いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(377)「雄々しくあれ、強くあれ」

2014年11月09日 | 聖書からのメッセージ
 「詩篇」27篇1節から14節までを朗読。

 14節「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め」。

 旧約聖書を読みますと、繰り返して「主を待ち望め」と勧められておりますが、これは別の言葉で言うならば「信じ、仰ぎなさい」、「信仰」ということです。神様を信じて、神様に期待していくことに尽きます。14節に「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め」とあります。神様を信頼し、信じて、大胆に強くしっかりと立って歩みなさい、ということにほかなりません。私たちもイエス様の救いにあずかって、日々信仰に生きる者とされています。信仰に生きるとは、「わたしたちは、見えるものによらないで信仰によって生きる」(Ⅱコリント5:7)とあるように、見えるもの、いうならば、手で触り、耳で聞き、知り、納得し、自分が理解する事柄に頼って生きるのではない。信仰によって生きるとは、神様がいますことと、神様が報いてくださるとことを信じて生きるのです。この「主を待ち望め」とは、まさにそのことです。神様に期待していく。神様のなさるわざの中に私たち一人一人が生きているのだと認めていくこと。これがまず第一であります。私たちは自分の力や自分の計画、自分の思い、そういうもので生きているのではない。もっと大きな神様が一人一人を生きる者としてくださり、今日も命を与え、なすべきわざを備え、食べる物、着る物を与えて、一つ一つ備えてくださっておられることを信じていく以外にない。これが信仰によって生きることです。朝起きてから夜寝るまで、日々の生活、1年365日どんなときでも常に神様が私を生かしてくださっている。そして、神様のご計画と御思いの中で私たちの今が在(あ)るのです。

このことは自分の生涯を振り返ってみても分かります。誰一人自分の思いどおり、計画どおり寸分たがわず予定したとおりになったことはありません。子供が3、4才になったら幼稚園に入るとか、年長組が終わったら小学校に入る。そして、6年間の小学校生活を送る義務教育とか、そういう年数は決まったものでありますが、だからといって、一人一人がそのスケジュールに乗って生きているわけではありません。世間一般の折々に応じてのスケジュールといいますか、人生のステップがあります。しかし、だからといって、それを当てにしながら生きてきたわけではありません。生まれた瞬間から、私は何年後にこうなるに違いない、ああなるに違いない。幼稚園とか小学校とか、学齢期は一応日本の場合は義務教育というものがありますから、おおむねそれにのっとって行くと言えるかもしれません。しかし、個人個人を見ていくと必ずしもそれに当てはまらないケースはたくさんあります。殊に最近は不登校であるとか、様々な児童の問題が多発していますから、必ずしも決められたとおり、世間一般の人のスケジュールに沿って成長するとは限りません。時には脱落する、遠回りをする、あるいはポシャッてしまい、親は心配したり悩んだりすることはいくらでもあります。その度に「どうしてやろうか」「何でやろうか。うちの子はどうしてこうなったのだろうか」と言って、親はやきもきしたり、心配したりしますが、すべての事の原因は神様にあるのです。私たちがいつも心に留めておくべきことは、このことです。どんなことでも、神様は「事を行うエホバ事をなしてこれを成就(とぐる)」(エレミヤ33:2文語訳)とおっしゃる。すべてのことの始まりであり、それを導かれる神様がいらっしゃることを信じていく。これが、14節の「主を待ち望め」ということです。神様に期待していくこと、神様に信頼していくことが、誠に幸いな生涯であることは事実であります。なぜならば、自分であれこれ責任をもって考えなくていい。考えなくていいという言い方は語弊(ごへい)がありますが、いくら考えても仕方のないことで、そのようなことはいくらでもあります。人生には自分の力だけではどうにもならないことがあります。だから、そのようななかで神様を信じていくとき、実はゆとりをもった心で生きることができるのです。病気になっていろいろと考え、どうしたら健康になるだろうか、この病気が治るだろうかと、方法をいろいろと模索(もさく)します。しかし、いくらやっても、できることとできないことがあります。必ずしも何もかもできるとは限らない。そうすると、できないとなると、「ああこれで私の病気は治らないのか」と絶望する。

 前にもお話しましたけれども、私はバセドー病をしたときにそう思いました。担当の先生が「これは薬で治療しましょう」と言われて、「じゃ、いつ治りますか? 何年ぐらいしたら、何ヶ月ぐらいしたら治りますか?」と尋ねました。「いや、治るか治らないか分かりません」と担当の先生から言われたとき、私はショックで、「え!これは一生涯治らないのか!」と思ったのです。するとその先生が「使っている薬がだんだん減っていくに違いない。一日に1錠飲んでいれば済むのだったら、それでいいじゃないですか。その辺で治った、と思ったらどうですか」と言われた。「他人(ひと)事と思って!」と内心憤慨しました。でも、良く考えてみたら、「なるほど、これも神様のなさることか」と。それを神様からのこととして、信仰をもって受け止めることができるのは幸いです。「これは生涯付き合わなければならない」と思ったその晩、眠れませんでした。悶々(もんもん)としながら、祈っているとき、「そうなのだ。自分の力で生きているではなくて、神様が生かしていらっしゃる」と信じました。そして、この病を与えられたのは、肉体に一つのとげを与えられたパウロがそうであったように、高慢にならないように、神様の前にへりくだる者となるために与えられた恵みの賜物であると。パウロはその弱さを感謝しましたが、それに対して自分はどうであろうかと探(さぐ)られて、初めて「そうでした。これは神様、あなたが事を起こされたのです。これを癒すこともおできになるし、また死ぬまで付き合えとおっしゃるならば、そうしましょう」。そこで心を定めたのです。「主が、よし、とおっしゃるならば、どんなことでもあり得る、神様にお任(まか)せしょう」と心を決める。これが信仰に立つことです。そうすると、途端に心が軽くなるのです。今まではこうでなければ嫌だとか、ああでなければ嫌だ。こうあるべきだ、と自分で寸分たがわずゆとりのない枠の中に自分を追い込んでいる。そこには神様の入る余地がない。そういう心の状態に落ち込んでしまうと、これはもうどうにも救われません。ところが、信仰とは、自分の心をオープンにする。開いてしまうことなのです。それは誰に向かって?神様に向かって心をオープンにする。いうならば、決めないのであります。今はこうであるが、その先のことはどうなるか分からない。でも、先のことを知っている神様はちゃんとすべてのことについて備えておられるに違いないと。だから「いま分からなくても大丈夫です、神様、あなたがご存じですから」というのが信仰です。ところが、「いや、それは任せられん。神様、するのだったら『する』と、ちゃんと私の了解(りょうかい)を取ってやってくれ」と言いたくなるのが、私たちの罪であります。

 だから、私たちにはいつもその先がどうなるのか、これが分からないのです。今はこうである。これは確かです。私たちが常に立つべき所は、今というこの時間、この時しかないのです。明日とか来年とか、将来はどうなるなどは、全く想像がつきません。神様はそこからどのように展開してくださるのか、前もって知りえません。確かに私たちの願いはあります。こうなってほしいとか、ああなってほしいとか、こうでありたいという、願いはたくさんあります。もちろん、それを願ってはいけないのではありません。むしろ、神様は喜んでそれを申し述べなさいとおっしゃいますが、私たちがそれに固執するのが悪い。「こうでなければいかん、駄目だ」と決めて掛る。それは私たちが神様の領域に踏み込んでしまうことです。そうではなくて「神様、私はこうしてほしいと願っています。こうでありたいのです。神様、どうぞ、これをこのようにしていただければ幸いです」と祈り求めます。願いを申し上げなさい、と言われますから、どんなことでも神様に伝えます。ただその後です、大切なのは。伝えて、後は神様がしてくださるわざがあることを信じる。これが信仰です。「主を待ち望む」とは、このことです。

時に「先生、自分の願いは言ってはいかんのですか?」と尋ねられたことがありました。「いや、言ってはいけないわけではない。神様は『あなた方の求めるところ、願うところ、何でも言いなさい』とおっしゃる。だから、何でも言ったらいいのです。そうしたら、そのとおりになる、と約束されている」「じゃ、私の言うとおりにしてくれるのですね」と言われますが、「いや、それは神様なのだから、私たちは従うべき者であって、神様をあご先で使うように『神様、私の言うとおりにしてください』という態度は、大きな間違い」。私たちは自分の考えにしがみつく。「自分の計画を一歩も半歩も妥協できない」、「神様と話し合う余地はない」というぐらい、極めてはっきりと自分の立場を握ってしまう。そうすると、私たちの心は固くなる。動きが悪くなるのです。ぎこちなくなるといいますか、苦しくなります。だから「主を待ち望む」というのは、その心を神様に向かって開くのです。これが信仰です。つい私どもは先先を考える。だからよく「先生、心配で、こうなったらどうしようか」と言われる。「今、そういう心配な状態なのですか? 今悪いのですか」と言うと、「いや、今は良いのですが、これがいつまで続くだろうかと、心配なのです」。「今が良かったら、良いじゃないですか」、「いや、これが続いてほしいのです。続いてもらわんと困ります」と。「困るのは、あなたではなくて神様です。神様がそこに置いてくださっているのですから、今を感謝して喜んだらどうですか」。案外とそういうところがあります。神様は恵んでくださって、事もなくこうしてさわやかな秋晴れの日を与えられ、「感謝だな」と思ったのは一瞬だけ、後はまた「明日は雨になるやろうか」と心配する。「今晩は冷え込まないだろうか、私は何を着ようかしら、あれを引っ張り出さないかん」とか、そういうことを次々と考えすぎる。人は賢(かしこ)すぎるのです。「主を待ち望む」というのはそこなのです。神様に期待していく。だから、どうなるのか、こうなるのか、私には分からないけれども、神様は私たちにとって「善にして善をなし給う御方」。必ず善いことを備えてくださるに違いない。いや、違いないどころか、備えてくださいます、と信じるのです。これが信仰に立つ生き方です。だから、自分の生活の中で、こうありたい、これが良いに違いない。あるいは、私の願いはこうだ、というものが、たとえあったとしても、それを神様はどう取り扱ってくださるか。神様はどのように持ち運んでくださるだろうか。どういう展開をここからしてくださるだろうか、神様、あとはよろしくと、神様に対してそれを委ねていく。神様を信じて、その結果については神様のなさるところに従います、と思いを開け放す、解放する。そうすると、きりきりと眉間(みけん)にしわを寄せる必要がなくなる。「これもまた神様がここから何をしてくださるだろうか」。

 14節「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ」と、おのずから強くなれるのです。雄々しくなれるのです。不安があり、心配があり、思い煩うところがあると、どうしても人は弱くなります。ちょっとした物音でドキっとする。風がふーっと吹いたら、エッと飛び上がってしまう。それは自分の心にゆとりがないからです。がっちりと自分の思いが詰まりこんでいる。「ここはこうしたい」「そこは私が……」と、「ここも神様、触らんといて、ここもしないで、神様、あなたを入れる場所はどこかな、ちょっと待って、無いから」と、そんな気持ちで生活していると、だんだんぎすぎすした生活になる。ゆとりがない。私たちの心に神様が働いてくださる余地を残していくことです。何か一つのことに取り掛かると、いろいろな心配や、考えなければならないことが次々と出てきます。そのときに「考えても分からん。もう私はどうしようかしら」と言って、悩んで落ち込んでしまう。そうならないために、私たちは事を始めるときに、神様はこのことをどのように導いてくださるか、神様のなさることはどこにあるだろうか、と私たちの思いをそちらに向ける。そうすると、心に余裕ができてくる、隙間(すきま)ができてくる。「そうだ。これは今こんな状態だけれども、きっと神様はここから何かしてくださるに違いない。大丈夫です」と強くなることができる。また、雄々しく大胆に神様に信頼して、人に対しても「あなた、そう心配しなくていい。神様がちゃんとご存じですから、大丈夫ですよ」と言える。ところが、神様の思いが心から消えてしまうと、自分自身にゆとりがなくなる。そうなると、心が自分の思いに塗り固められてしまう。自分を悲劇のヒロインにしてしまう。「私は何と可哀想な自分なのだろうか」と。そして気が付かないうちに独りで泣いたりします。

イエス様がマリヤさんに「女よ、なぜ泣いているのか」(ヨハネ20:13 )と言われました。「わたしはあなたのそばにいるではないか」。墓に尋ねて来たマリヤさんが「イエス様がいらっしゃらない」と言って泣いている。「泣かなくてもいいじゃないの。わたしはここにいるのだから」とご自身を現して下さった。ところがマリヤさんの心の中には、もう一つの枠組(わくぐみ)みがあったのです。イエス様は死んだ。死んだ人がここに葬られた。その遺体がそこにあるはずだ。無いというのは、これはきっと人がどこかに移したに違いない。誰かが盗んで行ったに違いない。これは人間が考えるひとつの筋道です。そして、それが全(すべ)てだと。それ以外にあり得ない。まさか、よみがえった、ということは考えられない。それを聞いてはいたが、マリヤさんは実際知らないのです。だから、自分の考えにばかりにのめり込んでいますから、イエス様がよみがえって近づいてくださったのだけれども、墓の番人だと間違えた。そして「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい」と言ったのです。そのときイエス様は「マリヤよ」と呼びかけました。ハッと顔を見たときに、そこにイエス様が立っておられた。「ラボニ(先生)」、そのときマリヤさんは一気に喜びに変わった。マリヤさんの心が、イエス様はよみがえると聞いていながら、信じられない。神様のわざを信じきれないがゆえに悲しんだ。考えてみたら、何も泣く必要はないわけです。イエス様はよみがえられていました。墓を見た瞬間に「イエス様の遺体がない。これはきっとよみがえられたんだ。うれしい!」と言えばいいのだけれども、言えないマリヤさんです。

私たちもそうです。いろいろな現実を見て、いろいろな情報がたくさんありますから、こうなったら次はこうなるに違いない。こうなったら、こういうことになって、やがてはこうなって、「私も後何年かしら」と。私もいつもそういうことを言うものですから、家内から叱(しか)られますが、ついつい年を数えて「もうそろそろではないかな」と。新聞の訃報(ふほう)欄を見ては、すぐその年齢を見て自分にくらべる。皆さんも経験済みでしょう。自分の年齢と比べて「この人は若いな」とか「このくらいだったら、満足かな」と思って見ている。そういう自分の考えにとらわれる。

詩篇27篇の14節「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め」。神様に期待していく。これが信仰の生き方です。神様がどのように働いてくださるか、どのように道を備えてくださるか、神様に信頼していく。

イスラエルの民がエジプトから救い出されて最初に出会ったのは紅海でした。彼らが荒野の旅路を進み始めて最初のとき、海にぶち当たってしまう。さぁ、そこからどう迂回(うかい)して行こうか、そのとき、後ろからエジプトの軍勢が押し寄せて来る。引くに引けない。進むに進めない。まさに、身動きならない事態の中に置かれた。これは死ぬしかないのです、人間的に考えたら。逃げる方法はどこにもないのです。そのとき神様はモーセに「あなたの持っているつえを海に伸べなさい」と命じ、モーセがそれを海に向かって伸べたとき、何と驚くことか、人の想像を超えたこと、海が二つに分かれて乾いた道ができるのです。

これはかつてのイスラエルの民の出来事だけではなくて、今も同じです。日々の生活の中で「私はもうどうにもしようがない。行き所がない。あの人にも頼めない。こちらもふさがってしまった。八方ふさがり。もうお手上げ」と言うときにこそ、もう一つ上を見るのです。四面楚歌(そか)といいますか、全部囲(かこ)われても、私たちには天に向かっての窓は開いている。ところが、私たちはそこに気がつかない。目の前の周囲のことだけ、前後左右ばかりを見ていて、上を見ようとしない。私たちは「主を待ち望んで」、神様に向かって目を上げる。そうすると、そこから神様は不思議なわざを起こしてくださる。どんなことでもなし得給う御方です。そこに私たちが期待していく。「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め」と。

だから、私たちはどんなことがあっても失望しない。こうなったからおしまい、ということはあり得ないのです。常に神様が事の中心でありますから、全てのことを導かれます。「だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自(みずか)らを低くしなさい」(Ⅰペテロ 5:6)と言われます。いつも私たちは神様の御手の下に自らを低くして、神様、ここからどうしてくださいますかと、神様のなさるわざを期待して行きたい。神様がどのように私たち一人一人を導いてくださるか、この道筋は分かりません。しかし、神様はそのことを必ずなしてくださるに違いない。

私の兄とは一つ違いでした。高校生ぐらいだったと思いますが、まだそのころ会堂の下が牧師館でした。その時代に、亡くなられた四国の徳島の岩井恭三(きょうぞう)先生、今いらっしゃる岩井従男(きくお)先生のお父さんですが、恭三先生が時々来て泊ってくださいました。日曜日の伝道集会をしてくださったことがありました。夜の集会が終わってくつろいでお茶を飲むとき、私の父が岩井先生にこぼしているのです。「先生のところの教育は見事ですね。お子さん方、恭三先生のところは5人か6人お子さんがいらっしゃるのですけれども、3人の方が牧師先生です。そして、娘さんが牧師夫人です。もう一人だけ社会人になられましたが、それぞれ立派になられました。先生のところの教育はどうして、そんな風になって……、殊に献身に導かれて……、うちの子供たちときたら、どこへ向いているやら、どこへ行こうとしているやら、神様のこともそっぽを向いてしまって、どうしたものでしょうかね」と父が聞いたそうです。すると、岩井先生が「榎本先生!これは楽しみですね、これから!」と言う。「いや、楽しみどころか、心配です」と言った。すると「いや、いや、心配なさることはいりませんよ。神様は釣りの名人で一人一人一本釣りをなさいますから……」と、それを聞いたときに私は「おれは釣られるものか」と思いました。「逃げてやれ」と思ったのですが、岩井先生は立派な信仰をお持ちの方でした。それを聞いて父は大変励(はげ)まされたのです。それまで自分の育て方が間違っておったのか、親としてどこか足らなかったのだろうか、子供たちの現状を見ると、どこへ飛んで行こうとしているのやら、訳が分からん。もうこうなったら自分は牧師だけれども、皆さんに神様のことを話しているのだが、足元がこんなのでは、心もとないと思ったのでしょう。ところが、岩井先生から「いや、神様がわざをなさる。これから高みの見物ですよ、榎本先生!」と言われて、「そうなのだ。神様がやってくださる」「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。神様に期待して行けばいいじゃないですか」と言われて、それから父は肩の荷が外(はず)れて、後は祈ってさえおれば神様がちゃんとやってくださる。結果的に今は取りあえず私もこうして神様が憐れんでここまでこのように引き上げてくださいました。一本釣りもいいところですよ。釣られまして、今は兄も弟もそれぞれの所で信仰に励んでいます。まさか、このような結果になるとは……、もっと早くに分かっていたら、父も喜びつつ天に帰ったかもしれませんが。

私たちの信じる神様は、そういう御方でありまして、しかも、その御方によって私も、皆さん一人一人もいま在らしめられているわけでしょう。そして、私の明日も、皆さんの明日も、神様が創(つく)りだしてくださいます。だから、「主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め」。

「わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。8それで、わたしたちは心強い」(Ⅱコリント5:7~)と、パウロは語りましたけれども、私たちもどんな状態、事柄の中に置かれても、それで終わりではない。私の父はよくそう言いまして、皆さんもよくご存じで「死ぬまでは結論が出ない。また途中だ」と。本当にそうです。私どもは途中なんですが、「もう、これでおしまいや」と決めて掛ります。そうではない。これからもっと先があるのです。だから、大いに主に期待して、神様に望みを置いて、主を待ち望む信仰、主に期待していく信仰をしっかりと持って行きたいと思います。そのためにいつも神様に心を開いて、「神様、いま私はこういう状態です。こういう心配、こういう思い煩いがあります。どうぞ、これを取り除いてください」。そこまでです。後、それをどうなさるか、「神様、あなたは全てをご存じですからお任せします」と。「大丈夫、神様は知っていらっしゃるのだから」と、そこで力を抜いてご覧なさい。本当に気持ちが楽になります。そして、今、今を喜び、楽しみ、感謝し、輝いて行こうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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