いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(311)「主の答えを求む」

2014年09月04日 | 聖書からのメッセージ
 エレミヤ書33章1節から9節までを朗読。

 3節「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」。

 これは預言者エレミヤを通して語られた言葉です。エレミヤは大変苦難の多い人生を過ごしたようであります。殊にその時代が、イスラエル、ユダの国が滅亡を迎える時代であったからです。イスラエルの民は、アブラハムを父祖として、神様がご自分の民としてくださった者です。イスラエル民族は不思議な存在です。日本民族のルーツといいますか、元をたどっていくと、北や南から流れ着いた人たちが集まったという説もあります。しかし、取りあえず民族的に日本人という生物学的な共通点があります。ほかの民族も同様です。漢民族であるとか、モンゴロイドであるとか、ゲルマン族だとかノルマン人だとかいろいろな民族がありますけれども、それぞれ民族的、いわゆる生物学的特徴、骨格であるとか、あるいは体質的なものが共通しています。イスラエル民族のルーツはアブラハムといわれますが、しかし、アブラハムは、更に古くカルデヤのウルの出身であります。だから、その地方の民族だったわけです。そういう生物学的、血族的な系譜からいうと、必ずしも古来から固有のイスラエル民族はいなかったのです。聖書にありますように、神様は父祖アブラハムを選んで「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)と命じられて、神様の言葉を信じて出かけました。神様は「わたしはあなたを祝福し、わたしはあなたの神となる」と約束しました。その結果、カナンに定住することになったのです。天地万物創造の神様を信じる、これがイスラエル民族の特徴なのです。「イスラエル」というのは一つの神様を信じる民の名称であって、民族としての名称とは限らないのです。ユダヤ人と称して民族的にとらえますが、旧約聖書を中心にしたイスラエルの国はユダヤ教の国です。ユダヤ教を信仰する人たちがユダヤ人なのです。だから、その人がどこの民族であっても、その人が改宗してユダヤ教を信じるユダヤ教徒になるときその人はユダヤ人なのです。ここが聖書でいうイスラエルと、いわゆる民族としての考え方と少しずれがあるのです。イスラエルの民とは、そういう意味で神様を敬い恐れ、神様に仕える民、選ばれ召された人たちです。だから、こういう民は珍しい存在です。だから、神様を信じる民でなければイスラエルの資格がないのです。

エジブトで奴隷の生涯を送っていた民がモーセに率いられて荒野の旅をたどって約束の地へ向かいます。ところが、その途中でいろいろな困難があり、イスラエルの民は神様につぶやきます。神様は「もうこんな民は面倒を見きれない」と言ったのです。そのとき、モーセは「この民がほかの民を異なる点はいったい何か。それはただ一つ真(まこと)の神でいらっしゃるあなたが私たちと共におられるからではないですか、もしあなたが私たちを捨ててしまわれるなら、私たちはほかの民とは異なることがありません」と言いました。言うならば、イスラエルとは、神様を恐れ敬い、神様に仕えることによって初めてイスラエルたる値打ち、価値が生まれるのです。親がイスラエル民族だったから私も・・・・・・、というわけにはいかない。そういう血族的なつながり、血縁的なつながりはイスラエルの民の保障ではない。彼らが神様を恐れるとき、神様を信頼して神様に自分を委ねて御心に従っているとき、初めてイスラエルの民であります。ですから、旧約聖書を読むと分かりますが、しばしばイスラエルは神様に背(そむ)きます。サウル王様によって民族が統一されて国が造られました。ダビデ王様の時代は大変恵まれた時代でした。と言うのは、王様が信仰に立って神様を第一にし、神様を恐れ仕えたからです。次のソロモン王になったときは少しずれました。彼は豊かな国のゆえに名声を博しましたが、しかし、その生活ぶりはダビデのようではなかったと記されています。やがて国は二つに分かれていきます。レハブアムとヤラベアムのときに二人が争って、北イスラエルとユダの国という二つの国に分かれてしまいます。それでもなお神様は彼らを見捨てないで次から次へと預言者であるとか王様を取っ替え引っ替え何とかしてイスラエルの民が神様を恐れ敬うようにと願い続けてきた。と言うのは、それ無くしてはイスラエルとして価値がありません。時代が進むにつれて次から次へと立てられる王様は期待はずれで、ことごとく神様に背いては失敗し、滅びてしまう、失われてしまうのです。ついに神様は一つの決断をなさいました。それは、このイスラエルの民をとりあえず全部この地上から消し去ってしまおうと、決断をなさった。その方法としてバビロンという大国を用いられます。当時バビロンという国がどんどんと勢力を伸ばして巨大な国になりました。サマリヤを中心とした北イスラエルの国がまずそれでやられてしまうのです。失われました。残った小さなユダの国はユダ族とベニヤミン族が一つの国となったものです。エルサレムが首都だったのですが、この国も風前のともしびとなってきました。

そういう時代にエレミヤは預言者として立てられたのです。そしてエレミヤは神様の御心を語ったのです。神様はイスラエルを新しい民、神様を畏れる民に造り替えようとして、バビロンンという国を送ったのです。だから、この度の戦いではまずへりくだって神様の求められるように、敵の手に委ねなさいと言ったのです。負けなさい、戦ってはいけない。バビロンに捕囚として連れて行かれなさい。これは実に過酷な事態であった。誇り高いユダヤ人たち、長年神の民だといいながら、実質神様に対しての姿勢、その生活ぶりは全く離れていました。過去の栄光を引きずっていただけ違いありません。それに対してエレミヤが立てられて、実は神様の御心はそうではい。神様の前に罪を犯したために、神様はイスラエルと取り除く。そして、悔い改めて70年の月日を経た後、再びここに新しい国を興(おこ)すと約束してくださった。ところが、当時の人々はそんなことは信じられません。70年後に廃墟となった所が人の住む所になると、想像できない。自分たちには神様が付いているのだから負けるはずがない。かつて日本が戦争をしたときもそうでした。神国日本、神風が吹くと信じて、負けるはずがないと思った時代がありますから、エレミヤの時代のユダの人たちの気持ちは分からないわけではない。ところが、神様はそうはおっしゃらないのです。負けろと言われます。そして、事実滅んでしまうのです。まさにそういうときにエレミヤは神様からの言葉を取り次ぐのですが、多くの人々はそんなことは聞いておられない。自分の国が滅びるなんて、そんなことをいうやつは許しておけないと、彼は繰り返し捕らえられ、軟禁をされ、様々な妨害に遭います。

 このときもそうであります。1節「エレミヤがなお監視の庭に閉じ込められている時」とあります。人々は神様の言葉を語らせまいとして、エレミヤを牢屋に入れてしまう。「監視の庭」とは、分かりやすく言うと軟禁状態です。そして神様のことを伝えられないようにします。ところが、神様は上から、エレミヤに神様の言葉が臨む。2節「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる」と。ここで神様はご自分を証詞なさっています。神であるわたしはどういうものであるかと。「地を造られた主」、神様は天地万物の創造者、造り主でいらっしゃる。どんな小さなことも、大きなこともことごとく神様によってできたのだと。そのすべてのものを造ったのはわたしだ、と告白しておられます。そして「それを形造って堅く立たせられた主」、形造って、一つ一つその目的に応じてきちんと整えて、そればかりでなく「堅く立たせられた主」とは、揺るぎなく運行しておられる、持ち運んでくださっている。

 先だっても宇宙ステーションに荷物を運ぶ、日本の無人ロケットが打ち上げられました。ロケットが巨大な宇宙を回っているステーションに向かって飛んで行く。どうやってあの宇宙で合うのかと不思議でならない。実に素晴らしいことです。いくら大きな宇宙ステーションといったって、広大な宇宙の中にほこりにも足らない小さなものにすぎません。そこへもっと小さなロケットが目指していくのです。きちっと到達して、宇宙ステーションにドッキングをし、積んでいた荷物を移してしまう、まるでサーカスのようです。それを見ながら確かに人の力とはすごいなと思いますが、しかし、ここにあるように「堅く立たせておられる神様」が、宇宙のすべてのものの軌道をきちんと動かしてくださるからできることです。地球が24時間掛けて自転しています。そればかりでなく、地球は公転といって太陽の周りを365日で1周する。常に位置が変わっています。一瞬たりとも同じ場所にいない。まず太陽の周りを回っている、これは止まることなく回っていますから、そのうえ、回っている物体が自分でも回っているのですから、実に複雑な動きをしながら地球は回転しています。どこでもいいから、とにかく打ち上げようとしても、目的のものに到達するにはいい加減なことではできません。神様がきちっと決まった、定まった軌道を回しているからできることです。地球が毎日同じ速度で同じ回転できちっと動いているから計算が成り立つのです。「それは科学者がスーパーコンピューターを作って計算したからうまくいった」と言うかもしれませんが、うまくいくための土台、基礎は神様にあるのです。神様が動きを1秒でも1分でも気まぐれに変えてご覧なさい。どんなコンピューターでもできません。「堅く立たせられた」とは、そういうことなのです。だから、人は神様のわざを盗んで、「おれがした」、「おれがした」と誇って、「人間の業だ」と言いますが、そうではい。神様が一つ一つをきちっと置いてくださっている。

それは宇宙の話ばかりでなく、私たちの生活、人生もそうなのです。生まれてから死ぬまで、一生涯という長い流れがありますが、そこで遭遇する出来事の全体が分かりませんから、こんなことがあって、いったいどういう意味があるんだろうかと、いろいろなことで迷いますが、神様は宇宙を動かしているのと同じ正確さをもって、私たちの人生を導いてくださる。だから、ここに「それを形造って堅く立たせられた主」だから、地上の人生を自分の計画で、自分の夢を実現して今があると思うのは大間違いです。それを実現に至らせてくださったのは神様です。だからパウロは「我が今の如くなるは、の恩恵(めぐみ)に由(よ)るなり」(1コリント15:10文語訳)と語っています。まことに、いま私がここにあるのは神様の恵みによるのですとしか言いようがないのです。私どもには良いこと悪いこと、いろいろとあると思います。不平不満もあります。「こんなはずじゃなかった。もっとああなるべきだった。こうあるべきだった」と思うこともあるでしょうが、そこで私たちは神様の手に握られて、ここにあるように「地を造られた主」、私たちを造り生かしてくださった神様が「堅く立たせられている」と信じる。決して気まぐれに神様はおもちゃのようにもてあそばれるのではない。神様ははっきりとした目的の下に私たちを造り、確固としたわざをもって、きちんと導いてくださるのです。

「その名を主と名のっておられる者」とあります。「主」といいますのはすべてのものの中心、あるいはその上に立つ者という意味です。だから私の主なのです。私たちは自分が主だと思っていますが、「主」と名のっている神様が実は私たちの主でいらっしゃる。そのことを絶えず覚えておきたいと思います。決して忘れてはならない。朝起きてから夜寝るまで、この一日の主人は誰かと。いわゆるご主人でも奥さんでもない。私でももちろんない。実は神様が私の主でいらっしゃる。仕事の面においても家庭においてもそうです。ことごとくその中心に主がいらっしゃる。私たちの日々のスケジュールだってそうです。自分でスケジュールを立てるのではなくて、主が許してくださらなければできないことです。また私たちの財布だってそうでしょう。それを握っているのは、私ではなくて主が握ってくださるのです。だから、一つ一つ主でいらっしゃる御方に問わなければ、私たちは何もできないのが現実であります。それを忘れて、何か自分ができるかのように思い上がる、高慢になる。そして神様を忘れる。これがイスラエルの失敗です。私たちもそうであります。今こうやって神様の憐(あわ)れみによって、イエス様の救いにあずかり神の子と呼ばれる。言うならば、信仰によって私たちもイスラエルなのです。血縁的な意味での民族ではありませんが、神様の民としてのイスラエル、私たちは今そのような立場に置かれています。だから、信仰がなかったら、いくら教会に来ていてもイスラエルの民とはならないのです。

「その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる」、3節に「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」。「わたしに呼び求めよ」と。しかもその神様は万物の創造者、すべてのものを固く立たせて力ある御手をもって持ち運んでくださる、すべてのものの主でいらっしゃる御方が「わたしに」と言われる。「呼び求めなさい、祈りなさい」、これは私たちに対する神様の素晴らしい恵みの約束です。こんなことを言ってくださる神様はほかにいません。世の中にいろいろな神、仏と称するものがありますが、どこに「わたしの所にきて呼びなさい、求めなさい」と言ってくれる神様がいるでしょうか。この聖書をお読みになると分かるように、神様は私たちに「呼び求めなさい」「求めなさい」「告げなさい」「語りなさい」と、繰り返し勧めてくださる。しかも、その御方はただ聞いて、聞きっ放しではない。しかも聞いて何にもできない御方だったら、こんなに言っても仕方がないでしょう。力のない小さな幼稚園の子供から「お父さん、悩みがあったらわたしに言って」と言われて、喜んで「そうか、じゃお前に言うぞ」となるはずがない。できないと分かっていますから。神様に祈るというときに、私がいま祈っているこの祈りを聞いてくださっている御方はどういう御方か、しっかりと自覚して祈っていきたいと思う。案外、そんなことを考えもしないで、自分の祈りたいことばかりが目の前にあって、自分は誰にお祈りしているのか曖昧になり、独り言をつぶやいているだけになってしまう。大切なのは2節で「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる」と、自己紹介をしたのは何のためか。それは、祈りを聞いてくださる御方がどのような御方でいらっしゃるかを自覚するようにということです。私どもは「天のお父様・・・・・・」と祈り始めます。ところが、この祈りを神様が聞いてくださる、神様は万物の創造者、力ある御手をもってすべてのものを統(す)べ治(おさ)めらている御方ですから大丈夫ですと、信じて祈っているか?自分の祈りの姿勢をまず整えたいと思うのです。「天のお父様……」と祈るとき、いまこの祈りを聞いてくださる主、あなたは万物の創造者、すべてのものを造り生かし、すべての主でいらっしゃる御方ですと告白したいと思う。そのあなたが「わたしに呼び求めよ」とおっしゃいますから、いまお祈りします、求めてまいりますと言おうではありませんか。なぜなら、神様の約束なのですから。その約束を信じて、主がこう言われる、あなたがこう約束してくださったので、その約束に基(もと)づいて私は祈っているのですから、神様、あなたの約束を果たしてくださいと求める。これは私たちが神様に迫っていく切り札であります。ここを信じなければ、私たちの祈りはぬかに釘のような、言いっ放し、祈りっ放し、聞かれてもうけもの、聞かれなくても元々と、そんないい加減な思いで祈るとき、私たちの祈りを神様は聞いてくださいません。

3節にありますように、「わたしに」とおっしゃるこの御方がどのような御方であるか、その御方をいま私はどのように信じているか、心を整えて信仰に立って祈る。そのとき「そうすれば」「わたしはあなたに答える」と。神様が私たちに答えてくださる。神様は今も生きて働いてくださる御方です。生ける主です。死んだものだったら、でくの坊で、つついてもけ飛ばしてもたたいてもウンともスンとも言いません。最近は病院で亡くなられたら教会にお連れして一晩教会で過ごしますが、そういうとき納棺式をしたり、ストレッチャーで運ばれたご遺体を移したりお手伝いをします。硬直してしまうと手足は動きませんが、亡くなってすぐのころは自由自在に動きます。命があったら抵抗されますが、死んだ人には自由に動かしてもウンともスンとも言わない。鼻をつまもうと頭をたたこうと、もちろんそんなことはしませんが、少し乱暴に扱っても「おい、もっと丁寧(ていねい)にせよ」とか言わない。死んだものは応答しない。

預言者エリヤがアハブ王様のときにカルメル山でバアルに仕える預言者と一騎打ちをしました。そのときに彼らに提案したのは「火をもって答える神を神としましょう」(1列王記 18:24)と。祈りに答えて火を下して、燔祭としてささげた動物もすべてを焼き尽くしてくださる神様こそ、真(まこと)の神様、生ける神様であると。エリヤは「わたしの仕える万軍の主は生きておられる」と宣言しました。それに対して、バアルに仕える450人が朝から晩まで体に傷つけ血を流し一生懸命に祈ったけれどもウンともスンとも答えがなかった、とあります。

 私たちの信じる神様は「地を造られた」、しかも造られたものを堅く保っている御方、すべてのものの主でいらっしゃる御方、その御方が「あなたに答える」。私に答える、皆さんに答えてくださる。「え!私のようなこんな小さな者、名もない力も値打ちも何もない、あの人のようなら、この人のようなら、ああいう実力者なら神様も答えてくださるだろうに」と思いますが、そうではない。「あなたに」、私たちに答えてくださる。その後に「そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」。「そしてあなたの知らない大きな隠されている事」とは、神様がこれからなそうとしているひそかな事を教えてくださる。神様は私たちにいろいろなことを教えてくださる御方です。

4節以下に驚くことを神様は語っておられる。カルデヤ人、すなわちバビロンの人々がやって来て、すべての町々に死体を満たすようになる。ところが、8節に「わたしは彼らがわたしに向かって犯した罪のすべてのとがを清め、彼らがわたしに向かって犯した罪と反逆のすべてのとがをゆるす」と言われる。やがて、そのような事態になって、多くの人々が殺されるかもしれないが、やがてその後に健康と癒しをここに与えるとおっしゃる。そんなことは想像もつきません。でも、神様の御思いをエレミヤに教えてくださる。今もその神様は、私たちの思いの中に神様のみこころを教えてくださる。だから、聖書にあるように「ことごとく祈れ」と。大きなことでも小さなことでもどんなことでも祈れと、懇(ねんご)ろに勧めてくださいますから、私どもは祈ります。初めは自分の思いが「こうあってほしい」とか「こうなってほしい」とか「こうでありたい」とか「これは嫌だ」とか祈っていますが、繰り返し主に祈り求めて、交わりが深まっていくと、私たちの心が神様の思いに重なってくる。シンクロナイズという言葉がありますが、同調するのです。神様の御思いと私たちの思いが次第に一つになる。そして、なるほどこのことをこうして欲しいと、祈ってきたが、そうではなくて、実は神様がこのことを通してもっと違う、明るいばら色の輝いた未来を教えてくださると信じることが出来る。「そうか。神様が備えてくださっていることがある。今は分からないけれども、きっとそれは善いことである」と、確信が与えられます。これは呼び求めなければえられません。だから、何度でも呼び求めればいいのです。初めは自分の思いが先立っていますが、祈っているうちに心が整えられて、神様の霊に満たされ、神様と同じ波長になっていく。そうすると、握っている問題は変わらなくても「大丈夫、ここから神様きっと不思議なわざをしてくださるに違いない」という確信がわいてきます。それは具体的にこういうことだ、とピンポイントされる確信、そういうものが土台になるのではありませんが、神様が顧(かえり)みてくださっていることを実感する。そして同時に、神様の手の中でこのことが導かれてきたと悟らせてくださる。祈らなければそれは得られません。だから、いろいろなことに遭うときに是非祈っていただきたい。それは自分が「こうありたい」とか「こうなってほしい」とか「こうだ」という願いを譲られないこととして、ガチッと握って祈り始めますが、だんだんと繰り返し祈っていくうちに、神様がまず私たちの心を整えて、自分の姿、自分の思いの何たるかを教えてくださる。

私は最近教えられることですが、皆さんは「自分のことは自分が知っている」と思っていますね。私もかつてはそう思っていた。「自分のことぐらい何でも分かっとる」、自分の心は自分が握っていると思ったのです。ところが、最近はちょっと違う。最近というか、初めからそうだったのです。自分が分からないのです。いったい自分は何をしたいのだろうか。自分のいちばん求めていることは何なのだろうか。このことについて自分はどういう思いでいるのだろうか、分かったようで分からない。皆さんもそうではないですか。「私はこうだと思うのだが、待てよ、本当にそうなんだろうか」と、いつもそのように保留条件のようなものがある。「私はこうです」という思いが、一晩寝るとコロッと変わって「昨日はあんなに思っていたのに、何だ、今日は」と、全く最近の天気のようにクルッと変わる。そういう自分を見ていると、私っていったい何だろうか、私がいま本当に求めているものは何なんだろうか、分からなくなる。私は最近そのことを教えられて、つくづくと反省している。じゃ、どうするか? これはもう神様に聞く以外にない。「神様、私が本当に求めていることはいったい何なのでしょうか」。皆さん、「私はこれがいいのだ」「私はこうでなきゃ、嫌だ」とか、「これは絶対こうあってほしい」と思っているけれども、それは本当に私が願っていることだろうか?神様にまず自分のことを聞いていただきたい。「神様、いま私はこういう思いでいますが、これは私が本当に願っていることなのでしょうか? 」。祈っていると、違う自分を神様は教えてくださる。実に不思議です。今までそういうお祈りをしたことありますか? 「私が分かりません、神様。私はいったい何が欲しいのでしょうか、何を願っているのでしょうか。私のいちばん求めていることいったい何なのでしょうか? 」と聞いたことはあります? 「そんなものは分かっているさ!私のことやから」と思うでしょう。大間違いです。分からないのですから。くるくる変わって、あやふやです。いつも神様が「よし」とおっしゃることしか、実は実現しないのです。神様の許されることしか起こらない。だから、私たちの心も魂も実は神様が握ってくださるのです。「箴言」に「王の心は、主の手のうちにあって、水の流れのようだ」(21:1)とあります。神様は我がままな専制君主の王様の心ですらも握ってくださって、自由自在、ホースで水をピッピッと右に左にサッと動かすがごとく操(あやつ)ることができる。「よかった。じゃあいつの心を・・・・・・」と、言うのは間違い。あなたの心、自分の心を神様に握っていただくのです。「神様、私はいったい何を求めているのでしょう。私のいちばん願っていることはいったい何なのでしょうか? 」そうしますと、今まで「これがいい。これでなきゃ!」と思っていた自分の目が覚める。神様が教えてくださる。自分がしようとしたその先に、大変大きな困難が待ち受けていることを神様が見せてくださる。そして私たちの心を変えて神様の心に合わせてくださる。シンクロナイズ、同調させてくださる。そうなると、神様がグッと身近になります。神様の臨在がはっきりします。そばに主が共にいてくださることがはっきり分かってきます。それと同時に今ここに語られているように「あなたの知らない大きな隠されている事」、私たちのために備えてくださっていることがどういうことか、具体的な何月何日にこういうことがある、とかそういうことを……、地震予知とは違いますから、そういうことを教えてくださるのはありませんが、私たちの心に望みと力といのちを与えてくださる。そして神様は不思議なことをしてくださる、という確信に至らせてくださる。

 サムエルが子供のとき、神殿で生活しておりました。ある晩、神様がサムエルを呼ばれたのです。サムエルはエリ先生が呼んだものと思って行きますが、違う。三度目に呼ばれたとき、エリ先生が「神様がお前を呼んでいるのだから、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と答えなさい」と教えます。それから休んでおりましたら、神様が「サムエルよ、サムエル」と呼ばれ、彼はすぐに「しもべは聞きます。主よ、お話しください」と答えました。そのとき神様は幼いサムエルにエリ先生の家族のこと、これからエリ先生の家庭に起こる恐るべき事態を教えてくださった。翌朝になって、年老いたエリ先生がサムエルに「昨晩は神様がお前に何と言ったのだ」と尋ねました。実はエリ先生の子供たちが神様に罪を犯していた。それを知っていながらエリ先生は知らん振りを決め込んで、しからなかった。そのために、エリ先生の家庭がこれで終わることを告げられた。そのときエリ先生は「神様の御心のままに、主がそうおっしゃるならばこれは止めることはできない」と。エリ先生は素晴らしい先生ではありましたが、人間的に親としての責任を問われたのです。その驚くべき神様の裁きを幼いサムエルは明かされるのです。なぜなら、サムエルはいつも神様との交わりの中に置かれていたからです。

「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」。神様が私たちに神様の御思いを明らかにしてくださる。アブラハムに対して神様はそうでした。ソドムとゴモラを滅ぼそうとするときも、神様は「わたしが今からしようとすることを、わたしを信頼しているアブラハムに黙ってするわけにはいかない。ちゃんと語ろう」と、前もってアブラハムに通告しているのです。世の中でもそのようなことがあります。前もって言っておかないと後になって「私を無視して!」という話になりますから、神様はちゃんと配慮してアブラハムにもやがてするであろうことを語っています。

 いつも神様との交わりの中に、主を呼び求めて主の御声を聞いて、自分のことを教えてもらうばかりでなくて、神様の御思いを知ることができる。そればかりかもっと素晴らしいのは、神様は間近にいる人たちの心の思いまでも私たちに教えてくださる。人が人の心を知ることはできません。何十年夫婦生活、50年続けようと相手のことは分かりません。うんざりするぐらい一緒にいても、飽きは来るけれども相手のことは分からない。その相手を知る方法はただ一つです。神様を通して教えてもらう。「どうも主人の心は何を考えているか分からん」と思ったら、問い詰めても駄目です。本人も分からないのですから。だから、祈るのです。「主人は何を考えているやら訳が分かりませんから、神様、いったいあの人は何を求めているのでしょう。何を願っているのでしょうか。何を考えているのでしょうか、教えてください」と祈ってください。そうすると「あの人は今こういう気持ちでいるに違いない」と、神様が教えてくださる。そうすると、今まで荒れていた心が静まります。「そうだよ。あの人も気の毒だな」と、あわれみを持たせてくださる、愛を芽生えさせてくださる。

“女心と秋の空”といいますが、女性ばかりではなく、それは男も同じです。人は皆分からないです。だから祈るのです。「神様、私は家内の心が分かりませんが、このことについてどう思っているのでしょうか」。時々、人は心にもないことを言いますから、言葉だけ聞いていたらステンとひっくり返ります。そうするとだんだんと意地悪くなって裏を、裏を考えるでしょう。きついです。そんなことをやめて祈る。そうすると「あの人はあんなことを言っているけれども、実は本心はここなのだな」と、神様が教えてくださる。

これは素晴らしい恵みです。神様がいつもどんなことでも、自分の心も家族の心も全部知っていらっしゃる。その神様が「大きな隠されている事を、あなたに示す」と。私たちはそのことを祈ろうではありませんか。そうしますと、人生がもっと楽しくなるし、また神様の臨在、神様が私と共にいらっしゃることを日々感謝し喜び、生きがいを感じる一日を過ごせます。「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」。答えてくださる神様を信じて、切に祈り、主との交わりの中に日々を過ごしたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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