「エペソ人への手紙」2章1節から10節までを朗読。
10節「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。
今、読んだ箇所には二つのことが語られています。前半には、私たちが過去にどういう者として生きていたかが、短い記事でありますが、語られています。1節に「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」とあります。かつて罪ととがによって死んでいた者とあります。ところが、実際、生まれてから今に至るまで、一度も死んだことはありません。「そもそも、私は元気で病気一つしていないのに、どうして死んだ者なのだろうか」と思います。しかし、神様の目からご覧になると、私たちは死んだ者、死んだと同然であったと言われます。神様が人を造られた目的、造った意図、神様の御思いから離れてしまったからです。神様が私たちを造られたのですが、人はそのことを忘れている。これが死んだ状態だと、聖書は語っています。神様が造って、この地上に命を与え、生きる者としてくださったのですが、私たちはそんなこととはつゆ知らない。神様がいらっしゃることも知らないで、まさに3節にあるごとく、「肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い」、日を過ごしていました。人間の持つ生来の欲望と言いますか、損得利害、様々な感情のおもむくままに生きていました。そこには神様の存在、私たちを造り生かし、大きな力ですべてのものをご支配下さる方、すべてのものの根源でいらっしゃる神様を認めることができなかった。「おのれを神とし」と聖書に語られていますが、自分がすべての中心であって、自分の思いのまま、好きだからする、嫌いだからしない、これは絶対譲れないとか、とにかく私たちの日々の生活はそういうことで生きている。そして自分の思いが届かない、自分の願いがそのようにいかない。そうすると、フラストレーションと言いますか、苛立つ、憤る、あるいは人を非難する。様々な悪い思いに心が支配される。ひと時として安心がない。苛立ち、憤り、つぶやく、そういう生活を送ってきたのです。
2節に「かつてはそれらの中で」、「それら」とは、「罪過と罪とによって死んでいた」ことです。神様を離れて、人が自分を神として、自分の思いのおもむくまま肉の欲、肉の働くところに従って生きている。これが罪であった。その中にあって、「この世のならわしに従い」とありますが、この世間、人の世の仕来りや習慣、言い伝え、先祖伝来の様々な事柄に恐れを抱く。これをしなければ、何と言われるか分からない。社会の習慣とか、世の中の人の目に、私たちは戦々恐々として生きている。2節に「不従順の子らの中に今も働いている霊」と語られていますが、「不従順」とは神様に聞き従おうとしない、神様を認めようとはしない者の中にある霊、悪の霊、サタンの霊、神様とは縁のない霊によって人は突き動かされている。そういうものに支配されている。その中に私たちも同じように生きていた者であると。3節に「また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし」と、これが私たちのかつての姿です。そういう私たちを神様が憐(あわ)れんでくださった。その後に「生れながらの怒りの子であった」とあります。私どもがプンプンカンカンと怒りっぽいという意味ではありません。そういう意味で理解していただいても間違いではありませんが、これは神様の怒りを受ける者として生まれついていた。滅びに定められた者であったことにほかなりません。神様の呪いと怒りを受ける者として、この地上に生きていた者であります。ところが、そのような私たちを憐れんでくださった。
4節に「しかるに、あわれみに富む神は」とあります。ご自分の造られた目的とは到底似ても似つかない者、神様がご計画してくださったものとは違ってしまった。エレミヤ書には器を造る陶器師が粘土で細工をしますが、それを仕損じたとき、意図にかなわなかったとき、それをすぐにつぶしてしまう。そのようにわたしもあなたがたにできないだろうかと、神様はエレミヤを通して語っています。「陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある」(18:6b)とあります。言うならば、私たちも神様に造られた者でありながら、神様が意図した、目的としたものとは程遠い存在になってしまった。だったら、神様はこれを一気につぶしてしまわれる。そのことが「怒りの子」と言われていることです。つぶしてまた別のものを造り出しても構わない。そうあって当然であります。ところが、神様は私たちを惜しんでくださった。創世記にあるように、ご自分のかたちにかたどって、尊い者として造られた。神様の姿が私たちのうちに置かれていたのです。神様のかたちにかたどられた者でありながら、そのかたちが失われてしまった。それが汚されてしまった。だから、捨ててしまうことが当然ですが、神様はご自分にかたどったものとして、たとえそれが失われていても、そのゆえにこそ、ねたむほどに愛してくださったと語られています。たとえ堕落した者であっても、呪いに定められた者であろうとも、神様にとっては私たち一人一人が掛け替えのない大切な存在だったのです。ですから、何としても私たちを救いにあずからせるために、神様のご目的にかなう人間に造り替えて新しくしたいと、神様は切に願っておられます。
ヨナ書にはそのことを神様が語っています。預言者ヨナがニネベの町へ「悔い改めなければ滅ぼすぞ」と、神様の警告を伝えるように遣わされますが、そのとき彼は「そんな所には行きたくない」と思って、別のタルシシへ行く船に乗りました。やがて、その船が大嵐に遭い、その原因として「どうも、神様に背いているやつがいる」というので、くじを引いたところ、ヨナに当たった。それで彼は海に放り込まれてしまいました。大きな魚に飲み込まれて、三日三晩その中で苦しみうめきました。そして悔い改めました。そのとき神様はパッと放り出してくださいました。吹き出されて、気がついてみたらニネベの近くの浜辺で目が覚めた。それから彼は悔い改めて、熱心にニネベの町を歩き、「悔い改めなければ滅ぼされる!」と言って回ったのです。すると、ニネベの人々は非常に素直で、ヨナの話を聞いて「それはいけない」と、王様を始めとして、神様の前に悔い改めました。その姿を見て神様は滅ぼそうと思ったが、やめました。納得できないのはヨナであります。神様に「どうして神様、あなたは『滅ぼす』と言ったじゃないですか。私が皆に『滅ぼされる』と言って回ったんだから、ちゃんとそのようにしてください」と言った。すると、神様が「わたしはこの民を惜しんでいるのだよ」と。でも、納得いかなくてヨナはふて腐れました。それで町外れに小屋を作って、そこに隠遁(いんとん)したのです。現役を退きました。夏になり、暑い日が続きました。あまりにも熱くてたまらない。その時、神様はとうごまという、朝顔のようにつるで伸びていく植物だと思いますが、そういうものを一晩のうちに生えさせて、日よけにした。ヨナは大喜びをして「これは助かった。こんな涼しいものが出来て有難い、有難い」と思った。すると、その晩に虫が来てとうごまの根っこをかんで、一気に枯れてしまった。翌日、目が覚めて見てみると、全部枯れて、強い日差しが当たっている。「ああ、惜しいことをした。この木が枯れなかったらよかったのに」と言ったときに、神様は「お前は労せずして得たものすら、失って惜しいと思うじゃないか。ましてや、このニネベの町の人々、悔い改めたこの民をわたしが惜しまないでおられようか」と言って、神様の本意を語りました。
神様の御思いは決して私たちを滅ぼしたいのではありません。神様は私たちをご自分のかたちにかたどるほどに、またご自分の命の息を吹きいれて生きる者としてくださいました。神様のご目的に沿う者に造ったはずであります。それが、神様から離れて、自分勝手な、わがままで自分の思いのまま、願いのまま、肉欲に従って、情欲に従って生きる者と変わってしまった。3節の終わりに「ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった」。そうでありますが、神様は憐れみに富む神です。大きなご愛を持って、私たちの罪をあがなうと言いますか、罪の犠牲として、ご自分のひとり子イエス様を神の位からこの世に遣わして、私たちのために十字架に命を取ってくださった。私たちが受けるべき呪いと刑罰のすべてを、イエス様に全部負わせて、イエス・キリストを信じる私たちを新しい者としてくださった。神様に罪を許された者として受け入れてくださった。それが5節に「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし」とあります。罪ととがに死んでいたはずの私たちが、イエス様の救いにあずかって、今度は新しいいのちに生きる者と造り替えられた。
5節の中ほどに「あなたがたの救われたのは、恵みによるのである」とあるように、私たちの行いがいいから、品行方正だから、性状性格がいいから、人間らしいところがあるから、褒められるところがあるから、お前を救ってやろうというのではありません。私たちはどこを取っても何一つ誇るべきもの、よき所のない者となった。失われておった者、永遠の滅びにすら定められていた者であります。そういう者を一方的な神様のご愛と恵みによって、救い出してくださった。これはただ「恵みによる」と言うしかないのです。8節に「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである」。ただ、自分の罪を認めて、自分が本当にどうにも仕様のない者であり、神様に造られながら神を神として敬うことをせず、恐れることをせず、勝手に自分本位でわがままな情欲に従って生きてきた自分であることを認めて、主イエス・キリストが私の罪のゆえに十字架に命を捨ててくださったと信じる。イエス・キリストを救い主と信じる私たちはその信仰によって救いにあずかる、救われるのです。しかも、「それは、あなたがた自身から出たものではなく」とあるように、神様ご自身から出たもの、「神の賜物」です。私たちに対する神様からのプレゼントなのです。私たちはこうやって救いにあずかって毎週礼拝を守ることができ、日々御言葉によって養われ、祈ることが許されて、神様との交わりの中に生かされている。これは本当に恵みです。ただ単に「ラッキーだった」とか、あるいは「当たり前よ、こんなの」というようなものではなく、誠に貴重な千載一遇の恵みです。私たちがこうやってイエス様の救いにあずかるのは、クリスチャン家庭に生まれ育ったからとは限らない。条件が整っているから当然そう成るべくして成ったのではありません。神様の選びと召し、神様が私たち一人一人に憐れみをもって目をとめてくださった。では、私以外のほかの人は駄目なのかというと、そうではない。神様の救いはすべての人に開かれ、今はどんな人でも救いにあずかることができる。だから、すべての人々は招かれているのです。ただ、それに応答して主の恵みにあずかるのは、神様の憐れみがあればこそです。だから、決して私たちは誇ることはできません。8節以下に「それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。9 決して行いによるのではない」と。物断ち、忌み断ちと言いますか、千日行をしたとか、お百度を踏んだとか、寒中に滝に打たれたとか、そういう荒行をして救いにあずかったのではない。私たちが救いにあずかったのは、どういう理由であったか、私たちにすら分からない。それはただ一方的な神様の憐れみであり、神様が与えてくださった恵みであったと言うほかありません。それを誇りとして「私はまだ神様を知らない人より偉いんだ」なんて、そんなことを言えた柄では到底ない。むしろ、神様が憐れんでくださったゆえにここにあるのです。神様が御霊によって私たちの心を新しくしてくださって、主イエス・キリストを信じる者としてくださったのです。この恵みをどんなに感謝してよいか、感謝してもしすぎることはありません。だから、神様がこんな者を憐れんで、このみ救いにあずからせてくださった掛け替えのない大きな神様のみわざを、私たちは無にしてはならない、軽んじてはなりません。
イサクの息子にエサウという長男がいました。しかし、ヤコブという弟がお父さんからの祝福を受けてしまった。私が高校生にその話をしたことがあります。弟ヤコブがお兄さんの受け継ぐべき祝福を取ってしまったのだと。そうしましたら、後で感想文の中で一人の生徒さんが「ヤコブは人をだますような方法で横取りした。そんなことを神様は許されるのでしょうか」という疑問を書いてくれました。私は早速その生徒さんに返事を書いたのです。実はこの事態の前しょう戦と言いますか、それにいたる一つの出来事があります。それを抜きにしては考えられないのです。それはエサウが狩りに行って、疲れきって帰って来ました。ちょうどヤコブは家にいてお母さんの手伝いをして煮豆を煮ていたのです。おいしいにおいがしたものですから、おなかをすかしたエサウが「その煮豆をおれにくれ」と言ったのです。そのときにヤコブは「お兄さんの長子の権、長男としての権利を私に譲ってくれ」と提案した。そのときにエサウは「おお、そんなもくれてやるよ」と。今お腹の足(た)しになるのは煮豆だから、そいつをくれと言ったのです。兄エサウは自分が長男であるということ、生まれたときから家督を継ぐ長男としての権利があったので、彼はそれがどんな大きな恵みであるかを忘れてしまった。当たり前になっていた。自分は長男だから、当然そのままお父さんの祝福を受けて、跡継ぎになるのだと、彼は高をくくっていた。それで神様はエサウを退けたのです。そのことを問わなくしては、後のことは説明がつきません。私はその高校生にそのような返事をしました。その後、その方から「よく分かりました」と返事をいただいたのですが、大切なのはそこです。
私たちも軽はずみに「私はクリスチャンだけれども……」、時にそういうことを言われる方がいらっしゃる。「あなたはクリスチャンだってね」と友達から聞かれる。そうするとちょっと気恥ずかしいと言いますか、「いや、まぁ、私はクリスチャンだけれども、そんな大したものじゃないのよ」と言ってしまう。ちょろっと誤魔化す。まさにエサウが自分の家督の権、長男としての権を軽んじるのです。自分が今この恵みにあずかったことが、どんなに大きな神様からのプレゼントであるか、そして、これは掛け替えのない大切なものであることを忘れてはならない。エサウは自分が生まれながらに持っている、長男としてのお父さんの祝福を受け継ぐ権利、イスラエルとしての神様の祝福を受ける権利です。しかし、ヤコブは自分がそうでなかったことを大変悔やんでいた。何とかしてお兄さんの権利を欲しいと思っていた。切にそれを願っていたのです。このお兄さんと弟ヤコブとの家督の権に対する、お父さんの祝福を受ける権利についての温度差が明らかに結果として出てくるのです。だから、「仕方がない。代々クリスチャンだから、親の代から、私は二代目、三代目、四代目やから……」と、そんな軽いものではない。そのことをもっと真剣に感謝していきたい。またそれを恵みとして受けていきたい。
私たちを救いにあずからせてくださった神様は、10節に「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」と言われる。では、私たちが救いにあずかった、救われたとは、どういうことなのか? それは必ずしも日常生活に悩みがなくなるとか、問題がなくなる、万事万端物事が順調に行くようになるという話ではありません。ここはしっかり知っておきたいことなのですが、神様が私たちを選んで、尊いこの救いにあずからせ、神の民としてくださったのは、神様のご目的があるからです。それは、私たちを神様の作品にすることです。「神様の作品って、それはえらいことや、もうすこし格好よくならないといかん」と美容術に熱心になることではありません。姿かたちやこの肉体のことを作品と言っているのではなくて、地上に生まれてから死ぬまで、私たちの全生涯を神様は一つの作品として完成しようとしているのです。私たちの日々の生活、日常生活の朝起きて夜寝るまで、それは神様のご計画してくださる作品の一コマなのです。ジグソーパズルというのをご存じだと思います。小さないろいろな形をしたピース、小さな紙の破片を上手に組み合わせながらはめ合わせていく。全部完成しますと、一幅の絵に仕上がります。私たちの人生を、神様はまるでジグソーパズルのように、一つの作品として作り出そうとしてくださる。365日、10年3650日、あるいはそれが20年、30年、50年、皆さんの80年、90年の一生涯が、大きな一つのキャンバスに描かれた神様の作品です。そして、私たちの一日一日は、ジグソーパズルの一つのピースのように、小さな破片のようなものであり、並べ合わせて、組み合わせて完成して見たとき、初めてそこに神様でしかできない一つの素晴らしい作品が仕上がっていく。
その目的は、神様がそれによってご自分の栄光を受けるためです。だから、私たちの生涯は、自分の夢を実現するためでも、自分の計画、自分の希望、望みを完成する、あるいは自己実現と言いますか、自分の何かを完成するために生きているのではない。私たちを造ってくださった神様の栄光のためです。栄光という言い方はなかなか理解しにくいことですが、誉と言いますか、神様の名誉と言い換えてもいい。よく絵画の立派な絵があります。セザンヌであるとか、ルノアールだとか、いろいろな西洋名画がありますね。日本画もありますが、あるいは彫刻などという芸術作品もあります。そういうものは確かに絵そのものも立派でありますし、見るだけでいろいろな感情を伝えてきます。しかし、同時にそれを描いた人、その作品を作った人はもっと大きな誉を得ます。レンブラントであるとか、あるいはダビンチであるとか、ミケランジェロであるとか、この作品はこういう人が作ったのだと、その画家や彫刻家の名誉に、誉になります。神様は私たちをして神様の名が広く褒めたたえられる、賞賛されるものにしたいと願っておられる。
だから、地上の生涯、これからあと何年あるか分かりませんが、いずれにしても終わる時がきます。終わって告別式をいたします。いつも告別式をさせていただく時に、召された方の生まれてからの略歴、生涯を振り返る機会を与えられる。そうすると誠に不思議としか言いようのない人生を一人一人が歩んでいます。恐らく、今日までの70年80年でしょうか、そういう人生そのものも既に神様の作品です。そこに神様のわざが、ご計画がある。私たちが想像しなかった、思い掛けない事態や事柄がたくさんあります。そればかりか、私たちがイエス様の救いにあずかって、神様の御思いに従って生きるとき、いままでとは違った色合いと言いますか、違った形の筆づかいの作品に変わっていく。ここにありますように、「神の作品であって」と言われています。私たちはこのことを自覚していきたいと思う。いま神様は私たちをご自分の作品として作っていらっしゃる最中です。製作中です。まだ完成していません。もう8割がた出来上がった方もいらっしゃるようですが、これから後どのくらいか分かりません。振り返ってみて、「私は8割か。それじゃ、これ以上変化はあるまい」と思いますが、名人の最後のワンタッチは作品をひっくり返しますから、期待していきたい。
その後に「良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」。「良い行いをする」と言われると、途端に「ありゃ、私困ったわ。そんな良い行いなんてできない。あの人ならできるかもしれんが、私のような者は生まれつきがさつだし、考えること、思うこと、ろくなことしか考えんし、これは困ったな」と。そういう意味ではありません。この場合の「良い行い」とは、神様の御心にかなっていくことです。神様が私たちを御思いに沿うようにと造り替えてくださる。毎日、朝から晩まで、神様、神様と、しょっちゅう神様のことばかりを思っているわけではない。そのようにありたいとは思います。けれども、必ずしもそうではない。ところが、神様のほうは私たちを忘れないのです。私たちを忘れないばかりか、私たちを神様の御思いに引っ張っている。だから、「今日はこうしよう」とか「あそこへ行こう」とか「ここはやめておこう」とか「これはしないでおこう」とか、勝手なことを朝決めますが、そのようにいかないじゃありませんか。一日振り返ってみて、夜寝る時、「今日は思ったほどのことはできなかった。でも、思いがけなくあれもあった、これもあった」と。それは神様が私たちをご自分の御心のままに引き回しているからです。だから「良い行い」というのは、私たちが意図してすることではないのです。神様のほうが生活の中で御心に従わせてくださる。だから、「良い行いをするように」と言われると、途端に力みかえって、「よーし、それじゃやってやりましょう」と、頑張りますが、そんなことを神様は願っているのではない。「わたしに任せなさい」と。作品、キャンバスはただ描かれ塗りたくられるままです。画家が好きなように絵を描くのです。彫刻家が石をのみで削りますが、石は、大理石か御影石か知りませんが、彫刻になる石はそのままジーッとしているのです。たたかれるまま、削られるままです。今日も私たちはどこかを削られているのです。「ああ、痛い。こんな不幸な目に遭って」と言っているけれども、それこそ神様が今あなたを造り替えてくださっている。だから、神様の手に自分を委ねていくこと、これがただ一つ「良い行い」をする秘けつです。自分でたくらんで「こうしようか」「ああしようか」「神様の御心はこうに違いない」「ああに違いない」と、そんなことをやってみたって、私たちは神様の御思いを全部知り尽くすことはできません。そうであるなら、初めから「神様、私はあなたの思いは分かりませんから、神様、どうぞ、あなたの好きなように振り回してください。持ち運んでください」。どうぞ「今日も私は神様の作品として、栄光のために生かしてください。どうぞ、よろしく」と任せる以外にない。素直に、神様に「どうぞ」と、任せていけば神様の好きなように私たちをねじってくださるし、曲げてくださるし、真っ直ぐにも伸ばしてくださる。自由自在です。だから、いつも自分は神様に救われ、神様のものとなり、神様が私の人生を通してご自分の作品を作ろうとしている。そのことを自覚していくこと。何があっても心配しない、恐れない。きっとそこから神様は素晴らしいことをしてくださる。だから、私たちはイエス様と共に生きることを努めていく以外にない。
「ルカによる福音書」19章1節から10節までを朗読。
これはザアカイの記事であります。彼は「取税人のかしら」と言われました。当時としては大金持ちでした。ローマ皇帝から委託を受けて、民の税金の取立てをしていた。その当時は、この町ではこれだけの人数がいるからこれだけの税金を納めなさいと割り当てられます。それを住民に割り振って徴収する役割です。ところが、上納する額よりたくさんとっても、別におとがめなしです。だから、自分の好きなように取れる。それ故、多くの人々から憎まれてもいたのです。その町へイエス様がたまたま来られた。この当時、イエス様は有名人ですから、たくさんの人々が集まって来る。ザアカイもイエス様を見たいと思って来たが、誰も彼を迎えてくれる人はいません。しかも、あいにく彼は背が低かった。群衆が壁になってイエス様が見えない。彼はいちじく桑の木へ登って、「しめしめ、ここから見てやろう」と、木の茂みの中、上から眺めておった。そこへイエス様が来られて、木の下で立ち止まった。しかも、ザアカイがそこにいることは知らないはずですが、イエス様はちゃんとご存じだったのです。木の下へ来て「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と。ザアカイは大喜びです。自分のような者に声を掛けてくれる者はいないと思っていた。ましてや、多くの人々があこがれているイエス様が自分の家に来て泊まってくれるというのですから、大喜びでイエス様を迎えました。ところが、それまでイエス様を見たいと思って、あこがれていた人たちはがっかりしたのです。「イエス様ともあろうものが、あの罪人の家に入って泊まるなんて、見損なった」と、イエス様に対して冷ややかになりましたが、そんなことはお構いなしに、イエス様はそこに泊まりました。ところが、泊まったとき、8節に「ザアカイは立って主に言った、『主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します』」。イエス様は「そのようなことをしなさい」とは言わなかったのです。ただ泊まって一緒に食事をしたかもしれない。ザアカイは歓迎して、もてなしをしたに違いありません。しかし、「ああしなさい」「こうしなさい」と、イエス様は一言も言わないけれども、ザアカイはみずから「自分の財産を半分貧しい人に施します。残りの半分を4倍にして返す」と悔い改めたのです。新しい作品に作り変えられる。彼の生涯がイエス様に出会うことによって、神様の作品として作り変えられていく。それまでの彼の過去の人生、罪ととがとに死んでいた人生は無意味であったかというと、そうではありません。それも神様の大きな作品の中の一コマです。暗い背景の中に、そこから変わったザアカイの新しい人生の歩み、一つの大きなドラマが作り出されていくのです。
だから、時に「先生、もっと早くイエス様の救いにあずかっておけば、洗礼を受ければよかったのに、この年になってしまって、これまでの過去の生涯は私にとっては無意味な感じがします」と言われますが、決してそうではありません。確かに神様を知らないで罪ととがとに死んでいた。この世の様々な霊力に縛られて、あれを恐れたり、これを恐れたり、人や物事を恐れて生きてきた、長い罪にまみれた人生であったかもしれない。しかし、だからこそ、いま作り変えられて、新しい神様のわざの中に生かされている今があるのです。だから、決して過去が失敗だったというのではなくて、それもまた神様の恵みによるのです。神様はそれを作品の大きな背景にしたうえで、そこになおかつ神様のわざを輝かせてくださる。神様は作家として、芸術家として、あるいは作品を作り出すものとして、その腕を振るってくださるのです。ザアカイの記事を読むとき、私はそのことを教えられます。それまで人に憎まれ、人にさげすまれていたザアカイ。その暗い背景から、今度は全くそれとは異質のザアカイに生まれ変わっていく。彼はこの後どのような生涯を全うしたかわかりませんが、恐らくそれまでとは違った愛に満ちた人生を全うしていったに違いありません。
私たちもいま神の作品として、神様が選んで、この救いに引き入れて、神様が今日一日を作り出し、明日の一日を備えてくださる。それが大きな作品の中のどの一コマになるのか、どのように作品とかかわっているのか、全部を知り尽くすことはできませんが、造り主でいらっしゃる神様の手に握られていく。これが私たちのただ一つの恵みの道です。
「エペソ人への手紙」2章10節に「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである」。まさに、聖書を読みますと、そういう記事ばかりです。ヨハネやペテロにしてもそうですが、ガリラヤの湖畔で代々漁師の家に生まれ育った彼らがイエス様に出会って、船具も網も捨ててイエス様に従いました。やがて三年数ヶ月の後、イエス様が十字架に命を捨てられたときに、ペテロはがっくりして、元のガリラヤへ戻りましたが、そこでよみがえった主に再び出会って人生が変わります。その後、ローマの地で殉教するまで、彼の人生はひっくり返った。誰がペテロの生涯をそういうものと想像できたでしょうか?彼自身、ガリラヤから当時の大ローマ帝国の首都であるローマにまで自分が行くようになるとは夢にも思わなかったでしょう。ましてや、そこでキリストのために命を捨てる者となることすら知らなかったでしょう。その後、彼の墓の上にサンピエトロ寺院という大聖堂が建てられるなど、死からよみがえることができて見たら、「おれの人生、こんなだったのか」と言ってびっくり仰天ですよ。パウロもそうでしょう。かつてサウルというユダヤ人の一青年が、イエス様に出会うことによって作り変えられ、ローマで死に至るまで波乱万丈、自分では想像しない、計画しない人生を生きたのです。そのように私たちも神様の手に握られた作品です。
ですから、10節に「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである」。イエス・キリストを信じて新しいいのちに生きる者、神様の作品としてこの生涯を全うしていく。大きな神様の手に握られていることを感謝して、救いにあずかった恵みを決して失うことのないように、大切に守り、この作品の完成を待ち望んでいこうではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。