「創世記」39章1節から6節前半までを朗読。
2節「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった」。
ご存じのようにヤコブの息子ヨセフのことであります。彼は12人兄弟の末から2番目の子供でありますが、ラケルというお母さんによって生まれた子供です。ヨセフの弟ベニヤミンもラケルの子供でありましたが、他の兄弟は母親が違う兄弟であります。ですから、ヨセフはお父さんから大変愛されていました。そこを読んでおきたいと思います。
「創世記」37章1節から4節まで朗読。
ヨセフは他の兄弟たちと一緒に遊んでいましたが、17歳といいますから、まだ大人になりかけです。兄弟たちからいろいろなことを覚える。彼はそういう兄弟が何か悪いことをすると、告げ口をするのです。これは兄弟の中でいちばん始末にこまる。チクルわけです。ここにありますように「悪いうわさを父に告げた」というのです。これだけでも随分憎まれるでしょう。ところが、それに加えて3節に「ヨセフは年寄り子であった」と。 “年寄り子は可愛い三文安„ ともいいますが、可愛いのでヨセフはお父さんに愛されます。ですから「イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して」とあります。「彼のために長そでの着物をつくった」と。この「長そでの着物」とは、その当時どういう意味合いがあったか分かりませんが、いずれにしても皆がうらやましがるような衣装、そういう表現だと思います。当時、普段着は袖がなかったのかもしれませんが、彼だけは一張羅(いっちょうら)を着ているといいますか、兄弟とは着るものも違っていたのです。兄弟はヨセフを大変憎んでいました。恐らく兄弟の中にそういうのがいたら、「なんだ、あいつは」となります。4節には「兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった」と。いうならば、仲良くできないのです。常に意地悪で、悪意に満ちた接し方しかできないのです。つい私どもは、兄弟のほうに同情して、「そうだよな」と、「ヨセフは馬鹿だな」と思います。しかし、ヨセフが兄弟の悪いことを悪いと言えるのは、彼の信仰といいますか、神様の前に歩んでいた生活があったことでもあります。ですから一概に親から偏愛されていたから、親の側に立って兄弟の有ること無いこと悪口を言ったといいますか、告げ口をしたというよりも、ヨセフは幼い時からか神様を畏(おそ)れ敬っていたが故に、自分も正しい道を歩もうと努めたのでしょう。
しかし、5節以下にありますように、ヨセフは一つの夢を見ます。その夢がまた聞くとカチンとくるような夢です。読んでみますと、7節に「わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」と。こんなことを聞いて心穏やかな人はいないですね。もし私だったらとっくにブチ切れるかもしれません。また更に進んで9節に「ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、『わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました』」。「日と月」というのは、お父さんとお母さんという意味でしょう。その他自分をのぞいて11の星が自分に向かってお辞儀をする。拝んでおる。これを聞いて兄弟は頭にきたわけです。「金輪際許せん」という思いになった。ところが、お父さんは11節に「兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた」とあります。やはりお父さんは普段からのヨセフの生活ぶり、歩み方、その様子を見ていて「これはただ事ではない」と、その夢物語を聞いて、単なる自慢話とか、自分を誇る話とも限らないと。お父さんヤコブはこれまでご存じのように、大変波乱万丈の人生、修羅場を生きて来た人でありますから、物を見る目は備わっていたと思います。だから、「父はこの言葉を心にとめた」と。
マリヤさんもそうでした。クリスマスの物語にありますが、イエス様が生まれて羊飼いたちが拝みに来た。あるいは博士たちが来ました。そういうことを通して「マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた」(ルカ2:19)と。「これは何かあるぞ。きっとこれはこれだけのことでは終わらない」という、ある種の予感といいますか、そういうものを感じる。皆さんでもそういうことがあると思います。これは神様がそのことを悟らせなさるのです。だから、私たちもいろいろなことで「ひょっとしたら、これは……」と感じますね。「これは、このままじゃ行かない。きっと更に次なる大きな事が待ち受けているに違いない」と、何であるかは分からないけれども、心に留める。これがお父さんの受け方であります。ところが、兄弟はそのような理解はできませんから、ただヨセフ憎しであります。
その後、12節以下にありますように、お兄さんたちが遠く離れた所で羊を飼っていたとき、お父さんは彼らの食事を届けるためにヨセフを使いにやります。ところが、お兄さんたちはヨセフが一人でやって来るのを見て善からぬ心を起こしたのです。「こんないいチャンスはない。この際あいつをとっちめてやろう」というわけです。それで彼を捕えて、キャラバンに、その当時エジプトに物を運んでいる商人たちに彼を売り飛ばしてしまうのです。そして、羊の血を着ていた物に付けて、「彼はどうも獣に殺されてしまったらしい」ということにしたのです。お父さんにそういううそをつきました。ヨセフはそうやって売られたのです。
そのことが先ほどお読みいたしました39章の1節に「さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った」と。商人たちはヨセフをエジプトで奴隷として売ろうというわけで連れて行きました。そのときたまたま侍衛長であるポテパル、いうならば王様に仕える近衛(このえ)兵の隊長さんのようなものでしょう、その人に買われることになり、その家の奴隷となったのです。ところが、2節に「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった」。これは非常に象徴的な言葉だと思います。まず「彼は幸運な者となった」というのですが、私たちが思うところの幸運、幸せと、ここで言われている幸せとは随分違います。ヨセフが自分の愛する家族から捨てられて、裏切られて、売り飛ばされて見ず知らずの異邦の地、遠く離れた国に奴隷となった。どこに幸運がありますか? 私たちが自分をその身に置いてみるならば、こんな不幸な境遇はない。自分にとって大変なこと、憤死するといいますか、耐えられない事態であります。しかし、ここではっきりと「幸運な者となった」と言われています。幸運とは何かというと、「主がヨセフと共におられたので」という一言です。私どもが幸運というと、事情、境遇、生活上の何かが思うように願うようにスムーズに事無く進んで行くこと。幸せというものはそういうものだと思っています。ところが、ここでそれを当てはめるならば、ヨセフほど不幸な者はいません。ところが、神様は「そうではない」と。そんな事情や境遇や物事は、良い時もあれば悪い時もある。上がったり下がったりします。それは問題ではなくて、私たちがどのように生きているか。いうならば、「主がヨセフと共におられて」、神様と共に生きる生涯、これが誠に幸運なことです。
だから、マリヤさんにガブリエルが「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」(ルカ 1:28)と言われました。マリヤさんはなにゆえに恵まれた女だろうか? 後になって結果を知ると、救い主イエス様の母親になったのですから、これは女性の中では最高に幸せな女性だと思うかもしれませんが、その時は何も分からなかったのです。それこそ天から降って来た不幸な話です。ところが、神様は「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。主が共におられるからあなたは恵まれている。ここでは「主がヨセフと共におられたので、あなたは幸運な者になる」と。これが私たちに対する神様のご計画であり、御思いです。
私どもは、自分が願ったように思ったような人生、そして、人様と同じように、人並みに幸せな人生でありたいと思っています。しかし、現実はそうはいかない。次から次へといろいろなことが起こってきます。そのときに自分の身の不幸を嘆きます。「私はどうしてこんなに次から次へと嫌なことが起こるのだろうか。不幸の塊(かたまり)なのだろうか。私の何が悪かったのだろうか」と、いろいろなことで思い悩みます。しかし、その思い悩むとき、何を気にしているかというと、人並みでないこと、自分の目に見えている状況や事柄、境遇がこうだから、ああだからという具体的な事柄によって、失望し、嘆いたり悲しんだりしているのです。だから、ヨセフが私たちと同じようなことで運、不運といいますか、幸福か不幸かを決めるならば、彼は自分の身の不幸を嘆いて当然であります。彼は、そこで兄弟を恨んでやけを起こしてふて腐れるかもしれません。
ところが、彼は「主がヨセフと共におられたので」と、これはヨセフが神様を信じていたことです。ここで大切なことは「主がヨセフと共におられた」という言葉の具体的なことは、言い換えますと、ヨセフが神様を信頼したことです。「主がヨセフと共におられた、神様のほうがヨセフと共にいてくださった。では、神様は私と共にいてくださらないかもしれない。私のあそこが悪いし、ここが悪いし、ひょっとしたら神様は私とは共におられないのではないか」と。「主がヨセフと共におられる」ということは、ヨセフ自体の事です。ヨセフが「神様がいま私と共にここにおられる」と信じたからこそ「主が共におられる」のであります。それを信じない人にとっては、たとえ神様がそこにおられても、そうとは言えません。イエス様は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)とおっしゃった。実は今も主が私と共にいてくださるのですが、私たちがそのスイッチを切ってしまうなら、いつも共にいてくださることにはならないのです。ここが非常に大切なことですが、神様が共におられる、というのは、あなたが信じたときなのです。ここに主がおられます、と信じて生きているとき、主はそこにおられます。しかし、主を忘れて勝手放題していたら、そこには主はおられません。そういう存在なのです。同じ部屋にふたりの人がいて、「ここに主がおられる」と信じる人と主が共におられるのです。「いや、同じ部屋にいるのだから、部屋全体に神様がおられるに違いない」と思いますが、そうではありません。そこにいる人が「神様? わしは信じん」と言う人にとっては、神様はいらっしゃらない。だから、神様という御方は私どもが信じるか信じないかに懸っているのです。神様がいらっしゃると信じるならば、その人にとって神様はご自分をあらわしてくださる。ご自分の存在を明らかにしてくださる。ところが、信じない人には、神様はご自身をあらわす方法がないのです。私どもは神様の憐れみによってこの救いに引きいれられて、今は天地万物の創造者である神様を信じる者としていただきました。ところが、いま世の中にはたくさんの人々が生きていますが、じゃ、あの人たちにも神様が共にいてくださるのか? いいえ、それはその人が信じないかぎり、神様は彼らと共におられるとはならないのです。これは極めて主観的な事柄です。客観的に証明はできないのです。神様という御方をああだ、こうだと。だってパウロが「ローマ人への手紙」1章で言ったように、「天然自然を見ればそこに神様がいらっしゃることはすぐに分かるじゃないか」と。それは神様を信じる人なら分かるのです。信じない人には分からないのです。この講壇にきれいなゆりが生けられていますが、「このゆり、きれいやね。いくらしただろうか」と言う人にとって、これは神様が造られたと感じないのです。私どもは「神様がおられる」と信じて草花を見ると「本当に神様は素晴らしいわざをしてくださったね」と言えます。ところが、信じない人にとっては「これはどこで買って来たのだろうか」という話です。神様とはそういう御方なのです。「客観的に証明して見せてくれ」といっても、これはできません。しかし、はっきりしているのは、信じた人に神様はご自分をあらわしてくださる。
「主がヨセフと共におられたので」と、このお言葉の意味をしっかりと受け止めていただきたい。「主が私と共におられる」と信じて行く。ヨセフはお兄さんたちの悪巧みによって売られて、自分の願わない思いもしない境遇に放り込まれてしまう。ところが、彼が「主が共におられる」と信じたのは、その受けた自分のいま置かれた状況や事柄自体が神様によって備えられたことだ、と彼は信じたのです。これが神を信じることです。だから、私どもは「神様がいらっしゃるのにどうしてこんなことになったのだろうか」「神様が私と共におられるというのに、私はちっとも幸せになれない」と言う。それは信じていないからです。「神様はおられる」と口で言いながら、心で神様を信じないから、神様がそこにおられることを体験できない。ヨセフは自分が受けたその不幸の極みと思われる事態や事柄そのものを、まさに「これは神様が私と共におって、このことをしておられるのだ」と信じたのです。これがヨセフと私たちの違いです。私たちがヨセフになれないのはそこです。2節に「主がヨセフと共におられたので」と、「神様はヨセフだけを恵んでくれたのか」と思われますが、そうではないのです。これは言い換えると、ヨセフが主を心から信頼したことなのです。ヨセフが神を信頼するというのは、ただ、夢を見て、黙想して、静かにめい想にふけって神を信じたのではないのです。自分が置かれている境遇や事柄こそがまさにこれは神様のわざだ、と認めるのです。これが神を信じることなのです。それを抜きにして私たちは神様を信じることはできない。だから、ヨセフは神様が私をこのエジプト人ポテパルの家に置いてくださった、遣わしてくださった、と信じましたから、この家にいて彼は徹底して力いっぱい自分の与えられた務めを果たします。普通、自分の意に反した事柄や事態のことを、それを積極的に喜んでしたいとは思わない。ズルズル引き延ばしてふて腐れて「やっておられるか」と投げやりになります。恐らく、私たちがヨセフのような境遇に置かれたら、ポテパルの家にいて、見られていないときには休んで、さぼって、「こんなポテパルのためにしてやるもんか。おれはこんな不幸な目に遭った」と、自分の不幸を嘆いて、生きる気力もなくなって、つぶやいてしょぼくれているでしょう。ところが、違うのです。ヨセフは神様を信じていたからこそ、神様が自分をこのポテパルの家に置いてくださった、と信じていたからこそ、彼は主のために尽していた。ポテパルのために努力したのではない。ポテパルを喜ばせるためではありません。結果的には喜ばせることになりますが、彼は共にいてくださる主を信じ、行動した。私たちもいま生きるのも主のため、死ぬのも主のために死ぬ者とされています。私たちがいま置かれている境遇や事柄、問題、悩みがあるならば、それこそが、神様がいま私に負わせてくださった、求めてくださった恵みの時であることをはっきりと認める。これが神を信じることです。「そうでした。神様、あなたがここに私を置いてくださった。だから、あなたの御心に従って、神様、あなたの御旨にかなう者となって行きたい」。ですから、ヨセフはポテパルの家で一つとして手を抜かないのです。
神戸生田教会の竹田先生は戦争中日本軍の捕虜収容所の所長になりました。ある時期、門司にあった捕虜収容所の所長を務めていたことがあります。当時、門司の港に南の国から戦時物資として砂糖が運ばれてくる。それを船から荷揚げする荷役にアメリカ人などの捕虜を使っていたのです。竹田先生は牧師でありましたから、それまでも捕虜に人道的な取り扱いをしていました。彼らの信仰を守ることを許したのです。その当時は収容所で捕虜が集まって集会をもったりするのは御法度です。しかし竹田先生はそういうことも許していましたから、捕虜たちから大変尊敬をされていたのです。あるとき大きな船が入って荷揚げになった。それで竹田先生も監督者としてその指揮に行った。すると、捕虜の代表がやって来て、「所長、この仕事は私たちがやるから、あなたは休んでいてください」と言ってきた。「任(まか)せていいのかな」と彼はちょっと心配になったけれども、彼らがそう言うならば「では、お前たちに任せる」と言った。そして、しばらくして「見てください」と言われて行ってみると、倉庫に砂糖の布袋が積み上げられていた。しかもその積んでいる袋の端がゆがみなくピシッとそろって積み上げられていた。数えると一つとして違いがなかった。日本人の労働者を使うとよろける振りをしてわざとそれを落とす。落ちる勢いで袋がはじけて、砂糖がこぼれる。そうすると、それは使い物にならんというわけで働いていた連中がみな小袋に入れて持って帰る。だから、わざと落として大抵数が減るのが当り前。ところが、そのときの捕虜はそんなことをしない。彼らだってひもじい思いをしているのだから、すればできないことはなかったのでしょう。しかし、彼らはそれをしないでピシャッと完全にやった。それには本当に頭が下がった。その様子をみて「これはもう戦争に負けた」と思ったそうです。それで捕虜の人に聞いた。「この日本はお前たちにとっては敵国ではないか。その敵国の利益になるようなことをどうしてする? 」すると捕虜が「いえ、我々は日本のためにしたのではありません。これは神様の前に私たちがすべきことをさせていただいた」。それを聞いたときに竹田先生は「これは参った」と思ったそうです。
まさにヨセフがそうです。あんな所に連れて来られて「こんなの、やっておれるか」と、ふて腐れて誤魔化しておけば済むかもしれない。ところが、彼はピシャットそれをしたのです。後に戦後の東京裁判でほとんどの捕虜収容所の所長が絞首刑になったのです。でも、竹田先生については世界中から嘆願書が送られたのです。イギリスやアメリカからもかつて捕虜だった人たちが「竹田だけは決して処罰してはいけない」と。とうとうそれで一切おとがめなしです。そればかりか、それから後その捕虜たちの代表が日本にやって来て、竹田先生に感謝状を渡したのです。誰に仕えて生きているか。誰を信じて生きているかということです。私たちはどうでしょうか? 自分を信じて、自分のために生きているのですか? あるいは家族のため、誰かれのために今このことをしているのか。そうではなくて、私と共におられる神様に仕えて行く。これがヨセフの生き方です。
だから、ヨセフは神様と共におられることこそが幸運なのです。というのは、神様に仕えていたからこそ幸せなのです。私たちも今本当に幸せなのですよ。なぜか? 神様に仕える者として、神様のために生きる者となっているからです。だから、人が喜ぼうと喜ぶまいと、そんなことはどうでもいいのです。いま私が受けている事態や事柄、与えられている事情境遇にあって神様の御心に従って行きたい。神様の前に喜ばれる道はなにか? 神様が「よし」とおっしゃることは何なのかを問うていく。上手いことポテパルに取り入って、おべんちゃらでも言って少しでも楽をさせてもらおうか、とヨセフは考えたわけではない。だから、2節に「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった」。彼はそこで主に仕える。だから、その最後に「その主人エジプトびとの家におった」と。このひと言は大切なことです。逃げ出さないのです、そこから。私どもはすぐ苦しいときや辛いとき「神様が共におられるなら早くここから連れ出してください。他へ替えてください」と。そうじゃない。ポテパルの家に、彼はそこにとどまるのです。またどこか別の所に「神様、早く替えてください」と言ったわけではなくて、彼はジッとその置かれた所に留まる。なぜ留まることが出来たか。「その主人エジプトびとの家におった」というこのひと言は、「神様が私をここに置いてくださった」と信じたからです。そうでなければ逃げ出したくなります。何とかして逃亡を計ればいいわけでしょう。ところが、彼はそこにとどまって主に仕えていたからこそ3節に「その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」。ヨセフの働きぶり、ヨセフのポテパルの家での仕え方を見ていた主人は「これはただ事ではないぞ」と、「こいつは何かあるぞ」と思ったのです。恐らく、彼はきちんと神様を前に置いての生活をしておったのでしょう。だから、ポテパルは彼の歩み方を見て、「こいつの信じている神様はちょっと違うぞ」と、彼は思ったでしょう。そして「主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」と。見ているとヨセフがしていることが何もかも上手く行っている。それがただに彼の有能さとか才能によるのではないことを見るのです。だから、私どももここにおられる主に仕える生活をしていれば、おのずから「人ではない。神様が働いておられる」ことを、神様のほうが明らかになさるのです。だから、彼は全てのことをヨセフに委ねます。
4節に「そこで、ヨセフは彼の前に恵みを得、そのそば近く仕えた。彼はヨセフに家をつかさどらせ、持ち物をみな彼の手にゆだねた」と。全面的に彼はヨセフを信頼したのです。委ねました。そうすると、5節に「彼がヨセフに家とすべての持ち物をつかさどらせた時から、主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ」。これもまた非常に大切なことです。ヨセフが一生懸命に神様に仕えたところが、神様の祝福はヨセフだけを恵んだのではないのです。ヨセフだけこっそりと神様はおいしい物を食べさせて、ヨセフだけに何かしたというのではなくて、働いているポテパルの家全てを神様は恵んだ。私たちも祝福の基であり、祝福を持ち運ぶ者なのです。皆さんが置かれている家庭が、あるいはその会社が、その地域が、皆さんがいらっしゃるからこそ、そこで主に仕えているあなたを恵んでくださる主は、その周囲をも、その人々をも恵んでくださるのです。これが神様の私たちを選び召してくださっているご目的です。私たちは神様の祝福を持ち運ぶ道具として、神様は遣わしていらっしゃいます。だから、会社勤めをしている人にも私は言うのです。「あなたは会社のために働くのではなくて、そこに主が、神様が遣わしてくださって、この所で主に仕えているのです。そうすれば、あなたが会社にいることによって、会社もまた神様の祝福にあずかるのだから……」と、そう言って勧めることであります。私たちには大切な使命があるのです。自分さえ恵まれればという、そんな小さな話ではない。神様はもっと恵みたいのです。その恵みを広く多くに及ぼしたい。その祝福の基になる秘けつは何か? 主が共におられることを信じて行くこと。そして、共に居給う主のために生きる。主に仕えて行く者となる。これが私たちのいま与えられている大きな使命であります。生きる目的であります。だから、家族、親族、皆さんのご家庭にとって、その祝福の基として選ばれ召されています。「家族の中でクリスチャンは私一人」と嘆くことは要らない。だからこそ神様が選んでくださった。そこで主の祝福がヨセフのみならず、ポテパルの家の持ち物から全てに及んだのです。
そんなに恵まれたはずのヨセフですが、その後、とんでもない事態になり、ポテパルの奥さんに変な言い掛かりをつけられてとうとうぬれ衣を着せられて、ろう屋に入れられます。「こんなにまでポテパルの家に尽したのに」と彼は言わなかった。なぜならば、彼はポテパルに尽したことは一度もない。主のために尽したのです。皆さんが「息子や娘のために私はこんなにしたのに」と言うときは、これは間違いです。主のためにしてきたのですから、その結果、捨てられようと何されようと、私たちの知ることではありません。このときのヨセフもそうです。ちょっとそこを読んでおきたいと思います。
「創世記」39章19節から21節までを朗読。
ヨセフは「王の囚人をつなぐ獄屋(ごくや)」というのですから、余程厳しい重罪犯でも入れる所でしょう。そこへ彼は捕えられてしまいました。ところが21節に「主はヨセフと共におられて」と「主が共におられるのだったら、何もそんな目に遭わないようにしたら良さそうなものを、神様、どうしてるの」と言いたくなりましょうが、ここがヨセフの私たちと違うところです。「主はヨセフと共におられて」というひと言、言い換えますと、「ヨセフはこのことが主から出たことと信じて」という意味です。ろう屋に入れられたこと自体が、これは神様が私にこのことを求めてくださった。ここに置いてくださった。ヨセフの生涯は徹底して神様だけに目を留めて、その御方にだけ仕えていく。ポテパルの家に置かれようと、牢屋に入れられようと、そこに誰が遣わしたか?「主が共におられる」。言い換えると、主が私をそこに置いてくださった。これはそこを通るべき神様の大きなご計画の一コマだからです。私たちはそれを全部知り尽くすことはできません。いま私たちはヨセフの生涯を最後まで知っていますから、「これはその後にこうなるのだから、しばらく我慢しとけば良い」と思います。ところが、いつ果てるか分からない苦しみの中や辛いことの中に置かれるかもしれない。しかし、そこで神様に仕えて行く。
だから、21節に「主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた」。22節に「獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった」。なんと彼は模範囚になるのです。そして、そこで全部委ねられた。獄屋番は楽なものですよ。寝ておけばいいわけですから。23節に「獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた」。最後の所に「主がヨセフと共におられたからである」と、これは言い換えますと、ヨセフが神様を信じて、信頼してそこに自分を委ねたからだ、ということです。そして「主は彼のなす事を栄えさせられた」、言い換えると、彼は自分のすることをすべて主のためにしてきた、ということであります。これが彼の祝福の道筋、神様に仕える、主に仕える生き方です。私たちも今どんな状態、事柄の中に置かれているか分かりませんが、それぞれ与えられているその所に主が共におられる。言い換えると、主が私をここに置いてくださっている、と堅く信じて、自分の好きとか嫌いにかかわらず、主のために、主の喜び給うことを、置かれたその所で、たとえポテパルの家であろうと、獄屋の中であろうと、その後総理大臣の位に着くことになっても、どこに置かれても……。私たちはこの世にあっては、どんな所にでも行きますよ。年を取れば変わって行きます。しかし、変わらないものがある。それは「主が共におられる」、言い換えると、常に主のものとなりきって、主を信じて、いま主が私をここにこの状態、この事の中に置いておられる。それを信じて、そこで主に仕える。「今日、主よ、あなたの御心に、あなたの喜ばれる道に」と、全力を尽くすこと。これが私たちの幸いになるただ一つの道筋です。だから彼は幸運な者となりました。本当に幸運な者であります。
どうぞ、私どももヨセフの信仰に倣(なら)って、幸運な者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
2節「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった」。
ご存じのようにヤコブの息子ヨセフのことであります。彼は12人兄弟の末から2番目の子供でありますが、ラケルというお母さんによって生まれた子供です。ヨセフの弟ベニヤミンもラケルの子供でありましたが、他の兄弟は母親が違う兄弟であります。ですから、ヨセフはお父さんから大変愛されていました。そこを読んでおきたいと思います。
「創世記」37章1節から4節まで朗読。
ヨセフは他の兄弟たちと一緒に遊んでいましたが、17歳といいますから、まだ大人になりかけです。兄弟たちからいろいろなことを覚える。彼はそういう兄弟が何か悪いことをすると、告げ口をするのです。これは兄弟の中でいちばん始末にこまる。チクルわけです。ここにありますように「悪いうわさを父に告げた」というのです。これだけでも随分憎まれるでしょう。ところが、それに加えて3節に「ヨセフは年寄り子であった」と。 “年寄り子は可愛い三文安„ ともいいますが、可愛いのでヨセフはお父さんに愛されます。ですから「イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して」とあります。「彼のために長そでの着物をつくった」と。この「長そでの着物」とは、その当時どういう意味合いがあったか分かりませんが、いずれにしても皆がうらやましがるような衣装、そういう表現だと思います。当時、普段着は袖がなかったのかもしれませんが、彼だけは一張羅(いっちょうら)を着ているといいますか、兄弟とは着るものも違っていたのです。兄弟はヨセフを大変憎んでいました。恐らく兄弟の中にそういうのがいたら、「なんだ、あいつは」となります。4節には「兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった」と。いうならば、仲良くできないのです。常に意地悪で、悪意に満ちた接し方しかできないのです。つい私どもは、兄弟のほうに同情して、「そうだよな」と、「ヨセフは馬鹿だな」と思います。しかし、ヨセフが兄弟の悪いことを悪いと言えるのは、彼の信仰といいますか、神様の前に歩んでいた生活があったことでもあります。ですから一概に親から偏愛されていたから、親の側に立って兄弟の有ること無いこと悪口を言ったといいますか、告げ口をしたというよりも、ヨセフは幼い時からか神様を畏(おそ)れ敬っていたが故に、自分も正しい道を歩もうと努めたのでしょう。
しかし、5節以下にありますように、ヨセフは一つの夢を見ます。その夢がまた聞くとカチンとくるような夢です。読んでみますと、7節に「わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」と。こんなことを聞いて心穏やかな人はいないですね。もし私だったらとっくにブチ切れるかもしれません。また更に進んで9節に「ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、『わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました』」。「日と月」というのは、お父さんとお母さんという意味でしょう。その他自分をのぞいて11の星が自分に向かってお辞儀をする。拝んでおる。これを聞いて兄弟は頭にきたわけです。「金輪際許せん」という思いになった。ところが、お父さんは11節に「兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた」とあります。やはりお父さんは普段からのヨセフの生活ぶり、歩み方、その様子を見ていて「これはただ事ではない」と、その夢物語を聞いて、単なる自慢話とか、自分を誇る話とも限らないと。お父さんヤコブはこれまでご存じのように、大変波乱万丈の人生、修羅場を生きて来た人でありますから、物を見る目は備わっていたと思います。だから、「父はこの言葉を心にとめた」と。
マリヤさんもそうでした。クリスマスの物語にありますが、イエス様が生まれて羊飼いたちが拝みに来た。あるいは博士たちが来ました。そういうことを通して「マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた」(ルカ2:19)と。「これは何かあるぞ。きっとこれはこれだけのことでは終わらない」という、ある種の予感といいますか、そういうものを感じる。皆さんでもそういうことがあると思います。これは神様がそのことを悟らせなさるのです。だから、私たちもいろいろなことで「ひょっとしたら、これは……」と感じますね。「これは、このままじゃ行かない。きっと更に次なる大きな事が待ち受けているに違いない」と、何であるかは分からないけれども、心に留める。これがお父さんの受け方であります。ところが、兄弟はそのような理解はできませんから、ただヨセフ憎しであります。
その後、12節以下にありますように、お兄さんたちが遠く離れた所で羊を飼っていたとき、お父さんは彼らの食事を届けるためにヨセフを使いにやります。ところが、お兄さんたちはヨセフが一人でやって来るのを見て善からぬ心を起こしたのです。「こんないいチャンスはない。この際あいつをとっちめてやろう」というわけです。それで彼を捕えて、キャラバンに、その当時エジプトに物を運んでいる商人たちに彼を売り飛ばしてしまうのです。そして、羊の血を着ていた物に付けて、「彼はどうも獣に殺されてしまったらしい」ということにしたのです。お父さんにそういううそをつきました。ヨセフはそうやって売られたのです。
そのことが先ほどお読みいたしました39章の1節に「さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った」と。商人たちはヨセフをエジプトで奴隷として売ろうというわけで連れて行きました。そのときたまたま侍衛長であるポテパル、いうならば王様に仕える近衛(このえ)兵の隊長さんのようなものでしょう、その人に買われることになり、その家の奴隷となったのです。ところが、2節に「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった」。これは非常に象徴的な言葉だと思います。まず「彼は幸運な者となった」というのですが、私たちが思うところの幸運、幸せと、ここで言われている幸せとは随分違います。ヨセフが自分の愛する家族から捨てられて、裏切られて、売り飛ばされて見ず知らずの異邦の地、遠く離れた国に奴隷となった。どこに幸運がありますか? 私たちが自分をその身に置いてみるならば、こんな不幸な境遇はない。自分にとって大変なこと、憤死するといいますか、耐えられない事態であります。しかし、ここではっきりと「幸運な者となった」と言われています。幸運とは何かというと、「主がヨセフと共におられたので」という一言です。私どもが幸運というと、事情、境遇、生活上の何かが思うように願うようにスムーズに事無く進んで行くこと。幸せというものはそういうものだと思っています。ところが、ここでそれを当てはめるならば、ヨセフほど不幸な者はいません。ところが、神様は「そうではない」と。そんな事情や境遇や物事は、良い時もあれば悪い時もある。上がったり下がったりします。それは問題ではなくて、私たちがどのように生きているか。いうならば、「主がヨセフと共におられて」、神様と共に生きる生涯、これが誠に幸運なことです。
だから、マリヤさんにガブリエルが「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」(ルカ 1:28)と言われました。マリヤさんはなにゆえに恵まれた女だろうか? 後になって結果を知ると、救い主イエス様の母親になったのですから、これは女性の中では最高に幸せな女性だと思うかもしれませんが、その時は何も分からなかったのです。それこそ天から降って来た不幸な話です。ところが、神様は「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。主が共におられるからあなたは恵まれている。ここでは「主がヨセフと共におられたので、あなたは幸運な者になる」と。これが私たちに対する神様のご計画であり、御思いです。
私どもは、自分が願ったように思ったような人生、そして、人様と同じように、人並みに幸せな人生でありたいと思っています。しかし、現実はそうはいかない。次から次へといろいろなことが起こってきます。そのときに自分の身の不幸を嘆きます。「私はどうしてこんなに次から次へと嫌なことが起こるのだろうか。不幸の塊(かたまり)なのだろうか。私の何が悪かったのだろうか」と、いろいろなことで思い悩みます。しかし、その思い悩むとき、何を気にしているかというと、人並みでないこと、自分の目に見えている状況や事柄、境遇がこうだから、ああだからという具体的な事柄によって、失望し、嘆いたり悲しんだりしているのです。だから、ヨセフが私たちと同じようなことで運、不運といいますか、幸福か不幸かを決めるならば、彼は自分の身の不幸を嘆いて当然であります。彼は、そこで兄弟を恨んでやけを起こしてふて腐れるかもしれません。
ところが、彼は「主がヨセフと共におられたので」と、これはヨセフが神様を信じていたことです。ここで大切なことは「主がヨセフと共におられた」という言葉の具体的なことは、言い換えますと、ヨセフが神様を信頼したことです。「主がヨセフと共におられた、神様のほうがヨセフと共にいてくださった。では、神様は私と共にいてくださらないかもしれない。私のあそこが悪いし、ここが悪いし、ひょっとしたら神様は私とは共におられないのではないか」と。「主がヨセフと共におられる」ということは、ヨセフ自体の事です。ヨセフが「神様がいま私と共にここにおられる」と信じたからこそ「主が共におられる」のであります。それを信じない人にとっては、たとえ神様がそこにおられても、そうとは言えません。イエス様は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ 28:20)とおっしゃった。実は今も主が私と共にいてくださるのですが、私たちがそのスイッチを切ってしまうなら、いつも共にいてくださることにはならないのです。ここが非常に大切なことですが、神様が共におられる、というのは、あなたが信じたときなのです。ここに主がおられます、と信じて生きているとき、主はそこにおられます。しかし、主を忘れて勝手放題していたら、そこには主はおられません。そういう存在なのです。同じ部屋にふたりの人がいて、「ここに主がおられる」と信じる人と主が共におられるのです。「いや、同じ部屋にいるのだから、部屋全体に神様がおられるに違いない」と思いますが、そうではありません。そこにいる人が「神様? わしは信じん」と言う人にとっては、神様はいらっしゃらない。だから、神様という御方は私どもが信じるか信じないかに懸っているのです。神様がいらっしゃると信じるならば、その人にとって神様はご自分をあらわしてくださる。ご自分の存在を明らかにしてくださる。ところが、信じない人には、神様はご自身をあらわす方法がないのです。私どもは神様の憐れみによってこの救いに引きいれられて、今は天地万物の創造者である神様を信じる者としていただきました。ところが、いま世の中にはたくさんの人々が生きていますが、じゃ、あの人たちにも神様が共にいてくださるのか? いいえ、それはその人が信じないかぎり、神様は彼らと共におられるとはならないのです。これは極めて主観的な事柄です。客観的に証明はできないのです。神様という御方をああだ、こうだと。だってパウロが「ローマ人への手紙」1章で言ったように、「天然自然を見ればそこに神様がいらっしゃることはすぐに分かるじゃないか」と。それは神様を信じる人なら分かるのです。信じない人には分からないのです。この講壇にきれいなゆりが生けられていますが、「このゆり、きれいやね。いくらしただろうか」と言う人にとって、これは神様が造られたと感じないのです。私どもは「神様がおられる」と信じて草花を見ると「本当に神様は素晴らしいわざをしてくださったね」と言えます。ところが、信じない人にとっては「これはどこで買って来たのだろうか」という話です。神様とはそういう御方なのです。「客観的に証明して見せてくれ」といっても、これはできません。しかし、はっきりしているのは、信じた人に神様はご自分をあらわしてくださる。
「主がヨセフと共におられたので」と、このお言葉の意味をしっかりと受け止めていただきたい。「主が私と共におられる」と信じて行く。ヨセフはお兄さんたちの悪巧みによって売られて、自分の願わない思いもしない境遇に放り込まれてしまう。ところが、彼が「主が共におられる」と信じたのは、その受けた自分のいま置かれた状況や事柄自体が神様によって備えられたことだ、と彼は信じたのです。これが神を信じることです。だから、私どもは「神様がいらっしゃるのにどうしてこんなことになったのだろうか」「神様が私と共におられるというのに、私はちっとも幸せになれない」と言う。それは信じていないからです。「神様はおられる」と口で言いながら、心で神様を信じないから、神様がそこにおられることを体験できない。ヨセフは自分が受けたその不幸の極みと思われる事態や事柄そのものを、まさに「これは神様が私と共におって、このことをしておられるのだ」と信じたのです。これがヨセフと私たちの違いです。私たちがヨセフになれないのはそこです。2節に「主がヨセフと共におられたので」と、「神様はヨセフだけを恵んでくれたのか」と思われますが、そうではないのです。これは言い換えると、ヨセフが主を心から信頼したことなのです。ヨセフが神を信頼するというのは、ただ、夢を見て、黙想して、静かにめい想にふけって神を信じたのではないのです。自分が置かれている境遇や事柄こそがまさにこれは神様のわざだ、と認めるのです。これが神を信じることなのです。それを抜きにして私たちは神様を信じることはできない。だから、ヨセフは神様が私をこのエジプト人ポテパルの家に置いてくださった、遣わしてくださった、と信じましたから、この家にいて彼は徹底して力いっぱい自分の与えられた務めを果たします。普通、自分の意に反した事柄や事態のことを、それを積極的に喜んでしたいとは思わない。ズルズル引き延ばしてふて腐れて「やっておられるか」と投げやりになります。恐らく、私たちがヨセフのような境遇に置かれたら、ポテパルの家にいて、見られていないときには休んで、さぼって、「こんなポテパルのためにしてやるもんか。おれはこんな不幸な目に遭った」と、自分の不幸を嘆いて、生きる気力もなくなって、つぶやいてしょぼくれているでしょう。ところが、違うのです。ヨセフは神様を信じていたからこそ、神様が自分をこのポテパルの家に置いてくださった、と信じていたからこそ、彼は主のために尽していた。ポテパルのために努力したのではない。ポテパルを喜ばせるためではありません。結果的には喜ばせることになりますが、彼は共にいてくださる主を信じ、行動した。私たちもいま生きるのも主のため、死ぬのも主のために死ぬ者とされています。私たちがいま置かれている境遇や事柄、問題、悩みがあるならば、それこそが、神様がいま私に負わせてくださった、求めてくださった恵みの時であることをはっきりと認める。これが神を信じることです。「そうでした。神様、あなたがここに私を置いてくださった。だから、あなたの御心に従って、神様、あなたの御旨にかなう者となって行きたい」。ですから、ヨセフはポテパルの家で一つとして手を抜かないのです。
神戸生田教会の竹田先生は戦争中日本軍の捕虜収容所の所長になりました。ある時期、門司にあった捕虜収容所の所長を務めていたことがあります。当時、門司の港に南の国から戦時物資として砂糖が運ばれてくる。それを船から荷揚げする荷役にアメリカ人などの捕虜を使っていたのです。竹田先生は牧師でありましたから、それまでも捕虜に人道的な取り扱いをしていました。彼らの信仰を守ることを許したのです。その当時は収容所で捕虜が集まって集会をもったりするのは御法度です。しかし竹田先生はそういうことも許していましたから、捕虜たちから大変尊敬をされていたのです。あるとき大きな船が入って荷揚げになった。それで竹田先生も監督者としてその指揮に行った。すると、捕虜の代表がやって来て、「所長、この仕事は私たちがやるから、あなたは休んでいてください」と言ってきた。「任(まか)せていいのかな」と彼はちょっと心配になったけれども、彼らがそう言うならば「では、お前たちに任せる」と言った。そして、しばらくして「見てください」と言われて行ってみると、倉庫に砂糖の布袋が積み上げられていた。しかもその積んでいる袋の端がゆがみなくピシッとそろって積み上げられていた。数えると一つとして違いがなかった。日本人の労働者を使うとよろける振りをしてわざとそれを落とす。落ちる勢いで袋がはじけて、砂糖がこぼれる。そうすると、それは使い物にならんというわけで働いていた連中がみな小袋に入れて持って帰る。だから、わざと落として大抵数が減るのが当り前。ところが、そのときの捕虜はそんなことをしない。彼らだってひもじい思いをしているのだから、すればできないことはなかったのでしょう。しかし、彼らはそれをしないでピシャッと完全にやった。それには本当に頭が下がった。その様子をみて「これはもう戦争に負けた」と思ったそうです。それで捕虜の人に聞いた。「この日本はお前たちにとっては敵国ではないか。その敵国の利益になるようなことをどうしてする? 」すると捕虜が「いえ、我々は日本のためにしたのではありません。これは神様の前に私たちがすべきことをさせていただいた」。それを聞いたときに竹田先生は「これは参った」と思ったそうです。
まさにヨセフがそうです。あんな所に連れて来られて「こんなの、やっておれるか」と、ふて腐れて誤魔化しておけば済むかもしれない。ところが、彼はピシャットそれをしたのです。後に戦後の東京裁判でほとんどの捕虜収容所の所長が絞首刑になったのです。でも、竹田先生については世界中から嘆願書が送られたのです。イギリスやアメリカからもかつて捕虜だった人たちが「竹田だけは決して処罰してはいけない」と。とうとうそれで一切おとがめなしです。そればかりか、それから後その捕虜たちの代表が日本にやって来て、竹田先生に感謝状を渡したのです。誰に仕えて生きているか。誰を信じて生きているかということです。私たちはどうでしょうか? 自分を信じて、自分のために生きているのですか? あるいは家族のため、誰かれのために今このことをしているのか。そうではなくて、私と共におられる神様に仕えて行く。これがヨセフの生き方です。
だから、ヨセフは神様と共におられることこそが幸運なのです。というのは、神様に仕えていたからこそ幸せなのです。私たちも今本当に幸せなのですよ。なぜか? 神様に仕える者として、神様のために生きる者となっているからです。だから、人が喜ぼうと喜ぶまいと、そんなことはどうでもいいのです。いま私が受けている事態や事柄、与えられている事情境遇にあって神様の御心に従って行きたい。神様の前に喜ばれる道はなにか? 神様が「よし」とおっしゃることは何なのかを問うていく。上手いことポテパルに取り入って、おべんちゃらでも言って少しでも楽をさせてもらおうか、とヨセフは考えたわけではない。だから、2節に「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった」。彼はそこで主に仕える。だから、その最後に「その主人エジプトびとの家におった」と。このひと言は大切なことです。逃げ出さないのです、そこから。私どもはすぐ苦しいときや辛いとき「神様が共におられるなら早くここから連れ出してください。他へ替えてください」と。そうじゃない。ポテパルの家に、彼はそこにとどまるのです。またどこか別の所に「神様、早く替えてください」と言ったわけではなくて、彼はジッとその置かれた所に留まる。なぜ留まることが出来たか。「その主人エジプトびとの家におった」というこのひと言は、「神様が私をここに置いてくださった」と信じたからです。そうでなければ逃げ出したくなります。何とかして逃亡を計ればいいわけでしょう。ところが、彼はそこにとどまって主に仕えていたからこそ3節に「その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」。ヨセフの働きぶり、ヨセフのポテパルの家での仕え方を見ていた主人は「これはただ事ではないぞ」と、「こいつは何かあるぞ」と思ったのです。恐らく、彼はきちんと神様を前に置いての生活をしておったのでしょう。だから、ポテパルは彼の歩み方を見て、「こいつの信じている神様はちょっと違うぞ」と、彼は思ったでしょう。そして「主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た」と。見ているとヨセフがしていることが何もかも上手く行っている。それがただに彼の有能さとか才能によるのではないことを見るのです。だから、私どももここにおられる主に仕える生活をしていれば、おのずから「人ではない。神様が働いておられる」ことを、神様のほうが明らかになさるのです。だから、彼は全てのことをヨセフに委ねます。
4節に「そこで、ヨセフは彼の前に恵みを得、そのそば近く仕えた。彼はヨセフに家をつかさどらせ、持ち物をみな彼の手にゆだねた」と。全面的に彼はヨセフを信頼したのです。委ねました。そうすると、5節に「彼がヨセフに家とすべての持ち物をつかさどらせた時から、主はヨセフのゆえにそのエジプトびとの家を恵まれたので、主の恵みは彼の家と畑とにあるすべての持ち物に及んだ」。これもまた非常に大切なことです。ヨセフが一生懸命に神様に仕えたところが、神様の祝福はヨセフだけを恵んだのではないのです。ヨセフだけこっそりと神様はおいしい物を食べさせて、ヨセフだけに何かしたというのではなくて、働いているポテパルの家全てを神様は恵んだ。私たちも祝福の基であり、祝福を持ち運ぶ者なのです。皆さんが置かれている家庭が、あるいはその会社が、その地域が、皆さんがいらっしゃるからこそ、そこで主に仕えているあなたを恵んでくださる主は、その周囲をも、その人々をも恵んでくださるのです。これが神様の私たちを選び召してくださっているご目的です。私たちは神様の祝福を持ち運ぶ道具として、神様は遣わしていらっしゃいます。だから、会社勤めをしている人にも私は言うのです。「あなたは会社のために働くのではなくて、そこに主が、神様が遣わしてくださって、この所で主に仕えているのです。そうすれば、あなたが会社にいることによって、会社もまた神様の祝福にあずかるのだから……」と、そう言って勧めることであります。私たちには大切な使命があるのです。自分さえ恵まれればという、そんな小さな話ではない。神様はもっと恵みたいのです。その恵みを広く多くに及ぼしたい。その祝福の基になる秘けつは何か? 主が共におられることを信じて行くこと。そして、共に居給う主のために生きる。主に仕えて行く者となる。これが私たちのいま与えられている大きな使命であります。生きる目的であります。だから、家族、親族、皆さんのご家庭にとって、その祝福の基として選ばれ召されています。「家族の中でクリスチャンは私一人」と嘆くことは要らない。だからこそ神様が選んでくださった。そこで主の祝福がヨセフのみならず、ポテパルの家の持ち物から全てに及んだのです。
そんなに恵まれたはずのヨセフですが、その後、とんでもない事態になり、ポテパルの奥さんに変な言い掛かりをつけられてとうとうぬれ衣を着せられて、ろう屋に入れられます。「こんなにまでポテパルの家に尽したのに」と彼は言わなかった。なぜならば、彼はポテパルに尽したことは一度もない。主のために尽したのです。皆さんが「息子や娘のために私はこんなにしたのに」と言うときは、これは間違いです。主のためにしてきたのですから、その結果、捨てられようと何されようと、私たちの知ることではありません。このときのヨセフもそうです。ちょっとそこを読んでおきたいと思います。
「創世記」39章19節から21節までを朗読。
ヨセフは「王の囚人をつなぐ獄屋(ごくや)」というのですから、余程厳しい重罪犯でも入れる所でしょう。そこへ彼は捕えられてしまいました。ところが21節に「主はヨセフと共におられて」と「主が共におられるのだったら、何もそんな目に遭わないようにしたら良さそうなものを、神様、どうしてるの」と言いたくなりましょうが、ここがヨセフの私たちと違うところです。「主はヨセフと共におられて」というひと言、言い換えますと、「ヨセフはこのことが主から出たことと信じて」という意味です。ろう屋に入れられたこと自体が、これは神様が私にこのことを求めてくださった。ここに置いてくださった。ヨセフの生涯は徹底して神様だけに目を留めて、その御方にだけ仕えていく。ポテパルの家に置かれようと、牢屋に入れられようと、そこに誰が遣わしたか?「主が共におられる」。言い換えると、主が私をそこに置いてくださった。これはそこを通るべき神様の大きなご計画の一コマだからです。私たちはそれを全部知り尽くすことはできません。いま私たちはヨセフの生涯を最後まで知っていますから、「これはその後にこうなるのだから、しばらく我慢しとけば良い」と思います。ところが、いつ果てるか分からない苦しみの中や辛いことの中に置かれるかもしれない。しかし、そこで神様に仕えて行く。
だから、21節に「主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた」。22節に「獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった」。なんと彼は模範囚になるのです。そして、そこで全部委ねられた。獄屋番は楽なものですよ。寝ておけばいいわけですから。23節に「獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた」。最後の所に「主がヨセフと共におられたからである」と、これは言い換えますと、ヨセフが神様を信じて、信頼してそこに自分を委ねたからだ、ということです。そして「主は彼のなす事を栄えさせられた」、言い換えると、彼は自分のすることをすべて主のためにしてきた、ということであります。これが彼の祝福の道筋、神様に仕える、主に仕える生き方です。私たちも今どんな状態、事柄の中に置かれているか分かりませんが、それぞれ与えられているその所に主が共におられる。言い換えると、主が私をここに置いてくださっている、と堅く信じて、自分の好きとか嫌いにかかわらず、主のために、主の喜び給うことを、置かれたその所で、たとえポテパルの家であろうと、獄屋の中であろうと、その後総理大臣の位に着くことになっても、どこに置かれても……。私たちはこの世にあっては、どんな所にでも行きますよ。年を取れば変わって行きます。しかし、変わらないものがある。それは「主が共におられる」、言い換えると、常に主のものとなりきって、主を信じて、いま主が私をここにこの状態、この事の中に置いておられる。それを信じて、そこで主に仕える。「今日、主よ、あなたの御心に、あなたの喜ばれる道に」と、全力を尽くすこと。これが私たちの幸いになるただ一つの道筋です。だから彼は幸運な者となりました。本当に幸運な者であります。
どうぞ、私どももヨセフの信仰に倣(なら)って、幸運な者となりたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。