自分の命すらも神様の手の中に握られている。神様を知り、神様に近づいて、主を求める者になることが大切です。だから、8節に「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう」。先ず、私たちが神様に近づいて、主の前にへりくだること。神様の前に主の憐れみを求め、神様に寄り頼まなければどうにもならない。ただ、神様の前にへりくだる、神様を求めるのは、なかなかできにくいのです。と言いますのは、見えないし、どのようなことになるか先が分からないから、どうももう少し自分の分かりやすい手近なところで、見えるものとか、手で触られるもの、自分で理解できる考えられるところに寄ろうとします。
8節の中程に「罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ」と言われています。「二心」とは、神様もいいかな、あるいはこちらもいいのではないかと言う態度です。神様だけという一つの心になりきれない。心が神様から離れるからです。物事が順調、事柄がうまくいき、自分が今こうして立っているのが神様の恵みであることを忘れてしまうと、心が二つになり、三つになるでしょう。そして迷うのです。詩篇119篇に歌われているように、「わたしは苦しまない前には迷いました」(67節)と告白していますね。「神様だけ」など、それはちょっと世間が狭くなるのではないだろうか、神様だけなんて、そんなことを言っているわけにもいくまいと、人を見、世を見、また自分の思い、自分の考え、自分の損得利害、そのようなものが絶えず心にわいてくる。その結果、神様だけとなれない。あれもこれも、これもあちらも……と。ところが、詩篇119篇では「わたしは苦しまない前には迷いました。しかし今はみ言葉を守ります」と歌いました。何かとてつもない悩みに遭う、苦しみに遭う。それによってもう一度目を覚ます。「そうだった。私の頼る御方は神様以外にはなかった」。これは幸いですね。イスラエルの民も、神様がいろいろな中を通して、常に神様がここにいるではないかと教えてくださった。これは大きな恵みです。彼らがつぶやく、神様の戒めを離れて勝手な事をする。そうすると神様はパチッと事を起こされる。その度に、彼らは「ごめんなさい」と主に立ち返る。神様にくっついておればいいのに、と思いますが、私達は肉体を持った者ですから、実に弱いのです。それはやむを得ないですよ。しかし、幸いなことに、神様がいろいろな折に触れ、私たちに警告をしてくださるのが、恵みの時です。苦しみや悩みに遭うとか、思いがけない事に出会うのは、決して損ではない。いや、それどころか、私たちがもう一度神様のみ前にへりくだり、神様の恵みを感謝し喜ぶ者にしようとする神様のおもんばかりであり、ご配慮です。だから、悩みに遭わないようにと悩みを避けるのではなくて、もちろん喜んで自分から悩みに飛び込む必要はありません。「主の祈り」で「我らをこころみに、あわせず、悪より救い出したまえ」と祈るように、誘惑に遭わないようと願いますが、いかんせん私たちの心が弱いからサタンに誘われて神様の前から離れていく。そうすると、神様は牧者ですから、羊飼いでいらっしゃる主が迷い出ようとする私たちを、むちとつえとでサーッと引き止めてくださる。だから、大変感謝な事だと思います。皆さん、何か問題に当たったとき、苦しみに遭うとき、これは大変な災禍に遭った、これは困った、こんな目に遭って私の人生は……、などと思って失望したら大間違い。むしろ感謝したらいい。「ここで神様は私を新しくしてくださる。私を恵もうとしてくださるのだ」。だから、その時私たちは主に近づくのです。「神に近づきなさい」と。

 9節に「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」と勧められています。笑ったり喜んではいけない、というのではない。もちろん喜ぶこと、笑うこと、楽しむこと、それは幸いなことに違いありません。しかし、もっと幸いなことは悲しみを通して、泣くことを通して、いよいよ深く神様に触れ、神様のご愛の中にスッポリと取り込まれることができたら、何よりも幸い。これに勝るものはない。

 マルコによる福音書9章43節から47節までを朗読。

 大変厳しいことを言われますね。片手を失っても天国に入るほうがよいではないか。片目になっても天国に入られたほうがいいではないか。いや、両方そろって天国に行きたいものだと思いますが、もちろん神様にぜひそうしていただきたいと願います、しかし、私たちは心かたくなな強情者ですから、そこまでしないと気づかない。両眼そろって地獄に投げ込まれるよりも、片目を失うこと、片足を失うこと、片手を失うことがあろうとも、その悲しみによって、その嘆きによって、涙によって天国につながるのでしたら、これほど幸いなことはない。そのようなことを言ったときに、ある方は「先生、私の家族は救われなくてもいいと思います」と言うのです。「どうしてですか」と、「いや、救われるためには何か失わなければいけないそうで」と、「別にそんなことはない。失わなくてもいい」「いや、何か試みに遭うくらいだったら、あまり神様に近づかないようにしてもらいたい」と。私はびっくりしたのですが、そのようなことを言われた方がおられました。そうではないですね。私たちが、たとえ何か失うことがあっても、神様の恵みにあずかり、救いにあずかり、主の力とご愛に触れることができ、それに取り込まれて新しい命に生きる者と変えられるならば、これに勝る喜びはありません。だから、問題に遭うとき、苦しみに遭うとき、そこでこそ、「主のみまえにへりくだれ」とおっしゃる。いろいろな悩みに遭うとき、私どもが神様の前にへりくだるべきことがきっとあるに違いない。それは人に対してではありません。あの人この人の問題ではなくて、実は私たち自身の問題であります。確かに、それまで「私は神様の前にどこにも悪いところがない」と、自分ではそのように思いますが、神様の目からご覧になったら「それでも立派なんだけれども、もっと立派になってほしい」。神様は私たちをキリストの姿にまで、栄光の姿にまで造り変えようとしてくださる。自己免許で「私はこのくらいになったから、もう合格点」というレベルではなく、神様が求めているのはもっと違うものです。神様はいよいよ主のみ前に立つそのときまで私たちを清め、整え、恵みに満たして、本当に喜びと感謝、心の底から主のものとなりきる、そこまで私たちを引き上げようとしてくださる。だから、時に言われます。「先生、何が悪くて私はこんな目に遭わなければいけないのでしょうか」「いや、あなたが別に何か悪いことをしたわけではない……。しかし、神様はあなたを今よりも、もっと神様が求めている標準にまで変えよう、恵もうとしてくださるからです」「いや、もうこれ以上恵まれなくてもいいと思います」と、自分で合格点を出しているのです。それでは神様に喜ばれることはできない。神様の基準に合う者とならなければいけない。自分の基準に合格したから、もうよかろうかと、そこで腰を落ち着けてしまうから先へ進まなくなります。私たちは渇いて、いよいよ主を求めていこうではありませんか。頭の先から足の先まですべて全身全霊を神様は全く清めて、神様のみ心にかなう者へと造り変えていただきたい、これが私たちの切なる願いであります。そのためには、もし片目を捨てる必要があれば喜んで片目を捨てる。片足、片手がなくなる、それでそうなるのでしたら感謝したらいいのです。ところがそうなる前から「くわばらくわばら、死んでも命がありますように」と、何とか逃げようとします。主の前にへりくだれない、謙そんになれない。殊に、私たちは健康の問題に遭うと気が弱くなる。それは幸いなことです。謙そんになって神様を求めざるを得なくなる。だから、だんだん年を取って体が弱くなるのは、ますます神様が恵もうとしてくださる、恵みの時に入っていくことです。いろいろな力を失って、できなくなる。それを感謝したらいい。手を失ってでも神様の御国に入れるのでしたら、これは感謝ですから、年を取ればとるほど、主を求めて、主の潔(きよ)さにあずかる。心と思いを清められて、神様の栄光の輝く生涯へ、私たちを移し替えていただきたい。これが、今私たちが求めていく事柄。その恵みにあずかる道はただ一つ、主のみ前にへりくだることです。

 ヤコブの手紙4章10節に「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。神様に信頼するにあたって、どのように信頼しているか、神様をどこまで信頼しているか、いろいろな点で神様は私たちを探り、清め、整えて、新しくするために、いろいろな事の中を通されます。自分はこれ以上変わりようがないと思ったとしても、神様の目からご覧になるなら、まだまだ期待することがある。だから、ヘブル人への手紙12章に言われているように、試練をお与えになられるのです。「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」(へブル12:6)とあります。「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル 12:11)。私たちを造り変えて、永遠の御国にふさわしい者へとしてくださると言われます。自分では分かりません。私の中にどのような可能性が秘められているのか、どのように光り輝くのか。しかし、私たちは山奥から掘り出してきたダイヤモンドのようなものです。ダイヤモンドの原石は見栄えも無く、輝きも何もない。それをきれいに磨いて、磨いて、磨き上げて、あの光が輝くのです。私たちはみな立派なダイヤモンドです。神様の目からご覧になればひとり子を惜しまないほどの高価なものです。この世の中にどのくらい高価なダイヤモンドがあるか知りませんが、ひとり子の命よりも値(あたい)高いものはほかにはありません。私達はまだ原石です。磨かなければなりません、光らなければいけない。もう私はこれで立派、と思われるかもしれませんが、まだ光が足りない。もう少しカットして、やすりをかけ削られます。削るのは痛いです。角がない、完全な丸いものにしようとして……、まだまだとがっていますから、あちらこちら。

 いろいろな中を通されますけれども、そこでへりくだって、主のみ前に謙そんになり、主を求めて造り変えられ、清められ、新しくせられ、神様の栄光を担う者としてくださる。10節に「主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう」。神様が私たちを造り変えると言われます。ただ、主の手に委ねましょう。神様は素晴らしい細工人、彫刻家であり、画家ですから、私たちを造り変えて素晴らしくすることができます。だから、この御方の手に自分を素直にささげ、委ねて、へりくだり、神様の業を待ち望んでいきたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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