いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(307)「神様に帰ろう」

2014年08月31日 | 聖書からのメッセージ
 「イザヤ書」55章6節から13節までを朗読。

 6節「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。

 「主にお会いすることのできるうち」とありますが、それは今です。「コリント人への第二の手紙」にありますように「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」と。「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」(6:2)と語られています。神様は常に「わたしの許(もと)へ来なさい」と招いてくださっている。ところが、私どもはいつも「神様の前から離れたことはない」、神様と共に自分は生活していると思いますが、気がつかないうちに神様から離れてしまうのです。これはどうにも仕様がないと言ったらおかしな話ですが、肉体を持って生きているかぎり弱さがありますから、一心に、いつも神様の前に自分を置いておきたい、と思いながらも、日常生活のいろいろなことに心が千々に乱れて、思い煩うことがあります。神様を前に置いて歩んでいるつもりですが、いろいろな忙しいこともあって、しだいにずれて、離れて行く。これは肉にあって生きている私たちにとって、どうしても避けられない事態であります。「いや、私はそんなことはない。私はいつまでもあなたの前にきちっと神様、あなたの忠実な僕です」とどんなに頑張ってみても、現実そうでない自分があるのです。ところが、案外それに気がつかない。しかし、神様は私たちのその弱さを知り給う御方ですから、常に「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日」というように、恵みの時、救いの日を設けて、主に帰ること、主を呼び求める者となるように、神様は願っていらっしゃる。

 ですから、6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに」と言われています。神様に近づく、神様に出会うこと、神様を礼拝すること、それができるうちはいつかと言いますと、それは今です。いま「恵みの時、救いの日」が残されているこの時こそ、主にお会いすること、主を尋ねること、「近くおられるうちに呼び求めよ」と勧められています。どんな時でもいいから、いま主が近くにおられるのだから、主を求めること。これが私たちに必要な事柄ではないでしょうか。絶えず神様を前に置いて、神様に従って、御心にかなう歩みをしたいと願いつつも、それからずれてしまう。これはやむを得ない、それでいいとはもちろん言えませんが、大切なのは、そのようなときにどうするか?どんなときにも、いつでも主の前に立ち返ることです。主を呼び求めること、これが私たちのいのちにつながっていくただ一つの道であります。そこで私どもがふて腐れてと言いますか、「こんなことをしても役に立たない。いくら信仰したって私は駄目です」となるのが最悪です。時にそのようなことを言われます。「先生、私は何十年信仰生活をしているけれども、一向に前進しません。同じ所を行ったり来たり、行ったり来たり、悔い改めてはまた罪を犯し、それでもまた罪を犯し、こんなんだったら信仰しない方がいいのではないでしょうか」と。私どもはそういうものなのです。だから、まず自分の弱さを認めることです。これは恵みにあずかる第一歩です。自分は罪を犯す者である、弱い者である、できない者であることを認めること、これが神様に近づく道です。自分が努力してこのくらいできるとか、私が頑張って神様第一の生活を自分の力で自分の業で成し遂げようとするところに、そもそも人の罪があります。

繰り返し申し上げますように、私たちの信仰は自分の力で持っているのではなくて、神様が憐(あわ)れんで、私たちに信じる力を与えてくださっている。信仰を支えてくださるのは神様でしょう。だから、イエス様が十字架におかかりになられる前にペテロに言いました。「あなたの信仰がなくならないように、わたしはあなたのために祈っているから」と。そのとおりです。イエス様が私たちの信仰がなくならないように絶えず執り成し、励まし、支えてくださる。御霊が私たちの内にあって、絶えず促(うなが)し、励ましてくださるからこそ、信仰がこうやって曲がりなりにも守られている。あるかないか分からないような信仰かもしれないが、しかし、イエス様は「からし種一粒ほどでも……」(マタイ 17:20、ルカ 17:6)と言われるように、私たちのわずかな信仰を「よし」として受け入れてくださる、それを認めてくださるのです。だから、この信仰を自分の力で持ち続けていると思うのは大きな間違いです。もし、そういう思いを持っていると失敗します。というのは、自分が一生懸命頑張って、努力してやっているのにできなかったとき、もし、それで失敗したら、もう救いがない。「こんなに頑張ったのに、できないのだったら仕方ない」と、自暴自棄になる以外にない。だから、私たちは初めからできない者で、無い者に神様が与えてくださった憐れみ、恵みによって今があるのです。もし、私どもが信仰を持って神様に信頼することができるならば、それは神様からの賜物であり、恵みです。感謝するほかありません。信仰が弱くなって、神様の前から離れたことを知ったとき、もう一度へりくだって、謙そんになって、主を呼び求める。これが私たちに許されているただ一つの道です。だから、自分が信仰を失う、失うというほどではないにしても、弱くなって、神様から少しずれてしまった。それに気がついたときに「もうこうなったら仕方ない。もう後は自分でやるさ。神様なんか、もうやめた」と言ってしまうのか、それとも「そうだ。私ではない、神様がここまで導いてくださった。もう一度、主に立ち返ろう」と言うのか、この二つに一つです。 

それに対して神様は、6節にありますように「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と言われます。神様は私たちが帰ることを待っていてくださいます。これを喜んでくださるのです。人間は限りがありますから、「何度、謝ったら済むんだ」とよく言います。「お前は何遍同じことを繰り返して……」と。そのような経験がありますから、神様もそうではないか、と思うのです。「もうこれで10回目だ、11回目はもうアウトかもしれない」と。ところが、神様は7度(たび)を70倍するほどにと、トコトン許したいと願っていらっしゃる。だからといって、神様のご愛をないがしろにすると言いますか、軽んじて、「いや、どっち道許してくれるんだからいいや」というのでは、これは神様のご愛を踏みにじることです。そうではなくて、妬(や)けるようなご愛をもって、私たちを許そうと待っていてくださる主のご愛に答えていく、応答していく。真実に私たちも「何とかして」という思いを持つことが、主に報いるただ一つの道です。

だから、6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」と。だから、遠く離れないうちに、神様から段々離れて、「ちょっと離れているな」と思いながらも、「えいや!」と「もうちょっと、まぁ、大丈夫」とやっているうちに遠くなって、身近に感じていた神様が、遠くに距離を感じるように変わってしまう。そうすると、「帰ろう」と思っても遠すぎて帰りようがなくなる。そうならないために、離れている距離が短い間に、すぐに主に立ち返ること。7節に「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ」。悪しき者は自分が間違っていることをしていると思ったら、それをまず捨てることです。「そうだ。これは間違っているな」と認めるのです。「正しからぬ人はその思いを捨てて」と。「思い」とは心です。自分の心にある悪しき思い、神様に背く思いを捨てていくこと、それを捨ててどうするか? 「主に帰る」。神様に立ち返る。「そうすれば、主は彼にあわれみを施される」。神様はあわれみを施してくださる御方、恵み豊かな御方、7節の終わりに「主は豊かにゆるしを与えられる」とあります。豊かにゆるしを与えてくださる、許さんとして待っていてくださる神様です。ただ私たちがすべきことは、神様に立ち返って、「ごめんなさい」と言うこと以外にない。これが私たちの恵みに生きる道筋です。「悪しき者」、「正しからぬ人は」とあります。心で罪を犯すばかりでなく、具体的な何か事があるならば、そこから離れて、それを修復して、思いの中、心の中にそのような悪しき思いがあるならば、その思いを捨てて神様の前に「ごめんなさい」と言うことです。「私はいつ神様に罪を犯しただろうか」と思うかもしれませんが、何が罪であるかは、ちゃんと神様が教えてくださいます。

 私は以前そのことで随分悩んだことがあります。若いころ、私は自分を義としていました。「私は正しい。あいつの言うことは間違っている」とか、「こいつは……」と、ハリネズミのごとくツンツンしていました。見るもの聞くもの、しゃくの種という時代がありました。ところが、何かで人に良からぬことを思ったり、あるいは何か自分のしたことが心に引っ掛かることがある。「しまった。あんなことを言わなきゃ、よかった」「あんなことをしなきゃ、よかった」と思う。そうすると、それがズーッと心に引っかかって、忘れたつもりですが、いつまでも尾をひく。「もうしてしまった。仕方ない」と、自分で自分に言い聞かせても、それで収(おさ)まらない。何かフッとした瞬間に、そのことが心にポッと思い浮かぶ。それをまた打ち消す。またしばらくすると、また出てくる。忘れたつもりでも、何年もズーッとそのことが、心の中心にはないのですが、隅っこのほうに引っ掛かっている。それがいつも何かする度ごとに、ポコッと頭をもたげることがありまして、大変苦しんでいました。そして、その度ごとに、自分が言い訳をしている。「だって、あの時はああだったし、こうだったし、あれが悪いのだ」、「あんなことを言われたからこうしたんだし、自分は悪くない」、「自分は悪くない」と、常に自己弁護をし続けている。その事柄自体はたわいもないことであって、それが実質的な犯罪につながるとか、相手に大損害を与えたというような問題ではない。実に小さなことの行き違いのようなことであっても、それがいつも心に残っている。あるとき、聖書の御言葉に「あなたの内にある指差しを除け」。私はその御言葉に触れたとき、ハッと、神様が指差していらっしゃる。「お前のそこは大丈夫か、お前のこのことはいいのか?」。そのとき「これは神様が私の間違っていることを指摘しているのだ」。それまでは自分が正しくて、相手が悪い、相手が謝るべきだ、自分はどこも悪くない。もちろん、毎日じゃない。それが思い浮かぶ瞬間がある。何かの事のときにポコッと心にわいてくる。そのときどうするか?ここが問題です。そのとき、「正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰る」。実は神様の前に許されなければならない事柄なのだと、私たちは知るべきです。人に対して「あの人に悪いことをした」「この人に悪いことをした」ではなくて、その事柄の背後に、おのれを義とする、神様を認めないで自分が正しいと主張している自分、それが神様に対して罪を犯していることです。そのとき、神様の前にへりくだって、その事柄をはっきりと「神様の前にこういうことをしてしまいました。いつもこのことが心に引っ掛かって、絶えず言い訳をし続ける自分がおりますから、神様、あなたの赦しを与えてください」と祈る。主に帰っていく。「私が罪を犯しました」と、認めることがどんなことに対しても大切です。もちろん、その相手に対して「ごめんなさい」と言うことも必要ですが、何よりもまずすべき事は、私と神様との関係の中で「指差し」を除くこと。そのことを経験しましてから、私はもう二度とこんな苦しい思いをしたくないと思った。何か事をして行き違うことがあって、心に引っ掛かることがあったら、早く神様の前に処理をしなければいけない。神様の前にみずからを清くしなければいけない。同時に、それが自分の心を軽くするのです。主の赦しを確信したとき、「これも神様が十字架にあがなって、この罪のゆえに主は赦してくださっておられる。『子よ、心安かれ、汝の罪ゆるされたり』(マタイ9:2)と、今日も主は憐(あわ)れみをもって赦してくださった」と、赦しの確信を必ず持つこと。これは私たちの最高の恵みであります。それがないかぎり、いつまでも、きれいな真っ白な布地に一点黒いしみが付いたような心を持ち続けるのです。これは、普段何か忙しく、何か楽しいときには忘れている。ところが、何かのきっかけ、ひょっと時間が空いて、ホッとして、心がポカッと空白になった瞬間にそういうものが浮かんでくる。皆さんも、そういうものがあるならば、早く神様の前にそのことを告白して、主の赦しを受けることが幸いです。

7節「悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる」。素晴らしい神様の約束です。「赦してくださる」「あわれみを施す」とおっしゃる。だから、私たちはいつでもどんなときでも、神様の前にみずからを清く、心を正しくしていくこと。言うならば、神様から後ろ指を差されない。指差しを受けない。常に「あのことだな」「このことだな」と引っ掛かる。時に集会で話を聞いて、「あのことを言っているな。でも、あの時たまたまそういうことになった。行き違いだ」と、自分に向かって上手に言い訳をします。そして「私は悪い所はない」「私も悪い所はあるかもしれないけれども、あっちのほうがもうちょっと悪い」と、常に気がつかないうちにつぶやいているならば、早く解決したほうがいいです。それが、神様の私たちに与えてくださる恵みだからです。

「ルカによる福音書」15章11節から20節までを朗読。

 これは、イエス様のたとえ話ですが、二人の兄弟がいて、その弟はお父さんの遺産分けを早めにもらって、サッサと遠い町へ出掛けしまう。持ち慣れない大金を持ったからでしょうか、大いに遊んだ。とうとう全部使い果たしてしまったところ、運悪くその地方が飢きんになった。「食べることにも窮(きゅう)しはじめた」とあります。それで、豚を飼う者になりました。しかし、おなかがすいて、豚のえさですらも食べたいほどになったというのですから、誠に惨(みじ)めです。そのときに彼は初めて自分のことに気がついた。自分がどういう生まれのものであり、どういう生活をしていたのか。今ここで、こんな惨めな生活をしている自分を比較して考えたとき、何が間違っていて、どこに罪があったか? 責めるべきは自分以外にない。本当に自分が悪かった。その結果、17節に「そこで彼は本心に立ちかえって」とあるように、有りのままの自分を認める。掛け値なし、どうにもならないのですから、いま置かれた境遇、またかつて親の許(もと)にいたときの自分、そして今に至るまでのことを振り返って、しっかりと本心に立ちかえる。目が覚めるのです。考えてみると、お父さんの所には雇い人がたくさんいて、雇い人は今の自分よりももっと豊かな生活をしている。そのことを思うとき、自分は大変なことをしてしまった。だから、18節に「立って、父のところへ帰って、こう言おう、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました』」。まず罪を認めることです。これは私たちと父なる神様との関係でもあります。そのことのたとえでもありますが、神様の前に罪を認めること、これが何よりも先決であります。具体的に、このことについて、あのことについて「私はあの人にあんなことを言ってしまった」とか「こんな事をしてしまった」とか、あるいは自分が至らないためにこんな失敗を自分はしてしまったと、心に示されている事柄。神様が指摘しておられる事、その事についてはきちっと清算しておくこと、これは何よりも大切なこと。何をさて置いてもまずその事をきちっとして、心を神様の前に軽くしていかなければ平安に過ごすことができません。常に何か言い訳をする事を持ち続けているのは苦しいですから……。彼は「父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました」と認めました。まず、神様に、またお父さん、あなたにも罪を犯しました。「もうあなたの息子と呼ばれる資格はありませんから、雇い人の一人にしてください」と言おうと。20節に「そこで立って」と、18節にも「立って」とありますが、決断を表す言葉です。きちっと、それに向かって踏み出すのです。「……とは思うけれども」と、私どもはいつもそこでストップする。よく言われる。「先生、こういうことがあって、だから私が悪いのだと思うのですが、でも、相手も……」と、そこでストップする。ところが「立って」というのは、それをもう一歩、踏み越えるのです。「そうです。実は私が間違っていました」。そして、父のところへ出かけていくのです。そのときにお父さんは「まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って」、しかも、彼を受けいれてくださる。このときのお父さんは恐らく弟がひょっとしたら帰ってくるのではないかと思って待っていた。遠くから来る人影を見て、「あいつだ。息子だ」と、見分けることができるのですから、それほどお父さんは彼を愛していたのです。

父なる神様、天地万物の創造者でいらっしゃる神様は私たちを神の子供としてくださった。私たちの救い主なるイエス様はいつでも私たちを救ってくださる御方です。だから、どんなときでも、どんなことの中からでも、主を呼び求めて、まず罪の赦しを味わっていくこと。「私はイエス様の十字架を信じて洗礼を受けて、あのときに罪を赦された者ですから、なんでまた悔い改めなければならないのですか」と言われます。確かにそれによって罪を赦された者でありますからこそ、父なる神様のところへいつでも帰られるのであります。まだ地上にある今、私どもは失敗しやすい者であり、また罪を犯しやすい者ですから、そういう「指差し」を感じるならば、神様が教えておられるのです。「あなたのこれは罪だよ」「これは悔い改めるべきだよ」と教えてくださいますから、その事をしっかりと受け止めなければならない。このとき、息子に対して神様は本心に立ちかえらせてくださいました。それは彼の力でなくて、神様の憐れみです。恐らくお父さんの祈りでもあったと思います。それで彼はいよいよどん詰まりに来たときに、初めて「そうだった。自分の居るべき場所はここではない」と知ったのです。だから、私たちも「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに」、「今」というときに主に帰る。

 「イザヤ書」55章6節に、「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。どうぞ、どんなときにでも、人がどうこうじゃない。私と神様、皆さんお一人お一人と神様との間に隔てるもの、あるいは何か薄い雲のようなもの、幕が広がってくるとき、私たちは早くそれを取り除く。家の掃除をするときでもそうでしょう。1年も放ったらかしておいたら、なかなか取りにくい。でも毎日少しずつしておけばきれいでしょう。神様との関係もそうでしょう。1年ためたら神様の前に悔い改めるべきことが多くなりすぎます。一日じゃ済まなくなってしまう。翌年まで持ち越すことになりますから、「これはまずいことをしてしまった。神様の前に申し訳なかった」と思うことがあるならば、それを早く解消しておくこと。これは私たちの恵みです。

 「詩篇」51篇1節から4節(前半)までを朗読。

 表題に「これはダビデがバテセバに通った後、預言者ナタンが来たときによんだもの」とあります。ダビデが自分の忠実な部下ウリヤの奥さん、バテセバを自分のものにしようとして、とうとうウリヤを殺してしまう。そして、平気な顔をしていたとき、神の人ナタンがやって来て、一つのたとえ話を通してダビデの罪を指摘しました。「あなたがその人です」(サムエル下12:7)と言ったのです。そのときにダビデはハッと気がついて、すぐに「私は神様、あなたに罪を犯しました」と告白しています。

今も私たちに対して神様が「お前はここが罪だよ。こういうことだよ」とおっしゃっている。私たちの心に引っ掛かるものを置いている。そのときに「これは神様の前に私が悔い改めるべきことです」と認めて、主の赦しを受けること。「このことも神様、あなたの赦しにあずかったことを信じます」と、はっきり告白して、一つ一つ線を引いていくこと。きちっと整理していかなければなりません。ダビデは1節に「神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください」と、自分の様々な罪をどうぞ、ぬぐい去ってください。「わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。3 わたしは自分のとがを知っています」、これは祈りです。神様の前に悔い改めの祈りであります。「わたしの罪はいつもわたしの前にあります」。4節に「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」。「あなたに」「あなたの前に」と、あなたにと、繰り返しダビデは告白しています。私たちがまず神様の前にどういう自分であるかを認めていくこと。そして、私を許してくださる神様の憐れみといつくしみ、また許しを確信する。その後、ダビデはこう語っています。同じ章の16節17節に「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」。彼はこのとき、神様からの赦しを確信しました。何かささげようとしても、私のささげるささげ物はどれ一つ神様に喜ばれることはできない。ただ神様が喜んでくださるささげ物はなにか? それは「砕けた悔いた心です」と、彼は告白しています。確かに神様は、私たちが砕けた悔いた心をもって神様を心から礼拝することを喜ばれる。神様に自分をささげること、これが神様の喜ばれる最大のささげ物です。どんなときにも、主の許しを感謝して、許された自分であることを認めて、いよいよへりくだって歩む者でありたいと思います。

 「イザヤ書」55章6節に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ」。私たちはいま主にお会いすることができる、主の前に立つことができるこのとき、いつも自分の心を探って、清い心を与えていただく。詩篇51篇7節に「ヒソプをもってわたしを清めてください。わたしは清くなるでしょう」と語っています。神様の前に清い心を絶えず持ち続けていきたいと思う。持ち続けるというのは「私が清くなろう」と頑張るのではなくて、砕けた悔いた心を持つことです。神様の前にへりくだって、主の赦しを絶えず受けていきたい。今日も主の赦しにあずかって、晴れ晴れとした、曇りのない心を持って、一日を過ごす者でありたいと思います。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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