いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(359)「神様の自己紹介」

2014年10月22日 | 聖書からのメッセージ
 「出エジプト記」34章1節から9節までを朗読。

 6節「主は彼の前を過ぎて宣(の)べられた。『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神』」。

 今日は7月1日となりました。いうならば、半年間が過ぎてきたわけです。年頭に三つの御言葉が与えられました。その一つが今お読みいたしました御言葉、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」です。もう一つは「わが義人は、信仰によって生きる」(ヘブル 10:38)という御言葉です。そして、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」(ローマ 13:14)、この三つの御言葉を頂いてこの半年が過ぎました。「そう言えばそうだったな」と、「忘れていた」方もおられるかもしれません。忘れないために講壇に掲(かか)げていますが、慣れてくると、「見ても見ず」です。「そう言えばぶら下がっていたけれどもね」と。今からこれを外して、「真ん中は何でしたか」というわけにも参りません。いずれにしても、この半年間、まことに神様はいろいろな中を、思いもかけないような事柄、事態のなかを通してくださったと、今しみじみ思います。

 この記事は、モーセが神様に「もう一度自分の所へ来なさい」と招かれたときのことです。というのは、神様はシナイ山のふもとまでイスラエルの民を導き、荒野の旅をしてシナイ山の近くまで来ました。そのとき神様はモーセに「わたし
のもとに登って来なさい。わたしはあなたの所へ下るから」といわれました。それでモーセは一人でシナイ山に登って行きました。その間、民はふもとでモーセの帰るのを待つことになったのです。しかし、モーセは山に入ったきり、音沙汰(さた)がない。何日に帰って来るという予定もありません。とにかく「来い」と言われて、山に入りました。モーセは生きているやら死んでいるやら分からないわけです。今だと携帯電話でもあって、「もうあとちょっとだから」とか言えますが、そのころは何もないわけですから、ただ待つだけです。初めのうちは10日や20日ぐらいは何とか待っていたでしょうが、だんだんと日が長くなる。40日ぐらいたってきたら、「もう死んだのではないか。モーセも今ごろはいないのではないか」という不安がある。「それでは、この際、別の指導者を立てよう」と、アロンを指導者にして、「自分たちを守る神様が要るだろう。神様を造ろう」という話になりました。そして、婦人の持っている金の飾り物を集めて、それで金の小牛を造った。そのうえ、それを拝む、というとんでもないことをイスラエルの民は始めてしまった。神様はその様子をご覧になって、モーセに「早く降りなさい」と命じました。その時、モーセに神様は十の戒めを二枚の石の板に刻んで、十戒を授(さず)けてくださった時でした。「それを持って早く降りなさい」と言われ、モーセは十戒の書かれた石の板を携(たずさ)えて戻って来た。戻ったら何とにぎやかなお祭りであることか。金の小牛を拝むお祭りをやっている。モーセは大変怒りまして、持っていた石の板をそこで投げ捨てるのです。粉々に砕いてしまう。神様は背(そむ)いた人たちをそこで打ち殺された、という記事があります。とんでもないことに、神様に背いてしまったのです。そのときに、モーセは神様に執(と)りなし、祈りましたが、神様は「この民と一緒に行くことはできない」とおっしゃったのです。ところが、モーセはそのとき「もしあなたがこの民と一緒に行かれなかったら、いったいこの民はほかの民とどこが違う、何をもって違う民と言えますか。あなたが私たちと共におられるからほかの民と違う、これが私たちの存在理由、私たちがイスラエルであることの理由ですよ。ましてや、あなたがここで私たちを見捨てたら、あの神様はもう助けきれなくて、力がなくて、途中で自分の民を放り出してしまった、捨ててしまったのだ、と言われて、あなたの名がすたりますよ」と、モーセは神様の泣き所をグッと握って執りなし祈ったとき、神様は「それでは、もう一度あなた方を許してあげよう」というわけです。

 34章1節以下に「主はモーセに言われた、『あなたは前のような石の板二枚を、切って造りなさい。わたしはあなたが砕いた初めの板にあった言葉を、その板に書くであろう。2 あなたは朝までに備えをし、朝のうちにシナイ山に登って、山の頂でわたしの前に立ちなさい』」とお命じになりました。これは神様の大幅な譲歩(じょうほ)であります。本来だったら、捨てられて当然、失われたものとなってしまって、そこで滅ぼされて見放され、荒野のしかばねとなって当然であったイスラエルの民を、神様は、もう一度ご自分のものとする、と約束してくださいました。そのために「まずその石の板を持ってわたしの所へ来なさい」。神の民として生きる基準、その道筋を定めた戒めです。十戒とは、十の戒めというばかりではなくて、それに付随(ふずい)してたくさんの戒めを神様はモーセを通して語っています。いうならば、代表的な目録といいますか、神様の前に歩むべき私たちの姿勢を明らかにしたものが十の戒めであります。

 それで、モーセは石の板を持って登って行きました。4節「そこでモーセは前のような石の板二枚を、切って造り、朝早く起きて、主が彼に命じられたようにシナイ山に登った。彼はその手に石の板二枚をとった」。まったく新しい何も書かれていない石の板2枚を彼は携えて神様の前に立ったのです。そのときに5節に「ときに主は雲の中にあって下り、彼と共にそこに立って主の名を宣(の)べられた」。そのとき神様はモーセに対してご自分を証詞していらっしゃるのです。「主の名を宣(の)べる」というのは、“名は体(たい)を表す„、いうならば、その人の本質を語ることです。だから、過去にもそのようなことがありました。アブラハムに対して「わたしは全能の神である」(創世 17:1)と語られたとき、それは神様の名前、いうならば、神様がどのような御方でいらっしゃるかを明らかにされたのです。また、ヤコブに対して、ヤコブがヤボクの渡しで神の使いと組み打ちをしました。そのときにヤコブは「あなたの名は何ですか。教えてください」と神様に迫ったのです。「神様、あなたを知りたいのです」とヤコブは求めましたが、そのとき神様は答えなさらなかったのです。ご自身をあらわさないのです。その後、やがて彼らがヤボクの渡しを渡って、かつてのふる里へもどってまいりまして、お兄さんと和解し、それぞれが別の場所で生活を始めたとき、神様はヤコブを、ベテル、かつてお兄さんとけんかをして飛び出したとき、野宿をして神様に出会った場所(ベテル)で神様を礼拝するように求められました。ヤコブと家族は父イサクの信じた神様を信じてはいたのですが、ヤコブたちはラバンの家に何十年といる間、その土地の神々の偶像を持っていたのです。奥さんのレアとかラケルはその土地の人でありましたから、そういう神々を持っていました。それらを全部取り除いてテレビンの木の下に埋めて、彼は一族郎党を引き連れてベテルへ行きます。そして、そこでもう一度、神様の前に祭壇を築いて、献身といいますか、自ら一切を主のものであることを証詞したのです。そのときに神様はヤコブに対して「わたしは全能の神である」(創世 35:11)と語られました。ヤコブに対してご自分をあらわしてくださいました。「わたしは全能の神である」と、これが神様のお名前だったのです。だからと言って誰にでも神様はご自分をあらわされたわけではありません。極わずかな選ばれた者たちだけにそうやってご自身をあらわしてくださった。その神様を知ったとき、ヤコブにしろアブラハムもそうでありますが、本当に硬い信仰に立つのです。アブラハムも「我は全能のなり」という神様の本質に触れたときに、彼はもう神様の約束を疑わない。自分の体から必ず神様が世継ぎを与えてくださることを信じたのです。そして与えられたのがイサクでした。 私たちも神様がどのような御方でいらっしゃるかを知る、これは大きな力であります。

モーセはこれまでも神様と共に歩んできました。神様がホレブの山で、わたしについて来なさい。わたしはあなたを遣(つか)わす、とおっしゃった。しかし、そのときまだ神様がどのような御方でいらっしゃるかをはっきりと知らない。その後もパロ王様とのやり取りの中で、神様はご自分の力をあらわし、知恵をあらわし、モーセを導いてくださった。しかし、モーセは本当に神様を知っていたか、というと、まだもうひとつです。ある程度までは分かった。神様の力であるとか、わざであるとか、神様のなさることはだんだんと分かってはきたが、神様がどのような御方でいらっしゃるかを知るのは、ここが初めてです。5節「主の名を宣(の)べられた」とは、神様がモーセを本当に信頼して、モーセを愛して、その者にご自分がどういうものであるかを明らかになさった。6節「主は彼の前を過ぎて宣(の)べられた。『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神』」。このとき神様は「わたしはあわれみあり、恵みあり、また怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」と、真実な神でいらっしゃること、愛に満ちた御方でいらっしゃることを明らかになさったのです。と言うのは、先ほど申し上げたように、イスラエルの民が金の小牛を造って神様に背きました。そのとき神様は怒りを発して彼らを打ち殺してしまわれたのです。怖い神様、ちょっとでも背いたら一瞬にして滅ぼされる神様だと、そういう思い、恐怖心のほうが強かったのでしょう。モーセは「この神様と一緒にやっていくのは、これは大変なことだな」と。

というのは、3節に「だれもあなたと共に登ってはならない。また、だれも山の中にいてはならない。また山の前で羊や牛を飼っていてはならない」とあります。これはどうしてか? 神様の臨在、神様がそこに下っておられるから、その神様の領域、神様の臨在に入るには、汚れたものは即、打ち殺される。神様の許しがなくしてはそこに来られないのです。モーセに「お前一人が来なさい」と、「ほかのものたちは近寄ってはならない」とおっしゃる。だから、牛や羊すらもその山の前で飼ってはならない。距離を置きなさいと言われる。神様はある意味で怖いです。下手(へた)に近づいたら……、だから“触らぬ神に祟(たた)りなし„なんて世間でも言います。あまり近づいてちょっかいを出すとえらい被害に遭うぞ、という思いが人の心にあります。神様は怖い御方。確かに旧約聖書見ますと、神様は時に怖い事をなさる。だから、よく言われます。「先生、旧約聖書の神様って怖いですね。あんなことをされたら私なんか即、生きておられませんよ」と。それはそのとおりです。滅ぼされて当然な私たちが今ただ憐れみを受けて生かされている。だから、このときも神様はそういう力ある御方、しかも神様は私たちを滅ぼす力のある御方でいらっしゃいます。それに対して、6節にあるように「あわれみあり、恵み豊かな御方、いつくしみと慈愛とまこと、真実な御方でいらっしゃる」。しかも「怒ることおそく」と。私どもは短気ですからすぐパッと怒りますが、神様は忍耐をしてくださる御方、だから、すぐ前の金の小牛を造って拝んだ者たちを神様は滅ぼしなさった、というのは、何も激情に駆(か)られて、前後不覚で我を忘れて神様は怒ったのではなくて、神様はそこまでも長い忍耐をしておられて、このかたくなな民、うなじの強(こわ)いといいますか、従いにくい民をねんごろにここまで導いてくださったのです。そういう忍耐があって、それに対してのイスラエルの民の業、やり方、その態度に堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)が切れたといいますか、怒りが注がれたのです。だから、これは何も神様が短気を起こして怒ったからこうなった、というのではなくて、実はイスラエルの民が神様に背いた、ここが問われなければならない事柄です。このとき神様は「怒ることおそく」とおっしゃっています。決して怒るために怒ったのではない。ご自分の激しい憤りに任せて怒ったのではなくて、本来、神様は「怒ることおそい」御方、とことん神様は私たちを耐え忍んでくださっていらっしゃる。

「ペテロの第二の手紙」3章8節から10節までを朗読。

 8節「この一事を忘れてはならない」と言われています。それは何かというと、9節「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」。神様は私たちが一人も滅びないように、ながく忍耐してくださっていることを忘れてはならないと。神様は何か気に入らないことがあったら、すぐ私どもをつぶしてしまう。まるで虫けらをひねりつぶすがごとく、私たちを簡単にやっつけてしまう御方、怖い御方だと思われていますが、そうではないというのです。「怒ることおそく」と言われているように、やがて世の終わりの時、すべてのものが裁かれて神様の永遠の滅びに定められる、この審判の時が来ることが言われました。しかし、多くの人々が「何だ、いつになったらそれが来るのだ。何年待ったら来るのだ。来やしないじゃないか」と言って、神様の約束を侮(あなど)っている。ないがしろにしようとする。しかし、そうではないのだよと主は言われる。神様は決して約束の実行をおそくしておられるのではない。真実な御方であるからちゃんとそのお言葉のとおりになさいます。しかし、だからと言って、右から左にパパンとすぐにでもそれを行おうというのではない。なぜならば、そこには深いあわれみがあり、いつくしみの豊かな御方、「ひとりも滅びることがないように」と、早く悔い改めに至ることを望んで、ながく忍耐してくださっている。今はその時なのです。だから「いつまでたっても神様の終りの時は来ないじゃないか。終末はまだ先だ」と思うのは間違いです。そうではない。明日にでも神様は終末の時を起こすことがおできになる。しかし、ただ神様の御思いはどこにあるか? 私たちを愛すればこそ、私たちを大切に思えばこそ、ながく忍耐して、すべての人、一人として滅びることがないように、これが「怒ることおそく」という意味です。神様は怒りを注ごうと思えばいつでもおできになるのですが、それをとどめて敢(あ)えて私たちのためにその時を備えてくださっておられる。悔い改めに至る時を待ち望んでおられるのです。

 出エジプト記34章6節に「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」。真実にして、また慈愛に満ちた御方でいらっしゃる。神様がどんなに私たちを愛し、私たちのために忍耐し、御愛を注いでくださっているか。

 私は献身に導かれましたとき、そのことを深く深く教えられました。神様が願っておられるのに、神様の御思いを知ろうとしない。そして、自分勝手な願いと生き方をしておったことを教えられたとき、本当に心から申し訳ないと思いました。長く忍耐しておってくださった。それに対して答えるすべは何もない。私どもは神様のただ一方的なあわれみにあずかって、今ここに生かされているのです。そればかりでなく、神様は「いつくしみと、まこと」をもって答えてくださる御方。

 「列王紀上」19章1節から8節までを朗読。

 預言者エリヤがカルメル山でバアルに仕える預言者450人と一騎打ちをいたしました。これは見事なものです。「火をもって答える神を神としましょう」(列王記上18:24)とイスラエルの民に迫りました。祈って天から火をもって答えてくださる神様をまことの神様にしようと。「わたしの仕える万軍の主は生きておられる」(列王記上18:15)と。エリヤは一人、相手は450人、バアルの神に仕える人たちが一日がかりで祈ったけれども、うんともすんとも何にも事が起こらなかった。ところが、その後に今度はエリヤが神様に祈りました。神様は上から火をもってその祭壇に置いた動物を焼き尽くしたのです。そればかりでなく、そこにいたバアルに仕える預言者たち450人全部を殺してしまうのです。それほどの大勝利を得たのですが、今読みました所でエリヤはおじ気づいているのです。イゼベルというアハブ王様の妃(きさき)がエリヤのしたことを聞いて、怒り狂って「金輪際(こんりんざい)、エリヤを見つけたら殺してやる」と言った。その言葉を聞いて彼は一目散に逃げ出してしまった。とうとう、今読みましたように、4節に「自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、『主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません』」と。彼は「もう死にたい」と言ったのです。「神様、殺してください。私は生きているのはもう嫌です」と言った。ところが、そのとき神様は、眠っているときに彼に触って、天の使いをもって、パンを与え、水を与え、彼を養ってくださった。だんだんと元気づき、力づきまして、神の山ホレブへと行くのです。

19章9節から13節までを朗読。

エリヤは神様から水とパンを頂いて、力づいて、急いで神の山ホレブへとやって来ました。神様にお会いしたい、と願ったのです。主の臨在を求めて、神様に近づきました。ところが、そのとき嵐や強い風が吹きました。しかし、そこにも神様はいらっしゃらない。地震が起こりました。大地が揺れ動いたのです。しかし、そこにも神様はいらっしゃらない。また、火が天から降って来た。地震の後に火があったけれども、その火の中にも神様はおられなかった、と語られています。いったい、これは何のことを語っているのでしょうか。

先日ある方の証詞を読んでおりましたら、その方がこういうことを語っていたのです。その姉妹は妊娠して、もう間もなく臨月、生まれるという時期を迎えていたのです。ところが、どういうわけか一つ不具合が起こって、緊急に救急車で病院に搬送されました。そうしたときに、すぐ帝王切開をしなければいけない、という事態になったのです。彼女は大変な不安と恐れと心配のなかに置かれた。まず、生まれてくる子は正常な子になるだろうか。あるいは、まともに生きて生まれてくるだろうか。そのようないろいろな不安がドーッとその方の心に湧いてきたとき「どこに神様はいらっしゃるのだろうか。神様の力はどういう力だろうか」と、彼女は一晩眠られない中を悶々(もんもん)として苦しんでいた。そのとき、エリヤの神はどういう神であったかをもう一度思い返す。カルメル山でバアルに仕える預言者たちと一騎打ちをしたときにあらわれた神様は火をもって答えてくださる。山をも揺り動かす力ある神様、そういう神様がどうして私が今ここにいるのに何もしないのだろうか。私の不安や私の恐れ、私の心配を力ある御手をもって、どうして取り除いてくれないのだろうか。神様に対する不信が、不安の中から心を支配してきた。神様の憐れみで、お医者さんやナースの人たち、いろいろな人たちの手助けを頂いて、結果として無事に出産が終わった。それからズーッと彼女の心の中に「神様って、どんな御方なのだろうか」という思いが常にあったと言うのです。そうしたとき、フッとご主人にそのことをもらした。「いったい、神様はどういう御方だろうか。神様の力とは、いったい何なのだろうか」と尋(たず)ねた。そうしたときに、そのご主人が「あなたにもちゃんと神様が答えてくださったじゃないか。あのエリヤが本当に生きる望みを失っていたときに、神様は天の使いを遣わして、もう一度立ち上がらせてくださったように、あなたに対しても神様がそうやって神の使いを遣わしてくださったじゃないか」「え!どこに?」、「それは、あなたがあの緊急事態に陥(おちい)ったとき、救急車の人たちが一生懸命にやってくれたじゃない。病院に搬送してくれたじゃない。病院ではあなたを迎えるために医師たちが待っていてくれたじゃないか。それから後ナースの人たちがどんなに献身的にあなたのことを看護してくれただろうか。あれもこれも、これもあれも、それは神様の恵みであり、神様が遣わしてくださった使いじゃなかったか。エリヤが失望落胆して眠っていたときに、揺り動かして天の使いが彼に水を与え、パンを与えてくれた、まさにあなたはその中にいたのではないか」と、そう言われたとき、彼女は「確かにそのとおり。神様は私のことを顧(かえり)みてくださったと思うが、しかし、神様に私は出会うことはできなかった」「いや、そんなことはない。エリヤが神の山ホレブに行ったときに、風の中にも神はいなかった。地震の中にも神様はいない。その後の火の中にも神様はいない」。

私どもはどちらかというと、あのカルメル山でエリヤが体験した神様、地を振い動かし火を下し、つむじ風や大風をもってご自身をあらわす神様を求めますが、そこに神様はいらっしゃらない。実は神様はそういう中にいらっしゃらない。12節に「地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた」。神様は細い、か弱い御方となって私たちのそばに立ってくださる。私たちと共に悩みの中にいてくださる御方、そこにこそ神様がおられる。神様は火をもって働き、地を揺り動かす、あるいは、つむじ風、大きな力の風を吹いて、物事を動かす御方、そういう神様と思いやすいのですが、そうではない。神様の力は私たちと共にいて下さる御愛、愛の力なのです。そのことを知ったとき彼女は自分がどんなに神様から愛されてきたか、その結果、今がある。神様がいらっしゃるのはここなのだ。自分がいま立っているここに、今この所に神様は愛をもって共にいてくださる御方。パンを与え、水を与え、神様はそうやってねんごろに私を顧みてくださっておられる。それを知ったとき、それまで「どうして、神様は私のことを……、どこに神様がいらっしゃるのだろうか」と思っていた思いが、一瞬にして消え去ってしまう。「本当に、神様は愛をもって私のそばに絶たえずいてくださる御方です」、このことをはっきりと悟る事ができた、というお証詞を読ませていただいたのです。

私はそれを読みながら、確かにそのとおり……。このエリヤの記事を何度も読んでいますが、もちろん、もう少し別の解釈といいますか、理解もできますが、その方が語っておられるのはまさにそのとおりだと思うのです。ともすると、人をうならせるような、度肝(どぎも)を抜くようなわざを神様に期待しやすいのですが、そうではない。神様はもっと身近な、私たちのそばにいて、「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」。慈愛と御愛をもって私たちに答えてくださっている。神様が絶えず私たちのそばにいてくださる。

「出エジプト記」34章6節に「主は彼の前を過ぎて宣(の)べられた。『主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神』」。神様はまことに平々凡々とした何の変哲(へんてつ)もない、代わり映(ば)えのしない日々の生活のその中に御愛をもって臨んでくださる。いつくしみをもって私たちを顧みて、私たちの信頼に真実に応えてくださる。

どうでしょうか。この半年、今もう一度振り返って、主はどこにおられただろうか。考えて「この半年間、私は神様がいらっしゃると思いながら、あれもこれも、こんな苦しいこと、こんなつらいこと、いったいどこに神様はいたんだろうか」と思っているなら、「主、主、あわれみあり、恵みあり」、このみ言葉を信じようではありませんか。本当にあわれみ豊かな神様が私をあわれんでくださった。私たちの生活の隅から隅まで神様の使いを遣わして、必要な物を備え、生活に事欠かないようにいろいろと思い図(はか)ってくださった御方ではないでしょうか。そこに主を知る、神様に出会う幸いな恵みの時があります。

ですから、6節に「主、主、あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、まこととの豊かなる神」、慈愛と真実に富んだ御方、この御方をいよいよ体験して行きたい。その御方に私どもも更に触れる者となって行きたいと思うのです。もう一度原点に返って、お正月に帰った気持ちになって、是非このお言葉を心に置いて、私にとって神様はどんな御方でいらっしゃるかを味わい知りたいと思う。そして、この言葉のとおりに、まことに主は慈愛に満ちた御方、誠なる御方ですと、体験することができたら、それがすべてで、最高の恵みではないでしょうか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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