いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(264)「心の王座に主を据えて」

2014年07月19日 | 聖書からのメッセージ

 詩篇96篇1節から13節までを朗読。

 

 10節「もろもろの国民の中に言え、『主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる』」。

新しい年を迎えて、それぞれに希望を持って踏み出されたことだと思います。こういう時に当たって、もう一度私たちの人生、生活、存在、生きていることの根本、土台について、しっかりと確認をしておきたいと思います。と言いますのは、いま住んでいる世の中は、誠に混とんとした時代、いろいろなものが乱れてしまった時代です。政治も教育も経済界もそうですね。連日ニュースで報道されるように、政治家たちも自分の選挙区のことばかり、自分の首がつながるように次なる選挙をうまく戦うにはどうするかばかりを考え、人々のこと、国民のこと、福祉や生活のことをどうしようかという話は一向に出てきません。それぞれが勝手勝手にいろいろな方向に向かって語っていますが、どれを取って何を信じたらいいか、なにを中心に据えていけばいいのか、これが分からなくなっている。混とんとは、中心がなくなることです。経済界もそうですが、何十年か前、日本が何もかも失ってしまってゼロから出発したとき、日本の企業には日本なりのある一つのルール、決まった秩序というものがあったのです。ところが、だんだんとグローバル化と言いますか、世界の企業に負けないようにということで、日本の企業がその体質を変えていきました。その結果がどうなったかというと、いま聞くようにあちらこちらで派遣切りにあい、職を失い、食べる物も住む所もなくなってしまう。それが一夜にして起こります。じわじわと何年か掛かってそのような状態になるのではない。ハッと目が覚めたら、自分には住む所も食べる物もない、そういう世の中になってしまった。それは企業家や経営者の哲学と言いますか、人生、人間に対する、生きることに対する根本的な中心が抜けているからです。ただ目先の利益追求、社長なり、何か責任ある地位に立つと、自分の地位を守ること、与えられた任務を遂行することだけが目的で、結局は自分中心なのです。会社で働く従業員たちがどういうことになるか、そういうことは一向に考慮しない。また教育でもそうでしょう。年ごとに文部科学省が教育方針を決めます。そのたびに右に左に、左に右に教科書一つまともに10年同じ内容だったことはない。そのため、現場にいる教師はいろいろな問題を抱え込んでいる。あるときは「ゆとり教育」と思ったら、今度は「それは間違っていた」とひっくり返ってしまう。

 

では、私たちの家庭や生活がきちんとなっているかというと、これまた家庭が分解してしまっている。子供を教育するのに熱心なあまり塾にやります。学校が終わってから、子供は夜10時も11時も塾に行き、夕食も家族と一緒に食べることがなくなっている。子供は子供、親は親。親は親でこれまたお母さんも働き、お父さんも働く。何のために働くか?豊かになりたいということでしょう。30年ぐらい前ですが、そのころアメリカが今の日本のようだったのです。というのは、夫婦共稼ぎが増えまして、子供を学童保育、アフタースクールに通わせるような制度になっていました。「どうしてそんなにしてまで働くのだ」と私は尋ねました。すると「主人の給料でも生活ができないわけではない。食べられないのではないけれども、もう少し豊かになりたい」という、そのために働いている。だから、言うならば三食まともに食べられるのだけれども、もう少しいい暮らしがしたい。いい車に乗りたい。もっといい家に住みたい。だから、一人だけの働きでは足りないから、奥さんも働く。そうやって家計が膨らむから、今度はそれを小さくできなくなって、家庭が崩壊していく。そのような話を聞いて、「アメリカ人は何て馬鹿なことをしているのだろう」と思っていましたら、最近見ていると日本がまさにそうです。夫婦共稼ぎ、もちろん女性が家にいるべきだというわけではありません。女性が働いて男性が主夫になって家にいるケースも最近は増えてきましたから、それはそれでもいいと思いますが、とにかく中心になるべきものがなくなって壊れていく。家庭の中心に何があるのか。母親は母親、父親は父親、子供は子供、お互いが何をしているか分からない。ただ同居をしているような家庭になってしまう。今はそのような混とんとして秩序が失われてしまった時代です。

 

一人一人の心の中に秩序と言いますか、核となるものが消えてしまっている。自分自身が何者であるかが分からない。自分にはどのような生き方が正しいのか見えなくなっている。昔は曲がりなりにも、日本の社会には、先祖から、親やおじいちゃんおばあちゃん、そのまた上から受け継いできた物の考え方がありました。こういうときはこうすべきであって、これはしてはいけないとか、こういうときにはこうすべきだと、社会全体で認めていると言いますか、それを尊ぼうというルールのようなものがあって、ある程度まとまっていた時代がありました。だからといって、そこへ戻れということを言いたいわけではありません。しかし確かに社会全体がよしとする暗黙のルール、あるいは生き方に乗っ掛かったのです。では、本当にそれでよかったかというと、これがまた問題がありました。人間が中心になって作り出したルールですから、そのために被害者になるような事態も当然起こってきました。しかし、そのようなものは排除されて、取りあえず秩序を保とうということに社会が合意していた時代があります。ただ、それは今申し上げましたように正しい生き方であろうか?ということはもう一つ問題です。結局、一人一人の心の中に、自分が動かない、一つの秩序を持つことです。

 

聖書を読んでいますと、必ずそのことが出てきます。神様がいらっしゃると聖書は語っています。神様がいなければ私たちは存在しない。ですから、創世記のいちばん最初に「元始(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」(1:1文語訳)とあります。神様が始めに天と地を造られた。では、天と地が創られるまで何があったか?初めに神様がいたのだと決定的に言われている。聖書のいちばんの土台はそこにあるのです。創世記1章1節の御言、これが土台になって、あとのものが全部出てくる。ここに一つの秩序が始まる土台、すべてのものの根源になるべきものがドシッとあります。だから、聖書の「元始(はじめ)に天地を創造(つくり)たまへり」と、この一言で聖書のすべての次なる言葉が決まってしまう。まず神様がいらっしゃるのだと。そして、神様が一つ一つの事柄を創り出された。創世記を読みますと、第一日目に何を創り、第二日目、第三日目…、そして最後に人をお造りになったとあります。これは一つの順序です。最初に人間を造ってもよかったのでは?あとで太陽を、そのあとで草や木やそういう物でもよかったのではないかと、私たちは思いますが、これはそれ以外の順序はないのです。言うならば、神様がまずいらっしゃって、その次にこれが出来、その次にこうなって、そして、その次いちばん最後に人が神によって造られたという、きちっとした神様の創造の手順、置かれた道筋がある。これは聖書全体を通して語られている大切な事柄です。神様がいらっしゃって、神様によってこのことが起こり、その次にこのことが起こって、その相互はばらばらではなくて、一つの見えない神様の摂理に統一されていく。これが聖書を通して神様が明らかにしていることです。それは私たちの外側のことであると同時に、神様がこの世界をお造りになったのと同じように、小さな世界を私たちの心の中に創造してくださるのです。神様の造られる秩序と言いますか、安定したものが私たちの内にないと、心が混とんとしてきます。闇に覆われます。その結果、何が正しくて何が間違っているかの判断ができなくなる。また何を最初にして何を次にすべきか、手順が分からなくなる。家族から判断を求められる。「お母さん、これどうしようか?」「ええ!どうしよう」と。「あんたどうするの?」と尋ねるではないですか。自分の中にどうしたらいいかが分からない。どこに自分を向ければいいか分からない。まさに私たちの心が崩れているのです。先ほど申し上げましたように、今の日本の外側に現れている政治や経済や、教育であろうと家庭であろうと、そういうものの崩壊のいちばんの根本は一人一人、その社会を構成している私たちの心の中が無茶苦茶に、混とんとしている証拠です。きちんと整っていない。整うということは秩序正しくなることです。順序がきちんとなることでしょう。私たちが朝起きるでしょう。「今日、何をしようか」と、別にすることはないし、手帳を見ても予定はないし、そうすると途端に頭の中がクラクラッとして「まぁ、いいか。取りあえず、朝食をまずはしなければいかん。何を食べようかな?何かないかな」と冷蔵庫を開けて「食べたくない」と閉めて、またどこかごそごそその辺を探して、決まらない。自分で決められない。その挙句イライラして「今日は日が悪い」と言って不機嫌になる。日が悪いのではない、自分の心が定まらない。どうしていいのかが、自分でやりながら、自分が分からない。言うならば、そのような心の無秩序が私たちの内にある。だから、ついいろいろなスケジュールを前もって立てる。それに乗っ掛かればいちばん楽ですから。朝何時に起きて、何時にこうしてああして、明日はこうしてと。だから、翌日、自分のスケジュール表が真っ白だったら不安になる。だから、あちらに電話し、こちらの友達を誘って早くスケジュールを埋めようとします。それで決まると、明日も頑張ろうとなるでしょう。そのように、私たちは何か秩序がないと落ち着かない。きちんと整って、順番が定められていることが大切なのです。ところが、それが日によって変わっていく、根無し草のようになってしまう。これが今いちばん問題にしなければならない事柄です。社会がどうだとか、あるいは世界がどうだとか、世界の秩序がとか、そのように大きなことを言わなくてもいいのです。それはそれとして、「では、あなたは?」ということです。いったい何が私の心の中心になるのだろうか?自分でよく分からない。何をしたらいいのか、あれをしていいのか、してはいけないのか。何が良くて何が悪いのか、何を先にすべきなのか、何をあとにすべきなのか。だから、日々の生活でちぐはぐになるではないですか。「あら、まぁ、こんなことどうして今しているのだろう」。急いでしなければならないことがあるのに、ほかのことをやっていて、「あら、時間がなくなった。もう礼拝に間に合わない」、礼拝前にタンスの整理でもしていたり、訳の分からない、脈絡のない相前後つながらないような生活をやっている。そのような生き方は、私たち本来のあり方ではない。なぜなら、そこには生きがいがないし、達成感がない。だから人はいろいろな目に見える状態や事柄に打ち込もうとします。それで安心を得たいのです。ところが、その打ち込んでいるものも、肉体的な限界がありますから、寄る年波には勝てなくて、したいものもできなくなる。そうすると、ますます無秩序の中に落ち込んでしまう。これが私たちのいちばん問題としなければならないこと。ところが、それに慣れてそういう生き方をしてきて、これでいいぐらいに思っていますが、風の吹くまま気の向くまま足の向くまま、どこに向かっているのか分からないという生き方、これはむなしい生き方です。人として生きる命にあずかることができない。だから、私たちに、神様が「わたしが主であるよ」と語ってくださっている。

 

今、読みました詩篇96篇3節以下に「もろもろの国の中にその栄光をあらわし、もろもろの民の中にそのくすしきみわざをあらわせ。4 主は大いなる神であって、いともほめたたうべきもの、もろもろの神にまさって恐るべき者である」と詠われています。ここに「主は大いなる神であって」と。「いともほめたたうべきもの」、まず、神様を私たちの土台にしていくこと。なぜならば、神様がすべてのものを造り出し、すべてのものに生きる命を与え、力を、知恵を与え、ことごとくのものの生き方を整えてくださっている。

 

イザヤ書40章21節から24節までを朗読。

 

今お読みいたしましたこの21節に「あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基(もとい)をおいた時から」とあります。「地の基」すべてのものの根源である神様が、その土台を据えてくださった。そして、その土台の上に一つ一つ神様がすべてのものを秩序だって造り出してくださった。それがいま私たちの住んでいるこの世の中であり、また私たちがその一部分となっているのです。ですから22節以下に「主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、23 また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる」。言い換えますと、神様がすべてのものの根源と成って、そして、神様が一つ一つの王を立て、王を廃し、国を興し、人を造り、人を生かしめ、そして置いてという、一つ一つグランドプラン、きちんとした計図を作り上げてそのプランにのっとって支配しておられる。その神様の秩序、それを無視してしまうところに私たちの不幸の始まりがある。本来私たちは神様から造られ、神様の定められた一つ一つのわざ、事柄の中に私たちを生きる者としていらっしゃる。ところが、その神様を忘れて自分のルール、自分たちの勝手な方法や手段を使って、神様によらないで生きようとすると、先ほど申し上げたように無秩序になってしまうのです。詩篇に、私たち一人一人を神様がお母さんの胎の内に形作ってくださったとあります。言うならば、全体のことは分からないのですが、神様が定めてくださった摂理、神様のルール、神様の決められた地図、プラン、そのようなきちっとした枠の中に、実は私たちはいるのですが、それを認めない、無視しているところに、私たちの失敗がある。だから、詩篇139篇には、お母さんのおなかの中に私たちを造ったうえで、「あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた」とあります。そればかりでなく、「あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます」。神様は造り主、メーカーですから、ご自分が造られた製品については何もかも全部知っていて、その製品がどういう役割、どういう働きをすべきか、きちっとした秩序の中に私たちは生きているはずです。ところが、それから外れてしまって、勝手に自分で生きようとしたら、生きることができません。神様が中心ですべてのものがその枠の中にきちっと秩序だって存在する。

 

天体がそうですね。太陽系では太陽を中心にしていろいろな星がきちっと運行されています。ぶつからないように神様がすべてのものを、秩序をもってご支配している。また大宇宙もそうですね。一つのきちっとした神様のルールがあって、それにのっとって運行する。だから、前にもお話したと思いますが、アポロ計画で人が月に行きました。その時、世界中がテレビにかじりついて見ました。白黒テレビで月に人が降りた場面を見ましたが、「人間もこんなすごいことをするのか」と多くの人が感嘆しました。ところが、福岡のFさんは、家族が「すごいな」「すごいな」と言っていたとき、「何がすごいもんか。神様がしているんだ」と言われた。「そんなことはない、お父さん。アメリカのアポロ計画で皆が知恵を集めて、現代最新の科学を集中して月にまで行ったんだから」と。「馬鹿を言うな」と言われる。なぜなら、月と地球がある一定のきちっとした周期で回っているから行き着くのであって、もしこれがいつどういう軌道で月が回るのか定かでなければ、これが早かったり遅かったり気まぐれだったら、人がどんなことをしても月に行き着くことはできない。神様が大宇宙を動かない確固とした一つのルールできちんと運行しているから、それに人がちょこっと乗っかっただけではないかと。そう言われてみたらそのとおりで、ロケットは発射した瞬間、月に着くわけではない。何十時間か掛けながら飛んでいくでしょう。今真上にあるから発射しようと、発射したって、いくら真っすぐ飛んで行っても、月は動いています。動いている月の速度と軌道をきちんと測って、それに合わせてまだ遠くにいる所から、ロケットを打ち出して、それをピタッと合わせる。では、ピタッと合うように誰がしたのか。人がしたのではない。神様がきちっと動かしているからでしょう。

 

すべてのことがそうなのです。皆さんが自分の人生だと思って、「私が」、「私が」と、この一年もいろいろなプランを立てているでしょうが、そんなものはどうなるか分からない。神様の許しがなければなにも起こらないのです。ですからイザヤ書40章22節以下に「主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、23 また、もろもろの君を無きものとせられ」とあるように、歴史を導き給う御方。人を立て、人を廃し、すべて神様が力あるご計画と秩序をもって支配してくださる。そのあと23節以下に「また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる。24 彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる」。どんなものでも、神様のご計画、神様の御思いによって、一つ一つのものがきちっと秩序だって定められている。その秩序の中に、私たちは帰って行かなければならない。25節以下に「聖者は言われる、『それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか。26 目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ』」と。この年、すべてのものの土台、要(かなめ)となっている秩序、神様の見えない大きなご計画、そのプランの中にあって、今ここに生きていることをしっかりと自覚していただきたい。自分はどこに行くのか分からなくても、明日のことは分からなくても、神様は知っている。私たちに生きる命を与え、食べる糧を与え、着る物を与え、また住む場所を与え、働く力を与え、知恵を与え、神様が備えてくださることがある。だから、26節に「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ」、すべてのものを計り知ることのできない摂理に基づいて、神様の理に基づいて、きちっと置いている。だから「これはなくてもいいじゃないか」とか、「これはちょっと無駄ではないか」と、そういうことを人は言いますが、決してそうではありません。神様の定められた秩序の中で、一人一人がそこにいなければ完成しない神様のご計画があります。そういうものとして私たちは生かされているのです。そして、私たちの心の思いも神様の秩序とピタッと重なり合っているのです。

 

ですから、詩篇96篇7節以下に「もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。8 そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。9 聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ」。ここに「主に帰せよ」と繰り返して、7節、8節に語られています。「主に帰する」こと、一切のものを神様のものとして、神様の創造のわざの中に私たちがあることを認めていくことです。だから、どんなことも「これは神様のご計画によるものです」と、きちっと心に定めていくこと。ともすると、そう思わないのです。「私があんなことをしたために、あんな結果になった」、「若いとき、あんなことをしなければよかった」、あるいは「あの人があんなことを言って、そして私がつい引っ掛かってしまったものだから、こんな不幸な目に遭った」など、あれが原因、これが原因、これがこうなって、あの人がこんなことをしたから私がこうなったと思いますが、そうではなくて、「主に帰する」。そのような事も、どれもこれも神様が、私たちには分からないけれども、備えておられる、それを必要としてくださったことなのだと認めてなければなりません。そうなると、失望する必要がないのです。あるいは、恐れたり心配をしたり、これからどうなるだろうかと考え、思い煩う必要がない。なぜならば、私たちの大きなことも小さなことも、すべてを神様が定められたごとくに、秩序だって導いてくださる。神様の秩序を私たちが心の内にきちっと組み立てていくことが大切です。

 

10節「もろもろの国民の中に言え、『主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる』」と。「主は王となられた」。王様という言葉を聞いても、私たちはあまり身近にピンときませんが、王様は絶対君主です。王様の決めたことが法律ですし、王様が力を尽くして民を導き、民に安心を与え、安全を与えます。また王様が司法と言いますか、法律を執行する行政でもあり、それを裁く御方でもあります。だから、王様が中心になって、その方がすべてのものの計画を立て、ことを定め、秩序を維持していく。国でもそうですが、王様がきちっと立てられて、その民が福祉にあずかるわけです。もっとも人間の王様は出来損ないが多いから民が苦しむ結果になりますが、神様が私たちの心の王となってくださるとき、この今申し上げた秩序が作り出されます。大宇宙を創造された神様の摂理に基づいて、私たちの内にもっと小さく、身近な宇宙を神様が造り出してくださる。神様を王として認め、その王によって私たちの心の混とんを整えていただくのです。王様が私たちの心に君臨してくださるならば、私たちは常に平安でいることができる。安心があるのです。心に王様がいなくて、何か訳が分からなく混とんの状態になると不安を感じます。イライラしてきます。だから「主は王となって」、私たちをご支配し、私たちに秩序を与えてくださる。何をし、何をしてはいけないか、きちっと決められるのは王様です。その王様に私たちの心を支配していただく。その時初めて私たちの内にきちんと整った秩序が作り出されて、心が不動のものとなる。それがないと何か心配なこと、何か事が起こると、いろいろな人の情報を聞くでしょう。あの人の話を聞いたり、この人の話を聞くたびに、心があちらに向いたり、こちらに向いたり、定まらない。「浮き草のように」と聖書にもありますが、私たちの心が波のようにいろいろなもので千々に乱れるのです。そこに主が王となってくださったのです。神のひとり子が、神なる御方が人となって、私たちの所へ来てくださったのは何のためか?そのように混とんとして無秩序になって失われていた私たちに宿って、天地万物の創造者でいらっしゃる神様が秩序を作り出してくださる。そのためにひとり子イエス様がこの地上に来てくださったのです。

 

10節「もろもろの国民の中に言え、『主は王となられた』」。私が王様でも、誰が王様でもない。王様でいらっしゃる神様が、ひとり子のイエス様が私たちの王となって、私たちに君臨してくださる。ですから、その王様を中心にして、すべてのものがつながっていく。私たちの今日の一日、一年の一日一日、何をすべきか、どこへ行くか、何が最初に来て、何を先にするべきか、すべてを定めてくださる。そうなると心が動かなくなる。何が来ても、日が照ろうと、風が吹こうと、嵐が来ようと、どんなことがあっても動かない心になる。これが私たちの何よりも幸いなことです。動かない心は、取りも直さずきちんと秩序だっている心です。その秩序の頂点に何が立っているか?ここに神様をきちっと据えて行きますならば、岩のごとく不動の心になる。といって、頑固になるという意味ではありません。神様の御言に支えられ、励まされ、力づけられ、神様が一つ一つ備えてくださることを感謝して受けることができる。実に暖かく、柔らかく、しかも、輝いた心に変わっていくのです。今日、自分の心には何か寒い風が吹くと思うのでしたら、自分の心の中心に何が据わっているのか。自分が王様になっているのかもしれない。あるいは、あの人が、この人が、この仕事が王様になっているかもしれない。といって、その王様は力がありませんから、心の中にいろいろな悪しき思いがウジャウジャとわいてくる。そして、心は千々に乱れて混とんとしてしまう。失望落胆して、だんだん生きる力がなくなる。

 

10節「もろもろの国民の中に言え、『主は王となられた』」、主は王となってくださった。私の王となってくださったことを信じるのです。この王を王として尊び敬う。一方的に王様が「おれはお前の王様になったよ」と言っても、こちらが「いや、そんなこと、私は知らん」と言ったらおしまい。「王様になってあげるよ」と言われるのですから、私たちも心から「あなたを私の王として迎えます」と答えましょう。この両方がなければ役に立たない。だから、自分自身の心の内を探って、何が私の力なのだろうか?私の土台はどこにあるのだろうか?私の王様、私が仕えて行くべき、従うべき御方はどなただろうか?その心の中を探っていただきたい。もし、そこに何もなかったら、心が混とんとして闇に覆われているのでしたら、「主よ、あなたは私の王になってください」と願う。「王となった」と言われるのですから、「はい、主よ、あなたは私の王です」と、王様として主を、神様を心の中心に据えていきたい。

 

そうなると「世界は堅く立って、動かされることはない」。どんなことがあっても「動かされることはない」。どんな嵐が来ようと、何が来ようと、その御方が私たちの王となって、守ってくださるし、力を与えてくださる。私たちの生活のすべてを導いてくださる。きちっと順序正しく私たちを導いてくださる。この御方を心から信じて、信頼して、従っていきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

 


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