いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(414)「ここで主に会う」

2014年12月16日 | 聖書からのメッセージ
 「マタイによる福音書」28章1節から10節までを朗読。

 10節「そのとき、イエスは彼らに言われた、『恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい』」。

 イエス様がよみがえられた日の朝の出来事であります。この日、マグダラのマリヤと他のマリヤとがイエス様の納められた墓にやって来ました。ところが、来てみると墓石は取りのけられ、墓の中は空っぽであった、と語られています。ところが、そこに白い衣を着た神の御使いがいまして、やってきた女の弟子たちに「恐れることはない。あなたがたはイエス様を探しているだろう」と、5節に「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが」と。あなた方が今日、この墓にやって来たのはイエス様を探しに来たに違いない。それははっきりしているけれども、6節に「もうここにはおられない」と。墓にはもうイエス様はいらっしゃらない。「かねて言われたとおりに、よみがえられたのである」。これまでイエス様が繰り返し語っておられたように、イエス様は死からよみがえってここにはもういらっしゃらない。確かにそうです。お墓は死んだ人が納められる場所であって、生きている人がそこに入るものではない。墓参りで出掛けて、納骨堂を見るということはありますが、好んでそこに住みたいという人は誰もいないと思います。だから、この女性の弟子たちが朝早く墓へやって来たというのは、自分たちもイエス様と一緒になってその墓で生活しようというわけではなくて、遺体に対面するといいますか、遺体に香料を塗り、きちんとした正式な埋葬をするために来たのです。それに対して御使いが「もうここにはおられない」と、あなたは死んだと思っているかもしれないが、そのイエス様はここにはいません。ではどこに行ったのか? 「もうここにはおられない。よみがえられたのです」。ではよみがえってくださったイエス様はいったいどこにいらっしゃるのか? ということになります。その後7節に「そして、急いで行って、弟子たちにこう伝えなさい、『イエスは死人の中からよみがえられた。見よ、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお会いできるであろう』。あなたがたに、これだけ言っておく」。その御使いは更に続けて「あなたがたの仲間である弟子たちにも伝えなさい」と。さらに、イエス様は死人の中からよみがえって、ガリラヤへ行かれるから、そこでお会いできる。そこでよみがえってくださったイエス様に会うことができると伝えなさい、と言ったのです。これを聞いた女の人たちは、びっくりして8節には「恐れながらも大喜びで」と記されています。「大喜び」とは、大変幸いなことでした。というのは、もし私がこの女の人たちと同じであったら、きつねにつままれたといいますか、「どうしてそうなったのだ。ひょっとしたらどこかにイエス様は移されたのではないか。あるいは墓の場所を間違えたのではないか」と。「大喜びになる」のは、御使いが語ったことを信じたからです。御使いが「十字架におかかりになられたイエス様は、もうここにはいらっしゃらない。よみがえられた。生きておられるのです」と。そう聞いて「まぁ、それはうれしいことだ」と、彼女たちは大喜びで「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」とあります。「大喜びする」ことはイエス様のよみがえりを信じることによって与えられる恵みであります。

今でも変わることのない事実であります。イエス様がよみがえって今も生きておられる、と信じて行く。この時の女の人たちはまさにそのことを体験したわけであります。といって、現実によみがえってくださったイエス様にお会いしたわけではありません。御使いの伝言であります。まさに言葉を聞いたのであります。「イエス様はよみがえって、もうここにはおられませんよ。ガリラヤへ行きなさい。そこでお会いになる、ということですよ」という伝言を聞いて、それを素直に信じる。これが私たちの恵みにあずかる道筋であります。というのは、私たちも聖書のお言葉、神様から伝えられているメッセージを聞いているわけであります。ところが、「そんな馬鹿な」という思いがすぐ私たちの心に湧いてきます。これが不信仰、私たちの喜びを取り去ってしまうサタンの働きであります。単純に信じる。だから、その後もそうでありますが、イエス様が弟子たちの集まっている所に来られたとき、トマスは「そんなものは信じられない」と言ったわけです。そして、更に八日後にイエス様がトマスに現れてくださって、「では、わたしの傷跡に手を入れて、じかに触ってごらん」と言われたとき、彼は触るどころではない。まさに目の前にイエス様を見たわけです。彼は恐れおののいてひれ伏しました。そのときイエス様は「見ないで信じる者はさいわいである」(ヨハネ20:29)と言われた。信じることがどんなに幸いなことかと。

私たちの普段の生活でもそうです。相手の人を信じられないから苦しいのです。私たちの悩みの中心はそこです。信じれば、何の事はないのですが、疑うのです。「そうは言うけれども、ひょっとしたら裏があるのではないか」、「隠していることがあるかもしれない」と、いろいろと疑う。疑ってかかることが習(なら)い性と言いますか、人の大きな弱点です。だから、疑うゆえに不安になり、恐れが生じる。疑うために安心が得られない。家族のことでもそうでしょう。親子の関係でもそうでしょう。人との関係でもそうです。子供たちがそう言うとき、「そうね」と素直に信じてあげればいいのですが、一応頭では分かっていて、目の前で「そうね。よかったね」と言いながら、この子は何か隠しているのではないか。私の知らない所で何をやっているのか分からない、と疑う。これがいちばん厄介です。

この女の人たちは実に素直であったと思います。8節に「恐れながらも大喜びで、急いで墓を立ち去り」と。もうここには用事がありません。よみがえられたのだったら、墓にとどまる必要はない。だから、大喜びで墓から立ち去って行く。そうしたとき、イエス様が彼女らにあらわれてくださった。「平安あれ」と言って近づいてくださった。10節に「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。よみがえられたイエス様に出会うことができる。「会うことができます」との約束です。そのイエス様にお会いする場所はどこであるか? 「ガリラヤに行け」とあります。イエス様が十字架におかかりになられたのは、エルサレムであります。エルサレムはイエス様の時代はユダヤという地域であったのです。それに対してガリラヤはどういう所であったかと? 聖書地図を見ていただいたらお分かりになると思いますが、エルサレムを中心にして、そこにユダヤという地域があり、その北にはサマリヤという地域があります。もう一つその北側にガリラヤ湖という湖を中心にしてガリラヤという地方があるのです。いうならば、北海道、東北、九州というような分け方のようなものです。その中でもこのユダヤの地はイスラエルという国の中心的な場所であります。しかもエルサレムがそこにあったのです。エルサレムと聞いても、特別な感情は持ちませんが、その当時の人々にとってエルサレムは、神の都であり、神殿のある場所です。いうならば、その当時のユダヤ教の中心地であったのです。それだけに、エルサレムは非常に神聖な場所、自分たちの心の古里といいますか、イスラエルの人々にとって欠かせない大切な場所だったのです。ですから、いろいろな宗教的な行事、過越の祭や仮庵の祭りだとか幾つかの伝統的な宗教行事が行われるのはほとんどエルサレムの神殿を中心にして行われる。だから、国内にいる人々も、海外に散らばっている多くのユダヤ人たちも一生に一度や二度、エルサレムに行って礼拝する。神様に出会うことを喜びとしていました。神様と会うことができる場所がエルサレムだったのです。だから、イエス様は十字架におかかりになるときにエルサレムにやって来られました。それは過越の祭のためでした。イエス様にとってエルサレムは最後の時を迎える場所となりました。

これは大変意味のあることです。というのは、エルサレムそのものが、神様の臨在、神様がそこにいます、という証でもあります。イエス様は十字架におかかりになるのに、どうしてもエルサレムでなければならない理由があるわけです。エルサレムはそういう宗教的な意味で神聖な神様の臨在をあらわす場所であると同時に、その当時の行政の中心地、いうならば、総督ピラトがそこに滞在し、ヘロデ王もそこにいるし、カヤパもそこにいるというような、その時代の世俗の権力といいますか、そういうものの要衝の地であった。非常に大切な場所であったのです。ですから、イエス様が裁判を受け、処刑されることは、エルサレム以外でもあり得たわけですが、どうしてもエルサレムでなければならなかった。それは行政的な意味で、当時の支配者たちがエルサレムにいたから、そこでイエス様が捕えられ、処刑されたということが一つあります。

それともう一つ大切なことは、エルサレムは神の都である。イエス様の十字架の死は、イエス様が神様から世に遣わされた目的である人の罪をあがなう神の子羊としてご自分をいけにえとしてささげる場所、これはエルサレム以外にはあり得ないのです。なぜならば、神殿にあって犠牲をささげ、祈りを取り次ぐ祭司がそこに存在するからです。だから、当時の宗教的な中心地であるエルサレムにイエス様が来られた。その時を見計らって時の権力者である人たちも、神様の大きなご計画の中にあって、その場所、その時でなければならなかったのです。だから、エルサレムにやって来ました。彼らといいますか、イエス様の弟子たちも、イエス様ご自身はベツレヘムでお生まれになり、ナザレ村で育ちました。ナザレはエルサレムからはるか北の方のガリラヤ湖に近い寒村であります。だから、ガリラヤ地方です。イエス様のことを聞いて「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう」(ヨハネ7:41)と言われました。その当時ガリラヤの人たちは、差別されるといいますか、エルサレムを中心とした所に住んでいる人たちから見れば、田舎者であります。そのような見方をされていた。イエス様が弟子たちと共にエルサレムに来て、そこで命を絶たれる。これこそが、実は神様の大きなご計画、イエス様のご生涯を決定づける事柄であったのです。イエス様は神の位に居給うた神の御子ですが、人となってこの世に来てくださった。そして私たちと同じ肉体をもって三十三年半の地上の旅路をいろいろな生活上の困難な中を生きてくださった。ついにご自分を神様へのいけにえとして十字架にささげてくださいました。それによって私たちの罪を取り除いてくださる。私たちの犯した全ての罪をイエス様が一身に担って十字架にあがないを完成してくださった。これは私たちの大きな福音、喜びのおとずれであります。

人生を生きていると、人は多かれ少なかれいろいろな罪を犯します。といって、別に刑法に触れるといいますか、何か社会的な制裁を受けなければならないような罪ではない。しかし、自分の心の中に常に後悔していること、「あんなことを言わなければ良かった」「あんなことをしなければ良かった」と消えないものがあります。子供のときからズーッと思い浮かべると、決して忘れないものがある。忘れているつもりですが、何かのときにふと苦い思いが胸の中に湧いてくる。といって、他人にそんなことを言っても笑われるに違いない。しかし、自分にとっては非常に悔やまれる、いつまでも気になっているものがある。私自身もありました。いつもそのことを思うと胸の奥のほうに苦い思いといいますか、喜べない、暗い影が差し込んでくる時があります。そのとき初めてイエス様の十字架が何のためであったか。このことのためにイエス様は今日も十字架にご自分をささげて、「父よ、彼らを赦し給え」と執成してくださる。十字架は私のためだ。イエス様の十字架を見上げるとき、自分のいま何を赦されているのか、私たちは具体的に自分の罪の赦しを確信したい。そうだった、あのことのために、このことのためにと。私たちがはっきりとイエス様の前に持ち出してくる。人に言うことではありません。そんなことを人に言っても、「そんなつまらん、何を言っているんだ」と言われるぐらいの小さなことです。それは人それぞれによって違います。その人の心にしかないものです。だから、人に聞いてもらって解決する問題ではありません。神様に指を指される事柄を取り除いて行く。「お前はそんなことをしていたぞ」「あんなことをしただろう」と指さされるものを取り除く道は、十字架を自分のものとして受け入れること、信じること以外にありません。イエス様はそのためにあがないとなって十字架に命を捨ててくださった。だから、何か思い出すことがあったらすぐ主を見上げるのです。十字架を見上げるのです。「そうだ。もうこのこともイエス様が解決してくださった」。それは大きな喜びであります。

それと同時にイエス様はよみがえってくださった。よみがえることはなかなか信じ難いことと多くの人は思います。だから、よく言われますが「キリスト教のつまずきの石だ。そんなことを言うからキリスト教は信者が増えない」と。しかし、逆に聖書にもありますが、「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」と語られています(Ⅰコリント 15:14)。なぜイエス様はよみがえられたのでしょうか? もう一つ神様の私たちに対する大きな恵みがあったからであります。それは神様が私たちと共に住んでくださるためです。私たちと共に生きるものとなってくださるためです。実は聖書の初めからズーッと神様が語り続けていらっしゃることです。創世記で最初に人が造られたことが語られています。その人が造られた目的すらも、神様の栄光をあらわす者として造られたのです。神様の栄光をあらわすには、どうする? 神と共に生きることです。人が神と共にある、これがエデンの生活、人が造られた目的であります。神様と共に生きる。この恵みから人が落ちてしまった、離れて行ってしまった。これが罪の結果であります。だから「ローマ人への手紙」にありますように、「私たちは罪を犯したために、神様の祝福にあずかることができなくなってしまった」といわれています。いうならば、神様と共にいて、歩む、それこそが幸いな人の生き方でした。ところが、神と共にある生活が壊れて、人が神を離れてしまった。そのために、神様の祝福どころか呪いを受け、生まれながらの怒りの子、神様の怒りを受けて永遠の滅びに定められるべき者となってしまった。そのような私たちをもう一度取り戻してくださる。エデンの恵み、人が造られた最初の祝福と恵みへ私たちを取り戻すため、イエス様はよみがえってくださった。よみがえられたイエス様は、どこにいらっしゃるのか? 「もうここにはおられない」「ではどこに? 」「ガリラヤへ行け」と言われるのです。「エルサレムにとどまれ」とも言われません。エルサレムは本来神殿のある場所であります。「そこに行けば神様と共におられるじゃないか」。神様はそこに臨在しておられる。神様のいらっしゃる所はエルサレムです。しかし、イエス様はそこにはおられない。では、どこにか? 「ガリラヤへ行け」と。そのガリラヤはエルサレムから遠く隔たった辺境の地であり、また「何も善き者が出ない」と言われているほど、多くの人々から疎外(そがい)された場所であり、またそこは弟子たちにとってかつての生活の場であった所であります。後にイエス様がよみがえられた時、ガリラヤで弟子たちとお会いになりました。そのとき弟子たちはガリラヤ湖で昔のように漁をしていた。朝早く岸に立ったイエス様が声をかけて「獲物はあるか」「何もない」「船の右に網を下せ」と言われて、下ろしたところがたくさんの魚が取れた。ふと見るとそれはイエス様であった、と語られています。そうやって、そこでイエス様にお会いすることができた。そのガリラヤは弟子たちにとって自分たちの生活の場であります。非常になじみのある場所、そこには神様がいらっしゃるとは思えない現実、エルサレムには神殿もあり、神様の印(しるし)もあるに違いない、そこには神様がいてくださるに違いない。しかし、こんなガリラヤに何の善きものがあるだろうか。そんな所に神様がいらっしゃるだろうか。まさにそこでイエス様が「あなたに出会うよ」と。

私たちにとってのガリラヤはどこでしょうか? 私たちが生活する現実の場、家庭であり職場であり地域であり、私たちが遣わされているその場所こそが、実は私たちにとってのガリラヤであります。イエス様がよみがえられたのは、全ての生きている者にとっても死んだ者にとっても、主となるために、私たちと共にいてくださる御方となるためによみがえってくださった。いつでもどこでも主にお会いすることができる者となるためによみがえってくださった。これがいまイエス様のおっしゃる10節、「恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」という意味です。「ガリラヤに行け」、私たちが遣わされた場所、置かれている現実の様々な問題のある所、悲しみや苦しみや悩みや不安や恐れのある場所こそがガリラヤであります。そこでよみがえってくださったイエス様に出会うことができると。イエス様は私たちと共に生きるものとなるためによみがえってくださった。そのことは旧約時代から約束されたことであります。全ての人が神と共にあるべき、これこそが人の人たる生き方です。ところが、神様から遠く隔たって、呪われる者となってしまった私たちを救い出して、もう一度神と共に生きる者としてくださった。

そのモデルとして旧約聖書にイスラエルの歴史を残しておられる。イスラエルの民がエジプトの奴隷の生涯から救いだされて、カナンを目指して荒野の旅路を歩んで行きました。そのときに神様は荒野の旅路の中でイスラエルの民と共にいてくださった。昼は雲の柱、夜は火の柱となって絶えず荒野の旅をする彼らと共にいてくださいました。そのことを具体的に証しするために「あかしの幕屋」、「幕屋」といわれている聖所を彼らの中に造らせなさいました。

「出エジプト記」25章8節、9節を朗読。

ここに「わたしのために聖所を造らせなさい」とあります。エジプトを出発したイスラエルの民は過酷な荒野の気象条件やそういう地形的な様々な困難の中に旅をして行きます。神様は彼らをマナで養い、うずらをもって養い、岩から水を出して飲ませてくださった。その荒野の旅路の波乱万丈いろいろなことの多い中で常に神様はご自身をあらわしてくださいましたが、神様は「彼らのうちに聖所を造れ」と命じられたのです。それが「幕屋」と9節に語られています。天幕を用いた、神殿といいますか、神の宮です。これを「造れ」と言われたのです。その造り方を細かく神様が語っていらっしゃいます。旧約聖書を読むと大抵眠くなる所であります。「何々キュビト、何々……」と、二度も三度も同じことを、もう飛ばそうかしらと思う。神様の聖所を造るのは、神様の言い付けどおり寸分たがわずしなければいけないのです。神様を尊ぶ、神様を重んずるとは、まさにそこです。自分の都合の良いように「神様はそういうけれども、これに代えておこう。そんな物はないから取りあえずこれにしとこう」と、それは駄目です。神様を大切にするとは手間の掛ることであるかもしれない。あるいは、自分の思いを徹底的に捨てなければ従えないのであります。だから、神様はここで本当にうんざりするくらいに細かく、細かく、どうしてこんなにまで神様は要求されるのかと思いますが、それは当然であります。神様は創造主、造り主であり、聖なる御方、義なる御方でいらっしゃる。私たちは、神様に作られた被造物にすぎません。神様の要求に徹底して従って行くことによって、初めて人が人たる生きる者となるのです。だから、ここで神様は細かく一つ一つのことを指示なさいました。それは8節に「わたしが彼らのうちに住むためである」からです。神様からのものであることがはっきりします。

他と違うことがはっきりするには、その人が言ったとおりに作ったとき、これは造った人のものではなく、指示した人の作品となります。ところが、「こういうプランでひとつお願いします」と大ざっぱに依頼して、「ああ、分かりました」と、大体のことを聞いて、造る人が具体的な寸法だとか材料を全部自分で考えて造り上げて、「これがあなたの言っていたやつですね」と、出来上がったものを持ってきたとします。なるほど、そのアイデアは依頼者の発想かもしれないが、造った人は別の人。いわゆるクラフトマン・シップといいますか、職人さんが技術をもって造り上げている。そうすると、確かに立派に出来て「なるほど、いいアイデア、これはアイデアとしては良かった。しかし、その造り方たるや見事、これはいったい誰が造ったの」「いや、実はこの方ですよ」と、アイデアを出した人はどこかに行ってしまって、造った人が褒められ、その人の業が称賛される結果になります。神様の幕屋を造るとき、造る人たちの痕跡が残っては駄目です。神様の大雑把なアイデアを聞いてきて「あ、分かった。じゃ神様、任せておいて。私が材料を……、神様、あなたが言うよりも良い材料がある」と、そういう造り方では、神様の神様たる事をあらわせないのです。だから、徹底して釘1本おろそかにできない。全部神様のおっしゃるとおりに、これを造り上げて行くことを通して神様が私と共におられることをイスラエルの人々は身にしみて悟るのです。

よみがえってくださったイエス様は、「どこにいるやろうか」と、「どこに行けばお会いすることができるのか」と問われますが、イエス様の御声に従うのです。イスラエルの人々が幕屋を造るときに徹底して一分一厘たがわず、釘1本おろそかにせずに神様のおっしゃるとおりのことを忠実に果たして行くことによって、神様に触れるのです。私たちがイエス様に出会う道もそれ以外にありません。苦しくても辛くても何があっても、イエス様がいま私に何を求めておられるか、イエス様がいま私に何を語っていらっしゃるか、絶えず耳を傾け聞く。聞いて従う。そうしますと、主はここにいました。「イエス様がよみがえって私と共におられる」ことを、確かなこととして私たちは体験するのです。
神様はそうやってこの聖所を造らせなさいました。幕屋の型および、いろいろな器の型を定められた。その目的が8節にあります。「わたしが彼らのうちに住むためである」。神様がイスラエルの民の中に住んでくださる。いま私たちの生活の中に神様が住んでくださるために、私たちは幕屋を建てることはありませんが、イエス様が幕屋となって私たちの内に、私たちの生活の場に、まさにガリラヤに、よみがえってそこに来てくださる。イエス様はご自分のことを神殿にたとえられました。十字架におかかりになる前に、宮を清められた後に、お弟子さんが「エルサレムのこの神殿を見てご覧なさい。立派な建物じゃないですか」と言った。そのときイエス様は「わたしはこんな物は壊して三日目に建てる」と言ったのです。するとパリサイ人たちは「神を冒涜する、何ということを言う。こんなのは三日で建てられるわけがない」と言ったのです。イエス様は建物としての神殿ではなくて、ご自分が神の宮である。ご自分が十字架に砕かれて打ち壊されたものが、三日にしてよみがえり、神の真の幕屋として、神殿となって「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)。私たちと共にいてくださる。私たちの中に住むものとなるためによみがえってくださった。そして、そのイエス様はご自分が幕屋なのです。

ですから、「出エジプト記」をその視点から、そういう見方で読み返していただきたい。幕屋はキリストです。イエス様が神様を礼拝する場になってくださる。だから、イエス様が十字架におかかりになって、いよいよ息絶えられるとき、神殿の幕が上から下に裂けてしまった。イエス様の肉体を裂いて直接神様に近づく道を備えられた。「ヘブル人への手紙」に、イエス様はご自分の肉体を裂いて新しい道を造られたことが語られています。イスラエルの民に神様が一つの形としてあらわしてくださった幕屋の完成した姿となったのがイエス様でした。そして、イエス様は今よみがえって、私たち、皆さんが神様に出会う場所としてイエス様は共にいてくださる。よみがえり給うた主は「ガリラヤへ行け。そこで会うことができる」と。イエス様が私たちの生活に共にいてそこで私たちが神様に出会うことができる場所、神殿となってくださる。神に出会う場所と……。

「出エジプト記」29章45,46節を朗読。

ここにも46節に「わたしが彼らのうちに住むために、彼らをエジプトの国から導き出した彼らの神、主であること」。いうならば、罪に死んでおった私たち、神様も知らずイエス様にも縁のなかった私たち、まさにエジプトの奴隷の生涯であった私たちをそこから引き出して、イエス様の救いに導き入れてくださった。それは何のためか?主があなたと共におるものとなる。そのために私たちを罪の中から救い出してくださった。私たちの救われた目的は、神様からの側から見るとまさにそこです。私たちは「自分の苦しかったこと、辛かったこと、そこから救い出されてこうして神様を信じることができるようにしてくださった。有難い、感謝、感謝」と思っている。ところが、もう一つ神様の願っていることは「あなたと住みたい。共におりたい」。これは神様の願いです。そのためにかつての神なき世界から私たちを救いだしてくださった。それは「あなたをわたしの住まいとする」「あなたの所へ行ってわたしは住むよ」と。これが神様の願いであり、そのことを実現してくださったのが主のよみがえりです。よみがえったイエス様が共に住んでくださる。これこそが神様の私たちに願っている御心です。「ガリラヤへ行け」とおっしゃる。もう一度私たちは自分たちの置かれた場所、いま立っている所、生活の場、そこによみがえられた主が私と共に生きてくださる。臨在と共に、神様が共にいてくださる生涯、歩みをさせていただきたいと思う。

「マタイによる福音書」28章10節に「そのとき、イエスは彼らに言われた、『恐れることはない。行って兄弟たちに、ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい』」。「ガリラヤ」、それは弟子たちにとっては生まれ育った懐かしい土地ではありますが、そこでは苦しみと辛い労働の日々を送っていた時代であります。私たちにとって、皆さんにとってガリラヤとはどこか? まさに私たちが悩みの中にある所、苦しみ辛いと思っている日々の現実の生活、そこでこそイエス様が共に生きてくださる、住んでくださる。決してエルサレムに行けばそこでイエス様にお会いできる、と言っておられるわけではありません。日曜日、こうやって礼拝に来て、ここで「私は心休められて、御言葉と祈りによって、すがすがしい思いにされた。これでまた家に帰れば、あそこか、あんな所、まぁ、あそこも悪くはないけれども……」と思いがちですが、そうではない。確かにこうやって共に心を合わせて主の前に礼拝をささげる、ここも主が共にいてくださる恵みの時でありますが、私どもが遣わされて行きますガリラヤにあって、主が「そこで会う。あなたと会う」と約束してくださいました。そこに神を礼拝する場が備えられたのが、よみがえりの主です。

10節「ガリラヤに行け、そこでわたしに会えるであろう、と告げなさい」。いま主が私たちと共に生きてくださる。今ここに共にいらっしゃる。常に私は主と共にあることを体験する毎日でありたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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