いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(314)「最後の晩餐」

2014年09月07日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネによる福音書」14章1節から4節までを朗読。

 1節「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」。

 14章はご存じのようにイエス様が十字架におかかりになる前、最後の晩餐(ばんさん)とよく呼ばれている食事の席でのお話です。最後の晩餐(ばんさん)とは、そういう集まりがあったのではなくて、ユダヤ人の年中行事、守るべき大切な祭として「過越の祭」というものがありました。「過越の祭」には皆が集まって食事を共にする習慣がありました。 

これはイスラエルの民がエジプトの奴隷であった時代に、神様が不思議なわざをもって、イスラエルの民を救い出してくださった、そのわざを記念するものです。それはエジプト中を神様の霊が行き巡(めぐ)って、かもいに小羊の血を塗っていない家のもののすべての生き物の初子が殺されてしまうという、悲惨な出来事でした。ところが、そのかもいに血を塗るならば、小羊の血を塗るならば、その家については「我血を見る時なんぢらを逾越(すぎこ)すべし」(出エジプト12:13文語訳)と約束された。わざわいが一切そこを通り過ごしてしまう。イスラエルの民は神様のお言葉を忠実に守りまして、小羊をほふってその血をかもいに塗ったのです。そのために彼らは何一つ害を受けない、わざわいに遭わないで、その時を過ごすことができた。これが「過越の祭」というものです。それ以来、イスラエルの民がこの時のことを忘れないように、年ごとに記念しなさいと神様は定めたのです。神様がどんなに自分たちを憐(あわ)れんでくださったか、その救いの恵みを繰り返し感謝し、喜びなさいという意味で、過越の祭を守るようになってきました。

このことはイエス様が十字架におかかりになった事態と重なっている事柄であります。イエス様が小羊として十字架に血を流すことによって、私たちの心の門口にイエス様の血を塗る。血生ぐさいおどろおどろしい怖い話のように聞こえますが、これは一つのたとえであります。私たちがイエス様の十字架によって罪を赦される。いうならば、神様の裁きを免(まぬが)れることができる。まさに、過越です。だから、私たちがイエス・キリストを信じることによって初めて神様の裁きから救い出される、滅びから救われる。これが過越の祭の本来の意味でもあります。

 このときもイエス様は弟子たちと一緒に年中行事である「過越の祭」のためにエルサレムへ来まして、ある場所に行かれた。そこの二階の部屋に食卓が用意されて、弟子たちと共に食事ができるようにしつらえてありました。13章にそのことが詳しく述べられています。食事をしているとき、イエス様は突然立ち上がって、弟子たちの汚れた足を洗われました。皆で食事をしているときに、イスカリオテのユダに対して「お前はわたしを裏切ろうとしている」とはっきりと指摘しておられます。

 レオナルド・ダ・ヴィンチという人が描いた「最後の晩餐」という壁画を皆さんもご存じだと思います。私も先年イタリアに参りましたときに実際に見せてもらいました。教会付属の修道院の食堂の壁に描かれた、とても素晴らしい絵です。表情が一人一人違います。「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」と、イエス様が語った瞬間の弟子たちの「え!」と驚いた表情を捕らえて表したのです。弟子たちは去年も「過越の祭」を守ったし、今年も守っている。また恐らく来年もあるだろう、と思っていたでしょう。後になって、この時のことを「最後」という言葉を付けるようになりましたが、その祭りと食事会は最後ではありません。ズーッと今もってユダヤ教の人々はその「過越の祭」を大切に守っています。イエス様に、あるいは弟子たちにとって実はこれが「過越の祭」での最後の晩餐だったのです。というのは、その後イエス様が十字架におかかりになることによって、本当の意味での過越が完成し、私たちの罪が赦される喜びにつながっていく。もはや皆で集まって食事をして、記念する必要がない。それどころか、毎日が私たちにとって過越の日々です。いま私たちがこうやってわざわいに遭うことなく、さまざまな問題、事柄の中にあっても、なお神様の憐(あわ)れみを受け、恵みにあずかって、守られ生かされている、というのは、一重に、まさに主が今日もご自分の血潮を携(たずさ)えて父なる神様に執り成してくださるからにほかなりません。「どうぞ、この者を赦してやってください」「どうぞ、この者をもうしばらく待ってやってください」と、イエス様が私たち一人一人のために今日も執り成してくださるがゆえに、こうやって大きな顔をして生きているのです。その意味でどんなにこのことを感謝してよいか、感謝してもしきれないぐらいの大きな神様の恵みであります。

 ところが、このときまだ弟子たちはそういうことが分かりませんから、「さぁ、これからごちそうを食べるぞ」と、去年、今年と続いていますから、まるでお正月のような気分だったでしょう。食事がほぼ終わったころにイエス様が弟子たちにお話を始められたのが、14章から16章までに続いています。三つの章に区切られていますが、おおむねこの三つは、聖霊なる神、子なる神キリスト、そして父なる神にかかわる事の一つ一つを解き明かしてお話ししておられるところです。いうならば、弟子たちに向かってイエス様がお話しになった最後のメッセージ、この地上におけるお別れのメッセージ、ということもできます。

そのお話のいちばん最初に語られたのが1節です。「あなたがたは、心を騒がせないがよい」と。あなた方は心を騒がせるなと。このとき弟子たちは何か心配事があった、悩み事があったというわけではありません。いや、それどころかごちそうを食べ終わって満腹して、「幸せやなぁ」と思っていたでしょう。そこへイエス様が「心を騒がせないがよい」とおっしゃるのですから、これはちょっと意外なことで、「いったい何のことかな」と思ったに違いない。更に続けて「神を信じ、またわたしを信じなさい」と勧められました。イエス様はこれから起こる十字架のことをはっきりと知っていました。というのは、食事が終わった後、もう夕暮れで夜になってきますが、ゲッセマネの園に祈りに行かれて、そこで捕らえられ、その翌日にはさばきを受け、十字架に命を奪われる。しかし、この時点では全く想像がつかない。弟子たちはまさかそのようになるなんて思いもしない。いま私たちは全部知った上で読んでいますから、なるほどしかるべき理由があったな、と分かりますが、弟子たちは全くそれを知りません。しかし、イエス様はご存じでありました。そのような思いもかけないことが起こって、わたしの命が奪われ、わたしは死んで葬られるに違いない。そのときこの弟子たち、イエス様のそばにいた代表的には12人といわれていますが、十二弟子たち、そのほかにもイエス様に付き従った多くの弟子たちがいたようでもあります。しかし、このときの12人はガリラヤの漁師でした。彼らはイエス様に従って生活の一切を捨てて、イエス様に懸けてきたのです。三年半近くの歳月をイエス様と寝食を共にしてやってきました。これからだってイエス様と共に生活するものだ、と思っていたに違いない。それがある日、突然のごとく前触れもなくイエス様が死んでしまう。これには、彼らはうろたえるどころか、驚天動地であります。身の置き所がなかったに違いない。いったい自分たちはこれからどうなるのだろうか? わたしの人生はどうしたらいいのだろうか? そういうことがすぐに始まるだろう、ということをイエス様は予測しておった。ですから「あなたがたは、心を騒がせないがよい」と言われたのです。恐らく後になって弟子たちはこのお言葉を深く思い返して味わったに違いありません。「なるほど、イエス様おっしゃったのはこのとき私たちのためであったか」ということが分かるでしょう。

この御言葉は、また私たちに対して主が語っておってくださることです。私たちはこの地上の生活で心を騒がせることがどんなに多いか分かりません。いろいろな思い煩いや心配やさまざまなことが起こってきます。自分の思いがけないこと、考えもしなかったようなことが突然のごとく私たちの生活のうちに生じます。そうすると、例外なく、皆さんご経験のように必ずうろたえるのです。右往左往し、そして、ぼう然自失、何をしていいか手が付かない、という事態に陥(おちい)ります。そのときに、イエス様は「あなたがたは、心を騒がせないがよい」とおっしゃるのです。騒がせるな、といっても騒いでしまいますし、自分でも心を騒がせたいとは思いません。しかし、どういうわけかジッとしていても心が騒ぎます。「心を騒がせないがよい」と。それには理由があるのです。心を騒がせるときがどんな状態かというと、神様を忘れているときではないでしょうか? 私たちが心を騒がせ、思い煩いに満ちているとき、イエス様のことを忘れているのではないですか? だから「神を信じ、またわたしを信じなさい」と、イエス様はおっしゃるのです。

「マタイによる福音書」6章31節から34節までを朗読。

イエス様は「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな」と言われます。25節からズーッと繰り返して「思いわずらうな」と語っています。いうならば、「心を騒がせるな」ですね。「思いわずらう」というのはそういうことです。なぜかというと32節に「これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである」。「異邦人」とは、神様を知らない人という意味です。神様を信じようとしない人々が求めているもの。それに対して「あなたがたの天の父は」、「あなたがたの天の父」と言われています。私たちの肉にある父、肉親のお父さんはいますが、イエス様の救いにあずかった私たちにとって、天地万物の創造者でいらっしゃる神様は、天にいますお父さんなのだ、ということです。どうですか? 皆さん、普段そのような自覚を持っていますか? 神様はお父さんなのです。お父さんなのですから何でも打ち明ければいいし、お父さんが子供である私たちにいろいろなことを備えてくださるのです。だから「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」と。「お父さんが私たちの必要なことを何でも知っているのだから、何を食べようか、何を着ようかとあくせくしたり、あるいは思い煩ったり、心配したり、どうしてそんなことをするのだ」とおっしゃるのです。それで、何をせよとおっしゃるのかというと、33節「まず神の国と神の義とを求めなさい」、まず神様を求めることです。「神の国と神の義とを求めなさい」と。これは話せばややこしくなりますから、できるだけ簡単に申し上げるならば、神様を求めることです。神様を信じる者となることです。あるいは、神様を信頼することを努めることです。これが第一にすべきことです。それはそうです。私たちの天のお父様でありますから、その神様を信頼していけば、寄り頼むことに努めていけば、その後「これらのものは、すべて添えて与えられる」とあります。「これらのもの」とは、「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようか」という生活のことです。地上での生活のすべての事は神様、父なる神様でいらっしゃる、私たちのお父さんである方が何もかも備えてくださるのだ、ということです。

ですから「ヨハネによる福音書」14章1節に「あなたがたは、心を騒がせないがよい」。まさに先ほどの、「マタイによる福音書」でイエス様がおっしゃったように、「何事も思いわずらってはならない」ということでもあります。「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな」と。「心を騒がせるな」。「神を信じ」「まず神の国と神の義とを求めなさい」と言われます。まさに「神を信じ、またわたしを信じなさい」の言葉がここで繰り返されているのです。

私はこの言葉がもうひとつよく分からなかったのです。どうして「神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われるのだろうか?この「神を信じ、またわたしを信じなさい」と二つに分けているのは、字数を増やそうと思って分けたのではないのです。分けている以上、何かの意図がある。何か言わんとしている事柄があるのです。そのことを最近教えられました。まず神様を信じると。先ほどもイエス様が「あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである」と言われました。いうならば、神を信じるとは、どのように神を信じるのか。神様が私たちの造り主であり、私たちのお父さんでいらっしゃることを信じる。「神様を信じる」というとき、漠然(ばくぜん)とした感じがしますが、神を信じるとはもっと具体的に、いま私が受けているこの問題や、あるいはこういう悩みの中に、こういう事柄の中で、ここに神様がいらっしゃるのだ、と信じるのです。そのような具体的な生活の一コマ一コマ、日常茶飯な事態を抜きにして神様を信じることはできません。私は病気をしたときにそのことを痛切に教えられました。「どうしてこんなになったのだろうか」、「私の何が悪くてこういう病気になったのだろうか」と、ちょっとしばらく受けいれがたい思いがしていました。そのときに、「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)エホバ」エレミヤ33章の文語訳の御言葉ですけれども、この御言葉を与えられました。いうならば、すべての事の始まりであり、すべての事を導き給う御方、これは人でも誰でもない。実は神様がそのことをしていらっしゃるのだ。黙示録に「わたしはアルパであり、オメガである」(22:13)とあります。「アルパ」とはギリシャ語アルファベットの最初の文字「Α」で、オメガは最後の文字「Ω」で、いうならば、「初めであり、終りである」。初めから終わりまでことごとくわたしがしているのだ。わたしがそこで主であると、中心に立っているのだ、という、これを私たちが認めるかどうかです。私たちは自分がやっていると思っている。あるいは人がしていると、あの人があんなことをしたから、この人がこんなことをしたから、私は大変な迷惑をこうむっていると。そうではない。その迷惑と思われるような事態や事柄を誰が起こしているかと。「神を信じる」とは、そこです。「神様が今このことを起こしているのですね」と得心する。そうすると思い煩うことがいらない。心を騒がせる必要がないのです。

 「イザヤ書」45章5節から7節までを朗読。

 ここに神様はご自分のことを明らかにしていらっしゃる。5節に「わたしは主である」、わたしがすべてのことの中心なのだと。ところが、私たちは自分の人生は私が中心、私の計画、私の思いどおりに私の考えどおりに、と思っているでしょう。ところが、それがうまくいかない。思ったけれども頓挫(とんざ)する、あるいは行き詰る、絶望する。そんなことばかりに出会う。そうすると「こんな人生は……、どうして私はこんな不幸な目に遭ったのだろう」と嘆きますが、そうではないのです。実は私たちの人生を造り、生かし、いろいろな問題や事柄に、うれしいことにも悲しいことにも、楽しいことにも嫌なことにも、どんなことの中にも私たちを導いているのは主です。それが神様です。だから、私たちが「神を信じる」とは、まさにその全能の神、どんなことでもなしえる神様が、いま私にこのことを起こしている。神様の手を疑ってはならない。だからそこで私どもは神様に委ねること、任せる以外にないのであります。

 6節に「これは日の出る方から、また西の方から、人々がわたしのほかに神のないことを知るようになるためである。わたしは主である、わたしのほかに神はない」。この聖書を通して証詞されているこの神様こそが実は真(まこと)の神様、私たちの目には見えませんが、宇宙万物の一切のものを創造し、力ある御手をもって今も堅く据えていらっしゃる、不動のものとしておってくださる。そして7節に「わたしは光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」と。なんと神様は光も暗きも、繁栄もわざわいも神様のわざなのです。だから、イエス様が町を通っているとき生まれながらに目の見えない人に出会いました。弟子たちが「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」(ヨハネ9:2)と尋ねました。何かの罪の結果として罰が当たったに違いないと。人はすぐにそういう考え方をします。日本の社会でもそうです。何か不幸な目に遭ったら、「何か原因があるに違いない。何が悪い? お祓(はら)いでもしなければいかんな」とか、そういう話になりやすい。自分でもそのように思う。私もそうやって病気すると、「何がいけなかった? 食べ物が悪かったのだろうか」と。「もうちょっと、何を控えればよかったのだろうか」と原因探しをしますが、すべてのことの原因は神様にあるのです。では、私が何をしても神様が原因なのか? と。いいえ、神様が「それは駄目だよ」と言っているのに、無理やりやってしまうことがあります。私たちが罪を犯すことももちろん、神様によるのではありません。神様は私たちに罪を犯させることはなさいませんが、しかし、ここにありますように、「暗き」「わざわい」、そういう中に私たちを置かれることは確かにあります。これも神様のわざです。その後に「わたしは主である、すべてこれらの事をなす者である」とはっきりと宣言なさっています。だから「神を信じなさい」というのは、ことごとくがこの神様の手の中にあって事が進められている、持ち運ばれていることを認めることです。

 初めの「ヨハネによる福音書」14章1節に「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」と。では、イエス様はなぜ「わたしを信じなさい」とおっしゃるのでしょう。「イエス様を信じる」とは、私たちにとって大きな慰めであり、望みです。というのは、イエス様は私たちのために何をしてくださったのでしょうか? イエス様はご自分の命を捨てて、愛を証詞してくださった。だから、「ヨハネの第一の手紙」に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(4:10)とあるでしょう。神様を信じるといっても、先ほどの「光をつくり、また暗きを創造し、繁栄をつくり、またわざわいを創造する」とおっしゃる神様は、私たちを好き勝手になぶり殺すがごとく、子供が蛙(かえる)でも振り回すように、水に入れてみたり、お湯に入れてみたり、神様、何をやってるの!と、神様をいくら信じてもなにか怖いものがあります。「神様、何をされるだろう」「神様、今度は何でしょうか」と、ちょっと警戒感を持つ。それに対してイエス様は「わたしを信じなさい」と。「大丈夫、神様は私たちを愛しておられるのです」と。ここで「わたしを信じなさい」ということは、言い換えると、神様がひとり子を賜うほどに限りなき愛をもってあなたを愛しているじゃないですか、その愛を信じなさい、とイエス様は語っているのです。神様だけを信じていると、怖いのです。あるいは人を裁く者となってしまう。

 私はかつてはそういうところを通りました。神様を信じるのだから、神様の前に正しい人間でありたい。行いを正しくして、世間の人々から立派な青年だ、出来た人だ、と言われたい。そのために一生懸命に頑張って、自分でできる限りに道徳的に、品行方正を目指していた時代があります。そのときは神様を信じていたのです。神様が私の味方だ、私は何も悪いことをしていない。うそもつかないし、また人に悪いことを言ったこともないしと、自分ながら感心するぐらい立派な人間だったのです。自分ではそう思っています。そういうのを自己義認というのだそうですが、そう思っていました。そのように神様を信頼している、神様だけを信じているとき、今度は人を裁くのです。人を見ると「なってない」「こんなこともできない」「あんな悪い所がある」「こんな所がある」。「私は神様を信じている」と言う人は、自分を義人としているのです。そこにはイエス様のはいる隙(すき)がない。そのとき、私はいろいろなことの中で大きな挫折を味わったときがあります。そのときに初めて「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ 23:34)と、イエス様が十字架の上で祈ってくださる主の祈りが、実は私のためだと。私はイエス様を十字架につけなければおられないほどの重罪人、神様の前に己(おのれ)を義として自分が正しい人間である、と誇っていた。その私のためにイエス様は十字架に御苦しみ受けてくださったと。それを知ったとき「私は死んで当然の者です。滅びて当然の者が今日もこうやって赦されている」。この主の赦しを受けた。それまではよろいかぶとをかぶって、人に隙(すき)を見せまいと思って、一生懸命に頑張っていたけれども、そのとき、体から力が抜けました。自分は何もできないのだ。滅びて当然の者が「父よ、彼らをおゆるしください」とイエス様がご自分の命を代価にして、私のために執り成してくださるゆえに赦され、今日も大きな口を利いて偉そうな顔をしておられるのだ。本当に申し訳なかった。そこで徹底して悔い改めました。それ以来、私は人を裁くことができない。人のことを云々(うんぬん)できません。だから、イエス様の救いにあずからないことには本当の神様の懐(ふところ)に届かないのです。

 だから、ここでイエス様が「神を信じ、またわたしを信じなさい」とおっしゃったのです。私たちはこの神様を信じること、つい自分のためによいことをしてくださる、あれもかなえてくださると、打ち出の小づちのごとく神様は何でもやってくださる全能の神様だから……、という。それはすぐに信じようとしますが、それだけでは神様のすべてに触れることができない。もうひとつ「またわたしを信じなさい」と。イエス様がよみがえって、今も私たちと共にいてくださる。私たちの失敗するところ、過(あやま)ったところ、時に罪を犯すような事態や事の中にあっても、「父よ、彼らをゆるし給え」と、主は執り成して、今も赦しを与えてくださる。

 イエス様を信じるとは、私が罪を赦され、ひとり子を賜うほどの限りない愛をもって主が愛してくださっているのだ、と認めることです。そうすると、神様がしてくださる良いことも悪いことも、自分の思いと違うことがあっても、「決してへまなことをなさるわけがない。神様は愛なる御方で、力ある御方が私のために最善の道を備えてくださる。私には分からないけれども、私たちは知恵がない浅はかな者でありますから、来年のことも分かりません。明日のことすらも分かりません。しかし、神様はすべてをご存じで、しかも愛なる御方であって、ひとり子を賜うほどの愛をもって私を愛してくださるゆえに、良いことを備えてくださるに違いない」と。ここで初めて神様のすべてを私たちは信じることができ、委ねていくことができるのです。愛を知らなければ、神様のご愛を知らなければ、私たちは委ねるなんてできません。へたに委ねたら何をされるか分からない。とんでもない、ひねりつぶされたら困ります。ところが、愛なる御方だからこそ、この御方に委ねることほど幸いなことはありません。主が私たちに備えてくださる道を喜んで歩むには、イエス様を信じて神様の愛に触れる以外にない。

だから、14章1節に「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」と。神様が私たちのすべての必要を備えてくださる御方、生活の隅から隅まで一切をご支配くださる主でいらっしゃる御方が、過酷な厳しい支配者、主人としてではなくて、私たちを愛の御手をもって導いてくださる御方であることを、イエス様を通して絶えず信じていきたい。その神様の大能の手、ご愛の御手に自分を任せようではありませんか。「ああでなければ嫌だ」とか「こうなりたい」「これは絶対嫌だ」とか、私どもはすぐにそのような自分の思いに縛(しば)られてしまいます。それを打ち砕いて、それを離れて、神様の御業と神様のなし給う力と神様のご愛に信頼して、そこに自分を懸けていきたい。そこに自分をささげて主に従っていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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