「詩篇」119篇65節から73節まで朗読。
71節「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」。
この御言葉は、皆さんもよくご存じで、何度となく励まされ慰められたものです。それは私たちも同じ境遇(きょうぐう)に置かれるからであろうと思います。65節以下を読むと、この詩篇を語った記者は何か大きな悩みに遭ったようです。67節に「わたしは苦しまない前には迷いました」と告白しています。“苦しまない前”とは、物事が順調で、事がうまく進んでおったときでしょう。そういうとき「迷っておった」と。何に迷ったか。神様だけとは言っておれない、あれもいいだろう、これもいいだろう、これもあこがれるし、あれも欲しいし、その中の一つとして神様も求めて行きましょう。万が一の時のために神様に信頼して、それ以外のときはこれをして、あれをしてと、心が千々に乱れた状態、これが「迷っている」ということです。私たちもそのような時がよくあります。大きな悩みに遭って、七転八倒苦しんでいる間は、一生懸命、夜も眠ないで祈り続けます。ところが、だんだん愁眉(しゅうび)を開いて、事柄がうまくいくようになって、落ち着いてくる。そうなると「やれやれ、よかった」と、初めは感謝します。そのうち慣(な)れてくる。恵みに慣れる。そうすると、迷い始めるのです。今までは熱心に神様を求めていたのに、祈りが少なく、乏(とぼ)しくなる。聖書を開く回数が減ってくる。だんだんと礼拝にも各集会にも遠のいてくる。「礼拝だけにしておこうか」。そうすると、「礼拝も月4回は多いのじゃないか」、「3回ぐらいにしとこうか」「2回にしとこうか」「1回にしとこうか」、そのうち「隔月にしとこうか」と遠くなっていく。そういうときが「迷う」ときなのです。
この詩篇の記者は神様を知っていました。けれども「神様だけというのも、ちょっと窮屈(きゅうくつ)やな」と思っていたというのです。ところが、何か突拍子(とっぴようし)もない、恐らく大きな悩みに彼は遭ったのです。その悩みを通して65節に歌ったように「主よ、あなたはみ言葉にしたがってしもべをよくあしらわれました」と、初めて神様の真実に触れる。神様の御愛と恵みに御言葉を通して触れる。そして、68節にありますように「あなたは善にして善を行われます」。「あなたは善にして」と、神様、あなたは愛なる御方、「神は愛である」ということです。「善にして」とは善い御方でいらっしゃる。善い御方とは私たちを愛してくださる、愛に満ちた御方だ。そして「善を行われます」。私たちにとって、いちばん善いこと、最善なことをしてくださる御方だ。これを彼は初めて知るわけであります。そして71節「苦しみにあったことは、わたしに良い事です」と導かれて来るのです。苦しみに遭うことは決して良いことではない。誰だって皆そうです。苦しいこと、つらいこと、悲しい出来事、失望落胆させられるような事は、できるだけ遭いたくない。家内安全、無事息災、商売繁盛、学業成績優秀で、何もかもがとんとん拍子に行くことを多くの人は願います。ところが、聖書を読みますと、決してそのようにはどこにも書いていない。「あなた方は、神様のところへ来たら、もう何にも心配はいらない。悩みや苦しみ、そういうものは一切なくなる」とは書いていません。イエス様すらも「あなたがたは、この世ではなやみがある」(ヨハネ16:33)とおっしゃいます。また、「ヤコブの手紙」には「あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」(1:2)と勧(すす)めています。また、パウロは、「ローマ人への手紙」に「患難(かんなん)をも喜んでいる」(5:3)と書いています。どこを取っても「悩みがあるぞ、苦しみがあるぞ。しかし、心配するな」というのです。「イザヤ書」43章に「川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない」(2)とあります。火の中、水の中を行くとは危ない話ですね。しかし、そのなかにあっても心配するなと言われる。「わたしはあなたと共におる」とあります。神様が私たちと共におられることを体験する場所。神様に出会う、イエス様に出会う場所は、川の中であり、水の中であり、火の中です。そう言われると、ちょっと怖気づきます。引けてしまいますが、いくら逃げ腰になったって、神様がそのような中に置かれるわけですから、この際、私どもは早くあきらめて、神様が悩みや苦しみを与えられるときには、大いに感謝して引き受けたらいいと思うのです。逃げようとしたり、少しでも痛くないようにとか、同じ苦しみを通るにしても、もう少し軽いほうがいいとか言って、いろいろともだえ苦しむのです。そのときが苦しいのです。むしろ、覚悟を決めて、それこそエステルのように「我もし死ぬべくば死ぬべし」(エステル記4:16文語訳)と、命も何もかも、神様、あなたにささげたものですと、覚悟を決めて、火でも矢でも何でも持って来い、と心を一つにすれば、そこで主に会う。そこにおられる神様に出会うのです。
ヤコブがそうでありました。お兄さんエサウと大げんかをして、家におられなくなります。本来ならば、お父さんイサクの祝福を受けたのですから、彼が家に残っていいわけです。家督(かとく)相続をしたのですが、残念ながらそのために彼は家を出されてしまう。独り寂しく野宿をしていたとき、初めてそこで神様に出会うのです。彼は「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」(創世 28:16)と告白します。それまでは、家族からも捨てられて、兄との縁も消えて、一人きりになり、これからなじみのない伯父さんの家に行かねばならない。そこで何があるか分からない。そういう不安と恐れの中で一晩過ごしたときに、神様がご自身をあらわしてくださいました。
だから、まさに苦しみに遭うことは、実は神様を知るための大前提です。だから、人生を終わるまで決して苦しみや試練、試み、これは消えません。しかし、私たちは苦しい目に遭わないようにと願います。また、それを願ってはいけないわけではありません。大いに祈り求めたらいいのです。だからといって、悩みがなくなるわけではないことを知っておきたい。その悩み、苦しみの一つ一つは、神様が私たちに与えてくださることです。
「ヘブル人への手紙」12章5節から11節まで朗読。
5節以下に「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。6 主は愛する者を訓練し受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」とあります。いま申し上げましたように、私たちが受ける悩みや苦しみ、あるいは試練というものは、神様の恵みに出会うところ、いうならば、神様ご自身に、よみがえってくださったイエス様に触れる場所であるのです。これはまず大切な一つの事であります。私たちがイエス様に出会うのは、ゴルゴダの十字架です。イエス様は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ 16:24、マルコ 8:34、ルカ 9:23)と言われます。イエス様に出会う、イエス様と共にある場所は、十字架を負う場所です。困難に遭い、苦しみに遭い、悩みに遭い、それらの事柄を通して自分の深い罪を知ります。自分の内にある苦しみや悩みを通して、本当に自分という者が自我の強い者であり、神様を押しのけようとする自分であることに気がつきます。そして、そこで悔い改めて、十字架に思いがいくとき、主に出会うのです。だから、悩みとか苦しみ、問題に遭うとき、実は神様が私たちを求めておってくださるときです。しかも、目の前に具体的な問題があります。その中でああしようか、こうしようか。あの人がどうして……、この人がどうしてと、いろいろなことで飛び回らなければならない。それを解決しようと、それを何とか解きほぐそうとしますが、神様が求めておられるのはその問題の解決ではないのです。必要ならばどんなにしてでも、神様は瞬時にして問題を解決することができます。ところが、問題の中に置かれて私たちは自分を知るのです。自分の性情性格、自分の内にある許し難(がた)い罪、神様に委(ゆだ)ねきれない自分、神様を神様として尊べない自分があることを知らなければなりません。そういうことに普段は気がつかないのです。問題がないとき、物事が順調に行っているときは、神様にいちばん近いところにいるように思いますが、それは大間違いです。むしろ、悩みに遭い、苦しみに遭ったときに、人の本性が現れます。いま穏やかで、にこやかな顔をしていらっしゃるけれども、ちょっとひねってご覧なさい。ギャーッと牙(きば)をむきますよ。隠しているでしょう。その牙を取り除くための試練です。そのためにイエス様が十字架にかかってくださった。のっ引きならない事態、自分が生きるか死ぬかという、自分のメンツが掛っている。そういう問題や人とのかかわり、人とのトラブル、物事の中で出てくるのです。ところが、人は本当に頑固(がんこ)ですから、もろに見えているはずですが、自分では見ようとしないのです。認めたくない。早く認めて、そこで打ち砕かれて、木っ端みじんに自分が死んでしまえば、実に幸いですが、そこで死にきれない。死にかけて死に切れない。半肉半霊といいますか、中途半端ですからいよいよ苦しいのです。それで、何とか自分なりに逃げ道を探す。そのためにせっかく神様が、受け入れるすべての者を訓練して整えようとしてくださるのに、スルッと逃げてしまって神様に出会うことができない。これは誠に残念なことです。ですから、私たちが悩みに遭ったとき、確かに問題ではあるけれども、いちばんの問題は自分、己です。病気などをしてみるとそのことがよく分かります。忍耐できない自分、苛立(いらだ)っている自分。その結果、周囲の者に八つ当たりしている自分がいます。同情を求める自分があって、なかなか神様に出会えない。神様が求めておられる、悩みを与えられるのは、まさにご自身に触れてもらいたい。先ほどお読みいたしました詩篇の記事にありますように「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」と語られています。「神様のおきてを学ぶ」、いうならば、それは神様ご自身に触れることができた、という喜びであります。「本当にここに主がおられるのに、私は知らなかった」とヤコブは告白しました。「神様、あなたが主です。私は本当に無です。無き者にすぎません」と徹底して自分を低くしてしまう。これは悩みに遭うからこそできることです。私たちがこの地上を終わるまで神様はいろいろな悩みをお与えになります。だからこそ、私たちは幸いだと思うのです。
それともう一つ、ここで語られていることは、6節「主は愛する者を訓練し受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」と言うように、神様が私たちを訓練してくださる。訓練とは、私たちを鍛(きた)えてくださるわけです。訓練されないと、やりっ放し、野放図(のほうず)といいますか、自由気ままで、無秩序な状態に陥(おちい)ってしまいます。だから、きちっと訓練を与える。
わたしはよく近くの公園を散歩するのです。そこには人間ばかりでなくて、犬も散歩につれてこられます。見ていると飼い主の性格がよく分かります。犬が飼い主の前を行く場合と、犬をきちっと自分の脇に据えて歩いている人とがいます。「この人は自分の犬をよく訓練している」と感心するときがあります。逆に、犬に引きまわされている人がいるのです。私は歩きながら眺(なが)めるだけで随分いろいろなことを教えられます。犬も訓練しないと我がままになります。それこそ“飼い犬に手をかまれる”ことになります。手に負えなくなります。ところが、よく訓練された犬は常に飼い主のそばにいて、絶えずその飼い主を見ています。よそを見ているようですが、神経はいつも飼い主に向けられています。飼い主は何気なく歩いていますが、犬はピシッとある一定の歩調でその飼い主に付いて行きます。右に曲がれば右に、左に曲がれば左に、その様子を見ていると、美しい、きれいです。ところが、キャンキャン吠える我がままな犬を見ていると、美しくない。厳しいようでも、しっかり訓練されると、犬ですら、そのものがもっている本来の美しさが引き出されるのです。
この時期になるとお庭の手入れで庭師さんが入ります。全然手入れをしていない家は野性美にあふれてはいますが、「何だ、ここは、怠(なま)け者だな」と思います。ところが、ピシッと手入れされた庭を見るときれい、美しい。だから、よく皆さんが、京都が好きで春や秋になったら出かけたりしますが、何を見に行くかというと、庭園です。何百年という長い伝統を持ったお寺がたくさんあります。そのお寺には必ず庭があります。どこのお寺に行っても、やりっ放しの庭なんてありません。隅から隅までピシッと手が入って、そこに植わっている木々は形よく刈り込まれて、見る者をして心を和(なご)ませる。原生林のようにグワーッと生い茂った庭を見ても、慰めはないです。だから教会の庭もできるだけきちっと整備しています。入って来られたら気持ちがいい。駐車場の植木がバアーッと伸び放題だったら、「ああ、眺めがいい」なんて思わない。一回刈り込むのだけではなく、繰り返し刈り込めば刈り込むほど、葉がきれいにそろってくる。同じ長さに変わってくる。葉っぱの一枚一枚がそろってきてズラーッと並ぶと、見事です。ところが、放っておくと、一本の枝から葉っぱの大きいもの小さいもの、自由気まま、勝手に出ますから、歯ブラシの古いもののような感じになります。
神様が私たちを整えてくださるのは、訓練によるのです。だから6節に「主は愛する者を訓練し受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」とあります。神様は私たちにいろいろな訓練を与えてくださる。そのなかで私たちが清められていくこと。いろいろなものに執着(しゅうちゃく)している自分の心、思いを整えて、それを清めて神様の主権、神様の力の中に自分を空け渡して行くことができる。ですから、11節にありますように「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる」とあります。確かに、神様から訓練を受けるとき、いろいろな試練の中に置かれるとき、初めは嫌です、苦しいです、つらいものです。ところが「しかし後になれば、それによって鍛えられる者」、その試練や訓練を本当に耐え忍んでいくときに、私たちに忍耐が与えられる。忍耐は更に練達を生み、練り清められた品性を整えてくださる。そして、やがてそれは希望につながっていくと「ローマ人への手紙」にあります。(5:3~)だから「鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」。絶えず神様と交わって、平安、動じない揺るがない安心、何があっても、事があってもなくても常に一定の変わらない穏やかな心で過ごすことができる者へ造り変えられていく。これが「平安な義の実を結ぶ」ことです。
「使徒行伝」を読みますと、ステパノという人が殉教いたします。彼はユダヤ人たちが怒り狂って石を投げつけてくるなかで、自分の死を目前にして顔は輝いていたのです。それは絶えず見えない主を見ていたからです。彼は殉教の真っただ中、苦しみの真っ最中の中にありながらも、心穏やかに平安でおられる。まさにこれは、「平安な義の実を結ばせる」鍛えられた者の恵みであります。神様は私たちをそうやって訓練し、鍛えて、神様の標準に達するように、神様の御心にかなう者に私たちを造り変えたい。神様の御心にかなう者とは、神の民にふさわしい者とすることです。また別の言葉で言いますと、キリストの姿かたちに私たちを造り替えてくださる。キリストの姿かたちとは、父なる神様と絶えず共にいるものとなることです。神様と絶えず一対一といいますか、神様と私という交わりが途絶えることなくいよいよ深くなっていく生活、これが私たちに神様が与えようとしてくださるものです。
といいますのは、イスラエルの民もそうだったのです。イスラエルの民は、父祖アブラハムの子孫として、神様が選びの民としてくださいました。やがてエジプトに寄留(きりゅう)しまして、四百数十年たって奴隷の生活を強(し)いられるようになりました。神様はモーセという一人の指導者を立てて救い出してくださった。それからの荒野の旅路、約束の地カナンを目指しての旅路、これは平たんなものではなかった。次から次と悩みや困難や苦しみ、戦いがありました。しかし、その中で神様はイスラエルの民をはぐくんでくださった。使徒行伝には「四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ」(13:18)とあるように、神様はイスラエルの民を養育してくださった。育て上げてくださった。考えてみますと、イスラエルの民はカデシ・バルネアで失敗して、それから40年間荒野の旅路をいたしました。そんなに広い所でないと思いますが、そこで百万人近くの民族の大移動です。それが40年間にわたって続くという、これは神様がなさることで、私たちには到底計り知れないですね。どこかの旅行会社に頼んでご覧なさい。ちゃんとプランを立てて行き帰り10日間ですとか、あるいは30日間の旅行でうまく目的地に行くように仕組んでくれるに違いない。ところが、神様の旅行社は時間がかかるのです。同じ所を何度回ったか分からないかもしれない。よくそういう所を神様は通される。荒野の40年間の旅路は神様の大きなご目的があったのです。その一つは神様に背(そむ)いた世代が死に絶えてしまうのを待っておられたこともありますが、もう一つは、その旅路を通してイスラエルの民を清め、教育し、教えてくださった。神の民として生きる道を神様は彼らに教えられた。だから、荒野の旅路の途中でモーセに対して神様は律法を授(さず)けておられます。その律法が具体的に生活の中に根付いていくために、この40年の旅路が必要だったのです。その間に、このイスラエルの民がほかの民と異なったものとなる。ほかの民との違いは何であったかというと、神様が共におられることです。神様がイスラエルの民と共におってくださる、これがただ一つの根拠(こんきょ)であります。その証としてイスラエルの民の宿営地に必ず幕屋が設(もう)けられた。神様の「会見の幕屋」、これは「あかしの幕屋」ともいわれますが、ここにこの民と共に神様がいらっしゃるのです、という臨在をあらわすものにほかなりません。
いま私たちにとって同じことを神様は求めておられるのです。私たちは血筋によるイスラエルの民ではありません。しかし、一人一人が神様にあがなわれた、キリストの命をもって神様のもの、所有とされた者たち、いま私たちは神様の名によって呼ばれる民であります。だから、私たちをその名に、神様の御名にふさわしい者に造り替えたい。そのために今この地上になお命を与えてくださっておられる。そして、私たちにすべての必要なことを教えようとしてくださる。私たちが出会う試練といわれる事柄を通して、神様のおきてを学び、神様の御愛を知り、神様の力にあずかり、神様が私と共におられ、神様なしには生きられないことを、徹底(てってい)して教えられ、いよいよあがないの事実を自分のものとするために、今この地上にあって生かされているのです。
119篇71節に「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」。心からこのように言える人は何と幸いではないでしょうか。いろいろな悩みに遭ったとき、このように言えるでしょうか。「いや、苦しみに遭わん方が良かった」と、そう言っている間は、せっかくの恵みを取り逃がしてしまうのです。その中で主に出会うこと、主の備えてくださる恵みを受け止めることができる。71節に「これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」とあります。神様に出会うことができ、神様の私たちに対するご愛の御思いを悟ることができる。これが幸いな者です。「おきてを学ぶ」とは、そういうことです。御言葉を通して神様の心の深みを知る。それは御霊によって私たちに神様が教えてくださる恵みであります。
「イザヤ書」45章3節を朗読。
このお言葉は、私には忘れられないお言葉です。私が大学に入りまして親元を離れて独りで下宿生活をしておりました。その時代は今のようにメールがあるわけではないし、電話だって、まだ我が家にはありませんでした。いつも河本さんの事務所から、取り次いでもらっていた時代であります。だから、電話なんて、生きるか死ぬか以外は掛けない、そういう時代でした。そういう癖(くせ)が今も残っていまして、電話は大変苦手です。だから、手紙のやり取りをするわけです。しかし、これは時間が掛かるのです。今ですらも手紙は大体一日がかり、あるいはちょっと離れると2泊3日ぐらい掛かります。だから、一つ話を伝えたらその返事が来るまでに4,5日はタイムラグといいますか、時間差が出てきますから、読んだときにはこちらの問題は解決してしまっているという時代です。逆にそれは幸いなことで、親に頼ろうにも頼りようがない。「すぐに出てきてくれ」と言って、すぐに「じゃ、行こうか」という話にならない時代であります。そういう意味では幸いでした。そのころ、父が毎月手紙をくれます。教会の状況であるとか、あるいは家庭の問題であるとか、いろいろなことを、その時時のことを書いてくれるのです。その手紙の前半に御言葉とその解き明しがちゃんと書いてある。ショートメッセージが必ず入っている。そのときに忘れられないのがこの言葉です。「あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだイスラエルの神であることをあなたに知らせよう」。このお言葉を通して父がどのように導かれたか、ということが短く語られていました。ところが、そのころの私はさっぱり分からないのです。いま振りかえってみると、そのときに具体的に受けていた、悩みの中にあったことを知りますから「なるほど、こういう中で父が取り扱われながら、このお言葉に触れたんだな」と、よく分かるのでありますが、そのころはなにも分かりません。「何のことだろう、この話は」と思っておりましたが、今は私もよく分かります。ここに「暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて」とありますが、「暗い所」、「ひそかな所」とは、こんな所に良いことが有るだろうか、と思える事態や事柄。自分にとっては不幸の極(きわ)み、こんな暗い所、こんな何にも見えない、皆目(かいもく)何にも分からない事態に置かれる。実はその中に財宝があり、宝物がある。そういう暗い所、ひそかな所、いうならば、試練、苦しみ、悲しみ、失望の中に神様は財宝、宝物を隠して、そのことを通して、わたしが主であるよ、あなたの神であるよ、と教えてくださるのです。
「こんな苦しいつらい目に遭って、私は人生を無駄に過ごしてしまった」と言って嘆(なげ)きますが、実はその人生を無駄にしてしまった、と思えるとき、それこそが暗い所であり、ひそかな所でしょう。そこにこそ財宝があり、宝がある。それを備えておられる神様がご自身を私たちに教えて、現わしてくださる。主に触れる本当に恵みのときです。だから、いろいろな悩みや試練に遭うとき、逃げないで、おじ気づかないで、そこでペッシャンコにならないで、パウロのように「四方から患難を受けても窮(きゅう)しない。途方(とほう)にくれても行き詰まらない」(Ⅱコリント 4:8)と、何があっても動じないと、彼は語っているように、私たちも悩みに遭うとき、苦しみに遭うとき、試練といわれる事柄の中を通るときこそ、真剣に主を呼び求めて、主の平安な義の実を結ぶ者へと造り替えられて行きたい。
詩篇119篇71節以下に「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。72 あなたの口のおきては、わたしのためには幾千の金銀貨幣にもまさるのです」。神様の一言の重み、あるいは慰め、望み、力というものをしっかりと受け止めて行きたい。ここに「幾千の金銀貨幣にもまさる」とありますが、「いや、私は幾千とも言わないけれども、少々の金銀貨幣が欲しい」と、そんなことを思っているから、迷い続けるのです。
主の口のおきて、神様の約束のお言葉をしっかりと握って、与えられた試練、苦しみと思える事柄を、患難の中をも耐え忍んで、「忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」(ローマ5:4)、主の宝に出会って、主を喜ぶ者へと造り替えられたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
71節「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」。
この御言葉は、皆さんもよくご存じで、何度となく励まされ慰められたものです。それは私たちも同じ境遇(きょうぐう)に置かれるからであろうと思います。65節以下を読むと、この詩篇を語った記者は何か大きな悩みに遭ったようです。67節に「わたしは苦しまない前には迷いました」と告白しています。“苦しまない前”とは、物事が順調で、事がうまく進んでおったときでしょう。そういうとき「迷っておった」と。何に迷ったか。神様だけとは言っておれない、あれもいいだろう、これもいいだろう、これもあこがれるし、あれも欲しいし、その中の一つとして神様も求めて行きましょう。万が一の時のために神様に信頼して、それ以外のときはこれをして、あれをしてと、心が千々に乱れた状態、これが「迷っている」ということです。私たちもそのような時がよくあります。大きな悩みに遭って、七転八倒苦しんでいる間は、一生懸命、夜も眠ないで祈り続けます。ところが、だんだん愁眉(しゅうび)を開いて、事柄がうまくいくようになって、落ち着いてくる。そうなると「やれやれ、よかった」と、初めは感謝します。そのうち慣(な)れてくる。恵みに慣れる。そうすると、迷い始めるのです。今までは熱心に神様を求めていたのに、祈りが少なく、乏(とぼ)しくなる。聖書を開く回数が減ってくる。だんだんと礼拝にも各集会にも遠のいてくる。「礼拝だけにしておこうか」。そうすると、「礼拝も月4回は多いのじゃないか」、「3回ぐらいにしとこうか」「2回にしとこうか」「1回にしとこうか」、そのうち「隔月にしとこうか」と遠くなっていく。そういうときが「迷う」ときなのです。
この詩篇の記者は神様を知っていました。けれども「神様だけというのも、ちょっと窮屈(きゅうくつ)やな」と思っていたというのです。ところが、何か突拍子(とっぴようし)もない、恐らく大きな悩みに彼は遭ったのです。その悩みを通して65節に歌ったように「主よ、あなたはみ言葉にしたがってしもべをよくあしらわれました」と、初めて神様の真実に触れる。神様の御愛と恵みに御言葉を通して触れる。そして、68節にありますように「あなたは善にして善を行われます」。「あなたは善にして」と、神様、あなたは愛なる御方、「神は愛である」ということです。「善にして」とは善い御方でいらっしゃる。善い御方とは私たちを愛してくださる、愛に満ちた御方だ。そして「善を行われます」。私たちにとって、いちばん善いこと、最善なことをしてくださる御方だ。これを彼は初めて知るわけであります。そして71節「苦しみにあったことは、わたしに良い事です」と導かれて来るのです。苦しみに遭うことは決して良いことではない。誰だって皆そうです。苦しいこと、つらいこと、悲しい出来事、失望落胆させられるような事は、できるだけ遭いたくない。家内安全、無事息災、商売繁盛、学業成績優秀で、何もかもがとんとん拍子に行くことを多くの人は願います。ところが、聖書を読みますと、決してそのようにはどこにも書いていない。「あなた方は、神様のところへ来たら、もう何にも心配はいらない。悩みや苦しみ、そういうものは一切なくなる」とは書いていません。イエス様すらも「あなたがたは、この世ではなやみがある」(ヨハネ16:33)とおっしゃいます。また、「ヤコブの手紙」には「あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」(1:2)と勧(すす)めています。また、パウロは、「ローマ人への手紙」に「患難(かんなん)をも喜んでいる」(5:3)と書いています。どこを取っても「悩みがあるぞ、苦しみがあるぞ。しかし、心配するな」というのです。「イザヤ書」43章に「川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない」(2)とあります。火の中、水の中を行くとは危ない話ですね。しかし、そのなかにあっても心配するなと言われる。「わたしはあなたと共におる」とあります。神様が私たちと共におられることを体験する場所。神様に出会う、イエス様に出会う場所は、川の中であり、水の中であり、火の中です。そう言われると、ちょっと怖気づきます。引けてしまいますが、いくら逃げ腰になったって、神様がそのような中に置かれるわけですから、この際、私どもは早くあきらめて、神様が悩みや苦しみを与えられるときには、大いに感謝して引き受けたらいいと思うのです。逃げようとしたり、少しでも痛くないようにとか、同じ苦しみを通るにしても、もう少し軽いほうがいいとか言って、いろいろともだえ苦しむのです。そのときが苦しいのです。むしろ、覚悟を決めて、それこそエステルのように「我もし死ぬべくば死ぬべし」(エステル記4:16文語訳)と、命も何もかも、神様、あなたにささげたものですと、覚悟を決めて、火でも矢でも何でも持って来い、と心を一つにすれば、そこで主に会う。そこにおられる神様に出会うのです。
ヤコブがそうでありました。お兄さんエサウと大げんかをして、家におられなくなります。本来ならば、お父さんイサクの祝福を受けたのですから、彼が家に残っていいわけです。家督(かとく)相続をしたのですが、残念ながらそのために彼は家を出されてしまう。独り寂しく野宿をしていたとき、初めてそこで神様に出会うのです。彼は「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」(創世 28:16)と告白します。それまでは、家族からも捨てられて、兄との縁も消えて、一人きりになり、これからなじみのない伯父さんの家に行かねばならない。そこで何があるか分からない。そういう不安と恐れの中で一晩過ごしたときに、神様がご自身をあらわしてくださいました。
だから、まさに苦しみに遭うことは、実は神様を知るための大前提です。だから、人生を終わるまで決して苦しみや試練、試み、これは消えません。しかし、私たちは苦しい目に遭わないようにと願います。また、それを願ってはいけないわけではありません。大いに祈り求めたらいいのです。だからといって、悩みがなくなるわけではないことを知っておきたい。その悩み、苦しみの一つ一つは、神様が私たちに与えてくださることです。
「ヘブル人への手紙」12章5節から11節まで朗読。
5節以下に「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。6 主は愛する者を訓練し受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」とあります。いま申し上げましたように、私たちが受ける悩みや苦しみ、あるいは試練というものは、神様の恵みに出会うところ、いうならば、神様ご自身に、よみがえってくださったイエス様に触れる場所であるのです。これはまず大切な一つの事であります。私たちがイエス様に出会うのは、ゴルゴダの十字架です。イエス様は「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ 16:24、マルコ 8:34、ルカ 9:23)と言われます。イエス様に出会う、イエス様と共にある場所は、十字架を負う場所です。困難に遭い、苦しみに遭い、悩みに遭い、それらの事柄を通して自分の深い罪を知ります。自分の内にある苦しみや悩みを通して、本当に自分という者が自我の強い者であり、神様を押しのけようとする自分であることに気がつきます。そして、そこで悔い改めて、十字架に思いがいくとき、主に出会うのです。だから、悩みとか苦しみ、問題に遭うとき、実は神様が私たちを求めておってくださるときです。しかも、目の前に具体的な問題があります。その中でああしようか、こうしようか。あの人がどうして……、この人がどうしてと、いろいろなことで飛び回らなければならない。それを解決しようと、それを何とか解きほぐそうとしますが、神様が求めておられるのはその問題の解決ではないのです。必要ならばどんなにしてでも、神様は瞬時にして問題を解決することができます。ところが、問題の中に置かれて私たちは自分を知るのです。自分の性情性格、自分の内にある許し難(がた)い罪、神様に委(ゆだ)ねきれない自分、神様を神様として尊べない自分があることを知らなければなりません。そういうことに普段は気がつかないのです。問題がないとき、物事が順調に行っているときは、神様にいちばん近いところにいるように思いますが、それは大間違いです。むしろ、悩みに遭い、苦しみに遭ったときに、人の本性が現れます。いま穏やかで、にこやかな顔をしていらっしゃるけれども、ちょっとひねってご覧なさい。ギャーッと牙(きば)をむきますよ。隠しているでしょう。その牙を取り除くための試練です。そのためにイエス様が十字架にかかってくださった。のっ引きならない事態、自分が生きるか死ぬかという、自分のメンツが掛っている。そういう問題や人とのかかわり、人とのトラブル、物事の中で出てくるのです。ところが、人は本当に頑固(がんこ)ですから、もろに見えているはずですが、自分では見ようとしないのです。認めたくない。早く認めて、そこで打ち砕かれて、木っ端みじんに自分が死んでしまえば、実に幸いですが、そこで死にきれない。死にかけて死に切れない。半肉半霊といいますか、中途半端ですからいよいよ苦しいのです。それで、何とか自分なりに逃げ道を探す。そのためにせっかく神様が、受け入れるすべての者を訓練して整えようとしてくださるのに、スルッと逃げてしまって神様に出会うことができない。これは誠に残念なことです。ですから、私たちが悩みに遭ったとき、確かに問題ではあるけれども、いちばんの問題は自分、己です。病気などをしてみるとそのことがよく分かります。忍耐できない自分、苛立(いらだ)っている自分。その結果、周囲の者に八つ当たりしている自分がいます。同情を求める自分があって、なかなか神様に出会えない。神様が求めておられる、悩みを与えられるのは、まさにご自身に触れてもらいたい。先ほどお読みいたしました詩篇の記事にありますように「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」と語られています。「神様のおきてを学ぶ」、いうならば、それは神様ご自身に触れることができた、という喜びであります。「本当にここに主がおられるのに、私は知らなかった」とヤコブは告白しました。「神様、あなたが主です。私は本当に無です。無き者にすぎません」と徹底して自分を低くしてしまう。これは悩みに遭うからこそできることです。私たちがこの地上を終わるまで神様はいろいろな悩みをお与えになります。だからこそ、私たちは幸いだと思うのです。
それともう一つ、ここで語られていることは、6節「主は愛する者を訓練し受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」と言うように、神様が私たちを訓練してくださる。訓練とは、私たちを鍛(きた)えてくださるわけです。訓練されないと、やりっ放し、野放図(のほうず)といいますか、自由気ままで、無秩序な状態に陥(おちい)ってしまいます。だから、きちっと訓練を与える。
わたしはよく近くの公園を散歩するのです。そこには人間ばかりでなくて、犬も散歩につれてこられます。見ていると飼い主の性格がよく分かります。犬が飼い主の前を行く場合と、犬をきちっと自分の脇に据えて歩いている人とがいます。「この人は自分の犬をよく訓練している」と感心するときがあります。逆に、犬に引きまわされている人がいるのです。私は歩きながら眺(なが)めるだけで随分いろいろなことを教えられます。犬も訓練しないと我がままになります。それこそ“飼い犬に手をかまれる”ことになります。手に負えなくなります。ところが、よく訓練された犬は常に飼い主のそばにいて、絶えずその飼い主を見ています。よそを見ているようですが、神経はいつも飼い主に向けられています。飼い主は何気なく歩いていますが、犬はピシッとある一定の歩調でその飼い主に付いて行きます。右に曲がれば右に、左に曲がれば左に、その様子を見ていると、美しい、きれいです。ところが、キャンキャン吠える我がままな犬を見ていると、美しくない。厳しいようでも、しっかり訓練されると、犬ですら、そのものがもっている本来の美しさが引き出されるのです。
この時期になるとお庭の手入れで庭師さんが入ります。全然手入れをしていない家は野性美にあふれてはいますが、「何だ、ここは、怠(なま)け者だな」と思います。ところが、ピシッと手入れされた庭を見るときれい、美しい。だから、よく皆さんが、京都が好きで春や秋になったら出かけたりしますが、何を見に行くかというと、庭園です。何百年という長い伝統を持ったお寺がたくさんあります。そのお寺には必ず庭があります。どこのお寺に行っても、やりっ放しの庭なんてありません。隅から隅までピシッと手が入って、そこに植わっている木々は形よく刈り込まれて、見る者をして心を和(なご)ませる。原生林のようにグワーッと生い茂った庭を見ても、慰めはないです。だから教会の庭もできるだけきちっと整備しています。入って来られたら気持ちがいい。駐車場の植木がバアーッと伸び放題だったら、「ああ、眺めがいい」なんて思わない。一回刈り込むのだけではなく、繰り返し刈り込めば刈り込むほど、葉がきれいにそろってくる。同じ長さに変わってくる。葉っぱの一枚一枚がそろってきてズラーッと並ぶと、見事です。ところが、放っておくと、一本の枝から葉っぱの大きいもの小さいもの、自由気まま、勝手に出ますから、歯ブラシの古いもののような感じになります。
神様が私たちを整えてくださるのは、訓練によるのです。だから6節に「主は愛する者を訓練し受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」とあります。神様は私たちにいろいろな訓練を与えてくださる。そのなかで私たちが清められていくこと。いろいろなものに執着(しゅうちゃく)している自分の心、思いを整えて、それを清めて神様の主権、神様の力の中に自分を空け渡して行くことができる。ですから、11節にありますように「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる」とあります。確かに、神様から訓練を受けるとき、いろいろな試練の中に置かれるとき、初めは嫌です、苦しいです、つらいものです。ところが「しかし後になれば、それによって鍛えられる者」、その試練や訓練を本当に耐え忍んでいくときに、私たちに忍耐が与えられる。忍耐は更に練達を生み、練り清められた品性を整えてくださる。そして、やがてそれは希望につながっていくと「ローマ人への手紙」にあります。(5:3~)だから「鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」。絶えず神様と交わって、平安、動じない揺るがない安心、何があっても、事があってもなくても常に一定の変わらない穏やかな心で過ごすことができる者へ造り変えられていく。これが「平安な義の実を結ぶ」ことです。
「使徒行伝」を読みますと、ステパノという人が殉教いたします。彼はユダヤ人たちが怒り狂って石を投げつけてくるなかで、自分の死を目前にして顔は輝いていたのです。それは絶えず見えない主を見ていたからです。彼は殉教の真っただ中、苦しみの真っ最中の中にありながらも、心穏やかに平安でおられる。まさにこれは、「平安な義の実を結ばせる」鍛えられた者の恵みであります。神様は私たちをそうやって訓練し、鍛えて、神様の標準に達するように、神様の御心にかなう者に私たちを造り変えたい。神様の御心にかなう者とは、神の民にふさわしい者とすることです。また別の言葉で言いますと、キリストの姿かたちに私たちを造り替えてくださる。キリストの姿かたちとは、父なる神様と絶えず共にいるものとなることです。神様と絶えず一対一といいますか、神様と私という交わりが途絶えることなくいよいよ深くなっていく生活、これが私たちに神様が与えようとしてくださるものです。
といいますのは、イスラエルの民もそうだったのです。イスラエルの民は、父祖アブラハムの子孫として、神様が選びの民としてくださいました。やがてエジプトに寄留(きりゅう)しまして、四百数十年たって奴隷の生活を強(し)いられるようになりました。神様はモーセという一人の指導者を立てて救い出してくださった。それからの荒野の旅路、約束の地カナンを目指しての旅路、これは平たんなものではなかった。次から次と悩みや困難や苦しみ、戦いがありました。しかし、その中で神様はイスラエルの民をはぐくんでくださった。使徒行伝には「四十年にわたって、荒野で彼らをはぐくみ」(13:18)とあるように、神様はイスラエルの民を養育してくださった。育て上げてくださった。考えてみますと、イスラエルの民はカデシ・バルネアで失敗して、それから40年間荒野の旅路をいたしました。そんなに広い所でないと思いますが、そこで百万人近くの民族の大移動です。それが40年間にわたって続くという、これは神様がなさることで、私たちには到底計り知れないですね。どこかの旅行会社に頼んでご覧なさい。ちゃんとプランを立てて行き帰り10日間ですとか、あるいは30日間の旅行でうまく目的地に行くように仕組んでくれるに違いない。ところが、神様の旅行社は時間がかかるのです。同じ所を何度回ったか分からないかもしれない。よくそういう所を神様は通される。荒野の40年間の旅路は神様の大きなご目的があったのです。その一つは神様に背(そむ)いた世代が死に絶えてしまうのを待っておられたこともありますが、もう一つは、その旅路を通してイスラエルの民を清め、教育し、教えてくださった。神の民として生きる道を神様は彼らに教えられた。だから、荒野の旅路の途中でモーセに対して神様は律法を授(さず)けておられます。その律法が具体的に生活の中に根付いていくために、この40年の旅路が必要だったのです。その間に、このイスラエルの民がほかの民と異なったものとなる。ほかの民との違いは何であったかというと、神様が共におられることです。神様がイスラエルの民と共におってくださる、これがただ一つの根拠(こんきょ)であります。その証としてイスラエルの民の宿営地に必ず幕屋が設(もう)けられた。神様の「会見の幕屋」、これは「あかしの幕屋」ともいわれますが、ここにこの民と共に神様がいらっしゃるのです、という臨在をあらわすものにほかなりません。
いま私たちにとって同じことを神様は求めておられるのです。私たちは血筋によるイスラエルの民ではありません。しかし、一人一人が神様にあがなわれた、キリストの命をもって神様のもの、所有とされた者たち、いま私たちは神様の名によって呼ばれる民であります。だから、私たちをその名に、神様の御名にふさわしい者に造り替えたい。そのために今この地上になお命を与えてくださっておられる。そして、私たちにすべての必要なことを教えようとしてくださる。私たちが出会う試練といわれる事柄を通して、神様のおきてを学び、神様の御愛を知り、神様の力にあずかり、神様が私と共におられ、神様なしには生きられないことを、徹底(てってい)して教えられ、いよいよあがないの事実を自分のものとするために、今この地上にあって生かされているのです。
119篇71節に「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」。心からこのように言える人は何と幸いではないでしょうか。いろいろな悩みに遭ったとき、このように言えるでしょうか。「いや、苦しみに遭わん方が良かった」と、そう言っている間は、せっかくの恵みを取り逃がしてしまうのです。その中で主に出会うこと、主の備えてくださる恵みを受け止めることができる。71節に「これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」とあります。神様に出会うことができ、神様の私たちに対するご愛の御思いを悟ることができる。これが幸いな者です。「おきてを学ぶ」とは、そういうことです。御言葉を通して神様の心の深みを知る。それは御霊によって私たちに神様が教えてくださる恵みであります。
「イザヤ書」45章3節を朗読。
このお言葉は、私には忘れられないお言葉です。私が大学に入りまして親元を離れて独りで下宿生活をしておりました。その時代は今のようにメールがあるわけではないし、電話だって、まだ我が家にはありませんでした。いつも河本さんの事務所から、取り次いでもらっていた時代であります。だから、電話なんて、生きるか死ぬか以外は掛けない、そういう時代でした。そういう癖(くせ)が今も残っていまして、電話は大変苦手です。だから、手紙のやり取りをするわけです。しかし、これは時間が掛かるのです。今ですらも手紙は大体一日がかり、あるいはちょっと離れると2泊3日ぐらい掛かります。だから、一つ話を伝えたらその返事が来るまでに4,5日はタイムラグといいますか、時間差が出てきますから、読んだときにはこちらの問題は解決してしまっているという時代です。逆にそれは幸いなことで、親に頼ろうにも頼りようがない。「すぐに出てきてくれ」と言って、すぐに「じゃ、行こうか」という話にならない時代であります。そういう意味では幸いでした。そのころ、父が毎月手紙をくれます。教会の状況であるとか、あるいは家庭の問題であるとか、いろいろなことを、その時時のことを書いてくれるのです。その手紙の前半に御言葉とその解き明しがちゃんと書いてある。ショートメッセージが必ず入っている。そのときに忘れられないのがこの言葉です。「あなたに、暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて、わたしは主、あなたの名を呼んだイスラエルの神であることをあなたに知らせよう」。このお言葉を通して父がどのように導かれたか、ということが短く語られていました。ところが、そのころの私はさっぱり分からないのです。いま振りかえってみると、そのときに具体的に受けていた、悩みの中にあったことを知りますから「なるほど、こういう中で父が取り扱われながら、このお言葉に触れたんだな」と、よく分かるのでありますが、そのころはなにも分かりません。「何のことだろう、この話は」と思っておりましたが、今は私もよく分かります。ここに「暗い所にある財宝と、ひそかな所に隠した宝物とを与えて」とありますが、「暗い所」、「ひそかな所」とは、こんな所に良いことが有るだろうか、と思える事態や事柄。自分にとっては不幸の極(きわ)み、こんな暗い所、こんな何にも見えない、皆目(かいもく)何にも分からない事態に置かれる。実はその中に財宝があり、宝物がある。そういう暗い所、ひそかな所、いうならば、試練、苦しみ、悲しみ、失望の中に神様は財宝、宝物を隠して、そのことを通して、わたしが主であるよ、あなたの神であるよ、と教えてくださるのです。
「こんな苦しいつらい目に遭って、私は人生を無駄に過ごしてしまった」と言って嘆(なげ)きますが、実はその人生を無駄にしてしまった、と思えるとき、それこそが暗い所であり、ひそかな所でしょう。そこにこそ財宝があり、宝がある。それを備えておられる神様がご自身を私たちに教えて、現わしてくださる。主に触れる本当に恵みのときです。だから、いろいろな悩みや試練に遭うとき、逃げないで、おじ気づかないで、そこでペッシャンコにならないで、パウロのように「四方から患難を受けても窮(きゅう)しない。途方(とほう)にくれても行き詰まらない」(Ⅱコリント 4:8)と、何があっても動じないと、彼は語っているように、私たちも悩みに遭うとき、苦しみに遭うとき、試練といわれる事柄の中を通るときこそ、真剣に主を呼び求めて、主の平安な義の実を結ぶ者へと造り替えられて行きたい。
詩篇119篇71節以下に「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。72 あなたの口のおきては、わたしのためには幾千の金銀貨幣にもまさるのです」。神様の一言の重み、あるいは慰め、望み、力というものをしっかりと受け止めて行きたい。ここに「幾千の金銀貨幣にもまさる」とありますが、「いや、私は幾千とも言わないけれども、少々の金銀貨幣が欲しい」と、そんなことを思っているから、迷い続けるのです。
主の口のおきて、神様の約束のお言葉をしっかりと握って、与えられた試練、苦しみと思える事柄を、患難の中をも耐え忍んで、「忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出す」(ローマ5:4)、主の宝に出会って、主を喜ぶ者へと造り替えられたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。