「テモテへの第一の手紙」6章11節から13節までを朗読。
12節「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである」。
イエス様の救いによって、私共は救われた者、神の民とせられたことを信じています。神様はひとり子を賜うほどの大きなご愛を持って、私たちを絶えず愛していてくださる、あるいは顧(かえり)みてくださることも信じています。だから、信仰は「信じれば救われる」といわれるように実に単純なことです。イエス様を信じて救いにあずかった、後はどうするか。「後はすること無い」という話になりそうでありますが、ところが、この信仰というものがなかなか奥深いのであります。イエス様を「私の救い主」、「私の主です」と告白する信仰が与えられます。では、実際の生活の中でそのとおりに実行できるかというと、これが難しい。「じゃ、私は救われないのか」という話になって、「いや、救われているはずだよ」と、段々自信がなくなってくる。「先生、いくら信じても、心はいつまでも不安があったり、恐れがあったり、心配があり、思い煩いがあります。これでいいのでしょうか」と言われる。ここで忘れてはならないのは、イエス様が「事畢(をは)りぬ」(ヨハネ19:30文語訳)と宣言してくださったことです。だから、「私は救われた。万々歳、これは感謝、感謝」と喜ぶ。誠にそのとおりですが、それは神様の側の話であります。神様の側は私たちを救ってくださった。さて、私はその神の家族になっているのか、神の子供となっているのか?神様が限りないご愛をもって、既に愛してくださったのであって、その愛の結果として、今いろいろなものを神様は恵んでくださる。愛を注いでくださっている。さて、私たちは神様が愛してくださったそのご愛を信じて、どのように応答するか、どのように応えていくか。これが実はクリスチャンの生き方であります。救われた者の生き方は、イエス様のご愛に感じて「こんな者を神様はひとり子を賜うほどに愛してくださったのですか。はい、信じます」と言って、「あなたが私に願っていらっしゃることは何でしょうか? 」「私があなたの御前に歩むべき姿勢はどうあるべきでしょうか? 」と、絶えず、ご愛のゆえに問いかけていく。そして「そうだ。これはイエス様が私を愛してくださったのだから、これはやめるべきだ、これはこうすべきだ」と、実生活の中で整理しなければならないことが生まれてきます。これを放置したら、信仰は未完成で終わります。
先日、一人の方が召されて告別式をしました。その方は幼い時からクリスチャンホームに育って信仰を貫いて、98歳で生涯を終わられました。その方は亡くなる前に自分が死んでから後のことを全部書き出していました。召されることがあったら、まず遺体の処理についてはこうしなさい。それから、教会にまず連絡をしてください。それから細かく、二度も迷惑を掛けるから前夜式はしないでよろしい。ついては、まず火葬をしてほしい。というのは、下手に遺体を残していると、柩(ひつぎ)の前に皆が集まったり、告別式の後でお花を飾ってみたり、柩を皆で担ぎ出したりと、これまた迷惑至極。そうならないために、死んだらまず火葬前式をしてもらう。そこには家族だけ、身内だけ、その時は親戚には一切連絡するなと。家族だけで火葬をして、遺骨になってから、日を改めて皆さんの出やすい日、できれば日曜日の午後が良かろうと思う。というのは、それが教会員の方も都合が良いに違いないし……と、実に配慮の人です。細かいのです。そして、ついては、式次第はこのように、火葬前式、奏楽、前奏、賛美、祈祷、全部ストーリーが出来上がっている。「式辞―牧師先生」と書いてある。「ヨハネ14章1節から3節までを朗読」と聖書の箇所までちゃんと決められています。だから、私はこれほど楽なことなかった。プログラムを作らなくていいのですから、全部それに従って進めました。その方はまさに信仰に生きた生涯を全うされました。晩年は少し脳梗塞を起こしたり、この2,3年認知症が進んできたところがありました。しかし、最後の最後まで讃美歌を喜び、御言葉をしっかりと心に抱いておられました。そういう生涯を送って最後に神様の所へ帰って行くのです。「私は肉体を脱ぎ捨てて神様の所へ帰って行く」という、喜びと望みがあったのです。だから、そういう準備がきちんと成し得ます。皆さんもやってご覧なさい。考え始めたら憂鬱(ゆううつ)になってすぐにやめます。「私が死んだらあのように寝た状態か。そこで讃美歌はどれにするか、これは良いかな、これは悪いかな、もうこんなのはやめとこう。憂鬱になる」と。教会でも『私の遺言書』というのを書いていだだく様にお勧めしていますが、あれ一つ書くのも覚悟がいります。「私が死んだ時、お花はいくつ、連絡先は・・・」と書き始めると「え!明日にでも私は死ぬのかしら」と、憂鬱になって「もう、書くのはやめよう。もう少し先でいい」と。口で言う分には簡単ですが、実際になかなかできにくいことです。相当の覚悟が要ります。でも、その方はちゃんと、最後の納骨式のことまで準備されていました。納骨式のときにはタクシーを何台手配してとか、お昼に掛ったら昼食がいるだろうから、弁当は用意してとか、そこまで書いてある。私はご家族の方に「お父さんって、本当に手際が良いというか、何もかも準備万端な方ですね」と申し上げました。それにはやはり信仰がしっかりして、御言葉が自分の中に根付いていたからです。
「ヨハネによる福音書」14章1節以下の「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう」との御言葉すらも、「そうなのか」と信じて、喜んでいらっしゃるかと思いきや、「いや、私はまだいいと思います。まだ先です。もうちょっと先です」と尻込みして、「もう場所は用意できたよ」と言われても、抵抗して「いや、もうちょっと待って……」と無駄な抵抗をしやすい。それは、私たちに信仰がないからです。神様のほうは「もう場所の用意ができたよ」と言われる。だから、私たちはそこへ入るために最後まで信仰を持ち続けていく。いや、それどころか、信仰に生きる者となることです。それがいま読みました12節に「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい」と言われているのです。ここに「永遠のいのちを獲得しなさい」とあります。イエス様が「永遠の命」であって、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と言われる(ヨハネ 11:25)。「どうして今更獲得しなさいと言われるのだろう」。まさにここです。神様のほうは「あなたがたを救いにあずからせて、神の子供としたのだから、今この地上にある間、神の子にふさわしい生き方をしなさい」と、命を与えられ生きる者となっています。だから、信仰の戦い、すなわち信仰に生きることを全うして、約束された永遠の命を獲得する。それを成就すること。その時が私たちの地上での命の最後であります。だから、私たちのこの地上での肉体の命が消え去る、これが終わりではなくて、実は天に帰って、神様から「善なるかつ忠なる僕よ」(マタイ25:21)と、命の冠、義の冠を頂くこと、そこまでが私たちに求められている事であります。それは信仰を持ち続けることによって初めて得られるものでもあります。途中で投げ出したら駄目です。入学試験の場合と違って、6割がた取れたらオーケーという話ではない。天国は入るか入らないか、二つに一つであります。だから、最後まで信仰を持ち続けて行くこと。ですから、「ヘブル人への手紙」にありますように「もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである」(3:14)と。「最後まで」ですよ。途中でやめたら駄目ですよ。途中が抜けていても構いませんから、これからが大切です。年金などは資格を得るには最低20年なり加入していなければ駄目ですが、信仰に関して言うなら、年数は問題ではない。信仰にあっては、過去が抜けても今が大切なのです。しかも、信仰はただ単に、容器の様な塊があって、それを抱えて持ち続け、運ぶという話ではありません。信仰は生きることです。私たちの生活、私たちの心を信仰に沿わせていく。信仰によって生きることに他なりません。だから、私たちにとって信仰は毎日の生活でもあります。そうなると、信仰に生きようとするとき、いろいろな戦いがどうしても湧(わ)いてきます。なぜならば、信仰とは聖書の御言葉を信じることでありますが、現実の問題や事柄の中でなかなか思うようにいかない。これは皆さんもご存じのとおりです。何か問題があるとハラハラドキドキして「ああじゃないだろうか」「こうじゃないだろうか」と思い煩う。あるいは、悩み苦しみ、そして「これは仕方がない、駄目や」と、絶望したりします。しかし、聖書には「そういう時には絶望せよ」と書いてないでしょう。イエス様はおっしゃるように「何事も思い煩ってはならない」(ピリピ 4:6)と、あるいは「あすのことを思いわずらうな」(マタイ 6:34)と言われている。その聖書の御言葉が私たちの実生活の中に具体化されていくこと、これが信仰に生きることです。これはなかなか難しい。
私もよくそのことで戦います。いろいろな現実のことで「あんなことになってしまって、これはもう駄目だ」と思って、失望して布団をかぶりますが、しかし、夜中に目が覚めると「自分はいったい何を信じているのだろうか」と。聖書の御言葉に「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」(イザヤ 43:13)と、神様が「わたしがする」とおっしゃっているのに、「私はいったい何を考えているのだろう」と、そこで「失望落胆しているのは信仰の結果か」というと、違うわけです。「そうだ。御言葉を知っていながら、それを信じようとしない」。いや、実際の生活の中で、それを具体化させようとしていかなければ意味がない。
「ヨハネによる福音書」6章52節から54節までを朗読。
ここでイエス様が「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」と言われる。イエス様はご自分が命のパンであると。その前に5つのパンと2匹の魚で五千人を養ったという事が語られています。それに引き続いてイエス様が「わたしは天から下ってきた命のパンである」とおっしゃったのです。それを聞いて「どうしてイエス様はそんな訳の分からないことを言う。パンだと言っても、食べられない」とユダヤ人たちは思っていた。だから、52節に「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」と。「私は命のパンだ」と皆さんに言ったら、笑うでしょう。それは当然であります。笑われて当然。イエス様はそのようにおっしゃった。でも、イエス様が言わんとしたことは、そういう直接食べる、食べないの問題ではありません。53節以下に「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり」とあります。これは、イエス様のお言葉のことです。その先の63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」と。イエス様の体を切り刻んで血の滴る肉を食べても、それは意味のないことです。では、何か? 「霊」なのです。その霊はどこから来るか。「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。イエス様のお言葉こそが霊であり、命なのです。「霊」であるイエス様の言葉を食べること、それを飲むことです。これが信仰の中心点です。それによって初めて人は生きることができる。永遠の命がそこにある。そして、やがての時、54節の終わりに「わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」と記されています。うれしいですね。そうやってイエス様のお言葉を食べ、飲み、それを自分の命として生きて行くならば、たとえ死んでも生きると。やがて世の終わりの時、審判の時にもよみがえらせていただいて、永遠に神と共に生きる者へと、また新しい霊のからだが与えられて、永遠の存在に変えられる。それがここに語られている。私たちがイエス様の肉を食べ、血を飲む、これが信仰生活であります。毎日、朝起きてから夜寝るまで、いろいろなことの中に生きています。思いがけないことや考えもしないこと、予定になかったことなどが次から次へ起こってきて、ハラハラドキドキ、右に左にどうするか、ああするか狼狽える。そしていろいろな人とのかかわりでどうだ、こうだと攻めてきます。そのときに御言葉はどこにあるのか?あなたの命はどこにあるのか?これを問わなければならない。まさにそこが信仰の戦いです。
「エペソ人への手紙」6章10節から13節までを朗読。
12節に「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく」とあります。「血肉」というのは、目に見える事情や境遇、あるいは人間関係であるとか、そういうことで私たちが戦うのではない。確かに生活にはそういう問題が起こってきます。健康の問題だとか、経済的な問題だとか、家族の問題、子供の問題、孫の問題、夫婦の問題とか、いろいろな問題が起こってきます。それを何とか解決しなければならない。これをどうしようか、自分は知恵もない、力もない、お手上げだ、どうしようか、こうしようか、ということ、それは血肉の戦いであります。その問題解決というのは、これは信仰の一つの実践の場ではありますが、それが目的ではない。私たちの信仰の目的は、そういう血肉の戦い、いうならば、世の様々な……、あんな人がいて私はこんな苦労をしているとか、あるいは、私は生まれがこうだったから、親がこうだったからこんなひどい目に遭っている。こんな気の毒な境遇に自分は置かれてしまったとか、それを嘆いたり悲しんだりする。これは血肉に対する戦いであります。では、信仰の戦いは何なのか。その先に「もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」と。何かややこしい言葉が続きますが、これはたった一つのことを言っています。それはサタンであります。「悪の力」、いわゆる、私たちが神様によって平安を得ようとする心を塞(ふさ)ごうとするもの。私たちを神様から遠ざけよう、引き離そうとしてくる力であります。それは私たちの心に働いてくる、内なるものに働いてくるものであります。これと戦わなければならない。何か思いがけない病気を…「ちょっとこれは難しい病気です」なんて言われると「え!これからどうなるのだろう、ああなるだろうか」と心配です。これは血肉の戦いです。もう一つ大切な戦いは、その病気に対して自分が憤ってみたり、自分の不幸を嘆いてみたり、あるいは、あれが悪かった、これが悪かったと、自分を責める思いになってみたりします。そこに神様を認めさせようとしない力が内側に働いてきます。これが「もろもろの支配と、権威、悪の霊」です。私たちの内に「どうしてこうなったのだろうか」「あいつがいけない」とか「こいつがいけない」と、言い募(つの)っているといいますか、憤っている自分がある。そのなかで御言葉はどのようにかかわっているのか。そのとき私の心はイエス様とどういう関係にあるのか? これを問うことが信仰の戦いです。私たちにとって大切なのはそこであります。問題解決とか、あるいは、目に見える状況を変えていくのは、これはどうにでもなる。いくらでも変わっていきます。しかし、その中で自分の心の状態、私たちの思いがどれほど神様の御言葉に結びついているのか。その御言葉に自分を懸けているのか。これが私たちの信仰の戦いなのです。だから、いろいろな問題にあたって「どうしてこんなになる。私はこんなひどい目に遭って」とか、「こんな不都合な扱いを受けて」とか、人を恨んでみたり、妬(ねた)んでみたり、非難してみたり、裁いたり、心が荒れ狂います。問題はそこなのです。それをどのように御言葉によって打ち勝っていくか。
イエス様がゲツセマネの園で祈られました。イエス様は明らかにご自分の使命、神の位を捨て人の世に遣わされて来たご目的が何であるかをご存じでありました。しかし、私たちと全く同じ肉体をとって人となり給うた御方、人の弱さを知り給う御方であります。肉体的に強いとか弱いではなくて、内なるものの弱さです。心の弱さを知り給うた御方であります。だから、ご自分が間もなく十字架の死を受けようとされたとき、大変に悩まれました。その時の戦いは人との戦いではないのです。ユダヤ人たちがこんなひどい目に私をしてしまったとか、あるいはローマの連中が訳も分からず捕えようとしている。あいつらが憎らしいやつだと、その憤りで悩んだのではなくて、これを神様からのものとして受け止められない自分の心がある。そこをイエス様は戦うのです。まさに悪の霊がイエス様を突き動かしていくのです。だから三度も繰り返し祈り続けます。というのは、その戦いに勝つには御言葉と祈りによるしかないからです。
その後にありますが、13節「それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」。その戦いに勝つには「神の武具を身につけ」、その後に「真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ15 平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい」とありますが、正直なところ、読んでもよく分からない。はっきりしているのは祈りと御言葉、御霊によって立つことに他なりません。学者はいろいろと上手に理屈を付けて、なるほど、そういう内容かと解説するでしょうが、それでは意味がありません。大切なのは神の武具として、御言葉と祈りと御霊によって戦うのです。その戦いは人との戦いではない。あの人がどうだとか、この人がどうだとか、状況がこうだとか、あれがこうだではなくて、実は「私」なのです。自分の内にある悪の霊、サタンの力に打ち勝っていく。不安に陥れてくる、何かささやいてくる力、そういうものに対して御言葉に立ち返って、主がそう言われるならと。イエス様はゲツセマネの最後の祈りに「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ26:39)と、神様にご自分を明け渡すことによって勝利を得る。私たちの戦いもそうです。いろいろな戦いがありますが、そこで「これは神様がご支配なさっていることですから、主よ、あなたに従います」と、神様の前にへりくだる。御言葉によって自分の思いを神様に全部つないでしまう。そうすると、私たちはその戦いに勝つのです。そこに至るまでは結構苦しい日が続きますが、どっちみち、そこに行かないことには自分の中にある悪の力に勝てないのです。
私もよくそのことを経験いたします。自分自身の健康のことだとか、いろいろなことでハラハラドキドキ。よくお話しますように、がんの宣告を受けてから、やはり一喜一憂といいますか、検査データの良し悪しによって浮いたり沈んだりします。よく家内からも笑われますが、「あなたは分かりやすいわね」と言われるのです。正直なところそのとおりであります。その中で常に「いま私はどこに立っているだろうか」「何を信じているだろうか」と問われます。常に揺れ動く自分の心に命を注いでくれる御言葉。これは先ほどの「ヨハネによる福音書」にある「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」、「わたしを食べ、わたしを飲まなければ命はない」との御言葉のように、イエス様を丸飲みにする。イエス様を自分の中に取り込んでしまう。そして、自分、己というものが聖言のなかに消え去っていく。そこにいたる戦いがあるのです。イエス様がゲツセマネの園で「みこころのままに」と完全に心が定まったとき、恐れは消えます。私たちの心は変わってしまいます。
マリヤさんもそうでしょう。御使いガブリエルから聞いたおとずれは決してうれしい話どころか、大変恥ずかしい、その当時としては不名誉極まりのない事態であります。そのとき、マリヤさんは「とんでもない。そんなことはあり得ません」と、まさにサタンとの戦いです。「いま神様が『よし』とおっしゃって、この事を起こしておられるのです」と言えない。いろいろなことが起こる。「どうしておれたちはこんなひどい目に遭って、自分ばかりがこんな目に遭わせられて、あいつがいけない。こいつが悪い」と、言い募っている間は心に平安がありません。喜びもなく感謝もできない。「何が感謝だ」と思っています。マリヤさんは「神にはなんでもできないことはありません」と言われたときに「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と、全面的に自分を神様の手に投げ出した。その途端、マリヤさんの心に喜びが湧いてくる。これが信仰の戦いです。私たちの喜びのない心を喜びに変えていただく。これは私たちの戦うべき戦いです。
「詩篇」108篇1節から4節までを朗読。
1節に「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました」と。心が定まることは勝利です。神様に対して「私は御言葉に立ちます。あなたがそうおっしゃってくださるのだったら、文句を言いません。何も言うことはありません」と、そこで神様に自分をささげきってしまうとき、心が定まるのです。「よし、これは神様のなさることだから引き受けましょう。これでよろしいです」と、自分自身がきちんと神様の前に心を定める。そうしますと、その後に「わたしは歌い、かつほめたたえます」とあるように、歌が、賛美が湧いてくるのです。主をほめたたえる者と変わります。しかも3節に「主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国の中であなたをほめたたえます」と。いうならば、神様を証詞する者となり、主をほめたたえ、感謝をもって聖名を崇めるようになるのです。自分の内なるものを常に神様に直結させる。自分の力では大変ですから、祈りつつ神様の力に満たされて、信仰の戦いを戦いましょう。悪の霊の働いてくるいちばんの戦いの場は、自分の心なのです。内なるものでありますから、それをしっかりと見据えて、心が定まるまで祈り、御言葉をしっかりと自分ものにしようではありませんか。
「テモテへの第一の手紙」6章12節に「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい」。これは私たちに勧められている最善の道であります。そのすぐ前に「義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい」とあります。これは自分の内側のことです。「義と信心と信仰と愛」というのは、他人様の問題ではありません。自分に神の義が全うされているか? 自分の中に信心があるか? 自分は信仰に立っているか? 自分は愛に満ちたものであるか? 自分は忍耐しているか? 自分は柔和なる者であるか? を絶えず問え、ということです。それが欠けているならば、それを追い求めて行きなさい。その時、必ず戦いが生ずる。それが12節の「信仰の戦い」なのです。
私たちは常に神様のご臨在と共に生きる者であること、主が語り給うたキリストの霊とそのいのちを自分のものとして、具体的に日々の生活を御言葉に従わせて行こうではありませんか。これが信仰の戦いであると同時に、この地上にあるかぎり戦い続けるべき私たちに与えられた大切な使命であります。このことを心に置いて、永遠の命を目指して日々歩もうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。