「伝道の書」3章1節から15節までを朗読。
11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」。
この記事は比較的有名といいますか、一般の人々にも知られているものです。1節以下に「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。2 生るるに時があり、死ぬるに時があり…」と語られています。これは多くの人々の心に残る言葉であるようです。私たちにとっても、これは大切な事です。人生には必ず初めと終わりがあり、その間に様々なことを体験します。
先日もお召されになって3年目を迎え方の記念会を、ご家族の希望でいたしました。その方は大正3年の生まれであったと思います。この記念会でもう一度その方が生まれてから召されるまでの人生、その生き様を振り返る時が与えられました。人生はひとつのドラマです。それを振り返って深く感じることはそれぞれの出来事に「時」が備えられている、ということです。「時」には、度々申し上げるように、二つの種類があります。私たちが毎日の生活で繰り返している時、時間、これは時計の24時間で測られる時間であります。朝の7時は昨日もありましたし、今日もあります。また明日も朝7時という時間は繰り返してやって来ます。その時間に応じてすることは決まっています。それぞれのスケジュールに合わせて朝何時に起きる、何時に寝るという一日の予定があります。それは毎日繰り返されるわけであります。ところが、人生は、一回限りです。もう二度とそこへ戻ってくることはありません。まず、地上に命を受けることから、私たちの地上での生活、人生が始まっていますが、それは二度と繰り返すことができない「時」です。
まずもって「生まれる」時自体、いつ生まれるか、誰も自分で決めるわけにはいかなかったのです。2節に「生るるに時があり」とありますが、この「時」は私たちが決めることができない時であります。気が付いたとき「オギャー」とこの世に生まれている。誕生日があるのです。「私の誕生日はいつやっただろうか」と忘れている方もありますが、忘れていても誕生日が無い人はいません。必ず生まれた時があります。なぜ私がその日その時この親の許(もと)に生まれたか、誰が決めたか、と問われても、 誰が決めたのでもない。「神様がそうしてくださった」としか言いようがないのです。もし、自分で選ぶことができたら、恐らくもっと違った時代に、あるいは違った親の許に生まれたかったと思う方もいると思いますが、それはもう不可能です。私たちが地上に生を受ける、命を与えられた、そのこと自体が私たちの手にないのです。自分の計画にない事柄であります。そうでありながら、どういう訳か、この地上の生涯を自分で造り出している、自分で計画し、努力して、持ち運んで来たと思っている。これはちょっと考えると、何だかおかしな話であります。
そもそも自分の生まれる「時」ですら自分ではどうにもできなかったのです。だから、それから後の人生、この世を去るときまで全て自分の努力や計画によるのではありません。生まれてから、それぞれの生涯にわたって成長し、変化して、時を経(へ)ていきます。幼児期を過ごし、児童期に入り、青年期に入り、学校に入学し、幼稚園、小学校、中学・高校、また大学、あるいは専門学校とか、いろいろな人生の進路を経ながら、結婚し、家庭を築き、そして子育てに忙しくし、また社会に出て仕事に励んでという、一つ一つの人生に起こって来る出来事すべてが、実は自分の計画でやっているようであって、そうではないのです。それを私たちは忘れています。若いころ、エネルギーにあふれ、生きる望みや夢、様々な楽しいことがあふれていた時代、神様なんて思う暇がない。何でも努力すれば、あるいは何とかすれば自分の力でやって行ける。「あれをしてやろう」「これをしてやろう」と力に満ちていた。そういう時は、自分が神様のようなもので、「俺が……」「俺が……」と、「自分ができるのだ」と思っている。事実そのような生き方ができたわけです。しかし、健康が損(そこ)なわれ肉体の力が衰えてしまい、目はしょぼくれ、記憶は薄らいでくる。そうなってくると、生きること自体が何のためであったのか、これから私はいつまで生きているだろうか、そういうことを考え始める。生きることが自分の力や努力や知恵によるのではない。何か大きな目に見えない力によって生かされている自分であることを感じるといいますか、そういうものに心が向く。これは本当に恵みの時であろうと思うのです。いま私たちが何に生かされ、どういう「時」の中を生きているか?それを覚えて行くことが大切であります。私たちは生まれて今に至るまで、神様の備えられたわざ、事の中に生きて来ました。ところが、そうは思わないので「あの日あの時、もう少しこうしておいたら良かった」「あれはもう少し早かったら良かったのに」「あのことはもっと後になってすれば良かった、早かった、遅かった」という思いが常にあります。自分が「時」をつかさどるといいますか、支配しているように思い違いをする、間違ってしまうわけです。だから、もう一度自分の生きて来たこれまでの事が誰の手によってそうなって来たのか?その日その時というのが、実はそれ以外にあり得ない「時」の中で私たちが生かされている。自分が生きているのではなくて、神様によって私たちがそれぞれに与えられた事に導き入れられ、それを受けてきたにすぎないのです。だから、生まれることもそうであります。自分で得たのではなくて神様によって与えられたものであります。ですから、それは神様が「よし」と見給う「時」にかなったものであることを認める、これが神を信じることに他なりません。
2節に「生るるに時があり、死ぬるに時があり」とありますが、やがて私たちは必ず誰もかれも死ぬ時が来ます。地上の生涯を終わる時が来ます。しかし、それがいつであるか分かりません。こればかりは医者も分かりません。それについては忘れられないことがあります。
一人の方が、ご高齢でありましたからいつ召されてもおかしくないという状態で入院をしておられました。その日は土曜日だったのです。午前中は結婚式がありまして、午後は披露宴があって、その夜はまた別の集まりがあり、そこへ招かれていました。その方はご高齢で呼吸器の病が重篤で、間もなく召されるに違いないと、病院では集中治療室に置かれていました。今日か、明日か、といわれて、お医者さんの話によると、召されていても不思議ではない状態でした。ところが、どういう訳か……。これこそまさに神様のご計画であったと思います。私はその方のことが気になっておりました。で、お昼までは詳しい様子が分かっていましたから大丈夫だと言われました。夜の集まりに出るべきかどうか、ちょっとためらったのです。恐らくそのとき神様がとどめておられたと思うのですが、気になって「ちょっと様子を見て来よう」と思いました。夕方4時過ぎに病院に行きました。今晩にでも召されそうな様子だったら、夜の集まりは断ろうと思いました。もしそうでなければそのまま出席しようと思いました。病室に入り、顔を見るとなかなか元気そうで、声を掛けると返事もするし、受け答えもしっかりしている。「これは大丈夫。今晩一晩ぐらいはもてそうだ」と、私が決めたのです。自分で決めたのであります。そうして、出掛けました。夜10時過ぎに教会へ戻ってきました。激しい雨が降っていました。帰り着いて玄関の扉を開けようとしましたら、足元に白い紙が水の中に見えたのです。ふと拾い上げると「7時30分何々兄が召されました。連絡したけれどもお留守なので、お知らせします」という紙が、ポストから落ちて雨水に浮かんでいた。私はそのままその方の家へまいりまして、最後の納棺の祈りを一緒にさせていただいたのです。その時「しまった」と思ったのです。「あの時、神様がとどめておられたのに、偉そうに『わたしがひとつ見てやりましょう』」と、自分で人の死を計る、これは絶対できないのです。神様の許しがなければその事は起こらないし、また神様が定められた時が来なければどんなこともあり得ないのです。その時しみじみそう思いました。
「生るるに時があり」と、もちろんそうです。皆さんもご経験のとおり、一応予定日とか決まってはいますが、必ずしもそのとおりには行きません。どんなこともそうでありますが、神様の「時」がある。これは神様が私たちの人生を造り出してくださる御方だ、ということです。
「詩篇」139篇13節から18節までを朗読。
13節に「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました」。神様は私たち一人一人を母の胎に宿してくださって、その中で骨格を造り、体を造り、内臓に至るまで事細かくきちっと組み立ててくださる。そして16節に「あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた」と。神様は私たちがこの地上に肉体をもって存在しない前から、どういう姿かたちであるかを、ちゃんとまるで目の前にいるがごとくに見ておられたと。建物などを設計する人は設計図を見ただけで完成した実態を思い描くことができます。まさに神様は私たちの姿形がなくても、私たちの設計図といいますか、それを見ているだけで、どういう人生、どういう姿かたちであるかを見てくださった。しかも16節の後半に「わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた」と。まだこの地上に一日として生きていなかった、姿かたちのなかった時、既に生まれてから死ぬまでの地上の生涯のすべてが神様のスケジュール帳にきちんと定められ、備えられている。17節に「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう」と言われていますが、神様が私たちに計画してくださった思いは誠に尊いこと、私たちにとって掛け替えのない恵みであると、この詩篇の記者は歌っています。私たちもそうであります。今日この所にこうして生かされていることは、これはまさに神様のご計画であり、御思いであります。
家内の母もそうであったと思います。時々ふと思うのです。義母が脳内出血を起こして倒れました。救急で搬送されて、救急病院に入れたのです。その時お医者さんはCTを撮って、「頭の中に出血しているから、その出血を早く取ろう」と、「そして脳の圧迫を取り除いてやりたい」と。「頭蓋骨に穴を開けて出血部分を取り除く」と。「だから早く手術しなければいけないから家内に家族として同意をしてくれ」と言う。今でもそれで良かったのだろうか、どうだろうか? あのとき、その手術をしなかったら、恐らくそのまま昏睡(こんすい)に入って1週間か10日ぐらい眠ったきりで、恐らく生涯が終わったに違いない。ところが、手術をしていったん脳内の出血、脳の圧力が解放されて平常に戻って取りあえず命を取り留めました。ところが右側半身が麻ひしました。左目も見えなくなりました。足が動かなくなって立てなくなりました。リハビリをしたり、いろいろな中を通ってやっと今まで、昨年の11月から8カ月近くになりましょうか、経過して来ました。幸いに一つの施設に受け入れられ、幸いな介護を受ける環境に置かれて、やっと本人も少し落ち着いて来ました。しかし、取りあえず食べるのは右手が利きませんので左手ですくって食べます。ところが、ベッドから起き上がることも自分ではできませんし、車いすにも自分では乗れません。すべてが人の手を借りなければならない。そうなると生きていること自体が大変苦痛です。「死にたい」「死にたい」と嘆きます。最近は少しそのことは遠ざかりましたが。先だっても「死にたくて車の走っている通りへ飛び出して行った。けれども、車が皆よけて通って死ねなかった」と言う。「本当かな? 」と思う。歩けない人がそんなはずはないが、願望が夢になるのです。そういう夢を見ている。それほどに自分がいま生きていることを呪う状態にある。それを見ると「やっぱりあのとき手術に同意しなければ良かったのではないか」という思いがする。しかし、よくよく考えると、決して人の手の業ではなくて、そこにも神様の備えられた「時」があり、「わざ」がある。これを自分が認めなければ何一つ解決はありません。私は今そのことを痛切に教えられます。確かに、幸いというか、意識ははっきりしているのです。担当のお医者さんに伺うと「認知症の傾向は一切ありません」と言われて、うれしいやら悲しいやら「少しおめでたくなったほうが本人にとっては楽かな」と思う所はありますが、しかし、それもこれも実は神様が備えられた「時」の中で生きている。家内は「あのとき同意書に署名しなくて『母は延命を拒否している人ですから一切何もしないでください』と言ってしまえば良かったかな」と悔やみますが、考えてみると病院に運ばれたとき意識があったのです。話もしましたから、そこで放っておくことはどうしてもできない。初めからこん睡で運ばれて反応がない状態であれば「何もしないでくれ」と言えたでしょう。これも誰がそうしたか? 人ではないのです。
神様の「時」があって、なお生きるべきことがあり、そういう事態の中に神様が置かれる。それは義母のことだけでなくて、それに関わる家族の私たちにも「今このことをしなければならない『時』なのだ」と信じる。こういう状況の中でどう生きるか、どのようにそのことを神様の前に受けとめるべきかを考えなければならない。これは、義母の問題のようであって、義母だけではなくて、私たち家族の問題でもあり、関わる者たちに対する問いかけであることを教えられます。そして、一つ一つの神様の「時」の中に生かされている。義母はいま小康状態といいますか、取りあえず落ちついて生活も安定し、身体的な条件、バイタルサイン(生命兆候)も大変良い状態の中に置かれている。そうすると今度は逆に「いつまで生きるのだろうか」と、心配になるらしい。今年91歳になりますが、「あと10年、百歳になったらどうしようか」と心配する。人と言うのは身勝手です。でも死ぬ時は分からない。いつ何時、どうなるか分かりません。
「伝道の書」3章1節の「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」。「わざには時がある」と、そしてその「時」を誰が握っておられるか?実は神様が私たちに時を定めて事を起こしてくださる。「どうしてあのときにあんなことになっただろうか」「あれはもう少し後であってくれたらよかったのに……」とか、悔やんだり嘆いたりしますが、そうではない。その日その時以外に事はあり得ない。それがいちばんベストな「時」なのです。だから11節にあるように「神のなされることは皆その時にかなって美しい」のです。「神の時」とはいつだろうか。それは「今」です。私たちはいま自分でしているように思う、自分で時を選んでいるようですが、実はそこに神様を認める。「これもいま神様が『よし』としてくださった時です」と信じる。これから先、神様は時を備えてどんなことを起こされるか分かりません。しかし、何があっても神様が備えてくださった時の中で私たちは生きているのだ、と決して忘れてはならない。11節に「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と。どんなことも「神様がしてくださっておられる」と信じて、感謝して受ける。これがまず私たちのなすべき事です。ところが、なかなかすんなり、「これは、神さまのなさることですから、感謝します」とは言い切れない。殊に、家族の病気であるとか、あるいは介護であるとか、重荷を負わせられたように感じます。そうすると、自分の生活が思うようにならない、あるいはいろいろなことで時間を取られ、手を取られる。そういう中で「どうしてこんなになったのだろう」、「もっと、自分が元気な時にこうだったら」とか、いろいろと思う事が次々と湧いて来ます。しかし、そのときにこそ「そうではない。今この日、この時、このことのために神様が事を起こしておられる。これがいちばん良い時なのだ」と認めることが大切です。それに至るために戦わなければならない。私たちには心の中で戦いがある。「何とか逃げ出したい」、あるいは「避けて通りたい」、「こんなもの、嫌だ」と、全部手放して、放り投げて、私は他の所へ行きたい」と思うかもしれない。しかし、そのようなことはいつまでも永遠に続くものではない。神様はそれを始められた方ですから、また終わらせる時が来る。あるいは、次なる問題が起こる時が来る。その時々に応じて、絶えず「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と信じ続ける。これまでの人生を振り返ってみたら、そのことがよくお分かりになると思うのです。「なるほど、あの時あれがあったればこそ、次のここにつながる」、「そのことがあったからこうなって来た」、「どう考えてもこれがいちばん良かった」と言う時が来ます。神様が私たちをそのような状況に置いてくださっているのです。それを信じられないがゆえに、悩んだり思い煩ったり、つぶやいたり、嘆いたりします。どうぞ、「すべてのわざには時がある」と信じましょう。そして、神様のなさる時、神様が備えてくださった事柄、その「時」が美しい時、最善の時であり、最善の事であると、しっかりと信じて感謝しようではありませんか。
11節の後半に「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」とあります。神様は私たちの心に「永遠を思う思い」、言い換えると、神様の御思いを知ることができる、そういう霊の力を与えてくださっている。しかし、だからと言って「神様の思いの全部を知り尽くすか」と、それはできないのです。「見きわめることはできない」。この先どうなるか、先のことを考える力があってもそれは神様の御思いの全てを知るわけではない。だから、神様の御前に自分を低くして、いま与えられた、神様が備えられた「時」の中に生きている、そのことを感謝して生きる。また神様はそれぞれに、その時を備えてくださる。
「ヨハネによる福音書」2章1節から5節までを朗読。
これはガリラヤのカナという町でイエス様と弟子たちが結婚式に招かれたときのことです。そこにイエス様の母マリヤも来ていました。披露宴の途中で「ぶどう酒がなくなってしまった」と。予定した人よりも多かったのでしょうか。それでマリヤさんは心配になってイエス様の所へ言いに来ました。「ぶどう酒がなくなりました」と。そのときに4節に「イエスは母に言われた、『婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係(かか)わりがありますか。わたしの時は、まだきていません』」。マリヤさんがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と伝えたのですが、イエス様の答えは何とも素っ気無い。「わたしの時は、まだきていません」と答えられたのです。「わたしの時」、神様がイエス様に事をさせなさるその時がまだ来ていない。イエス様はご自分のスケジュール、ご自分の時の中で生きているのではなくて、父なる神様の備えられた時の中で「わたしに与えられたこの時、この事をする」ことを求められて生きて来た。ですから、イエス様は繰り返して「自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」(ヨハネ 6:38)と語っておられます。「わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」と。「みこころを行う」、いつ何をすべきか、これが御心であります。神様の御思い、ご自分がすべき神様の時が、今ではない、とイエス様は語っておられる。「わたしの時は、まだきていません」。
私たちも神様のなさる一つ一つのわざの「時」の中に生きている。ともすると、自分の計画や自分のスケジュールで、「こうしたほうがいまいちばん良い」「私が元気だし、いまのうちにこうしておこう」とか、勝手に自分で計画を立てますが、そこでもう一度神様に問い掛ける。「わたしはいつ何をどうすべきか? 」その時がいつであるかを絶えず求めて行く。これが神様の「時」の中に生きる生き方であります。イエス様はどんな時にもご自分に与えられた、神様の備えられた時がいつであろうか?を絶えず問いかけていたのです。ですから、このときも「わたしの時は、まだきていません」と。
「ヨハネによる福音書」7章5節から8節までを朗読。
イエス様がガリラヤを巡回しておられたときであります。収穫祭のようなものでありますが「仮庵の祭り」というユダヤ人の大切な時が近づいていました。その時には多くの人々がエルサレムの神殿に、感謝の燔祭をささげるためにやって来る。この時、イエス様の兄弟たちはイエス様を神の子であると信じていなかったのです。イエス様に対して「あなたも祭りがあるからエルサレムに行ったらどうだ」と言ったとき、6節に「わたしの時はまだきていない」と答えています。このときもイエス様は神様が備えられた時に何をどうすべきか、その時を求めておられたのであります。だから「わたしの時はまだきていない」。つい人の言葉に誘われて、売り言葉に買い言葉、「そんなに言われるなら、やってやるわ」と、後先考えないでパッパと事をして、後になって「しまった。あのときしなければ良かった」と悔やみますが、絶えず「今、これをする時なのだろうか? 」「今は何をするべき時だろうか? 」。このことを絶えず自覚して生きることが大切です。神様の備えてくださった一つ一つの時の中に私たちは生かされている。そして「今」が主の時である。神様が備えられた時であると確信を持って歩んで行きたいと思うのです。
「伝道の書」3章11節に「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」。神様はこの地上の生涯をどのように終わらせなさいますか、それに至るまでの時間がどのくらいあるか、どんなに想像をたくましくしても、それを知り尽くすことはできません。世を去るまでの過程で、どんなことが起こって来るか、これも分かりません。しかし、神様が私たち一人一人に備えてくださった事があり、その時があることを信じて行きたいと思います。
イエス様は「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ 6:34)と言われます。一日一日、今日、主がせよとおっしゃること、「今日、神様が私に備えてくださったことをさせていただきます」と、その「時」をしっかりと握って、もう二度と帰って来ない、再び繰り返すことのできない命を、この日々を生きていることを忘れてはならない。そして、私たちのために神様が備えてくださったわざはどれ一つとして間違いのないわざ、「時にかなって美しい」とあるように、最善のことを備えてくださっていると信じて、感謝しようではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
11節「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」。
この記事は比較的有名といいますか、一般の人々にも知られているものです。1節以下に「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。2 生るるに時があり、死ぬるに時があり…」と語られています。これは多くの人々の心に残る言葉であるようです。私たちにとっても、これは大切な事です。人生には必ず初めと終わりがあり、その間に様々なことを体験します。
先日もお召されになって3年目を迎え方の記念会を、ご家族の希望でいたしました。その方は大正3年の生まれであったと思います。この記念会でもう一度その方が生まれてから召されるまでの人生、その生き様を振り返る時が与えられました。人生はひとつのドラマです。それを振り返って深く感じることはそれぞれの出来事に「時」が備えられている、ということです。「時」には、度々申し上げるように、二つの種類があります。私たちが毎日の生活で繰り返している時、時間、これは時計の24時間で測られる時間であります。朝の7時は昨日もありましたし、今日もあります。また明日も朝7時という時間は繰り返してやって来ます。その時間に応じてすることは決まっています。それぞれのスケジュールに合わせて朝何時に起きる、何時に寝るという一日の予定があります。それは毎日繰り返されるわけであります。ところが、人生は、一回限りです。もう二度とそこへ戻ってくることはありません。まず、地上に命を受けることから、私たちの地上での生活、人生が始まっていますが、それは二度と繰り返すことができない「時」です。
まずもって「生まれる」時自体、いつ生まれるか、誰も自分で決めるわけにはいかなかったのです。2節に「生るるに時があり」とありますが、この「時」は私たちが決めることができない時であります。気が付いたとき「オギャー」とこの世に生まれている。誕生日があるのです。「私の誕生日はいつやっただろうか」と忘れている方もありますが、忘れていても誕生日が無い人はいません。必ず生まれた時があります。なぜ私がその日その時この親の許(もと)に生まれたか、誰が決めたか、と問われても、 誰が決めたのでもない。「神様がそうしてくださった」としか言いようがないのです。もし、自分で選ぶことができたら、恐らくもっと違った時代に、あるいは違った親の許に生まれたかったと思う方もいると思いますが、それはもう不可能です。私たちが地上に生を受ける、命を与えられた、そのこと自体が私たちの手にないのです。自分の計画にない事柄であります。そうでありながら、どういう訳か、この地上の生涯を自分で造り出している、自分で計画し、努力して、持ち運んで来たと思っている。これはちょっと考えると、何だかおかしな話であります。
そもそも自分の生まれる「時」ですら自分ではどうにもできなかったのです。だから、それから後の人生、この世を去るときまで全て自分の努力や計画によるのではありません。生まれてから、それぞれの生涯にわたって成長し、変化して、時を経(へ)ていきます。幼児期を過ごし、児童期に入り、青年期に入り、学校に入学し、幼稚園、小学校、中学・高校、また大学、あるいは専門学校とか、いろいろな人生の進路を経ながら、結婚し、家庭を築き、そして子育てに忙しくし、また社会に出て仕事に励んでという、一つ一つの人生に起こって来る出来事すべてが、実は自分の計画でやっているようであって、そうではないのです。それを私たちは忘れています。若いころ、エネルギーにあふれ、生きる望みや夢、様々な楽しいことがあふれていた時代、神様なんて思う暇がない。何でも努力すれば、あるいは何とかすれば自分の力でやって行ける。「あれをしてやろう」「これをしてやろう」と力に満ちていた。そういう時は、自分が神様のようなもので、「俺が……」「俺が……」と、「自分ができるのだ」と思っている。事実そのような生き方ができたわけです。しかし、健康が損(そこ)なわれ肉体の力が衰えてしまい、目はしょぼくれ、記憶は薄らいでくる。そうなってくると、生きること自体が何のためであったのか、これから私はいつまで生きているだろうか、そういうことを考え始める。生きることが自分の力や努力や知恵によるのではない。何か大きな目に見えない力によって生かされている自分であることを感じるといいますか、そういうものに心が向く。これは本当に恵みの時であろうと思うのです。いま私たちが何に生かされ、どういう「時」の中を生きているか?それを覚えて行くことが大切であります。私たちは生まれて今に至るまで、神様の備えられたわざ、事の中に生きて来ました。ところが、そうは思わないので「あの日あの時、もう少しこうしておいたら良かった」「あれはもう少し早かったら良かったのに」「あのことはもっと後になってすれば良かった、早かった、遅かった」という思いが常にあります。自分が「時」をつかさどるといいますか、支配しているように思い違いをする、間違ってしまうわけです。だから、もう一度自分の生きて来たこれまでの事が誰の手によってそうなって来たのか?その日その時というのが、実はそれ以外にあり得ない「時」の中で私たちが生かされている。自分が生きているのではなくて、神様によって私たちがそれぞれに与えられた事に導き入れられ、それを受けてきたにすぎないのです。だから、生まれることもそうであります。自分で得たのではなくて神様によって与えられたものであります。ですから、それは神様が「よし」と見給う「時」にかなったものであることを認める、これが神を信じることに他なりません。
2節に「生るるに時があり、死ぬるに時があり」とありますが、やがて私たちは必ず誰もかれも死ぬ時が来ます。地上の生涯を終わる時が来ます。しかし、それがいつであるか分かりません。こればかりは医者も分かりません。それについては忘れられないことがあります。
一人の方が、ご高齢でありましたからいつ召されてもおかしくないという状態で入院をしておられました。その日は土曜日だったのです。午前中は結婚式がありまして、午後は披露宴があって、その夜はまた別の集まりがあり、そこへ招かれていました。その方はご高齢で呼吸器の病が重篤で、間もなく召されるに違いないと、病院では集中治療室に置かれていました。今日か、明日か、といわれて、お医者さんの話によると、召されていても不思議ではない状態でした。ところが、どういう訳か……。これこそまさに神様のご計画であったと思います。私はその方のことが気になっておりました。で、お昼までは詳しい様子が分かっていましたから大丈夫だと言われました。夜の集まりに出るべきかどうか、ちょっとためらったのです。恐らくそのとき神様がとどめておられたと思うのですが、気になって「ちょっと様子を見て来よう」と思いました。夕方4時過ぎに病院に行きました。今晩にでも召されそうな様子だったら、夜の集まりは断ろうと思いました。もしそうでなければそのまま出席しようと思いました。病室に入り、顔を見るとなかなか元気そうで、声を掛けると返事もするし、受け答えもしっかりしている。「これは大丈夫。今晩一晩ぐらいはもてそうだ」と、私が決めたのです。自分で決めたのであります。そうして、出掛けました。夜10時過ぎに教会へ戻ってきました。激しい雨が降っていました。帰り着いて玄関の扉を開けようとしましたら、足元に白い紙が水の中に見えたのです。ふと拾い上げると「7時30分何々兄が召されました。連絡したけれどもお留守なので、お知らせします」という紙が、ポストから落ちて雨水に浮かんでいた。私はそのままその方の家へまいりまして、最後の納棺の祈りを一緒にさせていただいたのです。その時「しまった」と思ったのです。「あの時、神様がとどめておられたのに、偉そうに『わたしがひとつ見てやりましょう』」と、自分で人の死を計る、これは絶対できないのです。神様の許しがなければその事は起こらないし、また神様が定められた時が来なければどんなこともあり得ないのです。その時しみじみそう思いました。
「生るるに時があり」と、もちろんそうです。皆さんもご経験のとおり、一応予定日とか決まってはいますが、必ずしもそのとおりには行きません。どんなこともそうでありますが、神様の「時」がある。これは神様が私たちの人生を造り出してくださる御方だ、ということです。
「詩篇」139篇13節から18節までを朗読。
13節に「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました」。神様は私たち一人一人を母の胎に宿してくださって、その中で骨格を造り、体を造り、内臓に至るまで事細かくきちっと組み立ててくださる。そして16節に「あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた」と。神様は私たちがこの地上に肉体をもって存在しない前から、どういう姿かたちであるかを、ちゃんとまるで目の前にいるがごとくに見ておられたと。建物などを設計する人は設計図を見ただけで完成した実態を思い描くことができます。まさに神様は私たちの姿形がなくても、私たちの設計図といいますか、それを見ているだけで、どういう人生、どういう姿かたちであるかを見てくださった。しかも16節の後半に「わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた」と。まだこの地上に一日として生きていなかった、姿かたちのなかった時、既に生まれてから死ぬまでの地上の生涯のすべてが神様のスケジュール帳にきちんと定められ、備えられている。17節に「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう」と言われていますが、神様が私たちに計画してくださった思いは誠に尊いこと、私たちにとって掛け替えのない恵みであると、この詩篇の記者は歌っています。私たちもそうであります。今日この所にこうして生かされていることは、これはまさに神様のご計画であり、御思いであります。
家内の母もそうであったと思います。時々ふと思うのです。義母が脳内出血を起こして倒れました。救急で搬送されて、救急病院に入れたのです。その時お医者さんはCTを撮って、「頭の中に出血しているから、その出血を早く取ろう」と、「そして脳の圧迫を取り除いてやりたい」と。「頭蓋骨に穴を開けて出血部分を取り除く」と。「だから早く手術しなければいけないから家内に家族として同意をしてくれ」と言う。今でもそれで良かったのだろうか、どうだろうか? あのとき、その手術をしなかったら、恐らくそのまま昏睡(こんすい)に入って1週間か10日ぐらい眠ったきりで、恐らく生涯が終わったに違いない。ところが、手術をしていったん脳内の出血、脳の圧力が解放されて平常に戻って取りあえず命を取り留めました。ところが右側半身が麻ひしました。左目も見えなくなりました。足が動かなくなって立てなくなりました。リハビリをしたり、いろいろな中を通ってやっと今まで、昨年の11月から8カ月近くになりましょうか、経過して来ました。幸いに一つの施設に受け入れられ、幸いな介護を受ける環境に置かれて、やっと本人も少し落ち着いて来ました。しかし、取りあえず食べるのは右手が利きませんので左手ですくって食べます。ところが、ベッドから起き上がることも自分ではできませんし、車いすにも自分では乗れません。すべてが人の手を借りなければならない。そうなると生きていること自体が大変苦痛です。「死にたい」「死にたい」と嘆きます。最近は少しそのことは遠ざかりましたが。先だっても「死にたくて車の走っている通りへ飛び出して行った。けれども、車が皆よけて通って死ねなかった」と言う。「本当かな? 」と思う。歩けない人がそんなはずはないが、願望が夢になるのです。そういう夢を見ている。それほどに自分がいま生きていることを呪う状態にある。それを見ると「やっぱりあのとき手術に同意しなければ良かったのではないか」という思いがする。しかし、よくよく考えると、決して人の手の業ではなくて、そこにも神様の備えられた「時」があり、「わざ」がある。これを自分が認めなければ何一つ解決はありません。私は今そのことを痛切に教えられます。確かに、幸いというか、意識ははっきりしているのです。担当のお医者さんに伺うと「認知症の傾向は一切ありません」と言われて、うれしいやら悲しいやら「少しおめでたくなったほうが本人にとっては楽かな」と思う所はありますが、しかし、それもこれも実は神様が備えられた「時」の中で生きている。家内は「あのとき同意書に署名しなくて『母は延命を拒否している人ですから一切何もしないでください』と言ってしまえば良かったかな」と悔やみますが、考えてみると病院に運ばれたとき意識があったのです。話もしましたから、そこで放っておくことはどうしてもできない。初めからこん睡で運ばれて反応がない状態であれば「何もしないでくれ」と言えたでしょう。これも誰がそうしたか? 人ではないのです。
神様の「時」があって、なお生きるべきことがあり、そういう事態の中に神様が置かれる。それは義母のことだけでなくて、それに関わる家族の私たちにも「今このことをしなければならない『時』なのだ」と信じる。こういう状況の中でどう生きるか、どのようにそのことを神様の前に受けとめるべきかを考えなければならない。これは、義母の問題のようであって、義母だけではなくて、私たち家族の問題でもあり、関わる者たちに対する問いかけであることを教えられます。そして、一つ一つの神様の「時」の中に生かされている。義母はいま小康状態といいますか、取りあえず落ちついて生活も安定し、身体的な条件、バイタルサイン(生命兆候)も大変良い状態の中に置かれている。そうすると今度は逆に「いつまで生きるのだろうか」と、心配になるらしい。今年91歳になりますが、「あと10年、百歳になったらどうしようか」と心配する。人と言うのは身勝手です。でも死ぬ時は分からない。いつ何時、どうなるか分かりません。
「伝道の書」3章1節の「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」。「わざには時がある」と、そしてその「時」を誰が握っておられるか?実は神様が私たちに時を定めて事を起こしてくださる。「どうしてあのときにあんなことになっただろうか」「あれはもう少し後であってくれたらよかったのに……」とか、悔やんだり嘆いたりしますが、そうではない。その日その時以外に事はあり得ない。それがいちばんベストな「時」なのです。だから11節にあるように「神のなされることは皆その時にかなって美しい」のです。「神の時」とはいつだろうか。それは「今」です。私たちはいま自分でしているように思う、自分で時を選んでいるようですが、実はそこに神様を認める。「これもいま神様が『よし』としてくださった時です」と信じる。これから先、神様は時を備えてどんなことを起こされるか分かりません。しかし、何があっても神様が備えてくださった時の中で私たちは生きているのだ、と決して忘れてはならない。11節に「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と。どんなことも「神様がしてくださっておられる」と信じて、感謝して受ける。これがまず私たちのなすべき事です。ところが、なかなかすんなり、「これは、神さまのなさることですから、感謝します」とは言い切れない。殊に、家族の病気であるとか、あるいは介護であるとか、重荷を負わせられたように感じます。そうすると、自分の生活が思うようにならない、あるいはいろいろなことで時間を取られ、手を取られる。そういう中で「どうしてこんなになったのだろう」、「もっと、自分が元気な時にこうだったら」とか、いろいろと思う事が次々と湧いて来ます。しかし、そのときにこそ「そうではない。今この日、この時、このことのために神様が事を起こしておられる。これがいちばん良い時なのだ」と認めることが大切です。それに至るために戦わなければならない。私たちには心の中で戦いがある。「何とか逃げ出したい」、あるいは「避けて通りたい」、「こんなもの、嫌だ」と、全部手放して、放り投げて、私は他の所へ行きたい」と思うかもしれない。しかし、そのようなことはいつまでも永遠に続くものではない。神様はそれを始められた方ですから、また終わらせる時が来る。あるいは、次なる問題が起こる時が来る。その時々に応じて、絶えず「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と信じ続ける。これまでの人生を振り返ってみたら、そのことがよくお分かりになると思うのです。「なるほど、あの時あれがあったればこそ、次のここにつながる」、「そのことがあったからこうなって来た」、「どう考えてもこれがいちばん良かった」と言う時が来ます。神様が私たちをそのような状況に置いてくださっているのです。それを信じられないがゆえに、悩んだり思い煩ったり、つぶやいたり、嘆いたりします。どうぞ、「すべてのわざには時がある」と信じましょう。そして、神様のなさる時、神様が備えてくださった事柄、その「時」が美しい時、最善の時であり、最善の事であると、しっかりと信じて感謝しようではありませんか。
11節の後半に「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」とあります。神様は私たちの心に「永遠を思う思い」、言い換えると、神様の御思いを知ることができる、そういう霊の力を与えてくださっている。しかし、だからと言って「神様の思いの全部を知り尽くすか」と、それはできないのです。「見きわめることはできない」。この先どうなるか、先のことを考える力があってもそれは神様の御思いの全てを知るわけではない。だから、神様の御前に自分を低くして、いま与えられた、神様が備えられた「時」の中に生きている、そのことを感謝して生きる。また神様はそれぞれに、その時を備えてくださる。
「ヨハネによる福音書」2章1節から5節までを朗読。
これはガリラヤのカナという町でイエス様と弟子たちが結婚式に招かれたときのことです。そこにイエス様の母マリヤも来ていました。披露宴の途中で「ぶどう酒がなくなってしまった」と。予定した人よりも多かったのでしょうか。それでマリヤさんは心配になってイエス様の所へ言いに来ました。「ぶどう酒がなくなりました」と。そのときに4節に「イエスは母に言われた、『婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係(かか)わりがありますか。わたしの時は、まだきていません』」。マリヤさんがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と伝えたのですが、イエス様の答えは何とも素っ気無い。「わたしの時は、まだきていません」と答えられたのです。「わたしの時」、神様がイエス様に事をさせなさるその時がまだ来ていない。イエス様はご自分のスケジュール、ご自分の時の中で生きているのではなくて、父なる神様の備えられた時の中で「わたしに与えられたこの時、この事をする」ことを求められて生きて来た。ですから、イエス様は繰り返して「自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」(ヨハネ 6:38)と語っておられます。「わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである」と。「みこころを行う」、いつ何をすべきか、これが御心であります。神様の御思い、ご自分がすべき神様の時が、今ではない、とイエス様は語っておられる。「わたしの時は、まだきていません」。
私たちも神様のなさる一つ一つのわざの「時」の中に生きている。ともすると、自分の計画や自分のスケジュールで、「こうしたほうがいまいちばん良い」「私が元気だし、いまのうちにこうしておこう」とか、勝手に自分で計画を立てますが、そこでもう一度神様に問い掛ける。「わたしはいつ何をどうすべきか? 」その時がいつであるかを絶えず求めて行く。これが神様の「時」の中に生きる生き方であります。イエス様はどんな時にもご自分に与えられた、神様の備えられた時がいつであろうか?を絶えず問いかけていたのです。ですから、このときも「わたしの時は、まだきていません」と。
「ヨハネによる福音書」7章5節から8節までを朗読。
イエス様がガリラヤを巡回しておられたときであります。収穫祭のようなものでありますが「仮庵の祭り」というユダヤ人の大切な時が近づいていました。その時には多くの人々がエルサレムの神殿に、感謝の燔祭をささげるためにやって来る。この時、イエス様の兄弟たちはイエス様を神の子であると信じていなかったのです。イエス様に対して「あなたも祭りがあるからエルサレムに行ったらどうだ」と言ったとき、6節に「わたしの時はまだきていない」と答えています。このときもイエス様は神様が備えられた時に何をどうすべきか、その時を求めておられたのであります。だから「わたしの時はまだきていない」。つい人の言葉に誘われて、売り言葉に買い言葉、「そんなに言われるなら、やってやるわ」と、後先考えないでパッパと事をして、後になって「しまった。あのときしなければ良かった」と悔やみますが、絶えず「今、これをする時なのだろうか? 」「今は何をするべき時だろうか? 」。このことを絶えず自覚して生きることが大切です。神様の備えてくださった一つ一つの時の中に私たちは生かされている。そして「今」が主の時である。神様が備えられた時であると確信を持って歩んで行きたいと思うのです。
「伝道の書」3章11節に「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」。神様はこの地上の生涯をどのように終わらせなさいますか、それに至るまでの時間がどのくらいあるか、どんなに想像をたくましくしても、それを知り尽くすことはできません。世を去るまでの過程で、どんなことが起こって来るか、これも分かりません。しかし、神様が私たち一人一人に備えてくださった事があり、その時があることを信じて行きたいと思います。
イエス様は「あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(マタイ 6:34)と言われます。一日一日、今日、主がせよとおっしゃること、「今日、神様が私に備えてくださったことをさせていただきます」と、その「時」をしっかりと握って、もう二度と帰って来ない、再び繰り返すことのできない命を、この日々を生きていることを忘れてはならない。そして、私たちのために神様が備えてくださったわざはどれ一つとして間違いのないわざ、「時にかなって美しい」とあるように、最善のことを備えてくださっていると信じて、感謝しようではありませんか。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。