いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(383)「“今”という恵み」

2014年11月15日 | 聖書からのメッセージ
 「コリント人への第二の手紙」6章1、2節を朗読。

 2節「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。

 「恵みである」とか「救いである」と言われると、明るい希望が与られます。普段の生活で乏しい思いをしていますから、「恵みの時」と言われると、素晴らしい宝くじにでも当たったようなことを思いやすい。しかし「今は」とあります。「今という時が恵みの時だ」と言われると、ハタと考えてしまいます。あるいは「今は救いの日」と言われても、思い煩うこと、不安なこと、恐れること、心配なことがいろいろありますから、本当にそうだろうかと疑います。私たちは経済的な悩みや、人間関係の悩み、自分自身の人生の悩みから、救ってくれるものはないかと、いつも渇いて求めています。「今この時が恵みの時、救いの日だ」と言われる。果たして、今、本当に「私にとって恵みの時であり、救いの日に当たっている」と感謝しているでしょうか。「今はちょっと……」と「明日ならば」、また「来年ならば」「もうちょっと先ならば」「あれがこうなって、これがこうなって、事情境遇が変化したら救われるのだ。そうなったら恵みだ」、「感謝ができるのだが」と思っていることのほうが多いのではないでしょうか。今という時を振り返ると、「今は最悪、私の人生でいちばん悪い時だ」と思う。人とはそういうもので、過去もそんなに良かったはずはないが、少々年齢を重ねると、過去がバラ色に見え始める時期です。いい青春であったとか、中年の頃、壮年時代、忙しくはあったが本当に充実しておったと。何もかも過去がよく見えてくる。それに引き換え「今は?」と言われると、ガクッときて「今は人生の最悪、こんな日は早く過ぎてほしい」と思ってしまう。

しかし、私たちに与えられている時間は、どう考えても、「今」しかないのです。いくら過去がどんなに良かったとしても、そこへ戻って行くことは絶対にできません。色あせた写真を眺めて「私もこんな時があった」と言いますが、そんなのは過去であり、過ぎ去って無いのですから、そんなところに思いを向けて、「今」を忘れようとしても仕方がありません。私たちに許されている時間はどうしても「今」の時しかない。よく申し上げますように、私たちは常に二つの種類の時間の中に生きています。毎日繰り返されている時間。朝の8時とか、あるいは10時という時間は昨日もありましたし、今日もあります、また明日もあります。いわゆる24時間で、最近はデジタルですから針がありませんが、時計の針が回っていく。そうするとまた元へ戻ってくる。こういう時間の中に普段は生活しています。だから、時計を見ていると24時間過ぎた、また明日24時間ある、また明後日とあります。そういう繰り返されている時間の中に生きながら、もう一つは二度と帰ってこない時間で、この二つの時間の中に生きているのです。普段なじんでいる「時」は、繰り返されている「時」ですから、「今は失敗した。また明日があるさ」というように、また来るに違いない。明日の朝になれば、と思いながら、私たちは日々を過ごしている。ところが、普段は気がつかない、二度と帰ってこない時間、この時間の中で生きていること。そこに目を留めなければ大切なことが失われます。毎日繰り返される、朝になったら食事をし、昼があり、また夕方になったら……、と一日のリズムで回って行く。その時間にばかり気を取られて「明日何をしようか、こうしようか、ああしようか」「今日はこれができなかったから、明日しよう」とか、また「来週はこうしよう」とか、いろいろな計画、スケジュールの中で生きていますが、実は、いちばん大切なのは、二度と帰ってこない時間の中に生きている自分。その時間はどんどん過ぎて行って二度と繰り返されない、戻ってこない。私たちに与えられている時間は、今というこの時しかないのです。「明日があるさ」と、なにかの歌にありましたが、「明日」は無いのです。だから「ヤコブ書」にありますが、「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ」と(4:14)。明日があるのかどうか、あなた方は分からないじゃないか。本当にそのとおりであります。そのことを真剣に考えたら、私たちはこんなにのんびりしておられません。どこかに繰り返される時間を考えていますから、「まぁ、いいや。今日は木曜会に行かなくても、来週があるさ」となります。しかし、来週はないのです。そのように考えてみたら、非常にきわどい時間の中に真剣勝負で生きているはずですが、幸か不幸かそれに気がつかないのです。「また明日がある」「また来週がある」「来月すればいい」という思いで、今という時を取り逃がしている。しかし、明日あるかどうかわからない。それを真剣に考え始めたら、「今」がどんなに貴重な時であるかと考えざるを得ません。そうは思わないからのんきにしていますが、今夜にでも神様が「人の子よ、帰れ」と私たちを引き上げなさったら、もう終るのです。

 この時期になると毎日のように「新年欠礼」のはがきを頂きます。昨日も思いがけない方からはがきを頂きました。見ると「家内が今年召されまして……」と書いてある。65歳、65歳って私よりも若い、ということは、私も死んでいていいはずなのか、と思ったら、ちょっとしゅんとなりました。水を掛けられた思いがしました。ここは真剣に「今」という時を生きなければいけないと。自分よりも年上の人の死を聞くと、「まぁ、年か」と思う。ところが、自分よりも若い人の訃報を聞くと、「え!私は取り残されたのかな」と思ったりしますが、それはまた、幸いなことに、「お前は本当に生きているのか」と問われる一通のはがきです。ですから、この時期は、ドキッとして自分の生き様を考えざるを得ません。それと同時に年も暮れ始めますから、人生の日暮れを思わされて、晴れやかになる時期でないことは確かです。だからといって、放っておくわけにはいきません。

 2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。ここで言われていることは「今という時間」、これが恵みの時であり、救いの日、これ以外にないということです。昨日も去年も、10年前とも違う。要するに過去はないのであります。今、私たちが与えられている時間、私たちが生きる時間は「今」しかないのです。そして、明日とか来年とか、来月という先のことは分からない。未定であり、あるかないか何の保障もありません。だから、私たちは今という時をまず真剣に生きる、あるいは、今という時をしっかり自覚しておく。これは私たちが日々生きるうえで大切なことです。

今はどういう時かというと、「恵みの時、救いの日だ」というわけです。恵みだ、救いだ、と言われると、別に悪い日ではないように思われます。また「恵みの時、救いの日、素晴らしい日ですよ」と言われと、自分の今を見ると素晴らしいとは思えない。「どうして、今が救いだ、恵みだ」と思ってしまう。しかし、ここで大切なのは、今が恵みの時、救いの日であるのは、悩みがないとか、心配が取り除かれたとか、思いがけないプレゼントをもらったとか、いい思いをしたとか、楽しい旅行に出かけたとか、そういう意味での恵み、救いといいますか、具体的な生活が、今こう変わって救いの日だ、恵みの時だ、というのではありません。ここに言われているのは、そのすぐ前のかっこで囲まれた言葉、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」からです。今、恵みの時、救いの日だ、と言われている理由は、神様が私たちの祈りを聞き入れてくださる時だから、また、神様が助けてくださる時だからです。神様が今あなたの祈りを聞き、救いを成し遂げてくださるのですから、それが恵みの時、救いの日、素晴らしい時ではないか。確かにそうだと思います。目に見える賜物、あるいは何かプレゼントとか、ご褒美であるとか、いい思いをする、自分の願いがかなう、思いどおりに事が進むのが恵みだ、救いだと思いやすい。しかし、そうではなくて、そういう結果としての恵みではなくて、それらの全てをいつでも与えてくださる神様が、今、私のそば近くにいてくださる。そして、私たちの祈りに耳を傾け、それを聞き届けて、実現に至らせてくださる。今、神様は具体的な悩みや悲しみや苦しみや、不安、恐れ、どんなことからでも、私たちを救い出してくださる。全能の力を持つ、オールマイティーな御方がそばにいてくださって、救ってくださる、祈りを聞いてくださる、願いを聞き入れてくださるから、恵みであり、救いなのです。霊感賦に「めぐみならで 主御自身を 賜物ならで あたえぬし」(16番)という賛美がありますが、結果としてのプレゼント、形としての恵みであったり賜物であったり、目に見える事情や境遇が思いどおり、願いどおりに良くなることばかりを求めますが、それはどんなにでも変わって行きます。今良くても次に悪くなるに違いない。しかし、それらのものをご支配してくださる、自由に与えることができる、与え主でいらっしゃる、恵みの根源でいらっしゃる神様が、私たちの側(がわ)に立ってくださる。私たちを持ち運んでくださる、ここに私たちの恵み、救いがあるのです。本来だったら、神様と到底仲良くなれない、神様に求めることすらできなかった、罪ととがとに死んでいた者であります。

「エペソ人への手紙」2章11節から13節までを朗読。

11節に「あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって」、私たちはそもそも神様の選びの民、イスラエルとは縁のなかった異邦人、全く神様を知らない民でありました。「手で行った肉の割礼ある者と称(しょう)せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており」、私たちはそういうイスラエルの民としての資格も値打もなかった、という意味です。「肉の割礼」、すなわち、目に見える条件、神の民にふさわしい資格、その資質といいますか、目に見える条件は何一つ私たちにはなかった。また12節に「またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく」と。聖書とも縁のなかった者であります。私たちは滅びの道に定められていた者であります。続けて「この世の中で希望もなく神もない者」、希望も神もない者であった。しかし、今はどういう関係か、13節に「ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていた」、神様から遠く隔たった、離れていた者が「今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって」、イエス様の十字架のあがないによって、神様と近い者になった。

同じく、「エペソ人への手紙」2章14節から16節までを朗読。

これは素晴らしい恵みです。かつては、神様と敵対していた、神様から滅ぼされるべきはずの私たちを、イエス様の十字架によって「敵意という隔ての中垣」、神様と私たちとを遠ざけていた敵意、いうならば、罪を一切取り除いてくださった。そして「二つのものをひとりの新しい人に造りかえる」。一つの人にしてくださった。言い換えると、キリストと私たちを結び合わせてくださった。神様と共におることができる者に造り替えてくださった。16節に「十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ」、私たちをキリストと共に十字架に付けられた者として、よみがえり給うたキリストと共に生きる。「神と和解させ」とあるように、和らぐ者としてくださった。「敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまった」。いま私たちは、神様の前に何のとがめられる所のない、神の子供として「憚(はばか)らずして惠の御座に來(きた)るべし」(ヘブル4:16文語訳)と勧められているのです。これが恵みです、これが救いです。これがあれば、たとえいま目の前にお金がなくても、健康がなくても、何がなくても、全てのものを与えることがおできになる、供給することができる御方、神様が私たちの味方となってくださる。私たちの側に立ってくださる。私たちは遠慮なく、その御方に求めることができる。これは、何とも素晴らしい恵みではありませんか。私たちは形のある一つのプレゼントをもらって、それで「はい、おしまい」ではないのです。与え主であり、供給者、根源でいらっしゃる御方をいま私たちは頂いているわけです。だから、今こそ栄光の富に満ちあふれている神様に求めさえすればいいのです。その方が力を発動して、私たちを悩みから困難から、どんなことからでも救いだすことができるのは、「今」です。神様の救いは来年になったら効き始めるとか、効力は後3カ月後から始まりますとか、そんな話ではない。「今」なのです。だから、恵みの時であり、救いの日です。だから、私たちは今何をするのか、真剣に主を求めて、主の力を私たちが頂いて行くこと。そうすれば、パウロが言っているように「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ 4:13)のです。私はいま何もなくても、神様はどんなことでもおできになる。だから、お金がなくても何がなくても、今は恵みの時、私には恵みがある。何か? 神様が必要なものを、天からいくらでも私たちを満たすことがおできになる。この神様を呼び求めることができる。その祈りを、願いを聞くとおっしゃっている、そのときは「今」です。

 「コリント人への第二の手紙」6章2節に、「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』」と。だから、ここに「聞きいれ」「あなたを助けた」と、過去形で語られています。もう助けたのですから、求めなさいということです。ただこれだけです。神様のほうは万事万端用意ができていて、いつでも私たちが求めさえすれば与えてくださるのです。ここが神様の恵みにあずかる大切なこと、それは「黙っていても神様は私の欲しい物は分かっとるだろう」と、それは通じません。そうでなくて、求める者に与えてくださる。だから、「神様、こうですから、ああですから……」と、私どもは逐一(ちくいち)神様に願い求めて行こうではありませんか。それに今、今日答えてくださる。主が満たしてくださるからです。

 「ホセア書」10章11、12節を朗読。

 12節に「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる」とあります。ここに「今は主を求むべき時である」とはっきりと語られています。いま私たちは何をするか?「主を求むべき時」。先ほどのコリント人への手紙にありましたように、「恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。これが神様の言われることです。だから「今は主を求むべき時」。神様の救いを、神様の恵みを求めてみなさいということに他(ほか)なりません。殊に、この12節に「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ」と言われています。この「正義をまき、いつくしみの実を刈り取る」というのは、どういうことか?私たちが神様を求めて、神様の義を信頼していくことです。神様は公平な御方、「正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」(Ⅰペテロ 2:23)と語られています。私たちが神様を求める今の時、主を求めるにあたって義を求めていく。神様の義に私たちが重なって行くこと、一つとなることです。それは取りも直さず、己の義を捨てることです。自分の義を捨てて、神様の正しさに身を委ねていくこと。これがいま私たちの主を求める生き方であります。神様が私たちの義となってくださる。だから、私たちの生活、恐らく自分の日常生活を振り返ってつらつら考えると、何が問題かというと、自分の義の問題です。己の義というもの、私が正しい、私は間違いがない、私はこうしているのに、という、自分を守ろうとする、自分の命を惜しみ、自分のメンツやあるいは、自分の立場や、自分の何かを弁護しようとする所に全ての問題の根があるのです。事柄の表面だけを見ますと、いろいろ違いがあるように見えますが、いよいよ深く探って行くと、結局行き着く所はそこに来るのです。いうならば、いつまでも自分の義にしがみついている。今度は、「自分のために正義をまく」、言い換えると、神の義を信じてそこに自分の義を捨てて行くことです。神様はご存じです、神様は公平に裁かれる御方です、神様は正しく報い給う御方ですと。そうしますと、私たちの今という時が非常に広やかで緩(ゆる)やかな、心にゆったりと余裕ができるのです。私たちが余裕のない、きちきちっとした堅苦しい、肩が凝(こ)るような日々を送るのは、自分の義を求め続けるからです。だから、そこで神の義を求めること、「自分のために正義をまく」。神の義に自分を委ねていく。このことを努めるのです。

そして「いつくしみの実を刈り取る」。もう一つ、私たちの人生の大きな問題点は、今の申し上げた義の問題と、愛の問題です。この二つが解決されれば、私たちの人生の問題は消えます。ここに「いつくしみの実」とありますが、慈愛とは、神様の御愛を自分のものとしていくことであります。「いつくしみの実を刈り取る」。イエス様が私のために命を捨て、十字架に神様の呪いを受け、裁きを受けてくださった。そのことを知っています。神様はひとり子を賜うほどにこの世を愛してくださった、私を愛してくださったことを知っています。知っているから、私たちはその実を刈り取ったかというと、それは違います。問題はここです。神様の御愛を知ってはいるけれども、その実を刈り取ることがない。神様の愛を知りながら、それに応えることがない。そこが欠けるのです。

「ヨハネの第一の手紙」3章16節を朗読。

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」。確かにイエス様が十字架におかかりになって、「こんな私のために命を捨ててくださった。有難い、感謝です。有難う」と、ここまでは誰でも分かるのです。ところが「いつくしみの実を刈り取る」とは、神様の御愛を自分のものとする。そのためにはその次の言葉が必要です。「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」と。私たちが「神様がこんな者を愛してくださって、ひとり子を賜うほどの大きな御愛を私に与えてくださった。本当に私は愛されています」と知っている。次にもう一つ、そうであれば、同じように私たちもその友のために命を捨てる。主の御愛に感じて実際に私たちが命を捨てる具体的な歩みに踏み出したときに、神様の御愛の実を刈り取る。それまでは神様の御愛を知っているだけなのです。これはいろいろなことでもそういうことが言えるのです。よく“子を持って知る親の恩„ と言うでしょう。子供の時、親からどんなに愛されたか、どんなにいろいろなことをしてもらったかということを忘れています。

先だってあるアメリカの歌を聞いていたのですが、それはこういう歌詞です。あるときお母さんが台所で炊事をしていた。すると小さな息子がやって来た。そして、「お母さん、この紙を見て」と言って紙を出した。それでお母さんがその紙を見たら「僕がお母さんに貸しているお金。庭の芝刈り50セント、朝の水やり1ドル。何をして何ドル、全部で14ドル25セント」と、一覧表にしてある。お母さんがそれを見て、その紙をひっくり返して裏に書いた。「あなたが、おなかにいた時10ヶ月抱えていた、これは無料。あなたが病気で熱を出したとき一晩寝ないで看病した、これもタダ、おもちゃに食事、着物全部タダ」。ズーッと書いて、その子に見せた。その子はそれを受け取ってジッと見ていて、目から涙を流して「お母さん、ぼく心からを愛しているよ」と、その言葉を聞いたときに、お母さんはその紙の最後に「あなたのその言葉で全て支払われました」と書いた。そういう歌があり、私はそれを聞きながら思いましたが、自分の受けたことを忘れているのです。それを本当に知るには自分がそれをやってみた時です。だから、神様の御愛も、「自分は愛されている」と思うだけではまだ子供です。大人になって結婚して子供を育てて、大変な中を通ってみて、「自分もこうやって育てられたのだ」と分かる。そのように愛を知るとはそこなのです。だから、私たちは神様の御愛を知っているか? というと、まだまだ、知らない。もっと、もっと深く……、そのためには私たちはここにありますように、「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。私たちもキリストと同じように、自分に対して悪を行う者に命を捨てて、そこまでして初めてイエス様の御愛に幾分なりとも共有できる。その結果を刈り取ることができるのです。

ホセア書10章12節に、「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り」と、いつくしみの実を刈り取るのです。私たちは神様の御愛にしっかり応答して、いつくしみの実を刈り取っていく。「あなたがたの新田を耕せ」、新田というのは、新しい田んぼ、畑のことです。いわゆる開墾(かいこん)をすることです。先祖伝来受け継いだ田畑、ここは耕されてしっかりといい畑になっていますから、すぐにでも作物を植えたら収穫を得られます。しかし、荒野といいますか、原野を開墾して、作物を植え、収穫を得るまでの労苦というのは、大変なことであります。しかし、それをしないことには自分の収穫を増やすことはできません。今まで自分が耕してきたその枠の中だけで生活しているかぎり、少しも増えない。ところが、それをもう一つ荒野を耕していく。これは私たちにとって苦労の多いこと、大変なことに違いない。しかし、そこに神様の恵みを更にもっと大きく獲得していく、チャレンジといいますか、領域があるのです。だからここで「あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である」。そうやって新しい所を耕していくとき、自分に力のないことが分かります。知恵もない、「こんなことはできない」と思いやすい。いま私たちは「別に私のうちは農家やないし、新田は耕さんでいい」と思っているかもしれませんが、そうではない。私どもの日々の生活、慣れ親しんできたところで生きています。それで「新しいことはもういい。もうこの年で後は死ぬのを待つだけ。だからもう何も新しいことはしたくない。言いたくない。行きたくない」と思っている。新田を耕せとは、そういう自分の殻を打ち破って、神様に期待していく。神様が私たちをこの世に置いてくださる命のかぎり「新田を耕せ」とおっしゃるのです。いろいろな新しいことが起こってくる、それを逃げないで、尻込みしないで「今は主を求むべき時である」。なぜならば「恵みの時、救いの日」、神様が祈りに応えてくださる、救ってくださる御方が今そばにいてくださる。だから、その御方に呼び求める。これはすごいことです。平和に召されるときまで静かにひっそりと、なんて思ったら駄目です。これからどういう事が起こってくるか分からない。そこで「今は主を求むべき時である」。その後に「主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる」。神様は、救いを雨のように降り注ぐから、わたしにいま求めなさい。私どもはこの神様に信頼して祈り求め、神様の恵みをたくさん頂いていく。

「コリント人への第二の手紙」6章2節に、「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。どうぞ、今は本当に大きな恵みの時です。人生最大の悩みの中に置かれていても、「今は恵みの時」です。なぜならば、その困難と思える、苦しいと思える所で、神様はもっと大きな恵みを与えようとしているからです。この主を求めて、恵みの時、救いの日を味わって、感謝、賛美し、今という時を力いっぱい、明日はないのでありますから、この今という時に神様を求める日々でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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