いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(296)「完全な執成し手」

2014年08月20日 | 聖書からのメッセージ
 「ローマ人への手紙」8章26節から30節までを朗読。

 26節「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」。

 教会に来られ、集会に励んでしばらくすると、質問してきます。「クリスチャンになったらどういう生活をすべきでしょうか?」、何か義務があるのではないか、教会に来ること、クリスチャンになるとはどういうことなのだろうか?と尋ねられます。そういう時、私は「特別これというものはありません。ただお祈りすることと聖書を読むことと、各集会に近づくこと、それは義務ではなく、私たちの恵みだからです。それによって魂が成長し、神様に結びつく者となるのです」と言いますが、すぐには理解してもらえません。「何のことかな?」と当惑されて、しばらくすると見えなくなります。「もう少し言い方を変えればいいのかな」と思いますが、世の中でもクリスチャンとは、こういう人物、こういうことをする人、こういう生活ぶりをする人たちだと、ひとつのモデルと言いますか、決まったタイプを想定します。人に優しいとか、あるいは激しい言葉を出さないとか、愛に満ちた人であって、許す人であるとか、右の頬を打たれれば左の頬も出す人だとか、教会に熱心に励む人であるとか、いろいろな奉仕に励むことがクリスチャンであると思われています。

一人の方とお話していましたら、その方が通っている教会では「女性はピアスをしてはいけないという決まりがあります」と。「ほう、ピアスですか?その他には?」と「もちろん、酒は飲んではいけません」「酒もいけない、ピアスもいけない。他にはないですか」と言ったら「他はいいようですね」と。また他の教会に行きますと、「こうしてはいけない」とか「あれはしてはいけない」とか「こういう風にあるべきだ」と、そのような決まりが、暗黙の了解ともいったものがある。それを守るのがクリスチャンだと。だから、クリスチャンらしく生きるというと、クリスチャンになったらこうあるべきだという、一つの理想像なり、モデルが組み立てられます。

ところが、聖書にはそういうことは何も書いてない。「クリスチャンらしく歩め」とはありません。ところが、私どもはなぜそういうものを求めるかというと、自分の信仰生活、「今イエス様を信じて自分は生活しているが、これが果たして正しいのだろうか、これでいいのだろうか」と、常に不安があります。時々テストをされて、70点以上は合格、50点か60点、これは再試験、もう一度やり直してくださいとか、学校生活のように定期試験があって「自分の今の状態が合格点に入っているな」と、お墨付きをもらうことができれば、かなり安心な面があると思いますが、そういうものがない。だからといって、礼拝を一年間一回も休まなかったら合格点かというと、そういうわけでもない。ただ出席していればいいというわけにもいかない。もちろんしないよりはしたほうがいいと思います。できるだけ礼拝に来て、眠っていてもいいから聞いていれば『睡眠学習』することで、居眠りながらも御言葉は入ってきますから幸いなことですが、せっかく来るなら、礼拝とは何かをよく知った上で自発の意思で求めて来ることが、大きないのちとなります。だから、何回礼拝に来たから、あるいは、こういうことをしているから大丈夫とは言えないのです。これは誠につかみ所がない。「何かあやふやな、頼りないことをしているのかな」と思います。

26節に「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる」と約束されています。ここに「弱いわたしたち」とありますが、誠に私たちは弱い力のない者であり、神様が求め給う基準に達し得ない者です。ですから、私たちは自分の力では何一つできないことを認めるのです。私たちは神様の前に弱い者であって、神様が私たちに何をしなさい、かにをしなさい、いろいろな規則を設けてそれを守りなさいと言われても、それを守れない。それができないことを百も承知でいらっしゃる。「だったら、私たちはどうすればいいんだ」となりますが、それに対して26節「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる」。実は、神様は私たちが弱い者であり、右も左も分からない、何が正しくて何が間違っているかもよく分からない、あるいは知っていてもそれを実行できない、行う力がない。誠に弱くて力もない、フニャフニャな者であります。ところが、そのような私たちに神様は聖霊を送ってくださった。ペンテコステの日以来、今は「聖霊の時代」と言われています。私たちは自分の力を頼っても、何の役にも立たないのが現実です。では、どうするか。そこで神様が助け主を送ってくださった。これが御霊、聖霊と言われている神様の霊です。キリストの霊であります。その御霊が絶えず私たちの内に宿ってくださって、私たちに神様の御心を行わせるようにと導いてくださっている。私たちは自分でやりたいと思いながら、こうありたいと願いつつ、あるいは神様の御心を知り、御心に従いたいと思いますが、いかんせん、知恵も力もありません、そういう能力がない。私たちは神様の御心、神様が願っているレベルに達することができない。しかし、神様は「だから、お前たちは駄目だ」と言われません。そういう者であることをご存じだから、ひとり子イエス様をあえてこの世に遣わしてくださった。それは、弱い者がイエス様にすがることによって、イエス様により頼むことによって、神様の御心を行なうことができるようにしてくださるためです。だから、私たちはこの肉体の目をもって見ることも手で触ることも、耳でそのみ声を聞くこともできませんが、しかし、主は、聖霊、霊なる御方となって、私たちの内に宿り、神様のご目的にかなう者、神様の御心を行うことができる者にしてくださる。それは私たちの力ではない。私たちの内にある御霊の働きによるのです。聖霊が絶えず私たちの内に働いて助けてくださっているのです。だから、今日こうやって礼拝に集うことができたのは、御霊が私たちをここへ押し出してくださったからです。これは私たちの力、私たちの努力、私たちの何かのわざではありません。神様が私たちに霊を注いで、御霊によって「どうしても礼拝に行きたい」という願いを起させ、私たちの背中を押し出してここまで導いてくださったのです。私たちは弱い者で、礼拝を守ること自体が大変なことです。もし御霊の働きによらなかったら、私たちは何をやっているか分からない。今頃デパートをうろついてバーゲンセールに走り回っているかもしれない。ところが、どういうわけか、ここに集うことができたのは、これは御霊の働きによります。それは一回一回です。毎回、毎回、神様が私たちを励ましてくださるのです。26節「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる」。弱い者であることを認め、その次に、弱い者を常に助け給う御方がいらっしゃる、その御方が今も私たちの内に生き働いてくださる、その御霊の働きに導かれ、持ち運ばれていることを信じる、これがすべてです。

先程申し上げましたように、クリスチャンとは、ああすべきか、こうすべきかとややこしいことを考えるよりも、今、神様の御霊に導かれていますと信じる、これが大切です。礼拝に出るのはいいことだから、御霊が働いてくださる。ところが、時に「もう礼拝には行きたくない。今日はちょっと気分が乗らない。私は休みます」という人もいます。礼拝に来ている人、これは御霊が働いてくださっている。礼拝を休んだ人、これは御霊が働かなかったと、そのような外にあらわれた結果で決めることは大きな間違いです。何かの都合で、あるいは何かそのような思いで来たくてもどうしても礼拝に来られなかった人もいるに違いない。それもまた、実は御霊の働きによるのです。では人を殴るのも御霊がさせることかと問われますが、ある意味ではそのように言えます。もちろん、人は誘惑に陥って欲のために罪を犯すと「ヤコブの手紙」(1:14)に書かれています。しかし、神様は誘惑(罪)に導くことはありません。もちろん、神様は必要ならばそのような中をもお通しになります。

ご存じのようにパロ王様はイスラエルの民を何度となく引き止めました。かたくなになりました。心をかたくなにした。「ローマ人への手紙」に、パロ王様の心をかたくなにしたのは神様である(9:18)と書いてあります。神様がパロ王様を用いている。神様は私たちの心を自由自在に導き給う御方です。神様は御霊によって私たちをいろいろな中に通します。だから、私はあまり失望しないのです。「先生、あの方はこんな状態になっていますが、何とかしてあげなくていいのでしょうか。あのままだったら信仰を失ってしまいますよ」と言われる。確かに見えるところはそうかもしれないが、神様の霊はその人に今も働いていらっしゃる。決してそれで終わらない。神様はどん底と思われるような中に置きなさるかもしれないが、またそこから神様の許(もと)に立ち返らせなさることもできます。私たちの信ずべき御方はそのような方です。だから、熱心に各集会に欠かさず励んで感謝賛美していると思ったら、またしばらくすると途端に姿も形も見えなくなって、「どうしました?あの方はしばらく見えませんね」と。「どうしたんでしょうね。何かつまずいたんでしょうか?誰かが何か言ったんでしょうか」と言われる。「いや、そんなことはないでしょう」「どうして来なくなった?」「いや、それは神様がなさっていることでしょう」。すると「え!神様はそんなこともするんですか」と言われる。そんなこともこんなことも、神様はオールマイティーです。「わたしにできないことがあろうか」(イザヤ 43:13)と言われる。だから、いろいろなことの中に私たちは置かれますが、それもこれも実は神様が私たちの内に働いてくださって、御霊によってその一つ一つのことへ導かれているのです。だから、他人のこと以上に自分のことをまず考えて、「今、私はその御霊の働きによって導かれている。私は弱い者であるけれども、聖霊なる神様が、御霊なる神様が共にいてくださって、弱い私を助けてくださる」と確信する。どんなことも失望しては駄目です。御霊が、聖霊が今も昼夜分かたず、働きかけて、事をなし、事を持ち運び、それを完成にまで至らせてくださる。その御方を信じていくこと、これが救われた者のすべてであります。どんな状態を見ても、それで悲観する必要はない。弱い私たちを助け給う御霊は、今日は連休だからお休み、今日は私の休養日、なんて言われる方ではない。24時間、365日、昼夜分かたず、絶えず、絶えず私たちに干渉してくださる。

だから、26節「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」。「どう祈ったらよいかわからない」とは、どういう意味でしょうか?「私は失語症になってしまったから、認知症になってしまったから祈り方が分からない」というのではありません。祈っていても、「これは神様の御心にかなうだろうか」、「この祈りは聞いていただけるだろうか」と不安でしょう。勝手なことばかり、あれしてください、これしてください。あれもください、これもください。私の祈りを聞いていたら、「ください」の祈りではないか。こんなでは聞かれるはずがない。もし、私が神様だったら、「何、あなた欲張りね、次から次と要求ばかりじゃないの」と言いそうな気がする。だから、「どう祈ろうか。何とか神様に聞いていただけるように、上手にだまそうかしら」と、言葉を考えて、「どうか、ください」というのは言わないで、神様が出さなければおられないような言葉はないかと、いろいろと言い方を変えて祈ってみる。しかし、そんなことをしたって、結局、それが神様に聞かれるのだろうか?この祈りを聞いてくださっているのか?突き詰めていうならば、どこに神様の喜ばれる御心があるのだろうか?これが分からない。今病気をしている、心配なことがある。「神様、どうかこれを癒してください」と祈ります。「でも、神様がこの病気を与えたのなら、私は感謝して受けるべきではないだろうか。それなのに『癒してくれ』『癒してくれ』と言うと、神様のご機嫌を損ねるだろうし、どう祈ったらいいのかしら」と。考え出したら祈るに祈れなくなる。言葉が喉のあたりでつかえてしまう。ところが、「わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって」とあります。御霊ご自身が私たちの思いを知ってくださる。だから、こういう祈り方は大丈夫だろうか?どうしたら神様の御心にかなうだろうか?これは神様の御心にかなわない祈りかもしれないと、そのようなことを考えなくてもよい。私たちはそもそも弱い者であって、御心にかなう祈りをしたくてもできない。それはもう認めます。だから、心にある思いをありのままに神様に打ち明ける以外にないのです。だから、100パーセント、「お願いします、ああしてください。こうしてください」で結構。なぜならば、私たちの心の思いを隅から隅まで神の霊、御霊は知っている。これを信じるのです。自分の祈り方がいいとか、うまいこと言えたと、そのようなことではなくて、御霊が、聖霊が私の祈り、そればかりか私の言葉にならない思いのすべてを知ってくださったと信じるのです。これが私たちの祈りです。そして、その祈りを御霊ご自身が必ずとりなしてくださいます。その後に「御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」。「父なる神様、この者の祈りを聞いてやってください」と、御霊が父なる神様に取り次いで下さっている。これは本当に幸いなことです。24時間、365日、いつも御霊は助け主となって、私たちと共にいて、父なる神様に私たちの思いを伝えてくださる。それと同時に、御霊は神様の御思いも私たちに教えてくださる。具体的な生活の一コマ一コマの中で御心を教えて導いてくださっている。だから、「どうしてこんなになったのだろうか」「どうして思ったようにいかないのだろうか。計画どおりにいかないのだろうか」「どうしてこのように事が曲がってしまったのだろうか」と失望したり、不満を持ったりしますが、その一つ一つは神様が備えてくださること、御霊ご自身が共にいて、その事を起し、事を導かれるのです。だから、どんな中に置かれても、今主が私をここに置いてくださった。御霊が、聖霊なる御方がここまで導いてくださった。思いを与え、願いを起させ、いろいろな問題や事柄を置いた上で、なおかつそこで私たちを導いて下さる。

使徒行伝12章6節から11節まで朗読。

ペンテコステの出来事が起こった後、ペテロや弟子たちは盛んにイエス様の救いについて伝道をいたしました。だんだんとイエス様を信じる人たちが増えてきたため、古くからのユダヤ人たちは大変憤りを感じた、ねたみを覚えた。何とかしてそれをやめさせようと、激しい迫害がエルサレムで起こり、とうとうヘロデ王はペテロを捕らえるという事態になったのです。ペテロは捕らえられて、ろう屋に入れられました。その記事が今、読んだところです。「ペテロは二重の鎖につながれ、ふたりの兵卒の間に置かれて」というのですから、厳重な警護の下に捕らえられ、ろう屋につながれていました。7節「突然、主の使がそばに立ち、光が獄内を照した」。そのような、十重二十重に警備され、いくつも関門所があって兵隊が番をしていますから、出るに出られない奥まった中に入れられた時、そこに御霊が、神の使いがやってきて、眠っていたペテロをつつくのです。「起きなさい」「起きなさい」、彼が目を覚ますと、両手の鎖が外れるのです。そして「起きあがりなさい」、「帯をしめ、くつをはきなさい」と言われ、彼は帯をしめ、くつを履いて、「上着を着なさい」と言われるまま、上着を着て、「ついてきなさい」というその声に導かれて、9節「ペテロはついて出て行った。彼には御使のしわざが現実のこととは考えられず、ただ幻を見ているように思われた」とあります。彼は夢うつつです。何をされているのか訳が分からない。ただ言われるままに、上着を着たり、帯を締め、くつを履いて、出て行った。10節に「彼らは第一、第二の衛所を通りすぎて、町に抜ける鉄門のところに来ると、それがひとりでに開いたので、そこを出て一つの通路に進んだとたんに、御使は彼を離れ去った」。実に不思議な事態が記されています。どうにもならない、助かる見込みのない絶望のふちの中に置かれた彼が、ただ神の御霊の導きに従ったのです。そうしていきますと、あれよ、あれよと、次から次へと難問関門、到底越せない、到底解決のできない事を通り抜けて、とうとう町へ出る鉄門までもが開いたのです。

これはペテロがろう屋に入れられた話のように思いますが、そうではない。もちろん、ペテロにとってはこの言葉通りの事態だったのですが、今も私たちに同じことを御霊はなさいます。どうにも解決がつかない、行き詰ってしまって、助かる見込みがないという時、祈っていると神様は思いがけないことを起こされる。気がつかないうちに事態は大転換して、グラグラッと変わって、大慌てでバタバタ右往左往して、何とかやりくりしているうちに、気がついてみたら、事態は完全に変わってしまう。救い出されて喜びと感謝とがあふれてくる体験をするではありませんか。

私は最近そういうことも経験いたしました。この一ヶ月間でありましたが、状況が大転換するのです。これはもう無理かもしれない、これはちょっとダメだろうと、いろいろふさがったような状態の中を、御霊に従って、ただ今日の一歩を、次の一歩を主の導かれるところに従って歩んで行きましたが、気がついてフッと後ろを振り返ってみると、事態が全然想像のつかないものに変わっている。このペテロが獄屋の一番奥底の閉ざされた中から救い出されていく事態は過去の物語ではなく、今も皆さんの現実の生活の中に起こっている事柄です。そして、「これは大変、私はもうこんな問題には対処できない」と思う中にあっても、ただ、主を仰いで目の前の一歩を、先のことはどうなるか分からないけれども御霊の助けによりすがって、ただひたすらに祈りつつ、その祈りも御心にかなう祈りであるかどうかも分からないけれども、とりなしてくださる御霊ご自身が共にいてくださいますから、その御方にすがりつつ、一歩一歩進んでいきますと気がつかないうちに鎖がとけ、扉が開き、第一の関門を通り、第二の衛所を通り、あれよあれよという間に全く違った別の世界に移し替えられてしまう。これは聖霊の働きです。御霊は今も私たちの生活の一つ一つの事柄の中に絶えず働いてくださっている。

「ローマ人への手紙」8章26節に「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」。絶えず私たちのためにとりなしてくださる御霊なる神様が、私たちと共にいてくださる。そして、神様は私たちをある時は暗い中を通されるに違いない。時には苦しい、つらい、「もうこれは助かる見込みがない」と思われることの中を通されるかもしれない。しかし、神様は私たちを永遠の滅びに陥れるのではなく、そこから新しい地平に、広々とした所へ置いてくださるのです。

「詩篇」50篇7節から15節までを朗読。

神様は燔祭や犠牲を喜ばれる御方ではない。何かささげ物をもって、私たちのちっぽけな、取るに足らないわざを求めておられるのではない。「感謝のいけにえを神にささげよ」と言われる。私たちが感謝賛美し、喜ぶ者となることを願っておられます。だから、私たちを暗い中に、悲しみの中に、あるいは痛みと苦しみの中を通されることもあります。これも神様が私たちをそこへ導かれるからです。そこに神様がいないのではない。私たちの痛みの中に、苦しみの中に、悲しみの中にも主は共にいてくださって、そこを通して、私たちを感謝と喜びに変えさせてくださるのです。私どもの悪いところは恵みに慣れてしまうことです。調子のいいことに慣れてくると、「まぁ、こんなもんやろう」と思ってしまう。あるいは、時には不平不満がわいてきます。神様はいろいろな暗い中に、ひそかなところに、痛みの中にも導きいれてくださる。そのことを通して、次に喜び感謝し、神様が神であることを私たちが知るようになるためです。だから、御霊は私たちをそのような自分の願わない、思わない、考えもしないところへと導かれるのです。どんなことが起こっても、そこに神の御霊が絶えず働いてくださっているのだと信じ続けていくこと。これが私たちに求められている大切なことです。

14,15節に、「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。15 悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。「悩みの日にわたしを呼べ」と言われます。というのは、悩みに遭えば熱心に神様に求めるじゃないですか。恵みに満たされて喜び感謝することもありますが、それは三日か四日かそのくらい。ところが、悩みにあって痛みの中にある時は、昼夜分かたず主を呼びます。またそれに神様は答えてくださる。だから自分にとっていいと思われることも、あるいは自分にとって嫌なことでも、これもまた一つ一つ神様の備えてくださっていることであると信じていきたい。そして、御霊なる神は私たち弱い者を常に助けてくださる御方です。

「ローマ人への手紙」8章26節に「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである」。常に御霊が私たちの思いを知り、父なる神様にとりなしてくださっている。そのことを信じていきたい。御霊は私たちの内に絶えず宿って、幸いな時も悲しみの時も苦しい時も試練の中にある時も、そこに主は共にいてくださってとりなしてくださる。私たち弱い者を助けてくださって、神様の栄光を、神様が神様でいらっしゃることを私たちが味わい知るようになる。また、感謝賛美喜びをもって神様を褒めたたえる者と造り替えたい、これは御霊の切なる願いです。ですから、いつでもどんな時でも、主の御霊が私と共におられるのだと堅く信じていきたい。そして、御霊が私たちをいろいろな中を通してくださる。その一つ一つを感謝して受ける。その時、すべてのものを益としてくださる。

ですから、28節に「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。神様は私たちと共に働いてとあります。言い換えますと、御霊なる神様、聖霊が私たちと共にいて、すべてのこと、どんなことも共に働いてくださって、「益となる」ようにしてくださる。「益」とは、私たちが神様を褒めたたえていく者、「誠に神様は不思議をしてくださいました。こんな驚くことをしてくださった」と神様を喜び、賛美する者となることです。そのように私たちを造り替えようと助けてくださるのです。

どうぞ、この主の働きに自らを委ねて、主が導かれるところに、従順に従って行こうではありませんか。「これはいい」「これは嫌だ」「ここはいい」「ここには行きたくない」と、自分で選ばないで、御霊が導かれるところ、そこがつらい荒野であろうと砂漠であろうと、あるいはオアシスの地であろうと、恵み豊かなところであろうと、どこにあっても神の御霊が私と共にあって、ここに導いてくださること、助けてくださることを絶えず信じて、その御方の前に、その御方と共に、日々一歩一歩歩んで行きたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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