いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(396)「神の国のルール」

2014年11月28日 | 聖書からのメッセージ
 「マタイによる福音書」6章25節から34節までを朗読。

 33節「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」。

 この記事はイエス様がガリラヤ湖畔で集まって来た人々に語られたメッセージ、いわゆる、山上の垂訓と言われる箇所の一節であります。これは、長いメッセージになっておりまして、始まりは5章1節からです。イエス様はいろいろなことについて語っておられます。一度に全部語られたのか分かりません。何度かに分けて話されたことをまとめたのかもしれません。

25節以下では繰り返し「思いわずらうな」と語っています。「思いわずらう」とは心配することです。思い煩う、心配、悩み、あれこれと心を騒がせることであります。神様は私たちが思い煩うこと、心配すること、心を騒がせることを決して喜ばれる御方ではありません。私たちは神様によって造られたものであると聖書に書かれています。神様が私たちを造られた以上、造られた私どもが、思い煩い、何か不足しているかのように、不安で嘆き悲しんでいる姿は、神様にとって自分を無視されたといいますか、神様の力を信じようとしない結果だ、と言うほかありません。

お子さんがいらっしゃる方はお分かりだと思いますが、子供が悩んでいるとき、親はうれしいでしょうか? 実に簡単なことですが、うれしいことではありません。親が年を取って力がなくなってくれば、息子や娘たちがかなりの年齢になってくれば、気にしようがないというか、そういう余裕がなくなりますから、忘れてしまうでしょう。しかし、成長期の子供たちが、自分の手元にいながら、養いを受けながら悩んでいる。「今日は晴れない顔をしている。沈んでいるじゃないか」と、そういう様子を見て、親は「今日は息子が悩んでいる。お祝いだ」という人はいません。そのとき親もやはり心配になります。聞くに聞けないで、「いったい、何があったんだろうか。どうしてそんなに悩んでいるのだろうか」、「私が何かしてやっていないことがあるだろうか。足らないことがあるのだろうか。親としてまだ不足していることがあるだろうか」と、親は親として心配になり、思い煩います。親としては「そんなことは心配しなくてもいい」と思っている。「親として子供たちにいま必要なことを何もかも備えて、無いなら無いなりに、乏しいなら乏しいなりに、精いっぱいやっているのだから、心配なことがあったら私に言いなさい。できるかできないかは別にして、何でもいいから打ち明けてほしい」というのが、親の気持ちだと思います。

神様もやはりそうなのです。私たちを造られたとき、神様は造られたのを見て「良し」とおっしゃったと、創世記にあります。「良し」とは欠けていない、何の不足もない、これで立派だと、神様ご自身が納得された、自信作です。そうである私どもが、喜ばない、それどころか、悩みで憂い顔をして沈んでいる、思い煩いの中に苦しんでいる姿を見て「何と馬鹿なことをしているのだ」と思われるに違いない。「なぜ、私を信じないのか」と。思い煩いの原因は神様を信頼していないからです。子供が悩むのは親を頼っても仕方がない、と思っているからです。人の親は力に限りがありますから、そう思われても仕方がない。神様は人の親どころではない。できない事のない御方、全能なる御方です。その神様が「どうしてわたしに信頼しないのだろうか」「なぜわたしに求めないのだろうか」と、これが私たちに絶えず抱いてくださる神様の思いであります。

25節以下に「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな」と。「命のこと」「からだのこと」、言い換えますと生活のことです。この世にあって、私たちは日々暮らしている、朝から晩まで生活をしていますが、その全てのことに思い煩うな、心配するな、というのです。よくよく考えてみると、私たちの心配事は、大抵そこに尽きます。「何を食べ、何を着ようか」と、からだのこと、あるいは、生活のこと、命のこと、これが私たちの重大事件と思われます。でも、それらの全ては神様が私たちに備えてくださるものに他なりません。私たちが自分の力と自分の努力と業で、今自分の命を、あるいは、体を支えている。あるいは、必要を全て自分で供給しているといいますか、獲得しているのだというのなら、これは心配でなりませんが、実はそうではなくて、これら全てのものは神様が備えてくださっている。ですから、32節に「これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」と。命のこと、からだのこと、何を食べ、何を着、何を飲もうかと、生活の全般は異邦人が切に望んでいるもの。異邦人とは、神様を信じていない人たち、神様を知らない人たちです。それに対して「あなたがたの天の父」、あなたがたの神様は、天のお父さんです。お父さんでいらっしゃる御方が、これらの物が全部必要であることをご存じです。神様が私たちに必要な物を全部与えてくださっている。まず、自分が生まれたときのことを考えてみたらいいと思います。

先週も一組の若いご夫婦に子供が与えられました。私どももその喜びを共有しました。小さなまだ3キログラムそこそこの赤ちゃんです。小さいから可愛いのです。考えてみたら「この子は、どうして今日、この日、この親の下に生まれたのだろうか」と不思議に思います。「願わくは、もっと別の親の方が良かったかな」と、「本人に選択する自由があったら、この親を選ばなかったかもしれない」と。それは分かりませんが、いずれにしても、人は生まれるという出発点自体が自分の選択や決断にかかわらないのです。自分には関係のないところで、どういう訳か私たちは生まれている。親が望んだかもしれないけれども、親が私たちを造ったわけでもない。はっきりしていることは、私たちが生まれ、この地上に命を与えられたこと自体が、私の努力や決断や選択によるのではない。では、親かというと、親でもない、誰でもない。では、誰かと? 神様がその日、その時に、この親の下に生まれるべく備えてくださった。この地上に生きる命も力も健康も、何もかも実は神様が与えてくださったことです。子供は成長して幼稚園に入り、小学校、中学校、高校とどんどん成長して、やがて親を越えて行きます。そうすると、ある時期ぐらいから自我に目覚める。自分の意識がはっきりして自己主張し始める。まるで自分一人で大きくなったように思う。ある時期になると子供は偉そうに言います。「俺は独りでここまで大きくなったのだ。親の干渉なんか受けん」と。これは子供の自立という意味では望ましいことではありますが、親は寂しくなります。そして「何を偉そうなことを言っている。あなたのおしめを替えたのは私だからね」と思います。「お乳を飲ませてあげたのは私よ」と。でも子供はそれを忘れている。忘れるというか、覚えてもないし知りません。生まれてからズーッと自分独りで頑張って生きてきたと、偉そうな顔をする。そうすると、親としてはカチンときて、そこで世代の戦いが始まるのです。これは世の常であります。神様に対して私どもは同じことを考える。神様が私たちを造り、今日まで生きる者として命を与えてくださった。60年、70年、80年と、地上の生活をここまで生きてきた。誰の力によるか?皆さんの世代だと、「戦後の物質のないところからここまで営々と本当に働き詰めで努力して、やっと今がある」と言いたいでしょうが、神様はそうはおっしゃらない。「それもこれも実は、わたしがお前たちのために必要な物を必要な時に必要な事をした」と。「いや、私が働いた」と言っても、働く健康を、働く知恵を、働く力を与えてくださったのは誰かと? 「俺は三食しっかり飯を食ったから、元気があって働けた」と。では、その間病気をしないで守ってくださったのは誰か? 結局行き着くところは何をどうしようと、どのように言っても人の力はなにもないのです。

神様によってその時々に知恵を与えられ、力を与えられ、いろいろな問題の中で右往左往しているときにも、神様が逃れるべき道を備えて、一つ一つ導いてくださったのです。ところが、私どもは、そのことをなかなか信じない。それどこか「自分の努力と、自分の才覚、知恵によって今ここまで努力してきた。何か文句があるか」と思うから、私たちは思い煩いに落ち込むのです。「自分でやって来た」と、自信を持って言えるなら、これからもやって行けば良さそうなものですが、先のことは分からない。また、自分に力のないことを自分がいちばん良く知っていますから、常に恐れが伴います。「いったい、このまま行ったらどうなるだろうか」「明日はどうなるだろうか」「来月は、来年はどうなるだろうか」と。私たちは先が分からないのです。だから、「やろうにも手に余るような、自分の力の及ばないような事態や事柄が起こったらどうしようか」と、いつもいろいろな事が次から次へと心に湧(わ)いてきて思い煩う。ところが、神様は「心配するな」とおっしゃるのです。なぜならば、神様が私たちを造られた目的は、悩んだり悲しんだり苦しんだり憂いて過ごすことを願ってではありません。神様は私たちによって「ご自分の栄光をあらわす者として造り仕立てた」とイザヤ書(43:7)に語られています。私たちを神様の栄光、神様の素晴らしさをあらわす者として造ってくださった。「栄光をあらわす」と言うと、何か大げさな感じがして、「私はそんな器ではない」と引いてしまいますが、「栄光をあらわす」とは、実に簡単なことです。喜んでいることです。感謝賛美していることです。この講壇に飾られているお花を見てご覧なさい。この花は喜んでいるか、悲しんでいるのか、私たちには分かりませんが、見るからにうれしそうに力いっぱい咲いている。この花は咲くことが目的なのです。花を見て腹を立て、怒り狂う人はいないでしょう。私の父は救われる前に生け花を見て腹を立てたことがあるそうです。イエス様の救いにあずかる前は怒りの虫で、花を見ても腹が立つ。「ブルジョワ趣味で、こんなものを入れやがって……」と、見るもの聞くもの何でも腹が立った時代でしょうから、やむを得ないと思います。それは花が悪いのではない。見る側がそういう心であるから、それを喜べないのです。神様が私たちを「栄光をあらわす者として造られる」というのは、私たちがいつも輝いて喜んで、感謝賛美していることを願っている。「神様がこんなに恵んでくださった、こんなに私のためにしてくださった」と、「神様はこんな大きなことを私にしてくださった」と、小さなことから大きなことまで、どんなことでも感謝、感謝、感謝して喜んでご覧なさい。そうすると、それが神様の栄光なのです。簡単でしょう。ところが、なかなか難しい。普段の生活に感謝、喜ぶことができないのです。いつも「あそこが痛い」「ここが苦しい」「あれが心配」「これが……」とグジグジ言う人のそばにいてご覧なさい。楽しいですか?一方、「うれしい、感謝、本当にこんなにされて私は楽しい、うれしい」と喜んでいる人のそばにいてご覧なさい。こちらまでうれしくなり、喜びます。「あなた、うれしそうやね。何があったん?」と、つい聞きますが、何にもなくてもうれしいはずです。「うれしい」という以上、何か良いことがあったに違いない。ラッキーな事があったに違いない、というのが人の世の習いですから、ついそのように聞きますが、「いや、何にもない」「何にもないのに喜んでいるの、ちょっとおかしいのではない」と、こういう話になりやすい。しかし、そうではありません。何にもなくて喜ぶ、これが、神様が造ってくださった目的です。だから、年を取って「私は、何のために生きているのだろうか。ただ穀潰しだ。私は死んだほうが世のため、国のためになる」と思うのでしたら、大間違いです。私たちは命のあるかぎり、感謝賛美し喜んで生きる使命があります。

先日も私の古い学生時代の友人と久しぶりに電話で話しました。すると、彼のお母さんが94歳になって、介護施設に入っている。私の家内の母もそういう状態ですから、親の介護の苦労をお互いに慰め合ったのです。そのとき彼が言うには「うちの母は困るのですよ」「どうしたの?」「愚痴ばかりで、行くのが嫌になります」と。「これはもう仕方がない。そういうものだと諦(あきら)めたほうがいいよ」と私は言ったのです。そして、彼に一言、「いや、いずれ我々も通る道だからよく覚えときなさいよ。あなたも」と言ったのです。確かに、会うたびに「あそこが痛い。ここが何とか。あそこが何とか。ここが何とか……」と愚痴る。「どんなことを言うの?」と聞くと、「それが施設にあずかってもらって、いろいろお世話になるのに、お世話をしてくれる介護の人の『あの人が良いとか悪いとか、この人がこうした、ああした』と周囲の誰もかれもダメ。誰一人お眼鏡にかなう者はいない。そんな話は聞いておられん」と、その息子は言うのです。年を取って、生きる目的は感謝賛美することです。だから、喜んでおることができるように、神様は全て必要な物を、必要な時に、必要な事を起こし、導いてくださる。全て神様が備えてくださっているのです。神様が「思い煩うな」と繰り返し言われるのはそのためです。

ですから、26節に「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」と。「空の鳥を見なさい」とおっしゃいます。私たちが普段目にするスズメやハトなどは朝からチュンチュン、飛び回って鳴いています。楽しいのか悲しいのか、これは分かりません。しかし、彼らがノイローゼになって急に落ちてきた、という話は聞きません。鳥が「わたしは死にたい」と言って、水の中に飛び込んだという話も聞いたことはありません。それなりに楽しそうにやっている。「楽しそうに飛んでいる、鳴いている」と思いますが、鳥に聞いた話ではないから分かりませんが、聖書には神様が彼らを養っていてくださると言われます。「まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は」、ここに「あなたがたの天の父」と、あなたの天の父、私の、皆さん一人ひとりの、天のお父さんがハトやスズメを養っておられる。羨(うらや)ましいじゃありませんか。では、天のお父さんは私たちを放ったらかしかというと、そうではない。その後に「あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」。神様はスズメですら心に留めてくださる御方、ましてや、あなた方はもっとはるかに優れた者だから、何にも思い煩うことはいらないじゃないかと。本当にそうです。万物の創造者であり、「天も我がもの、地も我がもの、世界とその中に満ちる物はすべてわたしのものだ」(地とそれに充(み)つるもの 世界とその中にすむものとは、皆エホバの有(もの)なり)(詩篇24:1文語訳)とおっしゃる神様は不足するものは何一つない御方が「あなた方の天の父」です。私たちのお父さんです。そのお父さんに求める。そのお父さんに自分を委ねる。これが信仰、信じることです。

27節に「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」。どんなに思い煩ったからとて私たちは地上の命を少しでも延ばすことは不可能であります。必ず終わるときが来ます。思い煩うことが私たちの生きる目的ではない。神様は私たちのその思い煩いを取り除いてくださる。

その道筋が33節に「まず神の国と神の義とを求めなさい」。これはなかなか分かりにくいお言葉で、神様を求めなさい、ということで理解したらいいと思います。しかし、せっかくここに「神の国」「神の義」と語られていますから、そのことについてお話しておきたいと思います。「まず神の国を求める」、思い煩わないで、心配しないで何をするか。神の国を求める。神の国とは、どういう国か。これは神様が主権者でいらっしゃる国です。日本国憲法を読みますと、『主権在民』とあります。この国の主人は国民である、ということが語られています。日本という国は、そこに住む国民がそれを統べ治めていく。だから、選挙で選ばれた議員たちが方針を決める。国にはその中心となる人たち、主権者と言いますか、国民の合意によっていろいろな法律が決められて、国の中に施行(しこう)される。だから、その法律に違反したら罰則が当然加えられます。ところが、法律はその主権が及ぶ領地内、範囲だけであります。これがよその国に移ったら、また別の国の主権者がいますから、その国に従わなければいけない。王様がいる国もあるでしょうし、そういう議会制の国もあるでしょうし、いろいろな国があって、中心になる人たち、それが国民であったり、あるいは、そういう王様であったり、そのように形は違うけれども国があります。それに対して「神の国」とは、神様が主権者でいらっしゃる所、神様のご支配が及ぶ所が神の国です。振り返って、自分を考えると、生活の中、家庭の中で誰が王様かと?「それは私だ」と、家に帰ったら「私が大将」と思っているなら、それでは神の国はどこにあるか? 神の国、神様がご支配する所です。「神の国を求める」とは、「自分の国」「私の国」と思っている、私の生活、「これは私の世界」「私の支配」「私がルール」と思っている生活を、神様のご支配に替えて行くこと。これが「神の国を求める」ことです。神様がご支配してくださるようにと、大政奉還する。自分の主権を神様に譲り渡すこと。これが神の国となる道です。日々の生活、朝起きてから夜寝るまで、自分の健康のことや自分の個人的な自分自身にかかわることのみならず、家族のこと、あるいは地域社会のいろいろな事の中に遣わされて行きます。そこで業を行います。そうするとき、誰に従っているか? 自分を誰の支配に置いているか。その人の国がどこにあるかということです。「俺の国」だったら、俺が王様であり、主権者であり、法律であります。ところが「神の国を求めていく」となると、どんなことにもまず神様がそこに働いてくださることを認める。神様がそのわざを握ってくださっておられることを認めて、自分が神様の前に退くことです。これが私たちに求められる大切なことです。朝起きてから夜寝るまでいろいろな事をしますが、その一つ一つの業の中に、私がするのではなくて、今ここに神様が何を願っておられるか。神様はいま私に何とおっしゃるか。常に支配者となった神様の御思いを知ること、求めて行くこと。それに従うのが神の国の住民であります。神様が法律でありますから、法律に違反したらその国に住むことはできません。追放されるかもしれません。「神の国を求める」とは、絶えずいろいろな事の中に……、もし私たちが病気をしますか、自分の国だと病気は認められない。「嫌だから早く何とかしよう」「こうしよう」「ああしよう」と思います。ところが、病気になったら「まず神の国を求めなさい」というのですから、この病を与えてくださった神様がおられることを認める。また、神様は必要ならばその病を癒すこともおできになる。神様を前に置くこと、この御方のご支配に委ねること、これが「神の国を求める」ことです。私たちは財布の中を見てお金が有るとか無いとか、それに支配されます。「今日はこれを買いたいと思うけれども、財布を見たら足らないから、これは我慢して明日にしよう」と、財布と相談しながら決めようとする。財布では駄目です。神の国を求めるのですから、神様に相談する。「神様、これを買うべきでしょうか。どうしましょうか」と、祈って、その主権者でいらっしゃる神様に財布の中を握ってもらう。これが神の国を求めるということです。また、自分の一日のスケジュール、時間もそうです。暇やから「誰か暇な人はいないだろうか。電話して誘って遊びに行こうかしら」と、そんなことを自分で決めるのではない。一日のスケジュール、朝起きて「今日は何をしようか。今日一日何もすることはない。寝とこうか」と、そうではなくて、そこで何をすべきか、これは神様のご支配に自分を委ねること。だから、「神の国を求める」とは、そこです。だから、いろいろな事の中で神様の国がどこにあるかを自覚しておく。「いま私は神の国にいるのだろうか」「今、私は誰の国に生きているのだろうか」、このことを問うていただきたい。「神様、私はあなたの国の住人ですから、私の時間を決めてください。スケジュールをちゃんと善きように取り計らってください」。家族から「お母さん、あれをしてくれ」「これをしてくれ」「あそこへ行ってくれ」と、右に左にあれやこれやと言われて、私はもう手いっぱい。どれをどうしたらいいか分からん。かんしゃくを起こして「あんたたちは勝手やね」と言って、パニックになる前に、神の国を求める。「神様、ここで何を第一にすべきでしょうか」「神様、あなたが私に求められることは何でしょうか」と、主権者で中心であり、王でいらっしゃる神様を自分の生活の中心に立てて行く。これが神の国を求めることです。これは一度やったら終りというわけにはいかないのです。毎日、毎日出会う出来度や事柄の中で常に、まず神の国を求めて行く。
そして、次に「神の義を求めなさい」と。神の義を求めるとは、どうすることか。というのは、思い煩いの大半がこの「義」にかかわる。私たちが心配する、思い煩ったり、グジャグジャ思い悩むのは、自分が認められないとか、自分の正しさが評価されない。あるいは自分が不当な扱いをされている、という思いがあるからです。自分の心にある心配とか不安とか苛立ちとか、思い煩いというものをよく考えてみてください。そうすると、家族の者が自分のことを誤解している、あるいは、ああしてくれない、こうしてくれない。自分を正しく評価してくれないことへの不満、そういうものが思い煩いの中心です。だから、神の義を求める。いうならば、神様の裁きといいますか、正しさを求めることです。

「ペテロの第一の手紙」2章21節から23節までを朗読。

これはイエス様のご生涯、地上での歩みを要約して語った短い一節であります。21節に「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである」と。その前の19節に「神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶ」と言われて、続いて「そうするようにと」、私たちもこの救いに導き入れられたのであると。そして21節の後半に「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。私たちがイエス様の歩まれた歩みに倣(なら)う者になるように、ご自身が模範となって先立ってくださった。だから、私たちはイエス様の後に付いて行く。イエス様がどのように生きてくださったか。何をよりどころにしておられたか。22節に「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった」。イエス様は一つとして罪を犯したことはない御方。そして「口には偽りがなかった」、いうならば、うそ偽(いつわ)りのない真実な御方でいらっしゃった。それなのに、罪人とされた。不当な嫌疑(けんぎ)を掛けられ、十字架の死に追いやられてしまった。これは大変な苦しみです。肉体的な苦しみ以上に心の苦しみ……。もし、私たちがこういう目に遭ったら、ほんのちょっとした小さな誤解ですらも腹が立ちます。「あの人は私のことをあんなに言って、ちょっと誤解しているよ」と、そう思ったら、一晩眠られない。イエス様はそれどころではない。具体的に罪人にされてしまう。ピラトの法廷やカヤパの屋敷で調べを受けてもどこにも罪がない、という御方が、「十字架につけよ」と死にまで追いやられて行く。

死刑の判決を受けた人が無罪になるケースが最近時々あります。私は「どれ程の喜びだろうか」と思います。疑いが晴れることは本当に大きな喜びであります。だから、ちょっとした小さな誤解や不当な扱いを受けると、何とかしてそれを振り払おう、自分の正しさを証明しようと、力を尽くします。しかし、それをすればするほど,泥沼に入って行く。これは皆さん経験済みでしょう。ではどうすればいいのか?イエス様は23節「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」。全てのことを見ていて正しい裁きをしてくださる神様に全てを委ねてしまう。「神の義を求める」とはこのことです。神様がご存じです、ということに徹底する。神様がご存じだから、私がつべこべ言うことは何にもない。人があれこれ言う必要は何にもない。「神様、あなたがこのことをご存じで、このことについて、きちんと義を明らかにしてくださる」。私たちの正しさをきちんと証明してくださるのは神様です。これを求めて行くこと。そうしますと、私たちの思い煩いはほとんど消えます。「どうしてあんなことを言われたのだろうか」。また「あの人はどうしてあんなことをするのだろうか。誤解しているのではないだろうか。私が言ったことを曲解して、悪く言っているけれども、それは違う」と悶々(もんもん)とする。そういうことがたくさんある。恐らく、思い煩いの3分の2はそれがある。でも、そのときに、誰が何と言おうと神様がご存じです。主は正しい裁きを成し給う御方。ひと言も弁解をしない、言い訳をしない。また、自分の義を主張しない、正しさを主張しない。甘んじて黙って、されるがままに受けてご覧なさい。やがて、神様は必ずそのことについてきちっと結論を出してくださる。私はこれまでもそういうことが度々ありましたが、言わない。黙ってただ主を待ち望んで行く。神様が働いてくださるのです。これを信じないと私たちは望みがないのです。だから、いつもどんなときにも、今も主が働いてくださると、神様は義なる御方、正しいことを正しく成し給う御方ですと、信じて行くこと。これが「神の義を求める」ことです。

「マタイによる福音書」6章33節に、「まず神の国と神の義とを求めなさい」。心配な事があったら、「これはどうしようか」「明日はどうしようか」、あるいは「これはどうなるやろうか」「あれはどうなるやろうか」と、子供のこと、自分自身のこれからのこと、老後のこと、いろいろな事を思うとき、「まず神の国と神の義とを求めなさい」。神様のご支配、神様の裁きの中に自分を委ねる。そのことをしっかりと心に確信を持つ。まずそれを整えること、これが神の国と神の義を求めるということに他なりません。何か問題に当たるとき、ただその問題を早く解決しよう、逃れようとするのではなくて、そこでもう一度静まって、「我の神たるを知れ」と言われるように、まず落ち着いて神様のご支配に委ねる。その心を整える。信仰を堅くする。そして、神様の裁かれる裁きに、報われるところに一切を委ねる。必ず神様はこのことに結論を出してくださる。答えを出してくださると、信じましょう。

そうしますと、その後に「そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と。「これらのもの」とは、何を食べ、何を着ようと、命のこと、体に必要なこと、これらの全ては神様が全部ご存じです。私どもは、食べること、着ること、飲むこと、体のこと、命のことを優先するから、いつまでたっても心が晴れやかにならない。そんなものは、神様がどんなにでも成し得給う御方ですから、まず、神の国と神の義をしっかりと心に定めて、まず感謝賛美し、主を褒めたたえる。そうしますと、神様が思いがけない、私たちの想像を超えた、考えの及ばないわざをもって答えてくださる。満たしてくださいます。だから、まず、すべきことは神の国、神の義をしっかり信じて、そこでへりくだって神様の手に委ねて、いま、今日という一日を楽しみ感謝し、喜んで生きる者となりたいと思います。

その後の34節に「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう」と。先のことはどうなるか分かりません。それこそ、明日があるかないか、これは私どもには分からないのです。だから、今日という一日、今という時を力いっぱい感謝し、賛美し、神様の恵みを褒めたたえようではありませんか。そうするとき、神様はことごとく整えて、祝福して備えてくださるのであります。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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