いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(191)「心を照らす光」

2014年05月07日 | 聖書からのメッセージ
 イザヤ書9章1節から7節までを朗読。

 2節「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」。
 今年もはや11ヶ月が過ぎまして、今朝もカレンダーを見て、ペラペラの1枚になり、「これでおしまいか」と思いました。早いもので「もう12月に入ってしまったね」と、家内とも話をしたのです。この一年を振り返って「今年は大変な年だったね」と二人で言ったのですが、皆さんも恐らく同じ思いだろうと思います。一年がアッという間に過ぎてきました。しかし、振り返って見ると決して楽しいばかりとかうれしいことばかりではありません。悩みがあり、苦しみがあり、様々な事の多い一年であったと思います。

地上の生活は、徳川家康が「人の一生は重き荷を負って遠き道を行くがごとし」と言ったそうで、苦労の連続だと言われます。だからあきらめなさい、仕方がないのだと。確かにそのような面もないことはありませんね。また「伝道の書」にも「我らの一生は悩みと悲しみと苦しみ、そういうものばかりだ」と書いてありますから、悩みがあるのは、一人前になったというか、人並みに生きていることの証明だと言えます。悩みが全くなくなるのは死ぬ以外にないようですが、生きているかぎり悩みがあるのは当然かもしれません。ところが、そのような悩みの中にあっても、私たちが光を、希望を持つということができたら、どんなに幸いなことかと思うのです。

 今読みました2節に「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」とあります。「暗やみ」「暗黒の地」と言われると、いつも夜ばかりの所のように思いますが、決してそうではありません。太陽は昔も今も変わることなく、朝になればちゃんと昇ります。私も朝早く近くの公園を散歩しますが、最近は日の出が遅いので、6時前から歩くとまだ暗い。一時間ぐらいするとだんだんと日が差してきます。「明るくなってきたな。今日も一日が始まるな」と思って心がうれしくなります。明るい所へ出るのは心を楽しませます。そのように夜になると暗くなりますが、昼間は明るく、暗いことはありません。最近は停電も経験しません。それどころか、いつも明るい。夜も昼間かと間違えるほど、どこへ行っても明るい。街の中を歩いていても、外灯がありますから暗いことはありません。しかし、先ほど申し上げたように、毎日の生活は次から次へと思い煩い、心配、そのようなものがあると、外がどんなに明るくても明るく見えない。だからギリシャの哲人、ディオゲネスでしたか、そのような名前の人が昼間からちょうちんを持って「ああ、暗い」「ああ、暗い」と言って歩き回っていた。それをみんなが笑ったのです。あいつは気違い、何が暗いのだ、こんな明るい太陽が燦燦(さんさん)と輝いている。ギリシャですから陽も豊かにふり注ぐ。こんな日にあいつは馬鹿だな、ちょうちんをぶら下げて、「暗い」「暗い」なんて言ってと。するとその人が「あなたたちの心が闇だ」と。確かに太陽は輝いてはいても、人の心が暗くなる。そう言われると、根暗な方はおれのことかと思われるかもしれませんが、別に性質性情ではなく、心が暗くなると希望を失う。生きる望み、生きる喜びを失う。そのとき、希望を与えてくれる、望みを与えてくれる、あるいは私たちを励ましてくれるものが、そば近くにあれば大きな力です。

 よくお話しますように、家内の父は今ホスピスに入っています。それ以前は介護付きケアハウスにいました。大きな窓があるのですが、いつもカーテンを閉め切っている。それで部屋が暗い。私どもが「暗いじゃない」と、カーテンを開けようとすると「開けるな」と言う。部屋の照明をつけようとすると「つけるな」と言う。なぜか?どうしてだろうか、目がまばゆいのかなと思う。そうではないのです。自分の心が暗いから、外の明るい光に耐えられないのです。今年、私はいろいろなことを経験しました。特に老人心理というものを随分学びましたが、心が暗くなったら、明るい所へ行けば、心が晴れるかと言うと、晴れないのです。外が明るくなればなるほど、自分の心の暗さを感じる。耐えられないのです。皆さん、逆だと思われるでしょう。心が暗いから励ましてあげようと、明るくにぎやかな音楽などを聞かせて、「頑張れ、頑張れ」と言うと、いよいよ沈む。そのようなときは部屋をできるだけ暗くしてやる、静かにしてやると落ち着く。私は初めてその事を知りました。だからカーテンを「開けるな」と言うのです。よく分からないから、「なんだか、おかしいな、どこか目でも悪いのかな」と思いましたが、そうではない。心が闇に閉ざされているとき、明るいものに出会うと、それを受け止める力がない。だから皆さんでもそうでしょう。心配があって自分一人だけ暗い思いになっているとき、家族みんなが「さぁ、今日は何とかのパーティーだ」と言って、ワーッと賑やかにやる。自分も一緒になって気が晴れるかと言うと、晴れない。そこから逃げ出したくなる。一緒におられない。それは自分の心が沈んでしまうからです。

私はそのことを初めて知りました。と言いますのは、その後、義父(ちち)はホスピスに入りました。ホスピスは死を身近に感じている人が多い病棟です。だから、そこの看護師さんやお医者さんたちも一般の病院とはかなり違います。というのは、「寄り添う」という姿勢があります。「寄り添う」とは、悲しんでいる、あるいは不安に思っている心のそばに立ってやることです。受け入れてあげるのです。「苦しい」と言ったら、「そんなことを言わないで頑張りなさい、大丈夫よ」とは言わない。義父が「ああ、もう苦しい。きつい」と言うと、「ああ、そうでしょうね。きついでしょうね。大変だよね」とお医者さんが言う。「きつい? それじゃ、ちょっと注射でも、薬でもあげようか」とは言わないのです。いわゆる心のケアと言います。そう言われるものだから義父はうれしくなったのです。大体二週間ぐらい経ちましたか、昨日行きましたら、大層元気になっていて、見ると窓のカーテンが半分開いているのです。それを見たとき、「人は心が病んでいるとき、心が闇に閉ざされているとき、どんなに外の条件が整っても、これはどうにも仕方がない」と知りました。そのようなことを知っていましたが、身近に事態の経過を見ていると、事新たに教えられます。お医者さんも看護師の方も本当に親切で優しい。だから、義父はそれに慰められ、励まされ、受け入れられて、少しずつ元気になった。どうもこの二、三ヶ月で死にそうにないという。本人もだんだん心配になってきて、「どうも、おれは死なないかもしれない。ホスピスに置いてくれるだろうか」と言う。心配になって本人が主治医の先生に「元気になったら、自分はここから追い出されるのではないかと思う」と言ったら、お医者さんは「いいですよ。死ぬまでいてください」と言ったのです。すると義父は大安心をしまして、「おれはここにズーッといるぞ」と、人の心が変わると大きな力となります。

ところが、私どもは案外と自分の心がどのような状況にあるかを知らないですね。自分の心が今こんなに暗くなり、望みが持てないのは、あの人がいけない、この問題があるから、この悩みがあるから、この苦しいことがあるから、自分は喜べない、楽しめない、いや心配ばかり思い煩いばかりで、心は闇だと思っているかもしれません。しかし、実はそうではない。外側の問題や事柄があるから闇になるのではなくて、私たちが光を失ってしまうからです。光とは何か。それは心が希望、喜び、望みと言いますか、そういうものが絶えずある、あるいは人に対する優しい思いを持つ心があることです。私たちの希望を消すものは、そのような事情、境遇、事柄によるのではなくて、心にあるべき本当の光が実は私たちの内にないことです。確かに、家内の父はそこまで励まされて生活の方向は上向いてきますが、だからといって本当の闇、言うならば自分自身の死というものについての解決はついていません。今ひと時外側からの働きかけで少し心は上向いてはいますが、……。お医者さんが言われるには、確かにその病、がんという病気があるのは確かだ。ただそれが今日明日どうこうという危機的な状況にあるわけではない。ところが本人は、その病があることを知っていますから、どうしても、自分の死を常に感じるのです。だから、ホスピス病棟にいる多くの方々は、たとえ肉体的には元気そうに見えても、常に不安といいますか、死に向き合って生活をしていかなければならない。これは本当に心の重荷ですよ。健康なときには分かりません。それががんという病気の一つの特徴です。それによって心が沈んでいくのです。私の義父も先生に言わせると、「やはり、こういう病気の方に特有のうつ的な状況と言いますか、そういう状況の中におられることを知っておいていただきたい」と。「なるほどそうだろうな」と、私もよく分かります。だから私たちの内のそのようないちばんの根本の闇を、忍び寄ってくる、心を覆ってくるものを何によって取り除いていくか。確かに周囲の人々が優しくて心を受け入れてくれることは、大きな励ましではありますが、最終的にはいちばんどん詰まりの死については一人一人が誰の助けもなく、孤独に向き合っていかなければならない。もう一度そのことを教えられました。

では、その中で何が光であり、何が望みであり、何が闇を照らすものか。それが何千年も昔、この旧約聖書、イザヤ書9章に約束され、語られている事です。この1節に「しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる」。この「ゼブルンの地、ナフタリの地」とあります。しかも「はずかしめを与えられた」とありますが、これは「ゼブルンの地、ナフタリの地」は、イスラエルの人々の土地であった、その住んでいた場所です。そこをアッスリヤという異邦人によって占領され、取られてしまった時代がありました。そのことを指しているのですが、そこから神様はイスラエルの民を救い出してくださった。そしてガリラヤに「異邦人のガリラヤ」とあります。ただに、神の民・イスラエルの人々の光としてではなくて、すべての民の光となってくださる。だから2節に「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」。誠にそのような死、あるいは絶望的な望みなき中に、なお私たちに光を与えて、闇を取り除いてくださるものは何か? それはやがてお生まれになられる、約束であった主イエス・キリスト、イエス様が神の位を捨て、私どもの所へ来てくださることです。

ですから、6節に「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」。この「ひとりのみどりご」とは誰か? これはまさしく主イエス・キリスト、イエス様がベツレヘムの馬小屋に生まれてくださった。おとめマリヤから人の姿をとり、肉体をもって、この世に来てくださった主イエス・キリストです。彼は私たちの罪のために十字架に死んでくださいました。その生涯は33年数ヶ月の短いご生涯でしたが、その最後は、ご自分の罪のためではなく、過去現在未来にわたってすべての人類、まだ生まれてもなかった私たちの罪のあがないとなって、十字架に命を捨ててくださったのです。そればかりでなく、その主はよみがえってくださって、今私たちと共にいてくださる。これが私たちに与えられている福音、喜びのおとずれです。今イエス・キリストこそがすべての光なのです。光の源です。だから、その光に私たちが照らされて生きること、これが闇を追い払っていくただ一つの道です。

ヨハネによる福音書1章1節から5節までを朗読。
1節に「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」と記されています。この「言(ことば)」とはイエス・キリストご自身のことです。御言葉を通して、聖書の言葉を通して、イエス様が私たちのそばにいてくださるのであります。イエス様はよみがえられて私たちと共にいてくださると言う。どこにいるのかな? 手で触っても何をしても、どこにいるかしら? と思う。では、イエス様の写真でもあるかと問われても、何もありません。ただ黙想したり、何か分からないけれども、そんな雰囲気があるとか、そういう感じがする、というのではありません。もっと確かなことです。ではどうやったらイエス様が私と共にいるということが分かるか。それは私たちが聖書の言葉、イエス様について語られた、イエス様がお語りになられた、神様が時代を越え、様々な人を通してその霊感をもって語ってくださった神の言葉の中にキリストがいらっしゃるのです。

過去の人、例えば夏目漱石という人に私たちは会ったことがありません、見たことがありません。お札の肖像にあって知っていますが、その人がどのような人となりかはよく分かりません。しかし、今いない人の手掛かりになるのは何かというと、書き残したものです。書き残した作品であるとか、夏目漱石の語った言葉だとか、そういうものを通して、「この人はこういう人だった」ということが見える。その言葉がなければ、相手を知る手掛かりはどこにもありません。皆さんもよくご存じのシェークスピアという人がいますね。シェークスピアは1564年に生まれて、1616年に亡くなりました。ですから、シェークスピアを見た人も話をした人も誰もいない。残された録音テープもありませんから、音声も残っていません。でも彼の作品を読んでいると、彼がどういう考え方、世界観を持っていたか、何を大切にしていたか、いろいろなことが分かるのです。言葉の使い方一つでシェークスピアは何が趣味だったか、その食べ物の傾向まで見えてくる。これは不思議です。だから書き残したものの中に、言葉の中に、その人自身がにじみ出てくる。亡くなった母が日記を書いていました。日記といっても日めくりのようなノートに10行か20行足らずの短いものですが、長い期間にわたって書いたものがあり、読んでいると思い出すのです。私の知らなかった母の気持ち、そのときの感情、そのときの喜びが言葉の中から伝わってくる。片言隻句(へんげんせっく)から、一言一句、行間から登り立ってくる一つの姿が感じられる。聖書はまさにそうです。イエス様が私たちと共にいてくださるのは、御言葉を心に置いて、自分の生活の中でそれを踏み歩んでいく、信頼してみる、御言葉を握って立っていくとき、そこに「これはイエス様だな。神様がこのようなことをしてくださったな。このような思いを神様が抱いてくださっている」と、見えてくるのです。だから4節に「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」とあります。「人の光」が私たちの心の闇を照らしてくださる。義父をホスピスに入れた大きな理由は、そこにいる人たちが親切だということもありますが、もう一つは、キリスト教系の病院だからです。お医者さんや看護師さんの中にもクリスチャンの方々がいて、毎日枕元で説教を聞くことができる。一日に繰り返して放送されている。そして週に二回ほど、集会が持たれて、メッセージを聞く機会がある。といって義父はそこまで出て行くことはできませんが、チャプレンという病院付属の牧師先生がおられ、各部屋を回ってくださり、いろいろな話を聞いてくださる。義父は私の話はあまり聞きませんが、人の話はよく聞きます。「伝道者はふるさとにおいて尊ばれず」とあるように、身内からは嫌われます。だからあまり言わないのです。その病院にいると義父の耳に何気なく宗教に関する話が入ってくる。そこが私のねらい目で、義父がイエス様を知らなければ心の闇は晴れない。これははっきりしています。

4節に「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」。この御言葉を通して光にあずかることです。だから今度は義母(はは)も今入っています特別養護老人ホームから、そこの病院付属の施設に入所することにしました。それもそこが心のケアをしてくださる。しかも心のケアが信仰に基づくケアをしてくれるので、義母のためにも幸いだと思います。聖書のお話を聞くクラスがあるのです。面接に行きましたら、その係りの方が「こういう集まりがありますが、お母さん、お聞きになりませんか」と勧めてくれました。すると義母が「もうぜひ出席したい。とても良い話を聞かせてもらいますから……」、何のことはない、この近くにいた元気なときは、一度として集会に来たこともないのですが、「喜んで行きます」と言うのですから、これは神様の業としか言いようがない。だから、身内の者が一生懸命に伝道してもできない。だから他人に任せるのです。これがいちばんです。自分の息子、自分の娘は私が頑張って信仰を持たせてやりましょう、そんなことはできませんから、だからできるだけほかの人にお願いする。それがいちばん良いと私は思って、義父も義母も任せることにしたのです。そこに行くと、何といってもこの「光」に出会うことができる。イエス様が私たちの光となって、御言葉を通して、私たちの内に光を与えて、心の闇を取り除いてくださる。

私自身もまた家内も、度々お証詞してきましたように、この年はいろいろな問題の中に置かれました。時には絶望的と言いますか望みが持てない、これからどうやったら良いのだろうか、両親はかたくなですし、こちらの言うことは聞こうとしないし、手古ずったのです。家内は泣き明かしたこともありました。自分はどうにも仕様がない。そのとき絶えず何が頼りであったかと言うと、聖書の御言葉です。御言葉を握って祈る、お祈りしていくと、見える状態はどんなに暗くても、必ずそこに希望が与えられます。まさにこれが「暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」と。今も変わることのない光です。祈って、祈って、イエス様がいらっしゃると信じて、主に心を向ける、神様のほうに心を……。問題を見ていると、解決がつきません。いよいよ泥沼、漆黒(しっこく)の闇に落ち込みますが、そこからもう一度聖書のお言葉を手掛かりに、たった一つのお言葉を握って、主がこのように約束してくださっているから、「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリピ 4:6)と、「なんぢら心を騒がすな、を信じ、また我を信ぜよ」(ヨハネ14:1文語訳)と、一つ一つのお言葉を握りながら、祈って、「大丈夫、主がついていらっしゃるから。神様がここから何かしてくださるに違いない。とにかく祈って待ちましょう」と言ったときに、お手上げになって「神様、あなた以外に頼るものはありません」となったときに、神様はそこに光を照らし、そればかりでなく具体的に一つ一つきちっと問題に解決を与えてここまで導いてくださいました。
この一年を振り返って本当にいろいろな事の多い中にありました。皆さんにもこれまでによくお話ししたとおりであります。しかし、神様は確かに光なる御方で、闇を光と変えてくださる御方。だからどうぞ、いろいろな問題や事柄があっても、それが問題なのではなく、私たちの心がどこに向いているか。これがすべてであります。だから、いつも神様のお言葉を通して、神様に、イエス様に心を向けて、主のお言葉を握って、主がこのように約束してくださったから、「思い煩うな」とおっしゃるから、「あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」(1ペテロ 5:6 )といわれるから、「はい、分かりました」と、「思い煩いません。神様、あなたが主です」と謙り、信頼する。「われ行わば誰かとどむることを得んや」(イザヤ43:13b文語訳)とおっしゃるでしょう。「わたしは神である。今より後もわたしは主である」(イザヤ43:13a口語訳)。「ああ、そうでした。神様この問題は私が握っているのではない、私がやっているのではなくて、神様、あなたです」と、御言葉を通して、よみがえってくださったイエス様がここに立っていると信じて、そこに望みを置いていく。これは私たちの大きな力、そのためにこそイエス様が来てくださったのです。
 待降節になりましたが、心から「イエス様は私の救い主としてきてくださった御方です」と信じましょう。先ほど賛美いたしましたように「住みたまえ、きみよ。 ここにこの胸に」(讃美歌124番)と、主を心に宿して、光なる御方を私たちの内に宿して輝いていこうではありませんか。そのためにこそイエス様が来てくださったのです。

 イザヤ書9章2節に「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」。今まさに私たちの住んでいる世の中は確かにきらびやかな、物の豊かな、物質的には何一つ不自由のない生活になりました。しかし、その裏側で闇がいよいよ深くなって、終末の時は近づいてきています。それだけに、私たちは光の源でいらっしゃるイエス様を心に宿して、光に照らされて、望みを持ち輝いて生きようではありませんか。どんなに失望するような状況、事柄の中にあっても、イエス様に心を向けて、光に照らされて、望みを持って進んでいきたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましよう。

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