いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(400)「天幕を拡げよ」

2014年12月02日 | 聖書からのメッセージ
 「ルカによる福音書」5章1節から11節までを朗読。

 4節「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた」。

 私どもにとって何か新しいことに取り掛かることは、極めてエネルギー、力がいります。いろいろなことでためらい、恐れを感じます。

 先だっても、望都姉が関西の神学校に試験を受けに行くことになりました。ところが、様子がちょっとおかしい。何を頼んでも上の空、あれも聞き逃す、これを頼んでも忘れる……と、家内から「どうしているの、おかしいよ」と言われたのです。私は「試験前でいろいろ心配しているのだろう」と言っていました。本人もどういうことかよくは分からなかったようです。試験を終わって帰ってきたら、また以前と同じに戻っていました。それで、よく聞いてみると、やはり初めての土地、そこへどうやって行くのだろうか、時間どおり行けるだろうか、そこはどんな所だろうか、といろいろと考えたのです。私は慣れていますから、関西のことは大体大雑把(おおざっぱ)ですけれども分かりますから「あれはこうなって……」と「何の心配もないじゃないか」と、いとも簡単に思いますが、初めての人にしてみたら、恐らく不安があり、心配があったのでしょう。

新しい所へ「さぁ、出るぞ」というとき、やはりためらうといいますか、心が重くなることはよくあることです。普段から慣れていることは、目をつぶっていていても右から左、どんなことでもスーッとできます。新しい未知の経験、知らない出来事に出会うことは、なかなか気持ちが軽くならない。むしろ、非常に沈んでしまい、「ああ、どうしようか」と、気が重い。日常生活でも気が重くなるのは、普段しないことをするときです。それでも、仲間がいたり、経験者がそばにいてくれると、「大丈夫。私ができなくてもあの人がいるから」と、相手に頼むことができ、少しは気も楽になりますが、そうでないとなかなか先へ進もうとしません。そうなると、勢い、自分がよく知っている方法や境遇、そういうものにしがみつく、そこに固執(こしゅう)しようとしてしまう。人間の生存本能といいますか、自己保存本能から出てくるのかもしれません。私どもは新しいものを受け入れる、あるいは、それにチャレンジする、そこへ踏み出して行くには、大変大きなエネルギーがいります。

 イエス様がゲネサレ湖畔で集まった多くの人々に神様の御言葉を解き明かしておられました。いうならば、山上の垂訓とよく言われている記事に当たる所ではないかと思います。イエス様はそこでお話しようとしたのですが、たくさんの人が押し寄せて来まして、立っている場所もないくらいになった。そのときに二そうの小船が寄せてあったというのです。しかも、2節にありますように、「漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた」と、「舟からおりる」、いうならばもう船は仕舞って、仕事仕舞いをすることです。今から出掛けるのだったら乗りますが、降りるのですから、ペテロが語っているように、夜通し働いて戻って来たばかりであります。網を洗って全ての始末を終えて休むことになるのです。その二そうのうちの一そうが「シモンの舟であった」とあります。イエス様とシモンは以前から面識があり、顔見知りでしたから「お前の船か」というわけで、イエス様はここでシモンに頼んだのです。そして、その船に乗り込みまして、岸から少し離れた所から岸に立っている人たちに向かってお話をなさった。どのくらいのお話であったか分かりませんが、恐らくシモンは迷惑だっただろうと思います。夜通し働いてフラフラしている、眠くもあるでしょうし、疲れてもいたでしょう。その前の記事にもありますが、自分のしゅうとめのためにイエス様に病気を癒してもらった義理がありますから、「これは仕方がない」というわけで、ペテロはイエス様を船に乗せたのであります。

話が済んで「もうこれで終わりか」と思いきや、4節に「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた」。「沖へこぎ出せ」とおっしゃったのです。もちろんいまイエス様と一緒に乗っている船が係留(けいりゅう)している所は、それほど岸から離れてなかったと思います。遠く離れていたら、イエス様の声が聞こえませんから、岸に近い所だったでしょうから、もうこれが終わればすぐ船を片づけることができたでしょう。しかし、イエス様が「沖へこぎ出せ」とおっしゃったのです。そして「網をおろして漁をしてみなさい」。ところがシモンは、5節に「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」。「自分たちは昨晩一晩中働いたけれども、何も獲物がない、取れなかった」。「しかし、お言葉ですから」と彼は言ったのです。自分の経験から言うと、もう取れない。事実そうやってきたわけです、何も取れなかったのであります。前の日徒労(とろう)に終わったといいますか、無駄骨をしたわけですから「もう、無理だよ」と言えばそのとおりであります。ところが、そのときに「しかし、お言葉ですから」と、「イエス様がそうおっしゃるのですから」と「だったら、網をおろしてみましょう」。いうならば、沖へこぎ出すことです。イエス様の言葉を聞いてシモンは船を沖へこぎ出して行く。自分の今までしたことのないことをするわけです。したことがないというか、いうならば、自分が経験して「これは、もうこうなるしかない」と、「これはこうに決まっている」と。そういう一つの枠が人の心に作られてしまう。それは経験と言えば経験でもありますが、そこからもう一つ踏み出して行くことが「沖へ出る」ことです。ペテロたちにとっては、このゲネサレ湖は子供の時から慣れ親しんだ湖です。しかも、親の代、先祖から常にそこで生活してきた生活の場でありますから、何もかも知り尽くしています。水の流れ、風の具合、湖底の具合から、何から何まで全部知っていますから、「こうなったら、次はこう」「こうなったらこうなる」ということが分かる。それを手がかりにしてこれまで生きてきたのです。それに対してイエス様はガリラヤ湖のことは知らないはずです。大工ヨセフの子として生まれ、またそこで育ちましたから、大工さんの仕事など、そういうことを少しはできたかもしれませんが、漁師の仕事については何も知らない。いうならばずぶの素人(しろうと)であります。しかし、シモンはここで「主よ、お言葉ですから」と、イエス様を信頼したのです。「どうして彼はイエス様を信頼することができたんだろう」と思われますが、4章に……。

「ルカによる福音書」4章38、39節を朗読。

ここに「シモンの家におはいりになった」とあります。なぜなら「シモンのしゅうとめが高い熱を病んでいた」、病気だったのです。それで人々がしゅうとめのためにイエス様に切に頼んだのです。「どうか、このシモンのしゅうとめの病気を癒してやってほしい」。それでイエス様はその家にやって来たのです。そして39節に「そのまくらもとに立って、熱が引くように命じられる」。イエス様がそのまくらもとで祈ってくださったのです。すると、即座に熱が引いてその病が癒されるという驚くことが起こったのです。この経験がペテロにあったことは確かであります。だから、イエス様がただの人ではない。単なる民の指導者といいますか、リーダーというような人物、それどころかもっと大きな力を持っておられる御方だ、と彼は知っていたに違いない、そこで信じたのです。イエス様を信用したのです。

だから、このときも夜通し働きましたが何も取れませんでした。「しかし、お言葉ですから」と、「イエス様がおっしゃるお言葉だから網を下ろしてみましょう。沖へこぎ出します」と、彼はイエス様のお言葉に信頼したのです。私たちも今いろいろなことの多い日々の生活の中に置かれていますが、ともすると「これは常識的に無理だろう」、「これは難しいに違いない」、「これはどうにもならないのではないか」、「諦(あきら)めるべきだ」というような事態や事柄を経験しています。だから、だんだんと生活が縮(ちぢ)み志向といいますか、縮こまって行く。あまり新しいことができない。いや、する気力も、体力もない。そう言われると、年を取ってだんだんと交際範囲は狭まるし、行動範囲は狭くなる。知っている人も少なくなって行く。いうならば、小さくなってしまう。環境的な意味でも私たちがこぢんまりとしたものに変わって行くことは、確かにそのとおりであります。しかし、だからと言って私たちの思いと心までも縮こまってしまう。「あれも駄目に違いない」「これももうできないに違いない」と。もちろん、自分ができないのは確かですが、しかし、世の中のいろいろな物を見ていると「こういう世の中だから、息子のところもこれは仕方がないに違いない」、あるいは「娘のところもこうだから仕方がない」と、自分に関することばかりでなくて、その周囲のことにも希望が持てない、望みがない。あるいは、明るい先を見越せない状況の中に置かれています。それは必ずしも自分の体力がどうであるとか、あるいは物理的な意味で「年を重ねてきて足腰が不自由になったから仕方がない」という話とはまた違います。殊に信仰という意味において、私たちがどんなに肉体が弱って、自分の行動範囲が狭まったとしても、私たちの心、思いは、常に新しく神様からの力を与えられて、信仰の翼を張り広げていく。神様に対する期待を大きくして行く。これが、「沖へこぎ出せ」という意味であります。自分が身動きならないから「あれもやめとこう」「これもやめとこう」となります。具体的に体力がなくなることは確かにありますから、年を取っても「いや、あなたはまだ若いから頑張れ」というわけにも行きません。「そんなにしょぼくれないで、もっと元気を出しなさい。今日は天気が良いから、ひとつ皿倉山にでも歩いて登りなさい」なんて、それはもう無理なことです。昔できたことが今できないのは当然でありますから、これは認めます。しかし、もうひとつ違う力がある。それは私たちの信仰です。神様に期待するにおいて、肉体の弱るにつれて引きずられ、その規模が小さくなっていく。神様に対する信頼が乏しく、狭いものになる。小なものになって行く。これは間違いであります。たとえ現実として肉体的なそういう状況で、自分の持っているいろいろな物が失われて行く。目はしょぼくれるし、耳は遠くなるし、足腰は動きが悪くなる。これは神様がそうなさるのですから、感謝して受けます。しかし、だからと言って信仰までそれに合わせて小さくこぢんまりとなってしまうのは、これは間違いです。そうではなくて、自分はたとえ身は動かなくても神様に対して信仰に立って期待して行く。このこと、あのこと、あの人この人、どんな人のことでも、主に祈り、期待する。かつては何か言われたら「ようし、私が行ってやる」と言って飛び出して行けたかもしれない。あるいは徹夜の一晩二晩は頑張って子供のためにでも誰のためにでもやれたかもしれない。しかし、今はそれができない。現実的にそういう力がない。これは逆に言うと幸いです。なぜならば、そこで頼るべきものが、神様以外にないのであります。神様が働いて力を現してくださらなければ、自分ではなにもできない。神様が働いてわざをやってくださるのを期待する信仰。そのために、「沖へこぎ出す」のです。「沖へこぎ出す」とは、先がどうなっているのか分からないが、いま置かれているところ、船をとも綱で桟橋(さんばし)に固定していると、ある意味で安心です。しかし、これでは動きません。ところが、「沖へ出ていく」のは、そこに何があるのか、出て行った先がどんな所なのか皆目わからないのです。でもイエス様は「シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた」と言われたのです。網をおろすためには沖へ出なければ駄目です。私たちが結果を得るためには、神様を信頼して自分の常識、自分の経験、あるいは世間の「これが……」「これは大丈夫だよ」「これが正しいんだよ」といわれるところから離れて沖へ出る。神様に信頼して導きに委ねて行く。これが「沖へ出る」ことです。そうすると、神様は驚くことをしてくださいます。私たちの想像を超えた御業をそこに果たしてくださる。

「ヨハネによる福音書」5章5節から9節までを朗読。

これはベテスダという池がありまして、その周囲に五つの「廊」と言われる施設がありました。日差しや雨を避ける屋根の付いた場所だったでしょう。3節に「病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた」のです。それは神の使いが降りてきて、時に池の水を動かすときがある。水が動く。その動いたとき真っ先に入った者の病気が癒されるというのです。これはなかなか難しい。ジーッと池を見ておかなければならない。いつ動くか分からないわけでしょう。動いたときにすぐ飛びこむ。考えてみたら、それだけ元気があったらここにいなくてもいいわけです。だから、病気が癒されるためには、千載一遇のチャンスしかない。それこそ宝くじに当たるよりももっと難しいことです。でも彼らは僅(わず)かなか細い糸のような希望でもそれにすがってそこにいるのです。そこにおればいつの日か水の動くとき、入ることが出来ると信じているからです。そこから離れることは毛頭考えられません。また「その水が動かないことには自分の病気が治らない。その動くとき入れなければ治らない」と思い込んでいます。そう決めて掛っていますから、他の方法を試すこともしないでしょうし、また、何か言われてもそれを受け入れられなかったに違いない。このとき38年もの間、病気に苦しみ悩んでいる人がおりました。イエス様がその人に「なおりたいのか」と尋ねています。「なおりたいからそこにいるのだ」と言えばそのとおりでありまして、38年もたったらいい加減諦めて「これは私の持病です」といい始めるのが普通だと思います。しかし、この人は「やっぱりなおりたい」と思ったのです。ただこのとき、7節に「この病人はイエスに答えた、『主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』」。この人は水が動くとき、真っ先に入れば自分の病気が癒される、と信じている。そう思い込んでいる。それは岸に船をつないでいる状態であります。それ以外に他の方法があることは毛頭考えられない状態です。いうならば、ある固定観念に捉(とら)えられている。だから、イエス様に水の動くとき「私を手助けしてください」と願ったのです。イエス様がどういう御方であるかを彼は知りませんでした。だから、「なおりたいのか」と「なおりたいのだけれども、自分を水の中に入れてくれる人がいない。よかったら私を入れてくれませんか」と思った。誰かがいてくれたら水の中に入れるけれども、いないから入れない、と思う。

ところが、イエス様はもっと違うことを彼にしてくださる。それが8節「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」。何とイエス様はここでその人に「床を取りあげて歩め」(文語訳)といわれる。38年も長いこと寝たきりといいますか、身動きならない状態の人が立って歩くなんて「そんなもの無理だよ」と思う。まさに私たちがいつも引きずっている問題は、そこです。「こうだから無理だ」「こうなったら仕方がない」「こうなったら、どうだ」とか「ああだ」とか、いろいろなことで神様に信頼することをしない。信頼するとは、神様の手に自分を任せることです。そして「沖へ出る」。いうならば、そこに何があるか分からない。どんなことを神様はなさるか分からないけれども、神様を信じて踏み出して行く。今おる所を離れて、いま私が握っている物を捨てて、神様に信頼して一歩も二歩もまず踏み出して行くことです。これが「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」というイエス様の求めておられることであります。自分自身を振り返ると「これだから、あのことはちょっとやめておいた方が良いに違いない」「これは難しい。そんなことをしたらああなるだろうか、こうなるだろうか」といろいろな状況を想定します。頭の中でシミュレーションをする。「ああなったら、こうなるし、やっぱり無理だ」と言って、いま置かれている場所から、事柄から離れようとせず、全く違う沖へこぎ出して行くのをためらいます。ともするとそのように殻の中、厚い殻に籠ってしまう。それを打ち破ることができないのです。ともすると、いつもその殻の中に自分が入りこんでいる。まるでヤドカリのように。
いつでしたか、海岸に行きましたらヤドカリがたくさん浜辺から陸地へ戻って行くのです。恐らく、夕方に移動するのだろうと思います。可愛いです。貝殻を背中に背負って海岸を歩いている。ただ非常に小心者ですから、どうして分かるのか知りませんが、私が近づくと動いていたものがピッと止まる。止まると同時に出ていた足や手をピッと貝殻の中に隠す。そうなると微動だにしません。生きているとも思えない。貝殻がその辺に散らばったように一瞬にして不動になる。スッと身を引くのです。「殻に閉じ籠(こも)るとは、このことだな」と思う。そして、しばらく静かに見ていると、またスーッと手足を出してくる。そしてごそごそ動き出す。こちらがちょっと動くと気配を感じるのです。一瞬にしてシュッと動かなくなる。

私どももヤドカリ的な生活をしている。怖いものが来たらスッと自分の今までの流儀といいますか、やり方といいますか、その考え方の中に引き籠(こも)ってしまう。イエス様は「沖へこぎ出せ」と言われます。神様が私たちに何をしてくださるか分からないけれども、そんな殻を捨てて。ところが、「何をしてくださるか分からないけれども」と言われると、皆退(ひ)くのです。「え!神様に任せたら何をされるか分からん。これは困ったな……」と。

前にもお証詞したと思いますが、私の知っている姉妹に、私が「神様の御心に任せなさい。神様が備えてくださる道があるから大丈夫。信じて行きなさい」と言った。すると「え!神様に任せるのですか?」と言う。「そうさ」「じゃ、神様は何をしてくれる?」「いや、何してくれるって、分からないから任せるのです。任せたら相手がしてくれるとおりに、煮ようと焼こうと、まな板のコイよ」と言ったら、「そんな怖い、そんなことできません。ちゃんとこうする、と聞いてからでないとできない」と。「それは信仰じゃない」。神様は私たちに何もかも見せて、説明して、事前に了解を得て「同意しました」と同意書を取ったうえで事をする御方ではない。私たちが全面的に神様を信頼してそこへ飛び込んで行く。その懐(ふところ)に飛び込んで行く。神様のほうが驚くことを備えてくださるのです。驚くこととか、分からないこと、私たちの想像しないこと、と言われると、すぐ悪い方へ、悪い方へ考えます。「神様は何をされるか、ちょっと怖いですね」と。「怖くない」。「完全な愛は恐れを取り除く」と、神様は愛なる御方でいらっしゃる。私たちに悪いことをしようとするのではない。その御愛を信じて、私たちはそこに踏み出して行く。

このとき、38年もの長い間病気だった人に対してイエス様が「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」といわれます。彼にとっては想像もしなかったこと、考えもしなかったことでしょう。そんなことを言われるなんて……。「水が動かないかぎり治るわけはない」というのが、そこに集まっていた人の思いです。ところが、イエス様はそれに対して「そうではない。いま床を取りあげて、そして、歩きなさい」。主のお言葉を信じたときに、その人は9節に「この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った」。まさに神様は驚くことをしてくださった。想像のつかないこと。ところが、想像のつかないことではありますが、この人がしてほしい、と願っていたことを完全にしてくださっているのです。ただ、その方法、手段は彼が考えたのとは全く違う。あり得ない方法で事が起こっていく。神様が私たちに備えてくださるのはこのような手立てによるのです。私たちはどういう方法で、どういう手段で、どういう手順でもってそれが行われるだろうか、常にそこに注目をするといいますか、それに拘泥(こうでい)する、その事にこだわります。ところが、神様は「手段や方法、やり方はわたしに任せなさい」と、結果はちゃんといちばん善いようにするからと。そこのところで、私どもは「こういう手段を取らないとこの結果は得られない」という筋道を考えて、そこに絶えずとどまろうとするのです。まさにそれが岸にしがみついている姿です。

「ルカによる福音書」5章4節に、「シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた」。いま神様が私たちに期待しておられるのはこのことです。自分の殻を捨て、自分の立っている場所を離れ、自分の慣れ親しんだ「ここが大丈夫。これなら安心」と思われる所、そこを離れて神様の手に信頼する。「沖へこぎ出せ」との神様のお言葉により頼んで行く。まさにこのシモンがその後の5節に語ったように「しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。彼はまさにこれは沖へこぎ出したのであります。

私どももそれぞれ置かれた問題や事柄、与えられた事の中で、主の御心を御言葉によって悟って、そこで一歩を踏み出して行く。私たちは前へ踏み出すといいますか、新しいものへ思いを向けて、神様に期待して、信仰を張り広げて、広くして行きたいと思います。いつまでも今までの自分、これまでの自分に閉じ籠らないで、神様がどういうことをこれから私にしてくださるか、また家族に、あの人に、この人に周囲の者たちにどういうことをご計画してくださっているか分かりませんが、信じて神様の御心にまず従い、信頼して沖へこぎ出し、踏み出して行きたいと思います。信仰を持って主にもう一つ大きく期待するものとなりましょう。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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