「ヨハネによる福音書」6章60節から65節までを朗読。
63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」とあります。
今お読みいたしました記事は6章1節から続いた一連の出来事に関わる箇所であります。その前半には、五つのパンと二匹の魚をもって5千人以上の人々が満腹したといいますか、食事にあずかったという不思議なことが語られています。イエス様はその集まりを解散させなさった後、弟子たちを向こう岸へおやりになったのです。イエス様はしばらく残って静まる時をもっておられ、朝方ガリラヤ湖で逆風に悩んでいた弟子たちの所へ波の上を歩いて近づいてくださいました。
その翌日ですが、食事を頂いて満腹した人たちが、またただ飯にあずかりたいと思ったのでしょうか、イエス様を求めてきました。ところが、そこにはもうイエス様はいらっしゃらなかったのです。どこへ行ったのだろうと、見ると船がなかった。「きっと向こう岸のカペナウムの方に行ったに違いない」と、彼らはどのくらいの数であったかは知りませんが、イエス様を求めてカペナウムへ出掛けたのです。そしてイエス様に会いまして、「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」と、まるでイエス様を求めて来たかのような口振りですが、イエス様は彼らの魂胆を見抜いておられるのです。「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」と。あなたがたはパンを食べたくて来たのかということです。そしてイエス様が「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」とおっしゃいました。その後でイエス様は「わたしは命のパンである」とご自分のことを明かしておられるのであります。彼らにはそれが分かりません。目の前にいる一人の人が「わたしは命のパンである」と突然言い出したとしても、「パンだなんて、あなたは人間じゃないか」、「どうやって食べる? 」という話です。
ちょっとそこを読んでおきたいと思います。「ヨハネによる福音書」6章49節から51節までを朗読。
ここではっきりイエス様は「わたしこそが天から下って来たまことの命の源である命のパンであるよ」とおっしゃったのです。だから「わたしを食べなければあなたがたには命がない」。確かにかつて旧約時代にイスラエルの民が荒野の旅路をしていたとき、神様は天からマナをもって養われたけれども、それを食べた人は死んでしまった。それは肉体を養うためのパンであるが、天からのマナは神様がまことの食物として命のパンであるイエス様を世に遣わすことのしるし、あらかじめ教えてくださった事であって、わたしこそがかつてイスラエルの人々が食べたくて願っておった天からのパン、朽ちることのない永遠の命のパンである、と告白しておられるのです。命のパンであるイエス様を食べる者、51節に「それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」と。「それを食べる者」とは、私たちの体のため、いわゆるこの世における生活のため、生活を維持するためではなくて、私たちのもっと根本である人の命を生きる者と変えてくださる。これがイエス様の「命のパン」と言われる意味であります。
その後52節に「そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、『この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか』」。確かにそうです。「わたしが命のパン、わたしを食べなければ……」とおっしゃる。「だって、あなたを食べるなんて……、どうやってかじればいいの」と、人が「私を食べなければ……」なんて言われたら、皆「あなたちょっとおかしいのじゃない?」という話になりますが、このときも多くのユダヤ人たちが「イエス様は、どうして自分の肉を私たちに食べさせる、と言うんだろうか」とつぶやきました。
それに対して53節に「イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない』」と。またまた非常に過激な言葉であります。イエス様はご自分のことを「人の子」と語っていますが、「わたしの肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」と言われます。ますます聞いている人は信じ難い。またどうそれを理解していいか理解不能という状況の中に落ち込んでいます。55節以下には「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる」。肉を食べ、血を飲むなんて、こんな人肉を食べるような話を時には聞きますが、これは尋常一様なことではありません。極めて異常な事柄で、当時の人々はびっくりしたのです。しかし、これはあくまでも一つのたとえといいますか、比喩(ひゆ)であります。イエス様が「わたしを食べなければならない」と言われたのは、イエス様ご自身を私たちが心に受け入れ信じることです。
ですから、57節以下に「生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。58 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」と。「いつまでも生きる」という言い方は、不老不死の薬を飲むような話とは違います。イエス様のおっしゃる「いつまでも生きる」、いわゆる「永遠の命の生涯」とは、命に満たされて、輝き、力に溢れ、望みに生きる者となることです。そうなるためには、イエス様を食べなければその命が私たちにはないのです。言い換えると、私たちが生まれながらの肉にある、自分の目で見て、手で触ることのできる物質の世界だけで人が生きているものではないということです。ともすると、私たちはそういう生き方を選ぼうとします。
では、本当に生きるということはどうすることか?「わたしがこうやって元気で今日も集会に来ることができている。また食事もおいしく食べるし、行楽地に出かけて楽しむこともできる。これは命があるからではないか」と。あるいは「死んだらおしまい。命あっての物種。私は生きとります」と言われるかもしれない。大切なのは生きることの意味です。私たちは肉体的な生といいますか、物質的な意味で生きることでは、確かにいま生きているわけです。しかし、本当の命とは、私たちの魂、内なるものが生きていること。それは取りも直さず、常に喜び、絶えず望みが湧いてくることです。私たちは何か事があるとしぼんでしまう。何か嫌なことが起こると嘆いてしまう、悲しみに沈む。ときには苛立ったり憤ったり、この世は「浮世」といいますが、そういう浮き沈みといいますか、人生のいろいろな局面にあたって、良い時もある、悪い時もある。様々な幸・不幸といわれるものの中に私たちは置かれています。そういうものに絶えず支配されて、遊園地のジェット・コースターのように上がったり下がったりしている。そして望みがない、喜びがない、感謝することができない、心にいつも不安と闇を抱え込んでいる。それはまさに死んだ者の姿です。私たちが生きるとは、命が輝いて、どんなことにも喜びがある。だから、困難な中に置かれても、試練といわれる問題の中にあっても、常に望みを失わないで、喜んでおることができる。何が起こってきても平安でおられる。これが命の生涯であります。私たちはそれを求めているのです。多くの人々もそういう力を得たいと願っています。
皆さんでもそうです。自分を振り返ってみると、ほんのちょっとしたことで右往左往して浮いたり沈んだり、赤くなったり青くなったりしょっちゅうしている自分を情けない、と思うでしょう。いつもどっしりと上を向いて前に向かって歩きたい、とは多くの人の願いであります。喜びがある生活、安心な生活、そんなことを言うと生命保険会社の勧誘のようなフレーズになりますが、世の中はそういうことを言うのです。だから、「これをこうしておけば、生涯安心です」と『安心、生き生きプラン』とか、何かそれで人が生きるかのように思いますが、それは大きな間違いです。求めているものは確かにそのとおりです。生き生きと平安でおりたい、喜んでいたい、これが多くの人々が求めているものであります。だからあくせくしながら働いて、心配となるものを取り除いて行く。健康診断を受けて自分の健康管理もするでしょう。あるいは、勤勉に働いて少しでも蓄えて老後のために備えておこう、そうすれば安心して暮らせるに違いない。そうすれば何の心配もなく、毎日を楽しんで生きることができるに違いない。あれが必要、これが必要、必要な物を頑張って手に入れて……と、いま世間の多くの人々はみなそうでしょう。安心を得たい、喜びたい、望みを得たい、平安でありたい。そう願いながら現実は、到底あり得ない実態、事柄に置かれてしまう。そこにまことの命がないからです。
58節に「天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」とイエス様は語っています。「生きる」とは、どんなものにも左右されない、常に泰然自若として喜びと望みをもって輝いている状態。それを私たちに与えてくれるもの、それがイエス・キリストなのです。だから「わたしを食べなさい」とおっしゃるのです。それを聞いた弟子たちは60節に「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか』」と。弟子たちはびっくりしたのです。「イエス様はとんでもないことを言う。わたしの血を飲み、肉を食べよ、なんて、大変なことを言われた」と思ったのです。ですから61節に「しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、『このことがあなたがたのつまずきになるのか』」。イエス様は人の思いを知るのです。つぶやいていると、まだ言葉にならない心の中で「何をイエス様は……」と思っていると、その思いをイエス様はちゃんと見抜いておられるのです。
そして63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」と言われました。ここに「人を生かすもの」、すなわち私たちを喜びに満たしてくれるもの。私たちに本当に平安を与え、常に望みの光に輝いて行くことができるには何が必要か? それはまことの命、本当の命、それを持てば、それをしっかりと握って行けば「大丈夫」といわれるもの。それは「霊である」。私たちの魂に臨む神様からの霊的な力です。「肉はなんの役にも立たない」、肉とは私たちの生活、お金であるとか、自分の努力や熱心さや、計画、自分の考えや思い、自己中心な様々なこの世のこと、全てを含めて肉というのです。そういうものは何の役にも立たない。肉体を生かす物質的な意味で、人の体を健康にする意味ではそれなりに役に立つでしょうが、本当の命、まことの命、人を生きる者とする力はない。
それに対して「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。「わたしがあなたがたに話した言葉」、いうならば、イエス様のお言葉、それは聖書のことです。「御言葉は」ということです。「霊であり、また命である」。イエス様の言葉を信じて、従って行くとき、お言葉をしっかりと握って行くとき、そこに命が芽生えて来る、注がれて来る。そして、その命を握って行きますとき、どんな事情や境遇、事柄の中に置かれても、絶えず望みに輝くことができる。絶えず喜びと平安が私たちの内に与えられる。このイエス様を私たちの命として生きる。だから、イエス様は「私は命のパンである」と言われる。パンは私たちの肉体を養いますから、それを食べます。しかし、イエス様をまるでパンのごとくしっかりと私たちが食べる。イエス様を食べるとは、どうすることか? と。それはイエス様を信じること、またもう少し細かい言い方をすると、イエス様のお語りになった聖書のお言葉を、神のお言葉を私たちが素直に信じて、それに従うとき、そこに命が全うされる。そして滅びることを免(まぬが)れる。永遠の命に生きる者に変えられます。
「創世記」6章5節から10節までを朗読。
ノアの時代でありますが「悪が地にはびこり、暴虐が地に満ちていて」、「主は地の上に人を造ったことを悔いる」とおっしゃるのです。だからこれを全部亡きものにしてしまう、消し去ってしまおうとご計画をされたのです。そのときノアはただ一人、その時代にあって全き人であって神様を信頼して揺るがない信仰に立って歩んでいた人物です。ですから、8節にありますように「ノアは主の前に恵みを得た」と。ノアはその信仰のゆえに神様の恵みを得ることができたのであります。その後、神様はノアに対して一つのことを求められました。
「創世記」6章11節から14節までを朗読。
神様はある時ノアに声を掛けてくださいました。「これから地のものを全て滅ぼしてしまうから、わたしの言うとおりに木の箱舟を造りなさい」とお命じになったのです。その箱舟はどんな物であるかは15節以下に細かく神様が指示しておられます。随分と大きな船でありました。どうしてこんな物を造らなければならないのか? 造った後どういうことが起こってくるのか? 彼は何にも知らない。けれども、ノアはそのとき神様のお言葉を信じたのです。22節に「ノアはすべて神の命じられたようにした」とあります。ノアは神様から言われたとおりに箱舟を造ったのであります。造るといっても子供の工作とは違いますから、大きな物を一人で、手伝う人がいたわけではないと思いますし、何年掛ったか分かりませんが、大変な苦労のある箱舟を造ることを彼は黙々と神様のお言葉を信じて成し遂げた。やがて完成しまして、彼は神様が求められるように全ての生き物を一つがいずつ集めて、箱舟に入れた。やがて、戸が閉められる。
「創世記」7章11節から16節までを朗読。
ノアは箱舟が完成して言われたとおり全ての生き物を雌雄一つがいずつをこの船に乗せまして、そしてノアとその家族だけがこの箱舟に入りました。40日間「大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて」、大洪水が起こる。最近の気象状況を見ていると「さも有りなん」と思うぐらい大雨が降ります。まさにこのとき40日間大変な雨が……、雨が上から降ったばかりでなくて「淵が破れ」とありますから、地からも水が噴き出してきたという状態です。ついに彼らはその箱舟に乗ったまま滅びから免れる。この最後の所、16節に「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた」とあります。箱舟の戸を閉じたのはノアではありません。神様がそれを閉じられるのです。ノアが滅びないで命にあずかる秘けつは何であったか? ただ一つです。「ノアはすべて神の命じられたようにした」。ノアは徹底して神様のお言葉を握って、語られた神様を信頼した。そこに命があったからです。神様のお言葉に従ったから、彼は滅びを免れる。永遠の命の生涯につながるのです。
私たちにとって何が箱舟であるか。イエス・キリストです。イエス・キリストを私たちの救いの器、永遠の命の器として神様が私たちの所へ送ってくださった。私たちが乗り込むべき箱舟を造らなければいけない。どうやって造るか? 御言葉に従うことです。イエス様を信じてそのなかに入る。一朝一夕に箱舟ができたわけではない。神様から言われたとおりに何十年、何年掛ったか分かりませんが、一歩一歩、神様の命じられるとおりに長さも高さも形も、どれ一つ彼が自分で好きにしたのではありません。いつも御言葉を、神様のお言葉を頼りに、それに忠実に従って、やがて箱舟を完成し、その中に入って具体的に救いにあずかる。永遠の命が与えられる。
今、私たちはその途中にあるのです。毎日の生活の中でまことの命であるイエス・キリストのお言葉を信じて、目の前に与えられたいろいろな問題の中で命につながって行く。言い換えると「わたしは霊であり、また命である」とおっしゃるイエス様のお言葉を忠実にその日々の生活の中で守って、そこに歩んで行くとき、気が付かないうちに永遠の御国に、ノアのように箱舟があって最後の滅びから免れる、救われる者となることができる。
「ヨハネによる福音書」6章63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」と、ここにはっきりと「肉はなんの役にも立たない」とあります。私たちの健康を誇りにしようと、あるいは、経済的に保証がされていようと、それで人が本当に安心するかというと、それはありえません。喜べるか? 喜べません。キリストに出会うこと、イエス・キリストのお言葉に私たちが懸けて行く。それを私たちの内にしっかりと握って立つことです。これが私たちの命だからです。
「使徒行伝」3章1節から8節までを朗読。
生まれながらに足のきかない男が神殿に通じる宮の門の所に置かれて、物乞いをしていたのです。そこへ、偶然ペテロとヨハネもやって来ました。ペテロとヨハネが「私たちを見なさい」と声を掛けました。彼は何かもらえると期待してジーッと見ておったのです。それに対してペテロが6節に「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言って、手を取って起こしてやるとスーッと立ち上がった。そして彼は「踊りあがって立ち、歩き出した。そして、神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った」のです。この場面ははっきりと事の前と後の違いを見せてくれます。この男は人から抱えられなければならない、支えられなければならない。しかも通り行く人たちの情けにすがって生きている。そうしなければ自分は死んでしまうに違いない。だから、毎日、毎日、宮に行く人々を求めていた。そこには喜びも平安もありません。望みもありません。彼は宮の前にいながら、神様の宮に入らないのであります。
外にいて世の人々に求めていた。これは私たちもそうです。こうしておけば安心、こういう制度があり、こういう世の中の仕組みがあるから、私はそれによって生きている。年金はしっかりしているし、健康保険は行き届いているし、あれもあるしこれもあるし、今の時代は年を取っても不自由しない、これで安心と思っているかと思いきや、それどころかみんな不安で仕方がない。ひょっとしたら足らないのではないかと。だから、まだ欲しい、まだ欲しい。この足がきかない人、自分で歩けない、命がない、持ち運ばなければどうにもならない。いわゆる物質的な存在で、花瓶か何かを置くように「ここに置いておきましょう」と「置かれていた」のです。彼は生きていない。
ところが、そこへペテロとヨハネが来て「わたしにあるもの」をあげようと。何だったか? 命です。ペテロとヨハネが持っていたのは、イエス・キリストの霊に生きること。「わたしにあるもの」、すなわち「ナザレ人イエス・キリストの名(真のいのち)によって歩きなさい」、そう言ってその人を引き上げた。今まで自分で生きていなかった彼に命が注がれた。そのとき、彼は立ち上がって、7節以下に「こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、8 踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った」。
恐らく、それまでの彼の生活に喜び感謝し踊るなんてあり得なかった。神様を褒めたたえ、讃美する、感謝することはできなかった。いや、彼は通りすがりの人々には感謝したと思います。思いも掛けない施しをもらって、大喜びしたかもしれません。しかし、このとき彼は自分で立つ者となる。命がそこに注がれた。それによって彼は神殿に入って行くのです。神の臨在の中に生きる者と変わる。彼をして何がこのように変えたか。ただ一つです。「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と、イエス様を食べたのです。「わたしの肉を食べわたしの血を飲まなければ」とおっしゃる。そのイエス様を丸ままに信じて、自分の中に主の霊が宿ってくださること、これが私たちの命です。だからたとえ事情や境遇、問題がどうであれ、常に私の命はイエス様です。命懸けで私と共にいて支えてくださっておられる御方ですから、絶えずこの御方のお言葉に自分を委ねて行く。主がこうおっしゃるから、はい、感謝ですと、絶えず主のお言葉ですからと、そこに従って行く。そこでキリストの命に私たちが結び付くことができる。
「ヨハネによる福音書」6章63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。「肉はなんの役にも立たない」。先ほどの足のきかない男が物乞いをして、人の情けにすがっている間、命に満ちた生き方には何の役にも立たないのです。そのときだけ一瞬の喜びではあるかもしれない。しかし、それは消えます。ところが、立って歩むことができる、命に支えられて行くとき彼は人に請(こ)わなくてもいい、人に頼らなくてもいい。世の中のそういう肉にあるものはもはや必要がなくなる。
私たちも今この命に生きている者であります。そのために私たちは絶えず御言葉を心に信じて、事あるたびごとに御言葉に立ち返って行く者となりたいと思う。
63節に「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。キリストのお言葉こそが私たちの命であり、また私たちの力、慰めであり、喜びであり、望みであります。今どんな状況、事柄であれ、常に命のパンである主をしっかりと握って立ちましょう。人生には様々なことが起こりますから、ついがらがらっと右に左に揺さぶられる時があります。その時、立ち返るべきはみ言葉です。御言葉を信じて「主がこうおっしゃるから、主よ、信じます」と、神様の手の中に絶えず自分を委ねて、キリストの命につながって生きる者となりましょう。
ご一緒にお祈りおいたしましょう。
63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」とあります。
今お読みいたしました記事は6章1節から続いた一連の出来事に関わる箇所であります。その前半には、五つのパンと二匹の魚をもって5千人以上の人々が満腹したといいますか、食事にあずかったという不思議なことが語られています。イエス様はその集まりを解散させなさった後、弟子たちを向こう岸へおやりになったのです。イエス様はしばらく残って静まる時をもっておられ、朝方ガリラヤ湖で逆風に悩んでいた弟子たちの所へ波の上を歩いて近づいてくださいました。
その翌日ですが、食事を頂いて満腹した人たちが、またただ飯にあずかりたいと思ったのでしょうか、イエス様を求めてきました。ところが、そこにはもうイエス様はいらっしゃらなかったのです。どこへ行ったのだろうと、見ると船がなかった。「きっと向こう岸のカペナウムの方に行ったに違いない」と、彼らはどのくらいの数であったかは知りませんが、イエス様を求めてカペナウムへ出掛けたのです。そしてイエス様に会いまして、「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」と、まるでイエス様を求めて来たかのような口振りですが、イエス様は彼らの魂胆を見抜いておられるのです。「あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」と。あなたがたはパンを食べたくて来たのかということです。そしてイエス様が「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい」とおっしゃいました。その後でイエス様は「わたしは命のパンである」とご自分のことを明かしておられるのであります。彼らにはそれが分かりません。目の前にいる一人の人が「わたしは命のパンである」と突然言い出したとしても、「パンだなんて、あなたは人間じゃないか」、「どうやって食べる? 」という話です。
ちょっとそこを読んでおきたいと思います。「ヨハネによる福音書」6章49節から51節までを朗読。
ここではっきりイエス様は「わたしこそが天から下って来たまことの命の源である命のパンであるよ」とおっしゃったのです。だから「わたしを食べなければあなたがたには命がない」。確かにかつて旧約時代にイスラエルの民が荒野の旅路をしていたとき、神様は天からマナをもって養われたけれども、それを食べた人は死んでしまった。それは肉体を養うためのパンであるが、天からのマナは神様がまことの食物として命のパンであるイエス様を世に遣わすことのしるし、あらかじめ教えてくださった事であって、わたしこそがかつてイスラエルの人々が食べたくて願っておった天からのパン、朽ちることのない永遠の命のパンである、と告白しておられるのです。命のパンであるイエス様を食べる者、51節に「それを食べる者は、いつまでも生きるであろう」と。「それを食べる者」とは、私たちの体のため、いわゆるこの世における生活のため、生活を維持するためではなくて、私たちのもっと根本である人の命を生きる者と変えてくださる。これがイエス様の「命のパン」と言われる意味であります。
その後52節に「そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、『この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか』」。確かにそうです。「わたしが命のパン、わたしを食べなければ……」とおっしゃる。「だって、あなたを食べるなんて……、どうやってかじればいいの」と、人が「私を食べなければ……」なんて言われたら、皆「あなたちょっとおかしいのじゃない?」という話になりますが、このときも多くのユダヤ人たちが「イエス様は、どうして自分の肉を私たちに食べさせる、と言うんだろうか」とつぶやきました。
それに対して53節に「イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない』」と。またまた非常に過激な言葉であります。イエス様はご自分のことを「人の子」と語っていますが、「わたしの肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない」と言われます。ますます聞いている人は信じ難い。またどうそれを理解していいか理解不能という状況の中に落ち込んでいます。55節以下には「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる」。肉を食べ、血を飲むなんて、こんな人肉を食べるような話を時には聞きますが、これは尋常一様なことではありません。極めて異常な事柄で、当時の人々はびっくりしたのです。しかし、これはあくまでも一つのたとえといいますか、比喩(ひゆ)であります。イエス様が「わたしを食べなければならない」と言われたのは、イエス様ご自身を私たちが心に受け入れ信じることです。
ですから、57節以下に「生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。58 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」と。「いつまでも生きる」という言い方は、不老不死の薬を飲むような話とは違います。イエス様のおっしゃる「いつまでも生きる」、いわゆる「永遠の命の生涯」とは、命に満たされて、輝き、力に溢れ、望みに生きる者となることです。そうなるためには、イエス様を食べなければその命が私たちにはないのです。言い換えると、私たちが生まれながらの肉にある、自分の目で見て、手で触ることのできる物質の世界だけで人が生きているものではないということです。ともすると、私たちはそういう生き方を選ぼうとします。
では、本当に生きるということはどうすることか?「わたしがこうやって元気で今日も集会に来ることができている。また食事もおいしく食べるし、行楽地に出かけて楽しむこともできる。これは命があるからではないか」と。あるいは「死んだらおしまい。命あっての物種。私は生きとります」と言われるかもしれない。大切なのは生きることの意味です。私たちは肉体的な生といいますか、物質的な意味で生きることでは、確かにいま生きているわけです。しかし、本当の命とは、私たちの魂、内なるものが生きていること。それは取りも直さず、常に喜び、絶えず望みが湧いてくることです。私たちは何か事があるとしぼんでしまう。何か嫌なことが起こると嘆いてしまう、悲しみに沈む。ときには苛立ったり憤ったり、この世は「浮世」といいますが、そういう浮き沈みといいますか、人生のいろいろな局面にあたって、良い時もある、悪い時もある。様々な幸・不幸といわれるものの中に私たちは置かれています。そういうものに絶えず支配されて、遊園地のジェット・コースターのように上がったり下がったりしている。そして望みがない、喜びがない、感謝することができない、心にいつも不安と闇を抱え込んでいる。それはまさに死んだ者の姿です。私たちが生きるとは、命が輝いて、どんなことにも喜びがある。だから、困難な中に置かれても、試練といわれる問題の中にあっても、常に望みを失わないで、喜んでおることができる。何が起こってきても平安でおられる。これが命の生涯であります。私たちはそれを求めているのです。多くの人々もそういう力を得たいと願っています。
皆さんでもそうです。自分を振り返ってみると、ほんのちょっとしたことで右往左往して浮いたり沈んだり、赤くなったり青くなったりしょっちゅうしている自分を情けない、と思うでしょう。いつもどっしりと上を向いて前に向かって歩きたい、とは多くの人の願いであります。喜びがある生活、安心な生活、そんなことを言うと生命保険会社の勧誘のようなフレーズになりますが、世の中はそういうことを言うのです。だから、「これをこうしておけば、生涯安心です」と『安心、生き生きプラン』とか、何かそれで人が生きるかのように思いますが、それは大きな間違いです。求めているものは確かにそのとおりです。生き生きと平安でおりたい、喜んでいたい、これが多くの人々が求めているものであります。だからあくせくしながら働いて、心配となるものを取り除いて行く。健康診断を受けて自分の健康管理もするでしょう。あるいは、勤勉に働いて少しでも蓄えて老後のために備えておこう、そうすれば安心して暮らせるに違いない。そうすれば何の心配もなく、毎日を楽しんで生きることができるに違いない。あれが必要、これが必要、必要な物を頑張って手に入れて……と、いま世間の多くの人々はみなそうでしょう。安心を得たい、喜びたい、望みを得たい、平安でありたい。そう願いながら現実は、到底あり得ない実態、事柄に置かれてしまう。そこにまことの命がないからです。
58節に「天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」とイエス様は語っています。「生きる」とは、どんなものにも左右されない、常に泰然自若として喜びと望みをもって輝いている状態。それを私たちに与えてくれるもの、それがイエス・キリストなのです。だから「わたしを食べなさい」とおっしゃるのです。それを聞いた弟子たちは60節に「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか』」と。弟子たちはびっくりしたのです。「イエス様はとんでもないことを言う。わたしの血を飲み、肉を食べよ、なんて、大変なことを言われた」と思ったのです。ですから61節に「しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、『このことがあなたがたのつまずきになるのか』」。イエス様は人の思いを知るのです。つぶやいていると、まだ言葉にならない心の中で「何をイエス様は……」と思っていると、その思いをイエス様はちゃんと見抜いておられるのです。
そして63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」と言われました。ここに「人を生かすもの」、すなわち私たちを喜びに満たしてくれるもの。私たちに本当に平安を与え、常に望みの光に輝いて行くことができるには何が必要か? それはまことの命、本当の命、それを持てば、それをしっかりと握って行けば「大丈夫」といわれるもの。それは「霊である」。私たちの魂に臨む神様からの霊的な力です。「肉はなんの役にも立たない」、肉とは私たちの生活、お金であるとか、自分の努力や熱心さや、計画、自分の考えや思い、自己中心な様々なこの世のこと、全てを含めて肉というのです。そういうものは何の役にも立たない。肉体を生かす物質的な意味で、人の体を健康にする意味ではそれなりに役に立つでしょうが、本当の命、まことの命、人を生きる者とする力はない。
それに対して「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。「わたしがあなたがたに話した言葉」、いうならば、イエス様のお言葉、それは聖書のことです。「御言葉は」ということです。「霊であり、また命である」。イエス様の言葉を信じて、従って行くとき、お言葉をしっかりと握って行くとき、そこに命が芽生えて来る、注がれて来る。そして、その命を握って行きますとき、どんな事情や境遇、事柄の中に置かれても、絶えず望みに輝くことができる。絶えず喜びと平安が私たちの内に与えられる。このイエス様を私たちの命として生きる。だから、イエス様は「私は命のパンである」と言われる。パンは私たちの肉体を養いますから、それを食べます。しかし、イエス様をまるでパンのごとくしっかりと私たちが食べる。イエス様を食べるとは、どうすることか? と。それはイエス様を信じること、またもう少し細かい言い方をすると、イエス様のお語りになった聖書のお言葉を、神のお言葉を私たちが素直に信じて、それに従うとき、そこに命が全うされる。そして滅びることを免(まぬが)れる。永遠の命に生きる者に変えられます。
「創世記」6章5節から10節までを朗読。
ノアの時代でありますが「悪が地にはびこり、暴虐が地に満ちていて」、「主は地の上に人を造ったことを悔いる」とおっしゃるのです。だからこれを全部亡きものにしてしまう、消し去ってしまおうとご計画をされたのです。そのときノアはただ一人、その時代にあって全き人であって神様を信頼して揺るがない信仰に立って歩んでいた人物です。ですから、8節にありますように「ノアは主の前に恵みを得た」と。ノアはその信仰のゆえに神様の恵みを得ることができたのであります。その後、神様はノアに対して一つのことを求められました。
「創世記」6章11節から14節までを朗読。
神様はある時ノアに声を掛けてくださいました。「これから地のものを全て滅ぼしてしまうから、わたしの言うとおりに木の箱舟を造りなさい」とお命じになったのです。その箱舟はどんな物であるかは15節以下に細かく神様が指示しておられます。随分と大きな船でありました。どうしてこんな物を造らなければならないのか? 造った後どういうことが起こってくるのか? 彼は何にも知らない。けれども、ノアはそのとき神様のお言葉を信じたのです。22節に「ノアはすべて神の命じられたようにした」とあります。ノアは神様から言われたとおりに箱舟を造ったのであります。造るといっても子供の工作とは違いますから、大きな物を一人で、手伝う人がいたわけではないと思いますし、何年掛ったか分かりませんが、大変な苦労のある箱舟を造ることを彼は黙々と神様のお言葉を信じて成し遂げた。やがて完成しまして、彼は神様が求められるように全ての生き物を一つがいずつ集めて、箱舟に入れた。やがて、戸が閉められる。
「創世記」7章11節から16節までを朗読。
ノアは箱舟が完成して言われたとおり全ての生き物を雌雄一つがいずつをこの船に乗せまして、そしてノアとその家族だけがこの箱舟に入りました。40日間「大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開けて」、大洪水が起こる。最近の気象状況を見ていると「さも有りなん」と思うぐらい大雨が降ります。まさにこのとき40日間大変な雨が……、雨が上から降ったばかりでなくて「淵が破れ」とありますから、地からも水が噴き出してきたという状態です。ついに彼らはその箱舟に乗ったまま滅びから免れる。この最後の所、16節に「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた」とあります。箱舟の戸を閉じたのはノアではありません。神様がそれを閉じられるのです。ノアが滅びないで命にあずかる秘けつは何であったか? ただ一つです。「ノアはすべて神の命じられたようにした」。ノアは徹底して神様のお言葉を握って、語られた神様を信頼した。そこに命があったからです。神様のお言葉に従ったから、彼は滅びを免れる。永遠の命の生涯につながるのです。
私たちにとって何が箱舟であるか。イエス・キリストです。イエス・キリストを私たちの救いの器、永遠の命の器として神様が私たちの所へ送ってくださった。私たちが乗り込むべき箱舟を造らなければいけない。どうやって造るか? 御言葉に従うことです。イエス様を信じてそのなかに入る。一朝一夕に箱舟ができたわけではない。神様から言われたとおりに何十年、何年掛ったか分かりませんが、一歩一歩、神様の命じられるとおりに長さも高さも形も、どれ一つ彼が自分で好きにしたのではありません。いつも御言葉を、神様のお言葉を頼りに、それに忠実に従って、やがて箱舟を完成し、その中に入って具体的に救いにあずかる。永遠の命が与えられる。
今、私たちはその途中にあるのです。毎日の生活の中でまことの命であるイエス・キリストのお言葉を信じて、目の前に与えられたいろいろな問題の中で命につながって行く。言い換えると「わたしは霊であり、また命である」とおっしゃるイエス様のお言葉を忠実にその日々の生活の中で守って、そこに歩んで行くとき、気が付かないうちに永遠の御国に、ノアのように箱舟があって最後の滅びから免れる、救われる者となることができる。
「ヨハネによる福音書」6章63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」と、ここにはっきりと「肉はなんの役にも立たない」とあります。私たちの健康を誇りにしようと、あるいは、経済的に保証がされていようと、それで人が本当に安心するかというと、それはありえません。喜べるか? 喜べません。キリストに出会うこと、イエス・キリストのお言葉に私たちが懸けて行く。それを私たちの内にしっかりと握って立つことです。これが私たちの命だからです。
「使徒行伝」3章1節から8節までを朗読。
生まれながらに足のきかない男が神殿に通じる宮の門の所に置かれて、物乞いをしていたのです。そこへ、偶然ペテロとヨハネもやって来ました。ペテロとヨハネが「私たちを見なさい」と声を掛けました。彼は何かもらえると期待してジーッと見ておったのです。それに対してペテロが6節に「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言って、手を取って起こしてやるとスーッと立ち上がった。そして彼は「踊りあがって立ち、歩き出した。そして、神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った」のです。この場面ははっきりと事の前と後の違いを見せてくれます。この男は人から抱えられなければならない、支えられなければならない。しかも通り行く人たちの情けにすがって生きている。そうしなければ自分は死んでしまうに違いない。だから、毎日、毎日、宮に行く人々を求めていた。そこには喜びも平安もありません。望みもありません。彼は宮の前にいながら、神様の宮に入らないのであります。
外にいて世の人々に求めていた。これは私たちもそうです。こうしておけば安心、こういう制度があり、こういう世の中の仕組みがあるから、私はそれによって生きている。年金はしっかりしているし、健康保険は行き届いているし、あれもあるしこれもあるし、今の時代は年を取っても不自由しない、これで安心と思っているかと思いきや、それどころかみんな不安で仕方がない。ひょっとしたら足らないのではないかと。だから、まだ欲しい、まだ欲しい。この足がきかない人、自分で歩けない、命がない、持ち運ばなければどうにもならない。いわゆる物質的な存在で、花瓶か何かを置くように「ここに置いておきましょう」と「置かれていた」のです。彼は生きていない。
ところが、そこへペテロとヨハネが来て「わたしにあるもの」をあげようと。何だったか? 命です。ペテロとヨハネが持っていたのは、イエス・キリストの霊に生きること。「わたしにあるもの」、すなわち「ナザレ人イエス・キリストの名(真のいのち)によって歩きなさい」、そう言ってその人を引き上げた。今まで自分で生きていなかった彼に命が注がれた。そのとき、彼は立ち上がって、7節以下に「こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、8 踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った」。
恐らく、それまでの彼の生活に喜び感謝し踊るなんてあり得なかった。神様を褒めたたえ、讃美する、感謝することはできなかった。いや、彼は通りすがりの人々には感謝したと思います。思いも掛けない施しをもらって、大喜びしたかもしれません。しかし、このとき彼は自分で立つ者となる。命がそこに注がれた。それによって彼は神殿に入って行くのです。神の臨在の中に生きる者と変わる。彼をして何がこのように変えたか。ただ一つです。「ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と、イエス様を食べたのです。「わたしの肉を食べわたしの血を飲まなければ」とおっしゃる。そのイエス様を丸ままに信じて、自分の中に主の霊が宿ってくださること、これが私たちの命です。だからたとえ事情や境遇、問題がどうであれ、常に私の命はイエス様です。命懸けで私と共にいて支えてくださっておられる御方ですから、絶えずこの御方のお言葉に自分を委ねて行く。主がこうおっしゃるから、はい、感謝ですと、絶えず主のお言葉ですからと、そこに従って行く。そこでキリストの命に私たちが結び付くことができる。
「ヨハネによる福音書」6章63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。「肉はなんの役にも立たない」。先ほどの足のきかない男が物乞いをして、人の情けにすがっている間、命に満ちた生き方には何の役にも立たないのです。そのときだけ一瞬の喜びではあるかもしれない。しかし、それは消えます。ところが、立って歩むことができる、命に支えられて行くとき彼は人に請(こ)わなくてもいい、人に頼らなくてもいい。世の中のそういう肉にあるものはもはや必要がなくなる。
私たちも今この命に生きている者であります。そのために私たちは絶えず御言葉を心に信じて、事あるたびごとに御言葉に立ち返って行く者となりたいと思う。
63節に「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。キリストのお言葉こそが私たちの命であり、また私たちの力、慰めであり、喜びであり、望みであります。今どんな状況、事柄であれ、常に命のパンである主をしっかりと握って立ちましょう。人生には様々なことが起こりますから、ついがらがらっと右に左に揺さぶられる時があります。その時、立ち返るべきはみ言葉です。御言葉を信じて「主がこうおっしゃるから、主よ、信じます」と、神様の手の中に絶えず自分を委ねて、キリストの命につながって生きる者となりましょう。
ご一緒にお祈りおいたしましょう。