ヨハネによる福音書15章7節から11節までを朗読。
今朝は、この9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。
ここでイエス様は、「わたしの愛のうちにいなさい」、イエス様の愛のうちにとどまっていなさい、と勧めておられます。イエス様の愛のうちにいるとは、どうすることでしょうか? それは、その直ぐ後の10節に「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」とあります。イエス様の戒めというのは、聖書の約束の御言葉ですが、御言葉を守るのです。守るというのは、心に抱いて信じ、御言葉に従っていくことで、これは実に単純にして分かり易いことです。そうするならば、私たちは愛のうちにいるのだと、約束されています。
愛し愛されて、愛のうちにあるとき、人は幸せを感じます。愛を感じているとき、心安らぐことができ、平安を得ることができます。子供が親の愛を感じて、その腕の中に安らいでいるとき、穏やかで一番満ち足りた表情をしていますね。それは親が自分を愛してくれていることをよく知っているからです。だから、私たちは、人からの愛を求めます。平安を得たい、心安らかに過ごしたい、また暖かい思いを感じたいという願いが、人には必ずあります。歳を取ろうと、年齢にかかわりなく、愛されること、愛の交わりの中にいることを求めます。家族の中であっても、他人との交わりの中でもそうです。しかし、人と人との間の愛は、どうしても限りがあります。限られた愛でしかありません。人の愛というのはそういうものだと思うのです。
人を愛しているようであって、実は、多くの場合、自分の欲のためであります。愛されたいと思うこと自体が、既に自分のためであり、自分のことであって、相手のことを思うばかりではありません。有島武郎(たけお)という人が、昔書いた小説に『惜みなく愛は奪ふ』という本があります。相手から受けることを求めるのが、人間の愛の姿です。だから、愛されるのは、相手から何かをしてもらう、自分に注がれる有形無形の何かを求めていく。そこに初めて愛を感じるというのが、人の愛です。では、与える愛はあるかというと、確かに、ほかの人に与えるということはあります。親が子供を育てるとき、大きな犠牲を払いながら、子供を育てます。夜も寝ないで、あるいは食べるものも食べないで、昼夜を分かたずに労力を費やして、子供を愛します。しかし、だからといって、とことん愛し続けることができるかというと、これまた限界が必ずあります。
父が説教で例話に上げていたのは、石川五右衛門の話です。京都の四条川原で、彼は子供と一緒に釜ゆでの刑になった。始めのうちは、熱いから子どもだけは助けてやろうと思って、子供を差し上げて一生懸命にこらえていました。でもそのうち、とうとうたまらなくなって、その子供を足台にして、熱さをしのいだという話をしていました。私も子供ながらにその例話を覚えていて、人の愛というのは、それ程自己中心のわがままな愛なのだなぁ、と思いました。人というのは、そういうものなのかなぁ、と思ったのです。翻(ひるがえ)って、自分の親は私を愛してくれているけれども、これもいよいよとなれば捨てられるのかな、と思ったこともあります。人間というのはそういうものだと思うのです。どんなに子供を愛しているからといっても、その子に取って代わって、命を捨ててまで……。確かに睡眠を削って、食べるものをも削って、子供を愛する親はいますが、自分の命まで捨てられるかというと、なかなかそこまでいく愛は、私たちにはありません。人の愛は、ある意味で自分中心であることを、その限界を知らなければならない。いや、皆さんは十分知っていて、もう愛については聞き飽きて、食傷して、結構ですと。お互いに人と人とが、愛を求め合うことができても、与えることはできない。ここが私たち人の愛の限界ですね。
だから、神様は、本当の、真(まこと)の愛が何であるかを、証詞してくださったのです。十字架を通して、命を捨てて、「ヨハネによる福音書」3章の16節にありますように、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。神様は、自分の命を惜しまないで、それすらも捨てる程の大きな愛。私たちのために一切のものを、捨ててくださる御愛を見せて下さったのです。これは、私たちが経験したことのない愛です。
ですからちょっとそこを読んでおきたいと思いますが、ローマ人への手紙5章6節から11節までを朗読。
8節に「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。神様が、私たちのためにひとり子を世に送ってくださいました。イエス様が十字架に命を捨ててくださった。それは父なる神様の、私たちに対する愛のあかしであると語られています。神様は、御自分のもっとも大切な命を捨ててまで、わたしたちを愛してくださいます。人の愛と大きな違いがここにあるのです。子供を愛する親であっても、限界があります。とことん自分を捨ててまでは愛せません。命までは捨てることができません。それが私たちの真実な姿であります。それに対して神様は、御自分のひとり子、言い換えると、神様ご自身の命でもある方をあえて、世に遣わして、私たちを命に引き入れてくださるために、十字架に命を捨てさせて、罪のあがないとしてくださいました。しかも8節に「まだ罪人であった時」とあります。私たちが良いことをしているとき、あるいは神様に気に入られる立派な人間だからとは違います。人間の愛というのは、そういうところがあります。相手が自分に都合が良いとき、自分にとって何でも言うことを聞いてくれるときには、親は一生懸命にするし、子供でもそうですね。子供が親の言うことを聞いて、本当に扱い易い子供であると、「この子はかわいい、何とかしてやろう」と、いろんなことをしてやります。ところが、その子が道を外して非行に走ったりすると、親は「あんな子は知りません。もう親でも子でもありません。縁を切ります」という話になる。なぜならば、自分に面倒を掛けるような存在を愛することができないのです。自分に都合のいい間、自分にとって利益になる間、大いに愛するでしょうし、そのために自分の財を使い、時間を費やし、いろんなものを犠牲にもするでしょう。しかし、それは相手が自分にとって都合が良いから、あるいは自分にとって何か報われるところがあるという、いうならば取引です。これが人の愛の実際の姿です。「いや、私は、そんな思いで主人を愛しているつもりはありません」と言われるでしょう。しかし「それじゃ、ご主人のために命を捨てますか」と言ったら、「いや、それはちょっとできません」と。だから、先ずは、そのことを認めなければならないと思いますね。
それに対して、神様の愛はそうじゃないですね。そこ6節には、「わたしたちがまだ弱かったころ」あるいは「不信心な者」8節には「罪人であった時」更に10節には「わたしたちが敵であった時」と記されています。自分にとって誠に都合の悪い存在、自分に敵対してくる者、自分に対して不真実な者のために、御自分の命までも与えてくださる。これが神様の御愛です。だから、神様が、私たちに求めているのは、正にそういう愛を私たちが受けるようにと、願っておられます。
ですからもう一度初めに戻りますが、ヨハネによる福音書15章9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。ここで「わたしの愛のうちにいなさい」と勧めておられます。と言うのは、私たちが神様の愛のうちにとどまっていなければ、今申し上げたように、いつまでも自己中心でわがままな、自分に都合の良い愛しか、持ち得ないからです。イエス様は、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と勧められました。そのときに、「自分を愛するように」といわれました。で、自分を愛するとは、どういう風に愛するのでしょうか。自分を愛すると言うと、自分のわがままを通すこと、自分がしたい放題、なんでも自分に許すことが、自分を愛していると思い易い。いうならば、自分のために何もかもいろんなものを、奪い取っていくといいますか、自分の利益のために、自分の欲のために、自分を許していくこと。これが自分を愛していると思い易い。皆さんも、自分を一番愛しているのは、自分だと思っています。しかし、神様から見れば、私たちが愛していると言っている自分の愛は、それは愛ではなくて欲であり、自分のためであり、自分の利益のためでしかない。それでいて、神様は、もう一度「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」とおっしゃいます。自分を愛することを、もう一度考えるように、イエス様は求めています。
自分を愛するとはどうすることか?愛というのは、たった一人きりでは、体験できないことです。ロビンソンクルーソーのように絶海の孤島、何にもない小島にたった一人おかれて御覧なさい。愛も何もないですよ。愛するとか、愛されることがあり得ません。一人きりですから、ただ、自分のためにだけ生きている。人間は、本来孤独なものであって、人を愛することもできなければ、愛されることもできないのだという、非常に厳しい程の悲観的な見方も知れません。しかし、確かに私たちは、自分自身一人きりなのです。それでいて、自分は自分を愛していると思っている。愛は二つのものがあって始めて成り立つのです。イエス様が「自分を愛するように、あなたがたの隣人を愛しなさい」と言われるとき、私たちに注いでくださったイエス様の愛にとどまらなければ、自分を愛することができないと教えているのです。
だから、ここ9節にイエス様が「わたしの愛のうちにいなさい」というのは、正にそのことです。私たちは自分を愛することすらも実はできない。だから、イエス様は「わたしの愛のうちにいなさい」、愛のうちにとどまることによって、初めて私たちは本当に隣人を愛することができる。イエス様と孤独な私との間に、愛し愛される関係が出来るとき、はじめて他人を愛することが出来るのです。しかも、イエス様の御愛は、自分のための愛ではなくて、与える愛であり、無償の愛です。9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」。「わたしもあなたがたを愛した」と、イエス様は言われます。しかも、「父がわたしを愛されたように」と例えています。父なる神様から、「自分は愛された」と深く知っている。これは本当に素晴しいことだと思います。「私は神様から愛されている」と知っているならば、どんなことにも耐えることができ、また、どんなことにも自分を捨てることができます。自分が愛されているという自覚がない、そういう実感がない。親や兄弟やいろいろな周囲の親しい人から、愛されているけれども、それをどこかで疑っているのです。いや、あるいは先に申し上げましたように、限界があることを前提にして、受け入れています。あの人は私を愛してくれるけれども、まぁ、限りある人間の愛だろう。「ありがとうね」とは言うけれども、心底、「じゃ、あの人は私を愛してくれている、私のためにどんなことでもしてくれる」なんて、思ってやしません。「どっちみち最後は自分だけだ」と。夫婦でもそうです。どんなに愛し合っていても、どこかでその愛は、限りがあり、ある一定の条件が整ったときに成り立っている愛であることは、みんなが了解しているのです。そして自分のことは自分でやらないと、自分は自分だという思いがいつもある。だから、本当に自分は愛された自分であるかどうかと疑う。イエス様が「自分を愛するように」というのは、実は自分を愛することすらもできていないからです。愛を知らない、と言ったらいいと思います。だから、「わたしの愛のうちに」と招いておられるのです。
イエス様は9節で「父がわたしを愛されたように」と大胆にはっきりと言い切っています。「父なる神様は、わたしを愛してくださった」と。その父なる神様の愛をイエス様はしっかり握っているのです。これは強いですよ。イエス様は愛する神様から、神の位を捨てさせられ、あえて人の世に下らせられて、やがて罪人として十字架に命を捨てるよう求められました。これが愛された者の姿です。愛されているというのに、神なる方が人となるという、屈辱的ともいうべき、本当に有り得べからざる所へ置かれたのです。追いやられてしまった。それでも、イエス様は、なおかつ「父がわたしを愛された」と言い得る。なぜそう言えるか。その先10節の後半に「それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。父なる神様がわたしを愛してくださった。それをはっきり自覚することができた。その理由は、「わたしがわたしの父のいましめを守った」と語っていますね。イエス様は、父なる神様が求められるところ、父なる神様が命じられるところに従って、父なる神様の御言葉に「はい」と従順に従われたからこそ、父の御愛をイエス様は知ることができました。神様が求め給うところに自分を投げ出していく。いうならば、イエス様は、私たちに命を与えてくださったように思いますが、実は、父なる神様に御自分の命をささげて、父なる神様を愛されたのです。父なる神様がイエス様に、「お前は世に下って、すべての人の罪を負うて、お前が救い主となるように」という使命を与えて、あのクリスマスの出来事を通してベツレヘムに生まれました。人の世に、人の形をとって、人となってくださいました。私たちと同じ肉体をとったものとなった。創造者である神が造られた者に成り代わってくださる。まるでわたしたちが、その辺のうじ虫か何かに身を変えるようなものです。それは決してうれしいことでも、楽しいことでもない、悲惨なことであり、惨めなことであり、哀れむべき事であるけれども、イエス様は神様の御心を知って、神様の求め給うところに従って自分を捨てたのです。これが神様の愛を知る秘訣(ひけつ)です。だからイエス様が「わたしの愛のうちにいなさい」と言われる。どこにイエス様の愛があるだろうか? と思います。お風呂に入るときように、ここに愛というお湯がたっぷりあって、その中に浸ってぬくぬくとして「ああ、これが愛か」と言う、そんなものはありません。そういう形の愛はない。イエス様は父なる神様が求め給うところに従って、自分を捨てて、父なる神様の御言葉に、戒めに従ったのです。そのときに、「父がわたしを愛されたように」と、確かに父なる神様の御愛を確信し、しっかりその中にとどまることができたのです。
10節に「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」。イエス様の御愛が分からない、神様が私をどんなに愛してくださるか分からないと言うなら、どこに愛を求めていくか。それはただ一つです。それは、聖書の言葉に従って、先ず自分を捨ててかかることです。そこがイエス様の愛に出会う場所です。それ以外にはありません。生活する日々の一コマ一コマの中で、私たちが主を求めて祈り、与えられる御言葉に従って、自分の心を照らし、自分の思いを探って、「これは神様の御心ではない。これは、わたしのわがままな思いだ。これは人を恐れている自分の弱さの結果だ」と思ったならば、自分を捨てて、イエス様の御言葉に従ってみるのです。イエス様の御言葉に信頼して、先ず自分を捨ててかかっていくとき「主がわたしを愛してくださっていらっしゃる」と知ることができる。と同時に、イエス様を愛する者となっているのです。
毎日の生活にいろいろなことが起こります。右にするか左にするか、進むかとどまるべきか、うろうろして分からない。人に聞いたり、自分の経験から、あるいは経験者の話を聞いたり、いろいろな手立てによって、事の解決を図ろうとします。しかし、大切なことは、目の前の事態や事柄が解決すること、これももちろん幸いなことですが、そういう問題や事柄に出会ったときに、神様は私たちに愛を知らせよう、愛に触れることを求めている。判断、決断、選択を迫られたときに、私達は祈ります。そして御言葉をもって心を探られるとき、「これはやめるべきだ。ここは神様、あなたが求めているのは、こちらです」と、一つの思いを神様は与えてくださいます。そのときに「御言葉にそう約束されているから、はい、それではこれをやめます」と、自分を捨てて、主の御言葉に従ったときに、初めて、「わたしの愛のうちにとどまりなさい」と、イエス様の御愛の中に自分をおくことができる。そして「主は本当に私を愛してくださっているのだ」と、御愛に触れることができる。神様の御思いを知ってそこにとどまるとき、私どもは主の御愛に触れることができるのです。
私の父が若いとき、これは皆さんもお聞きになったと思いますが、中学までは何とかやってもらったが、さらに上の学校に行きたかった。ところが親は、「もうそれ以上は勉強する必要はない、早く丁稚(でっち)か何かにいけ」と言われた。しかし、どうしても勉強したいというので、頼みに頼み込んで、戸畑の明治専門学校に入学しました。郷里を離れて出かける時、母親から言われたそうです。その当時の学生は、デカンショ、デカンショ(デカルト、ショウペンハウエルと言う哲学者の名前を短縮した言葉)で半年暮らしという歌があるように、半年くらい勉強したら、あとの半年は遊んで暮らすというような生活をしていました。今でも大学生は似たようなものですが、半分は遊んでいる。酒を飲んだり、コンパがあったりとか、そういうことばかりで過ごしている。それで母親が、遠くへ旅立つ息子に言った。「お前は、あり余るお金の中から、学校へやってもらうわけではない。お父さんが朝から晩まで小さなお店をやって、身を粉にして働いたその汗の滴のようなものをお前に送るんだから、放蕩(ほうとう)に走ったり、酒におぼれたり、遊ぶようだったら、即刻かえって来い。悪事は千里を走るというように、お前は分からないと思っているかも知れないが、悪いことをすれば直ぐに親の所に聞えてくる」と言われた。そのときに、「お前が酒を飲むときに、杯に黄色い水を見たら、これはお母さんの涙と思え」と言われたというのです。拳々服膺(けんけんふくよう)(胸の中にしっかりと銘記して、忘れずに守り通すこと)して、父は「そんなにしてまで自分は学校へやってもらえるのか」と思って、はるばる海を越えて戸畑へやって来ました。当時18歳のころですから、しかも全寮制ですから、早速に歓迎会とかで、酒を飲む。そのとき父はどうしてもその酒を飲めなかった、と言います。先輩が「飲め、飲め」と言って、勧めるけれど、どうしても、そのときに思い起こされるのは、母親の言葉です。お母さんがそんなに自分を愛してくれていると思うから、その言葉を忠実に守っていこうと思う。また、父もそれを守ることを通して親の愛を感じることができたのです。事実、私が大学生のころに、まだ祖母が、父の母親が元気なときですけれども、訪ねたことがあります。そうしましたら、祖母が納戸からすすけた竹筒を持ってきまして「これを見なさい」と言う。「何?」と言う。「これは、お前のお父さんが学校に行ったときに、自分が、(小さな雑貨屋をしていましたから)その売り上げの中から、少しずつ、へそくってここに貯めておったんだ」と。竹筒に切れ目がありました。「こうやって貯めたお金で、お前のお父さんは学校へ行ったんだぞ」と話してくれました。私は初めてそれを見まして、「そんなことだったのか」と思って、えらく感動したことを覚えています。親がそうやって一生懸命に子供のためにする。でも、子供がその親の愛を知るというのは、言われたその言葉を守っていくときに、親からの愛を感じ取ることができるのです。
神様が私を愛してくださったと言うが、どこに神様の御愛があるだろうか。どうやったらそれが分かるだろうか。現実の私たちの出遭う事柄を見れば、神様の御愛を見ることはできません。しかし、大切なのは、イエス様が言われるように、10節「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」。「いましめを守るならば」とおっしゃいますね。イエス様の御言葉を、心に信じて「はい」と、その御言葉に信頼し、従っていくことです。現実の問題の中では、そんなことをしていたら、手遅れになるかもしれない、そんなことをしていたら事態がもっとややこしくなるかもしれない。聖書で言われているようなことをしていたら、人の世の中は生きていけない、という現実がある。しかし、そこで「いや、そうじゃない。これは主がそうおっしゃるから」と主の御言葉を信じて、それに従う。そのとき神様の御愛を知ることができ、またそこにとどまることができるのです。
ですからその少し前のところ、ヨハネによる福音書14章21節に「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。ここにも、「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である」と言われます。確かにそうです。イエス様の御言葉を聞いて、その言葉に従って自分の思いを捨て、自分の願いを捨て、自分の命を捨ててでも従っていくとき、主を愛する者となることができる。と同時に、そこに主の愛がある。私たちはそこでこそ、また主の御愛に触れることができるのです。しかもその先にありますように、「わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう」。またイエス様の御言葉を聞いて、信じて従って、自分を捨てて主を愛していくときに、今度はその者を神様が愛してくださる。父なる神様もその人を愛してくださる。そればかりでなく「わたしもその人を愛し」と、イエス様も私たちを愛してくださる。そして「わたし自身をあらわすであろう」、イエス様が御自分を私たちの心にあらわしてくださる。「イエス様は今も生きている。主が働いてくださっているのだ」と。驚くべきことを私たちのうちに起こして、御自分をあらわして、姿を見せてくださいます。これが人生を生きる目的です。このために生きているのです。いろんな問題・事柄が次々に起こってきます。なぜそういう問題が起こってくるかというと、そのことを通してイエス様の御愛に触れ、イエス様を知る者となるのです。これが私たちの生涯の目的、生きる目的です。
21節に「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である」。23節に「イエスは彼に答えて言われた、『もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう』」。これまた素晴しいお約束ですね。今読みました直ぐ前に「イスカリオテでない方のユダがイエスに言った」とあります。「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」と尋ねています。それに対して「わたしを愛するならば」と答えているでしょう。イエス様は、御自分をあらわす、しかし、イエス様を知る方法はただ一つだけ。それはイエス様の御言葉を心に抱いて、これを守り、主を愛していくときに、御自分をあらわしてくださる。
しかも23節の後半「わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」。素晴しいですね。「わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちは」と、複数形で言われているのです。「わたしたちは」、父なる神様、御子主イエス・キリスト、聖霊なる神御自身、この三位一体の神のこと、これを「わたしたち」と語っています。「その人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」と言うのです。これは何と大きな神様の恵みであり、祝福でしょうか。父なる神様、子なるキリスト、聖霊なる神が実はわたしたちと一緒に住んでくださる。だから、私たちがただ一つすべきことは、「主のいましめ、わたしの言葉を心にいだいてこれを守る」。この一つだけです。どんな小さな御言葉であろうと、私たちの心に神様が語ってくださったとき、「はい」と従っていく。そうするとき、その者と共に神様は住んでくださいます。
逆に24節に「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない」。ここではっきりと「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない」。イエス様の御言葉を信用しない人は、イエス様を愛していない人でもある。イエス様の御言葉を聞きながら「そんなのは無理だ」「そんなことはしておれない」「それはわたしには関係がない」と言って、耳を閉ざし、聞こうとしない、従おうとしないのだったら、イエス様を愛しているとは言えないし、また、イエス様の御愛に触れることができません。いつまでも限りある人間の愛だけにとどまって、孤独な生涯を送るしかない。しかし、「わたしのいましめを心にいだいてこれを守り」さえするならば、私たちは主を愛する者となり、また、主から愛される者となって、一つ一つの事柄の中で、主に出遭う。御自身をあらわしていただける。そればかりか、「わたしたちはその人と一緒に住む」と言われる。このことを体験するために、繰り返し申しますが、イエス様の御言葉を、しっかりと信じて、従うこと、守ることです。
ヨハネによる福音書15章9節に戻りますけれど「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。見えるところ、おかれている事情や境遇、問題事柄、今直面している悩みが何であろうと、主の御言葉を信じて、御言葉に信頼して従っていくとき、神様を愛する者、イエス様を愛する者と変えられ、そればかりでなく、わたしたちを愛してくださる主が共に住んでくださって、御自分をあらわしてくださいます。神様の力と恵みと業を、私たちに体験させてくださるからです。私たちはそのために生きているのですから、いろんなことがあるならば幸いです。問題があるならば感謝しましょう。そこで、主を愛する者と変えられ、主に出会うことができ、主に触れることができる。年頭に「わたしはアルパでありオメガである」とのみことばがあたえられました。何か問題にあたって「どうしようか」と惑うとき、「わたしはアルパでありオメガである」。「ああそうだ。あの御言葉が……。そうでした、神様、あなたが主です」と心を定めて、何があっても、あなたに従います、と心を定めたら、そのとき御愛が私たちの心に注がれてきます。神様の御愛に触れることができる。御言葉に従うところにこそ、神様の御愛があるからです。御愛のうちにとどまる日々の歩みでありたいと思います。そして、「我ら既に知り、かつ信ず。はあいなり」と、はっきり、神様が私を愛してくださっていますと、確信をもって言えるようになりたいと思います。イエス様は、「父がわたしを愛されたように」と、はっきりと言い切っています。そのように、「はい、私もイエス様に愛されている者です」と、はっきりと主の御愛を握っていきましょう。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
今朝は、この9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。
ここでイエス様は、「わたしの愛のうちにいなさい」、イエス様の愛のうちにとどまっていなさい、と勧めておられます。イエス様の愛のうちにいるとは、どうすることでしょうか? それは、その直ぐ後の10節に「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」とあります。イエス様の戒めというのは、聖書の約束の御言葉ですが、御言葉を守るのです。守るというのは、心に抱いて信じ、御言葉に従っていくことで、これは実に単純にして分かり易いことです。そうするならば、私たちは愛のうちにいるのだと、約束されています。
愛し愛されて、愛のうちにあるとき、人は幸せを感じます。愛を感じているとき、心安らぐことができ、平安を得ることができます。子供が親の愛を感じて、その腕の中に安らいでいるとき、穏やかで一番満ち足りた表情をしていますね。それは親が自分を愛してくれていることをよく知っているからです。だから、私たちは、人からの愛を求めます。平安を得たい、心安らかに過ごしたい、また暖かい思いを感じたいという願いが、人には必ずあります。歳を取ろうと、年齢にかかわりなく、愛されること、愛の交わりの中にいることを求めます。家族の中であっても、他人との交わりの中でもそうです。しかし、人と人との間の愛は、どうしても限りがあります。限られた愛でしかありません。人の愛というのはそういうものだと思うのです。
人を愛しているようであって、実は、多くの場合、自分の欲のためであります。愛されたいと思うこと自体が、既に自分のためであり、自分のことであって、相手のことを思うばかりではありません。有島武郎(たけお)という人が、昔書いた小説に『惜みなく愛は奪ふ』という本があります。相手から受けることを求めるのが、人間の愛の姿です。だから、愛されるのは、相手から何かをしてもらう、自分に注がれる有形無形の何かを求めていく。そこに初めて愛を感じるというのが、人の愛です。では、与える愛はあるかというと、確かに、ほかの人に与えるということはあります。親が子供を育てるとき、大きな犠牲を払いながら、子供を育てます。夜も寝ないで、あるいは食べるものも食べないで、昼夜を分かたずに労力を費やして、子供を愛します。しかし、だからといって、とことん愛し続けることができるかというと、これまた限界が必ずあります。
父が説教で例話に上げていたのは、石川五右衛門の話です。京都の四条川原で、彼は子供と一緒に釜ゆでの刑になった。始めのうちは、熱いから子どもだけは助けてやろうと思って、子供を差し上げて一生懸命にこらえていました。でもそのうち、とうとうたまらなくなって、その子供を足台にして、熱さをしのいだという話をしていました。私も子供ながらにその例話を覚えていて、人の愛というのは、それ程自己中心のわがままな愛なのだなぁ、と思いました。人というのは、そういうものなのかなぁ、と思ったのです。翻(ひるがえ)って、自分の親は私を愛してくれているけれども、これもいよいよとなれば捨てられるのかな、と思ったこともあります。人間というのはそういうものだと思うのです。どんなに子供を愛しているからといっても、その子に取って代わって、命を捨ててまで……。確かに睡眠を削って、食べるものをも削って、子供を愛する親はいますが、自分の命まで捨てられるかというと、なかなかそこまでいく愛は、私たちにはありません。人の愛は、ある意味で自分中心であることを、その限界を知らなければならない。いや、皆さんは十分知っていて、もう愛については聞き飽きて、食傷して、結構ですと。お互いに人と人とが、愛を求め合うことができても、与えることはできない。ここが私たち人の愛の限界ですね。
だから、神様は、本当の、真(まこと)の愛が何であるかを、証詞してくださったのです。十字架を通して、命を捨てて、「ヨハネによる福音書」3章の16節にありますように、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」。神様は、自分の命を惜しまないで、それすらも捨てる程の大きな愛。私たちのために一切のものを、捨ててくださる御愛を見せて下さったのです。これは、私たちが経験したことのない愛です。
ですからちょっとそこを読んでおきたいと思いますが、ローマ人への手紙5章6節から11節までを朗読。
8節に「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。神様が、私たちのためにひとり子を世に送ってくださいました。イエス様が十字架に命を捨ててくださった。それは父なる神様の、私たちに対する愛のあかしであると語られています。神様は、御自分のもっとも大切な命を捨ててまで、わたしたちを愛してくださいます。人の愛と大きな違いがここにあるのです。子供を愛する親であっても、限界があります。とことん自分を捨ててまでは愛せません。命までは捨てることができません。それが私たちの真実な姿であります。それに対して神様は、御自分のひとり子、言い換えると、神様ご自身の命でもある方をあえて、世に遣わして、私たちを命に引き入れてくださるために、十字架に命を捨てさせて、罪のあがないとしてくださいました。しかも8節に「まだ罪人であった時」とあります。私たちが良いことをしているとき、あるいは神様に気に入られる立派な人間だからとは違います。人間の愛というのは、そういうところがあります。相手が自分に都合が良いとき、自分にとって何でも言うことを聞いてくれるときには、親は一生懸命にするし、子供でもそうですね。子供が親の言うことを聞いて、本当に扱い易い子供であると、「この子はかわいい、何とかしてやろう」と、いろんなことをしてやります。ところが、その子が道を外して非行に走ったりすると、親は「あんな子は知りません。もう親でも子でもありません。縁を切ります」という話になる。なぜならば、自分に面倒を掛けるような存在を愛することができないのです。自分に都合のいい間、自分にとって利益になる間、大いに愛するでしょうし、そのために自分の財を使い、時間を費やし、いろんなものを犠牲にもするでしょう。しかし、それは相手が自分にとって都合が良いから、あるいは自分にとって何か報われるところがあるという、いうならば取引です。これが人の愛の実際の姿です。「いや、私は、そんな思いで主人を愛しているつもりはありません」と言われるでしょう。しかし「それじゃ、ご主人のために命を捨てますか」と言ったら、「いや、それはちょっとできません」と。だから、先ずは、そのことを認めなければならないと思いますね。
それに対して、神様の愛はそうじゃないですね。そこ6節には、「わたしたちがまだ弱かったころ」あるいは「不信心な者」8節には「罪人であった時」更に10節には「わたしたちが敵であった時」と記されています。自分にとって誠に都合の悪い存在、自分に敵対してくる者、自分に対して不真実な者のために、御自分の命までも与えてくださる。これが神様の御愛です。だから、神様が、私たちに求めているのは、正にそういう愛を私たちが受けるようにと、願っておられます。
ですからもう一度初めに戻りますが、ヨハネによる福音書15章9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。ここで「わたしの愛のうちにいなさい」と勧めておられます。と言うのは、私たちが神様の愛のうちにとどまっていなければ、今申し上げたように、いつまでも自己中心でわがままな、自分に都合の良い愛しか、持ち得ないからです。イエス様は、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」と勧められました。そのときに、「自分を愛するように」といわれました。で、自分を愛するとは、どういう風に愛するのでしょうか。自分を愛すると言うと、自分のわがままを通すこと、自分がしたい放題、なんでも自分に許すことが、自分を愛していると思い易い。いうならば、自分のために何もかもいろんなものを、奪い取っていくといいますか、自分の利益のために、自分の欲のために、自分を許していくこと。これが自分を愛していると思い易い。皆さんも、自分を一番愛しているのは、自分だと思っています。しかし、神様から見れば、私たちが愛していると言っている自分の愛は、それは愛ではなくて欲であり、自分のためであり、自分の利益のためでしかない。それでいて、神様は、もう一度「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」とおっしゃいます。自分を愛することを、もう一度考えるように、イエス様は求めています。
自分を愛するとはどうすることか?愛というのは、たった一人きりでは、体験できないことです。ロビンソンクルーソーのように絶海の孤島、何にもない小島にたった一人おかれて御覧なさい。愛も何もないですよ。愛するとか、愛されることがあり得ません。一人きりですから、ただ、自分のためにだけ生きている。人間は、本来孤独なものであって、人を愛することもできなければ、愛されることもできないのだという、非常に厳しい程の悲観的な見方も知れません。しかし、確かに私たちは、自分自身一人きりなのです。それでいて、自分は自分を愛していると思っている。愛は二つのものがあって始めて成り立つのです。イエス様が「自分を愛するように、あなたがたの隣人を愛しなさい」と言われるとき、私たちに注いでくださったイエス様の愛にとどまらなければ、自分を愛することができないと教えているのです。
だから、ここ9節にイエス様が「わたしの愛のうちにいなさい」というのは、正にそのことです。私たちは自分を愛することすらも実はできない。だから、イエス様は「わたしの愛のうちにいなさい」、愛のうちにとどまることによって、初めて私たちは本当に隣人を愛することができる。イエス様と孤独な私との間に、愛し愛される関係が出来るとき、はじめて他人を愛することが出来るのです。しかも、イエス様の御愛は、自分のための愛ではなくて、与える愛であり、無償の愛です。9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである」。「わたしもあなたがたを愛した」と、イエス様は言われます。しかも、「父がわたしを愛されたように」と例えています。父なる神様から、「自分は愛された」と深く知っている。これは本当に素晴しいことだと思います。「私は神様から愛されている」と知っているならば、どんなことにも耐えることができ、また、どんなことにも自分を捨てることができます。自分が愛されているという自覚がない、そういう実感がない。親や兄弟やいろいろな周囲の親しい人から、愛されているけれども、それをどこかで疑っているのです。いや、あるいは先に申し上げましたように、限界があることを前提にして、受け入れています。あの人は私を愛してくれるけれども、まぁ、限りある人間の愛だろう。「ありがとうね」とは言うけれども、心底、「じゃ、あの人は私を愛してくれている、私のためにどんなことでもしてくれる」なんて、思ってやしません。「どっちみち最後は自分だけだ」と。夫婦でもそうです。どんなに愛し合っていても、どこかでその愛は、限りがあり、ある一定の条件が整ったときに成り立っている愛であることは、みんなが了解しているのです。そして自分のことは自分でやらないと、自分は自分だという思いがいつもある。だから、本当に自分は愛された自分であるかどうかと疑う。イエス様が「自分を愛するように」というのは、実は自分を愛することすらもできていないからです。愛を知らない、と言ったらいいと思います。だから、「わたしの愛のうちに」と招いておられるのです。
イエス様は9節で「父がわたしを愛されたように」と大胆にはっきりと言い切っています。「父なる神様は、わたしを愛してくださった」と。その父なる神様の愛をイエス様はしっかり握っているのです。これは強いですよ。イエス様は愛する神様から、神の位を捨てさせられ、あえて人の世に下らせられて、やがて罪人として十字架に命を捨てるよう求められました。これが愛された者の姿です。愛されているというのに、神なる方が人となるという、屈辱的ともいうべき、本当に有り得べからざる所へ置かれたのです。追いやられてしまった。それでも、イエス様は、なおかつ「父がわたしを愛された」と言い得る。なぜそう言えるか。その先10節の後半に「それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。父なる神様がわたしを愛してくださった。それをはっきり自覚することができた。その理由は、「わたしがわたしの父のいましめを守った」と語っていますね。イエス様は、父なる神様が求められるところ、父なる神様が命じられるところに従って、父なる神様の御言葉に「はい」と従順に従われたからこそ、父の御愛をイエス様は知ることができました。神様が求め給うところに自分を投げ出していく。いうならば、イエス様は、私たちに命を与えてくださったように思いますが、実は、父なる神様に御自分の命をささげて、父なる神様を愛されたのです。父なる神様がイエス様に、「お前は世に下って、すべての人の罪を負うて、お前が救い主となるように」という使命を与えて、あのクリスマスの出来事を通してベツレヘムに生まれました。人の世に、人の形をとって、人となってくださいました。私たちと同じ肉体をとったものとなった。創造者である神が造られた者に成り代わってくださる。まるでわたしたちが、その辺のうじ虫か何かに身を変えるようなものです。それは決してうれしいことでも、楽しいことでもない、悲惨なことであり、惨めなことであり、哀れむべき事であるけれども、イエス様は神様の御心を知って、神様の求め給うところに従って自分を捨てたのです。これが神様の愛を知る秘訣(ひけつ)です。だからイエス様が「わたしの愛のうちにいなさい」と言われる。どこにイエス様の愛があるだろうか? と思います。お風呂に入るときように、ここに愛というお湯がたっぷりあって、その中に浸ってぬくぬくとして「ああ、これが愛か」と言う、そんなものはありません。そういう形の愛はない。イエス様は父なる神様が求め給うところに従って、自分を捨てて、父なる神様の御言葉に、戒めに従ったのです。そのときに、「父がわたしを愛されたように」と、確かに父なる神様の御愛を確信し、しっかりその中にとどまることができたのです。
10節に「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」。イエス様の御愛が分からない、神様が私をどんなに愛してくださるか分からないと言うなら、どこに愛を求めていくか。それはただ一つです。それは、聖書の言葉に従って、先ず自分を捨ててかかることです。そこがイエス様の愛に出会う場所です。それ以外にはありません。生活する日々の一コマ一コマの中で、私たちが主を求めて祈り、与えられる御言葉に従って、自分の心を照らし、自分の思いを探って、「これは神様の御心ではない。これは、わたしのわがままな思いだ。これは人を恐れている自分の弱さの結果だ」と思ったならば、自分を捨てて、イエス様の御言葉に従ってみるのです。イエス様の御言葉に信頼して、先ず自分を捨ててかかっていくとき「主がわたしを愛してくださっていらっしゃる」と知ることができる。と同時に、イエス様を愛する者となっているのです。
毎日の生活にいろいろなことが起こります。右にするか左にするか、進むかとどまるべきか、うろうろして分からない。人に聞いたり、自分の経験から、あるいは経験者の話を聞いたり、いろいろな手立てによって、事の解決を図ろうとします。しかし、大切なことは、目の前の事態や事柄が解決すること、これももちろん幸いなことですが、そういう問題や事柄に出会ったときに、神様は私たちに愛を知らせよう、愛に触れることを求めている。判断、決断、選択を迫られたときに、私達は祈ります。そして御言葉をもって心を探られるとき、「これはやめるべきだ。ここは神様、あなたが求めているのは、こちらです」と、一つの思いを神様は与えてくださいます。そのときに「御言葉にそう約束されているから、はい、それではこれをやめます」と、自分を捨てて、主の御言葉に従ったときに、初めて、「わたしの愛のうちにとどまりなさい」と、イエス様の御愛の中に自分をおくことができる。そして「主は本当に私を愛してくださっているのだ」と、御愛に触れることができる。神様の御思いを知ってそこにとどまるとき、私どもは主の御愛に触れることができるのです。
私の父が若いとき、これは皆さんもお聞きになったと思いますが、中学までは何とかやってもらったが、さらに上の学校に行きたかった。ところが親は、「もうそれ以上は勉強する必要はない、早く丁稚(でっち)か何かにいけ」と言われた。しかし、どうしても勉強したいというので、頼みに頼み込んで、戸畑の明治専門学校に入学しました。郷里を離れて出かける時、母親から言われたそうです。その当時の学生は、デカンショ、デカンショ(デカルト、ショウペンハウエルと言う哲学者の名前を短縮した言葉)で半年暮らしという歌があるように、半年くらい勉強したら、あとの半年は遊んで暮らすというような生活をしていました。今でも大学生は似たようなものですが、半分は遊んでいる。酒を飲んだり、コンパがあったりとか、そういうことばかりで過ごしている。それで母親が、遠くへ旅立つ息子に言った。「お前は、あり余るお金の中から、学校へやってもらうわけではない。お父さんが朝から晩まで小さなお店をやって、身を粉にして働いたその汗の滴のようなものをお前に送るんだから、放蕩(ほうとう)に走ったり、酒におぼれたり、遊ぶようだったら、即刻かえって来い。悪事は千里を走るというように、お前は分からないと思っているかも知れないが、悪いことをすれば直ぐに親の所に聞えてくる」と言われた。そのときに、「お前が酒を飲むときに、杯に黄色い水を見たら、これはお母さんの涙と思え」と言われたというのです。拳々服膺(けんけんふくよう)(胸の中にしっかりと銘記して、忘れずに守り通すこと)して、父は「そんなにしてまで自分は学校へやってもらえるのか」と思って、はるばる海を越えて戸畑へやって来ました。当時18歳のころですから、しかも全寮制ですから、早速に歓迎会とかで、酒を飲む。そのとき父はどうしてもその酒を飲めなかった、と言います。先輩が「飲め、飲め」と言って、勧めるけれど、どうしても、そのときに思い起こされるのは、母親の言葉です。お母さんがそんなに自分を愛してくれていると思うから、その言葉を忠実に守っていこうと思う。また、父もそれを守ることを通して親の愛を感じることができたのです。事実、私が大学生のころに、まだ祖母が、父の母親が元気なときですけれども、訪ねたことがあります。そうしましたら、祖母が納戸からすすけた竹筒を持ってきまして「これを見なさい」と言う。「何?」と言う。「これは、お前のお父さんが学校に行ったときに、自分が、(小さな雑貨屋をしていましたから)その売り上げの中から、少しずつ、へそくってここに貯めておったんだ」と。竹筒に切れ目がありました。「こうやって貯めたお金で、お前のお父さんは学校へ行ったんだぞ」と話してくれました。私は初めてそれを見まして、「そんなことだったのか」と思って、えらく感動したことを覚えています。親がそうやって一生懸命に子供のためにする。でも、子供がその親の愛を知るというのは、言われたその言葉を守っていくときに、親からの愛を感じ取ることができるのです。
神様が私を愛してくださったと言うが、どこに神様の御愛があるだろうか。どうやったらそれが分かるだろうか。現実の私たちの出遭う事柄を見れば、神様の御愛を見ることはできません。しかし、大切なのは、イエス様が言われるように、10節「もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである」。「いましめを守るならば」とおっしゃいますね。イエス様の御言葉を、心に信じて「はい」と、その御言葉に信頼し、従っていくことです。現実の問題の中では、そんなことをしていたら、手遅れになるかもしれない、そんなことをしていたら事態がもっとややこしくなるかもしれない。聖書で言われているようなことをしていたら、人の世の中は生きていけない、という現実がある。しかし、そこで「いや、そうじゃない。これは主がそうおっしゃるから」と主の御言葉を信じて、それに従う。そのとき神様の御愛を知ることができ、またそこにとどまることができるのです。
ですからその少し前のところ、ヨハネによる福音書14章21節に「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。ここにも、「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である」と言われます。確かにそうです。イエス様の御言葉を聞いて、その言葉に従って自分の思いを捨て、自分の願いを捨て、自分の命を捨ててでも従っていくとき、主を愛する者となることができる。と同時に、そこに主の愛がある。私たちはそこでこそ、また主の御愛に触れることができるのです。しかもその先にありますように、「わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう」。またイエス様の御言葉を聞いて、信じて従って、自分を捨てて主を愛していくときに、今度はその者を神様が愛してくださる。父なる神様もその人を愛してくださる。そればかりでなく「わたしもその人を愛し」と、イエス様も私たちを愛してくださる。そして「わたし自身をあらわすであろう」、イエス様が御自分を私たちの心にあらわしてくださる。「イエス様は今も生きている。主が働いてくださっているのだ」と。驚くべきことを私たちのうちに起こして、御自分をあらわして、姿を見せてくださいます。これが人生を生きる目的です。このために生きているのです。いろんな問題・事柄が次々に起こってきます。なぜそういう問題が起こってくるかというと、そのことを通してイエス様の御愛に触れ、イエス様を知る者となるのです。これが私たちの生涯の目的、生きる目的です。
21節に「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である」。23節に「イエスは彼に答えて言われた、『もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう』」。これまた素晴しいお約束ですね。今読みました直ぐ前に「イスカリオテでない方のユダがイエスに言った」とあります。「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」と尋ねています。それに対して「わたしを愛するならば」と答えているでしょう。イエス様は、御自分をあらわす、しかし、イエス様を知る方法はただ一つだけ。それはイエス様の御言葉を心に抱いて、これを守り、主を愛していくときに、御自分をあらわしてくださる。
しかも23節の後半「わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」。素晴しいですね。「わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちは」と、複数形で言われているのです。「わたしたちは」、父なる神様、御子主イエス・キリスト、聖霊なる神御自身、この三位一体の神のこと、これを「わたしたち」と語っています。「その人のところに行って、その人と一緒に住むであろう」と言うのです。これは何と大きな神様の恵みであり、祝福でしょうか。父なる神様、子なるキリスト、聖霊なる神が実はわたしたちと一緒に住んでくださる。だから、私たちがただ一つすべきことは、「主のいましめ、わたしの言葉を心にいだいてこれを守る」。この一つだけです。どんな小さな御言葉であろうと、私たちの心に神様が語ってくださったとき、「はい」と従っていく。そうするとき、その者と共に神様は住んでくださいます。
逆に24節に「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない」。ここではっきりと「わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない」。イエス様の御言葉を信用しない人は、イエス様を愛していない人でもある。イエス様の御言葉を聞きながら「そんなのは無理だ」「そんなことはしておれない」「それはわたしには関係がない」と言って、耳を閉ざし、聞こうとしない、従おうとしないのだったら、イエス様を愛しているとは言えないし、また、イエス様の御愛に触れることができません。いつまでも限りある人間の愛だけにとどまって、孤独な生涯を送るしかない。しかし、「わたしのいましめを心にいだいてこれを守り」さえするならば、私たちは主を愛する者となり、また、主から愛される者となって、一つ一つの事柄の中で、主に出遭う。御自身をあらわしていただける。そればかりか、「わたしたちはその人と一緒に住む」と言われる。このことを体験するために、繰り返し申しますが、イエス様の御言葉を、しっかりと信じて、従うこと、守ることです。
ヨハネによる福音書15章9節に戻りますけれど「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい」。見えるところ、おかれている事情や境遇、問題事柄、今直面している悩みが何であろうと、主の御言葉を信じて、御言葉に信頼して従っていくとき、神様を愛する者、イエス様を愛する者と変えられ、そればかりでなく、わたしたちを愛してくださる主が共に住んでくださって、御自分をあらわしてくださいます。神様の力と恵みと業を、私たちに体験させてくださるからです。私たちはそのために生きているのですから、いろんなことがあるならば幸いです。問題があるならば感謝しましょう。そこで、主を愛する者と変えられ、主に出会うことができ、主に触れることができる。年頭に「わたしはアルパでありオメガである」とのみことばがあたえられました。何か問題にあたって「どうしようか」と惑うとき、「わたしはアルパでありオメガである」。「ああそうだ。あの御言葉が……。そうでした、神様、あなたが主です」と心を定めて、何があっても、あなたに従います、と心を定めたら、そのとき御愛が私たちの心に注がれてきます。神様の御愛に触れることができる。御言葉に従うところにこそ、神様の御愛があるからです。御愛のうちにとどまる日々の歩みでありたいと思います。そして、「我ら既に知り、かつ信ず。はあいなり」と、はっきり、神様が私を愛してくださっていますと、確信をもって言えるようになりたいと思います。イエス様は、「父がわたしを愛されたように」と、はっきりと言い切っています。そのように、「はい、私もイエス様に愛されている者です」と、はっきりと主の御愛を握っていきましょう。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。