いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(417)「平安あれ」

2014年12月19日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネによる福音書」14章25節から31節までを朗読。

 27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。

 14章はイエス様が十字架におかかりになる前、過越の祭をなさった、最後の晩餐といわれているときに、弟子たちに語られた告別メッセージといいますか、この地上にあってイエス様が語ってくださった中心的なメッセージの一節であります。14章1節から始まっていますが、1節に「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」と、イエス様が語り始めた最初の言葉です。イエス様はこれから捕えられて十字架に命を絶たれることを既にご存じでした。そのとき弟子たちが不安と恐れに陥るに違いない、そのことを予期しておられたことは明らかであります。だからこそ「心を騒がせないがよい」と先ずおっしゃいました。なぜ心を騒がせてはならないのか?心を騒がせるとは不安になること、心配すること、思い煩うことです。神様は私たちが心を騒がせたり、思い煩うことを喜ばれる御方ではありません。なぜなら、神様は私たちを造り生かし、私たちの全ての必要をご存じである、と言われます。神様は何もかもご存じで、私たちに必要なときに必要な物を必要なだけきちんと整えて、御手によって地上の生涯を導いてくださっています。ですから、本来何も心配いらないわけです。小さな子供が親から養われている間は、決して心配しません。一日一日喜んで楽しんで、何を食べ、何を着、何を飲もうかなど、幼稚園の子供が心配するはずがない。それと同じで、私たちは心を騒がせる必要はないのであります。神様が繰り返し「思いわずらうな」とか「心を騒がせるな」と言われるのは、私たちが造り主でいらっしゃる神様を信頼しきれていない故であります。神様を疑ってかかる……、はっきりと積極的に神様を疑うことはしないかもしれませんが、気がつかないうちに神様を忘れて自分で何とかしようとする。これがいちばん良くないことです。生活の中で心配なことが起こってくる。あるいは、思いがけない失敗に出会う。あるいは、不足するようなことがある。いろいろなことで行き詰って「どうしようか」というとき、「しまった。早くこれを何とかしなければ……切り抜けなければ」と、思った瞬間に全部を自分に引き込むのです。そして「私にはこれしかないし、あの問題もあるし、このこともある。ああ、どうしようか。どうしようか」と、自分の知識に頼る。だから「箴言」にあるように「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない」(3:5)というのは、まさにそうです。自分で解決しよう、自分で事を進めようとしてしまう。そのために神様がその事を導いてくださっていることを忘れている。そういう失敗をしばしばするものですから、そのたびに教えられることです。「しまった。何とかこれを早く始末しておかなければ……」「早くこれをちゃんと手立てをしておかなければ」と、自分でできることをいろいろと考える。そして「ああなったらどうしようか。こうなったらどうしようか」と、問題を自分に引き込んでしまう。神様は「わたしの所へ持って来なさい」と言われる。神様は私たちのことを何でも知っておられるのです。だから「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈りと願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリピ 4:6)とおっしゃる。いろいろな問題が起こったとき、私たちができないのは当たり前であり、失敗だらけであり、欠けだらけであり、ちぐはぐなことしかできないことを神様は百も承知なのです。しかし、人は「私があんなことをしたから、あんなことを言ったからこうなってしまった」と思い、つい「私の責任だから早くこれを始末して、人に迷惑を掛けないように」と、一生懸命にやろうとします。ところが、できないからいらいらもするし、不安にもなるし、「これがああなったら、どうしようか」「もっとこれが深刻なことになったらどうしようか」と不安に駆られ、「だから、早くしなければ」と心が騒ぐわけです。では、そのときどうするかと?「ただ、事ごとに祈り願い、かつ感謝して、あなたがたの求めるところを神に告げる」とおっしゃる。とにかく神様の所へ持って行く。これが私たちに求められている大切なことです。だから、何か失敗することがあったら、あるいは、何か困ったことがあったならば、それを自分に取り込まないで、神様の所へ持ち出して行く。「今、私はこういう悩みの中にあります。こういう心配の中にあります。さて、神様、私はここで何をしたらいいでしょうか」と、「私がするべきことは何でしょうか」と問うのです。そこから神様が「お前はこれをせよ」と必ず答えてくださる。応答してくださる。それに従うことが、私たちの最善の道なのです。ところが、私たちはそこへ行かない前に、早く自分で処置をしようとします。これが神様を悲しませるのです。だから、私たちが心を騒がせるとき、つい神様から思いが離れて自分で何とかしようとしている状態なのです。

そして、もう一つ私たちに神様が「思いわずらうな」とおっしゃるのは、私たちが思い煩うとサタンの力が働くからです。思い煩っていると、悪の霊が私たちの心をいよいよかたくなにしてしまいます。神様の御声が聞こえないように閉ざそうとしてくる力が働きます。だから、親切に言ってくれる人がいても聞く耳を持たなくなります。それはサタンが素直な心を閉ざして心をかたくなにするからです。だから「ヘブル人への手紙」にもありますように「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、『きょう』といううちに、日々、互に励まし合いなさい」(3:13)と勧められています。どんなときにも素直に聞くことです。

イスラエルの民がカデシ・バルネアからカナンの地を探ってきた後に、いろいろな報告を聞きました。うれしいニュースもあったし、失望落胆させられるニュースもありました。それでひょっとしたら死ぬかもしれない、自分たちはこれでおしまいになるかもしれないという状況の中に置かれました。そのとき、彼らは心をかたくなにしたのです。ヨシュアとカレブが立って「神にそむいてはなりません」といいますが、その言葉を聞けない、受け入れない。それどころか、モーセや指導者たちを石で殺してしまおうか、というぐらいまで激しい怒りと憎しみに変わっていきます。私たちの不安とか恐れ、心配を、神様がなぜ嫌われる理由がこの二つです。

「ヨハネによる福音書」14章27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」と。ここでもイエス様が「心を騒がせるな、またおじけるな」と、恐れて縮こまって、身動きならなくなってしまう状態に陥りやすい。このとき、特にこの後イエス様が十字架におかかりになった後に弟子たちがどんな不安と恐れと心配の中に置かれるか、イエス様は前もって知っておられました。だからこそ、なお一層「心を騒がせるな、またおじけるな」とおっしゃるのです。そして27節に「わたしは平安をあなたがたに残して行く」、「あなたがたに平安を与えるんだよ」とおっしゃいます。その平安は「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」とあります。平安、安心、いうならば、心が穏やかになる、思い煩いから解放される。これは平安を頂くことです。世の中が与えてくれるものは事情や境遇などが問題なく、うまくいくことです。経済的な心配がないとか、健康に心配がないとか、あるいは家族や親せきにいろいろな問題がない。世間一般、いうならば、人並みの平穏な日々であるけれども、落ち着いておられれば、それが何よりと。そういう意味での平安は世が与えてくれるものです。だから人はそういうものを求めます。つい何か心配なことがあると「あれがあったらいい」「これがあったらいい」と。こういう学校に進んで、こういう就職をしてくれて、こういう風に育ってくれたら、私は安心だと。そういう自分にとって安心と思えるメニューといいますか、要求したいことがらが幾つかあり、それが満たされると「ああ、安心」と思う。ところが、それが少しでもずれると不安や恐れが湧(わ)いてくる。ところが、世間で言う平安は、それで人の心が平安になるかというと、なりません。次から次へといろいろな問題がある。安心したと思っても、すぐ次にまた新しい問題が湧いてきます。次にまた湧いてくる。私どもはこの世に生きていますから、世の中の人々が求める平均的な幸い、あるいは平安を求めます。子供がきちんと成長して、小学校に入ってやれやれと思ったら、学校の成績だ、何だかんだと、友達関係だとか、いじめられたとか、いじめたとか、いろいろなトラブルが起こる。そうすると、心配になる、不安になる。平安なんて一気に消えます。何とかやり抜いて小学校を出て中学に入れば「これで安心か」と思えば、また中学に入ったら入ったでいろいろな悩みの中に置かれる。そして中学を済んだら高校へ、高校に入りさえすればと思って安心しようと思うけれども、入ったらそれでまた大変なことになります。

先だっても若いお母さんとお話していたら、最近娘さんが高校2年生になって、急にお化粧をし始めた。自分は到底信じられない。顔を見ると何だかパンダかタヌキのような顔をしている。そんな顔をして出て行くのを見るとカーッとなって「何て顔をしているの!」と言うと、知らん振りをして横を向いて出て行く。そして、クラブで遅いと言っては「今日は夕食入らない。友達と食べてくる」と。お母さんはメールで「早く帰って来なさい!夕食は家族と食べるもの!」と打ったら、すぐに返事が来る。「うるさい!」と。「先生、どうしたものでしょうか」と。そして、何か付けまつげのようなものをして、「よくあんなものを付けて歩けるものだ」と。私は「いや、まだそれはいいほうです。そのうち入れ墨をしたくなるし、またそのうちボーイフレンドができたり、ガールフレンドができたり、いろいろなことがありますよ」と、少し脅かしたのですが、「心配なことですね」と同情しました。そんなことを思ったら不安だらけでしょう。だから、何とかそれを安心できるように「ああやったらいいだろうか」「こうやったらどうだろうか」と思い悩む。だから、私はそのお母さんに言ったのです。「娘がもっときちんとした服装をして、時間どおりに家に帰って来て、親を安心させてくれたらいいと思うかもしれないが、それは不可能ですよ」と。するとガクッとされましたが、子供は子供で成長していく。これから恐らくいろいろな問題に出会うに違いない。殊にそういう年頃になってくると当然起こってきます。

ある方の話を思い出しました。そのお嬢さんはとてもおとなしい内気な方で、お母さんは大変喜んでおられた。高校を出て専門学校か短大でしたか、行っておりました。お母さんは「うちの子はそういう間違いをすることはない」と思いきや、あるとき子供ができてしまった。お母さんは大変ショックでした。そして相手の人は誰かと聞いてみると、とんでもない相手であった。「相手はそういうことを過去にも何度も起こしたような男の子だった」と言うのです。「本当にどうしてうちの子が……」と思ってしまう。でも、そういうこともその子にとって必要なことです。苦しいこと、辛いことかもしれないが、いろいろなことの中で成長して行く。成長過程で通るのです。だから、この世が与える安心、平安は何といいますか、ほんの僅(わず)かなものです。チョットした一瞬の間でしかありません。「やれやれ、これで安心」と言ったのは3日ぐらいです。4日目ぐらいからまた心配になります。

だから、27節に「わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」。世が与えてくれる安心は、そういう事情や境遇のことです。それが自分の思うように願うようにかなうと、安心だと思ってしまう。これが世の与える安心です。もし、私たちがそういうものをなお求めているとすれば、いつまでたっても平安を得られません。しかし、イエス様は「わたしは平安をあなたがたに残して行く」と言われる。イエス様が私たちに与えてくださる平安とは何か? それは私たちをして神様のご愛に結び付けることです。

「ヨブ記」22章21節から30節までを朗読。

21節に「あなたは神と和(やわ)らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう」とあります。「平安を得なさい」と言われますが、その平安は「神と和らいで」とあります。神様と和解する、和らぐ。といって私どもは「神様といつけんかしたか」分かりません。したつもりはありません。表だって大っぴらに神様とけんかした、あるいは神様を否定したつもりはありません。しかし、そもそも私たちは生まれながらに、神様を尊び敬い、信頼した者であったか。生まれたときに「オギャー」と言う代わりに「ハレルヤ」と言って生まれた人はいませんから、皆神様を知らないで生まれてきた者であります。いうならば、罪の中に生まれた者であります。その罪というのは、私たちを造ってくださった神様を認めない。積極的に「私は認めません」というよりも、もっと消極的ですが、「知らなかった」「知ろうとしなかった」「神様がいらっしゃることに気がつかなかった」ことです。そのこと自体が実は神様に対して罪を犯したことです。なぜならば、自分が被造物、造られた者であることを認めること。それは取りも直さず造り主がおられることを認めることでもあるわけです。だから、私たちは自分で造ったのならば、別に神様なんていらないと思うかもしれませんが、私たちはそもそも造られた者、被造物でありますからして、必ず造ってくださった御方がおられるのです。どんなものを見てもそうですが、存在するものは誰がこれを造ったかと。ちゃんと造り主がいて、造られたものが存在する。だから、私たちが神様を知らないとは、言えないのです。そのことは「ローマ人への手紙」にも語られています。「私は神様のことを何も知らなかった、という言い訳は成り立たない」とパウロは語っています。「なぜならば、私の見るところ、聞くところ、いろいろなことを通して神様は『わたしがここにいるぞ』と常にご自身を明らかにしておられるからだ」と(1:19、20)。神様がいらっしゃることを謙遜になって認める。言い換えると、自分が造られた者であることを認める。これが欠けている。それが神様と敵対すること、神様をないがしろにしていることに他ならない。そのために神様との間に隔ての幕といいますか、妨げの大きな溝が出来て、罪が私たちを覆って神様を信頼できなくしている。神様と切れてしまう。神様から切り離された人は、不安と恐れと憤り、苛立ち、怒り、そういうものに捕らわれてしまう。いうならば、私たちの命であり、私たちの力の源である神様から切り離されて、罪の奴隷、サタンの力、神ならぬものの力に縛られ、支配されてしまった状態。そのために私たちは常に不安を覚える。これは親子でもそうですが、小さな子供は特に親から離されてしまうと不安になります。私たち人間もそうなのです。神様と共に生きる者とならなければ私たちのうちには平安は生まれてこないのであります。だから、21節に「あなたは神と和らいで」と、神様との間に「平安を得る」。安心を得ることです。「そうすれば幸福があなたに来るでしょう」とありますように、そうすれば幸せになることができるのです。

神様と和らぐ道を完成してくださったのがイエス様です。23節以下に「あなたがもし全能者に立ち返って、おのれを低くし、あなたの天幕から不義を除き去り、24 こがねをちりの中に置き、オフルのこがねを谷川の石の中に置き、25 全能者があなたのこがねとなり、あなたの貴重なしろがねとなるならば、26 その時、あなたは全能者を喜び、神に向かって顔をあげることができる」と。神様と和らぐこと、それは私たちが神様に立ち返ることです。「天幕から不義を除き去る」、いうならば、私たちの内なるものから汚れたるもの、罪なるもの、神様に従えない自分の全てを取り除く。罪を消し去っていただく。それをイエス様が完成してくださった。十字架によって私たちの罪を除き去ってくださいました。「イエス様は私の罪のあがないのいけにえとして、犠牲として十字架に命を捨ててくださった」と、イエス様を信じる。私たちの天幕、生活から、私たちの人生、私たちの心と思いの中から罪と咎とを取り除く力はイエス様の十字架にこそある。これ以外にはありません。

そして、24節に「こがねをちりの中に置き、オフルのこがねを谷川の石の中に置き」と、これは自分が大切だと思っているこの世の様々な物や人や仕事や家柄や、学歴や、「これは私の大切なものです」と思っている、そういうものを捨てることです。「ちりの中に置き、谷川の石の中に置き」と、いうならば、それらをふん土のごとく……。パウロは、イエス・キリストに出会って、それまでの自分の肉にある誇りの一切をふん土のごとく捨ててしまった。これが24節に言われている事柄であります。そして25節に「全能者があなたのこがねとなり、貴重なしろがねとなるならば」、神様こそが宝となる。自分の大切なものとなっていくならば、26節に「あなたは全能者を喜び、神に向かって顔をあげることができる」。神様を喜ぶ者となり、神様に向かってまともに顔を上げることができるのです。これが「神と和らいで平安を得る」ことです。神様を掛け値なし、何の妨げもなく100パーセント信頼することができる。「神様は私を顧みてくださっておられるのです」と、愛の中に引き入れてくださった。これが「神と和らぐ」、そして「平安を得る」ことです。

ですから、「ヨハネによる福音書」14章27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く」。イエス様は「平安」すなわち「神と和らぐ道」、私たちの罪を清められ、神様と縁のなかった私たちをして、神の家族に、神の子供にまで執り立ててくださる道をイエス様が備えてくださった。いま私たちが十字架を見上げて行くとき、何の恐れも不安も心配もいらないのです。主が限りないご愛をもって、「ご自身の御子をさえ惜しまないで死に渡された方が……」とおっしゃるでしょう。「ひとり子ですらも私たちのために十字架に捨ててくださった父なる神様は、どうして御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか」(ローマ 8:32)と、まさにそこに平安があるのです。だから、事情や境遇が何であれ、常に十字架の主を見上げて、その背後に全能の父なる神様が私たちを顧みてくださっていることをしっかり信じる。一つ一つのことを備えてくださっていることを信じる。だから、目の前の事情や境遇、事柄ばかりを見ていては平安を得られません。たとえ目の前にどんなことがあっても、その背後にいらっしゃる神様に絶えず目を留めていく。そこにこそ平安があるからです。27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」。イエス様の平安って何であったか。ゴルゴタの丘で十字架に釘づけられたイエス様が、泰然自若(たいぜんじじゃく)といいますか、確かに肉体的な苦しみの中におられましたが、絶えず「父よ」「父よ」と父なる神様に全く信頼することができた。父なる神様がどんなに自分を愛してくださっているかをイエス様は知り尽くしておられたからです。だから、その不当な苦しみの中にあっても、痛みと極限の苦しみ、うめきの中にあっても平安を失うことがない。これは私たちに与えられる平安でもあります。

ですから、31節に「しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう」。イエス様は間もなくご自分の命を十字架に絶たれることをご存じでありました。しかも、それが父なる神様がイエス様に求めておられることを知っていました。父なる神様がイエス様を愛してくださっておられるから、その愛のゆえに神様が喜ばれることをしたい、というのが、ここに語っていることです。「わたしが父を愛していることを世が知るように」、いうならば、父なる神様の願っていることが何であるかを知っていますから、イエス様が父なる神様を愛しているゆえに、その命をもいとわない、惜しまないで父なる神様の求め給うところに敢然と従ったのです。それによって多くの人々が「イエス様は父なる神様を愛しておられたのだ」と分かるはずだ、とおっしゃいます。イエス様は父なる神様と愛の交わり、この結び付きの中にご自分を置いていたのです。そこにこそ平安があったからであります。

しかし、その平安も最後は父なる神様から絶たれてしまいます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。父なる神様からもはや子としてではなく罪人として断罪をされる。切り離され、捨てられてしまった。そのときイエス様はまさに罪人として私たちの一切の罪を負うてくださったのです。いま私たちはイエス・キリストの勲功(いさおし)によって、父なる神様、全能者でいらっしゃる御方に顔を向けることができる。その神様と私たちがしっかりと結び付いて愛によって信頼する関係。これが主の与えてくださった平安であります。いろいろなこの世の目に見える心配なこと、思い煩わせることがたくさんあるかもしれませんが、たとえそういうものがあるにしても、もうひとつその奥に、神様との愛による信頼、神様を信頼して揺るがない心を主が与えてくださるのであります。そこに絶えず立っていたいと思うのです。私どもは、ともすると目先の事態や事柄によって動かされます。

先ほどもお話しましたように、親というのはそうだと思います。子供の幸せを願いますから、できるだけ事もなく、ややこしい問題にかかわらないでサーッと成長してくれて……、と思いますが、神様は一人一人を見ておられるのです。最近教えられることですが、親がいくら子供のことをあれこれ考えてみても、親の力で子供をどうこうすることはできないのです。一人一人神様がその子供を握っていてくださるのです。だから、神様と和らいで心穏やかに主に信頼すること。そして、願わくばその子供たちや家族、あるいは親しい人たち、友人知人の全ての人がイエス様の平安に出会ってほしい。確かに具体的な生活上で悩みに遭わないように、苦しいことに遭わないように、辛いことに遭わないようにとは思います。しかし、神様は一人一人を教育し整え、聖名にふさわしく造り替えようとしてくださる御方であります。だから、いろいろななかを通されて行くのです。親だからといって全部が全部責任を持てません。そこで私たちは神様の手に委ねていく。確かに気の毒なと、あるいは辛いことだと思うことの中を子供が通るときも、そこで神様に出会って、主が与えてくださる平安を得ることができるように、できることと言えば祈ること、そして背後にあって支えていくこと以外にないのです。私たちが自分自身に平安を持ち続けていくこと、これを失ったら元も子もありません。だから、27節にありますように、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える」。「わたしの平安」とおっしゃる。イエス様が十字架にあってもぶれない、揺れない不動の平安、父なる神様との愛の絶対的な結び付き、その愛に信頼していく者でありたいと思います。だから周囲でいろいろなことを聞くことがあるにしても、そこにも神様は必ず働いてくださること。神様はご愛をもってその子の上にも、その人の上にも必ず恵んでくださる御方でいらっしゃることを信じていきたいと思います。そして、それぞれが与えられた問題や事柄を通して神に出会う者となってほしい。神様の平安に結び付いてほしい。これが私たちの切なる願いであり、また祈りでもあります。

イエス様の所にスロ・フェニキヤの女の人が「娘が悪霊につかれて苦しんでいるから憐れんでください」と言って来ました。そのときイエス様は素っ気無く「そんなもの、知らん」、わたしは関係ない、というようなことを言われます。でもしつこいものですから弟子たちが「何とかしてください」と。すると「子供たちのパンを取って子犬に投げてやるのはよくない」と、イエス様がおっしゃった。そのとき、その女の人は「主よ、私をお助けください」と言った。「その子犬ですらも食卓から落ちるパンくずはいただきます」と。初めは「娘がこんな状態だから、私は気の毒な母親だし、イエス様、私を憐れんで病気を治してください」と言っていたのです。ところが、イエス様がつれなくされたとき、お母さんは娘のことではない。実は自分こそ救われなければならない。「私をお助けください」と言ったのです。それに対してイエス様は「子犬にパンをやるやつはいない」。それでも引き下がらなかった。自分は救われなければならない、自分は何としても……と、だからお母さんは「子犬も食卓から落ちるパンくずは頂きます。私を救ってください」と。そのときイエス様は「その言葉でじゅうぶんである。あなたの願いのとおりになるように」。娘の病は癒されたと記されています。それはまずお母さんがイエス様の救いにあずかったのです。そうしたときに娘の病も癒される。

私たちもそうです。娘のことも息子のことも神様の手の中にあるのであります。どんなことでもそうです。自分自身のこともそうです。だから、「心を騒がせるな、おじけるな」と、神様の十字架のご愛をしっかり握って、全能者なる御方と和らいで、主がご存じでいらっしゃると信頼する。今こういう問題、こういう悩みの中に置かれているけれども、大丈夫、神様は必ずここからどんなことでも成し得給うお方です。善にして善を成し給う御方です、と信じ続けていく。これが私たちの歩むべき道であります。そこに平安があるからです。

27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。どうぞ、このお言葉を心にとどめて、いつも主の与えてくださる平安、父なる神様と絶大な信頼、愛に基づく信頼にとどまって居りたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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