いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(355)「神様の証し」

2014年10月18日 | 聖書からのメッセージ
 「詩篇」50篇1節から23節までを朗読。

 7節「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。

 詩篇50篇の7節以下は、神様がイスラエルの民に抱いている御思い、神様が切に願っている御思いを語った一節であります。その前後、1節から6節まで、あるいは16節から終わりまでの所には、イスラエルの民が神様に対してどういう態度であったか、語られています。殊に前半の1節から6節までに、神様はすべてのものを統(す)べ治(おさ)め給う義なる御方、力ある御業をもってすべてのものをさばかれる御方でいらっしゃることが語られています。更に16節以下で、イスラエルの民の現状、あなた方がどんなものであるか、様々な悪を、神様を無視して、神様をないがしろにして、勝手な振る舞いをしている。その結果、21節「あなたがこれらの事をしたのを、わたしが黙っていたので、あなたはわたしを全く自分とひとしい者と思った」と。神様のことを自分たちと同じくらいだ。いくら神様といっても何もしてくれないではないか。義なる御方だ、さばき主だといいながら、別にそれらしい災いも起こらないし、まぁ、こんなものかと、神様をだんだんと小さくしてしまう。21節に「あなたはわたしを全く自分とひとしい者と思った」と。これは神様をないがしろにした姿の極(きわ)みです。「神様といっても大したことはない」という思いを持つ。そのために神様から離れてしまうのです。これは昔のイスラエルの民に対しての言葉ばかりではなく、いまイエス様の救いにあずかって信仰によってイスラエルの民とせられている私たちに対する神様のご警告でもあり、また愛の御思いでもあります。

イエス様のあがないにあずかり、十字架のいさおしによって罪を赦され、神様を信じる者とされました私どもは、その神様をどこに置いているか、どういう御方として信じているのか? 自分は信じているつもりですが、気がつかないうちに神様が形だけのものになったり、あるいはただ単なる知識として知っているだけであって、実際の生活の中ではどこに神様がいらっしゃるのか、全く見失われてしまっている。そのような現状があるなら誠に悲しいといいますか、神様はそのことを嘆(なげ)かれるに違いない。

ですから、7節に「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす」と。ここで神様が「わが民」とおっしゃる。わたしの民、わたしの人々である。いうならば神の家族であります。私たちはイエス様の救いにあずかって、神様の民、あるいはもっとはっきり言うならば、神の家族、神の子供としていただいている。私たちは神様の子供である。だから、神様のほうも「お前はわたしの愛する子だよ」と、私たちを受け入れてくださっていますし、また私たちにそのように接してくださっておられるのです。ところが、私たちはどうか? そんなにまで私たちを「わが子よ」「わたしの愛する子よ」と言ってくださる神様に対して、「天のお父様」「私の天にいます父なる神様です」と応えているか。ここに「わが民よ、聞け」と神様はおっしゃる。神様はご自分の民であるイスラエルに対して、わが民よ、聞きなさい。「わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす」。わたしは言わなきゃおられない、また「あかしをなす」、ちゃんと証明するといいますか、はっきりとわたしをあらわしたい。わたしのことを知ってほしい。これがあかしをなすことです。

何を知ってほしいのか。「わたしは神、あなたの神である」、わたしは神だよ、私はあなたの神なのだよと。私はいつもここを読むたびに、神様って寂(さび)しい御方だな、と思うのです。可哀想だな、と思う。ご自分の民でありながら、人は神様を神様としていないのです。だから、ご自分で言わなきゃおられない。「わたしは神だよ」と。

昔はやった歌、“こんにちは、あかちゃん„という歌に「わたしはママよ」という歌詞がありましたが、赤ちゃんはそんなことを言わなくても、だれが母親であるかはちゃんと分かっています。私たちは神様を「あなたは私の神」とどれほど信じているのか? 今お読みいたしました詩篇50篇の前半と終わりに語られていますように、神様を自分と等しいもの、あるいは無きに等しいもの、いらっしゃっても無きがごとく無視してしまっている。そういう私たちに対して神様が「わたしは神、あなたの神である」。ほかには神がないのだよ、と語っているのです。どうか、今日、神様の私たちに対する切なる御思いをはっきりと知っておきたい。「わたしは神、あなたの神である」。誰の神でもないのです。あの人のため、この人のため、皆の神様で、その中の一部分を私が、というのではなくて、私たち、皆さん一人一人に「わたしは神である」とおっしゃってくださる。だから「そうです。あなたは私の神です」と、はっきり「この御方こそがわたしの頼るべき、私のすべての創造者、造り主であり、また今も力をもって生かしてくださる御方です」と信じていく。これが神様が求めておられることであります。

私は牧師の家庭に生まれて、その息子でありました。皆さんの中にも私の子供の時代をよくご存じの方がおられますが、いうならば、いつも父の子供、榎本先生の次男さん、榎本先生の息子さん、です。「自分というのはないな」と思ったのです。いつも「親の付属品だな」と思う。その当時、神様を信じていましたが、どこかで親の付属品である自分は、いくら信じても、親の神様をちょっと間借りしているといいますか、拝借している感じです。親の傘の下に自分も入って、信仰があるような気になっているのではないか。そういう仮住まい的な思いがズーッとしておったことを今でも思い出します。「あなたは私の神」と言えない。「あなたは父の神です。私のお祈りも聞いてやってください」と、そのようなつながり方です。だから、私はクリスチャンホームの方のいちばんの悩みはそういう所にあるのではないか、と思っています。いつまでたっても自分の神様になりきれない。親が一生懸命に信仰している場合などです。両親が大変熱心なクリスチャンであった場合、その子供さんは信仰に導かれてきますけれども、なかなか自立して堅い信仰に立てない。その親の大きな傘といいますか、強い信仰がいつまでもあって、その中にとどまっている。そうするとだんだんと親が弱ってきて、親が亡くなったりすると、親が亡くなると同時に子も無くなるというか、信仰が消えていくのです。私はその幾つかの例を見ながら、どこかで子供が親から離れる、殊に信仰の面で自分が直接神様に出会うことが大切だな、と思うのです。だから、最近そのことを意識して若い家族の人たちにはアドバイスするのですが、親が熱心であればあるほど、娘や息子たちを何とか信仰に導きたい、という気持ちになる。信仰をしっかりと持って、自分のように神様を信頼してくれたら安心だ、と思うわけです。ですから、一生懸命になっておられるのはよく分かるのですが、その結果、子供は親にくっ付いて、なんとか教会に出席します。熱心に勧める、あるいは熱心に信仰に導いて、教会に誘ってくれるから、親の手前は一生懸命に教会にも行くでしょう。何か事があると「お父さん、お母さん、お祈りしておいて」と、電話がかかってくる。そうすると親は頼られますから、「じゃ、お祈りしとくから」という話になって、その子供と親とが、子供にとって親が神様の、いうならば、牧師先生に代わってしまうわけです。洗礼を受けて、親に従って信仰生活をしているようですが、その息子さんがどういう信仰を持って、今どういう生活をしているのか、さっぱり伝わってこない。親頼みの信仰ですから、結婚して遠く離れていると、一向に私の所にはニュースが入ってこない。父親を通して、母親を通して入ってくるのです。「実は息子はこういう悩みの中にありまして、いまお祈りしとりますから、先生ひとつよろしくお願いします」「ああ、分かりました」。本人からは何の連絡もありません。そうである限りいつまでも親の信仰にくっ付いて生きているだけに終わってしまう。どこかでそれを切り離して、子供が直接自分の神様を求めてくれることを願っています。だから、私はその子が直接に私の所に相談に来るように「何か事があったら直接話してください」「まぁ、そうはしますけれども……」と言われる。しかし、親としては自分の頭越しに先生の所に行かれたら、ちょっと親の体面にかかわる。やはり自分を通してほしいという。それでは自立した信仰になれません。だから、できるだけ親から離れて、できるならば別の教会でもいい、と私は言うのです。何も親と同じ教会に行かなくてもいい。親から離れて自分で求めてほしい。そうでないと、自分の神様、私の神とはならない。これは非常に大切なことです。私はいろいろなケースを見ていて、その失敗例がたくさんあるのです。ですから、熱心なお父さん、お母さん、子供たちと密接で、子供たちもご両親の信仰に倣(なら)おうと思って、出来のいい息子であればある程、一生懸命に自分を合わせています。しかし、いつまでもお父さんの信仰、お母さんの神様にくっ付いているだけですから、やがて親はだんだん老いてきます、衰えて、死んでしまいます。そうすると、しばらくはその勢いで続いていますが、だんだんと教会から遠ざかって行く。そのうち消えてしまう。「あの方も神様に出会うことができなかったのだな」と思う。親に出会ってはいるけれども。だから、そうじゃなくて一人一人が神様に出会うこと、神様につながることを神様は求めておられるのです。

7節「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。「わが民よ、聞け、わたしは言う」、わが民よと、イスラエルに向かってわたしの民よ、聞きなさい。あなたにむかってご自分をあらわす、わたしのことを証しする。何を?「わたしは神、あなたの神である」。「わたしはあなたの神なんだよ」と、「え!そうでしたか」、「知らなかった」、私どもはそのように思っている。いま私の信じている神様は本当に「私の神」と言えているだろうか?どこかで「いや、榎本先生の神様をちょっと借りている」とか「前田教会という神様のどこかの一部分をチョロッと味わっている」という、それでは本当に神様に喜ばれることはできません。だから、「わたしは神、あなたの神である」とおっしゃる。

そして8節以下に「わたしがあなたを責めるのは、あなたのいけにえのゆえではない。あなたの燔祭はいつもわたしの前にある。9 わたしはあなたの家から雄牛を取らない。またあなたのおりから雄やぎを取らない」。「責める」とは、非常に残念なことだ、というのです。神様は非常に悲しいことがある、と言っているのです。それは「いけにえのゆえではない」と。あなた方のささげ物が少ないとか足らないとか、あるいは欠けているからというのではない。いや、それどころか、彼らはきちんと定められた律法を守って、欠けなく燔祭をささげて、いけにえを欠かさないに違いない。だから8節に「あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」と、何もお前たちがすることが足らないから、不足しているからではないのだよ。しかも9節に「わたしはあなたの家から雄牛を取らない。またあなたのおりから雄やぎを取らない」。ささげ物をもっと要求することはしない、とおっしゃいます。なぜなら10節以下に「林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜もわたしのものである。11 わたしは空の鳥をことごとく知っている。野に動くすべてのものはわたしのものである」。「林の中の動物も、野に動くもの、空の鳥もすべて森羅万象(しんらばんしょう)、世界とその中に満ちるものとは、わたしのものだからである」とおっしゃる。そうです。神様のものなのです。だから、いくら「これは神様におささげします」と言っても、そもそも神様のものを神様に返しているだけのことです、だから、そんなものを求めて、あなたを責めているのではない。そういうものが足らないからではなくて、その先14節以下に「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き者に果せ。15 悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。何が欠けているか? 神を神として、本当にこの御方に信頼し、その御方の御業を喜び楽しむことなのです。14節に「感謝のいけにえを神にささげよ」と。「いけにえ」というと、犠牲(ぎせい)献身、ささげ物をしなくてはいけないのかと思いがちですが、そういうことではありません。既にその前に「あなたの燔祭はいつもわたしの前にある」「そんなささげ物をわたしはとらない」とおっしゃる。だから、物ではないのであります。「感謝のいけにえ」、感謝の心を主にささげること。私たち自身が感謝をもって、神様を喜ぶ者となることです。その後に「あなたの誓いをいと高き者に果せ」。「誓いを果たす」と、それはイスラエルの民は神様と契約を結んだ民であります。神様を「あなたは私の神」としたではないかと、その神の民である誓い、神の民であるならば、それらしく神を神としたらどうなのだと、ここで神様は求められる。 

私たちもそうであります。イエス様の命によってあがなわれ、罪を赦され、そして、神様のものとされた。これを信じています。そうでしたら、そのごとくに感謝して、自分のすべてを神様にささげて、主を喜ぶ、神様の民として、神の子供として、その責任を果たすといいますか、神様の子供らしい生き方、いうならば、神の子である以上、「アバ、父よ」という御子の霊を受けた私たちは、父なる神様を本当に心から信頼し、「天にいます私の父」「父なる神様」と心から自分の思いを委(ゆだ)ねきっていく、これが求められていることであります。

だから、その後の15節に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」。「悩みの日にわたしを呼べ」と、まさに、悩みがあるとき、苦しいとき、つらいとき、どんなときにでも、まず「あなたは神、私の神」ですから、お父さんですから、私たちは子供ですから、子供が何か困ったことがあると、まず誰に言うか。それは他人には言いません。やはりいちばん身近な親の所へ行きます。殊に小さな子供たちを見ていますと、そうです。何か事があるとすぐ「お母さん」「お父さん」と、泣いていきます。泣かなくてもいいことでも泣いて行きます。親のもとに帰ってくることが喜びだからです。そこに安心があるからです。ところが、私たちはどうでしょうか。何か悩みがあるとあちらに走り、こちらに走り、あの人に頼もう、この人に頼もうと、なかなか神様に来ない。そういう私たちの姿を見ていて、神様は実にもどかしいといいますか、「なぜわたしの所へ来ないのか。わたしを求めないのか。わたしに打ち明けないのだろうか」と待っていらっしゃる。私たちは、はっきりと「あなたは神、私の神です」と、答える者となっていきたい。15節に「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け」と、必ずわたしはあなたに答えるのだからと。ところが、私どもは「いや、神様はああ言っても、聞いてくれるだろうか、いつになったらやってくれるか分からん」というように、神様を自分と等しいもののように思う。「自分ができないのに神様ができるはずがない」というひそかな思いを神様は見抜いておられます。

「詩篇」63篇1節から4節までを朗読。

1節に「神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む」と。これは表題に(ユダの野にあったときによんだダビデの歌)とあります。この「ユダの野にある」とは、ダビデがサウル王様に命を狙われて、逃げていたときのことです。まだサウル王が、王位にある間に神様は次なる王としてダビデを選んで、任職(にんしょく)の油を注がれました。そのためにサウル王は大変憤(いきどお)って、自分の地位を狙うやつだ、王様に反逆する者だとして、彼を殺そうと追いまわしました。そのときダビデはただひたすら逃げるのみであります。そういう孤独な、本当に頼りない、自分の中に何も頼るものがない中で、彼は、1節に「神よ、あなたはわたしの神」、ダビデの信仰の原点はここです。「神よ、あなたはわたしの神」、何があっても、どんな所に置かれても、どんな境遇にあっても「神よ、あなたは私の神です」。そして、神様が私を握ってくださっている。私を持ち運んでおられる御方です、としっかりダビデは知っていた。それを心に抱いていたのです。ですから、その後に「わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕(した)いこがれる」。彼はユダの野にあります。その当時、エルサレムの町には神殿が、神様を礼拝する場所が備えられていました。まだソロモンによる神殿は出来ていませんから、幕屋が備えられていたのです。エルサレムに行けばそこで神様を礼拝することができる。祭司がいて神様の前に近づくことができる、臨在に触れることができる。今は神様から遠く隔(へだ)たっているけれども、私の魂はただひたすらにあなたを渇き望む。何としても神様の臨在に近づきたい。父なる神様のそばにおりたいというのが、ダビデの切なる願いであります。だから「わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む」。その後に「水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる」。「何としても、神様、あなたは私の神です」と、その神様のそば近くにおりたい、神様と共にある、主の臨在と共に生きる者となりたいというのは、ダビデの切なる願いであります。なぜなら、それこそが自分にとっての最高の恵みだからであります。決して、「私を助けてください」とか、泣き言を言っているわけではない。彼がまず求めている事は、身の安全でもなければ生活の保障でもなくて、ただ神様ご自身を求めていく。なぜなら、「あなたは私の神だから」です。私たちも今この神を「私の神」と、本当に信じて、その御方を求めていく者となっていきたい。主の臨在に触れますならば、神様が私と共におられるということを、本当に味わい知るならば、そして「あなたは、私の神です」と、心からこの御方に信頼できるならば、私たちは何にも恐れるものは無くなります。

イエス様もそうです。常にイエス様も父なる神様を「父よ」、「父よ」と慕い求めていかれました。イエス様はこの父なる神様と共にあることによって、最大の平安を得ていたのです。ガリラヤ湖を弟子たちと一緒に船で渡っておりましたときに、突然突風が吹きました。弟子たちは大慌(おおあわ)てで、一生懸命に水でもくみ出していたのでしょう。そのときイエス様は「眠っておられた」とあります。大嵐に船はほんろうされて今にも沈まんばかり、ペテロは「イエス様、イエス様、もう私たちは死にそうです」(マタイ8:25)と言っています。本来漁師ですから、ガリラヤ湖は彼にとっては自分の家のようなものです。それでもそういう突風に出会った、恐らく彼の経験にはないほどの事態だったと思います。だから大慌てでイエス様を起こしました。イエス様は嵐の中で、死にそうになってもゆっくりと眠っておられる。その平安は父なる神様と常に共にいたからです。だから、イエス様は目を覚まして「信仰の薄い者たちよ」と言われて、風と波をしかられた途端に、それは静まってしまった。イエス様は神様と共におられる、そこに最高の慰めと喜びと平安を見出すことができた。この平安はズーッとイエス様の十字架に至るまでも続きました、

「ヨハネによる福音書」16章の終わりに「あなたがたはみなわたしを捨ててひとりだけ残すときが来る」とおっしゃいました。「しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである」(32節)と告白しています。そして「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と。なぜそれが言えたか。それは「わたしとわたしの神、父なる神様がわたしと一緒におられるのです」という、このゆるがない確固とした信仰があったからです。その後、イエス様は厳しい十字架の試練にお会いになりました。しかし、最後の最後まで父なる神様を「アバ、父よ」「父よ」「父よ」と求めておられたのです。しかし、最後の最後に、ついに父なる神様から子供としての交わりを完全に断たれてしまわれる。これは肉体的な苦しみ以上にイエス様の絶望、本当に神様の裁きの奥底に落とされた事態でありました。そのとき、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と、「わが、わが、なんぞ我を見棄て給ひし」(マタイ27:46文語訳)と、この時の御苦しみほど大きなものはなかったと思います。

私たちはどうでしょうか。私たちは肉体の苦しみだけ取ってくれたら、あとはいい。神様はあってもよし、なくてもいいと。そうではないのです。どんなことがあっても、「あなたは神、私の神」。この詩篇63篇1節に、ダビデが「神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む」と詠ったように、常に神様を慕い求めていく。そして、誰にも遠慮しないで「私の神です」と告白していこうではありませんか。その御方を信じて、その御方の手にあって、いま、今日私はここにある。そして、私たちの一つ一つの業もこの御方によって備えられ、導かれ、整えられていることを信じて、感謝しようではありませんか。「感謝のいけにえをささげよう」と、いつも喜び感謝して、一切を主の手にささげてしまう。そして「悩みの日にわたしを呼べ」とおっしゃいます。どんなことでも、事の大小を問わず、私どもは父なる神様に心から祈ろうではありませんか。祈って主に信頼しますならば、神様はその信頼に必ず応えてくださる。なぜならば「真実な御方」だからです。私たちは不真実でありますから、頼られてもできないことがたくさんあります。しかし神様はそうではない。

詩篇50篇7節に、「わが民よ、聞け、わたしは言う。イスラエルよ、わたしはあなたにむかってあかしをなす。わたしは神、あなたの神である」。わたしは神であり、あなたの神。誰の神でもない「あなたの」です。「あなた方の」という複数ではありません。「あなたの神」なのです。そうです。あなたは私の神ですと、ダビデのように神様を信頼して生きようではありませんか。ダビデの生涯は誠に神と共にあった生涯でした。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」(詩篇 23:1)と言えるのです。

 自分の都合の良いときだけ、「あなたは、私の神です」というのではなくて、都合が良かろうと悪かろうと、どんなときにも「あなたは神、私の神」。こう信じてご覧なさい。そうすると、いま置かれている問題が何であれ、困難が何であれ、悩みがどうであれ、そこに「大丈夫、この神様がご存じですから」と堅く信仰に立つことができます。

 繰り返し「わたしは神、あなたの神」と、ねんごろに語ってくださる主の御思いに私たちも応えて「主よ、あなたは私の神です」と、口で言うばかりでなく、心と思いの一切を主にささげて感謝し、主を呼び求めていきたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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