伝道の書12章11節から14節までを朗読。
13節「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。
先日ある方々と話をしておりましたら、先ごろ起こった、東京の秋葉原での事件のことが話題になり、「先生、どうしてあんなことになるのでしょうかね、親が悪いのではないでしょうか」と言われました。中にはご自分のお子さんが似たようなことをするのではないかと心配になられる方もおられるかもしれません。その時も「どうしたら防ぐことができるだろうか」と、いろいろな話が出ておりました。そのときに、私はこの事件ほど、今、人が何を土台にして生きるべきかが問われている。言うならば、非常に根源的な事件だと感じるのです。
カミュというフランスの作家ですが、『異邦人』という小説を書きました。それが発表されたとき、極めてセンセーショナルな話題を呼んだのです。そのストーリーは実に単純です。ある日、一人の中年間近い独身の男性の所へ、朝方電話が掛かってくる。それはお母さんが亡くなったという連絡でした。その後、彼は海岸を歩いていて、たまたま行き合わせた人を殺すのです。人殺しをして捕まります。警察の取調べを受けるとき、「何でお前はそんなことをしたんだ?」と尋ねられる。「太陽がまぶしかったから」と答えます。「理由なき反抗」とその当時言われました。どうしてこんなことをしたのか本人も分からない。そのようなことから不条理という言葉が流行語になったのですが、どうしても理屈に合わないのです。それまでは人が罪を犯した場合は、曲がりなりにも理由らしい理由があった。生活に困るとか、あいつが憎かったとか、こんな仕打ちに耐えられなかったとか、いろいろな理由があって相手を傷つけた、相手を殺したということはある。裁判をしてそういうことについて責任を取らせる。また二度と起こらないように、防止するために、彼に教育をする。あるいは精神的なケアをしてやりましょうというのが、刑務所制度です。そして、反省し、もう一度出直して社会人として生きてもらうという考え方です。
ところが、今度の事件は、昔読んだその小説を思い出させます。「どうしてお前は、そんなことをしたんだ」と問われ、漏れ聞く報道やニュースによると、それなりの理由を言います。でも納得できない。「リストラされるかもしれなかった」、あるいは「自分は誰からも顧(かえり)みられない、自分の事を思ってくれる人がいなかった」「生きているのが嫌になった」と言う。嫌になったら自分だけ死ねばいいのです。どうして他人を殺すのか。「理由のない殺人」と言います。カミュという作家が描いた世界は、まさに神なき世界です。ヨーロッパは長い間キリスト教という根強い信仰の社会で生きていましたが、あるところから、19世紀後半から20世紀に入って社会の価値観が変わっていく。マルクス辺りからニーチェを初めとして多くの知識人が「神は死んだ」という神なき世界へと入った時代が始まった。そして、今、日本はまさにそこにきているのです。
なぜそのようなことになったのか。古典的な犯罪では、納得はできないけれども、少なくとも理解はできる理由があった。ところが、今はそれすらも訳が分からなくなってしまった。そのとき、そこに集まった皆さんも言っていましたが、「先生、もう世の中がおかしくなっていますね」と。少なくとも神様を畏(おそ)れる心がない。昔の日本の社会にも悪いことをしたら、「お天道様が見ているよ!」とか、あるいは「そんなことをしたら罰が当たるよ!」ということで、人を超えた力、人の思いを超えた大きな力があって、すべてのことが裁かれる。良いことには良い報いを受け、悪いことには悪いことについて罰を与える。やがて地獄で針の山に行ってみたり、えん魔大王が舌を抜く。だから、子供のころうそをついたら「えん魔大王から舌を抜かれるよ!」と脅される。私も母からそれを言われて、オッと思ったことがあります。そういう何か大きな力があって、人が見ている見ていないにかかわらず、必ず罰せられるのだ。悪いことをしたら、そこに「見ているよ」というものを感じていたのです。それは正しい神であったとか、ないとか、そのようなことは別にして、やはり人にはそのようなものを恐れる心がある。これは伝道の書にも記されていますが、「人の心に永遠を思う思いを授けられた」(3:11)と。人の心はどうしても神様抜きで生きられないのです。ところが、その神を恐れることがなくなってしまった。それが今回の問題の大きなことではないか。そこで皆さんが「そう言われてみると、自分は子供にそういうことを教えただろうか」。自分が育ってきたときは、おじいちゃんとかおばあちゃんとかがいて、そういう目に見えないものを恐れること、あるいは、神なるものがいるのだとか、漠然としたものであるが、そういうものを身に付けてきた。でも、自分の娘や息子の家族を見ていると、そんなことを教えることすらしていない。その子供たちが今度は大きくなったら一体どういうことになるのか。何も恐れるもののない人になったとき、自分が神になる。そうすると、先ほど申し上げたように、先日起こったような事件が起こってくるに違いない。
私もあるニュース番組の解説を聴いていたら、そこで警察庁か何かのOBの方が言っておられました。「これまでは、そのような事件を起こしたら、その者をいわゆる教育矯正して立ち直らせることをした」と。先ほど申し上げたように「それなりの理由があったり、何か問題があって、その人が反省する。そして悪かったことを認めさせるように、刑務所での教育を通して社会復帰を考えるけれども、今度の事件については、抑止する手段がない」と言うのです。例えば、今度の事件の犯人を死刑にしても、「あんなことをしたら死刑になるから、やめておこう」とはならないだろう。なぜならば、そういうことで防げるような事件ではないと、その警察関係の専門家が言うのです。私はそれを聴いていてそうだと思います。盗みをしたり、欲得で人を殺してしまった。ここまでやったら死刑になるから、やめておこうとか、抑止力と言いますか、次の犯罪をとどめる役割として刑罰はあります。ところが、先ごろの事件の犯人のような人にとっては、何の意味もない。自分の行動に対して歯止めがない、あるいは自分を抑えることができない。
私はその事件を聞いたとき、カインとアベルのことを思いました。そこを読んでおきましょう。
創世記4章1節から6節までを朗読。
アダムとエバがエデンの園を追われた後、子供がアダムとエバに与えられた。長男のカイン、それから弟アベルと二人が生まれた。カインは土を耕す農耕者となり、アベルは狩猟、あるいは羊を飼う者となったのです。やがて収穫が出来まして、カインは地の産物をもって神様に供え物をした。別に悪いことをしたのではない。自分で働いて作った作物の初物をもって神様をあがめたのです。もう一人のアベルは自分の羊の群れの中から一つを神様にささげた。ところが、神様はアベルの供え物を喜んで顧(かえり)みて、カインのささげ物は退けられた。なぜ退けられたか理由はない。ただ神様がなさったということです。これを認めるのか認めないのか。私たちはどこかで納得しなければ収まらない。嫌なら嫌でいいから、神様どういう理由ですか?と聞きたい。これは私たちの神様に対する態度、神様を敬う態度ではない。人が人に対して「あなたは私にそんなことをするけれども、どうしてそうなの!」と聞きますが、人と人との関係であれば、そういうことは有り得ます。しかし、神様に対しては、それは有り得ない。神様がなさるのが善であって、それ以外は駄目なのです。だから、父が「白いものを黒いと言われたら、それは従わなければいかん」とよく言いました。私は子供のころそれを聞いて「そんな無茶な!」と、「白いものは白い、黒いものは黒い」と憤慨しました。あとで分かったのですが、私の理解に「神様が」ということが抜けている。人が言うのではない。「おれはおやじだから、おれのいうとおりにせよ」、「おれが正しいと言ったら正しいんだ。おれが駄目と言ったら駄目なんだ」と考えやすいのですが、そうではなくて、神様と人との関係でのことです。神様がなさることがすべて善い。私が考えて、私が願って、私が思った通りが「善い」ということにはならない。だから、私たちの生活の中でも神様が事を起こしてくださる、事を導いていますが、それは私の思いと違う、願いと違うことがいくらでもあります。神様が私たちの願いを退けなさる。それに対して、私どもは「何で……」「どうして……」、「そんなことはあるはずがない」、「いくら神様でも許せん」となる。まさに、そこが私たちのいちばんの罪の問題、私たちがいちばん気をつけていかなければならない根本です。
このときにも、カインとアベル、それぞれがささげ物をしたのです。人間的に考えれば「どちらもよかったのではないか、どうして神様は片方だけえこひいきするのだろうか」と、神様に対してちょっと不信感を持つ。まさにそれが罪なのです。神様がなさるのでしたら、ただ「はい」と従う以外にない。白を黒と言われようと、黒を白と言われようと、神様がそのように決められたのだから、「はい」と従うかどうか。これが神様を敬うのか、敬わないのか。これは私たちが絶えず日常生活で問われているのです。
カインは自分は長男ですし、自分が受け入れられると思っていたのですが、そうではなかった。だから5節に「しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた」。腹を立てたのです。神様に向かって腹を立てる。私たちは神様に憤るほど立派なものでしょうか?根本はそこです。私たち人間はあくまでも神に造られた被造物にすぎない。神様がどんなことをなさろうと、私たちは甘んじて受けるべき存在です。ところが、そうは行かない。「そんなことをされたらたまるものか、神様!」と、憤りがある。だから、「カインは大いに憤って、顔を伏せた」と。6節以下に「そこで主はカインに言われた、『なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません』」。これは実に深い意味合いのある言葉だと思います。カインは神様に怒って顔を伏せた。そのとき神様は「あなたはどうして顔を伏せるのか、憤るのか」と。「あなたは自分のしていることが正しくしていると信じるならば、どうしてそんなに憤るのか」。カインが「これは、神様へのささげ物、私のなし得る最善のことで、もうこれ以外にありません」と、本当に心からそれを信じてささげる。ささげた以上、神様がどぶに捨てようが何をしようと良い、そこまで神様に対して、心がピシッと定まっていなかった。どこかで、自分は長男、自分のしていることは認められて当然、どこかに恐らくカインはそのようなごう慢といいますか、神様に対する要求があった。だから、それを退けられたときに顔を伏せた。
そのあとに「罪が門口に待ち伏せています」とあります。罪とは何か?神様に対して憤ること、神様を認めようとしない、神の主権、神様の力を認めないで、それを突っぱねようとするところに罪の門口と言いますか、入り口がある。だから、そのあとにあるように「それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。罪がカインの思いを捕らえて、支配しようとしてくる。だからその入り口の所でピタッと罪を拒むとき、勝利ですが、カインはその罪に自分が翻(ほん)ろうされるのです。罪の力によって、彼はとうとうアベルを殺します。でも、なぜアベルを殺さなければいけないか、神様に対して憤ったのでしたら、神様に向かって文句を言えばいいでしょう。その矛先(ほこさき)が何の罪もないアベルに向かう。
あの東京の事件がまさにここです。彼は自分の人生、自分の生涯、自分の夢としていたものが神様から拒まれた。自分の思うように事がいかなかった。親兄弟とどのような関係だったか分かりませんが、彼はいろいろなものが不満でならない。職場でも小さな出来事が幾つか積み重なったときに、神様に対しての憤りが、今度は罪のない人々に向かっていく。「よし、歩行者天国へ行ってやってやろうではないか」。まさに、カインが罪のないアベルを殺す。罪に心が支配されて、神様を恐れない者となってしまう。それは、他人事ではなくて、実は私たちにもそうなる危険性がたくさんある。気がつかないうちに、私どもも神様に憤っている。問題が起こります。自分の思わない、願わないことが起こります。そうすると「何で!」「どうして!」と言う。そして、その矛先がご主人であったり、子供であったり、奥さんであったり、大した問題でもないのに、むやみにしかったり怒ったりけ飛ばしてみたり。子供をいじめる方向へ行く。その心を探っていったら、自分にどうしても納得がいかない。私たちが神様を認めきれない。自分を無にすることができない。何か事があったとき、「神様、あなたが起こしてくださった。私ではありません。神様、どうぞ、あなたのなさるままに」と委ね切れない。「どうしようか。早くしないと手遅れになる。あそこに行かなければ、ここに……」、「こんな神様とやっておられん、付き合えん」となる。まさにそこがカインなのです。私たちはそのような神なき世界に引きずり込まれていこうとする。だから「人の本分は神を恐れること」なのです。
ヨブ記42章1節から6節までを朗読。
これはヨブ記の結論です。ヨブは義人、正しい人であった。恐らく本人も自負しておったと思う。「おれは立派な人間だ」と。神様の前に犠牲は欠かしたことはないし、祈りも欠かしたことはないし、また家族のためにも祈る。神様は祝福してくださって持ち物は増える、家族は増える。これほど幸せな人物はいないと思ったのです。ところが、あるとき神様はサタンを用いて彼を試みました。まず彼の持ち物を全部取られました。次に家族を取られました。ついには奥さんまでも彼を捨てて行きました。そして彼自身が病の中に置かれました。体中に訳の分からない出来物ができて、かゆくてたまらない。陶器の破片で体をかきむしるような状態で、灰の中に転げまわっていた。そのとき彼は「どうしてだろうか」と悶々(もんもん)と悩む。「いったい、私のどこが悪かった」、「なにゆえに神様はこんなことをなさるのだろうか」、「今まで何か悪いことをしたのだろうか。いや、していない」。そのことで苦しむ。自分に何か悪いところがあったのなら納得する。こういうことだったら仕方がないと。私たちもそうですね。「これはあのとき私があれをしたからこうなった。これは仕方がない、あきらめるわ」というのなら分かる。
病気などでもそうです。私が前立腺がんになったとき、「どうしてこんなになったのだろうか」と思いました。医者が「榎本さん、あなたはがんですよ」と言われたとき「え!どうして!どうしてですか!何が悪いのですか」と。自分の生活のどこかが悪かったからこうなったかと、それが分かればそれなりに納得してあきらめる。「仕方がない」と言えるのですが、そのとき先生が「いいえ、こればかりは原因はありませんよ」と。「医学的に言うならば正常細胞が異常細胞になった、変化した。その変化のメカニズムは今もって分からない。突然変異もあるし、遺伝説もあるし、環境説もあるし、食物説もある。いろいろな説があるけれども、言うならば原因は分からない。ただあなたが今こういう状態だということは、はっきりしています」。そのように言われたとき、腹が立ちましたね、正直なところ。「どうしてだろう」と。そのとき、いちばんの問題はそこです。私も「神様!どうしてですか」と。そのとき、「神様、あなたにはできないことのない」。だから2節にヨブが「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」。原因は神様です。神様がしておられると言われて、「そうか。だったら安心」といえる人は幸いです。「それは神様がしているのですよ」と言われて、「そうでした。気がつきませんでした。だったら、もう安心です。心配しません」と言えればまことに幸いです。ところが「え!神様がしてくれた?何でやろう。神様はどうしてこんなことをするのかしら」といよいよ神様に対して不信感を募(つの)らせる。これは私たちのいちばん悪いパターンです。
ここにあるように、ヨブは神様から問われました。「お前はどうしてだろう、どうしてだろうと言うけれども、では、お前は何もかも知っているのか」と。自分が何もかも知っていて、知らないことが起こっているからどうしてだと言うのだろう。では、このことは、あのことはと次から次へと問われた。「お前はこれも知っているか、あれも知っているか」と。考えてみたら自分は何にも知らない、無知なる者、手を口に当てるのみ、私は愚かなことを言いましたと、彼は神様の前に悔いた。神様はヨブをこてんぱんにやっつけました。今も神様はそのことを教えようとしていろいろな中を通しています。だから、早く降参したほうがいい。抵抗したら負けですから、「そうでした。神様、あなたがしてくださるのですから生かすなり殺すなりどうぞ、お好きにしてください」と、神を恐れる者となることです。これが私たちの本分です。
2節「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」。神様はどんなことでもできるオールマイティーな御方です。だから、私たちの知らないことはいくらでもある。また、神様がなさるのは私たちが知っている、理解できる程度のことではない。分からないことばかりを神様はなさるから、これは神様らしいとしか言いようがない。神様がなさることに私たちは文句は言えない。神様が白いものを黒いと言われたらそのとおり。お前はそれでいいのだと言われたら、「はい、そのとおりです」と。パウロが自分の肉体に一つのとげが与えられた。それを何とか取ってほしいと願ったとき、神様は「わが恩惠(めぐみ)なんぢに足れり」(Ⅱコリント12:9文語訳)と言われた。お前はそれでいいのだよ。そのとき「どうしてもこれは許せん!」と神様に言ったのではなくて、彼は「そうですか」と、素直にそれを受けた。神様は「お前の弱い所にこそ神の力が現れるのだから」と。そのとき彼はうれしくなった。「自分の弱さを誇ろう」と。弱さを言い換えて、与えられている問題を誇りとする。悩みを自分の喜びとしてご覧なさい。それを通してキリストの力が現れてくださる。私どもはそこに立たないかぎり、人としての生きる道を歩めない。だから、このところでヨブが「あなたにはできないことがない。オールマイティーである」。できないことのない御方がそのことをさせなさったならば、それを取り除くことだっておできになる。
私は甲状腺機能亢進(こうしん)症・バセドウ病になりまして、夜中に心臓がバクバクしまして、これは心臓病、狭心症かもしれない。死ぬかもしれないと、大慌てで夜中の3時ごろ救急車を呼んだのです。連れて行かれまして調べてもらったけれども、取りあえず心臓は悪くない。よく調べたら甲状腺機能障害でした。甲状腺からホルモンがたくさん出て、じっとしているとき、寝ているときでもまるでマラソンをしているぐらいのエネルギーを使っている。だから心拍数が上がります。150ぐらいになる。町を歩こうものならば心拍数が200ぐらいになって胸が苦しくなり、立ち止まらなければ歩けない。食べれども食べれどもやせる。それで一月ほど入院して薬での治療を受けました。そのとき医者が「榎本さん、原因が分かりましたよ。甲状腺ホルモン亢進症・バセドウ病ですね」と言われた。それで私は「死なないのですか?」と言ったら「いや、これで死ぬことはありません」と言われたから一安心。「では、どのくらいで治りますか? 」と尋ねた途端に、先生は「いやー、分かりません」と言ったのです。「治らないかもしれない」「どうしてですか?治らないこともあるのですか? 」「いや、治るかもしれないし、治らないかもしれない」「どうしたら治るのでしょうか?」そのとき先生は、私が牧師であることを知っていましたから、「榎本さんに言うのは申し訳ないけれども、神様しか分からないんです」と。私はそのとき教えられました。「そうだ。神様しか分からないのだ」。先生が言うには、「一日に6錠飲んでいた薬がやがて減っていって一日に一錠になったら、治ったと思ったらどうでしょうか。それで生涯付き合ったって悪くはないでしょう」と言われた。一晩悩みました。そのときパウロの言葉のように、肉体に一つのとげが与えられて、それは高慢にならないように神様が私の弱さを教えてくださるためでした。神様はそれを与えられた御方、それを取り除くことだっておできになる。祈って祈って待ち望んでまいりました。7年か8年ぐらい薬を続けました。やがて、一日一錠になりまして、それから二日に一錠になったのです。それがしばらく続きまして、半年ぐらいして担当の先生が「榎本さん、ちょっとやめてみましようか。それで事が変わらなければそのまま行きましょう」「やめていいのですか?」とこちらのほうが心配になって、「念のために飲みましょうか? 」と言ったのです。すると「その必要なないでしょう」と笑われましたが、それでやめました。そして数ヶ月たって変化なく、「いいでしょう、来なくても」と言われて、それっきりです。今に至るまで守られています。「神様は何を起こされるか分からない」と思っていたときに、ちゃんと次なるものを神様は備えていました。神様のなさることですから、自分で決めるわけにはいかない。神を恐れるとはそこです。
3節「『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました」。神様の目からご覧になったら、仕様もないこと、詰まらないことを一生懸命に言っていると思われるのです。「わたしがいるではないか、私が神だよ」と。
伝道の書12章13節に「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である」。ここですね。「神を恐れ、その命令を守る」。神様を恐れ敬うこと、それは教会に来て礼拝しているとか、このような集会に出ている間だけのことではなくて、毎日の生活、この地上に置かれている朝から晩まで、365日、一日中私たちが神様を恐れる者となることです。どんなことの中にも、人の業ではない、人がしているのではない。神様が「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)エホバ」(エレミヤ33:2)とおっしゃる。神様が持ち運んでくださっているのだから、それを認めて、神様の大能の御手の下に自らを低くする。これが私たちの生きる道です。
だから、東京の事件の犯人と言われる彼のことを思うと、彼もまた気の毒だなと思う。もちろん理由もなく殺された人たちも本当に気の毒だと思う。両者とも気の毒です。恐らく周囲の人たちから見たら、彼はそんなに不幸な生い立ちや境遇ではなかったと思います。健康だし、能力もあるし、年齢もまだ若い。しかし彼は自分の与えられたものが不満でならない。言うならば、神様がカインの供え物を拒んだように、自分は神様から拒まれているという憤りの中にあった。それは私たちのうちに、気がつかないうちに芽生えてきます。どうぞ、「神を恐れ、その命令を守れ」、神様を本当に恐れて、神様を知っていたならば、彼もまた決してそんなことをしなかったでしょう。
人が人として生きるうえで欠くことのできない大切な事柄、それは、神を認め、神様を恐れて、生活のすべての中に神様を畏(おそ)れる思いを持ち続けていくことです。何があっても、どんな事があっても、常に神様の前に自分を置いて、謙遜(けんそん)になって、今この事を神様がしていると信じる者になる。この先どうなるか分からないし、またこれがどうしてこんなになったのか原因は分からない、何も分からないけれども、神様が今この事をしてくださるのなら、甘んじて、喜んでこの事を受けて、有りのままの自分を素直に神様の前に承認していく者でありたいと思います。そのとき、神様を恐れる者となることができ、また神様のみ声を聞くことが出来る。神様の言葉、その命令を喜んで守ることができる者と変わっていきます。
どうぞ、まずこのことを生活の土台に据えて、神様を恐れる日々でありたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。