ヨブ記22章21節から30節までを朗読。
21節「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」。
これは素晴らしい恵みの約束だと思います。すべての人が例外なく「幸せになりたい」と願います。何とかして幸いな人生を送りたいと願っている人がすべてであろうと思います。「いや、私は不幸になりたい」という天邪鬼がおられたとしても、それは表面だけで、内心はやはり幸せになりたいという切なる願いがある。幸せになりたいために、多くの人々がどれほど苦労しているか分からない。
幸いになる一つの前提条件が平安であること、21節にあるように「平安を得る」ことです。「平安」という言葉は、安心と言い換えてもいいと思いますが。生活の中で平安でありたい、そして、なおかつ幸福であれば、こんな素晴しいことはないと、多くの人々はそう願いながら、なかなかそれを得ることができないでいる。人を見ると、あの人は経済的に恵まれて、あんな豊かな生活をして、余程幸せに違いない。そう言って、自分もそれに倣って幸せになるためにお金がなければと、一生懸命汗水たらして、つめに火をともすような生活をして蓄える。ところが、蓄えれば蓄えるほどインフレが進んで、一向に増えない。増えたのは数字だけで、現実は何一つ増えない、むしろ目減りする。自分の老後のためにと蓄えたに違いない。ところが、どうですか今は?それがあってもまだ心配、今度は自分はいつまで生きるだろうか、もしあと20年生きたら、蓄えは無くなってしまう。そんな心配がわいてくる。また、あの人のように生まれながらに才能豊かで、何をさせても成功する。商売をすれば成功をする、何かそういう業をさせるならば人よりも抜きん出ていて、コンクールというとすぐに優勝、あの人ばかりと。あんな人になったら余程幸せに違いない。それに引き換え自分を見ると、何をしても失敗だらけ、アホの見本のような自分だと思って嘆く。あのようにならなければ自分は幸せになれないと、幸せの条件を考える。幸福になるにはこうなりたい、ああなりたい。人を見ては「あの人のようになったら」「この人のようになったら」と思う。 “隣の芝生は青く見える”とよく言いますね。横目で見るからです。公園などに行って「芝生の広場があるからあそこへ行って座ろう」と。眺めると青々としている。あの木の下に座ろうと、行って上から見ると、芝生はまばらで砂利や石ころがごろごろしている。離れたところを見ると「あそこは砂も何もなさそう、緑一面や」と行ってみますか。するとやはり同じです。それは目線がずれるからです。短い芝生ですが、横から見ると全部が緑に見える。ところが近づいて真上から見ると、芝の葉は幅が狭く針のようになっているので、隙間だらけです。
人生もそうです。あの人のように、この人のようになったら幸せと思いますが、その人の立場に自分がなってみると、なんだ、こんなものかと思う。またよそを見る。「幸せ」をそういう形で追い求めているかぎり、私たちには幸せは来ない。かつてカール・ブッセという人が「山のあなたの空遠く 『幸』住むと人のいふ 噫(ああ)、われ人と尋(と)めゆきて……」と、自分は探しに行ってみた。しかし、そこには無かった。「涙さしぐみ かえりきぬ」と歌った詩があります。最近の若い人はこんな詩は読まないけれども、皆さんは若いころに読んだでしょう。上田敏という有名な翻訳家が訳したものです。それと同じで、いくら探しても……、「だからもうあきらめなさい」と。「あきらめなさい」と言われて、「はい、分かった。それではあきらめましょう」とは言えません。「幸せ」が何であるかを私たちが忘れている、あるいは取り違えている。私たちは幸せを求めつつ、実は違ったものを求めているのではないか。何が本当の幸せなのか。もう一度「幸せ」の定義といいますか、その内容をよくよく振り返って見なければならない。
それに対して、21節「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」と言われています。私たちに何か満たされない思い、不安があり、苛立(いらだ)つ思いがある。じっとしておられない。何かいつも迫られているような、かき立てられるような焦燥感がある。どうですか、そういうものを感じるときがありますね。「こんなことをしていていいのだろうか」「何とかしなければいけないのではないか」と言って、あれを、これをとやってみるが、どれもこれも、中途半端で満足がいかない。といって、何とかしようと思うけれどもできない。記憶力も薄らいできた、体力もなくなった、足腰も弱ってきた、耳も遠くなった、目もしょぼついてきた。といって、それで満足もできない。そうやって自分の今を嘆く。考えてみると、今まで私は何をしてきたのだろう。もうあと十年若ければ、あと20年、願わくは30年でも40年、とにかく昔に戻れないだろうかと、焦りのようなものが心を暗くしている。その原因は21節にある「神と和らいで」という一言です。
神様と和らぐ。「和らぐ」とは和解することです。神様と仲良くなる。では、私たちは神様といつけんかしたのか。人生を振り返って「いつ私は神様と喧嘩したことがあっただろうか。神様と問題を起こした過去があっただろうかと、振り返ってみてもこれといったものが見当たらない。「触らぬ神にたたりなし」で、私はほとんど触ったことはない。神様の『か』の字も知らないできた。それでいて「神様と和らげ」と言われても、和らぎようがない。いったいどうしてだろうと思いますね。ところが、実はそれが問題なのです。私たちは神様から造られたものでありながら、神様を認めようとしない、信じようとしない。またそのことを忘れて生きてきた。言うならば、神様なしで、人の力、自分の業で何とか頑張って努力してきた。だから、時にそう言われますが、「こうして神様の憐(あわ)れみと恵みによって今があるのではないでしょうか。『神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである』」(1コリント 15:10)と言いますと、非常にまじめな方は憤慨される。「先生は『神様』『神様』と言うけれども、これまで生きてきたのは私ですよ。私が努力して、一生懸命つらい中で苦しみながらも、逃げ出したいと思いながらも、宮仕えの身で会社勤めを何十年と続けて、文句も言わないで努力した結果が今ここにある。それを認めようとしないで、どうして『神様』『神様』と言われるのですか」と食って掛かられたことがあります。「だからあなたが努力してきた力は神様が与えてくださったものです。これまで健康でおられたのは、神様が憐れんでくださったからではないですか」「いや、そんなことはありません。私は健康のために酒もタバコもやめて、夜は早く寝て朝は早くと規則正しい生活をして、食事は腹八分にしてメタボリックにもならないように健康を管理してきた。その結果、今こうして健康でおられる。それなのにどうして神様なのだ。そんな今更神様がシャシャリ出て『わたしがしたよ』なんて言われても困る」と、そういう意味のことを言われて、私は「なかなか立派な方だな」と思う。
そういう人はイエス様の時代にもいたようです。イエス様の所へ一人の方が来まして、「先生、永遠の生命(せいめい)を得るためにはどんなよいことをしたらいいでしょうか」と尋ねた。イエス様は「それではまず律法を守りなさい」と。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え」と言った。するとその人は「それらの事はみな、小さい時から守っております」と。そのときにイエス様は大変慈しんでその人を見られたとあります。感心したのです。今申し上げたように、自分で努力して一生懸命に身を謹んで、人に後ろ指を指されないように、とがめだてされないように、いい人であろう、立派な人間になりたいと思って努力してきた人物だった。だからイエス様は大変感心されて、素晴らしい人、立派な人だと思ったのです。その上で「それでは永遠の生命を受ける秘訣(ひけつ)を教えてあげよう」と言って、「帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」と言われた。その人は「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」とあります。「顔を曇らせ」、そんなことはできないと。彼はそういう生活の条件、いろいろな日々の糧をたくさん持っていた。それを自分の力で、正当にきちんと神様の前に正しく、与えられたものだったのでしょう。そういう豊かな物を持っていた。イエス様は豊かな人だと言われた。彼はイエス様のそばから去った。イエス様について行かなければ永遠のいのちはない。ところが、永遠のいのちを求めながらとうとうイエス様について行くことができなかった。それと同じように、今でも私たちの周囲にもそういう人がいます。非常にまじめでどこを取っても非の打ち所がない。品行方正とまで言わなくても、まじめ一方の堅物で、一生懸命生きてきた。そういう人に「あなたの人生は間違っていました」と言っても、「そんなはずはない」と反論されます。
ところが、聖書には、すべてが神様から出た事、私たちは神様によって造られ、生きるものとされ、この地上に命を与えられたものである。神様が私たちを造ってくださった。神様によって私があることを認める。これが人のなすべき本分。伝道の書12章に「神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」(13節)とあります。神様を恐れて、大切にし、神様を信じていく。神様と共に生きること、これが私たちの、本来の人として大切な条件、本分です。これがなかったら、人間とは言えない。神様を恐れることがなければ、平安を得ることができない。と言うのは、私たちが造り主である神様から離れているがゆえに、神様を認めようとしないがゆえに、いつも寂しく、不安だからです。神様を信頼できないがゆえに、いつも焦りがあるのです。これが本当の諸悪の根源、すべてのものの根本がそこにあります。ところが、目に見えないし、耳に聞こえないし、手で触ることもできない、どこにいらっしゃるか分からない神様をどうして信じることができるかと言います。確かに目に見えないし、耳に聞こえないし、手で触ることもできない神様です。しかし、神様は確かに存在している。なぜならば、実は、安心がない、平安でない、喜べない原因が、神様から離れているところにあるからです。
小さなお子さんは親と一緒にいるとき、いつも安心です。ところが、親から少しでも離れていると心配になる。教会でも小さいお子さんがたくさんいます。お母さんやお父さんが礼拝を守っている間、子供は階下で遊んでいる。ところが、必ず10分か15分すると見に来ます。会堂の扉を開けて中を見る。親がいることを知ったらまた降りて行く。また戻って来ますね。何度も行ったり来たりします。本人は遊びに夢中になっていても、独りでいるとフッと不安がくる。それで慌てて遊びを中断して会堂に入って来る。そして親を探します。そして親がそこにいることを見ると、安心して降りて行くのです。これは神様と私たちの関係です。本来、私たちは神様と共に生きるべき者だったが、神様から切り離されて、独りでこの世の中に生きていかなければならない。これはつらいと思います。自分独りで背負っていかなければならない。ところが、世間では周囲に人がいます。奥さんや主人、子供たちがいます、家族がいます。あるいはおじいちゃん、おばあちゃんとか、先祖だとか、そういう人間的なつながり、人のつながりの中で生きているから、神様から離れたための不安を紛らわすことができる。寂しさ、孤独感、そういうものを埋めてくれる神様がなくても、取りあえず目の前に人がいる。あの人がいる、この人がいる。それによって安心を得ようとするのです。
ところが、それは本当の「幸い」ではありません。いくら人がそばにいても、心のいちばん奥底まで人は届くことができません。夫婦であっても、親子であっても、生まれたときから何十年と一緒に生活をしていても、相手の心の中を見ることはできません。夫婦でもそうです。相手が今どういう感じを持っているか、どういう思いで今過ごしているか、これは分からない。だから、自分自身いつも孤独だなと思います。みんな一人一人孤独です。独りです。それがはっきりしてくるのはこの地上の生涯が終わろうとするとき、死に直面するときです。相手がどんな思いでいるかは、そばにいる私たちには分からない。病気のときでもそうです。
若いころは、「愛があれば」なんていう幻想を抱くが、すぐにつぶれます。「愛があれば相手のことは分かる」と思いますが、分からない。結婚してしばらくして、家内が「おなかが痛い」と言う。「ああ、そう。どのくらいの痛さ?」、いろいろと聞くけれども、伝わらない。こちらはおなかがすいていますから食べる。すると「あなたは愛がない」と言う。「人が苦しんでいるのにそばで食べる」と。「そうだな」とは思いながら、そっちはそっちで苦しんでくれ……と言うしかない。だから、人に同情を求めるといっても、これはどうにもつながらない。分からない。自分自身が苦しいとき、熱を出してうなっているとき、家内は平気で鼻歌を歌って台所仕事をしている。「こんなに苦しんでいるのに何で歌えるかな」と思うが、これはやむをえない。普段はそのような家族愛とか、あるいは友情だとか、何とかと言いながらつながっていますから、それを隠している、それを見ようとしないで過ぎていきます。
ところが、現実は厳しいです。覆っていたものを全部はぎ取っていきますよ、次から次へと。子供たちは成人となって離れます。こちらは年を取ってしまう。ある方が言いました。高齢の両親がいるけれども、「年取った両親よりは、先生、本音を言うと孫のほうが可愛いですわ」と。そして孫の所にはせっせと行くけれども、年取った両親は老人ホームに入れっぱなしで何ヶ月に一度しか行かない。「時には行ってあげたら」と言うと、「まぁ、行ってもいいのですが、愚痴ばかり聞かされて……」。「今日はどこに行くの」「いや、ちょっと孫に会いに」と、ニコッとして、私は「やがてあなたも孫からそう言われますよ」と言ってやります。それはそれでいいとは思うのです。私たちは結局のところそうなのですね。いくら子供がいるからと思っても、子供もやがて結婚し、家庭を持ち、子供を育てて忙しくなる。そのときになって、こちらは年をとって寝たきりになったり、体が不自由になって、助けてくれるかと言うと、くれません。それは当然のことで、期待する方が間違いです。では誰が助けてくれるのか。神様です。神様と私とはどういう関係にあるのか、これをきちっと整えていなければ安心にならない。
21節「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい」。神様と和らぐこと、もう一度神様の前に立ち返る。実は、神様を離れて人を頼み、家族を頼み、夫や奥さんを大切にして、この人がいさえすれば私は安心だなんて、それは安心ではありません。それは実はもろく、はかないものです。私たちが立ち返るべき方は万物の創造者でいらっしゃる神様です。
イザヤ書55章6,7節を朗読。
6節に「主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と言われています。今私たちが神様を求めることができる健康が与えられ、時間が与えられている、あるいは体力がある。今このとき、いつでも神様に近づくことができる。そう言われています。そして7節に「主に帰れ」、あるいは「神に帰れ」と呼び掛けられています。といっても、お付き合いのなかった神様にどうやって帰るか?帰るにも、どうすればいいかわからない。人に対してもそういうことってありますね。疎遠であると、誰かが口をきいてくれたら、切っ掛けを作ってくれたら、と思います。実は、私たちが造られた初めから今に至るまで、神様は「わたしが神であるよ。わたしに帰ってきなさい」と、絶えず御声を掛けてくださっています。ところが、私たちはそういうことを知らないで、自分の幸せをと思いながら、的外れと言いますか、そうでないものを一生懸命に求めておった。私たちがもう一度主に帰ることができるようにと、今こうして神様を信じる者へと導き返していただいた。これは神様の一方的な憐れみです。神様が私たちをいろいろなこと、また人を通してどうにもならない自分であることを教えてくださった。神様を求める者へと変えてくださったのは、神様の一方的な憐れみとご計画です。だから、7節に「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ」と。「悪しき者」「正しからぬ人」と言われている。「え!自分はそんな悪い人間だろうか」と思いますが、まさに悪い人間なのです。神様を、造り主を恐れない、信じないという重大な罪を犯した私たち。その結果人を頼みとし、自分を誇りとし、世の様々なものを神として、これがあれば、これが私の頼みだと、神ならぬものを神としていました。そういう私たちに神様は絶えず「神に帰れ」、「主に帰れ」と呼びかけてくださる。では私たちはどんな顔をして神様の所へ帰れるだろうか。しかし、そういう私たちの思いを全部神様はご存じで、尊いひとり子、イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった。人類すべての人々が神様に帰ることができるように、その一切の罪を、神様に払うべき代価を、私たちが受けなければならない呪いと刑罰を、イエス様が負うてくださったのです。そして「わたしはあなたの罪を赦した」と宣言してくださっている。罪が赦された者であることを知ること、これが今私たちが、神様に帰るただ一つの道です。7節にあるように「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される」と、神様は憐れんでくださる方だよ、と言われています。神様は私たちをとがめることをしない、罰することをしないと言われる。その呪いと刑罰は既にあの十字架に釘づけられ、イエス様がすべてを負うてくださった。砕かれてくださった。それによって、主は私たちを赦したと宣言してくださる。では、私たちは何をすべきか?「悪しき者」「正しからぬ人」は「その道を捨て」「思いを捨て」とあります。そのことを認めて、私どもが悔い改めて、「私のようなこんな者が赦されて今日もあるのですね」と認めることです。赦されない者、滅んで当然である者のために、イエス様は命を捨ててくださった。そればかりでなく、よみがえって今日も父なる神の右に座してくださって、「彼らを赦し給え」「この者を赦してください」と、私たち一人一人のために執り成してくださる。赦されて憐れみにあずかっている。そうであれば、何を思い煩うことがあるでしょうか。
この先に「われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」。神に帰ることが先決であります。神様に「どうぞ、こんな者ですけれども、主よ、あなたが『赦した』とおっしゃってくださいますから、ありがとうございます」と、主の赦しを私たちが認めようではありませんか。私のために、ひとり子であるイエス様が世に下って、十字架の苦しみの極限を味わい、罪をあがなってくださったのですから。
詩篇32篇1節から4節までを朗読。
ここに「そのとががゆるされ、その罪がおおい消され」、「不義を負わされずその霊に偽りのない人はさいわいである」とあります。幸せな人とは、お金がある人でも、才能豊かな人でも、高学歴の人でもありません。子供たちに恵まれ、健康に恵まれている人が幸いというのでもありません。「幸いな人」とは、「私は今日も神様によって罪を赦された人間です」と、喜ぶことのできる人です。というのは、そうでないかぎり、3節にあるように「わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた」と言うしかない。「罪を言いあらわさなかった時」、言うならば「そうでした。神様、あなたをないがしろにし、軽んじて、あなたを忘れて勝手なことばかりをしていた私です」と認めないかぎり、私たちの心に安心がありません。ここに「ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた」。何一つよいことがない、というのは、私たちが神様の怒りの手の下に絶えずいることになるからです。4節に「あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである」。私たちが神様に罪を犯した状態であるかぎり、神様の怒りの手が絶えず私たちの頭の上にあって、私たちが何をしても幸いを見出すことができない。世の人がうらやむような金殿玉楼の中に住もうと、どんなに幸いと言われる条件に満たされていても、神様の怒りの手が絶えず上にとどまっているかぎり、心に安心がない、喜べない、感謝ができない、うれしくない。本来、私たちはそういう自分なのです。人の幸せを見てうらやむ。自分が何かできたら有頂天になって自分を誇りとする。できなかったら落ち込んで「死んでやるか」と、偉そうなことを言う。実に高慢不遜(ふそん)な私たちではないでしょうか。そういう自分の姿をよくよく見ていただきたい。そういう者を今日も「赦した」と言われる。
私はこのことを知ったとき、心から感謝したことを忘れることができません。それまで自分は正しい人間、どこにも非難されるところはないと思っていた。自分は神様を信じて、大切にしてきた。ところが、イエス様が私の罪のために死んでくださったことが信じられなかった。それどころか「イエス様が死んだのはほかの人のためであって、私はもう立派な人間だ」と思っていた。では幸せだったかと言うと、そうではない。いつも不満で、心にいつも苛立つことがあり、納得できない思い。あいつがいけない、こいつが悪い。こういう社会だから、こういう政治、こういう人間がいるから人は不幸だ、そう言って怒りの塊、まるでハリネズミのようになっていた自分。そういう自分は立派な人間だと誇っていた。ところが、よくよく考えてみると、自分がいちばん寂しいのです。心寂しい孤独なのです。自分自身がそのことに気づいたとき、それは厳しいことでした。聖書を読んでいたとき、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と、イエス様の十字架の言葉を通して「赦されなければならないのは、他人ではなくて実は私なのだ。私こそがイエス様を『十字架につけよ』と叫んでいる。その私のために今日も主は『父よ、彼らを赦し給へ』と、主が執り成して下さって、自分はただ赦されて生かされたのだ」と知りました。それを今まで知らなかった。自分は正しい、何一つそんな罪を犯したことがないと、偉そうに思い上がっていた。どうぞ、今日、主が「あなたの罪を赦したよ」と、「子よ、心安かれ、汝の罪赦されたり」と、私たちの罪を赦して、憐れみを注いでくださっている。神様が与えてくださる一方的な赦しを受けていることを覚え、「主よ、こんな私を赦してくださる、あなたが私のお父さんです。あなたは私の造り主です、主です」と心から信頼したいと思います。
ヨブ記22章21節「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」。今申し上げたように、主は私たちを、命を懸けて愛して、赦してくださった。赦された自分であることを感謝して受けるとき、私たちの心は全くの平安、安心を得、光が差してきます。私たちをして、望みを与え、感謝する、喜ぶ者と変えてくださり、「幸せ」がやってきます。これは確かです。21節「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」。幸福が向こうからやってくるというのですから、こんな幸いなことはありません。そのあとに「どうか、彼の口から教を受け、その言葉をあなたの心におさめるように」。私たちのために命を捨てて、刑罰の呪いを受けてくださった主はよみがえって、私たちに言葉を与えてくださる。「このものから聞け」と言われる。この方の、神様の御声を聞き、御心を行うことができる。「その言葉をあなたの心におさめるように」と。素直になって「これは主のお言葉ですから」と、心から信じて、主の言葉を握って生きる者となりたい。何があっても「私には神様がついていらっしゃる。神様が限りないご愛をもって支えてくださっている。赦されて今日も生きている者です」と、いつも感謝し喜ぼうではありませんか。どんな問題や事柄の中に置かれても、そんなものが私たちを罪に定めることはできない。
ローマ人への手紙8章33節から35節までを朗読。
33節「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか」。「神の選ばれた者たち」、私たちです。神様から選ばれ、神様の赦しにあずかった私たちをとがめるものも罪に定めるものもありません。もしなお、私たちに「お前はそんなので大丈夫か」「そんなことをしていていいのか」というような神様を疑わせる、疑いの思いを起こしてくるものがあります。サタンが働くのです。それはサタンの力です。それに負けて、「そうか。じゃやっぱり私は赦されてない。私はこんなところがある、こんな性格があるし、あの人のことも、この人のことも、もう腹がたって仕方がない。こんな私だからまだ駄目か」と思わせるのはサタンのわざです。神様はそういう私たちをご存じで、「生きよ」と、赦されて「主にあって生きなさい」と変えてくださっている。それを忘れてはならない。たとえどんな問題や事柄が私たちの人生に起こってきても、だからといって神様の愛を疑うことはできない。34節「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し」、今、イエス様は私たちのために死んでよみがえって、そればかりでなく神の右に座してくださって、私たちのために絶えず執り成してくださる。自分がどんなに罪深い者であるかは重々分かっています。と同時に、そういう私たちを今日も赦してくださる主がいらっしゃる。赦された私であることを認めてください。いつまでも「これじゃ足らない」「まだ足らない」「まだこんなんじゃ駄目」と言って信じようとしない方がいます。「もう主が赦してくださったのだから、安心していきましょうね」と「えぇ、まぁ、それはそうなのでしょうが、まだですね」と言われる。「まだですね」と、誰が言わせているのか。それはサタンです。私たちは自分の力ではどうにもならない自分です。そういう私たちを知り尽くした上で、主が「あなたを赦した」とおっしゃる。執り成してくださる。
35節「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」。どんなことが起こっても、イエス様が私を愛してくださった確固たる場所から決して動いてはならない。確かに、人生にはいろいろな問題があり、思いも掛けないこと、考えもしないことが起こってきます。そのたびに、揺さぶられます。「神様は私を愛してくださった、赦してくださった、生かしていただいているのに神様はいったいどこにいるのかしら」、とつい思うような現実がありますが、たとえどんな中に置かれても、キリストの愛、神の愛は私たちから決して離れない。滅びて当然であった者、失われて当然であった私たちを、今日も神様は「お前を赦した」とおっしゃってくださる。「わが愛に居れ」「わたしの愛のうちにいなさい」と言われます。私たちは感謝し、喜んで、もろ手を上げて、「主よ、有難い。こんなわたしを今日も生きる者としてくださった。主よ、ありがとうございます」と、主と和らいで、神と共に生きる者でありたいと思います。
ヨブ記22章21節「あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」。「幸福があなたに来る」、神と絶えず和らいで、赦しを受けて感謝し、赦された者であることを誇りとして生きたい。「十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」(ガラテヤ 6:14)とあるでしょう。私たちの誇るべきは十字架。言うならば主の赦しです。「主が私を赦してくださったのですから、誰もわたしを罪に定める、非難することはできません」とはっきりサタンに向かって十字架を掲げて、主の赦しを感謝して、神と共に生きる。神様は幸せを与えてくださる。幸いを得て、天国の恵みを受けたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。