いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(205)「鳥よりも花よりも」

2014年05月21日 | 聖書からのメッセージ
 マタイによる福音書6章25節から34節までを朗読。

 ここに繰り返して「思いわずらうな」と、イエス様が勧めておられます。誰だって、思い煩いを楽しんでいる人はまずいないだろうと思います。思い煩いは苦しいこと、つらいことですし、嫌なことです。しかし、どうしてもそれから離れることができないでいます。次から次へと、まるで、青空に雲が広がっていくがごとく、絶えず私たちの心に思い煩い、あるいは心配、また心が騒ぐ状態というものが続いていきます。そもそも、私どもが人としてこの地上に造られ生かされていながら、生涯がそのような苦しみと悩みと憤り、また思い煩いで生涯を終わるならば、何のために生きるのだろうかと思います。もっと心晴れやかに楽しく、そして喜んで生きることがどうしてできないのだろうかと。自分の人生、生活、周囲をつらつら見回してみると、いろいろと思い煩い、心配の種ばかりが目に付きます。では、人生はそのようなものだからとあきらめるべきでしょうか。「そうではない」とイエス様は言われます。イエス様は私たちがもっと楽しく、喜んで、輝いて生きるべきであること、それが本来の人たる姿だと語っています。

 今読みました所にも「空の鳥を見るがよい」とか「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい」と、イエス様は勧めています。「空の鳥」や「野の花」にはどんな思い煩いがあるのでしょうか。今、講壇にきれいな花が生けられていますが、このゆりが、明日のわが身はどうなるだろうかと、思い煩って花を閉じ始めたということは聞いたこともありません。どこに置かれようとも花は精いっぱい自分に与えられた輝きをもって存在しています。空の鳥にしてもそうです。ほとんど気にも掛けないすずめだって、ノイローゼになって地に落ちたものはありません。あるいは心労のために飛べなくてコトッと落ちた鳥も聞いたことはありません。「すずめさん、あなたは楽しいですか」と聞いたことがないから、分かりませんが、チュンチュン鳴きながら飛び回っています。これから春先になりますと、ひばりのさえずりなど、聞いている私たちにはとても楽しい。ところが、万物の霊長といわれる人間がどうしてあのような生き方ができないのだろうか?悩むものとして造られたから、これは仕方がない、あきらめざるを得ない。人生は苦の娑婆(しゃば)だと、眉間(みけん)にしわを寄せて生涯を終わろうと、本当にそうなのでしょうか?

聖書を読みますと、「はじめに神は天と地とを創造された」という言葉で始まっていますが、森羅万象、ありとあらゆるものを造り、生かし、導いている神様がいらっしゃる。その結果、一つ一つのものがここに存在しているのだと語られています。最近の科学の知識をもって、そんなものは伝説だとか、神話にすぎないとか、作り話だというようなことを言いますが、決してそうではありません。なぜならば、すべて存在するものは、その始まりがあります。たとえ、進化論者が言うように、始まりが猿であってもその猿の始まりは何か? もっと遡って、一番の始まりは何かと問うなら、これは人には分からない。何も無かったとしたら、何も無いのにどうしてできたのかと、これは最大の疑問であり、解決のしようがない。だから、神様がいらっしゃるとしか言いようがない。目には見えないけれども、過去、現在、未来にわたって永遠に変ることのない力ある御方が、すべて生きとし生けるもの、森羅万象のあらゆるものをそこに存在させている、置いてくださっている。そのような神様の創造の御業の最後に「人をお造りになった」と記されている。私たちは神様によって造られたものであります。そして神様は私たちを初めから悩みの人として、思い煩いの人として造られたのではありません。神様は人を、エデンの園に置いてくださった。エデンの園は「神と共に生きる生涯」です。神様と共にあって、何一つ思い煩わない、心配や不安、恐れがない世界。創造者であり、全能者でいらっしゃる神様に信頼して、安心を得る場所。それがパラダイス。そこに人を置いてくださったのです。人がずっとその場所で神と共に生きることができたら、幸いな事です。しかし、その恵みの場所から人は飛び出してしまった。神様に対して罪を犯して、エデンの園から追放されました。それ以来、人は罪の結果、神様に対して顔を向けられない、神様と交わりがなくなった。造り主との信頼関係が消えてしまった。そうなると、人は自分で、自分の力で、自分の知恵で、何とかやっていかなければならない事態になったのです。

私たちの思い煩いはどのようなことでしょうか。25節以下に「何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のこと」と記されています。言うならば、生活のことです。地上で生きることの一つ一つ、食べたり着たり、飲んだり、住む場所、仕事であるとか、そのようなことが思い煩いの種になってしまった。更に言うならば、私たちの命のことです。死んだらどうなるか分からないから、死なないように何とか生きよう。少しでも長生きをしなければと、そのような思いから食べるものに気をつけてみたり、着る物、住む所など、いろいろなものを自分の欲望に任せて求めるようになった。そして、何とか自分の力で人生を生き抜こう。これが私たちの現実の姿です。ところが、私どもには生きる力も知恵もありません。病気一つ自分の力では治せません。風邪でもひいたから「自分の体だから、自分で何とかしたら」と思います。確かに、自分の体ですが、自分の体の中の心臓がどんな形をしているやら、血液がどのあたりを回っているやら、一向に分かりません。そうでありながら、「これはおれのものだ、おれのものだ」と言い張っている。「おれのもの」と言うなら、「おれが責任を持って最後までちゃんとやったらどうだ」と言われると、それはできない。だから、思い煩う。できないのに、自分ができる、しなければならないと追い迫られるものですから、「どうしようか」「どうしようか」と、いつもそのような思いが私たちを支配してくる。神様はそのような姿を見て、喜んでいるはずがない。なぜなら「神様はすべての創造の最後に大切なものとして人を造り、すべてのものを治めさせた」と記されています。しかも、人を造られたとき、神様はご自分のかたちにかたどって、神様の尊い姿に似たものとしてくださった。それは神様が私たちを愛してやまないということです。全能者でいらっしゃる神様が、私たちを造り生かしてくださるのに、その神様を離れて、力も知恵もない小さな私たちが自分で何とかしよう、自分でやろうとするから、思い煩わないわけにはいかない。思い煩うのが当たり前になっています。だから、神様は憐(あわ)れんで、もう一度神に帰れと言われます。神様の所へ帰ってきなさい。「帰ってきなさい」と言っても、神様に対して背中を向けていた私たちが、どの顔を提げて神様に帰っていくか。手土産の一つぐらい持っていかなければ、と言って、神様の所へ何の手土産を持っていくか。全くありません。わが身をささげるといっても、こんな汚れた、中途半端な出来損ないの自分を「神様、どうぞ私をささげます」と言っても、神様は「いらん」と言われます。年を取って耳も遠くなった私など、「お前はいらん」と言われますよ。では、私たちには神様の所へ帰る道がないのか。そうではありません。ただ一つ、神様は私たちを愛して、何とか救わんとして、ひとり子でいらっしゃる御方をこの地上に遣わしてくださった。ベツレヘムの馬小屋に生まれてくださった主イエス・キリスト、イエス様が、私たちの罪のあがないとして、私たちが神様に帰っていく、言うならば、手土産というべきでしょうか、神様の前にささぐべきものが無いことをご存じだから、神様のほうが私たちのために供え物を備えてくださった。だから、私たち自身は神様の前に立つ値打ちも資格も、価値も何一つありませんが、ただ、イエス様が私のために身代わりとなって、神様ののろい、神様の刑罰を受けてくださった。今、「神に帰れ」と、招いてくださっている。

イエス様を遣わしてくださって、今お読みいたしましたように、私たちがどのように生きるべきか、25節以下に語ってくださっています。何よりも「思い煩うな」とおっしゃってくださる。なぜならば、私たちの罪をあがなうものとして、罪のいけにえとしてひとり子イエス様が死んでくださって、あなた方を神の子供とまでしてくださった。神様は私たちを「お前はわたしのものだよ」と言われる。私たちは「これはおれのものだ」と思っていたが、そうではなくてイエス様を代価として神様が買い取ってくださったのです。そのことをまず信じましょう。私たちはイエス様によって神様のものとして買い取られた。だから「あなた方はどうして心配するのか」「思い煩うのか」と。なぜならば、あなたのものではない、あなたの人生、あなたの生活、あなたの健康も体も時間も経済も、この地上の一切のものは神様が握ってくださっている。神様が買い取って、私たちをご自分のものとしてくださった。だから「何を心配するのだ」と言われるのです。私どもはそれをいつも忘れてしまう。自分で何かしなければいけない、私が考えて、私が計画して…と、自分の力でこれをやり遂げて、事を進めようとするとき、必ず思い煩います。必ず行き詰ります。それは当然です。知恵も力もないのですから、自分で自分を造ることもできません。だから、まずそのことを認めていこうではありませんか。私は何にもできない人間、私の人生について何も知らないのです。これまで生きてきたことは、今更巻き戻して消してしまって、もう一度やりなおすことはできませんから、では、これからどうするか? 「私は何年ぐらい生きるだろうか。これが心配です」と、そこで心配してしまうでしょう。生きるも死ぬも神様の手の中にあるのです。死んだときはそのときです。生きている間は死なない。よく父が言いましたが「死んだら分かる」と。「死ぬまでは生きている」と。神様が私たちを生かして、持ち運んでいるのですから、何を心配するのか。今いちばん思い煩っている事は何でしょうか。老後のこと、お孫さん、息子さんのこと、あるいは自分の性情性格でしょうか。どんな事でも、神様が私の後ろ盾、私を握ってくださっていると認めてご覧なさい。心配することがあるでしょうか。神様が私のことを知ってくださって、今いろいろな問題や事柄がある。

だから、26節に「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる」。これですね。「あなたがたの天の父」と、私はこのお言葉に励まされます。「あなたがたの天の父」ですよ。「あなたがた」とは誰のこと? 私のこと、皆さんのことです。私たちには、もう一人お父さんがいたのです。「私の親父はもう10年前になくなった」とか「両親はいないはずだ」と。ところが、いるのです。「あなたがたの天の父」、私たちのお父さん、その方が空の鳥を養っているではないか。その「天のお父さん」の子供である私たちを、神様は養わないはずはないでしょう。子供はほったらかして空の鳥を養う、そんなお父さんはいません。最近は、ペットブームで可愛い犬を飼う人がたくさんいますが、といってわが子を押しのけてペットを可愛がる人はいないと思いますね。自分の子供が病気をしていても病院は連れて行かない。ペットが病気をしたらサッと病院に行く。そのような人はいません。やはり自分の子供がいちばん可愛い。天のお父様もそうです。天のお父さんは私のことをいちばん可愛いと思っている。そう言うと、皆さんは「厚かましい、先生は独り占めして」と思われるかもしれませんが、それでいいのですよ。皆さん一人一人が「天のお父さんは私のお父さんだ」と信じるのです。誰かのお父さんをちょっと借りているような、借り物のお父さんだったら駄目です。「天のお父さんが、今日の食べるものを与えてくださり、着る物を与えて、住む場所を備えてくださっている」。ところが、「いや、そんなことはない。おれが営々と長年定年まで働き、40年の苦労の結果、老後をこのように安心して送られるのだ、おれのお陰だ」。奥さんに向かって「誰のお陰だと思うか」なんて、偉そうな事を言うから、思い煩いが消えない。そうではなくて「これも神様が私たちのために備えてくださった。天のお父様が私に恵んでくださっているではないか」。そうでしたら、心配することは何もない。足らなくなったら神様に言えばいいのですから、神様は必要なとき、必要な物を必要なだけ、きちっと与えてくださる御方です。それはそうでしょう。子供がお父さんに求めて答えないはずがあろうかと、マタイによる福音書にも記されています。「自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか」(7:9~11)と。私たちの信仰のいちばんの問題点はそこです。自分がやっている、自分が自分が、おれがおれがと、おれが何様で、どれだけのことができるか。何もできない。ただ神様が憐れんで、今日まで力を与え、知恵を与え、様々な中を導いてくださった。それを忘れてしまう。だから、未だに、どうしようか、あれはどうなるのか、これはどうなるのか、と思い煩うのです。だから、27節に「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」。真にそのとおり、いくら思い煩っても人が自分の寿命を延ばすことはできません。

私の家内の父のことを皆さんにお話していますが、今はホスピスに入っています。去年の今ごろ病院で「余命最大一年、早ければ半年かもしれない」、そのように言われて、私どもはこれは最後だな、一年ぐらい我慢して一生懸命親に尽くそうと思って頑張ったのですが、まだ元気でいてくれます。ホスピスは、入院している期間は一ヶ月から二ヶ月、早い人では入って何時間かの内に亡くなる。そのような非常に厳しい切迫した状況の中にある。ところが、義父(ちち)は入院して3ヶ月たって、まだ元気、だんだん元気になりまして、最近は後ろのほうの髪が黒々してきて「困ったな!?」と。これまた思い煩う。本人も「もう死ぬ」「もう死ぬ」と言っていたのですが、最近は家内に「おれはひょっとしたら100まで生きるかもしれん」と。まだ92歳ですから、後8年もある。私のほうがもたないかなと思ったりしますが、こればかりは分からない。でも、ホスピスの先生はなかなかいい方で、決して義父に「まだまだ、大丈夫ですよ」と言わないし、また「いや、元気であっても、あと一ヶ月か二ヶ月ですよ」とも言わない。そのような気休めを決して言わない。それで義父は非常に安心感がある。お医者さんに尋ねると「今日一日元気で過ごしてください」、その一言でおしまい。「どのくらい生きますかね」と尋ねたのだそうです。すると「いや、それは分かりませんよ。でも今日一日を元気で生きてください」と、実にいい言葉ですね。私もそう思います。27節に「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」。生きる死ぬは、ことごとく神様の手に握られている。神様がいちばんよいことをしてくださる。

先々週一人の姉妹が召されました。その火曜日朝7時過ぎに電話があったのです。「先生、母が召されました」「え!どうして? 」「いや、実は前の日の月曜日、夕食を一緒に楽しく食べた。ところが、その食べた後から『どうも気分が悪いと』とお母さんが言い出した。(お母さんと息子さんとだけがいたのです。)それで急いで救急車を呼んだのだけれども、『自分は病院に入院したくない』と言うから、いったん救急車を帰した。ところが、ひどくなってくる様子なので、息子さんは大慌てで救急車を呼んで急いで日赤に運びました。着いたのが11時近くだった。それから朝の4時に召されました」。思い煩うことはいりません。「思い煩うな」とここにありますからね。娘さんは毎週一回はお母さんに電話をする。そのときも電話して元気そうな声を聞いて「元気でいてね」と言ったばかりだった。でも考えてみたら、幸いだったなと。その姉妹は以前から「人の手を煩わさないで本当にすっきりと逝(い)きたい」と、実に潔(いさぎよ)い性格の方でしたが、そのような願いを持っていました。願いのとおりに神様は答えてくださいました。

「だから、心配するな」とイエス様がおっしゃる。「思い煩うな」、では何をするか。33節に「まず神の国と神の義とを求めなさい」。思い煩うことをやめて、そして「神の国と神の義とを求める」。これは分かりやすく言いますと、神様を第一にしなさい、ということですが、もう少し詳しくお話しますと、「神の国」とはどのような国でしょうか。それは神様が主権者でいらっしゃる国です。日本は憲法によって主権在民、「国家の主権は国民にある」と宣言されています。ところが、神様の国は、主権は私たちにあるのではなくて、神様にあるのです。だから、私たちが神の国の住民になることを求めなさいと言う。ということは、神様の定められたルールに従うことです。日本国は主権在民と今申しましたように、国民が主権者ですから、代議員制がとられて、その主権者によって選ばれた議員たちによる国会があって、そこで決められた法律にすべてが従う。言うならば、国会は国民の代表として、そこで国の方針を決める。これが日本国のあり方です。他の国もそのようなところがあります。ところが、神様の国は、神様が法律を決めなさる。神様がすべてのものを支配される所に自分を置くこと。今、この地上にあって、毎日の生活がありますが、その生活のすべてを神様が支配してくださっていると信じていくこと。私たちの生活にいろいろな問題や、悩みや困難が起こってきます。思いもかけない願わないことも起こってきます。自分の体のこと、健康のこと、家族一人一人の状態、事柄にいろいろなことが起こってきます。そのとき、神の国の住民になっているならば、どうするか?神の国の支配者でいらっしゃる神様に求めます。神様に尋ねなければ、神の国の住民、市民とはなりません。自分の考えで事をするのでしたら、「おれの国」であります。自分の国にいつまでもいるから、思い煩う。「おれの国」ではなくて「神の国」を求める。神様のご支配の中に絶えず自分を置くことを努めることです。だから、何か一つのことを思い煩う。「あのことはどうなるだろうか」と思った瞬間に、「神様、あなたがこの事をご存じで、あなたが私の天のお父様、またこの神の国の主権者、王でいらっしゃる。この事を知っていて、私に与えてくださっている。また、この事を通して、神様が私を導いてくださっているに違いない」。そのように信じていくとき、思い煩うことがいらなくなる。これがイエス様の言われる「神の国を求めなさい」です。だから、財布の中のことにしろ、自分の一日のスケジュールのことにしろ、いつも神様の国の市民として、神様に仕えていく者となるように努めていく。これはなかなか一朝一夕ではならない。神様とお付き合いが少なかったからなれない。いつも、どんなことでも、一つ一つの事柄の中で神の国を求めていく。神様を第一として、神様に聞き、神様に従い、神様の業を待ち望んでいく。これが神の国の生き方です。神と共に生きるところ、それが神の国です。

ヨハネによる福音書には、ニコデモ先生がイエス様の所へ来てお話になったとき、イエス様が「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)と言われました。神の国の住民になるためには、「おれの国」に生きているままでは入れない。己を捨てて、自分を捨てて、神様のものとなりきっていくこと、これが神の国。ところが、なかなか己がいろいろな事柄の中にも顔を出してくる。それが実は思い煩いの大元、親玉ですから、これを何とかしなければいけない。その己に死ぬことを聖書では言いますが、己に死ぬとはどうすることか。それはイエス様の十字架を信じることです。私が死ななければならないところを、イエス様が死んでくださった。私の身代わりにイエス様が死んでくださったから、私も死んだものですと思い定めること。覚悟を決めなければいけません。私はもう死んだもの。聖徒パウロがそのように言っています。「我キリストと偕(とも)に十字架につけられたり」(ガラテヤ2:20)、私もイエス様と一緒に十字架に死んでいるのだと認めていく。そうするとき、死んだものを生かすのは神様ですから、神様が私を今生かしてくださる。パウロは「最早(もはや)われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」、「私が生きているのではなくて、キリストが私のうちにあって生きておられる」と語っています。イエス様を私たちのうちに宿して、イエス様が私の頭(かしら)となってくださる、主となってくださること。これが「神の国」の姿です。ですから、神様が私たちの内に宿って、私たちの心を支配していただくように努めていくこと。これが「神の国」を求めることです。そうすると、思い煩いのまず半分はこれで消えます。「え!まだ半分残るのか」と思われるかもしれませんが、もちろんそれで全部消えますが、私たちにはもう一つ違う己があるのです。
それが次の「神の義とを求めなさい」。なぜ「神の国」と「神の義」とを分けていらっしゃるか。これは私たちの大きな己の姿なのです。自分で何もかも決めたい、自分が支配者になろうとする、自分が自分の主人公であろうとする思い。これが神の国に取って代わらなければならない。もう一つ違う己がある。それは、自分が正しいと己を義とする思いです。誰かから一言「あなた、そこはちょっと違うのではない」と言われると、「いいや」と言うでしょう。「私は正しい」。「あなた、これは間違っているのではないの」「いいえ、そんなことはありません」。まず「自分が正しい」と言って、その後「あら、やはり間違っていたな」とわかっても、ばつが悪くて言えない。こうなったらトコトン突っ張ろうと。思い煩うとはそのようなことです。自分の義を押し通す。「義」、正しさ、私の考えに間違いはない、私が言っていることに何か文句があるか。私の事についてつべこべ言うな。

家内が心配してあちらこちらの施設を探して、良い所に入れてやりたいと思って、最後にホスピスに頼みました。義父には相談しないままに決めました。その時ケアハウスに入っていた義父に「こうして病院があるから、お父さん、そこに移りましょう」と言いましたら、烈火のごとく怒りまして、「お前はなんていう事をするのだ!人の人生を勝手にするな!」と怒った。自分は正しい。だから、今日の一日を考えてご覧なさい。どれほど自分が正しいと言い募(つの)ってきたか分からない。言わないにしろ、腹の中では思う。ご主人が「おい、お前それはやめとけ」と「はい、はい、分かりました」と言いながら、何さ、あのろくでなしが!と人を裁く。そこに「己の義」がある。己の義は、トコトンどこかで自分は傷つきたくない、私が正しいと主張しようとする。
ところが、イエス様は私たちの模範になってくださった。

ペテロの第一の手紙2章21節から24節までを朗読。

これは誠に素晴らしい恵みの言葉ですが、21節に「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである」。イエス様のご生涯は、私たちが倣うべき模範、お手本だと言われている。その後に「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった」。イエス様は神の子であり、神の子が人となってこの地上に来てくださいました。そのイエス様は人と違って、罪を犯したことのない御方、きよい聖なる御方、義なる御方です。ところが、そのイエス様が罪人とされたのです。「お前は罪人だ」とされて、とうとう重大犯罪者として十字架の極刑を受けることになった。言うならば冤罪(えんざい)です。罪なき者が罪人とされる。それだけでも大変な苦しみだと思います。自分がしたことの報いを受けるのなら仕方がない。あきらめもつきます。ところがそうではない。ほかの人の罪のゆえに、ほかの人って誰のこと? 私たちです。私たちの罪のために、やがて生まれてくるであろう私たちの罪のために、ご自分が十字架にかからなければならない。これは大変な苦しみです。しかし、イエス様は、23節に「ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず」とあります。イエス様がピラトの法廷、カヤパの屋敷に連れて行かれ、裁きを受けました。そのとき多くの人々がイエス様を非難した。でも「一言もお答えにならなかった」と記されています。何一つあらがうことをなさらない。黙々とその非難を甘んじてお受けになられる。こんなことは私たちには死んでもできないと思います。そのくらいなら死んだほうがましと、よく言いますが、イエス様はそうではなかった。そのような中で何がイエス様を支えていたか。その後に「正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた」とあります。「正しいさばきをするかた」、父なる神様がすべてのことについて必ず裁きをなさる。決してそれをほったらかしにしない。正しい、義を行ってくださる神様がいることを信じた。私たちもつい気が付かないうちに自分を裁判官にしています。自分が人を裁きます。あいつがいけない、こいつがいけない。あんなことを言われたら仕返しを、「ののしられても、ののしりかえさず」どころではない。ののしられたら、10倍も20倍もトコトン相手をノックアウトするまで言ってやれと。なぜ? 「私が正しい」からです。それでは神様の義が現されない。「人の怒りは、神の義を全うするものではないからである」(ヤコブ 1:20)とあります。神様の正しさを私たちが求めていく。人の正しさではない、自分の義ではない。私だって間違うことはいくらでもあることを認めるのです。いや、それどころか、すべての事を裁き給う御方は、私ではなくて神様である。「今、ああいう人がのさばっている、こんな人が悪いことをしても、法の裏道をいくような人がいる、許せん!」と。いや、そんなことはない。私たちが許せんと思う以上に神様がちゃんとご存じで、すべての事を見ていらっしゃる。「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル 9:27 )。必ずその事について「まくところは刈るところとなるべし」と、神様は必ずそれに報い給う御方です。その神様の裁きを信じるかどうか。これが「神の義を求める」ことです。どうぞ、私たちにはどうしても己を義として、自分を正義として、人とぶつかり、そのために悶々(もんもん)として思い煩いの中を過ごします。そうならないために、主を見上げて、神様がこの事にも報いてくださる。私が何も言わなくても、神様が知っていてくださる。神様は私のお父さんだからと。そこに絶えず心を向けていくことを努めたいと思います。そうすると思い煩いが消えていく。思い煩うとき、「神の国を求め」「神の義を求めて」ご覧なさい。そうすると心が軽くなります。「そうだった、私が生きているのではない。神様、あなたが私の主であり、支配者で、私のすべてを知って裁き給う御方です」と。そうなると、人のことばかりでなく自分自身も神様の前にどのように生きるべきか、人が見る見ないにかかわらず、人のするしないにかかわらず、自分はどのように生きるべきか問われます。神様が裁き給う御方であることを知ることが道徳です。

初めのマタイによる福音書6章33節に「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」。「何を食べ、何を着、何を飲もうか」、これらのことは異邦人、神様を知らない人が切に求めているものだが、あなた方の天の父はあなた方に必要なことは全部知っている。まず神様の国と、神の義を求めなさい。そうしたら、このような生活のことをすべて与えてあげるから、心配するなと言われる。神様が私たちに何を願っていらっしゃるか。この地上の旅路を思い煩いに満ちて、眉間(みけん)にしわを寄せてつぶやいて、嘆いて、悲しんで、根暗になって生きるのではなくて、絶えず上を見上げて、神様を見上げて生きるのです。神様が私を造り生かしてくださっている。何を食べ、何を着るか、すべて神様が備えてくださる。

国には三権、立法・行政・司法という三つの権威があります。日本では国会があり、政府があり、そして裁判所があるでしょう。神様の中にはその三つが全部あるのです。神様が立法府であり、神様が行政府であり、神様が最高裁判所なのです。神様のご支配の中に一切を委ねて生きるのです。神様は私たちを養ってくださいます。厚生省が年金を決めるのではない。神様が生きる道を備えなさる。私たちの国はこの国ではない。神の国の
住民、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」。そして更に34節に「だから、あすのことを思いわずらうな」。そうです、明日は分かりません。今日の夜召される方がいらっしゃるかしれませんし、そうでないかもしれないが、いずれにしても明日のことは分からないのですから、ホスピスの先生が言われるように「今日一日、力いっぱい生きてください。それで十分でしょう」。そうです、今日一日、一生懸命に生きて、明日また主が許してくだされば、また主の国、神の国の生活を続けさせていただきたい。だから、心配することはないのです。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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