イザヤ書41章8節から16節までを朗読。
この10節に、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」とあります。
これは、年頭に与えられた御言葉の一つであります。神様が、私たちと共にいてくださる。そして私の神となってくださった。この素晴しいメッセージを受けて、今年も始まりましたが、はや七ヶ月が終わり、1年があっという間に過ぎて行く。これは歳を取る毎に、1年が短くなるという法則があるようです。生まれて1才の人の一年は1分の1で、実質的な
1年。歳を取る毎に1年の長さが年齢分の1になるのです。だから短くなるわけですね。私は62分の1です。ここにいらっしゃる方に80分の1の方もいます。ますます短くなって最後は100分の1くらいになって、あっという間に天国に近づくのです。
1年が年齢分の1というのは当たっているかどうか分かりません。それ以外に、生きている命が、年毎に濃くなっていくように思われます。濃密になるのです。と言うのは、歳を取ってくると、自分の弱さを感じますから、やはり一日一日を意識して生きるようになります。近頃、自分でもそのように感じます。「今日も一日生きてきたな」とか、「生かされているな」、「この1ヶ月も本当に主の恵みに過ぎてきたな」という喜び、感謝が必ずあります。皆さんも恐らくそうでしょう。若い時には、そんな風にはあまり感じません。一日、一日がそれほど大切には思わない。あまり有り難さを感じません。年配の方は、より一層、一日が貴重であると深く感じるのです。
朝起きて、「今日も元気だろうか」と、手足をちょっと動かしてみて、「痛い所もない、動いている。頭も、今日は何日かな?ボケていない」とそうやって、全身を一応チェックする。機能が正常に働いている。そして「今日も生きているな」と思って、寝床から出ます。夜寝る時も、「今日も一日過ごしてきた。あの事もこの事も、今日でお終いかもしれない」と思いつつ事に当たっていますから、どんなことでも真剣勝負になります。歳を取ると疲れるのは、肉体の疲ればかりでなくて、力強く一生懸命に生きているから、夜寝ようと思って寝床に入ると、フッと一日のいろんな事柄が心に浮かんでくるのです。気掛かりなことがあると眠れなくなる。それだけ真剣に生きている証詞です。ところが、残念ながら、眠る時間が短いのです。朝の4時頃になると目が覚めて、若い家族から、「お母さん、そんな朝早くから起きないでよ、邪魔になるから」と言われる。だから朝4時になって目が覚めるけれども、若い者を起こしちゃいけないと思うから、2時間くらい布団の中で我慢している。堪らなくなって起きだす。もう残り少ないから、急がなければならないことが沢山有る。若いときは、昼過ぎまででも寝ています。私達はそんなに寝られない。せいぜい寝ても、7時か8時には目が覚めます。もっとも、昼寝もしているのですが、それはやはり疲れるのです。全力疾走していますから。
今年もそうやって、気が付いてみたらもう7月の終わりです。振り返ってみるといろんなことがありました。私自身もそうですが、皆さんのお顔を見ていても、病気があり、入退院があり、いろんな家族の問題があり、こんなに多忙な年になるとは思わなかった程に、半年過ぎた今、振り返ってみるといろんなことがありました。そこで、もう一度年頭に与えられた御言葉に立ち返ってみたいと思うのです。ここに「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」と言われる。神様は「恐れてはならない、心配するな、おののくな、わたしがあなたと共にいるではないか」と言われます。また、「わたしはあなたの神である」と宣言しているのです。天地万物の創造者であり、全てのものを力ある御手をもって導いておられる神様が、「私はあなたの神だよ」と仰るのです。そう言われると、私どもは嬉しくなります。「そうか、神様は私と共にいてくださる。私の神となってくださった。これで大丈夫」と思って、励まされて、現実の自分の生活に戻ってみると、何だか違う感じがする。神様がいると言うけれども、出会う事柄、受ける事は、辛くて、悲しいことばかりです。神様は共にいるというけれども、「口先ばかりの神様だな」と思う。それは、私たちの理解が違うからです。お互いの思惑がずれているのです。人と人の間でも、親子の間でもそうですが、言葉の行き違いというのがあります。そうしてくれるだろうと思ったら、案外そうじゃなかった。相手もこっちがするだろうと思っていた。お互い「あなたがしてくれると言ったじゃない」、「いや、話の流れでは、あれは、お母さんが僕のためにこうしてくれると思った」、「そんなはずはない」と、お互いの思いが違ってしまう。
私たちと神様の間も、そういう事が多いのです。10節に「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」と。この部分だけを取り上げると、「神様は私の味方となって、私の傍にいて、私のために何でもやってくれる。私の神様となって、呼べばいつでも応えてくださる、打ち出の小槌のような方と思ってしまうのですが、そうじゃないのです。その直ぐ前のところ8節から「しかし、わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ、9 わたしは地の果から、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して、あなたに言った、『あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった』と」。ここに「イスラエル、ヤコブ、アブラハムの子孫よ」と言われています。旧約聖書の時代、イスラエルの人々は神の選びの民、アブラハムの子孫と呼ばれていました。モーセに率いられたイスラエルの民、ダビデ王様によって治められた民族をあらわすものです。しかし、また同時に、「イスラエルよ、アブラハムの子孫」というのは、実は私たちの事であります。私たち一人一人が、イエス様の十字架の贖いに与って、神様の子供とされた者たちです。神の民、イスラエルというのはそういう意味です。私たちは今神様の民とされている。でも、肉にあっては違います。いわゆる民俗学的な、医学的な、身体的な血の繋がりからいうならば、私達はれっきとした大和民族、日本民族です。確かにそういう意味では、イスラエル民族ではありません。
しかし、今は信仰によって、主イエス・キリスト、神の御子イエス様が、私たちのために世に来てくださって、罪を赦して贖ってくださった。だから、私たちは神様から買い取られ、神様のものとなっているのです。ここが、根本的に自分の思いを切り替えなければならない。もう私は私じゃなくて、神様が私を買い取って、所有物といいますか、神様に仕える者としてくださった。ですから、9節に「あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった」と。実は、神様が私たちを選んでくださったのです。しかし、私たちは神様に選ばれて、神の子となって、神様からちやほやされるのかと言うとそうではなく、神様のしもべにするために選んだのです。神様が私を幸せにするために救ってくださったと思うならば、その思惑が違う。私たちを御自分のしもべとして、神様を主人として、仕える者にしようとして、選んでくださった。一方、私たちは、神様に何とかして幸せにしてもらいたい。悩み事を解決し、いろんな事を上手く面倒を見てもらいたい。言い換えると、神様を私のしもべと言いたい。極端に言うと、そういう思いが常にある。それは完全に神様の思いと行き違っています。
9節に「わたしは地の果から、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して」とあります。確かに日本で売られている世界地図を見ると、日本が真ん中に書かれていますが、アメリカの地図を見ると日本は東側の隅っこにあります。それを見て「地の果」「地のすみずみ」とは「アメリカの地図を見て言っているのかな」と思うのですが、日本の地図だったら地の果じゃなくて、世界のど真ん中に赤く印がしてあります。しかし、そのような地理的な位置を言っているのではありません。名もない、目にも止まらない、どこに有るか無いか分からないような小さな者たちという意味です。大きなものとか有名なものとかは、直ぐに目に止まる。都市高速道路の車から見ていると、背の高い立派な建物は直ぐ目にとまります。ところが、何十年も経った長屋のような所は下の方ですから見えません。だから高速道路から眺めると立派なビルばっかり、一旦そこを下りてみると何のことはない小さな家が沢山密集している。そこは無名の場所であり、また、人が注目もしない目にも止めない存在、それが「地の果」「地のすみずみ」なのです。
私たちも、この社会でどれ程注目される人間でしょうか。存在価値がないといいますか、死んでも新聞にも出ません。存在している価値、値打ちがない者です。しかし、神様が私たちに目を止めてくださる。だから9節に「地の果」「地のすみずみ」から、何にも取柄のない、何一つ注目されるべきもののない私たち、無くて当然の者、「コリント人への第一の手紙」1章にそう記されています。愚かな者、この世で疎(うと)んじられている者、無きに等しい者をあえて選んだ。そして神様が私たちを招いて、イエス様の救いに導きいれてくださったのです。それには神様の大きな目的があったのです。私たちを御自分のしもべにすることでした。ちょっとがっかりなさった方もいるかもしれません。ところが、神様のしもべというのは、そもそも人が創られた時から、実はそれが人の本来の姿だったのです。創世記に人が神様によって創られた記事があります。神様は愛するものとして人を創ってくださった。神様のしもべとして創ってくださった。だから神様は、人をエデンの園に置いて、仕事を与え、神様に従う者、仕えていく者としたのです。だから神様と主従の関係にあって共に生きるのが、人の原点、本来あるべき姿だったのです。ところが罪を犯して、神様を離れ、この世に命を受けたのです。生まれたとき直ぐに「ハレルヤ、神様!」と言って生まれてきた方はいません。「おぎゃー」という泣き声だけです。生まれたとき讃美歌を歌っていたという人もいません。しかし、エペソ人への手紙に「やがて時を定めて」とあります。「愛のうちにあらかじめ定めて」私たちを神の民、神のものとしてくださった。今日、私たちは、神様に仕える者、しもべとして召された者であることを確認しておきたいと思います。ですから、この地上の残された生涯は、神様のために生きる生涯、神様のしもべとなって、神様に仕えていく生涯です。それでは、「私はこれから神様に仕えるのだから、家の煩わしい炊事や買い物や家族の世話なんか止めます」と言って、部屋の中に閉じこもるのが仕える事ではありません。神様に仕える所は、私たちが遣わされ、置かれている生活の中です。そこで、神様に仕える者となるのです。私たちは、もはや自分のために生きているのではありません。
現実の生活の中で神様に仕えていくとはどうすることだろうかと、悩んでしまう。実は、毎日の全ての業を「お前はこれをしなさい」と与えられている。「なんだろか」と思われるでしょう。それは家族の為に買い物に行く事です。お掃除、洗濯をする事でしょう。或いは、世に出ていろんな仕事に遣わされるかもしれません。会社勤めをする人もいるでしょう。しかし、それらは家族のためではなく、また会社に勤めるのではなく、主に仕えるためにそこに遣わされているのです。これが私たちの生き方です。神様は私たちに「お前はこのことをしなさい、お前はこの中で私に仕えなさい」と、なすべきことをいつも備えているのです。
この半年ちょっとの間、7ヶ月の間も思い掛けない、考えもしない、予定もしなかった事や事態の中におかれます。突然病気になって入院する、手術を受ける。誰も前もって予定していた人はいません。去年から、来年の夏ごろは入院すると決めていた人はいません。神様が私たちに与えられるのです。なぜなら、私たちは神様のしもべですから、与えられた問題や事柄の中で、神様が仰ることに従って、神様の力を体験し、証言する者となるためです。神様を現すといいますか、神様がいらっしゃること、神様の力と知恵と恵みの豊かさを感謝してほめたたえ、喜び歌う者となる様に、遣わされているのです。7ヶ月の旅路を振り返って、あの嫌な事が無かったら幸いだった、今年もハッピーだったのに、あんなことがあったから最悪だと思うかも知れません。しかし、実はそこで神様に仕える者となるように備えられたことなのです。今直面している問題や事柄、或いは「どうしても、この事は受け入れられない。こんな嫌な事から、はやく逃げ出したい」と思う生活。しかし、そこで「そうだ、私を神様はしもべとしてここに遣わしてくださったのだ」と認めるのです。時には、恐れがあります。「そんなこと私にできない、そんな辛い事を私は我慢できない、耐えられない」と思うことがあります。しかし、だからこそ「恐れてはならない」と神様は仰るのです。何故ならば「わたしはあなたと共にいる」からと。共におるというのは、私たちの司令官といいますか、私たちの全ての主となってくださるからです。だから神様が私を導く方として、私に力を与え、知恵を与え、業を全うさせるために、共に居て下さる。主が私と共にいらっしゃるから、「私のいう事を何でも聞いてくださる」といのではなく、逆に、主が共にいてくださるから、神様に仕え、従うのです。問題や事柄の中で主を呼び求めて、神様の御言葉によって魂を整えられ、知恵を与えられつつ歩むのです。
私にはできない、或いはこれは無理だと、「こんなことはしたくない、いや、もっと他にするべきことがある」と思う。しかし、「あなたはここで私に従いなさい。私に仕えなさい」と置いてくださった場所なのです。どうぞ皆さん、今与えられた自分の境遇、事柄、問題、そこから目を逸らさないで、そこから逃げようと思わないで、むしろ積極的に主が私と共にいて、この問題の中に、事柄の中で、主に仕える者として選んでくださったのだと信じて生きるのです。そして、神様に力を与えられ、恐れと不安の中で、神様を呼び求めて、具体的に神様の力を体験しようではありませんか。これがしもべとして主に仕える生き方です。人に頼らない、或いは人の言葉に動かされない、そして絶えず神様の思いを求めていく。主が「良し」と言われることに徹底して従うのです。
士師記6章11節から16節までを朗読。
これはご存知のように、ギデオンの記事であります。「ミデアン人を避けて」とありますが、この当時ミデアン人が収穫時を狙って、イスラエルの国々を度々襲って、穀物を全部奪ってしまうのです。ところがイスラエルの人々はそれを防ぐ力がありません。だから、この年もひょっとしたらミデアン人が、収穫物を盗りに来るに違いないと、彼は隠れて酒ぶねの中でひっそりと麦を打っていました。収穫をして麦を打つ音が聞えたら、彼らが襲ってくるからです。そこへ神様の使いがやってきて、「大勇士よ」と言ったのです。「主はあなたと共におられます」。ギデオンはびっくりしました。「大勇士よ」だなんて、どうして自分が大勇士だろうかと。気が小さくなって、ショボンとなって隠れているわけです。そこへ「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。それを聞いてギデオンはカチンときた。「あなたはそんなことを言うけれども、主よ、あなたが私たちと共にいてくださるなら、どうしてこんな酷い目に遭うのですか」と言った。私たちが言いそうなことです。「神様、あなたは私と共におられると約束したじゃないですか。現実を見て御覧なさい、こんな悩みがあり、こんな苦しい事があり、こんな辛い事、どうなってるのですか!」と。ギデオンがそう言ったのです。「あなたは先祖たちをエジプトの地から救い出して、荒野の旅路で奇しき不思議を行って、恵んでくださったと聞いてきた。しかし、その不思議な力は、今どこにありますか。たかだかミデアン人が攻めてきても、あなたは何にもしてくれないじゃないですか。それでいてわたしはあなたと共にいる。うそだ!」とギデオンは思ったのです。
そのとき、14節に「主はふり向いて彼に言われた、『あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか』」。ここで、主は「そう言わないで、あなたの力をもって行きなさい」と。あなたの力と言われて、ギデオンは自分に力がない事を知っていました。弱い者であり、こんな力でどうする。ところが神様は、それでいいのだと言うのです。「お前のその力で、出て行きなさい」。しもべは言われたとおりにするのであって、自分に力があるとか、それができるからするのではない。ここで神様は、ギデオンにしもべとなる事を求められました。出て行きなさい、あなたが持っているその力でいいから、と。「いや、私は力がありません」「いや、無かろうけれども、少しはあるだろう。それでいい」というのです。
私どもも、ともするとそういうことを考えますね。問題や悩みに遭い、「私では手に負えない、これは大変な事になった。こんな事もう耐えられない。こんな辛い事、こんな悲しい事、こんな苦しい事は私にはできない!」と最初は思います。でも、神様は「それでいい、力がなければ、ないでいいじゃないか。さぁ、私があなたを遣わすのだから」と言われます。実は、今すでに、この地上の生活の場所へ、神様が私たちを遣わしてくださっている。「今受けているこの悩み、問題の中でどうもこれはできない。どうなるか分からないじゃないか。神様、何とかしてください」と、悲鳴を上げているかもしれません。しかし、もう一度自分が、何のために選ばれ召されたのか、神様を信じる者とされたのは、何のためであるかを考えてください。私が崇められるため、私が幸せになるためではない。神様が喜ばれる事、神様がほめたたえられる事が目的です。そう言われると、私たちは不幸のどん底に置かれ、神様だけがいいところばかりをとってしまおうとするのかと思いますが、そうではありません。と言うのは、自分が幸せになろうと思うときの幸せというのは、案外不幸の塊なのです。自分が幸せと思える、思い描いている事は、まるでシャボン玉の様なものです。直ぐにつぶれてしまいます。神様に仕えることが、実は私たちにとって最高に幸せな生き方なのです。
神様は「わたしがあなたをつかわすのではありませんか」と言われましたが、ギデオンは15節以下に「私は力がありません。12部族の中でも一番小さな部族、マナセの部族の中でも、最も小さい一族の出身」、言うならば、有力な派閥の一員じゃなかったのです。何か大きなグループの一員だったら、それは仲間からいろいろ援助が受けられるでしょう。イスラエルには12の部族があります。非常に有力な部族もあるし、小さなマナセの様な部族もいる。あのサウル王様もベニヤミン族という小さな部族の出身だったから、王様として国を治めるためには四苦八苦したのです。だから、民の意見ばかり聞いたために、神様から退けられたでしょう。私どもは、つい人の力を頼むのです。自分にはこういう家柄がある、私にはこういう仲間がついている、人脈がある、だから大丈夫と。自分には力がないけれども、あの人この人に頼み、人を動かしてやっていけばいけると思う。私たちが神様から離れていく姿です。
ギデオンも、15節に語っているように「私にもそういう仲間が沢山いて力があるんだったら、神様が言われるとおり行きますよ。でも、私には無いのだから行きたくても行けませんよ」と言っているのです。ところが16節に「主は言われた、『しかし、わたしがあなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう』」。「私があなたと共にいるのだから、私が主人だから、私が司令官なんだから、私に従ってきなさい」と言っている。あなたが戦うのではない、あなたは行けば、ミデアン人が何百、何千、何万と押しかけてきても、それをたった一人の相手であるかごとくに打ち破る事ができると仰います。一対一での戦いのようなものだ。「あなたは一人であって向こうは大勢であるというけれども、そうじゃない、私があなたと共にいるから、あなたは一対一で相手と戦うようなものだから、心配するな」と言われるのです。そうやって、ギデオンは神様から勧められて、騙されたような気もしたでしょうが、取り敢えず戦いに行こうと思いました。しかし、彼は念には念を入れて、神様に確かめました。羊の毛を持ってきて、「神様、お尋ねしますけれど、これはあなたの御心かどうかを明らかにして欲しい。朝、露が降りるときにこの羊の毛以外の所に露が降りるようにしてください」と祈ったのです。そしたら、朝起きてみると、一面朝露で濡れているのですが、その羊の毛だけは濡れていなかった。彼は念を入れてもう一度、「神様、ご迷惑でしょうけれども、今度は逆に、この羊の毛だけに朝の露が降りて、他は乾いた状態にしてください」と。神様はそのようにしてくださいました。それを見た時、ギデオンは、これは確かだと信仰が与えられたのです。
そして彼が戦いに行く志願者はいないかと呼び集めましたら、3万人近く集まったのです。彼はこれで大分自信ができました。しかし、神様は、3万人は多すぎると言った。相手は大勢でやって来ますが、「減らせ」と仰る。だから彼は、せっかく来たけれども、家が恋しいとか、命が惜しい人を帰らせたところ、1万人になっちゃった。恐らく、ギデオンは心細かったと思います。そしたら神様は「まだ多い」と言われる。で、どうするか。神様はその1万人を水辺に連れて行きなさい、そして、水の飲み方で選べと言われたのです。とうとう最後は300人になりました。「神様、これだけですがいいでしょうか」と、自信をなくしたときに、神様は「それでよろしい」と。そして、ミデアン人との戦いに出て行きました。彼らは、手に空つぼとたいまつを持って夜襲をかけたのです。ミデアン人が野営をしている敵陣に向かって、300人を3つの組に分けて四方八方から、つぼを叩き割って、そしてたいまつを天に投げ上げて、大声で歓声を上げた。そしたらミデアン人はびっくりして、大軍が来たと思って、一斉に逃げ出してしまった。何と神様が伏兵をもうけて、彼らに恐れを生じさせたのです。驚くべき業を起こして、勝利を与えてくださいました。その事をとおして、神様がイスラエルの民を愛してくださっていることを知り、神様の業を体験したのです。実は、神様は、このギデオンとして私たち一人一人を遣わしているのです。
イザヤ書41章10節に「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」。「わたしはあなたの神である」と仰います。私たちはその神様に仕えるべき者であるということです。このことを徹底していきたい。心へりくだって、「ここで主に仕えていくのだ。私は今この問題やこの悩みに当たっているけれども、悲しい事になっているけれども、ここで主に仕えていこう」と、心を定めることが大切です。いつも二つのものに、どうしようか、どうしようかと迷っているから、いつまでも事態が収まらない。しかし、そこで「ああ、そうです。神様、あなたに仕える者ですから、しもべですから、煮て食うなり焼いて食うなり、どうぞご自由にしてください」と心を神様に定めるのです。
詩篇18篇25,26節を朗読。
私たちがどういう態度を取るかによって、神様はそれに対して自由に態度を変えなさる。神様を神様として「はい、私はあなたに従います」と、心を定めたら、神様もきちっとそれに対応してくださいます。ところが、私たちが「ああしようか、どうしようか」と揺れている間は、神様も離れて見ています。ここにあるように「欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり」、「いつくしみある者には、いつくしみある者となり」と。だから先ず、私どもが心を定めることが大切です。「神様、あなたは私の主です。私はあなたにより頼みます」と、ピシッと一線を引いていくとき、そのように神様は働いてくださいます。「あなたは私の主です」と告白して、それに心を定めていけば、神様が、本当に主となって、責任をもって応えてくださいます。これが私たちの信仰です。ですから30節にありますが「この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です」と。神様のなさる道筋は完全であり、約束の言葉は真実です。私たちは、神様のしもべとなり切ってしまうのです。私がどうしようとか、こうしようとか、つい自分の立場や、自分の面子や、自分の利益や、自分の何かを求めるから、揺れるのです。神様にしようか、どっちにしようかと。ところが「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」と言われる方が、私たちの盾となり、避け所となってくださいます。神様が責任者となってくださいます。この方に仕えていこうではありませんか。
もう一度イザヤ書41章10節に「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」。何と大きな約束ではないでしょうか。あなたを強くしてくださる。私たちが弱いことを神様は知っているのです。だから、必要な力を与えて、「あなたのその力を持って行きなさい」と言われました。「私には力がない、ほんの僅かです」「それでいいから行きなさい」。行きさえすれば、神様のほうが欠けたところを補って、力を与えてくださいます。そして勝利を与えてくださる。しかもその方が、私たちを強くしてくださいます。パウロは、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」と「ピリピ人への手紙」4章で語っています。最初は、「私は無理です」と言います。いろんな方に「すみません、これをちょっとやってください」と依頼すると、「私はできません。そんな知恵もありません、力もありません、健康もありません、何もありません」と言われる。考えてみると、自分の都合の良いことは直ぐにします。神様の都合を聞かない。神様が私たちの足らないところに力を与えてくださいます。10節に「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」。神様の力ある手をもって、私たちを握って、持ち運んでくださるのですから、この方を信頼して、遣わされ、置かれた所で、真剣に主のしもべとなることに徹していきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
この10節に、「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」とあります。
これは、年頭に与えられた御言葉の一つであります。神様が、私たちと共にいてくださる。そして私の神となってくださった。この素晴しいメッセージを受けて、今年も始まりましたが、はや七ヶ月が終わり、1年があっという間に過ぎて行く。これは歳を取る毎に、1年が短くなるという法則があるようです。生まれて1才の人の一年は1分の1で、実質的な
1年。歳を取る毎に1年の長さが年齢分の1になるのです。だから短くなるわけですね。私は62分の1です。ここにいらっしゃる方に80分の1の方もいます。ますます短くなって最後は100分の1くらいになって、あっという間に天国に近づくのです。
1年が年齢分の1というのは当たっているかどうか分かりません。それ以外に、生きている命が、年毎に濃くなっていくように思われます。濃密になるのです。と言うのは、歳を取ってくると、自分の弱さを感じますから、やはり一日一日を意識して生きるようになります。近頃、自分でもそのように感じます。「今日も一日生きてきたな」とか、「生かされているな」、「この1ヶ月も本当に主の恵みに過ぎてきたな」という喜び、感謝が必ずあります。皆さんも恐らくそうでしょう。若い時には、そんな風にはあまり感じません。一日、一日がそれほど大切には思わない。あまり有り難さを感じません。年配の方は、より一層、一日が貴重であると深く感じるのです。
朝起きて、「今日も元気だろうか」と、手足をちょっと動かしてみて、「痛い所もない、動いている。頭も、今日は何日かな?ボケていない」とそうやって、全身を一応チェックする。機能が正常に働いている。そして「今日も生きているな」と思って、寝床から出ます。夜寝る時も、「今日も一日過ごしてきた。あの事もこの事も、今日でお終いかもしれない」と思いつつ事に当たっていますから、どんなことでも真剣勝負になります。歳を取ると疲れるのは、肉体の疲ればかりでなくて、力強く一生懸命に生きているから、夜寝ようと思って寝床に入ると、フッと一日のいろんな事柄が心に浮かんでくるのです。気掛かりなことがあると眠れなくなる。それだけ真剣に生きている証詞です。ところが、残念ながら、眠る時間が短いのです。朝の4時頃になると目が覚めて、若い家族から、「お母さん、そんな朝早くから起きないでよ、邪魔になるから」と言われる。だから朝4時になって目が覚めるけれども、若い者を起こしちゃいけないと思うから、2時間くらい布団の中で我慢している。堪らなくなって起きだす。もう残り少ないから、急がなければならないことが沢山有る。若いときは、昼過ぎまででも寝ています。私達はそんなに寝られない。せいぜい寝ても、7時か8時には目が覚めます。もっとも、昼寝もしているのですが、それはやはり疲れるのです。全力疾走していますから。
今年もそうやって、気が付いてみたらもう7月の終わりです。振り返ってみるといろんなことがありました。私自身もそうですが、皆さんのお顔を見ていても、病気があり、入退院があり、いろんな家族の問題があり、こんなに多忙な年になるとは思わなかった程に、半年過ぎた今、振り返ってみるといろんなことがありました。そこで、もう一度年頭に与えられた御言葉に立ち返ってみたいと思うのです。ここに「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」と言われる。神様は「恐れてはならない、心配するな、おののくな、わたしがあなたと共にいるではないか」と言われます。また、「わたしはあなたの神である」と宣言しているのです。天地万物の創造者であり、全てのものを力ある御手をもって導いておられる神様が、「私はあなたの神だよ」と仰るのです。そう言われると、私どもは嬉しくなります。「そうか、神様は私と共にいてくださる。私の神となってくださった。これで大丈夫」と思って、励まされて、現実の自分の生活に戻ってみると、何だか違う感じがする。神様がいると言うけれども、出会う事柄、受ける事は、辛くて、悲しいことばかりです。神様は共にいるというけれども、「口先ばかりの神様だな」と思う。それは、私たちの理解が違うからです。お互いの思惑がずれているのです。人と人の間でも、親子の間でもそうですが、言葉の行き違いというのがあります。そうしてくれるだろうと思ったら、案外そうじゃなかった。相手もこっちがするだろうと思っていた。お互い「あなたがしてくれると言ったじゃない」、「いや、話の流れでは、あれは、お母さんが僕のためにこうしてくれると思った」、「そんなはずはない」と、お互いの思いが違ってしまう。
私たちと神様の間も、そういう事が多いのです。10節に「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」と。この部分だけを取り上げると、「神様は私の味方となって、私の傍にいて、私のために何でもやってくれる。私の神様となって、呼べばいつでも応えてくださる、打ち出の小槌のような方と思ってしまうのですが、そうじゃないのです。その直ぐ前のところ8節から「しかし、わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ、9 わたしは地の果から、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して、あなたに言った、『あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった』と」。ここに「イスラエル、ヤコブ、アブラハムの子孫よ」と言われています。旧約聖書の時代、イスラエルの人々は神の選びの民、アブラハムの子孫と呼ばれていました。モーセに率いられたイスラエルの民、ダビデ王様によって治められた民族をあらわすものです。しかし、また同時に、「イスラエルよ、アブラハムの子孫」というのは、実は私たちの事であります。私たち一人一人が、イエス様の十字架の贖いに与って、神様の子供とされた者たちです。神の民、イスラエルというのはそういう意味です。私たちは今神様の民とされている。でも、肉にあっては違います。いわゆる民俗学的な、医学的な、身体的な血の繋がりからいうならば、私達はれっきとした大和民族、日本民族です。確かにそういう意味では、イスラエル民族ではありません。
しかし、今は信仰によって、主イエス・キリスト、神の御子イエス様が、私たちのために世に来てくださって、罪を赦して贖ってくださった。だから、私たちは神様から買い取られ、神様のものとなっているのです。ここが、根本的に自分の思いを切り替えなければならない。もう私は私じゃなくて、神様が私を買い取って、所有物といいますか、神様に仕える者としてくださった。ですから、9節に「あなたは、わたしのしもべ、わたしは、あなたを選んで捨てなかった」と。実は、神様が私たちを選んでくださったのです。しかし、私たちは神様に選ばれて、神の子となって、神様からちやほやされるのかと言うとそうではなく、神様のしもべにするために選んだのです。神様が私を幸せにするために救ってくださったと思うならば、その思惑が違う。私たちを御自分のしもべとして、神様を主人として、仕える者にしようとして、選んでくださった。一方、私たちは、神様に何とかして幸せにしてもらいたい。悩み事を解決し、いろんな事を上手く面倒を見てもらいたい。言い換えると、神様を私のしもべと言いたい。極端に言うと、そういう思いが常にある。それは完全に神様の思いと行き違っています。
9節に「わたしは地の果から、あなたを連れてき、地のすみずみから、あなたを召して」とあります。確かに日本で売られている世界地図を見ると、日本が真ん中に書かれていますが、アメリカの地図を見ると日本は東側の隅っこにあります。それを見て「地の果」「地のすみずみ」とは「アメリカの地図を見て言っているのかな」と思うのですが、日本の地図だったら地の果じゃなくて、世界のど真ん中に赤く印がしてあります。しかし、そのような地理的な位置を言っているのではありません。名もない、目にも止まらない、どこに有るか無いか分からないような小さな者たちという意味です。大きなものとか有名なものとかは、直ぐに目に止まる。都市高速道路の車から見ていると、背の高い立派な建物は直ぐ目にとまります。ところが、何十年も経った長屋のような所は下の方ですから見えません。だから高速道路から眺めると立派なビルばっかり、一旦そこを下りてみると何のことはない小さな家が沢山密集している。そこは無名の場所であり、また、人が注目もしない目にも止めない存在、それが「地の果」「地のすみずみ」なのです。
私たちも、この社会でどれ程注目される人間でしょうか。存在価値がないといいますか、死んでも新聞にも出ません。存在している価値、値打ちがない者です。しかし、神様が私たちに目を止めてくださる。だから9節に「地の果」「地のすみずみ」から、何にも取柄のない、何一つ注目されるべきもののない私たち、無くて当然の者、「コリント人への第一の手紙」1章にそう記されています。愚かな者、この世で疎(うと)んじられている者、無きに等しい者をあえて選んだ。そして神様が私たちを招いて、イエス様の救いに導きいれてくださったのです。それには神様の大きな目的があったのです。私たちを御自分のしもべにすることでした。ちょっとがっかりなさった方もいるかもしれません。ところが、神様のしもべというのは、そもそも人が創られた時から、実はそれが人の本来の姿だったのです。創世記に人が神様によって創られた記事があります。神様は愛するものとして人を創ってくださった。神様のしもべとして創ってくださった。だから神様は、人をエデンの園に置いて、仕事を与え、神様に従う者、仕えていく者としたのです。だから神様と主従の関係にあって共に生きるのが、人の原点、本来あるべき姿だったのです。ところが罪を犯して、神様を離れ、この世に命を受けたのです。生まれたとき直ぐに「ハレルヤ、神様!」と言って生まれてきた方はいません。「おぎゃー」という泣き声だけです。生まれたとき讃美歌を歌っていたという人もいません。しかし、エペソ人への手紙に「やがて時を定めて」とあります。「愛のうちにあらかじめ定めて」私たちを神の民、神のものとしてくださった。今日、私たちは、神様に仕える者、しもべとして召された者であることを確認しておきたいと思います。ですから、この地上の残された生涯は、神様のために生きる生涯、神様のしもべとなって、神様に仕えていく生涯です。それでは、「私はこれから神様に仕えるのだから、家の煩わしい炊事や買い物や家族の世話なんか止めます」と言って、部屋の中に閉じこもるのが仕える事ではありません。神様に仕える所は、私たちが遣わされ、置かれている生活の中です。そこで、神様に仕える者となるのです。私たちは、もはや自分のために生きているのではありません。
現実の生活の中で神様に仕えていくとはどうすることだろうかと、悩んでしまう。実は、毎日の全ての業を「お前はこれをしなさい」と与えられている。「なんだろか」と思われるでしょう。それは家族の為に買い物に行く事です。お掃除、洗濯をする事でしょう。或いは、世に出ていろんな仕事に遣わされるかもしれません。会社勤めをする人もいるでしょう。しかし、それらは家族のためではなく、また会社に勤めるのではなく、主に仕えるためにそこに遣わされているのです。これが私たちの生き方です。神様は私たちに「お前はこのことをしなさい、お前はこの中で私に仕えなさい」と、なすべきことをいつも備えているのです。
この半年ちょっとの間、7ヶ月の間も思い掛けない、考えもしない、予定もしなかった事や事態の中におかれます。突然病気になって入院する、手術を受ける。誰も前もって予定していた人はいません。去年から、来年の夏ごろは入院すると決めていた人はいません。神様が私たちに与えられるのです。なぜなら、私たちは神様のしもべですから、与えられた問題や事柄の中で、神様が仰ることに従って、神様の力を体験し、証言する者となるためです。神様を現すといいますか、神様がいらっしゃること、神様の力と知恵と恵みの豊かさを感謝してほめたたえ、喜び歌う者となる様に、遣わされているのです。7ヶ月の旅路を振り返って、あの嫌な事が無かったら幸いだった、今年もハッピーだったのに、あんなことがあったから最悪だと思うかも知れません。しかし、実はそこで神様に仕える者となるように備えられたことなのです。今直面している問題や事柄、或いは「どうしても、この事は受け入れられない。こんな嫌な事から、はやく逃げ出したい」と思う生活。しかし、そこで「そうだ、私を神様はしもべとしてここに遣わしてくださったのだ」と認めるのです。時には、恐れがあります。「そんなこと私にできない、そんな辛い事を私は我慢できない、耐えられない」と思うことがあります。しかし、だからこそ「恐れてはならない」と神様は仰るのです。何故ならば「わたしはあなたと共にいる」からと。共におるというのは、私たちの司令官といいますか、私たちの全ての主となってくださるからです。だから神様が私を導く方として、私に力を与え、知恵を与え、業を全うさせるために、共に居て下さる。主が私と共にいらっしゃるから、「私のいう事を何でも聞いてくださる」といのではなく、逆に、主が共にいてくださるから、神様に仕え、従うのです。問題や事柄の中で主を呼び求めて、神様の御言葉によって魂を整えられ、知恵を与えられつつ歩むのです。
私にはできない、或いはこれは無理だと、「こんなことはしたくない、いや、もっと他にするべきことがある」と思う。しかし、「あなたはここで私に従いなさい。私に仕えなさい」と置いてくださった場所なのです。どうぞ皆さん、今与えられた自分の境遇、事柄、問題、そこから目を逸らさないで、そこから逃げようと思わないで、むしろ積極的に主が私と共にいて、この問題の中に、事柄の中で、主に仕える者として選んでくださったのだと信じて生きるのです。そして、神様に力を与えられ、恐れと不安の中で、神様を呼び求めて、具体的に神様の力を体験しようではありませんか。これがしもべとして主に仕える生き方です。人に頼らない、或いは人の言葉に動かされない、そして絶えず神様の思いを求めていく。主が「良し」と言われることに徹底して従うのです。
士師記6章11節から16節までを朗読。
これはご存知のように、ギデオンの記事であります。「ミデアン人を避けて」とありますが、この当時ミデアン人が収穫時を狙って、イスラエルの国々を度々襲って、穀物を全部奪ってしまうのです。ところがイスラエルの人々はそれを防ぐ力がありません。だから、この年もひょっとしたらミデアン人が、収穫物を盗りに来るに違いないと、彼は隠れて酒ぶねの中でひっそりと麦を打っていました。収穫をして麦を打つ音が聞えたら、彼らが襲ってくるからです。そこへ神様の使いがやってきて、「大勇士よ」と言ったのです。「主はあなたと共におられます」。ギデオンはびっくりしました。「大勇士よ」だなんて、どうして自分が大勇士だろうかと。気が小さくなって、ショボンとなって隠れているわけです。そこへ「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。それを聞いてギデオンはカチンときた。「あなたはそんなことを言うけれども、主よ、あなたが私たちと共にいてくださるなら、どうしてこんな酷い目に遭うのですか」と言った。私たちが言いそうなことです。「神様、あなたは私と共におられると約束したじゃないですか。現実を見て御覧なさい、こんな悩みがあり、こんな苦しい事があり、こんな辛い事、どうなってるのですか!」と。ギデオンがそう言ったのです。「あなたは先祖たちをエジプトの地から救い出して、荒野の旅路で奇しき不思議を行って、恵んでくださったと聞いてきた。しかし、その不思議な力は、今どこにありますか。たかだかミデアン人が攻めてきても、あなたは何にもしてくれないじゃないですか。それでいてわたしはあなたと共にいる。うそだ!」とギデオンは思ったのです。
そのとき、14節に「主はふり向いて彼に言われた、『あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか』」。ここで、主は「そう言わないで、あなたの力をもって行きなさい」と。あなたの力と言われて、ギデオンは自分に力がない事を知っていました。弱い者であり、こんな力でどうする。ところが神様は、それでいいのだと言うのです。「お前のその力で、出て行きなさい」。しもべは言われたとおりにするのであって、自分に力があるとか、それができるからするのではない。ここで神様は、ギデオンにしもべとなる事を求められました。出て行きなさい、あなたが持っているその力でいいから、と。「いや、私は力がありません」「いや、無かろうけれども、少しはあるだろう。それでいい」というのです。
私どもも、ともするとそういうことを考えますね。問題や悩みに遭い、「私では手に負えない、これは大変な事になった。こんな事もう耐えられない。こんな辛い事、こんな悲しい事、こんな苦しい事は私にはできない!」と最初は思います。でも、神様は「それでいい、力がなければ、ないでいいじゃないか。さぁ、私があなたを遣わすのだから」と言われます。実は、今すでに、この地上の生活の場所へ、神様が私たちを遣わしてくださっている。「今受けているこの悩み、問題の中でどうもこれはできない。どうなるか分からないじゃないか。神様、何とかしてください」と、悲鳴を上げているかもしれません。しかし、もう一度自分が、何のために選ばれ召されたのか、神様を信じる者とされたのは、何のためであるかを考えてください。私が崇められるため、私が幸せになるためではない。神様が喜ばれる事、神様がほめたたえられる事が目的です。そう言われると、私たちは不幸のどん底に置かれ、神様だけがいいところばかりをとってしまおうとするのかと思いますが、そうではありません。と言うのは、自分が幸せになろうと思うときの幸せというのは、案外不幸の塊なのです。自分が幸せと思える、思い描いている事は、まるでシャボン玉の様なものです。直ぐにつぶれてしまいます。神様に仕えることが、実は私たちにとって最高に幸せな生き方なのです。
神様は「わたしがあなたをつかわすのではありませんか」と言われましたが、ギデオンは15節以下に「私は力がありません。12部族の中でも一番小さな部族、マナセの部族の中でも、最も小さい一族の出身」、言うならば、有力な派閥の一員じゃなかったのです。何か大きなグループの一員だったら、それは仲間からいろいろ援助が受けられるでしょう。イスラエルには12の部族があります。非常に有力な部族もあるし、小さなマナセの様な部族もいる。あのサウル王様もベニヤミン族という小さな部族の出身だったから、王様として国を治めるためには四苦八苦したのです。だから、民の意見ばかり聞いたために、神様から退けられたでしょう。私どもは、つい人の力を頼むのです。自分にはこういう家柄がある、私にはこういう仲間がついている、人脈がある、だから大丈夫と。自分には力がないけれども、あの人この人に頼み、人を動かしてやっていけばいけると思う。私たちが神様から離れていく姿です。
ギデオンも、15節に語っているように「私にもそういう仲間が沢山いて力があるんだったら、神様が言われるとおり行きますよ。でも、私には無いのだから行きたくても行けませんよ」と言っているのです。ところが16節に「主は言われた、『しかし、わたしがあなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう』」。「私があなたと共にいるのだから、私が主人だから、私が司令官なんだから、私に従ってきなさい」と言っている。あなたが戦うのではない、あなたは行けば、ミデアン人が何百、何千、何万と押しかけてきても、それをたった一人の相手であるかごとくに打ち破る事ができると仰います。一対一での戦いのようなものだ。「あなたは一人であって向こうは大勢であるというけれども、そうじゃない、私があなたと共にいるから、あなたは一対一で相手と戦うようなものだから、心配するな」と言われるのです。そうやって、ギデオンは神様から勧められて、騙されたような気もしたでしょうが、取り敢えず戦いに行こうと思いました。しかし、彼は念には念を入れて、神様に確かめました。羊の毛を持ってきて、「神様、お尋ねしますけれど、これはあなたの御心かどうかを明らかにして欲しい。朝、露が降りるときにこの羊の毛以外の所に露が降りるようにしてください」と祈ったのです。そしたら、朝起きてみると、一面朝露で濡れているのですが、その羊の毛だけは濡れていなかった。彼は念を入れてもう一度、「神様、ご迷惑でしょうけれども、今度は逆に、この羊の毛だけに朝の露が降りて、他は乾いた状態にしてください」と。神様はそのようにしてくださいました。それを見た時、ギデオンは、これは確かだと信仰が与えられたのです。
そして彼が戦いに行く志願者はいないかと呼び集めましたら、3万人近く集まったのです。彼はこれで大分自信ができました。しかし、神様は、3万人は多すぎると言った。相手は大勢でやって来ますが、「減らせ」と仰る。だから彼は、せっかく来たけれども、家が恋しいとか、命が惜しい人を帰らせたところ、1万人になっちゃった。恐らく、ギデオンは心細かったと思います。そしたら神様は「まだ多い」と言われる。で、どうするか。神様はその1万人を水辺に連れて行きなさい、そして、水の飲み方で選べと言われたのです。とうとう最後は300人になりました。「神様、これだけですがいいでしょうか」と、自信をなくしたときに、神様は「それでよろしい」と。そして、ミデアン人との戦いに出て行きました。彼らは、手に空つぼとたいまつを持って夜襲をかけたのです。ミデアン人が野営をしている敵陣に向かって、300人を3つの組に分けて四方八方から、つぼを叩き割って、そしてたいまつを天に投げ上げて、大声で歓声を上げた。そしたらミデアン人はびっくりして、大軍が来たと思って、一斉に逃げ出してしまった。何と神様が伏兵をもうけて、彼らに恐れを生じさせたのです。驚くべき業を起こして、勝利を与えてくださいました。その事をとおして、神様がイスラエルの民を愛してくださっていることを知り、神様の業を体験したのです。実は、神様は、このギデオンとして私たち一人一人を遣わしているのです。
イザヤ書41章10節に「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」。「わたしはあなたの神である」と仰います。私たちはその神様に仕えるべき者であるということです。このことを徹底していきたい。心へりくだって、「ここで主に仕えていくのだ。私は今この問題やこの悩みに当たっているけれども、悲しい事になっているけれども、ここで主に仕えていこう」と、心を定めることが大切です。いつも二つのものに、どうしようか、どうしようかと迷っているから、いつまでも事態が収まらない。しかし、そこで「ああ、そうです。神様、あなたに仕える者ですから、しもべですから、煮て食うなり焼いて食うなり、どうぞご自由にしてください」と心を神様に定めるのです。
詩篇18篇25,26節を朗読。
私たちがどういう態度を取るかによって、神様はそれに対して自由に態度を変えなさる。神様を神様として「はい、私はあなたに従います」と、心を定めたら、神様もきちっとそれに対応してくださいます。ところが、私たちが「ああしようか、どうしようか」と揺れている間は、神様も離れて見ています。ここにあるように「欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり」、「いつくしみある者には、いつくしみある者となり」と。だから先ず、私どもが心を定めることが大切です。「神様、あなたは私の主です。私はあなたにより頼みます」と、ピシッと一線を引いていくとき、そのように神様は働いてくださいます。「あなたは私の主です」と告白して、それに心を定めていけば、神様が、本当に主となって、責任をもって応えてくださいます。これが私たちの信仰です。ですから30節にありますが「この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です」と。神様のなさる道筋は完全であり、約束の言葉は真実です。私たちは、神様のしもべとなり切ってしまうのです。私がどうしようとか、こうしようとか、つい自分の立場や、自分の面子や、自分の利益や、自分の何かを求めるから、揺れるのです。神様にしようか、どっちにしようかと。ところが「恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である」と言われる方が、私たちの盾となり、避け所となってくださいます。神様が責任者となってくださいます。この方に仕えていこうではありませんか。
もう一度イザヤ書41章10節に「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」。何と大きな約束ではないでしょうか。あなたを強くしてくださる。私たちが弱いことを神様は知っているのです。だから、必要な力を与えて、「あなたのその力を持って行きなさい」と言われました。「私には力がない、ほんの僅かです」「それでいいから行きなさい」。行きさえすれば、神様のほうが欠けたところを補って、力を与えてくださいます。そして勝利を与えてくださる。しかもその方が、私たちを強くしてくださいます。パウロは、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」と「ピリピ人への手紙」4章で語っています。最初は、「私は無理です」と言います。いろんな方に「すみません、これをちょっとやってください」と依頼すると、「私はできません。そんな知恵もありません、力もありません、健康もありません、何もありません」と言われる。考えてみると、自分の都合の良いことは直ぐにします。神様の都合を聞かない。神様が私たちの足らないところに力を与えてくださいます。10節に「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」。神様の力ある手をもって、私たちを握って、持ち運んでくださるのですから、この方を信頼して、遣わされ、置かれた所で、真剣に主のしもべとなることに徹していきたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。