コリント人への第二の手紙12章1節から10節までを朗読。
9節「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」。
聖書のお言葉を通して私たちは神様に造られた被造物であることを教えられています。創世記の最初を読みますと、森羅万象、あらゆるものが神様の手によって造られたと記されています。聖書の最初に「はじめに神は天と地とを創造された」とあります。神様が創造される以前は何にも無かったのだとあります。「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」だけです。何にも無い所に神様がすべてのものを創造なさったと記されています。それを当然のこととして読んでいたのですが、ではなぜ神様はお造りになったのだろうか、神様はそんなものを造る必要はないのではないか。でも神様は造られたという。造るには何か意図があるはずです。目的がある。聖書の御言葉によると、神様は私たちをご自分の作品として造られたとあります。
作品というその言葉から、私どもはいわゆる芸術作品、絵画や音楽や彫刻であるとかを想像します。建築などもその一つだと思いますが、その芸術家はなぜそれを創るのか。それはやはり自分が持っている力を現したい、自分の持っている素晴らしさを確かめたいという情熱があります。ミケランジェロやダヴィンチ、あるいはロマン派のいろいろな画家がいますが、そういう人たちはやはり描きたかった、創りたかったのです。やはり自分の内にある何かを表現したい、表したいと思います。
神様も恐らくそうだったのだと思います。神様は自分ひとりでは寂しいから仲間を作りたかったわけではないと思います。聖書には「神の栄光をあらわす」という言葉で記されています。「神様の栄光をあらわす」と言われても、何のことか分かりません。「栄光」って何のことだろうか。具体的に言うならば、神様の力であるとか、わざであるとか、神様の優れた事柄、神様の持っている性質、そういうものを具体的に明らかにしたい、これが神様の創造のご目的であったでしょう。だから、神様は森羅万象、草も木もまたすべての生き物も、何もかもご自分が理想とした、自分が思い描いたように造られたのです。神様は一つ造っては「良く出来た」。次にまたこれも造って「ああ、良く出来た」とそう言って全部お造りになって最後に人を造られたのです。そして、人を更にご自分に似たものとして造ったのです。ということは、神様が精魂込めてと言いますか、ご自分の力のありったけを注ぎ込んで人をお造りになったのです。そしてエデンに園を設けて、そこにすべての作品を置かれたと。
模型の列車を走らせるマニアの人がいますね。先だってもアメリカへ行きました時にある場所へ行きましたら、そこに大きなホールがあって、そういう趣味の人が集まるクラブがありました。複雑な線路が組み立てられて、私より年配の人たちが4,5人集まって列車を走らせながら、あっちに行っては眺め、こちらに行っては眺めている。私もそれを見ていましたら、寄ってきて説明をしてくれました。時間がなく、ゆっくり聞くことができませんでしたが、うれしそうでした。まるで本物そっくりです。大きな台の上に山も谷もあり、川もあり、鉄橋もトンネルもあり、駅舎もあり、ちょっとした村のようなものもありました。真ん中に山を置いて一つのジオラマができていました。それを見ながら、神様はエデンの園をこのように造って、人間や動物を配置されたのかなと思いました。神様がご自分の栄光のためすべてのものを見える形で存在させる、造り出す。これが神様が人を造られたひとつのご目的、あるいはすべてのものを造られたご目的だと思います。大自然を見て、大海原、また宇宙にある人工衛星から眺めた地球の写真などを見ますと「地球ってこのようにきれいに造られて」と驚くほど、実に見事です。天体と言いますか、宇宙と言いますか、そういうものがどのように成り立っているか詳しくは分かりませんが、とにかく広大な領域です。そういう中でたった一つ地球だけ、まるでエデンの園のような一箇所を設けて、そこに神様のすべて作品がまるで模型のごとく組み立てられている。その地球に住んでいる私たちはいろいろな自然を見ると、人の知恵を超えた驚きを感じます。最近はテレビのドキュメンタリー番組を通して、自然の不思議を映し出してくれます。ミクロの世界からもっと大きなマクロの世界まで私どもは居ながらにして見ることができますから、誠に幸いですが、見ているとこんな所があるのかと思うようなことがあります。そういうのを見ると「これは本当に人のわざではない」と思う。まさにその事が神様のご目的です。まさに神様がそこにいらっしゃるのだということを証詞する存在としてすべてのものがある。そして、神様は乏しい方ではなく、あふれるばかり豊かな力とわざを持ち給う御方でいらっしゃることを明らかにしてくださる。草花を見るだけでもそうですね。私どもが(講壇にある花を指して)花の形を見、色合いを見るだけでもそこに一つ一つどれ一つ手抜きなしです。神様はこの辺は人が見る所ではないからちょっと手を抜いておこうかと思わない。どんな山奥でも、人も来ない所であろうと、そこにきちっと季節ごとに事を進めている。それらを見ることによって、それらを通して神様はご自分がどんなに素晴らしいかを明らかにする。神様はご自身それだけで十分ですが、なおかつご自分の力を具体的に見えるもの、形として神様の栄光、神様の素晴らしさを証詞されるのです。
本来人も同じように神様の栄光をあらわすべきものとして造られたのです。ところが、私たちが神様を離れて、自分の力を誇る者となった。神様ではなくて自分の栄光、自分のわざ、自分の計画、自分の思いを遂げることです。神様のものを自分のものに奪い取ったところに人の罪があるのです。ところが、神様は初めからそのように造ったのではなくて、私どものあるべき姿は神様のものとして生きることです。しかし、今申し上げましたように、すべての人はそこから離れてしまった。ローマ人への手紙3章に「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(23節)とあります。「神の栄光を受けられない」ことは、言い換えると、神の栄光を輝かせるべき存在であった私たちが、その栄光の輝きを失ってしまった。そして自分の力で輝こう、自分の力で光り輝いて自分を見せようとしている。旧約聖書にバベルの塔の記事がありますが、人が知恵を働かせて神に届こうとする塔を建てる記事です。それほどに人間はごう慢、高慢になっていった。これが私たちの罪の姿です。ところが、神様は「こんな者はいらない」と捨ててしまうことができない。なぜならば、神様はこん身をこめて、私たちをいちばん神に近いものとして造ってくださったからです。だから、詩篇8篇にダビデはそのように歌っている。「ただ少しく人を神よりも低く造って」(5節)と、「そして私たちを顧みてくださっていらっしゃる。なんと驚くべきことではないか」と歌っています。神様は私たちをいちばんご自分に近いものとしてお造りになっただけに、これを捨て難いのであります、惜しいのです。
私たちでもそうだと思います。一生懸命に作ったけれども、ちょっと形がいびつになったとか、どこか欠けておったといっても、「じゃ、捨てようか」と簡単に捨てられない。やはり何とかならんものか、何とかこれは作り替えられないものかと思います。同じように神様は、もう一度、その出来損なった、失われた私たちをもう一度取り戻してくださる。それは、ご自分の栄光のためにです。ですから、今こうやって神様の憐(あわ)れみにあずかって、イエス様の救いに引き入れられて、神の子、神の民として信仰によって生きる者とされました。これは、私たちのためというよりは、実は神様が願っていることなのです。エペソ人への手紙に「私たちが神様の救いにあずかるのは神様があらかじめ、まだ生まれない先から私たちをご計画のうちに選んでくださって、愛のうちに選んで」しかも「御旨のよしとするところに従い」とあります(1:4,5節)。言い換えると、私たちをそうすることが神様の喜びであるのです。今私たちは形の上といいますか、実際の問題から言うと、自分の人生の悩みとか生活上の困難とか、あるいは自分自身の性状性格の問題、悩みの中から「何とか、宗教ぐらい信じるか。まぁ、一つぐらい信仰をしておこうか」、あるいは「何かこの悩みから救われたい」と思って、必死の思いでやって来たのが教会だったかもしれません。そして救いに与り、「ああ、助かった」、「私のために神様はこんなにしてくださった」と思うかもしれませんが、神様の側から言うならば「あなたのためではないよ」。「わたしがわたしのためにあなたを必要としている」とおっしゃるでしょう。時々、この辺が神様の意図と私たちの願いがちょっとずれるのです。神様の意図と私たちの求めるものとの方向がすれ違っている。だから、きちんと神様のご目的に自分を合わせて行かないと駄目ですよ。最初は問題や事柄を通して求める心を起こされます。ところが、神様のご目的は悩みを取り去り、思いどおりに願いを実現するために私たちを招いたのではないのです。そう言われるとがっかりされて、「そうなのか、じゃ、ほかに行くわ」と言われる方もおられますが、神様は私たちを神様の栄光の目的のために選んでこの救いに引き入れてくださった。それは同時に思うよりも願うよりももっと素晴らしいものを与えたいからです。だから、ご利益を求めるならば、それに対して神様はもっと大きなご利益を与えようとしてくださる。ところが、私どもはそれが分かりませんから、自分のちっぽけな、あるかないか分からないような願い、それにしがみついて、「神様、どうぞこれを何とかしてください」「これをこうしてください」「あれをああしてください」といろいろ注文をつけます。それに対して神様は「分かった。それよりもこうしてあげよう」とおっしゃる。別の道を示してくださるのに、私どもは不満で仕方がない。「どうして神様は私の言う事をしてくれないのだろう」と。神様のほうが私たちよりも知恵が大きいのです。先々を見通しているのです。だから、小さな子供たちでもいろいろなことを要求します。「今度の誕生日にあれが欲しい」とか、「このプレゼントが欲しい」と言う。でも親はやはり考えます。今これを買ってやるよりはこちらのほうが良かろう。やがてこれが必要になってくるに違いないと思うから、それをやるでしょう。そうすると子供は不満です。
名古屋にいたころ、知人の子供が小学校へ入るとき、牧師先生がお祝いをしてあげましょうと、私どももその子供を連れて買い物に出かけました。先生は「これを買ってあげましょう」と、習字道具を買ったのです。すると子供は喜びません。小学校一年生、今から入学するというのに習字道具です。でも大人としては「将来3年生ぐらいになったらこれもいるだろうから、今のうちに買っておいてやろう」と、ちょっと早過ぎましたが、やはり将来を考える。しかし、子供にとっては面白くない。今目の前の、すぐ役立つもの、自分の好きな物、自分が欲しいものを求めます。神様もそうなのです。私たちに応えてくださるのですが、私たちにはそれが分からない。これは実に情けない。神様は私たちの祈りに一つ一つ答えようとしているのですが、私たちは常に自分のことばかり、求めるものばかりに心が向いている。それが実現しないと言っては不満、つぶやきますが、それは大きな間違いです。神様の御業、神様の栄光こそが実は私たち一人一人にとって最高の生涯でもあるのです。それが分からないから、神様はどんなに歯がゆい思いをしているでしょうか。「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている」とおっしゃる。「それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(エレミヤ 29:11)。神様の与えたいと願っていることは、この世でも得られないほどの、いちばん善いものです。しかし私たちはそれを理解できない。ここが人の浅はかなところです。今、神様は私のためにいちばん善い事をしてくださっていると言える者でありたいと思います。神様はそのようなご目的のために多くの人々の中からあえて選んでくださった。そして今神様の恵みにあずかる者としてくださった。それは何のためか。私たちをして神様の栄光をあらわすためです。聖書にはそれを別の言い方で「わが証人」と言っています。神様は私たち一人一人を、神様を証詞する者、神様の素晴らしさ、力を、恵みを、愛を明らかにしようとして、私たちを選ばれたのです。
だから、7節「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである」。これはパウロのことですが、彼は自分の肉体に一つのとげ、弱点といいますか、欠点、そういう弱さを与えられたというのです。「サタンの使なのである」、言うならば、神様がそれをなさったのです。ところが、彼自身としてはそれが不満です。「何とかこれを取り去ってほしい。この弱いところが、弱点がなくなったら、もっともっと神様のために働けるのに」と、思った。だから「三度も主に祈った」と8節にあります。彼は熱心に祈ったのであります。ところがそれに対して神様の答えを知ります。9節に「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である』」。パウロに対して「あなたに対して与えるわたしの恵みはもう十分。もうそれ以上いらない」。あなたが欠けている、足らないという、肉体にとげがあると不満があるが、あなたはそれでよろしいというのです。このように言われたら「どうして、これでよかろうか」と思いますね。「もう少し、神様、記憶が戻りますように」とか、「私がもう少し10年若返ることができるように」と願いますが、神様は「それでよろしい」とおっしゃっているのです。神様が私たちを今、今日そこに置いてくださる。それを神様は「よし」と言われると認めるのです。この時のパウロもそうです。9節に「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』」。神様の力があなたの足らないところ、欠けたところを通してあらわれるのだから、それでよろしいと。これはうれしいですね。感謝したらいい。それがないと私たちが謙遜(けんそん)にならない。それがなければ私たちを通して神様の力があらわれないからです。神様は私たちの弱いところに「完全にあらわれる」。それはそうです。神様は神様の力をあらわす道具として私たちを使われるのですから、できるだけ弱いほうがいい。強い人には神様は必要ない。強い人は自分でやるでしょうし、できた事で自分を誇るでしょうから、弱くて何もできない人ほど神様には都合が良い。なぜならば、神様でなければならないことが分かるからです。周囲の人から「あの人はできない、知恵もない、何もない、あの人はもう役立たない」と言われる人。だからこそ神様はその人を通して神の力をあらわす、神様の栄光をあらわす。神様が神様であることを証詞する器、道具として用いる。そのために私たちは選ばれ召されたのです。だからコリント人への第一の手紙にあるように、神様は選ばれるときに「愚かな者」「弱い者」「無きに等しい者を、あえて選ばれたのである」(1:28)とある。私たちはみんな「無きに等しい」と言われているのです。心外だ、少しは役に立つと思うかもしれません。しかし、神様の目からご覧になったら欠けだらけ、箸(はし)にも棒にも掛からない者です。そのような私たちが今も生きている。それはただ神様以外に有り得ないということが明らかになるためです。問題があり、悩みがあり、苦しいことがあり、足らないことがあり、欠けた自分であるがゆえにこそ、私たちは切に主に求めていく。そのことを神様は願っているのです。欠けたところがなく、問題もなく、ハッピーになって、どこを取っても非の打ち所がない人間になってほしいと、神様は願っているのではない。そうなったら神様を離れるでしょうし、「神様はなくてもおれはやれる」と言い出すでしょうから、神様は自分の道具としてできるだけ長く使いたいから、死ぬまで欠けだらけにしていらっしゃる。覚悟をしたらいいのです。神様はいろいろな悩みを通して、私たちが喜び、感謝し、輝いていることを願っています。だから「いったいあの人はどうしてあんな悩みの中にあるのに穏やかでおられるのだろうか、不思議だ」と、多くの人々から思われて当然であります。世間の人が「ああ、苦しい」「悩みだ」「ああ、足らない、どうしよう」と言っている時、一緒になって人一倍嘆いているようでは、神様が見損なったと思われます。私どもは足らないことがあって当然であり、欠けたところがあって当然です。なぜならば、そこを通して神様を求めなさい、そこを通して神様が力をあらわすのだからと待っているのです。人ができるようなことを神様はなさるはずがない。私どもは問題がどのように解決されるかすぐ想像する。ああなったらこうなる、こうなったらああなる。その次にはこうなる。「神様が私を癒してくださるとしたらあの医者に連れて行くだろうか、こちらの薬を使うだろうか」と、そんなことを考える。神様はもっと違うことをなさるかもしれない。神の栄光をあらわすわざをなさる。
イスラエルの民は40年間荒野を旅しました。これは考え方によっては「どうしてそんなことをするのだろうか」と思います。「神様は分からんことをするな」と思いますが、考えてみたら当たり前です。神様はイスラエルの民をご自分の栄光の民として神様の力をあらわすために用いたいのですから、40年でも80年でも荒野の旅路を延ばしたかったと思います。40年で限ってくださったのは有難い話です。その40年に旅路はどうであったか、申命記に書いてあるように、食べることに事欠くことなく、身につけた着物は古びず、足のくつは擦り切れなかった。(29:5)神様はそこを通して力をあらわした。「足らないことがある、欠けたところがある、私はどうしようか、こんな私は嫌だ」と言うなら、感謝したらいい。だからこそ神様を求めればいいのです。神様の力、人を超えた大きな力を、私たちを通してあらわしたいと切に願っているのですから、私たちは神様の力を受ける道筋を整える、その手順をきちっと整えて待つことです。そうするならば、神様はがぜん神様でなければなし得ないような不思議を行ってくださる。
イスラエルの民がエジプトの奴隷の生涯から救われることもそうです。パロ王様をあれほどにかたくななにして、ついに神様のわざをなさる。神の霊がエジプト中を行きめぐって、すべてのういごを殺す。そこまで神様は徹底してパロ王様の心をかたくなにしたのです。あそこまで徹底してパロ王様がかたくなになった挙句、人のわざによるのではなく、モーセすらも手の出しようのない方法で神様はエジプトを打たれる。その時、かたくななパロ王様ががぜん心を翻(ひるがえ)す。この神様のなさるわざは、人の想像を尽くした挙句に来るのです。だから、「まだ方法はあるな」とか「まだあれが残っていやしないか、この方法をもう一度やってみようか」と思っている間は、神様は全然手を出さない。私どもが「もうおしまい。私の知恵も方法もなくなった」と言ったとき、神様は驚くことをなさる。それがあの紅海で起こるのです。エジプトを出たイスラエルの民が最初に出会ったのがそこでした。前には海があり、後ろからはエジプトの軍勢が追いかけて来る。どうにもならなくなった時に神様はモーセに「あなたの持っているつえを海に伸べなさい」と命じました。伸べたところが海が分かれて乾いた地が現れ、そこをイスラエルの民は通っていったのです。誰がそんなことを想像したでしょうか。まさに誰も想像したことのないことを、神様はなさる。それこそ「これはもう神様のわざだ」と言うほかないことを神様はなさる。だから今もっている問題や事柄でも、神様は「そうか。こういうやり方があったのか」と思う程度のわざをしようというのではない。私たちをしてあぜんとするといいますか、ヨブが言うように「手を口に当てるのみ」と言う以外にないことをして力をあらわした。神様は私たちをしてそういう者に選んでくださったのです。そのために私たちは救いにあずかっているのですから。救いにあずかったから悩みがなくなるのではなくて、むしろ神様はいろいろな悩みを与えて、そこから神様の力をあらわしたいと思っている。
パウロに対して、神様は「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と言いました。「弱いところ」です。私ができないこと、私には到底無理と思われるところに、神様の力はあらわれてくださる。これはうれしい話です。そして更に「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と。そうですね。欠けたところがあり、足らないところがあるならば、むしろそれを喜んで、「主よ、これをあなたはどのようにしてくださいますか。神様、私は何にもできません。ただあなたを仰ぎ望むのみです」と、主に期待しましょう。アサ王様でもそうでしょう。敵が攻めてきたとき、神様に祈りました。「私は敵に当たる力がありません。どうぞ、あなたの力をあらわしてください」と。そのときに神様は驚く方法を用いて敵を撃退してくださった。私たちもそうです。神様が求めているのはそのことです。「私のこの問題、この事柄を通して、神様、あなたのわざをしてください」。これが私たちの求めるところです。
カルメル山でのエリヤもそうです。バアルの預言者と対決した時に彼が祈った祈りがそうです。「あなたが神であることを証ししてください」と祈りました。エリヤはたった一人で、何の力もありません。そのとき神様はにわかに天から火を下してすべてのものを焼き尽くしました。その時集まっていたイスラエルの民は「この方こそ神だ、これは主だ」と言ったのです。見る人をして、周囲の人をして、「神様、まさしくあなたがいらっしゃいます」と言わしめるようなことを私たちを通してなさるのです。だから、どうぞ失望しないでください。いろんな物があきらめという箱の中に入っています。あきらめるのではなくて、「神様、私はできません。こんな私を通して、神様、あなたの力をあらわしてください」と祈る。神様の力以外の何物でもないことを証詞したいと思います。神様はそのために「わたしの恵みはあなたに対して十分である。あなたの弱いところに、わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と言われる。神様の力を求め、その力があらわれて神の栄光となるように、絶えず求めていきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。